はてなキーワード: 自尊心とは
何で理解のある彼君をやっているのか
当方男子校出身大学は理工系、就職先はITエンジニア。このような人生を辿ると少なくとも自然に女性の友人ができるような事は全く起きない。
女性と知り合うには自分から積極的に動く必要があると気付くのは大学卒業前か、もしくはそのまま気づかない人もいる。
このような環境において女性と接するという機会自体が非常に稀である事から多少は欠点のある女性でも一緒に居てくれるだけで飛んでもなく好きになる。
普通に考えたら許容できない欠点も次の人を探すハードルがとんでもなく高いので多少の欠点には目を瞑る。
同じ年収、同じ教育レベル、同じような実家に太さの女性と付き合いたいと思った時、同じレベルの女性は振り向いてくれないのだ。
(例:職場の同僚女性の彼氏は弁護士で独立しながら副業を何個も回し、かつ教養が高いそうだ。
大学の女性の友人は既婚だが、某S社の研究開発部署で働く楽器演奏もできるコミュ強な方だった。
特に自分はまだ若いので、同年代の女性はまだまだ夢をみれるお年頃。
そもそも同じレベルの女性と知り合うというのは会社でやった場合倫理的にアウトだと言われかねない。こういうのは大学や高校のうちに済ませるべきだったと気づいた時にはもう遅い。通う学校の選択肢を間違えたあとだった。
ちなみに女性を探すときは主にマッチングアプリで探す。理解のある彼君漫画に彼君がポッと出てくるのはマッチングアプリで捕まえたからだろう。
普通なら縁を切るような相手でも自分が耐えられるのでそのまま一緒にいれるのだ。
よって、ちょっとの事では弱音を吐かないので世の中に発信もされないので可視化されない。
そもそも理解のある彼君をやってることを自慢した奴などどこにもいない、我々は異性獲得競争の中では負け組に入るのだから。
なんだかんだ言って付き合ってないよりは付き合ってる方が自分としては幸せだ。
彼女は可愛いし、ダメなところは庇護欲をくすぐられるし、一緒にいる間は人生で数少ないジェンダー的役割を果たしている気になり、自尊心が育まれる。
ただ、時折介護をしているような、自分ばかり我慢したり負担を感じているような気がして、対等なパートナーが欲しかったなと少し悲しくなる。
表題にあることがすべてではあるけど、どこにも吐き出すところがなくてもやもやしていたのでここに書きます。
自分自身はずっと長いこと文字書きをしていたけどいろいろあって今はほぼ見る専(個人的に書いたりはするけどどこにも公開してない)。
ちょっと前に、詳細はぼかすけれどちょっとあって、nmmn界隈がざわついたことがありました。
好きだった執筆者の方々も続々作品を削除または非公開(マイピク限定)にしたりして、結構な騒ぎだったように思う。
自分自身はもう書き手をしていないので、まあそれなりに冷静に見ていたけど、その時点で書き手をしている方たちからしたらほんとに肝の冷える展開だった。
数日間にかけて普段ほとんどしないマイピク申請をしたりなんかして、早く騒ぎが収束してほしいなあと思ってました。
pixivで作品を公開されていた方の中にはプライベッターに完全移行するって方もそれなりにいて、私は今一番入り浸っていた界隈のTwitterアカウントを持っていなかったので見られなくなるのは残念ではあったけれど、nmmnジャンルの特性上ほんとに仕方ないなと、静観?(という表現もおかしいが)していた。
最近は鍵ぱかでnmmnの過激なのを公開してる馬鹿も増えて、近頃nmmn界隈が騒ぎになることも多かったし、隠れてくれる分には大いに結構。
なんせこちらはインターネット老害、それもnanoとかに生息していたオタクだもので最近のnmmn界隈にはひやひやされせられることも多かった。
界隈が騒ぎになることを望んでいるわけではないけど、これで今一度界隈の危険性とか、ルールとか、浸透してくれたらいいと。
とはいえ所詮nmmn界隈の騒ぎなんて全書き手/読み手に浸透するもんでもないから、普通にpixivに投稿を続けてる人もいる(それを読んでる自分も自分だけどこの際棚上げを許してほしい)。
ルールとか明言されてないから(だめだけど)知らない書き手が公式に見つかるようなタグつけてpixivに作品をアップしちゃってんのは仕方ないと思う。
それについては気づいてもらえるように老害が促せばいい。老害はこういう時のためにいるからね。
例の騒ぎでpixivからプライベッターに作品を引き上げ、ここまではいい。
作品を書くことは止めないし、自分も楽しませてもらっていた側だから。
更新頻度も高くて、けれど文字数も多くて、すごいなって思ってた。
ブックマーク数もいつも3桁あったし、さぞ通知も多かったと思う。
自分もnmmn、非nmmn問わず書き手をしていたころ、それなりに反応をいただいていたからわかる、ブックマーク通知が来ると嬉しいよね。
好きってメッセージもらうと嬉しいよね。
反応がなくても文字を書くけど、人に見えるところに公開するのは結局反応が欲しいからだよね。
本当にわかるけどそれとこれとは話が違う。
pixivで全体公開するのは公序良俗に反することに気づいたからぷらいべったーに引き上げたんじゃないの?
なんでわかってて戻ってきたの?わざわざ同じユザネで新しいアカウント作って。
おまけに前アカウントで公開してた作品を露骨なタグつけて全体公開して。
なんやかんや理由つけてるけどそんなん結局反応が欲しいからだよね。
プライベッターに引き上げたら全然反応なくて萎えちゃったのかな。
私もむかーし別のジャンルでその手のサイトから検索除け、pass請求性にした個人サイトに引き上げたときにグッと反応減ったから(当たり前)、ちょっと寂しかったりしたけど、nmmnジャンルってそもそも見つかっちゃいけない前提みたいなもんだから反応多いほうがおかしいんだよ。
自分の自尊心を満たすために、本尊のことも界隈のことも危険にさらすのやめてくれ。
法で決められてるわけじゃないし明文化されてないルールが跋扈する界隈にこんなこと言うの無駄かもしんないけど、マイピクの承認基準にあれこれ書いてんだからわかってるんでしょ?
晒されたくない、本尊に不利益を与えたくない、でも書きたいんならせめて反応がないことを許容して。
あと矛盾したことをいうけど、戻ってくるならせめてユザネを変えるなり、前垢の作品一切出さないとかであればこんな苦言を呈さずに済んだんですけど。(とはいえ文体で気づくとは思う)
本当はこの界隈のことこうやって匿名なのをいいことに持ち出したりするのはよくないってわかってるんだけど、最近どうにも似たようなオナニー文字書きよく見かけるから物申してしまってほんとうにすまん。
まあこの記事もオナニーみたいなもんだから人のこと言えないんだけどね(とは)
本人にはわかるように書いたつもりなので、うっかりこれに目を通していただけた場合、いったん考えてくれませんかね。
私の大学では、騒いで授業の進行妨げるクラスメイトに「働いてる合間縫って勉強してるんだぞ」と怒鳴った学生がいたなあ
三流大学で、クソみたいなカリキュラムでも授業料はいっぱしに年100万円くらい取るようなところで
クソはクソなりに特待制度なんてあったから私は年20万円払うだけでよかったが
片道1時間以上かけて通ってたから、別のものを支払ってたんだろう
結局クソ大学なので特に技能は何も身に付かず、複雑骨折した自尊心も治癒せず
安定性以外何も望めないような職場では一応、大卒という肩書きだけは通用した
住んでいたのがクソ田舎でよかったと思えたのは人生で初めてだった
田舎すぎて使い途がなくて貯まったお金で、学費を親に返すことができた
まあこんなものだろうと安穏と生きていたら趣味で意気投合して結婚した相手がよく稼ぐ人で
「自分も遊ばせてもらったから」と子供の大学進学はいくらであろうと全額親がもって当然という雰囲気だ
聞けば関西では一流の端っこみたいな扱いの大学をエンジョイしたそうだ
多くはないであろう、私の負担分の学費を考えると何も言えなくなるが
騒ぐやつ、怒鳴るやつ、高みの見物してるやつ、そのどれにも我が子にはなってほしくはないし
先輩後輩の上下関係は絶対という思考を持つ森世代からしたら、自分が間違っていようが間違ってなかろうが、年上の自分を敬うのが当たり前で、
まずは自分たちの意見が尊重されるべきだし、周囲にいる年下の人が自分に対して文句を言ってくるなんてありえないことだし、それを聞いて自分の考えを改める必要性すら感じないだろうと思う。
会議において、自分たちの意見に反対することなんて、時間の無駄。年長の意見が一番大事。
時代が変わったのだ、ということは感じてはいるのだろうが、所詮、それも若輩者が勝手に言いだしたことに過ぎず、取るに足らないことだ、くらいにしか思っていないのではないか。
むしろ、こんな時代になってしまって、自尊心を傷つけられ自分たちは可哀そう、とか思ってそう。
偏見でしょうか。
ン年前、会社員のころうつ病で休職したら精神病院に連れていかれてテスト(WAIS-Ⅲ)受けさせられた。結果自閉症と診断された。
少なくとも自分が高校時代(2007.4~2010.3)のころから親や周囲の人から自閉症だなんだと周囲から言われ続けてきた。
しかし自分が自閉症だとは到底思えない。エビデンスも知能検査だけである。
3時間程度の知能検査を受けただけで自閉症認定され劣った人間の枠に入れられることは、正直憤懣やるかたない。
自閉症向けの支援施設に何度か無理やり連行されたこともあるが、はっきり言って自尊心がへし折られて泣きたくなった。
自分は五体満足であり、成育歴をみても「自閉症だよね」というエピソードには乏しい。
自分はアスペだということは周りには隠している。そんなことを周囲に吹聴しても何の得にもならないからだ。
たまに診断書が必要となってもらってくるのだが、診断書に踊る「自閉症」の3文字を見るたびに陰鬱な気分になる。
多分誤診で本当は自閉症ではないとは思いたい…
一方SNS(特にTwitter)を覗くと「私は自閉症です」みたいに自称している人を大勢見かける。何が目的なのかはわからない。
自閉症というのは負の属性であり、少なくとも差異化ゲームの道具やブランディングツールではない。
自閉症はコミュニケーションの問題が生じやすい(と一般的には言われている)ことから、特にSNSのようなコミュニケーションツールでは忌避される属性のはずである。
自閉症の症状を個性だと歪曲する人も散見されるが、障害を個性というのはおためごかし以外の何物でもない。
自閉症で成功した人も中にはいる。そういうのは自閉症だから成功したのではなく、それ以外の特技があったから成功したのである。
「日本人の○○さんはすごい、だから日本人の自分もすごい」と何ら変わらない論法だ。
ほかにもいろいろあるけどまあこんな感じ
画用紙にクレヨンで描いた幼稚なイラストを、過去によく母親や幼稚園の先生に見せていた。「描けたよ〜!見て見て!」……と。すると、それを見た大人は言う。「わぁ!上手に描けたね〜!」
珍しい体験ではないだろう。現に私もそう褒められた過去を持つし、子どもが絵を描いたら皆そうやって褒める。
腐女子の私もTwitterを始めた頃は、パースも構図もデタラメなBLのアナログな落書きを、写真に撮って投稿していただけだった。しかし数少ない閲覧者にいいねやRTをもらい、たまにリプをもらい、だんだん自信をつけていったのだ。そしてアナログから板タブになり、液タブを新調し、iPadで絵を描くようになった。次第にフォロワーも増え、本を出し、アンソロに参加し……。まだまだ欠点だらけなものの、以前よりも多くの人間に絵を見て貰えるまでになった。
振り返れば、ここまで同人活動を続けてこられたのは、フォロワー1桁代の頃の数人による反応が大きい。言うなれば幼子にとっての『ママ』である。絵を見てもらって褒めてもらう行為が、どんなに貴重であるかを今回の事件で痛感したのだ。
私の表現を不快に感じる人も居るだろう。反応がなければ絵を描かないのか?自分が絵を好きなら問題ない?他人の評価など気にしない?そう思う人はそれで大いに結構。だが私はそれを踏まえても、やはり多くの人に作品を見て欲しいし、その承認欲求が大きなモチベーションとなってきた。絵を投稿したあと、ソワソワと5分ごとに通知欄を覗く人以外は以降の文章を読まないでくれて構わない。
これから書き連ねるのは、私の懺悔と後悔も含んだ、小さくも悲しい出来事である。説教したい訳では無い。ただ思ったことを垂れ流している、ただのオタクの戯言である。
さて、今回の事件は──ただのフォロワー同士の諍いなのだが──、Twitter上で『ママ』を求めすぎた絵描きによるものだ。その絵描きはフォロワー数よりフォロー数のほうが多く、いいね数もほぼ無いオリキャラ絵をよく描いていた。よくリプを頂くので私は彼女と相互なのだが、正直に言って絵が上手くない。投稿頻度が高くTLを追いにくいため、こっそりミュートにしている。
この時点ではただの絵描きだ。だが彼女は違った。相互になった絵師や小説書きのもとに、DMやリプで自身の絵を貼っつけるのだ。相手の推しキャラや推しカプではなく、自身の考えたオリジナルキャラを。そして感想を求める。いいねやRTを欲しがる。彼女はそういう人なのだ。
私も例に漏れずその絵を送られる対象のうちの一人であったが、適度に受け流していた。無視したり侮辱したりしては、彼女を傷つけてしまうと懸念したからだ。この頃、私は自分が絵を投稿した初期にフォロワーから『ママ』のように褒められていたことを自分に投影し、「自分よりも下手な絵を褒めてあげる私って素敵!」などと酔っていたのかもしれない。少なくとも、尊敬の念で褒める気など微塵も無かった。それこそ幼い子の絵を褒めるように、『この装飾が素敵だね』『可愛い色使いだね』『雰囲気に合っているね』など。毒にも薬にもならないようなコメントをしていた。
しかし、そのコメントは彼女にとって承認欲求を満たす麻薬になっていたらしい。私以外の人にもそういった感想を求め続けた。他の絵師にもその行為を繰り返し、受け流すことで承認欲求は倍増した。「あなたも○○ちゃんから絵送られてきた?あれってどうしてる?」などと他のフォロワーから相談されたこともしばしば。腫れ物に触るように、私たちは彼女を取り扱っていた……と、思う。
昨夜のことだ。とある絵師が投稿した作品に彼女はリプライで自分のオリキャラ絵を貼った。しかし当の絵師は無視し、それを見て彼女は拗ねた。メンヘラ気質なことは知っていたが、その行為ひとつで病みツイを連投し、あからさまに拗ねたのだ。(『拗ねた』という表現をあえて使わせて欲しい。それほどまでに幼稚だと思えるからだ)
絵師はエアリプで「私だって興味のある作品を選ぶ権利はある」とのこと。その通り。絵師には同情しかない。だって絵師本人は何も悪いことなどしていないのだから。とはいえ、ある意味で私のほうは重罪だ。適当に褒めそやして、彼女の承認欲求を膨らませてしまったのだから。
絵描きのはしくれである私としては、絵を描く行為を好きでいて欲しくて、そうやって褒めていた。しかし、私は彼女の良き『ママ』にはなれなかった。適切に指摘し、良い方向へと導くことは出来なかったのだ。ただただ自尊心を高めるだけで、彼女自身のスキルを成長させるには至らなかった。
そういえば──。幼稚園の頃は落書きを褒められていた私だが、中学生の頃、美術の時間にクラスメイトから言われた。「お前の絵、それだと腕の動きおかしくね?」
今でもセリフを覚えているのだ。当時は悔しくて悔しくて仕方なかった。なんとか笑顔を繕い、「え〜?何それひどくなーい?」と笑い飛ばした。だが、クラスメイトの言葉はその後の私を大きく変えた。確か、その頃からだろう。私が人体パーツを意識するようになったのは。過去の絵を光に透かして、反転した絵が歪んでいたと自覚したのは。
お絵描きをするのに大切なのは、褒めてくれる『ママ』ではない。ズバリと指摘してくれる『クラスメイト』が必要だったのだ。そしてそれをバネに描きまくる不屈の精神と、自己を分析し見直すポテンシャルも同様に不可欠なのである。そこまでして絵を描かなければ、膨れ上がった承認欲求など満たされないのだ。世間はお前のママじゃない。そんなにSNSは生ぬるくない。
思えば、私がパースも構図もぐちゃぐちゃな頃に褒められていたのも、別に私が無条件に愛されていた訳では無い。当時は、下手でも下手なりに工夫や伸び代が見られたからこそ、フォロワーは褒めてくれたのだろう。「描く度に色塗りが上手になってる!」「どんどん自分の絵柄を確立しているね!」と、フォロワーは私の絵と向き合って評価してくれていたのだ。『ママの甘やかし』ではなく、適切な評価だったと、今更になって思う。
もちろん、絵が下手なまま、話が面白くないままSNSに投稿し続ける人はいるし、それが悪いとは微塵も思わない。無条件に認めてくれる存在を求めるから反感を買ってしまうのだ。
そういった面では私も当然未熟者だ。高い評価を得る絵師を見ては、劣等感を感じ、深く落ち込む。予想していたよりも投稿が伸びなければ、反動で承認欲求がどんどん膨れ上がる。だがそれではダメなのだ。自分の絵が認められないのは、そうである理由が存在するはずだ。成長なしに、手放しで褒めて貰おうなど甘ったれた考えでしかない。この事件を通じて私は痛感した。己のいい加減さと、未熟な考えを。
結局、彼女は筆を折るのだろうか。まだ絵を描き続けるのだろうか。私のもとにオリキャラ絵が届けられた時はなんて言おう。当事者の絵師は今後どうなるのだろう。
とはいえ、絵描きはいつでも褒めてくれる優しい『ママ』の存在を、心の奥底では欲しがっている。私も無意識のうちに『ママ』を求めているのだろう。きっと、この甘えん坊状態はいいねの数を気にしている状況ではずっと変わらないはずだ。絵描きとして、早く独り立ちしたいものである。
数日前の自分のレスに元増田からレスがあったので、不要でしょうが書きます。
貴方のことを好きではありません。自尊心を満足させるための道具です。
この行が顕著です。
「そんなのと付き合う優しい俺」に自己陶酔できて彼的に+1ポイント、
貴方に伝えても貴方が別れようとしないぐらい価値のある俺を感じられることで更に+1ポイントです。
貴方にもしものことがあっても、「俺が悪かったよォ」なんて反省して泣きはしません。
貴方の認知を変えることで彼と別れることが出来るなら、私はそれを薦めたい。
ちなみに貴方にもメンヘラである点を差し引いても反省すべき点があるんだろうなと感じさせる行はありますが、それはでも別れてから反省すればいいことだろうと思います。
端的に言うぞ。
別れろ。今すぐに。
ダルイゼンは存在するだけで人間社会に害を成すのかもしれないけれど、彼がそういう存在に生まれたことに罪はないです
それを言ったらコロナウィルスにだって罪はないだろう、と言われそうですが、コロナウィルスには自我が確認されていないのです
もしコロナウィルスに自我が発覚したら、人間社会はコロナウィルスを抹殺するための建前を用意したことでしょう
なぜなら人間が自我を認めた存在を殺すことには建前が必要で、それは何故かと問われれば自我のある存在を無為に殺す行為は道徳や倫理といった人間社会の維持システムに対立するものであるからで、要するに人間のエゴを際限なく認めていたら社会が維持できないからこそ建前を糊塗する必要があるのです
魚類には痛覚があるとも言われていますが相変わらず生でも捌かれていますし、牛も豚も見るからにそれなりに賢いのに屠殺されます
それは人類の生命活動の為には止む無し、という建前への合意が世界的には多勢を占めているからです
つまり、ダルイゼンがプイキュアに倒されたのは「ダルイゼンみたいな存在が在ると人間社会にとって迷惑だから」、という人間のエゴによるものです
それをプイキュア制作陣は「自己犠牲からの脱却/自我の確立と自尊心の目覚め」みたいな意識高い演出で見事に視聴者を欺いてみせたつもりなのでしょうが、私は騙されませんよ
それだと自尊心だけアップしてよくない気がする
「うっせぇわ」という曲が話題らしい。
かなり大きなヒットとなっているらしく、ついには近くのラーメン屋にその音が流れだす始末である。
その時は、
「あのサビの不協和音とかが聞き手にとって良いアクセントになっているのだろう」
と、
音楽素人風情がもやしを頬張りながら感じた程度であったが、どうやらそれどころではなさげな感じだ。
その現状は
・高い再生数
等々々が物語っている。
かなり直接的かつ攻撃的にみえるものであり、厨学二年生的な全能感と痛々しさに溢れているような歌詞である。
大学生の自分ですら「こういった時期あったなぁ」とか少しノスタルジックになってしまった。
歌詞を見る限りは、
いわゆる難関大学を卒業した「社会の優等生」がルサンチマン拗らせてコンプ発症しました
といった感じのシチュエーションだろうか?
もしくは、
あたりだろうか?
嘲罵された、あるいはそう思っているだけの人間」
であるようには感じた。
なんとなく思うのは、
「この曲に気づいてはいけない」
ということである。
内容自体は、尾崎豊やamazarashiなどが
若者の苦しみなどを各々の文学的センスに包んで提供してきた「それ」に類似したもの
かもしれない。
しかし、この曲が圧倒的に違うのは
「汚く品のない歌詞」
とでも言うべきその短絡的表現、そしてレスバトルでのマウンティングのような直接性にある。
「私を見ろ」
と喚いているだけなのかもしれないのだ。
こうなったらどうしようもない。
同じ土俵に立つ(反応する)時点で相手の目的は達成されてしまうからだ。
もし無視しようとしても、あの奇天烈な音階のサビと尊大な発言に否が応でも
「何言ってんだコイツ」
とか
「手前よりまともだわ」
とか
「そんな時期だよねw」
とか
反応してしまう。
しかも大抵は相手にとって嘲笑・侮蔑となりかねない反応である。
共感する人たちからすれば気に食わないものであり、荒れるのは必至だろう。
延焼する野次馬もやってきて、更に注目する人が増える。
そうして「あの子」は色んな人に見てもらえる。
歌い手の方は歌詞のバックグラウンドに共感し、若者として歌ったのかもしれない。
しかし、その歌詞は一般的な「お約束」を踏みにじるかのような逸脱したものだった。
故にたった今、自分たちはこの曲に踊らされている。
ただ、やっぱり動きとか仕草とかを他の人がトレースして学べるようなところがきっとなかなか覚えられなくて、
それで他人に違和感を与えていて、そのことが自分にとって苦しいんだろうな、って思った。
で、支援員の人は仕事でマニュアル通りにやっているだけだけど、支援員も人間。君も人間だろ。
だったら、ちゃんと伝えよう。
確かに所作が普通の人とかけ離れたり、表情の作り方で相手が怯えて、自分でもうんざりしているんだろうけど、
君は頭が悪いわけでもなんでもない。
この社会のありようとこういう種類の人がうまく回っていないだけ。
大昔だったらもっとひどい目にあってたかもね。でも社会はこの症状に寄り添った。十分じゃないけれどね。
きみも努力して伝えよう。
自分はそこまで強い調子で言われなくても大丈夫だと言うことと、
あまり強く言われることで自尊心を尊重されていない気分になって不愉快であることと、
もしマニュアルで注意を伝えなきゃいけないように書かれているなら、少し工夫して欲しいということ。を伝えよう。
積みあがるであろうアーカイブを一瞥して評価されるのが怖いから。
価値のない人間はスルー上等で、それは実に惨めだ。Twitterですらできなかった。
主因として劇詰めされて鬱をやらかした社会人経験からの人間不信が直接的ではあるが、思えば学生時代から空っぽなことを自覚しつつ
何も成果を残せなかったこともビッチリと心臓に根付いてると思う。文字通りクズの根といえる。
素寒貧な俺は提供できるものがないから、0スタートで当然だが、ロクなものが積んでいかれないと思うと怖い。
挑戦も大概無駄なことはこれまでの人生が証明してる。俺の後ろに道はない。
まあただこれもいわゆる「臆病な自尊心」にすぎず、なおのこと自己嫌悪するポイントではある。
そんな現状に即して、ロクな価値を与えられない俺には吹けば飛ぶ匿名が実になじむ。この程度じゃないと心理的負荷が大きい。
而して木っ端のメッセージばかり送ってすでに10年前、ついに30代。本当に何も残っていない。
当然、俺に価値なんてない。
とある界隈のオタクに燃やされた。経緯を少し婉曲して話すと、某アイドルグループの活動支援のために、ファンが主導してクラウドファンディングを行っていた。当初設定した期間の半分程度でゴールし、最終的に目標金額の1.5倍近くを集めることに成功する。
私はそれを見て、「凄いな~、今って結構簡単に集めることができるんだな~」とツイッターで発信する。そのつぶやきが発起人の目に留まった。
「簡単なんて言わないでください。ここまで来るのに本当に大変だったんです」と言いながら私のつぶやきを引用RT。その発起人をフォローしている界隈住民がわんさと押し寄せてきた。
「私達の苦労の何が分かるんですか?」「こういう発言をする人って思慮が浅いのでは?」
見知らぬ人間からの攻撃的なリプライは、その数も相まって狂気的な連鎖反応を生んでいた。
そんな燃えるタイムラインを眺めながら私が感じたのは、「ネットの人間って、怒るときですら感情を押し殺すんだなぁ」ということであった。ファン達が飛ばす敬語交じりの罵倒には、まるで「感情を表に出すことは低俗で醜い人間のやることであり、怒っていても理知的に振る舞うのが大人のやりかたである」というイメージが内包されているようだった。
ただ、どんな時も理性的に喋るのってそんなに素晴らしいことなのか?
ファンたちの怒り方には感情を感じない。リプライで多く散見されたのは、「何故○○だと思ったんですか?(間違ってますよね?)」と私の考えを推し量った上で否定するような文章――あたかも自分達のほうが良識ある大人であり、間違った考えを抱いている相手に、間違いを気付かせたうえで啓蒙するような言葉――である。その言葉に激情はほとんど乗らない。どうやら感情混じりに怒りを発散するのは子どもの仕草であり、忌むべき恥ずかしいふるまいのようだ。
でも、感情を殺して理性だけで語って、いったい何が生まれるのか?
そりゃ個人の感情は排して、客観的な事実やデータを軸にして話した方が正確な発言になるだろう。
しかし、「これが正しくてこれが間違っている」という意思決定には、その人の思考や感情が密接に結びついている。誰かに何かを表明するときは必ず自分の思いを言い切らなければ意味が無い。端的に言えば、感情のバイアスがかかっていない主張など存在しないのだ。
私に落ち着き払って攻撃的なリプライをしてきた人間も、本当は思っているのだ。「あんたがムカつく」「お前が嫌い」という感情が。だけれども、それを表立って発散するのは恥ずべき行為であるから、自分の感情を敬語の陰に潜ませてお気持ちを表明する。そんな回りくどい行為の末に出来上がるのは、言葉だけバカ丁寧な侮辱の文句だ。
「どうしてあなたは○○ということが理解できないのですか?普通は発言する前に考えませんか?」この言葉を聞いて相手が悔い改めると思うのだろうか?何故「私はこう思います」といい切ることを怖がるのだろうか?建前は冷静、本音はぶち切れ。どこの誰に気を遣って天邪鬼みたいな煽り屋をやってるのか?
そして何より思うのは、「そんなに感情を押し殺してまでキレて何をしたいんだ?」という疑問である。
リプライのほとんどは、「自分は冷静です」という素振りをし続けるあまりに、「結局お前は何が言いたいんだ?」と首をかしげざるを得ないものばかりであった。
前述のお気持ち表明ツイートが示す様に、感情の秘匿はクソリプの原因に繋がる。
私のツイートに対して思うところがあるにもかかわらず、それをごちゃごちゃこねくり回してなるべく理知的な発言をしようと考えるから、「AについてBだと思った」という簡単な受け答えすら成り立たなくなるのだ。
そもそも、理知的な人間なら見知らぬ人の発言を捕まえてリプで殴り掛かってきたりしない。それをしている時点で理性も民度も無い人間なのだから、素直に「それは嫌いです!なぜなら~」や「私は違うと思います!だって~」みたいに、感情混じりでどう気に食わないのかを表明したほうが、よっぽど有意義な会話でクソリプも少なくなると思うのだが。
クッッッッッソむかつく。マジでむかつく。絡んできたやつ全員頭おかしいカスの集団。
私は「昔に比べてクラウドファンディングというサービスが発達した結果、カンパや出資が簡単にできるようになった」って言ってるだけで、別にお前らの努力を軽んじてるわけじゃねえよ。そもそもお前らのやってる努力にこれっぽっちも興味が湧かねえよ。
そんなに「あなた達がんばりましたね」って褒められたいんか?「アイドルの魅力によってゴールを達成しました」じゃなくて、「私達の頑張りによってアイドルが活動続けられます」ってことにして自尊心を満たしたいんか?クッソ哀れだなこいつら。結局己が褒められたいだけの自意識てんこ盛り野郎の集まりかよ。
ということで、ここからは特にムカついた「冷静ぶったチンパンジー」を2種類発表していきま~~~す。
「これに限らず、世の中の色んな活動は多くの人の努力で回っているんですよ」
何コイツ?そんなん当たり前だろ。自分が何を言わんとしてるか頭で理解できてるのか?
「お前の軽率な発言がムカつく」ってストレートに言いたいところを、「私はあくまで冷静で賢い人なんです」風を装いたいから、丸めて削って薄めた出涸らしみたいな意見を自信満々に発してくるんだ。
そこまでして喋らなきゃいいのにって思うんだけど、そういうわけにはいかないんだよな。だって心の底は「ムカつく」っていう感情で支配されてて、どんな言葉でもいいからコイツにパンチ喰らわせてやらないと気が済まないって沸き立ってるんだから。根はバカのくせに言葉は意識高い。そんな二層式フィルターに感情をくぐらせて出来上がったのは毒にも薬にもならない薄っっっすい一般論。自分の感情をはっきり喋ることができないなら黙っててください。イラつくので。
企画したわけでも出資したわけでもない完全無関係の人間。ファンかどうかも怪しい。何なのこのバカ?
謝っても炎上が収まらないどころか高く燃え上がるのは、加担してる奴らが「別に怒ってない」からである。怒りの感情が無い人間に謝っても効果はないのだ。
こいつはそれ以上の意味不明な存在、「完全な部外者」である。部外者のクセに倫理とネットマナーを説いてくる筋金入りの不審者。で、お前はいったい私に何をしてほしいんだ?
これも自分の感情を無視して殴ろうとする弊害が生んだ動物だ。自分の気持ちと無関係な行動をするという意味では前述のチンパンジーの亜種であり、啓蒙思想の旗のもと正義感に酔うねじ曲がった人間である。キレるパワーがあるなら金落としてやれよ、いやマジで。
はっきりと感情で言います。あの界隈の住人全員嫌いです。今まで名前の知らなった某アイドルグループまで嫌いになるぐらいムカつきました。二度と姿を見せないでください。
30代を迎えて数年がたち、つい先日、恋人ができた。
20代前半から半ばの間に2人ほどお付き合いした人はいたけれど、
どちらも数ヶ月の付き合いで自ら別れを告げてしまい、
いつも全力で振り切って逃げ続けていた。
こんなんだから、
もうきっと恋人もできなければ結婚もしないだろうと思っていた。
結婚したい気持ちもあるけれど、じゃあ過去に好意を抱いてくれた誰かと結婚できたか?
と言われると、ぜったいにできない。途中でゲロ吐いていたと思う。
これが私なのだと割り切っていた。
しかし、なぜか、ひょいとできた。
ひょいと現れて、ひょいと先日付き合うことになった。
自分でもどうしてこんなに事がスムーズに進んだのかよくわからない。
仕事や将来のことなどを考えるといろいろ不都合なことも多いのに、
一旦それは考えることをやめよう、好きだから。と思ってしまったのだ。
ただ、うれしい。
大事にしたいと思う。素直になりたいとも、思う。
「きっとそこまで好きじゃない」
「好き好きいうのは私らしくない」
「こんな反応を相手に見せるのは恥ずかしい」
つい、そんな風に、恋愛を思いっきり楽しもうとせず、こじらせている。
それが自分の恋愛をよろしくないものにしている自覚はあるので、
なるべく素直になりたのだけれど、どうにもどうしていいのかわからない。
独り身時間が長いので、一人での過ごし方も、寂しさとの付き合い方もわりと上手だ。
でも、「彼女」は、この年齢でもなったことがなさすぎて、どうしていいのかわからない。
彼女なら、こういうときどうするんだろう?私はどうしたいんだろう?
なるべく、自分の奥の方にある素直な感情に従おうとしているのだけど、
(ふだんは奥に行き着く前に妙な恥じらいや自尊心が全力で邪魔をしてくる)
やっぱりどうにもはずかしいし、むずかしい。
恋人でもなんでもない人とのセックスはいつも人任せだったから、
どうすれば相手が喜んでくれるのか、どこにどう触れればいいのかもわからない。
そんな私だけれども、彼は笑って楽しそうにしてくれる。
照れくさそうに、嬉しそうに連絡をくれる。
恐怖に思ったりすることが多かったけれど、
彼に対しては決してそんなことはない。
私は、彼に対してとても安心をしているのだ。
それなのに、私ときたら。
私からの反応は、今まで通りでいいのだろうか?
恋人になったのだから、もっと以前とは違う反応をした方がいいのだろうか。
スキだとか、恥ずかしくてキャラクター以外にはほとんど言ってことなかったけれど、
もっと伝えたほうがいいのだろうか。
でも、あんまりでれると、好いてくれた私のイメージと変わってしまうんじゃないか。
そうやって余計なことを考えては、躊躇してしまう。
何も考えずに、素直に動けばいいのに。
30代だけど、なんて考えずに。
彼は、とても私のことをほめてくれる。
私も、彼のいろんなところがスキだ。
いい関係が築けたらいいなと思う。
でも、自信はまるでない。
友達付き合いなら適切な距離の取り方とか考えることはできるのに
(それが正解かどうかはべつとして)
恋人として距離を詰める方法を考えるのはとても、とてもむずかしい。
でも、大事にしたい。
不手際がありましたらご指摘下さい。
モラハラ、DV、経済的DV(資産を管理されていました)、過度な束縛(友達とはほとんど会えません)、整形強要などなど
当方adhdなのですが、彼は特性=病気のせいにしている、という考えだった為
そういう面での理解も全くありませんでした。
何故一年も付き合っていたのか、私もわかりません。どう考えてもクズだと思います。
そんな彼に、先日急に別れを告げられ、数週間経ちました。
色々なしがらみや、毎日の連絡から解放されたという気持ちもありますが
何故だが涙が止まらないんです。
おかしいですね。
別れた後
君の病気の事をすごく調べた 理解したいと思ってる 付き合って欲しいと言ってくれました。
とてもとても優しい方で、一般的に見ても凄く素敵な男性だと思います。
ブサイクだ、整形しろ、と毎日言われていましたが、この方は会うたびに可愛いと言ってくれるのです。
でも、毎日考えるのは彼。
いや、おかしい。彼はおかしいから、いてはダメだとも思うのです。
彼から離れたい、離れなくては。離れないと、いずれ自分が辛くなる。
例えばこのまま結婚して、子供が生まれたら子供にも暴力を振るいそうだ、そんな人と一緒にいていいはずがない。だけど会いたい。
寄りを戻して欲しいと縋り付いてもいいのでしょうか。
それとも、別の男性に甘えてもいいのでしょうか。(彼のことを引きずっているのは伝えてあります)
何かコメント頂けたら嬉しいです。