はてなキーワード: 鬱屈とは
排除は実際の行動だよね
自分は20代前半の女で、それほど男性と食事に行く方ではない。
高校までは一切モテなかったし大学には行かず就職したので出会いもあまりない。
それでもごく稀にに食事に誘われて行くことがある。趣味のコミュニティで知り合った人とか友達の紹介とか。
その際にいつも思うのが、おごるなら先に言ってくれないかなあということだ。
初めて異性と食事に行ったとき、私はインターネットでおごられる女というものがめちゃくちゃバッシングされているさまを見かけたばかりで、断固として自分の分は自分で払った。
そしてそれを異性慣れした会社の同期に話したところ「それはそれで失礼じゃね?」と指摘を受けた。
そうなのか…と学びを得て以降、支払いに関しては「自分で払うつもりだけど、払うよと言われたら断らない」という姿勢をとっている。
ただ、事前に確認しない自分も悪いのだが、おごられるつもりでメニューを選んでいない時におごられるとめちゃくちゃ申し訳ないのだ。
「この人絶対おごるって言うだろうなー」となんとなくわかる感じの人の時は、申し訳ないので一番安いメニューを選んでいる。足りなかったら帰りにコンビニでも寄ればいいから。
あんまりそういう、おごるとかそういう雰囲気のない、ごく普通の友人のような雰囲気で食事に行ってしまうと、せっかく来たんだし〜などと3番目くらいに高いメニューを選んでしまうことがある。
比較的よく食べるので、サラダも欲しいしデザートも欲しい。できればご飯やパンは増量したい。
女性用メニューはいろいろついていても多少リーズナブルだが、女性向けメニューが小鳥みたいな量の店だと物足りない。
食べ終わってから、どうしても口紅などが落ちるのでたいていトイレに行く。そして出ると支払っている。
迂闊な自分が悪いのはわかっている。でも「しまった〜〜〜〜〜!!!!」と思うのだ。
同性の友人との食事では常に自分の分は自分で払う、もしくはまとめて払って後から渡す。
でも、後から自分の分まで払ってもらうのはちょっと、と渡そうとしても受け取ってもらえない。
そして「じゃあ次回は払うので!」と言っても、なんか気が乗らなくなってしまって2人では会わなくなる。
結局のところ自分が男慣れしてないからいけないんだな〜〜〜〜と思う。
滅多に行かないので、前回の反省を完全に忘れた状態で行ってしまう。
前述の同期と同期の知り合いの男の人とご飯に行った時の彼女の対応が相手を不快にさせず可愛らしかったので、慣れだろう。いや、人間性かもしれないけど。
おごられるときは「え〜いいんですか!?すみませんありがとうございます〜!でも申し訳ないんで、外の自販機で何かおごらせてください!」とか、「いやいやそんな気使わないでよ〜!払う払う!」とか。
おごってもらうつもりないから高いやつ頼んだけど、おごってもらえるから高いの頼んだみたいに思われたらどうしよう…とか考えて鬱屈とするなら最初から宣言しておいたほうがいいんだろうな。気をつけよう。
本当なら今頃ワニの感想とか批評がぽつぽつ上がってたまにホッテントリにも入ったりブコメがついたりしてそれらを読んでは感銘深い思いをしてワニの死を悼んだりメメントモリを感じたりしていたはずだったんだが今繰り広げられてるのは醜い争いばかり
彼のマネタイズ手段を良く思えず現在鬱屈している人たちこそ本来あるべきだった作品の余韻をかみしめていたいはずなのにね
まあでも我々消費者っていうものは公式という独裁者には歯向かえぬものだから、不満があるものは素直に亡命するか、これからも国民として残るために矜持を捨てて公式にひれ伏すしかないんだ
まあ敬虔な国民諸君からしたら公式に対して批判的な非国民に対しては腹が立つだろうけど、彼らも彼らで苦心していることを理解してあげてほしい
そしてそっと諭してやってほしい
あと、あの時の気持ちを文字にして、自分がすっきりしたい。それだけ。
腐っている。腐女子だ。
もしかしたらちょっと繊細かもしれない、どこにでもいるオタクだ。
少し違うのは、彼女は私と違い、
彼女の描く絵が大好きだった。
わたしは当時ハマっていたジャンルで彼女の作品を知り、感動した。
同じジャンルでちまちまと小説もどき書いていた私にフォロー許可をくれて、
フォロー返しもしてくれた。優しい。
そこそこに交流もした。お互い、特に仲の良いという訳では無いけれど、
あまり内容を覚えていないけれど、もしかしたらSkypeとかで
本当に楽しかった。
それは嘘じゃない。彼女やみんなと過ごした記憶は、今でも私の宝物だ。
盛り上がりがあれば廃れもある。アニメも終わり、
少しずつ勢いが下火になってきた頃、私は少しずつ、
彼女のことが目に留まるようになっていった。
今だから思い至るし素直に白状できる事だが、
素晴らしい絵を生み出すだけじゃなく、彼女は皆に好かれていた。
実際、それだけの力が彼女の絵にはあった。
ピクシブにあげられていたものもあるが、いつの間にかサイレントで
全削除していた時もある。当然、彼女の作品が好きな皆は突然のことに戸惑った。
大袈裟に泣いていた人もいた。
どんなに「好きだ」と言われていた作品であれ、
その扱い方が変わることはなかった。
そういう一貫してるところは好き。
だけど、私は変にプライドだけは高かったので、
「私が自分の作品を消したとしてもこんなに惜しまれることは無いだろうな…」
誰からも相手にされずスルーされていく光景が目に見えるようで、
悔しかったのだと思う。
これ、全部被害妄想なんです。
なんだこいつ。自分で書いてて引いた。
1度出した作品を消す。それは全く悪いことではない。
私だって時々消す事はある。
ありがたいことに良い反応を頂けたとしても、
「後から思うところがあったので消しました!」というのは誰しにもありうることだ。
だから、いくら「神」と呼ばれることもある彼女の作品が消えることに
嘆く人が多くとも、彼女の作品なのだから、どう扱うのかは彼女の自由なのだ。
前々から、それこそフォローした当時からその傾向があった彼女なのに、
何故後になって目に付くようになったのだろうか。
これは、当時彼女に嫉妬していた私だからこそ思ってしまったことだから、
私は、彼女が自分の作品を消した後の皆の反応を楽しんでるように見えた。
どうして、と崩れ落ちる人がいた。悲しい、と嘆いてる人がいた。
仲がいいからこそ、どうしてと本人に詰る人もいた。
それに対して、彼女は軽く、「バレるの早いなww」といってのけたのだ。
完っっ全に私の僻みだが、当時の私は、それを見て不愉快になった。
「自分の作品に思うところがあったから、作品を消したんじゃなかったの?
自分の作品を武器にして、他人の感情を振り回すのがそんなに楽しいの?」と。
画面の向こうに、他人の反応を見ながらほくそ笑む彼女が見えた気がした。
繰り返すが、これは私の妄想だ。彼女へ歪んだ目を向ける、私の歪んだ解釈だ。
周りの反応を楽しむことは、決して悪じゃない。
二次創作をする人が何を理由にして作品を書こうがその人の勝手だし、
生み出された作品が素晴らしければ、同様に作者も愛されるものだと思う。
とりわけ、彼女は普段仲が良い人に対してはとても面倒見がよいタイプで、
決して悪い人ではない。少なからず交流もしていた私もそれは承知している。
相互フォローこそすれ、やがて会話はほとんどしなくなっていった。
フォロー許可こそくれ、彼女は私をフォロー返しすることはなかった。
私は彼女から距離を取っていたし、彼女もそれを感じ取っていたのだと思う。
彼女と、他の皆が楽しそうにしているのを見ていることが好きだったからだ。
語彙力の広さは尊敬するし、魅力的だ。絵も相変わらず素晴らしい。
今までずっとしこりとして私の中に残っていた。
みたいな、現状大体そんな感じだ。ブロックされているわけではないので、
当時ほどのもやもやはもう無い。
距離を置いて、時間が経過して、その時の感情はほとんど薄れていった。
それでもなぜこれを書いたかというと、
薄れてもなお残る彼女へのしこりを、きれいさっぱり無くしておきたかった。
それと同時に、「お前はこんなにも自己中で自分勝手なんだぞ」と、
「人の振り見て我が振り直せ」とかいう前に、
私は、私を好きでいたい。
そのために、今、私は彼女を利用している。
一方的にTLを拝見させていただいて、
そんな感じで、今後ともゆるく、その時までは宜しくさせていただきたい。
我が振り、いつ直せるだろう。
数年前に話題になったDoki Doki Literature Club!(DDLC)を今更ながらプレイした.と言っても最後までクリアしたわけではないが.
だから物語の結末を知らないし,このゲームの批評をあーだこーだ書こうという気も毛頭ない.
では何故こんなところにこんな駄文を書き連ねようと思ったか,それは今になってこのゲームに触れたこと,途中でプレイを諦めてしまったことにも関係がある.
まあ,一言で言ってしまえば自分の心理的な状態,気持ちの整理である.
普段は長文を書く習慣も無けりゃ読書もロクにしないことに加え,自分の感情を外に向けるといったことが出来なかった人間が整った文章を組み立てられるとは到底思えないが,どうしても書き留めて吐き出さないといけない気がしたのでこの場を借りることにする.
このゲームが話題になった当時,自分は鬱状態にあった.正確には医者にかかり鬱と診断されたのは2018年くらいのことなので,当時は自分が鬱だという認識は無かったが,振り返ってみればかなり酷い生活を送っていたと思う.それでも,精神状態が良くはないという自覚はあったようで,SNSの評判やnot suitable for those who are easily disturbedの注意書きを見てプレイはしなかった.
そして現在.未だに服薬中ではあるが一時より処方量も減り,身の回りの不安要素も軽減されて気分も上向きになり趣味や勉強に関わらず色んなことをやりたいなあと思っていたこともあって,思い出したようにDDLCをダウンロードした.正直,グロテスクな表現は好きではないがそれほど苦手というわけでも無かった(前情報がその程度の認識だった――これは大きな誤りだったが)ので,どんなもんかと軽い気持ちで起動した.
そこからは普通のギャルゲとなんら変わりなく読み進めていた.完全に自分の好みでナツキルートにするような形で進めたが,作中で文化祭が近くなってきた頃,主人公の幼馴染であるサヨリの様子がおかしくなる.これも,主人公のことが好きな気持ちを抑えきれずに他のヒロインに嫉妬してしまうよくある構図かなと軽く構えていた.が,主人公がサヨリの部屋を訪ねるシーン.彼女の部屋のインテリアは数年間ずっと同じまま.そこは酷く散らかっている(これはこの場面以前にも語られていた.)何かを隠し通そうとする言動.そして,朝起きられずによく遅刻をする,明るく元気に振る舞っているのは主人公の前だけ,という彼女の質や今までの言葉が脳裏に駆け巡ったとき,次のテキストで彼女が何を告げようとしているのかがハッと思い浮かんだ.鬱だった.まさに僕自身がそうではなかったか.自分を繋ぎ止めていたものが意中の異性ではなくとあるコンテンツであったという違いはあれど,自分がこの世に必要とされていないのではないか,何も出来ず生きているだけで周りに迷惑を掛けている自分に果たして価値があるのか,といった地獄のような疎外感(という表現が適切なのか分からない.僕はこの鬱屈として捻じ曲がった気分を表せる言葉を知らない)の中でもなんとか生を見出す理由になるものがどれだけかけがえなかったか.それがあるから頑張ろうと出来たことって沢山あったのではなかったか.そして自分が不安定なことを周りに悟られぬよう,自分で自分を騙し通すことの苦しみはどれほどのものだったか.どうしてもサヨリに自分を重ねてしまい,この辺りからゲームどころではなくなった.
幸いにも僕の場合はそれが自分の元から逃げ去っていくようなことは無く,いつでも逃避の先になってくれたし荒んだ気持ちを多少なりとも癒やしてくれた.安っぽい言葉ではあるが本当に心の支えとなるものであった.それは今も変わらない.しかし彼女はどうか.彼女は主人公自身の幸福に拘っていたが,実際のところはいつまでも自分の隣に居て欲しかっただろう.求めたら求めた分だけ応えてくれる存在でいて欲しかっただろう.そして何より,信頼していた人からの理解してあげたいという上辺だけの言葉は一層胸を深く抉っただろう.壊してしまったと言っていい.比喩ではなく本当に命よりも大切な存在を失ったとき,心の弱った人の行く末は.
そして一番ショックだったのが,他の誰でもない自分がこの選択の手助けをしてしまったということ.作中では,他人の趣味を馬鹿にするな,嫌な気持ちや恥ずかしい気持ちは他人と共有する,といったような他人を尊重し合うことの大切さが説かれていたのではなかったか.それでも僕は自分のためだけに好みの子と恋仲になるための選択を重ねていた.もう少し思いを巡らせて別の選択が出来たのではないかと思ってしまう.
ノベルゲームなんて筋は決まっているし,(分岐を抜きにすると)そこにプレイヤーの意思が介入することは無い.よって誰が見ても自分のこの思考は頭がおかしいんじゃないかと思うだろうし,自分でもそう思っている.恐らくゲームに向いていないんだろう.
だから,DDLCというゲームの登場人物として生み出された以上,サヨリというキャラクターの運命は決まってしまっている.どうあがいても避けられない結末がある.僕にも,他の誰かにもどうすることも出来ない.
この文章も,このどうしようもない罪悪感を打ち消すために書いているのかもしれない.それもまた自己中心的であるが.
とは言っても流石にゲームと現実の区別がつかないほどアレではないので,この体験をきっちりと消化出来れば良いなと思っている.他人に寄り添える人間でありたい.
何より,この一連の過程で迷惑を掛けている人が居ないのが幸いである.いや,こんな怪文書を不特定多数に発信している時点で迷惑極まりないな.
以上.
反出生主義にしろ、女性にありがちな極端な性嫌悪にしろ、あとは反肉食ヴィーガンなんかもそうなのだが
「人間が生物として生きることへの嫌悪」っていうやつは、その思想を信じた奴を不幸にする効果しかないし、もしも自分が子供なり生徒なりに何かを教える立場だったら、真っ先に矯正したい。暴力的エロ漫画の500倍子供に悪影響があると思う。人間を否定してるってことは、自己肯定感や他者への寛容の真逆なんだから。
しかしどういう訳か、そういう人間性否定が"倫理"みたいな雰囲気を纏っていて、そういう思想にかぶれる若者は常に一定数生まれているし、そうして鬱屈した若者(またはかつての若者)が、今日も増田にグチを吐き出してきたりするわけだ。そうなるともう個人の思想の自由としかいいようがないし、俺がどうこう思うようなことじゃあないけど。
誰かが言わないといけないことだけれど、だれも言わないから言う。
BL好き腐女子、エヴァ大好き左翼、エロゲアイコンだった学者。
おじさんおばさんのオタクの一部が、差別で自意識を拗らせた結果おかしなことになっているという話だと思って聞いてほしい。
彼らは、エヴァ放送時に、衝撃を受けてこんなアニメがあるのかと驚いた世代だ。もうちょいわかりやすく言うと林原めぐみ直撃世代か、そのもうちょい前。
深夜にアニラジを聞きながら、エヴァを延々と語り、オタクの仲間内で、「この作品なら一般人に見せてもばかにされないんじゃないか」とかひそかに期待していた世代だ。
同時にあの時代のオタクは、自分を肯定して生きていくことが厳しい時代だった。
オタクと呼ばれると、どんなに社交的で、どんなに良い人格で、どんなに収入があっても、社会的信用が失われる時代だ。このあたりの空気を知りたいというひとは、
https://togetter.com/li/1220676 このあたりのまとめがマイルドに教えてくれる。
もっと空気感だけ味わいたいなら、飛んで埼玉! の空気感。バレた瞬間最下層民になるって時代。
だから、アニメ好きは必死になって趣味を隠し、隠れキリシタンならぬ、隠れオタクという言葉が普通に流通していた時代だ。
声優ソングの歌詞を見たら、みごとに「生きにくいオタクの共感を呼ぶ曲ばっかり」だ。
自分らしく生きていくということを大変だけど頑張ろう、っていう曲だ。
そんな時代に作られた林原めぐみの「don't be discouraged」は、差別の垣根を越えて、「ゲイやオカマの心をガッチリとらえた」という現象まで起きた。新宿二丁目では涙を流して歌う人物もいるそうだ。「生きにくい世の中だけど、勇気をもって好きなことに邁進しよう。理解されなくてもきっといいことがあるよ」というのは、まさに被差別属性を持つ人々の心をとらえるだろう。そんな時代だった。
僕らが生きたのは「好きなものを好きというだけで多大なリスクを覚悟せねばならなかった」という時代だ。
余談になるが、当時の深夜アニラジというのは、精神を病んだオタクの駆け込み寺にもなっていた。声優さんにガチの人生相談が舞い込んだ時代だ。
学校でオタクだと馬鹿にされてつらいとか、いじめられているとか、そういうはがきが普通に舞い込み、それを声優さんがガチに回答するような、かなり狂った時代。あの時代のオタクの空気はまさにどんよりとした息苦しさをまとい、まさに被差別階層の様相を呈していた。それにしたって、なんで声優さんラジオに人生相談をするんだ、と言われるかもしれないが他に相談できる場所がどこにもなかったのだ。親も、教師も、友人も、兄弟も、警察も、政治家も、すべてがオタクにとっては敵だった。もう顔の見える敵ではない存在が、漫画家や声優しかいないというのは、あの時代を体験したものでないとわからないだろう。当然ネット環境もない。
そんななか、差別に直面し苦闘したオタクたちはオタクと呼ばれるのを極端に恐れていた。
「俺はオタクじゃない。マニアだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「俺はオタクじゃない。ゲーマーだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「俺はオタクじゃない。アニメ好きだ(そんな違い、差別する側は気にしない)」
「オタクってキモいよね」と言われたら、正体を隠して「そうだねえキモいよね」と内心冷や汗流しながら相槌を打ってた時代だ。
当時、いじめられ、差別され、迫害され、バカにされていたオタクたちの一部が、「なぜ自分たちが差別されるのか」を必死になって考えるというのは、もうこれは宿痾の妄想のようなものである。
そんな中、一つの逃げ道に走ったオタクがいる。それが現在の左翼系でオタクバッシングをやっているオタクである。
「オタクはダメな奴らだ」とサブカル内部からオタクを批判することで、一般に認められようとする道を選んだ人間だ。
彼らの言い訳は「左翼思想からサブカル的にオタクを分析するためにオタク文化にかかわっている」というものだ。
「自分たちがアニメ・ゲーム・マンガ・ラノベを見るのはサブカルチャーの研究をやっているからだ。だから恥ずかしくない」と理論武装しなければ、好きなものにかかわることができなかった。
大学のサークル棟や居酒屋で、現実に起きた現象とアニメ作品をひたすらに絡めて、融合させて、一つの社会的事象としてとらえようと躍起になった時代だ。
具体例を挙げると、地下鉄サリン事件とオカルト系SF作品の影響を無理やりくっつけてトンチンカンな批評を、朝生みたいにオタク同志で語り合ったものだ。
それを見ていたクリエイターが「いまのオタクは作品も作らず、ただ批評ばっかりしてる」と嘆いていた時代。ただ楽しむではなく、「学問的批評という行動によって、ただのキモオタのブヒブヒ言う声ではなく、この作品が社会に与える影響や、社会的意義がどんなものか、左翼思想に合致するかチェックしている」という言い訳を自分に用意した。
彼らは、何の理屈もつけずにオタク文化を楽しむオタクを「ダメな奴らだ。キモイ。あんな奴らと一緒にしないでくれ」と、さげすむ自意識を持っていた。しかし、オタク文化は好きで好きでたまらなかった。
その鬱屈した倒錯は、傍から見ればただの変態の所業でありながら、それでも本人たちは大まじめだった。
左翼思想やフェミニズム思想を身にまとい、あのコンテンツはここがダメ、あそこが左翼思想から見るとダメ、右翼だ、女性差別だ、と言いながらアニメゲームマンガを消費したのだ。
ほかにも別の一派がいて、無理やり学問にこじつけて、オタク文化を鑑賞し、「CLANNADは人生」とか「fateは文学」とか馬鹿じゃないのかという発言が飛び出すこともあった。ネットで議論する際に「銀英伝」や「マブラヴ」で、政治を語り分析する人間がゴロゴロいた時代。
あれは、「馬鹿」だったのではなく「そうすることが差別を避けつつコンテンツを楽しむ作法」だったのだ。
しかし、時代は加速した。オタクは文化的にかなりの大成功を収めた。
オタク系候補が30万票や50万票取って、自民党の議員バッヂをつけてしまう時代だ。民主系や、社民系ではなく、よりにもよって自民党である。確実に時代は変わった。それも劇的に変わってしまった。(オタクが政治にいかに冷遇され続けてきたかは、それだけで10万文字を超えるエントリーを書かねばならないが、今回は割愛する)
要するにオタクコンテンツが一般趣味として認められつつある時代になったということだ。
そうなると何が起こるか?
いちいち思想とアニメを絡めて面倒くさい批評を書くよりも、萌えキャラがなんか頬を赤らめて「ばか」とつぶやくSS漫画をtwitterにあげるほうがRTといいねが数万単位で跳ね返ってくるようになった。
このアニメはリベラル思想に対して間違っていないか、とか考える面倒くさい学術オタよりも、SNSで萌え絵をアップして焼肉画像を上げてる大学生絵師のほうがよっぽど尊敬を集められる時代になった。
いまの時代、萌え漫画を読んだり、コミケに行ったりする程度で、「あいつはキモイオタクだから石を投げよう」みたいなやつはかなり減って、大勢がオタクであると公言できる時代になった。これは若い人達ほど顕著である。他人にどうみられるかを一番気にして、自意識をこじらせる男子高校生や女子高生たちが、人前で、FGOだのアイマスだのバンドリだののアプリのイベントを周回している時代だ。
オタク差別から逃れるためにくだらないうそをつかなくてよい時代が来た。
しかし、この時代はある一部のオタクたちには実に生きにくい時代になった。オタク趣味を低俗だ、腐敗してる、萌えなど女性差別だと繰り返しバッシングしながら、それでも萌えアニメや恋愛ゲームを消費せずにはいられなかったオタクたちだ。これには女子も含まれる。女子でも乙女ゲーとかそっち系のほうは「恥ずかしいもの」としてバッシングされた過去が間違いなくある。腐女子を恥ずかしいものとしてとらえてバッシングしたのは、「そういう意識が高い系のオタク、女子オタク」だったし、「腐女子の中でも様々な争いがあった」ことは間違いない。
彼らは、同胞のオタクを常にバッシングしてきたせいで、オタクにもたらされた「自由にオタク文化を楽しむ」という時代に参入できない。今更「実は俺も萌えキャラ大好きなんだよ~! バンドリ周回してる! アイマス最高!」とか職場の人間に言えない人生を送ってきてしまった。
ネット空間においてさえ「こんなものは女性差別だ。左翼思想の面から許容できない人権侵害だ。オタクがオタクをダメにした。オタク社会を俺が浄化してやる」ぐらいの発言をしてきた人間だ。
彼らもこっそりオタク文化を楽しんではきた。しかしオープンに楽しむなんてことはできなかった。それが許される時代が来てもできない。
だからこそ、全力でオタク文化が一般になるのを阻止しなくてはならない。
そうでなければ自分のゆがんだ自意識が、ただの卑屈さの産物であると認めなければならないからだ。
林原めぐみの作詞した歌詞のように、ドタバタ前向きに差別を恐れずに自分を肯定しながら生きていくということができればどんなに良かったろう。
しかしそれがいまだにできない。あの時代のえげつない苛烈さ、報道も政治も、だれもオタクを守ってくれない。その時代ゆえの後遺症だ。
だいたいは左翼的なシンパシーを持ち、左翼思想で自分を固めてきた。
左翼思想やフェミニズムが、彼らをオタク差別から守り、他のオタクと異なり特別たらしめている自意識だ。
それを用いて、オタクだとカミングアウトするのが明らかに不利益にしかならない時代を、何とか生き抜いてきた世代だ。
必死に左翼理論と自己演出で、オタク差別されないように自分を防御してきた世代だ。
世の中のオタク表現を常に探し、「これは左派思想に合致しないから規制すべき」とオタクをバッシングするのは、「自分はキモオタとは違う良いオタクだ」と差別を逃れるために左翼思想を選んだから。
若い人たちは彼らを見たら、「こんなことをしなければ生きられなかった悲しい時代があったのか」と思ってほしい。
「好きなものを好きというだけで多大なリスクを払わなければならなかった時代」があったことを少しだけ思い出してほしい。
追記 確かに主語が広すぎたと反省している。ただ、はてなとかで率先してオタクを叩いてるひととかはに、かなり当てはまるのあるケースだと思っている。
実家は拡大方針を取らなかったので、作中の塾の発展とは異なりますが、
月としての教育インフラであった塾業界、そして受験ビジネス産業については
いろいろと父の話を思い出すこともありました。
そして私が学生だった20年以上前と比べて、塾の位置付けがこんなに変わっていること、
塾が悪いなんて言っている人みたことないと書いてあるブクマの意味がよくわかりました。
私自身が自分の経験のために、学生時代から塾のイメージをアップデートできていなかったのかもしれません。
いま、塾はこんなにポジティブに捉えられているのですね。
塾の子供たちのエピソードは昔を思い出しました。自分は蘭に一番似ていたと思います。
教師から目の敵にされていたのもあり、良い成績を取ってやるという気持ちもあり、
父親はそんなことを全然望んでいなかったと思いますが、自分は塾の広告塔だと思って、
良い成績を取って、生徒を集めて、家庭を助けたいとも思っていました。そんな大人びた子供でした。
逆に父は、生徒の進学結果などを公に公開することを反対で、良い中学・高校に進んだ学生は多いのに、
また、習熟度別クラスに反対で、同学年は成績に依らず一つの教室でした。それは父のポリシーだったと思います。
私は成績もよかったこともあり、たしかに学校の定期試験をなめていたこともありました。
歴史なんてただの暗記科目、子供の記憶力チェックをされているだけなので、
別にこれは日本の歴史じゃなくても、マイナーな外国の言葉のボキャブラリでもなんでも取り換え可能だ。
そのときは、明確に叱られました。歴史とは現在と地続きの人間の営みであって、
いまがどのようにつくられてきたのか、そして人間がこれまでどれほどの愚かなことをしてきたのか、
それを学ぶものだと。
私が、「いやいや、この似たような仏像の写真を並べて、名前を当てる問題なんて、ただの暗記&IQテストじゃん」
みたいなことを言った時に、いまはそう思えるかもしれないけど、いつかその違いを楽しめるようになる時が来る。
そういうのが教養なんだと教えてくれました。当時はただの屁理屈だと思いましたが、
今思えば、父の言葉は真実でした。橋本治のひらがな日本美術史は私の好きな本の一つです。
もちろん父を神格化していたわけではなく、はっきり言ってしまえば、
自分は普通の家の子どもに生まれたかったと反抗期には何度も言っていました。
同級生が自分の父親を知っている、同級生が自分の家にお金を払っている。
この居心地の悪さは、自営業の子にしかわからない感情かもしれません。
(塾は関係ないですが)
そういう感情もあり、作品中の一郎が教育業界と距離を置きたくなる気持ちがとてもわかります。
結果として、私は少なくとも現在は教育業界からは遠いところにいて、
(昔の)学校の教師が、塾の存在が、自分たちの仕事が不十分であると感じさせられるので敵視する一方、
作品中で吾郎が「塾の人間というものは、すべての子どもに等しく勉強を教えられていない現実に、
絶えずある種の鬱屈を抱いている、商売であることの限界が、喉に刺さった小骨のようにつきまとう」と語るように
大手を振って、すべての子どもたちに教育を無償で提供できる学校教員を、
ある意味で羨ましく思っていたところもあったのだろうなぁと思いました。
もう70になる父の語った賤業という自虐も、この辺りの感情が根っこにあるのではないかと思わされます。
最後の教育格差の問題へのアプローチも含めて、非常に良い作品でした。
二月の勝者も、作中で何度も匂わされているように、同じ問題意識があると思います。
父は、資源がない日本だからこそ、教育に力を入れるべきだと昔からずっと言っていました。
なんとも古臭い文言ですが、先進国トップの学力を誇った日本が、
いまや公教育がぐちゃぐちゃになり、そして富裕層・貧困層の教育格差が拡大し、
他の先進国から博士がいないとビジネスの場ですら、馬鹿にされている始末です。
教育の底上げもエリート層の教育もどちらもできていない現在の日本の教育ですが、
はてな匿名ダイアリーは自分が社会人になる直前から知っていたサービスだが、未だに健在で多くの投稿がされていてどことなくノスタルジックな気持ちになった。
そんな自分もアラサーになった。社会人になってからは失敗の連続で満たされない毎日が続いて、生きていくことに必死で恋愛とか考える暇も無かった。転換期となったのは転職をしたことだろう。転職をして時間的にも金銭的にも余裕ができはじめたころ、初めて自分に伴侶……というと大げさだが、恋人、あるいはパートナーと呼べる存在が居ないことを自覚した。転職をしても鬱屈とした毎日が続いていたし、エロゲーの主人公みたいなことをいっているが満たされない日々が続いていた。そこで、恋人という存在ができれば、自分の中で何かが変わるのではないかと思い至った。
そこからはいろいろと紆余曲折があったものの、恋人という存在ができた。自分は掛けていたのだろう。今まで自分に圧倒的に足りなかった女性という存在によって何かが満たされることを。
結果としては何も変わらなかった。些細なことで喧嘩をして別れた。何が残ったかと言われればつまらない感情だけだった。別れてからも元恋人とは仲良くしていたが、自分が原因なのだが些細なことで喧嘩をして連絡を取らなくなった。
いつだったろうか、自分が生まれてきた意味とか、存在価値とか、ありもしないことを考えたことがある。きっと誰もが思春期の頃に考えたことだと思うのだが、結局のところ生まれてきた意味なんて存在しないし、己の存在価値なんて自らが定義できなければ存在しない。生まれてきてから、存在に意味を持つ人なんてほとんど居ないのだ。
だから、自分が誰かの特別な存在になりたくて、恋人を作ろうって思ったのかもしれない。結果として残ったのは虚無感と、年甲斐もなく自覚した肉欲だけだ。
本当にくだらない。人生ってくだらない。誰かの特別な存在になんてなれない。
歩いた後に残るのはゴミだけだ。結局、自分は交換可能な部品に過ぎない。もちろんそうだ、そんなこと当たり前だ。ずっと自覚していた。ただ、それを再認識したのが辛かった。
twitterやpixivに作品を投稿すると一日以内に必ず「キモイ消せ。調子に乗るな。下手くそ」
まあ確かに下手なのは認めるし、はっきり言って自分の技量以上に評価されてるとも思う。
だがそんなことを捨て垢でいちいち突撃してくる奴に言われるいわれはないとむかっ腹の一つもたつ。
断言していいが、このアンチは、おそらく自分のことをずっと見てきたのだろうと思う。
そやつが何を考えてるのか、何に腹を立ててるのか、自分にもわかる。
おそらく、そのアンチは「創作したいけれど出来ない最初の一歩を踏み出せない人間か、自分の期待した評価を得られてない人間」だと思う。
コメントに、「いまにすぐ追い抜いてやるぞ」というニュアンスが感じられるからだ。
自分にも覚えがある。創作初めのころ、たまたまめについた底辺創作者が憎くて仕方がなくなる時がある。
一度そのアンチと話をしてみたいと思う。捨て垢なので応じてくれるかはわからないが。
創作に取り組む人間は鬱屈しやすい。楽しいと思えるようになるまでは時間がかかり、苦しい思いをいつもしてる。
政権交代前の自民には、長年の鬱屈と政権交代への期待という強烈なストレートが控えていた
そうであればこそ、スキャンダルというジャブが効けばストレートが決まって政権は潰せた
政権交代への期待は、民主党政権での絵に描いた餅で終わった埋蔵金や高速道路無料化、
こじれるだけで終わった普天間問題、他の国は回復傾向にあったのに日本だけ取り残されていた経済など、
れいわ新選組も、原発問題やワクチンで妄言を吐きすぎてて、胡散臭さは正直言ってN国と同列
加えて重要なのが、極めて酷い話なのだが、恐らくもはや、大半の国民は現政権にクリーンさなど期待してない
麻生氏がいくら問題発言をしようと「あぁ、またね」としかならない下劣さと同じ
モリカケが不発に終わってしまった時点で、今更桜を見る会の私物化程度では「あぁ、またね」としかならない
もっと言えば、多くの国民が政治に求めているのはクリーンさではない
ロッキード等の汚職まみれの田中角栄が未だ人気だったりするのが象徴的ながら、
例えスキャンダルがあろうとも、肝心要の政治そのものに対する不満というストレートがなければ、
スキャンダルというジャブだけでは、いつまで経ってもKOまでは持っていけない
野党に期待しているのはそっちじゃない、ストレートが欲しいんだよ
今が、現政権がどれだけ悪いかというジャブではなくて(それは皆もう知ってる)
欲しいのは「今よりはマシだろう」みたいな消極的な言葉ではなく
政権交代すれば、今よりもっと良い未来が待っているという期待が、希望が
それも、富裕層を悪者にしてやっつけようなんて、勧善懲悪の子供騙しな単純過ぎるストーリーじゃなくて、
民主党政権みたく耳障りの良い綺麗な言葉ばかりを並べた政策じゃなくて、
もっと地に足の着いた、国際情勢なども加味した現実的な、不発のアベノミクスに代わる対抗馬を示して欲しい
無論、悪いことは悪いし、スキャンダルを追求することもある程度はして欲しい