はてなキーワード: 実存とは
玉袋が男の娘Vtuberにタマとチン見せろと迫った問題だけど、
男の娘ってのは「少女のような外見をした少年」のことなんだけど、
文字通り、服を着た状態での外見は基本的には少女でしかないんだよね。
「脱いだらチンコあるじゃんで始めて成立するジャンル」であるわけ。
もともと玉袋ゆたかは男性の性的搾取を客体化するために生み出された、
つまり、玉袋の中では「男の娘は男性の性的搾取である」という思想があり、
見た目が「単なる少女でしかない男の娘」は「男の娘」足りえない。
しかも設定でドスケベを名乗ってるわけじゃん。
うーん、このアホ。
いや、すげーわかんだよ。
見た目が女で声が男の子なら男の娘が成立するかって正直すげー微妙なんだよ。
アニメとか見てほしいんだけど、男の子の声って基本、女が演じるじゃん。
コナン君は高山みなみ(女)だし、小狼君はくまいもとこ(女)だし、レントン君は三瓶由布子(女)なのね。
つまり非実在少年少女の世界において男の子の声ってのは女の声と何ら区別がない。
外面が女で中身も女だったらそれはもう男って主張してるだけの女じゃん。
だから結局「男の娘」が「男の娘」足りえるのはチンとタマが存在することが確認できた時だけなんだよ。
なので、俺は玉袋の
「男の娘」を名乗るんならシュレディンガーのチンとタマを明確に実在せよ
そのほうがえっちだし興奮するじゃん。
今Vtuber業界で最も知名度がある男の娘は「犬山たまき」になるんだけど、
彼は「18cmのバベルの塔を所持している」と公式設定にて明言されている。
なので俺は犬山たまきは男の娘Vtuberであると断言できる。
実際に演じているのは女であるのがわかっていても、だ。
世の中のすべての男の娘はチンとタマの実存を明言する必要がある。
男みたいな声の女。
女みたいな声の男。
ちげーんだよ。そんな口だけの足りねーんだよ。
いや単に今流行ってるVRがnot for meだったってだけの話なんだけども。
もうちょっと詳しく言うと、VRっていって俺が思い浮かべてたのは映画のマトリックスとか、一昔前のなろう小説によく出てきてたVRMMORPGとかみたいな、自分の体は動かないままで意識か何かだけを仮想現実の世界に没入させて、普段の自分ではありえないような身の軽さやなにやかやで色々な世界を楽しむ、って物だったんであって、自分の動きを他人に見せたいわけではないんだよなぁと気づいたという話。
ということでここより下は単なる確認なので特に読む必要は無いです。まぁここより上も読む必要は全然無いけど。
今日見かけたニュースだけでも、VRというと例えばこんな感じのニュースが出てきてた。
これらはVR世界における自分をよりよく見せる方法として、現実世界の自分の動きを取り込む形の技術だ。
つまり、カッコイイ動きでBeat Saberをクリアしたいなら自分がそのように動かねばならないし、可愛く首を傾げながら瞬きしたいならJINSのメガネをかけてそのように動かねばならない。
いやいやいやいやそうじゃないでしょ。俺はベッドに横になって頭の中だけで体を動かすとSAOのキリト君みたいな超絶スゲェ剣技が繰り出せるってのがやりたいんだよ。Devil May Cryみたいにコントローラをそれらしく動かしているだけでキャラクターとしては超絶スゲェ動きでバッタバッタと敵をなぎ倒している、みたいな事がしたいわけ。俺のクソみたいな腕の動きやら瞬きやら首の傾け具合とかを他人に見せたいわけじゃないんだよ。カッコイイ動きやかわいい仕草は俺がやるんじゃなくてシステムがやってくれないと駄目でしょ。
いやまぁわかるよ?デビルメイクライみたいなテキトーにコントローラをガチャガチャやってるだけでもそれなりにカッコイイ動きができるようになったとしても、他人に見せる事が前提になった途端に俺のような下手な奴よりも上手い奴のプレイの方がさらにカッコイイ事になるっていうか、そもそもそういう上手い奴の超絶プレイのプレイ動画は見られるだろうけれど俺みたいな下手な奴のプレイ動画は見られることはないって事は。でも俺は俺が体感したいだけで他人にそのプレイを見せたいわけじゃないんだ。単に俺がカッコイイと思うプレイをして、俺が楽しめればそれでいいんだ。
また、VRは仮想空間に自分が入っていくという体験が重要で、今のVR機器は目の位置と方向が現実世界の顔の向いている方向と一致していることや、手に持っているコントローラの位置が現実世界の手の位置と一致している事が没入感を与えているわけなので、その動きを無視して動かれると酔ってしまったりするって問題があるのはわかる。
でもさー、やっぱり俺が妄想してたVRってなんかそうじゃないんだよ。運動なんて全然やってない俺がゲーム内のキャラみたいにカッコイイ動きやかわいい動きができるわけないっていうかそれを俺がやってどうするんだよ。そういうのを実際の体をつかってやらずにレベルを上げたりアイテムを手に入れたり、訓練するにしても指先の動きでなんとかするだけでできるようになるのが楽しかったのであって、やっぱり俺が実際の体を使って表現したかったわけじゃないんだよ。それができるなら現実世界でもやってるよっていうか現実世界ではできない動きがしたいんだよ。現実世界での動きに縛られてどうするんだよ。
そういう方向では例えばゲームセンターにあるガンダムの戦場の絆みたいな奴はそういう方向っぽいよな。あれはモビルスーツのコックピットに入ってモビルスーツを操縦するって事になってて、それっぽい操作でそれっぽくモビルスーツが動いてカッコイイ攻撃とかを繰り出してくれる。
VRでやってるそういうのだと例えば最近やったのではIRON REBELLION(https://store.steampowered.com/app/1192900/IRON_REBELLION/?l=japanese)てのがあるんだけど、これは指先だけでメックの移動と攻撃ができるのでカッコイイ攻撃とかをやってくれて良さそうかなーと思ったけどすっげぇ酔うのよ。俺は10分位耐えながら遊んでその後3時間位は気持ち悪くて何もできなくなった。
なので、少なくとも現時点で存在しているVR機器を使った場合、俺の思ってる事をやろうとすると酔うって問題があって難しいだろうなぁというのは身にしみてわかっているというかわからされてる。なのでしょうがないんだろうなぁという感じ。
それで、そういう俺の思ってる事はやりづらいVR機器を使ってできる事で、楽しんでる人がいっぱいいるのが多分冒頭に挙げた「自分の動きを他人に見せるための仕組み」の方向であって、そういうのは俺が望んでいる方向ではないのだけれど、俺の望んでいる方向の物は現在のVR機器ではまぁ難しいだろうなぁというのはわかるし、その現在のVR機器で楽しんでる人達のための技術が色々と出てくるのは当然だしそういう方向にしろ発展していく事は喜ばしいと思う。どんどん進んでくれると良い。
けどなー。俺の期待してたVRってそうじゃないんだよなー。ということで、少なくとも現時点でのVR機器にまつわるあれやこれやってのはnot for meなんだなーと思ったよって話でした。まる。
yas-mal
「クレームが来たから、事なかれ主義で屈しました」ってことだよね。
「表現の自由」の観点で一番ダメなのはどう考えたって圧力掛けて委縮させた側だと思うんですが!
「はてサ」って言ったけどここまでくるともう絶対この人サヨクでもなんでもないよね。
なんか別の思惑か党派性で突き動かされてる人だと思う。
とか言って三点リーダーや句点多用してなんかポエムっぽく言ってるのも本当に気持ち悪い。
nandenandechan
警察が動画を何も言わずに削除した事がVTuberと議連の対立を助長した。
「不適切ではない」という判断なら突っぱねれば良かった。議連に反対が多かったから解決ではない。訂正:千葉県警は返答済。削除理由は明言無し。
そんな責任転嫁ある?w
議連もあんた方もvtuberの立場なんか一ミリも考慮せずにぶっ叩いてたじゃん。
何を警察のせいにしてんだよ。
あの動画自体を問題視して「性的偏見」や「性犯罪」を助長誘発するものだとしてる。
警察の判断がどうあろうとフェミ議連はあの動画やvtuberを社会にあってはならんものとして攻撃してるよ。
まあそのとんでもない動画は無事NHKの報道でモザイクもなく全国に流されたが。
権力者に圧力掛けられて削除したあと「動画の内容には問題ない」と声明出してたら
削除理由についても答えてるようなもんだろ。わからないふりしてんじゃねーよ。
なんでこの件ではどこまでも権力者に甘く、公務員や民間人に責任を擦り付けようと必死なんですか?
あと「議連に反対が多かったから解決ではない。」は議連が民主主義に支えられる市民の代表であることを無視すればその通りだが、議連が自分達の主張を放り出して逃走一辺倒な時点で終わりでしょさすがに。ちゃんと議論に応じて性犯罪誘発の根拠とか出してほしかったけど、一切踏み止まらずに逃げたじゃん。おかえげで何の益もない騒動でした。こうなると全ての責任はフェミ議連と手下の表現規制チンピラ団にしかないよね。
って言い方も糞だわ。
フェミ議連(やお前ら表現規制派やオタクヘイター)が一方的に絶滅作戦仕掛けただけじゃん。
抵抗されたり劣勢になったりしたからって「対立」とか言って相対化しようとしてんじゃねーよ。
いじめを糊塗しようとして「喧嘩」っていうゴミ教師と同じぐらい卑怯じゃない?
圧倒的に強い子が一方的に殴りつけて楽しんでたのを「喧嘩」っていう?
こいつさりげなーく在日コリアンを前に持ってきてなんとなくやる側っぽくしてるのも非常に繊細で姑息な操作だよね。
もうほんとこういうの見てるとサヨクでもなんでもないよね。ただの党派性亡者。
大体今回のことはフェミニスト議連が自分達の主張を支えることすらせずパニックになって逃げた時点で掃討戦だと思うけど
そこでターゲットをすり替えたくて「警察が悪い!」「警察を叩かないと変わらないぞオタクども!」って喚いてるんだよね?
あなた達が「NHKですら気にしない動画に謎の基準で吠えまくってたウルトラノイジーかつ独特の価値観をお持ちな特定集団」なのは
もうネットにもお茶の前の世間の皆さんに広く伝わってると思うんだけど。
今やってるそれダメコンにすらなってないよね。
になってるじゃん。
ここで「警察が悪い!」「警察を叩け!」って吠えるの頭悪すぎない?人狼めっちゃ弱そう。
ていうかさ、自分がなんか中立的立場のように見えてると思ってる感じだよね?
もう誰が見ても「見苦しい表現規制派」「めっちゃ卑怯なフェミ議連のめっちゃ頭悪いファンネル」丸出しになってるんだけど。
オタクヘイター丸出しなのに「オタクは警察を叩かないと!」とか言ってターゲットコントロールしようとしてるの(誰も言うこと聞いてないけど)も
そうだったらあまりに異常者だけどそう考えないと説明つかない振る舞いが多い。
いまや表現規制側のトップコメントがこういう見苦しい「ボク中立派だけどみんなで警察叩くのがいいと思う!」的断末魔なの
つまり規制したい欲の人達は最終的にこんな遠吠えしか思いつけなくなっちゃったってことだよね。
なら提案なんだけどさ、もう一生黙ってたらどうだろう。この人らの言論てなんの役にも立ってないよね。
誰のことも啓発してないし「表現規制派って恥知らずなバカだなー」ってなって党派的にもマイナス点稼いでばっかだし
一日何時間も掛けてこんなお粗末な着地点しか取れないなら自分の人生の無駄遣いだと思う。
どうかなあ。
はてサの人は今回の自分のログとか消費時間とか戦果とか振り返ってどう思う?
人権のために戦ってるとかならまだしも
・アニメ調の絵が社会に増えたことに適応できないおじさんおばさんのアレルギー
・若い頃のオタク差別の味が忘れられないおじさんおばさんの既得権死守闘争
じゃんいまあんた方がやってるの。
アニメ絵の女の子の表現を狩ったって(狩るのにすら大失敗してるけど)
頑張るのそこじゃないんじゃないの。
レイシズムに限らず全ての差別構造の根底には、無知がある。それは「自分の所属しているグループが特別に素晴しいものだと主張」していることに他ならないから。
要するに知性がないからレイシズムを実施する。科学を表層だけさらうと「分類」が出来るような気がするから、それに従って分類をしはじめる。本当の意味での知性があるとこの世界に境界線なんてものは本質的にないことがわかるから、レイシズムを実施できなくなる。
この意味での境界線の主張は平和主義ではない。個々人を隔てる絶望的な境界線以外にこの世にそれはないという主張である。レイシストは知性が乏しいだけではない。要するにこの世界にたった一つの実存としてすっくりと立つ覚悟がないほどに幼稚なのだ。自身はなにもせぬままで、誰かと何かを共にしている幻想に縋っている。
たった一人、裸で生まれて、そしてそれをスタートに他者と生きていく覚悟のない幼稚で無知性な人間の言い換えがレイシストであるのだ。
君は国に属する人間ではない。君は君だ。君であることが最初にあり、その上部構造や共同幻想として国家は浮かんでいるだけだ。そこに自身のアイデンティティを一欠片でも依拠するのは弱者ですらなく、幼稚で知性に乏しい愚者だ。国家とは制度の総体である以上、それは制度以上の意味を持たない。そこに意味を見出そうとするのは、たとえば恋心のような下らぬ幻想である。
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
ホームレス死ね発言でメンタリストDAIGOって奴が絶賛炎上中だが、意識高い系不労所得民なんて生き方してる奴のテンプレみたいなもんだ。
10年前にその一歩先のホームレス殺人を唱導して名を馳せたAutomatons Hacking Guideというはてな日記があった。
ブロガーは「華殉」というビジュアル系っぽい名前を付けた自称東大卒国内一流会社勤務で大学院に通う20代後半という設定の男性。平成初期のトレンディドラマの設定みたいな生活をする人がこの世には居るんだね。
「Automatons Hacking」のAutomatonはオートマタとも言い自動人形のこと。原爆とコンピュータの父、ノイマンが提唱したセル・オートマトンという概念があり、これはそのままライフゲームのアルゴリズムなのだが、フランス現代思想が流行するとこれら情報科学の概念を借用してこねくり回す議論が流行した。
その過程で個人を特定アルゴリズムを持って社会的活動をする自動人形と扱う社会学的手法などが出来た。この辺まではAIの自動学習のベースでもある。
するとこれが人文系に逆輸入されて罵倒や見下しに使われるようになる。自分で考え経験してアップデートし続ける人生を送る人間じゃなくて、与えられたアルゴリズムに社会的入力(引数付き関数)を与えると安定した反応を出す人形として扱う。それは群衆のアナロジーでもある。群衆に属さず上から俯瞰する観察者が自分だ。だから「俺は他の大衆とは違う」と思いたい意識高い系の若者はこのソーカルにコケにされたポモの概念無断借用的な考えに靡きやすい。
ビジュアル系みたいな名前でトレンディドラマみたいな生活を送る華殉は人文家ポモの薫陶を受けている事が判るね。
ハッキングはコンピュータハッキングの事だからこのオートマタに普段の処理とは違う入力を直接与えて愉快犯的に恐慌状態にしたり自分の思うままに操縦する事を表す。
おや?メンタリストっていうのに似ているね。やってる事も知的スノッブの基礎もフォロワーを釣ったり釣られたりする部分も。
オートマタハッカーを名乗る華殉だったがかなり誠実な性格だった。自意識に。
実存の強さ、自意識の高さ故に「群衆の俯瞰者」に惹かれるのであるから自意識に誠実なのはありがちだ。
例えば
・批判されてメタから見ている姿勢は崩さないが相当数のレスをする。
・「安全地帯から言うだけで実際には殺せないだろう」と挑発され熱くなり「自分は実際ホームレスを殺す」と言ってしまう。
・ブログ副題に「〇〇劇場」と書いていたのだが、ホームレス殺人エントリなどで風呂無駄氏にはっきりと拒絶を受け、直後に外してしまう。
・Twitterで「痛い」ツイートをした直後に「ちんこまんこちんこまんこ」というツイートを十数回して流す。
そういえばメンタリスト君も動画の炎上コメントを数百個削除しているようだ。コメントが数百になると閲覧も大変なのに熱心だよね。
華殉はそもそも最初はgoogleの開発がどうとかアップルの製品哲学がどうとか、ニーチェの超人がどうとか、今では意識高い系のテンプレみたいな事ばかり書いていた。でもPVが伸びなかった。そこに「ホームレスの人権なんて行使される事も無い状態だろ」佐川ニキ「ホームレスに人権無いとかいい年してバカじゃねーの」という誤解みたいな論争があり、そこにホームレス殺人エントリで割り込みPVを浚ったのであった。
こんな華殉だったが最後はギーグ精神論的なものにシフトしてフェードアウトしていった。ホームレス殺人や偽善批判などの挑発的エントリから手を引いた理由は増田が見たところ以下による
善への挑発をしたらはてなのリベラルが直情的にひどいと吹き上がる反応をする事を期待していたがネットには宮勤め以外の人間も居り特に不良の経験を持つ人間は喧嘩慣れしている。更にポモ以前の思想の素養がある人間は同系の人間の実存をむき出しにして効果的に怒らせ誘導する術を持つ。これらによって「劇場」が状況劇場になってしまい、実存を開陳しすぎ、刺さり過ぎた。思想系の人間が実存の剥き方を知っているのは自分がその動機(実存のカバー)で思想なんてものに惹かれているから。
・自分への賛同者に底辺のテンプレネトウヨみたいなのが多かった。
ニーチェ援用したりしてるのにルサンチマンで歪んで挑発されると安定した出力する連中に擦り寄られたら立場が無い。というかなまじっか思想なんてやってるので羞恥心で「あ゛あ゛あ゛ー」となる。同意されて懸命に距離を取りたがる姿は侘び寂びが漂っていた。でもこれは華殉も悪くて過去エントリやTwitterではテンプレ的なデマや「自分の税金が外国人の生活保護に吸われて」みたいなテンプレを良く書いていた。そもそもそれってニーチェのルサンチマンそのものじゃね?
子供の主体にとって世界は暴力であり規範を強制してくる装置だ。特に「若者」になり大学や院に進むと知で征服した自分の世界と隷従を求められる外の世界の格差は大きくなる。オートマトンハッキングとメンタリストの行動が似ているのは共にこの需要を相手にするものだからだ。
仰りたいことはよく分かりました。
おそらく反論しても平行線だろうと思いますので、それは控えます。
あなたに対する反論ではない部分については、やはり私が看過できないと感じたのは氏に対する一部の、批判の言葉遣いです。
あの連ツイから「ミソジニーを垂れ流している」「女性蔑視発言である」と断言するなら、やはりそれは誹謗中傷だろうと。そこだけですね。
それらの批判は、ジェンダー論の教条性というか、もはや不正義、アンフェアとも言ってよい側面を露呈してしまっている。
「その女性がキャリア志向であったかについては、ジェンダー不平等の観点から保留すべきだったのではないか」というトーンの批判が大半を占めていたら、私も増田に長文をものすようなことはなかったと思います(そこで氏の目を曇らせてしまっているのが、まさに富裕層へのルサンチマンなのだと思いますが)。
もちろん一般的にミソジニーや女性蔑視の存在を認めないというのではありません。例えば先日の中世史研究者の件については、まさにミソジニー/女性嫌悪に基づく、事実に基づかぬ誹謗中傷があったと思います。
話は変わるのですが、なんとなく共有したいなと思ったのですが、今回本件に絡むブックマークコメントを眺めていて気になったことがあります。
それまでジェンダーに関する問題について、毎回フェミニズムの論理でかなり強いコメントを寄せていた方が、今回は完全にオッカム氏の擁護に回っていました。同様の方が、他にも数名散見されたように思います。
その方らがなぜ氏の擁護に回ったのか、コメントから察するに、本人の現況と合わせて氏の「衝撃と畏怖」の方により強い共感を示されていたものと思われます。
で、私も最初から感じていたことですが、今回の件は「階級」と「ジェンダー」がかなり鋭く対立する案件だったのでしょう。氏が繰り返している「衝撃と畏怖」というのは、階級の話ですよね。
ジェンダー的に見逃せない観点が一方にあるとしても、同じようにというか、少なくともオッカム氏ら本人は大変切実な問題として、地域差などから派生する「格差」を実存的問題として抱えている。
(確かにそれを語る時に、人文系の学者として、それこそ言葉遣いに気を付けるべきというのはその通りだと思います)
ただ当人たちからすればそこは無視できないし、おそらくジェンダー的な問題を回避して、そのことに触れるのは難しいのだろうと思います。
欧米のパワーカップルの問題は、階級やエスニシティの面から、例えば代理母や移民メイドという形でフェミニズムでも古くから問題とされてきましたよね。
実存性のこといってるんだけど