はてなキーワード: アスリートとは
おもろい
信長協奏曲とか信長のシェフとかでさんざん苦言を呈した部分に対するひとつの解答が気持ちよく示されている
何かっつーと、上記2つでは結局タイムスリップしても歴史なぞるだけじゃんつまらんじゃん作者の手抜きじゃんって思ったのね
でも群青戦記は違う
どっちかというと戦国自衛隊に近い
だから歴史とは全然違った展開を見せてくれるから、もうそれだけでわくわくもんだぁ~!
弱ペダの御堂筋に少し似てるけど、戸田はまだ全然まともで不快感はない
ゴールデンスランバーのキルオみたいな感じかな?うーんちょっと違うかな・・・
絵はぶっちゃけそんなにうまくないしキャラの描き分けもあんまりできてないけど、進撃の巨人と同じで絵のつたなさを超える面白さがある
あと今後歴オタじゃないとわからないネタが増えてきたら俺みたいな歴史シロートには面白さが伝わりづらくなっちゃわないかなってのがちょっと不安かな
まあでも最終的なゴールは都度示されてるから安心して読めるし楽しい
一気に10巻くらい読んでしまった
パラリンピックを見ていて、いろいろと思うことがある
この人はどんな障害があるのか、どうしてその障害を持っているのか、使っている義足や車イスの形や仕組みはどうなっているのか
そういうことを思うたび、これは「差別」ではないのか、障害者である前にアスリートなのだからそういう目で見ずに普通にスポーツとして見るべきではないか、と
しかし、そもそもパラリンピックは障害者スポーツの最高峰で、いろいろな障害の人が出場している
その障害にも度合いがあり、その度合いによりクラス分けされている
そういうことを考えれば、どこに障害があるのかとか、どんな障害なのか気にするのは当たり前のことなのではないかとも思う
そしてパラリンピックの話になると、よく「パラリンピックは見世物ではないか」という話を聞く
見ていてそう思うこともある
しかし、それを言うならオリンピックも見世物ではないのか、スポーツそのものが見世物ではないのか、とも思う
ここにさほど大きな差を感じない
どれも感動的なことだし、どれもとても興味深くて面白い
難民の人が出ることが美談で、障害者が出ることがタブーになる理由は自分には分からない
自分では差別意識はあまりないと思っているのだが、パラリンピックを見ていて思うことがある
選手同士で揉めていたり、少し汚いプレーをしていたり、ドーピングが発覚したりするのを見て、とても変な気持ちになる
それは、どこかで障害者スポーツは綺麗なものというイメージがあるからだ
勝負よりも参加することに意義があるというイメージがある
しかし、出場している選手はただ純粋にスポーツをしているだけだ
オリンピックと同じ程度には汚いプレーもするだろう
2016年度全国キャンペーン:ライバルは、1964年|ACジャパン
ACジャパンが今年7月1日より開始した『ライバルは1964年』というCM。
自分がよく聴く民放ラジオ(基本的にTBSラジオ)では結構な頻度でこのCMが流れている。
自分はこのCMを耳にする度に、得も言われぬ不快感に襲われる。
とはいえ単なる根拠に乏しい繰り言でしかないので、そこは留意してほしい。
このCMにおいては、「笑顔」や「夢」、「思いやり」といった根拠の不確かな理由で過去を美化している。
加えてこのCMには「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢、思いやり、心の豊かさで負けているのではないか」という言外の意味も込められていると考えられる。
そうでなければ、律儀にあの頃の日本人と今の日本人を比べる必要なんてないはずだ。
つまり、居酒屋談義としての「昔はよかった」の変奏でしかない。
また、この10年ぐらい俗流の「昔はよかった」に対するカウンター的な言説も勃興している。
これらのカウンター的な言説の場合、だいたいは統計などのデータを用いた上で「昔はよかった」的言説の欺瞞を浮き彫りにしている。
『ライバルは1964年』で提示される「昔はよかった」を構成する要素のうち、「思いやり」は犯罪件数の推移をもとに論駁が可能であるかもしれない。
しかし「笑顔」や「夢」の場合、犯罪統計のような定量データは存在しない。そのため、「笑顔」や「夢(の大きさ)」を昔と今とで比較するのは至難の業である。
結果「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢で負けているのではないか」というCMのメッセージに論駁することすら叶わなくなる。
論駁不可能な概念を持ちだすということは、それだけ「昔はよかった」ことをゴリ押ししたいのだろう。そこにはある種の狡猾さすらも感じさせる。
このCMにおいては、東京で五輪が行われた1964年と東京で五輪が再度行われる予定の2020年とが対比されている。
2020年に向けて日本を考えようというのは、東京五輪に向けた行動をとれというメッセージを婉曲して表現しているということは容易に推測できる。
また、ACジャパンの公式サイトの記載より、「日本を考える」ことは具体的に「(東京五輪に向けた)ポジティブなモチベーションと、日本人の活力を高める」を指すようだ。
今の日本において、五輪は政治的な意味合いが強いイベントとして意識されているようである。
例えば、2012年に取りまとめられた「スポーツ基本計画の策定について」には以下のような文言がある。
(中略)
国際競技大会等における我が国のアスリートの活躍は、国民に日本人としての誇りと喜び、夢と希望をもたらし、国民意識を高揚させるとともに、社会全体に活力を生み出し、国際社会における我が国の存在感を高めるものである。我が国のアスリートによるメダル獲得は、その一つのあらわれである。
また、2009年には塩谷立文部科学大臣(当時)が以下のような発言を行っている。
2016年のオリンピック招致については、立候補ファイルを2月12日までに国際オリンピック委員会に提出することになっていまして、そのために今準備を進めているところですが(中略)やはり、国威発揚ということも含めて、ぜひ、招致を実現したいと思っています。
これらのことを踏まえると、今の日本において五輪は政治的意味合いが非常に強いイベントと位置付けられているようだ。
特に「国威発揚」や「日本人の誇り」といったナショナリスティックな意識の醸成のための手段として強く意識されているようである。
これは、IOCの掲げる「政治的・商業的利用がなされない五輪」という理想とは大きくかい離したものである。
さて、ACジャパンの行うCMの特徴として、政治的・宗教的な事柄は一切扱わないということがある。
(中略)
一方『ライバルは1964年』においては、政治的意味合いが強いイベントである五輪に向けた行動をとれというメッセージが提示されている。
解釈によっては、「日本人の活力を高める」ということもナショナリズムと連関したかたちで捉えられる可能性もある。
このことから、『ライバルは1964年』は政治的・宗教的な事柄は一切扱わないというACの方針とは大きくかい離したCMであるといえる。
可能性として一番高いのは、制作者サイドがIOCの提示した「政治利用されない五輪」という理念を無邪気に信じ込んだということである。
一方、五輪の持つ「国威発揚」や「日本人の誇り」といった事柄は政治的事柄ではないと誤認している可能性も完全には捨てきれない。
愛国心の醸成といったイデオロギー丸出しの教育が「偏向ではない」と見做される時代である。
なお、2002年にも公共広告機構(当時)は『ニッポン人には、日本が足りない』というCMを放映していた。
しかしこれは国際交流の推進を目的とするものであり、『ライバルは1964年』とは似て非なるものである。
ACジャパンの公式サイトに新聞広告の画像データが掲載されている。
小学生が作ったような(プロとしては)粗雑なコラージュに、テレビCMのナレーションが文章としてこれみよがしに綴られている。
煽られたので書きました。聡明な青柳さんがわざわざ煽ってきたからには深い理由があることを期待しています。
こういう基礎的なことはもちろんご存知でしょうけど、まずgoogle検索結果はアクティビティを無効に設定しないと個人の訪問履歴などから検索結果が変わってくる可能性があります。
https://support.google.com/websearch/answer/54068?co=GENIE.Platform%3DDesktop&hl=ja&oco=0
Google のサービス全体でより関連性の高い検索結果やおすすめが表示されるようになります。
なのである国は性暴力を推進してる文化があると強い確信をもつ人がその根拠集めにひどい資料ばかり検索閲覧していた場合、検索サイトが効率よく「資料」を提供できるように検索結果を変えてくる可能性は十分あります。
それをビジネスにしている会社もあります。SEO企業とよばれています。有名なところではフルスピードとかでしょう。
だから、検索結果の順位(検索用語のレコメンドも)と言うのは公共性も公平性もなにもなく一部の人間によって人為的に操作可能なので検索結果の順位だけで議論を展開するのは危険です。
更に言うとgoogleは1ネット企業です。政府機関でも国連機関でもではなく営利企業に過ぎませんので、公共性、公益性、公平性といったものを前提として議論を展開する態度は果たして正しいのでしょうか?例えばgoogleの検索結果で悪評ばかり上がってくる弁護士の方は極悪人なのでしょうか?
無論こんなことはネットリテラシーでは常識の範疇なので、ネットでライターをされている青柳さんはご存知でしょう。深い理由があって煽ってきた事を期待しています。
元記事で、 アメリカ人がrapeを性的に消費する目的で検索をされていることは述べられています。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyayukiko/20160831-00061682/
同じトレンド分析をアメリカの過去5年分について行ったところ、やはりレイプ動画に関する検索が上位をしめていました。 https://g.co/trends/CDtYX
こうして見てみると、日本では「レイプ」も「強姦」もAV動画などの性的嗜好と結びつけられる単語であり、必ず撲滅しなければならない凶悪な犯罪であると認識されている単語ではないのだという実態が浮かび上がってきます
高畑容疑者の強姦事件が起こる前の状況を調べる為、検索設定を2006年7月30日から2016年7月30日にして「強姦」で分析をかけてみたところ、トップ5の関連検索は「レイプ」「レイプ 強姦」「強姦 動画」「強姦 事件」「エロ 強姦」でした。
とありますが、これは飽くまで検索結果では「なく」。検索された用語なので状況はアメリカと代わりません。
更に言うと「レイプ」というのはそもそも俗語です。英語で言うとboobsやtitsのようなものです。
強姦という法的にも使われる用語ではなく「レイプ」という俗語の検索結果を利用するのはboobsで検索してxvideosが引っかかるというのと変わらないのでは?
(ついでにこういう意見もあり真面目に話をするのであれば性暴力という方が良いのでは? https://twitter.com/emigrl/status/756664654949027840)
なので、アメリカに比べて日本だけとくに批判するのはチェリーピッキングなのではという疑問が消えません。
もちろん青柳さんはネットライターをされているのでこの程度の恣意性に気づかないとは考えられないので、わざわざ煽ってらっしゃったのは深い意味があるものと期待しています。
また、ネットでライターされている青柳さんはヤフーという多くの人に触れるサイトで文化論というエスニック集団への偏見に繋がることもある微妙な問題をこのような怪しい根拠で決めつけることにどう思っているのでしょうか?
例えば中国の検索サイト百度で強姦に相当する言葉の検索結果はこんな感じなのですが
https://gyazo.com/aded79174a6c37b349c4a51b3a6b65db
これをもって中国は酷いと決めつけるのは正しいことでしょうか?
所詮ネットのメディアなど信じるほうが愚かだと思われてるのでしょうか?
数日前に話題になった記事で、もちろんご存知でしょうが。このような記事がありました。
23歳以下の若い男性379人が参加したこの調査では、半数以上の54%の大学アスリートが「性交での強制行為(sexual coercion)を行ったことがある」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42282
「大学で勉強している女子学生の5人に1人が、在学中に性的暴行を受けていると推定されています。5人に1人ですよ。(中略)これは許しがたい事実です」
とあるようにアメリカのキャンパス内の事情はかなり深刻で、現在でも改善が見られているとは到底思えません。
アメリカと日本のどちらがひどいのかという話ではなく議論の恣意性を問題にしています
自殺志願者のように検索サイトに広告をうつというのは特に異論はありません。しかし、途中の議論がチェリーピッキングな詭弁でありやらなくてもよい文化論に足を突っ込んでいると感じました。
のではないか、と思った。
アスリートでもない、むしろ運動不足気味な人が100kmとかいう距離を一人で走るのは確かにすごい。
だけど、最後の最後でしんどい顔を見てお涙頂戴を誘うのも、昔はよかったと思うけど、今じゃ「なんか違うんじゃないの」と感じてしまう。
100kmを一人で走るんじゃなくて、色々な分野から五輪の聖火リレーみたいにタスキをつなぐようなリレー形式にしたほうがいい。
司会業もそうだ。24時間ずっと起きっぱなしで無精ひげ生やして、眠くなっている人を「頑張っているね~」と励ましたりしている限り、長時間労働や苦労が美徳とされる世界は変わらない。
24時間起きる続けるんじゃなくて、8時間おきにローテーションさせるのがいいと思う。
朝の顔と呼ばれる人が6時から14時まで担当して、14時から22時は夕方の顔の人、22時から翌朝6時までは夜の顔っていう感じの人に司会を変えたい。
そしてフィナーレで「今年の24時間テレビはみんなで頑張りました!みんながいなければ、番組も成立しませんでした!」みたいなアナウンスをして、イエーイ!みたいな。
つまりは「一人で頑張る」というものじゃなくて「みんなで頑張る」という番組に転換しない限り、苦労が美徳とされる価値観は変わらないのだろうな、ということだ。
https://www.youtube.com/watch?v=sk6uU8gb8PA&feature=player_embedded
ダサい。
センスの欠片も感じられない。これが評判良いってマジかよ。
批判は大袈裟であり、大勢のアスリートが出てくる中に制服姿の女子高生もいるだけなのかな?と思っていたけれど
女子高生が思いっきり最初に出てきて一人だけフューチャーされてるのね…。
特に性的な目で見ようとしなくてもパンチラするんじゃないですか?
それを避けたのかもしれないが小さすぎてよく見えないし。
しかも女子高生だけじゃなくアーチェリー選手と思しき女性も顔が前面に出ていますね(もしかして椎名林檎本人だったり?)。
男性選手は後ろ姿だったり逆光だったりして顔は目立っていないのに。
胸に日の丸をつけて踊ってる女二人とか、敢えて狙ってやってるのかもしれないがやっぱりダサい。
新幹線とか橋とかが映ってるパートはまあまともかも?と思ったけど
どうせなら東京と言っても都会だけじゃなく下町の人情的な部分もあるんだと見せた方がよかったんじゃないか(スカイツリーや雷門だけでなく墨田区のうんこビルまで出てくるのに)
ただのよくある都会っぽくて、東京ならではって感じが全然しないんだよなあ。
首都としての東京の歴史が始まったのは江戸時代からなんだから浮世絵とかアピールすればいいのに、どうもこの動画は明治維新以降しか描く気が無いようだ。
一方ロンドンオリンピックのプロモはその街らしいしかっこいい。
可もなく不可もなくの展開が続いていたラブライブサンシャインが、8話でようやく弾けてくれた。
おせーよとも思うが弾けないよりは余程いい。
今作の主人公は凡人で、優秀な幼なじみに劣等感を抱えたりしてたが、スクールアイドルにワンチャンを求めて始めた子だ。
前回までは割と調子よくいってたものの、今回は東京に出てきてコテンパンに叩きのめされた。
でも主人公は発起人だし、メンバーを引き込んだのも自分だから、責任感じて無理に明るく振る舞うんだよね。
この空元気がほんと痛々しくて、今まで見たアニメで1,2を争うほどの空元気っぷりだった。
その上何も知らないモブ友人達が笑顔でどうだった?とか聞いてくるし、ほんとゾクゾクしたね。
で、優秀な幼なじみの方はアスリートだし、主人公が好きすぎて過大評価してるところがあるから、「悔しくないの?」とか「スクールアイドルやめる?」と聞いてしまう。
この「やめる」は昔から主人公に発破をかけるために使っていて、実際3話では成功してるんだけど、今回の主人公はダメージが大きすぎて返事もできなかったっていうね。
夜中に一人で主人公の写真を見ながら後悔する幼なじみ。お互い想い合ってるのにこういうすれ違いが実にたまりませんわ。
結局やめるか続けるかは翌朝に主人公が結論を出すんだが、その時の台詞回しもなかなか秀逸だった。
花田先生は確かに粗も多いけど、こういう心の機微を見せてくれる脚本家が今のアニメ界にあまりいないのも事実なんだよなあ。
ユーフォ2期も楽しみだ。
土曜まで公開してるから、視聴切った人も今回だけは見てくれ。
自分も「ニッポン」コールや感動の嵐みたいなのを不思議に思う。いろいろ調べると、どうやら90年代から今みたいな放送になったらしいが、昔のオリンピック放送はこうじゃなかった。
世界のメジャー競技が話題になり、当然ながら陸上を中心に世界のトップアスリートの名前が連呼されていた。日本人選手のことも報道されていたが、「世界のトップとどう戦うか/戦った」が中心で、どうでもいい家族ストーリーとかとは無縁だった。そして実況も、当然「スポーツ実況」として、その競技のすごさ面白さが伝わるような放送をしていた。
そんな時代に育ったせいか、いまだに国内のオリンピック放送や報道を見ると違和感しかない。CNNとかでオリンピックについてのニュースを見て、ようやく少し「ああ、いまオリンピックをやってるんだなー」と実感する。どんな競技でどんな国のどんな選手がどんなすごい記録を打ち立てたか、現地で競技を見ている人たちはどんな風に盛り上がっているのか。そういう放送を見ながら、見たこともあったこともない人たちだけど、『同じ時を同じ星で共有する同じ人間』が、今まさに地球の裏側でだけどこんなすごいことをしてるんだなあということに、素直に感動する。残念ながら、日本のテレビの放送をみていたのでは、そういう感動はさっぱり得られないので。だって「メダルがとれそうな」日本選手が関わる競技しか放送しないから、日本でやってる競技会とあんまり変わらない感じ。
そんなわけで、増田に突っ込みいれてた「一度もあったことなくても日本人ならニッポンに誇りをもてよ」という人は、「なぜ世界人類に共感しないのか」と問われたらなんと答えるのか、という問題を突きつけられているのではないか。そして、こういう国で、果たして本当に4年後、自己満足でないホスピタリティを発揮して立派にオリンピックを開催し、世界から「いいオリンピックだった」と言ってもらえるようになるのだろうかと、大変不安に思っている。
かと言ってオタクというわけでもない、彼らからすればいわゆる普通の人間だ。
なりそこねてしまったのだ。
中学生くらいの頃は人に負けないこだわりがあった。
別にそれを人にひけらかすつもりもないし、そもそも一人で楽しむのが好きだったのだ。
それなのに、ただ何が面白いかを自分なりに説明しているだけなのに、頼んでもないのに勝ち負けに持ち込もうとする奴が必ずいた。
オタク特有の、自分のほうがオタクだというプライドを押し付けてくるのだ。
自分にしてみればそんなことはどうでもよかった。好きなものを好きでいれば、自分なりの解釈で自分なりに楽しんでいればよかったのだ。
それなのにそいつは違かった。自分の解釈のほうが優れていると無理矢理押し付けてきたり、とにかく自分が好きなものに対する知識や愛情が人に負けるのを嫌うのだ。
自分はそれが心の底から嫌だった。それが原因で嫌いになってしまう作品も沢山あった。
それからはできるだけこっそり楽しむようになり、作品に対しての交流も減っていったことで自然とその世界からは足が遠のいてしまった。
そいつは40を過ぎたいまでもオタクをしている。その世界ではそれなりに名前をも通っているらしい。ただ、たまにあって話をするが、相変わらず自分の知識や愛情に異様なまでのプライドを持っていて、ちょっとでもコンテンツの話題を出すだけで湯水のように自己顕示欲を垂れ流していた。
嗚呼そうか。こういう根拠もないのに自分が優れていると勘違いできて、誰かれ構わず競争心をむき出しにできる人間にオタクとしての素養があるのか。
そう考えると自分は人との競争が嫌いで、何事も競争となるようなものは避けて生きてきた。
おかげで周囲は平和だが、大して面白いこともない至って普通の人生を過ごしている。
庵野と島本のやりとりを、すごいと思いながらどこかで小馬鹿にしている自分がいた。
テレビの中では闘争心をむき出しにしてトップアスリートたちが記録を競い合っている。
今からでも彼らのように競争心をむき出しにして何かに熱くなることはできるのだろうか。
それがあまりにくだらないことだと思ってしまう時点で、自分には無理なのだろう。
なりたくない人間にならなかったのだから良しとするべきか、今の自分が本当になりたかった人間になれていないことを省みるべきか。
考えるにはもう遅い年齢になってしまったのかもしれない。
追記。
勘違いしてる人がいるけど、件のデイリー新潮の記事を擁護する意図はまったくない。記事へのクレームは新潮社へどうぞ。
個別取材でギャラが出る例としてタレントのインタビュー記事を挙げる人がいるけど、そういうのは普通に事務所にギャラを払っている。そういうコンテンツ制作のための取材ではなく、報道を目的とした取材でギャラが出ることはないという話。
「謝礼をもらった例もある」と挙げてくる人もいるので、お車代やらお茶代やらで謝礼を渡してるメディアがあるのかもしれない。
小難しいジャーナリズム云々報道倫理云々なんて説明を聞きたい人は、そういう説明をしてくれる人が現れるのを待つか、たくさん本も出てるので読んでくれたらいい。
ただ、「金目当ての情報が集まるから」という理屈はあんまり信じてない。そもそもメディアへの掲載を望む人間や企業は行列を成している。記事になれば、うまくいけば数百万、数千万円の広告に匹敵する価値が生まれるからだ(その内容はコントロールできないから当然その逆もあり得る)。それはまさに権力であるから、我々も真に報道すべき内容を選び、誤報を防ぐために裏取りするなど莫大なコストをかけている(誤報がゼロとは言わないが)。
ついでに言えば、「掲載前のゲラを先方に見せる」というのも報道ではあり得ない。ゲーム業界とか特殊なところを除いてね。
以下ブコメに回答。
評論家はコメントするのが仕事だからギャラを払う アスリートはコメントするのが仕事ではないのだから、ギャラは払わない そんなマスコミの身内ルールを押し付けて、どの口が対等とぬかすか
マスコミの身内ルールが嫌なら拒否してもいい。拒否するのも大変なら無視という手もある。ただ、報道する側としても裏取りした証拠を残すために「○○は取材拒否した」という事実を書かざるを得ない。
社会正義ねえ。スポーツと社会正義はまったく関係ないんじゃないの?フラットな社会正義を実現するならまず記者クラブを解体したほうがいいと思う
繰り返しになるけど、報道は社会全体の利益になるから単なるビジネスとはちょっと違うわけ。スポーツニュースや芸能ニュースがどういう社会正義を実現しているのか、みたいな議論に付き合ってる時間はないので割愛。
お前らが軽い気持ちで勉強もせず聞きに来てる知識や経験を、どれだけ時間と金と情熱をかけて手に入れたのか考えたことないのだろうか。私だったら吉田沙保里にお話を伺えるんだったら3万円どころかもっと払うよ
これも分かってない典型例。記者は読者の代表であり、変に予備知識とか先入観のない素人である必要がある。「俺なら3万円払う」とか言ってる人は、払ってみたらいいんじゃない。有料サロンってそれに近いことやってるよね。
対等というならば、記者側が取材内容を恣意的に改変する権利に対となる公開前の編集・修正要求権が被取材者側にあってしかるべきではなかろうか?
たしかにインタビュー時の条件として事前に原稿を見せることを求めてくるケースはある。ただ、たいていはインタビューの場に広報なりマネージャーなり第三者が同席し、さらに録音もしてるから、内容を恣意的に改変するなんて不可能。下手なことすればネットで暴露される可能性だってある。
まだ(あるいはずっと)公にされては困る情報を記事にされても被取材側には損しかない。公共の利益()に叶うのだから許されるとでも言うつもりだろうか?
報道なんだから、公共の利益にかなうならば公にされては困る情報でも当然公開していく。被取材側は一時的には損するのかもしれない。ただ、それを隠したり圧力をかけて潰したりすればもっと問題は大きくなるだけでは? そのダメージコントロールは広報の仕事。
なるべく濁すけどあるスポーツアカウントでのトラブルを懺悔したいんだ。
数年前ネットで稼ぐをやりたかった俺はSNSでアカウントを取得してBot化。フォロワーを荒稼ぎした後、ブログを作って集客、広告費を稼いだ。
その分野の研究者のアカウントだろうか、そいつからリプライが届いた。あまり記憶に無いんだが優し目の口調で記事の問題点を指摘する内容だったと思う。
俺もそれを受けて「スミマセンでした」といえばよかったのに変なプライドのせいで喧嘩腰で対応してしまった。(完全ニワカ知識なのにその分野で俺の知識は正しいと思い込んでいた)
その後は記事を書くたびにキツめの口調で「馬鹿じゃねーの」となじられるようになった。
すごく腹が立ってそいつのリプライを見るたび顔を真赤にしながら、でも論理では勝てないと何となくわかっていたのでツイッターを閉じて布団を殴る日々を送っていた。辞めたいとも思った。
とはいえそのブログの収益はバカにならないものがあったし、まだまだネット収益を稼ぐのは素人だったから新規サイトを作る能力もないので捨てるわけにはいかなかった。
だから悔しかったがブロックしてその後は見ないよう努めてきた。
それから何年も月日が経ち、スポーツに関する知識を深めるにつれ俺のやっていたことは誤った知識をキャッチーにして流す。いわば詐欺師に近い行為なのだと自覚した。
彼に謝って俺のツイッターをフォローしている未来のアスリート達をそちらに流してやりたいと切に思っている。
口調は荒いし研究者特有の「理解できない奴が悪い」という考えの持ち主だから中学生・高校生の奴らでついていける奴は殆ど居ないだろう。
それでも俺のツイッターを見て誤った知識を本当だと信じるよりはマシだ。
だがそれができない。
ブログの収益は10万近くにのぼり、俺の生活を支えてくれている。
もし彼に謝り自分の非を認めたらブログを閉鎖せざるをえないだろうし、ツイッターのアカウントも「誤った情報を流してすいませんでした」と書いて削除する他無い。
繰り返すが生活を支えてくれているそれらを消すことはできない。
きっと俺のサイトの情報を鵜呑みにして将来を知らず知らずのうちに潰す奴が居るだろう。
ごめんなさい。許してくれ。
出来るだけ早く正しい知識を判断するすべを身に付け、偽情報を捨てられるようになってくれ。
本当に申し訳ない。金がいるんだ。
小さいころからずっと痩せ型で、今は身長は185cmくらいだけど体重は62kgくらい。BMIでいうと18くらい。夏になると薄着になるので、肩や背中、腕が貧相に見えていないかと気になってしまう。毎年、夏が近づくと「今年こそ夏に向けて体重を増やそう」と思い立ちはするものの、結局うまく増やせたことはない。昔、「アンガールズの田中みたいで貧相だからもっと体重を増やせ」と言われてショックだった。親戚や親にも「もっと食べなさい」と言われて、少し嫌だった。向こうにしてみると、「あの子はちゃんと食べさせてもらってないんじゃないか」と思われるのが嫌だったのかもしれない。
決して小食なわけではない。焼肉とかしゃぶしゃぶの食べ放題とかは大好きだし、そういうところに友達といくと大体最後は自分だけが食べている。そんな様子をみて、よく女性に「食べるのに体重が増えないなんてうらやましい」と言われる。そのたびに「肥満よりはいいかもしれないけど、単純にやせていればいいものでもないよ」「男だと細いのはあんまりいいことじゃないんだよね」などといって話が悪い方向にいかないように気を遣う。
太ってしまったことがないので、痩せようと思ったことがない。よく「どうしたらそんな体型をキープできるのか」とも聞かれるけど、それこそ、痩せようと思って努力したことがないのでわからない、としか言いようがない。今は若いから食べるものが体重に現れないだけなのかもしれない。
ただ、そんな自分でも考えることがあって、それは「意図せずして体重を増やさないような生活をしているんじゃないか」ということ。
ラーメンとかチャーハンみたいな「炭水化物だけ」の食べ物をあまり食べない。単純に単調なものをひたすら食べ続けるのが好きじゃないというのと、そういうものはいくら食べても食べた気がしないのでどうしても多く食べてしまって、しかもすぐに空腹になってしまう。そういうものよりも、サラダと、スープと、ごはんと、メインの食べ物がある、定食タイプが好きなので、結果的に白米を多く食べることがない。最近はふつうの一杯でも苦しいこともある。よくわからないけど、同じものを大量に食べるよりも、いろいろなものを食べたほうが満腹になりやすい気がする。
夜9時以降にふつうに一食食べることはない。というのも、翌朝胃が重くて、動く気がしなくなってしまうから。昼以降何も食べずに夜になってしまったとしても、軽くフレークを食べるくらいにしておかないと翌日の午前がだるくなってしまう。
間食をあまりしない。何か作業をしているときに、甘いものはまだ食べてもいいけど、しょっぱいものを口に入れてしまうと集中して作業ができなくなってしまう。あとポテチとかは手が汚れて、それでペンとかPCに油がついてしまいそうなので避ける。口に入れるとしても飴とかグミとかその程度。
かなり速く歩く。目的地があると、どうしても早くたどり着きたくなってしまって、毎朝軽く汗をかくくらいの速さで歩いている。後ろから歩いて抜かれることは滅多にない。たまにあるとしてもダッシュしている人にだけ。ひたすら動かずに運ばれるのを待つだけしかできないエスカレーターがあまり好きではないので、少し急いでいるときは階段を使う。逆に、電車が行ってしまって、まったく急ぐ必要のないときにエスカレーターを使う。ただし、エスカレーターを歩くのは危ないのでやらないようにしている。
ビールが好きではない。今は20代中盤だけど、あの苦さがいまだにおいしく感じられない。
ここに挙げたのは、一般的にはダイエットにいいとされていそうな習慣だけど、自分は決してそれで体重を絞ろうとしているわけではない。むしろ体重は増やしたい。でも、不摂生な生活はしたくない。それこそ体調が悪くなってしまう。運動をしてプロテインを取ればいいのかもしれないけど、数千円もするプロテインの袋を店で手に取って「体重を増やすっていうのは本当に金をかけてまでやることなのか、別にアスリートでもなんでもない自分が」と思ってしまって結局なかなか買わない。
もし、体重を減らそうとしている人が、努力して上のような生活をしていたら「がんばってるね!」と言われるかもしれない。ただ、自分の場合は全く努力をしていない。自分がしたい生活をしていると、自然とこういう生活になる。だから体重が増えないのかもしれない、と最近になって思った。
「痩せようとは思うけどやっぱり今の生活がやめられない」なんて言っている人に、「そんなに言うならまずはこんなことから始めてみたら?」と言いたくなってしまうけど、失礼な気がしてなかなか言えない。この気持ち自体が失礼なのかもしれないけど。
そんな自分も、数年後にはお腹が出てしまっているかもしれない。いや、でもさすがにそれは避けたい。少なくとも70kgあたりで留めたい。小さめな自動車でも窮屈にならないくらいのスリムさは何としても保ちたい。
もうじきリオ五輪が始まるだろうが、いい加減見たくないパフォーマンスが一つある。
「金メダルとる→口に入れる」という奴だ。
最近は写真撮る記者とかが注文したりする。「ちょっと口にくわえてください」
やめろ。
犬じゃない。
「食べ物・食器以外のものは口に入れるな」と躾けられなかったの?
自分の唾液のついたソレを人に触らせるんだ。汚いと思わない?
一番最初にやった人は、
「金、金だわ。本当に金かしら? チョコかも? ちょっとかじってみちゃった。ホントに金だ。すごい、やったー!」……
みたいな、パフォーマンスだったのかもしれない。ちょっと気が利いてお茶目で、超一流アスリートを人間ぽく見せてなかなかいいねって
そういう絵面だったのかもしれない。でもね、何十回と見せられるといい加減やめてと思う。もう今さら、芸もなければ人間味もない。
ただただ汚いだけ。やめろ!、舐めるな、ああああ、汚い!
注文する記者は、注文することで一流アスリートを貶めてるよね。
画面越しに見てるこちらは、正直不快感だけ。
五輪を見るたび、スポーツで何かが達成されたというさわやかな満足感の余韻が、あの頭悪いパフォーマンスで台無しにされる。
記者もアスリートも「求める人がいるから」と言い訳するのだろう。求めてない人だっているんだよ馬鹿野郎。
もう、ホントやめて。マジやめて。誰か一人でいいから「やりません、汚いんで」て言って空気を変えて。
これから東京五輪までに、いったいいくつの金メダルが唾液まみれになるかと思うと、本当にうんざりする。
金メダルのデザインした人だって作った人だって、いい気分はしないと思う。
いい加減やめようあのパフォーマンス。
http://anond.hatelabo.jp/20160709152321
を書いた者だ。
女性ホルモンを摂取し続けることでどんな変化がもたらされるかについて書いていこうと思う。
前提として、私はホルモンバランスによる不調は甘えなんじゃないかと思っていた派だ。
微量な成分の違いで人格や嗜好が変わることに対して懐疑的だったし、摂取しはじめてから数ヶ月はやっぱり変化なんかないではないかと思っていた。
実際、思い込みによって自身が自身の性格や振る舞いを変えている人もいるだろう。
しかし、私のようなタイプの人間でも実際にその変化には抗えなかった。
過去の私のように、目に見えないモノに懐疑的な人に、体内のホルモンバランスがいかに大きな変化をもたらし、
人格や嗜好をも左右してしまうかを理解する助けになれば嬉しい。
ここでは女性ホルモンを摂取することによる変化の中でも、http://anond.hatelabo.jp/20160709152321に書いたもの以外に、こんなことも変わるのかということを書いていきたい。
男性だった時までに得た場所の方向感覚は残っているのだが、女性になってから訪れた地域などの方向感覚がかなり曖昧になる。
理由はわからないし、理解しがたいかもしれないが、こうなった人は仲間にもちらほらいる。
食べてもまったく太らない体質が、太りやすい体質に変わった。
しかし、これは加齢によっても起こり得ることなので、ホルモンだけの影響では無いと思う。
筋力がすごい勢いで低下した。
生まれつき力は強い方で、腕相撲でもあまり負けなかったのだが、ホルモンを始めて1年足らずで、
自分よりはるかに弱かった相手に負けてしまいショックを受けた。
やはり筋肉とホルモンは密接な関係があるようで、アスリートがステロイドに手を染める理由がわかる。
これらは男性時代はあまり好んで食べなかった。むしろ嫌いに近かった。
こんなに大きく味覚が変わるのかとびっくりしている。
男性時代はワキガは苦手だったが、それ以外の匂いには鈍感だった。
今では匂いに敏感で、夕方の男性の体臭なんかはすごく気になる。
周囲の男性の加齢臭というわけでなく、むしろ若い男性の同じ匂いの方が強烈で苦手だ。
女性らしくなるとともに性欲がかなり落ちた。
誰かと肌を触れたいという欲求はほぼなく、自慰に時間を費やす意味が理解できなくなった。
身体的に弱くなった影響もあるのかもしれないが、物事の悪い結果ばかり予想するようになりそれに伴い不安がりになった。
このように、メンタル的にも、能力的にも、嗜好的にも、いろんな変化を体験した。
一般的な結果ではないかもしれないが、影響する範囲の広さに私は驚いた。
もしかしたら体内のホルモンや薬などの効果や副作用が積み重なり、影響を与えているのかもしれないと思う。
追記:
ある増田に指摘されたが、確かに女性ホルモン増加と男性ホルモンの低下が同時に起きているので、
女性ホルモンによる影響と断定するのは無理があったと思う。ごめんね。汗
一応この記事の趣旨としては、ホルモンバランスによる人間の劇的な変化を伝えたかったので、それは達成できているかもしれない。
あくまで、参考程度に読んでもらえると嬉しい。
余談だが、性転換して、男性ホルモンの大部分を生み出す睾丸を失って、かつ、女性ホルモンも摂取しなかった時期があった。
その時期に私に起こった変化は、「極度の情緒不安定」と「皮脂の増加」、「無気力感」だった。
ホルモン(拡大解釈をすれば物質の血中濃度のバランス)というものがこれほどまでに人体に影響を与えると実感できるのは、体験した人のみなのかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20160713160607の人のように、中には自分の行動を客観視できているにもかかわらず、うまく自制できないで苦しんでいる人もいる。
もしかしたら、http://anond.hatelabo.jp/20160708081215やhttp://anond.hatelabo.jp/20160709002156の奥さんらもそうなのかもしれない。
どうしても好きになれない
足が速くなりたいとは思うし
マラソン走れる人を凄いとは思うけれど
たくさん食べられるようになりたいとは思わないし
食べられる人を凄いとも思わない
小さい頃に「足が速い奴スゲぇ」っていう風潮はあっても
「たくさん食べられる奴スゲぇ」っていうのが無かったからなんだと思う
「たくさん食べてたくさん動くやつスゲぇ」ってのはあったけど
「たくさん食べるくせに普段は普通の奴マジクズ」って感じだったと思う
そりゃ地域によっては「たくさん食べる奴スゲぇ」ってのがあったのかも知れないけど
大食いの高校生全国大会とかも聞いたこと無い(ありそうだけど)からマイナーなんだろう
それなのにテレビ番組になると大食いが幅を効かせているのが凄い違和感を感じる
みんな本当にスポーツ選手を見るような憧れの目で見ているんだろうか