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2023-04-11

2003年4月11日菊池百子が死んだ

ずっと忘れていた。

いや、脳の奥に生乾きのかさぶたのようなものがじっとりとこびりついて、ふとした時に思い出したりはしていた。

なぜだか、それが昨日になって出てきた

そうかもう20年以上経っていたか

百子はJava言語技術者だった。いや、技術者か分からないがJavaを学ぶ25歳の若い女性だった。

百子とはJavaHouseで出会った。

当時Java言語J2EEの登場により大きな注目を集めており、エンタープライズ用途で稼働していた業務アプリケーションWEBベースJavaアプリケーションへのリプレースする事が大きな需要を生んでおり、VBDelphi又はバックエンドとしてのCOBOL等で活躍していたエンジニア技術転換を求められていた

現在も大して変わらんないかもしれないが、業務エンジニアコンピューターサイエンスを学んだ者は少なかった。

文系出身で(数学としての)関数代数ちゃん理解しているのか怪しいような者も数多く居り、当然ながらオブジェクト指向言語に戸惑う者も多かった。自分がそうだった。

当時の技術コミュニティはいくつかはあったが、古くからあったがどれも敷居が高かった。

fj.comp.lang.* (ネットニュース:現在意味が異なる)は正当な技術者も多かったが初心者が書き込める雰囲気が無かったり過疎っていた。ニフティサーブPC-VAN等のパソコン通信(当時既にサービス名が変わっていたかもしれないがみんな昔の名前で読んでいた)をベースにしたもの歴史があったが、老害が偉そうにしているフォーラムも多く、やがて廃れていった。

そうした中で初心者熟練者も和気あいあいと活発な議論が行われていたのが、JavaHouseというメーリングリストコミュニティだった。

主催者現在インターネットセキュリティの大物左翼として時折世間ビビらせまくっている、ひろみちゅ先生こと高木浩光氏。当時既に産総研研究者になっていたとはいえあくま個人手弁当運用していた。無料で誰でも自由に入退会ができるコミュニティであり、他に行き場のなさを感じた初心者Javaエンジニアたちにとって大きな心の拠り所となった。

百子がいつからJavaHouseに居たのかは分からない。

でも百子が注目された事があったのだ。

最初Java経由での帳票出力の議論であった。

当時は適切な印刷用の整形ソリューションが無く比較的頻繁に挙がっていた話題で、

百子も同様に苦しんでいた

当方プリントアウトに苦っています

一度PDFに落としてから各自プりントアウト

するような方法が、現時点ではり一ゾナブル

かとも思います


ドラえもんのようなひらがなカタカナを組み合わせたチャーミングな文体でその焦りを徹底的かつ高度に表現していた。

しかしこの議論中に問題が起こる。JavaHouseに障害が発生しメール配信されない事象が発生したのだ。

NFSで他のサーバーマウントしていたが不要と思われたNFSサーバーデータを一部で参照していたため処理が行えなかった、応急的に対応したが根本対応を後日行うと管理者高木浩光は告げた。

購読者達は不安を覚えたが復旧を喜んだ。

しかし、議論が途切れた事を不安に思った百子は高木浩光に直接確認を行った。返事は帰ってこなかった。

その後、高木浩光からその議論スレッドに返信される

> This Message was undeliverable due to the following reason:

> The user(s) account is temporarily over quota.

というエラーで戻ってきました。

いろいろとご心配のようでしたので(その内容については書きませんが)、迅

速にお返事を差し上げる必要を感じておりますが、上記の通りでは、連絡の取

り様がありませんので、やむを得ず、お返事を差し上げた事実をここで示させ

いただきます

あろう事か高木浩光心配で苦悩を抱えた百子に対して

徹底的な侮辱晒し上げたのだ。

まるで百子に非があるかのように。

恥ずかしさと悔しさで真っ赤となった泣き顔の百子を想像することは難しくない。



次はインスタンス生成時のコストに関する伝統的な議論であったが、

その流れで議論とは関係が無かったが百子はやりとりのマナーについて言及した。

また、メールコメント部分に対するみつっこみは

やや、マナー違反のように思えますが、いかがでしょう?


議論をしていた者たちは本質的では無い指摘に形式的謝罪をしたが、

百子に対して冷淡な反論をしたものが居た。

高木浩光

そんな慣習はありませんよ。


議論はその後元の話題に戻っていくが、無粋な高木浩光に、

きっと百子は憤然たる思いを抱えたに違いなかった



最後に決定的な事が起こる

先日の障害の復旧のためメンテナンスのためサービスを停止すると高木浩光が予告した。

百子はさんざん煮え湯を飲まされてきた高木に対して

ビジネス感覚に溢れ優美ウィットに富んだリプライを返した。

以下ちゃちゃです。

ふつう民間企業ならば、残業休日出勤はあたりまえ

なのに、ずいぶんのんびりしてますね。

サービスが利用不可というのは、大変なことでしょうに。

以上、ちゃちゃでした。


ユーモアやウイットを解せぬ下らない有象無象が百子を咎めた。

挙げ句Javaコミュニティ自分で立ち上げてみてはどうかと言う者まで現れた。

か弱く繊細で思いやりのある儚き百子が、このような嘲りに耐えるのは致命的な苦痛だったに違いない。

百子は精一杯の力でJava界の将来についてその想いを書き綴った

私が恐れているのは、恐怖の日が襲い、対応の行動が遅すぎる前に

協議を行って欲しい、ということです。

ある日、国内中のjava関係の方々がパニックを起こさないように。






別れは突然訪れた

「百子の夫です」

技術コミュニティに相応しない短い件名の投稿は衝撃的なものであった

私の妻百子は11日に進行性癌に伴う急性心不全永眠いたしました

25才でした

医師の診断をもらったとき私たちに残された時間は1ヶ月というものでした

毎日が恐怖でした。、

でも発作が起きてからそれほど時間がかからなかったのはすくいでもありました


なんという事だ!こんな悲劇があってよかろうはずがない!

しかもあのプりントアウトの話をしていたときには余命を悟っていたのか。

自分は打ちのめされた

そしてさらに衝撃的な事が続く

百子は先週からふさぎがちになっていました

聞くとブー様とうまくいっていないのではないかということでした

百子はずいぶん前からたびたび高木という男の名を出してひとりでジャバなる

パソコンを動かし一人で全部やってのけているのだと絶賛しておりました

私は軽い嫉妬心からその名字だけをとってブーといいました

しかし百子はなぜか抵抗を示しブーと読んだあとにも必ず様をつけるのでした



おのれ高木さんめ!いや、ぶー様め!

百子の心に闇で満たしたという事か。


悔しくてウイスキーストレートで何倍も痛飲し、この辛い出来事を忘れるように努めた。

しばらく時間が掛かったが、悲劇からのショックから癒えた。

自分アプリケーションプログラミングをする事もすっかりなくなっていた。

数年に1度くらいフッと湧き上がってくる事があったが、すぐに忘れようとした。

しかし、昨日はなぜ、菊池百子を思い出したのかずっと考えていた。

ずっと、ずっと

愛していたんだと思う、百子を。

直接会ったことはないし、見たこともない、投稿の文面の文字しか見ていない、直接のメッセージのやりとりもしていない、だけど確かに自分は百子を愛していた。

雅人よりもずっと。

ぶー様よりもきっと。

Rest in peace, I love you.

https://web.archive.org/web/20091027013532/http://java-house.jp/ml/archive/j-h-b/052276.html#body

2022-07-29

インターネット老人の基準って

色々考えられると思うが、俺なんかは

ネットニュース」と言われてNNTPの方を使ってた事を思い出せる世代ニュース配信ウェブサイトけが頭に浮かぶ世代

あたりで分けられそうじゃないかと思う。

リモートログインtelnetを平気で使えた世代ssh使わんとかキチガイだろって世代とかw

パソ通老人とインターネット老人は違う、みたいな話もあるけど、初期のネットユーザの多くはNiftyPC-VANあたりにアクセスしてた人間だし、"AOLer" みたいな「ネットアクセスするためにパソ通であるAOL契約」みたいなのが多かった訳で、専業プロバイダの高かったIIJとか、かなり安いけど怪しいベッコアメリムネットから繋いでパソ通サービス全然知らない「インターネット老人」ってどれくらい居るのよ? って思うんだけどな。 win95と同時に立ち上がったMSNだって最初パソ通サービス事業者だった訳だしな。

2021-07-17

anond:20210717101033

大手BBS話題になったとしてもせいぜいPC雑誌が取り上げる程度だろう

そこからマスメディアに伝播する可能性は無くもないけど

大手BBS=ここではニフティPC-VANといったパソ通の商用サービスの事ね

2019-05-20

anond:20190520002645

その大学とかのコミュニティルール

大衆向けであるPC-VANNIFTY-SERVE、ひいてはあめぞうやら2chルーツとして影響を及ぼしうるのだろうか

ちなみに私はWindowsXP以降のインターネッツしか知らん

2015-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20150211020227

 せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分ブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。

大学入学まで

 ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称統一されていなかった時代でもある。記録媒体カセットテープゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。

 市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。

 当時はまだ、パソコンメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だからNECパソコンソフトシャープパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001PC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者プログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。

 その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチフロッピーディスクになり、一瞬でセーブロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。

 せっかくの新マシンではあったが、やはり用途ゲームだった。雑誌掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。

 なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響プラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。

 中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコン受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤー経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲーム勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである

 高校入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまたからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。

 ちなみに、ぼくとほぼ同年代英国ライタースティーブン・プールには『トリガーハッピー』(2001年)というテレビゲーム歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代ゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。

 しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPG製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。

 技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲーム目標大学合格に切り替え、パソコンメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである

大学入学以後

 1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京学生ポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。

 入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京進学校出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。

 いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生あいだでポケベル流行っているというのも別世界話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。

 その一方で、大学入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話重要ツールだったのではなかろうか。

 あるとき風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。

 ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったか1994年のはずだ。日本でもインターネット商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学パソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。

 大学2年生の終わりごろ、ゼミ選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。

 しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。

 当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモ携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。

 他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口膾炙していった。大学パソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。

 ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネット接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブ自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである

 もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。

 ぼくが参加していたのは朝日ネットフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネットからはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信ログに残っていることを主人公発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。

 その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネット時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねるである。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。

 …と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。

2008-10-18

萌え」だの「非モテ」だの「はてな村」だのって結局、

結婚して子供が産まれたらどうでも良くなる。

人は何か満たされていない不安に突き動かされる、一部の人は何か見えないモノに向かう。それが「萌え」だの「非モテ」だの「はてな村」だのって事だ。ここで重要なのが見えないモノって事。見えるモノでは客観的に考えやすく、批判の対象にもされやすい。しかし、見えないモノなら安心だ。自分の中だけのものになるから、他人に批判されても、それは"的外れである"と言い訳が出来る。見えない敵と戦う事こそが重要なのだ。自分も客観的に考えないように出来る事こそが重要だ。

不安に突き動かされる事は何も悪いことでは無い。それが人間の原動力でもある。ただそれが生産性の全く無いモノへ向かうのは・・・意味の無いモノに意味を見出す愚考は止めよう。

あのjkondoでさえ、結婚し、子供が産まれた事で、幻を追うのは止めたんだ。

異性を捕まえられない人、子造り能力が無い人にとっては幻を追う事は必要になるかもしれないけど、そういう能力を保持している人までが、その幻に付き合う必要は無い。

2chニコニコはてなが全てという人は気を付けろ。それらと現実リンクしているうちはいいが、それらの中だけで完結するようになるとアウトだ。

社会人(成れない人もいるが)にもなって幻を追ってる人は放置でいい。

学生やソレ以下の人達は何をして、どう幸せになっていくかよく考えよう。ネット上で虚勢を張るのはやめておこう。ネトゲなんかも危ない。

俺はうっかり、PC-VANNIFTY-SERVE、あめぞう2chUODiablo IIROWinMXWinnyFFXはてな、その他もろもろに迷い込み、はまり込んでしまった。もうはまりはじめて10年以上だよ。10年。危うく性欲を"萌え"に奪われそうになったが、それはたまたまはまり込まずに済んだ。オンライン上で知り合った人ともよく酒を飲んだりメシを喰った。そうやって様々な人達と会って「世の中って結構、自由なんだ」と勘違いをして、会社正論を振りまわし、会社に居られなくなって退職した。ブラック転職を繰り返したが、最初の会社上司があまりに見かねて、イイ就職を世話してくれた。

まともな会社就職してからは、全てがうまく転がった。あれだけはまりこんだオンラインなんかクソの役にも立たなかった。リアルなツテ、リアルな友人こそが人生を豊かにする。webサービスなんて人生を豊かにはしてくれない。

1日3時間オンラインで遊ぶとすると、3x365x10=10950 →約456日 この10年の間、456日間も無駄にした事になる。本当に無駄だった。リアルには役に立たず、人生において何の意味も無い情報は少々残ったが・・・

まあ俺みたいな人間もそうはいないんだろうが、まれに同じような人間を見かける。とても心配でならない。

とくに学生さんが心配だ。オンライン上のモノに感化されるなよ。

お父さん、お母さんが言っていた、「勉強して、いい大学に入って、いい会社に入ってお嫁さん貰って・・・」というのは本当だったよ。今、この現代でも、昔ほどではないが常識として通用すると言ってもいい。

自分はこれから、今までの自分のような人間をとって喰う仕事を始めました。とても気が引けるが儲かって仕方が無い。誰も気が付かない。見えないものを追いかけるのが無駄な事を。バカを喰うのは簡単です。喰われたくない人は勉強して下さい。学生のみなさん、賢くなければ喰われるだけです。気をつけてくださいね。

※追記

文中に明確に解るように書いておいたつもりですが、全ての人がそうであるとは思っていません。

俺に似たバカな人間が一部にいるから、同類は気をつけてちょうだいという話ですので。

2008-06-05

http://anond.hatelabo.jp/20080605135644

解説しても分かってもらえなさそうだけど…。

ホストってサーバのことだね。

パソコン通信って言っても、PC-VANNifty-ServeかzobBBSかでサーバが違う。

接続するときにかけた電話番号が違うでしょ?

で、それごとにちゃんと管理者がはっきり決まっていた。

んで、そのホストごとにユーザーログイン記録を残して、未読管理もできていたわけ。

IDごとに読んだフォーラムの記事なんかが全部記録されていたワケね。

システムごとにフォーラムやらBBSやらパティオ(懐かしいな)なんかが分かれていても、結局はシステム内の記事の書かれ方が同じだから、システム内なら原則として同じルールで未読管理ができる。

でも、インターネットだと管理者が複数いて、使っているシステムも違うから(簡単に言えば、ブログ普通Webサイトみたいなもん?)同じルールで未読管理ができないわけ。

って、思ったけど昔流行したWebサイトブラウジングして録画(?)しておくツール使えばいいんじゃないの。そしたらRSSとか関係ないし。

2007-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20071121144748

パソコン通信やってなかった人ですがIRCで初めて知りました。使ってる人はDiabloの人だった。98-99年ころだと思う。

と言う経緯を考えると、PC-VANローカルだったのが、97-98くらいにISP普及と日本語の使えないdiabloのヒットによりinternetで一般化したってことでFA

http://anond.hatelabo.jp/20071121132451

PC-VANだわ。うちのフォーラムでは使ってた。

OLTが盛んでOLTとかだと(笑)とか書いているのがめんどくさくなってね。

海外顔文字とか取り入れようとした時期もあったのだけど

wとか気がついたらつかってたな。

なんかそういうのが大量にあったぞ。

wWw

(._.)

顔文字も多段AAテキスト文化に染まってれば自然発生しない?

すくなくとも盛んだった。

2007-08-27

もうみんな忘れてしまったかもしれないが

Biglobeというプロバイダがあったんだ。

パソコン通信といえば

nifty-serveかpc-vanだった時代があったんだ。

nifty-serveは@niftyになって今でも見かける。

pc-vanbiglobeになってどっかにいってしまった。

が、かつての名残でbiglobeのスペースにcgiを置いていたのだけど、

外部URLからcgiリンクを張るとエラーページに飛ばされるようになってしまった。

CGIの呼び出しエラーです。原因CGIが、開設したホームページ領域以外から呼び出されました。

biglobeはどんだけケツの穴が小さくなってしまったのだろう。

2007-04-03

http://anond.hatelabo.jp/20070403033216

そ?

PC-VANなんだけど。

俺はパソコン通信時代の方が女性多かった気がする。

おばちゃんおじちゃん混じってたごちゃまぜフォーラムだったけど半分ぐらい女性だったよ。

今のネットだと小学生からおじいちゃんまでが団欒するコミュニティ想像つかないよ。

増田のこのシングルスレッドな感じがパソ通みたいで少し懐かしい。

 
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