はてなキーワード: ボーダーレスとは
特に信者、作品についての苦言(軽蔑するという、作品を滅す訳でもない文言)に対してやれ「○ね!」だの「自殺しろ」だの、何の権利があって殺そうと考えるんだ?
なんでそっとしてやれねぇんだ、人が意見言っちゃいけねぇのか?
(想像してみてくれ、もし自分の子供が自殺した後に見ず知らずの垢から自殺しろと大量のリプが来る事を)
誤って告訴してしまってその前の事を忘れがちだけど非人間化の一環だよな、生存権の侵害だ俺なら狂ってしまう
それと紅白、なーにがボーダーレスだ、放送枠と広告ばっか優遇されてる「推しの子」ばかりゴリ押ししてて、他の作品呪術しかねぇよ、アレか?
他のTCGでは様々なゲームやコンテンツとコラボすることでオリジナルカードを作る傾向があるけど、遊戯王はそういうのが殆どない
ここ数年、パワプロやココスとかとコラボしているけど、実はこういう取り組みは遊戯王では超レア
権利の問題か不明だけど、過去カードの再録をしてもカードイラストはほぼ変わらないのは謎
ブラックマジシャンなどの定番のカードでイラスト違いは散見されるが、それ以外は滅多にない
ストラクチャーデッキは再録カードが定番だが、そういうのにこそ有名イラストレーター書き起こしなんて要素を追加するチャンスなのにまるでしない
閃刀姫のイラストで増援が再録されると聞いたが、逆に言えばこんな定番のカードですら20年以上イラストが変わっていないってのが随分珍しい
これもイラストに近いけど、遊戯王はあの正方形のイラストにちょこっとだけついてる効果テキスト枠という形を全然崩さない
他のTCGだとカードの縁までイラストがあるボーダーレス版というのはド定番だし、テキスト枠も変幻自在
MTGだと時々コストやテキストの表記まで変えた、もはや別のゲームだろこれってデザインの限定カードを作ることがしょっちゅうで、遊戯王が一貫してこのスタイルなのはちょっとストロングすぎる気もする
通称みどりパックという期ごとの最初のパックから出てくるカードは、大抵棒立ちのクソださモンスターだったりする
モンスターの背景も安っぽいし正直このイラストで金とんのか~ってのは多い
もっとも、魔法罠で背景世界を語ってるから問題ないってことかな?それにしたって他のTCGみたいにバリバリカッコいい豪華絢爛なモンスターって少ないんだよね
まあアニメに落とし込む関係なのかもしれないけど今はOCGのアニメやってないしな
ここ10年くらいは背景がマシになってるとはいえ、やっぱり棒立ち感は否めない
躍動感が足りんのよ
これは20年以上言われ続けているけど、貫通効果などを能力語として短縮するってことをしないのはかなり珍しい
ラッシュデュエルでやってるからいいんだろうけど、本家のOCGがいつまでも「守備モンスターを攻撃~」って書いてあるのはモダンTCGしている人からすれば冗長すぎないかな?
これは人によるけど、せめて能力語をまとめる形の総合ルールを作ってほしいな
これも人によるけど、遊戯王は全パック全カードの中で禁止制限以外を使ってデュエルするので、常にインフレが指数関数的に増大している
スピードデュエルとかあるなら、直近3年以内発売のパックのみのレギュレーションとかあってもいいんだけどね
いまさら感あるけどなんで今までそういう試みがされなかったんだろうね
カードゲームって背景世界があってそこの登場人物をカード化しているってことがよくあるんだが、遊戯王はその背景世界が表に出ることが滅多にない
アルバスの話とかDT世界とか、どう考えても開発側がストーリーラインに沿って作ってるものは多いんだけど、ぶっちゃけ匂わせでしかない
公式設定を出したり後で書籍内で触れることもあるけど、こんなに長いゲームで背景世界が散逸しているって普通に勿体なさすぎる
人気キャラやストーリーの詳細な設定資料集を出せば確実に売れる
漫画でいう登場人物の過去回想やスピンオフみたいな取り組みを別の媒体とかでやっていておかしくないんだけど、なんか遊戯王ってやらないよね
閃刀姫やアルバスを使った短編アニメくらいは作れるはずなんだが
まあMDで軽くストーリーに触れている当たり、やれば人気出ることはわかってると思うんだがね
全体的に遊戯王って古臭いテイストのイラストでバージョン違いも少ないっていう、時代に取り残された印象が強い
良い言い方をすれば、いつまでも変わらないから引退勢にも嬉しい(易しいとはいってない)
他のTCGがゴチャゴチャシテいるってのはまっとうな意見だけど、それにしても遊戯王の変わらなさって凄いんだよね
まあ変わらないからこそ生き残ってるのは確か
ビルボードに対して「権威」を求めてるんだけど、ビルボードの中の人が「権威」を持たないって表明してて笑う。
多分ビルボードとしての方針(ビルボードの中の人の考えが同じなら)はチャートを通じた音楽の紹介なんだと思ってて、そのためには多様性をもたせることが必要と考えているのなら、ファンの力で上位にできないようにすることは理屈が合うし、洋楽と邦楽をボーダーレスにするみたいな発言とも合う。
そこに「権威」を持ってしまうとそれこそレコ大の買収疑惑みたいなことも出てしまう。
それに対してチャートアナライザー氏は「権威」を持つべきだと言っていて、これはビルボードにグラミー賞のような「競争」する場、もしくは「表彰」の立場になってほしいということだと思う。
近いのは韓国の歌番組のようなものなのかもしれない。ファンダムや運営が頑張って推しを1位にさせるために施策や空回しを頑張る、そんなチャートになる。
そもそも結婚が子孫を残すためとかセックスするためとか二人の社会的な関係とか恋愛とか合意とかの話ではない
結婚はそれぞれお互いの血筋の一族に組み入れられるという事 家系に加わるということ
なにそれキモいありえない全世代的といわれるのはわかってるがそういうもの
そういうものじゃないってのなら結婚しないと子孫が残せなかったりセックスできなかったり社会的地位で夫婦というのを利用したことがどれほどあるのか恋愛ありきなのかって言われたらないでしょ
家系に加わるのは養子縁組でもいいじゃんって話もあるよね いいじゃんって思うよ
なんで二人の関係性のトロフィーのために結婚なのかっては思うよね 親子や兄弟姉妹じゃ見栄えがよろしくないからだよね
恋愛もできてセックスもできてしかも子供をつれても見栄えがいい関係が結婚しかないからだよね
むしろ夫婦の絆よりも兄弟姉妹や親子でつなぐ関係性のほうが多いでしょ いまどきはその関係性すぐないがしろにするからありがたみがないと思うけど
これで血縁者と結婚がなくてもいい理由がわかるよね する意味がない すでに家族だから
家族のなかでも親密さの等級をあげたい みたいなのは知らんから適度にあげればいい そのなかでもトロフィーとして結婚がいいんだろうね
同性婚はそういう意味では家をつなぐのに兄弟姉妹にするのか セックスとか恋愛ありって関係で結婚にするのかって意味で「同性での恋愛やセックスの認め方がわからない」から現状OKってはならないんだろうね
もっと同性のトイレや入浴で性的な被害にあうかもとかそういうボーダーレスな状況に慣れないとその発想にはついていけないんじゃない?
そうでなければ血縁関係を法的に結んで社会的にめっちゃ近い位置になればいいだけの話
Windows10、デュアルディスプレイ環境で実現したいことがあってあれこれ試行錯誤してるんだけれども、いまいち良いソリューションが出てこない。
・セカンダリモニタにメインモニタのタスクトレイと同じものを表示させたい
・アプリケーション起動時、セカンダリモニタにウィンドウが最初から立ち上がるようにしたい。できればアプリケーションごとに個別に設定したい
Windows 10 pro
デュアルモニタ環境(メイン2560*1440 サブ1680*1050)
主にFPSゲームをボーダーレスウィンドウかフルスクリーンでメインモニタでプレイしている。
あとは普通の人と同じようにネットサーフィン。たまにOffice。
Discord・Origin・Steam・TeamSpeak3・Epic・Tweetenを常時起動していて、サブモニタ側に配置している。あとはChromeをメインとサブに1ウィンドウずつ。
メインモニタでフルスクリーンでゲームをプレイしていると、タスクトレイのDiscordのアイコンが見えず、誰かに鼻息を配信していないかが分かりづらかった。オーバーレイもすべてのゲームで出るわけでもない。
調べると、サブモニタにもタスクバーを表示させてそのままメインモニタのタスクバーをドラッグしてサブモニタのタスクバーと交換すると思っていたことに近いことが実現できた。
とはいえ普段自分の目はメインモニタにあるので、やっぱりメインモニタの右下にもタスクトレイが欲しい。そしてこの問題に行き当たった。
アプリケーションを起動したときに必ずメインモニタで立ち上がるのが地味に面倒くさい。
Steamのウィンドウをタスクバーピン留めから(起動ではなくタスクトレイ待機状態から)呼び出したとき、メインモニタにウィンドウが出現する。それなりの種類のアプリケーションをわざわざ左にドラッグするのは面倒くさい。
ちなみに、以前のDiscordだけはスタートアップ時にきちんとセカンダリモニタで立ち上がってくれた。今はどういう理由かスタートアップ自体しなくなって、手動起動時にWindowsへの変更のポップアップが出るようになった。そしてウィンドウはメインモニタに生まれ出る。
少女漫画に限らず女性作品は、なんであんなに人間関係のことや人間の心の繊細なヒダを丁寧になぞるような話をやりたがるんだろうね。
って、まさにぴったりくる表現だわ。
人と人の心の繋がりみたいなものに、そんなに興味あるかね。
それよりも、俺とアイツでどっちが強いか、アイツに勝つにはどういう策を練ればいいかを気にするわって感じ。
心理を気にするにしたって、たとえばギャンブル漫画の心理戦で相手をコントロールするのとか、デスノートで月がミサミサの恋愛感情を利用して敵に勝つ策を練るようなシーンは面白いけど、女性向けの心理描写はそういう権謀術数戦闘道具としての心理じゃなく、仲良しのための心理だから別物である。
「典型的な男」にとって「典型的な少女漫画」はつまらないってのは、人間関係に興味が薄い読者にとって少女漫画は人間関係描写のウェイトがデカすぎ、ということなわけ。
バトルを通じた強い弱いも広義の人間関係だとツッコミがくるかもしれんが、今はそういうゴチャマゼな話をしてるんじゃないからな。なんでもボーダーレスにすればいいってもんじゃないのよね、少女漫画専門ファンが格闘バトル漫画を読んだって、「強い弱いやその悔しさが人間関係のうまみになるのは分かるけど、日常生活でそういう屈託をやってほしいわぁ。この作品は楽しんだけどメイン趣味は少女漫画だわ」ってなるだろ。
これはインターネット学級会が疲れるみたいな話や、女オタクにとって同人活動は社交の場という面がデカいからオシャレさんも多いけど関係トラブルも多いみたいな話にも繋がってくんだけどさあ、ずっと人間関係やってく気かよ~?
まあ、人間関係をやってきたい人がやっていくのは個人の自由ではあるけどさ。
こう考えてくと、女にも少数いるだろう「典型的男」な感性で人間関係に興味が薄い奴は、クッソ生き辛そうだよな。この文章も分かりやすさ重視で「典型的男」という言葉を使っちゃうくらいだから、人間関係に興味が薄い女は自分を簡単に説明する言葉を準備するのすら苦労してそう。
最近は男オタクも、泣きゲーや君と僕のセカイ系など人間関係作品を経て、関係性が尊いわ~~とか言って女オタクっぽい感性に接近してる層も目立つって? それは部分的に頷こう。
だが少なくとも、少女漫画はあんま読んでないがぱっと見面白くなさそうだぜ少年漫画とかバトル漫画ギャンブル勝負漫画が好きだぜってタイプは、人間関係に興味が薄い「典型的男」だ。
そして、人間関係に興味がある人間の方が絶対的に上等ってことはないだろ。
にもかかわらず世の中には、強い弱いのバトルをやりたがる男は幼稚でダメね~みたいな風潮がある。
被害者アピールはあんましたくねえけど、少年漫画好きがときおり少女漫画に噛みつくのは、世の中に少年漫画sageと「典型的男」sageの雰囲気があるから、普段は『男らしく』黙って我慢してるけどたまにはバトル始めてみっかてことだと思うわ。売上(戦闘力)みたいな数字を出しがちなのもいかにもバトル漫画好きからのアプローチっぽくていい。そのバトルに付き合うか否かは勝手だけど、トラバ先の増田氏に対して「日本語読めてなさそう」みたいな反応する奴はバトルする気マンマンだよな。
それにしても、「日本語読めてないだけじゃん。これじゃ少年漫画も読めてないだろ」とか言ってるブコメなんかは本当に人を馬鹿にしてるわ。
俺はこの増田の実際のところはしらんけど、それこそデスノ、カイジやアカギ、ハンターハンターみたいな、戦いのための策略を延々文章でやってるのは楽しく読めてそうな雰囲気は端々から出てる。それも読み取れず「日本語読めてない」とはホント馬鹿にしてる。
ま、とりあえず、「人間関係や人間心理に頓着したがらない典型的男性(身体男性とは限らない)」に、読まず嫌いなだけで少女漫画は面白いんだよってすすめたい時は、人間関係をあまりやってない少女漫画を選ばないと響かねーよ。
二次元キャラの人間関係が趣味なのも、芸能人の人間関係が趣味なのも、ご近所さんの人間関係が趣味なのも、人間関係フェチって意味じゃみんな一緒。
キャラの人間関係やクソデカ感情に興味深々なのは、ワイドショーの芸能人交際報道やご近所の噂話でキャッキャするのとおんなじ人間関係フェチ。
強さフェチと人間関係フェチ、どっちが人として上等かは自明ではない。
精神医療的に適切な発言じゃないが、「典型的男」はうっすら自閉スペクトラム症の要素がある強さフェチで、「典型的女」はうっすら境界性パーソナリティー障害の要素がある人間関係フェチみたいな感じ。
優しさや気遣いはくだらないとみなし、目的のためにストイックで自分も他人も傷つけても構わないマシーンみたいな姿を格好良いとするのが典型的男向け物語だもの。(ってのは言いすぎか)
エロ漫画ですら、メスガキに負けてザーコザーコ💕って言われるか大人ちんちんで上下関係をわからせるか、間男にNTRれて負けるのかNTって勝のか、勝ちヒロイン負けヒロインは誰かみたいに強さ弱さ概念が自然に出てくるし、そこにおいて愛だの恋だのは添え物なのだ。SEXはメイクラブじゃねえ、デュエルスタートだ!
2ちゃんの女人禁制の風潮って、女が嫌いというより女が好きすぎたから発生した部分があると思う。
「俺たちオタクどもは女の子と普通にスレで話してると好きになってアイドル扱いし始めて揉めだすから、女ッ気を出す奴は排除しておかないとヤバい」という危機感な。
酒がマズいから禁じるのではなく、人間は酒を好きになりすぎるから禁じるのだ、ってこと。
匿名だし好きになるとかねーだろなんて言う奴は匿名掲示板慣れしていない。文体から個人認識されて好かれたり嫌われたりはある。半コテって概念もあるし。
でも、今のネット創作者みたいな、読者から好かれるのは歓迎な環境だったら、男も女も自画像を女っぽくするのは当然なんだよな。
推し活みたいに、アイドル扱いして盛り上がるのは全然悪くない、むしろいいこと、みたいな文化にすらなってる。
作者と切り離して作品を評価してほしいって人は自画像を女じゃなくしてることもあるけど、それは少数派。
そもそも匿名掲示板でも、スレに絵をアップする奴は女だと明言してても多少叩かれ率が低かった気がしなくもない。
スレ絵師様というだけでそこそこアイドル視されるし、スレ民のオタクどもも「俺らがこの人に優しくするのは女だからじゃなく絵を描いてくれてるから」って大義名分が発生して堂々とチヤホヤできるから、女を名乗ってても叩かれなかったんだろうな。
昔っから、ネットでもリアルでも、女の方が好かれるのは変わってないんだよ。
でも昔の匿名掲示板は、女人禁制の空気を作りあげ、コミュニティが女にというか色恋に溺れることを防ごうとしていた。
でも今はボーダーレスになった。
注 この文章は『疾風!アイアンリーガー』を第十三話まで鑑賞した人間が書いています。
『アイアンリーガー』というアニメを知る人ならば、この「初見人」の慟哭の意図を察してくれるに違いない。
これを呟いたのが、学生生活の記憶もとうに色褪せ、メディアを賑わせる人々が自分よりはるかに若いことに日々愕然とするようになった齢の人間であり、かつ令和の時代に『アイアンリーガー』というアニメを初めて目の当たりにし、そして今こんな文章を書くに至っているという事実を踏まえれば、なおさら。
多少の表現の違いこそあれ、アイアンリーガーというアニメは「ロボットがスポーツをする子ども向け熱血(スポ魂)アニメ」というような説明をされる。
おそらく、それは間違いではない。間違いではないが――世に溢れる詭弁の数々が皆そうであるようにーー嘘を言っていないことと、それが真実であることは必ずしも一致しない。
はじめに断っておくが、僕は別にアイアンリーガーというアニメについて「実はこういう真のテーマが隠されている」などと声高に主張する気は全くない。
「現実の世界に『テーマ』などないように、映画はそこに、ある物語にそった映像を映し出しているだけです。」と、かの伊藤計劃氏も述べているし(伊藤計劃:第弐位相「自腹は神様ではない」https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20060211/p1)、それはアニメも同じであろう※。僕がここに書き散らしているのは、アイアンリーガーというアニメに勝手に情緒を乱された人間のお門違いの怨念に過ぎない。諸賢におかれては、どうか哀れみの心で受け止めて(あるいはスルーして)いただければ幸いである。
「ロボットがスポーツをする」。何ら間違ってはいない。この物語の主人公はロボットであり、「アイアンリーガー」とはロボットのスポーツ選手のことである。彼らはスタジアム(他の場所のこともあるが)でスポーツの試合をし、勝利を目指しながら、物語は進んでいく。
だが、少なくとも十三話までを観て、それはこの作品の本質ではないと僕は思っている。(ちなみに、なぜ十三話という中途半端な時点でこんなものを書いているのかと言うと、YouTubeでの無料配信が十三話で終わったからである。)
作中のロボットたちは、確かにロボットである。彼らはバッテリーで動き、金属の身体にはギアが埋め込まれ、コードが張り巡らされている。外側は一応人間の姿形をベースにデザインされているが、人間そっくりのアンドロイドではなく、ひと目見て「ロボット」と分かる。大きさも、人間と比較すると(その可愛らしい見た目とのギャップに唖然とするほど)かなり、でかい。
それでありながら、彼らには意思と感情がある。人間と同じように傷ついたり喜んだりし、迷い、成長し、心を通わせる。彼らの持つ「心」は、ほとんど人間と変わりがない。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、限りなく人間に近い意思を持つアンドロイドと人間の、それでも厳然と残っている(とされている)「共感力の有無」という差異も、『アイアンリーガー』では存在しない。
そんなロボットたちが存在する世界の側も、彼らをほとんど人間と変わりのないモノとして扱っている。アイアンリーガーはロボットでありながら、チームと「契約」関係にあり、チームの所有物ではない。チームから脱退することも(少なくとも建前上は)、第一話でマッハウインディたちがそうしたように、契約が許す限りにおいては可能なのだ。アイアンリーガーは金も稼ぐし、転職もするし、山にも帰る。
そうしたロボットとロボットを取り巻く世界の在り方は、作品内で自明の理とされている。それについて何ら特別の説明をされることもないまま、当然のごとく物語は進む。ロボットたちはガショガショと金属音を立てて歩き、「オイルを飲んだり燃料を食ったり」しながら、人間と全く同一のレイヤーで生き、スポーツをする。
そして、人間と人間の関係性の中で生まれる、いわゆる「人間ドラマ」を繰り広げている。
そのあまりのギャップは作品に可笑しみをもたらし、人間とそれ以外のモノがボーダーレスに意思疎通しながら共存する世界観は、絵本のおとぎ話のような「子ども向け」の空気を感じさせる。
僕はいわゆる「ロボットアニメ」をこれまでほとんど観たことがないので、そうした世界観が『アイアンリーガー』特有のものなのか、この手のロボットアニメではよくあることなのかは分からない。
だがいずれにしても、この奇妙なまでの人間とロボットのボーダーレスな世界観こそが、『アイアンリーガー』という作品の(はまる場所、という意味での)「深み」である。
『アイアンリーガー』における人間とロボットの関係性は、もはや「共生」というレベルを超えている。人間とロボットの違いはもはや生命の有る無し「程度」にしかなく、作中でも殊更に「人間とロボットの」違い(と共通点)や、その関係性に焦点を当てることは(少なくとも十三話の時点では)ない。
もちろん、『アイアンリーガー』の世界には人間もいるので、人間とロボットの交流も描かれる。第八話のキアイリュウケンとオーナーの話などは、それがメインテーマだ。
だが、そこで描かれているのは「人間とロボットの」交流ではない。あくまで「同じように意思(心)を持つもの同士」としての、オーナーとキアイリュウケンの交流、つまり個人対個人の交流だ。
人間ならではの心、ロボットならではの心、という概念は『アイアンリーガー』にはない。『アイアンリーガー』は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のように、アンドロイド(ロボットと似た存在と考えてよかろう)と人間の間で登場人物が苦悩する物語ではない。あるいは『ターミネーター2』のように、本来自分の意思や感情のない「はずの」ロボットが、人間との交流の中でそれらを獲得していく、という物語でもない。『アイアンリーガー』では、人間とロボットの交流も、ロボット同士の交流も、人間同士の交流も、全く同じものであり、それが世界の前提なのである。
しかし一方で、人間と全く同じ「心」を持つロボットは、人間に「発注」され「納品」され――そして恐らく「売買」される存在であるということが、ブルアーマーの過去が明らかになる第三話、そして(よりにもよって)キアイリュウケンとオーナーの絆を描いた第八話で明言されている。
第三話では、なぜブルアーマーのバグを直さなかったのかという問いに対し「バグを直すよりも新しいリーガーを入れた方が早い」とエドモンドが答える。第八話では、キアイリュウケンが「空手リーガー」であり、本来サッカーや野球「用」には作られていない、ということが明らかにされる。作中では明言されていないが、恐らく間違って納品された先がシルバーキャッスルでなければ、彼は工場に「返品」されていたはずである。
ロボットたちは、人間と同じ意思と感情を持ちながら、同時に「工業製品」「商品」であるという事実が、スポーツの試合の影で徐々に明らかになっていくのである。
彼らが工業製品であり、商品である以上、逃れられない宿命がある。ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される。
その現実が、第九話から急激に深刻になっていく。トップジョイ、そしてS-XXXの登場である。彼らの存在が、今まで「人間とロボットがボーダーレスに生き、スポーツをしている」という、どこか楽しげで夢のあるアイアンリーガーの世界観を大きく覆す。
なぜか途中で切れてしまうので 2(https://anond.hatelabo.jp/20210828220400)につづく
3歳から母子家庭となり、叔母が我が家にやってきた。こういう状況で育ててくれた母親には本当に感謝してる。
叔母は5歳児くらいの知能はある。顔の表情や発言内容、声から一発で知的障害を抱えてるとわかる。
身だしなみに無頓着で風呂や衣服は家族が気をつかえど、口臭が酷く何か言葉を発した数秒遅れて周囲に腐敗臭が漂う(歯医者に月1行ってるのに)。顔の表情筋は死んでおり頬が垂れ下がり、声は甲高く耳障りに響く(話す内容は幼稚)。背中が曲がり背虫になっている。
誰かの助けがないと生きていけないはずなのに、祖父母は叔母に何も教えなかった。
人と上手く接する術を教えなかった。
世話されて当然という状況で育ったからだ。5年前に死んだ祖父母は医者に叔母が20歳には死ぬと言われてたし可哀想だったんだろうな。
叔母は「誰かと一緒に生きていく」ができず「世話されて当然で生きていく」しか知らない。
叔母が祖父母の仏壇に手を合わせることはない。毎週、俺が仏壇の花を買ってきて変えてることを知らない。命日を知らない。
仏壇に出して下げた後の御膳やおやつは食べていいことは知ってる。
先日、叔母が母の財布から無断でお金を抜いていたことが分かった。誰かと一緒に生きていくために必要なはずのピースが1つまた欠けた。
叔母に「人の財布からお金をとる意味分かってるのか?」と聞いた。
「〇〇くん(俺の名前)の財布からはとってないもん」と返答があった。
彼らだって望んでこうなったわけじゃない!!
この子に気付かされることが沢山あるんです!!
弱者に寄り添って生きていこう!!
さくらーふぶーきのー!!
サライーのそーらへええええええええ!!!!!!!((
みんなで素敵な社会にしていこうね。
「出版」のボーダーレス化が進んでるし仕方ない面はあるか…。にしてもアホすぎるだろう増田が高校生ぐらいならしょうがないと思うが。
音楽と比較するのであれば、例えば作曲や演奏しているバンド=作家、プロデューサーが編集者、レコード会社=出版社。円盤を製造してる会社=印刷会社、ジャケットデザインなど=装丁家、みたいな感じなんだけど、プロデューサーがあかんくて売れない円盤なんて割と山ほどあったりするんだよね。同じように編集者や出版社がまともに働いてなくて売れないものも割とある。
一方で、音楽や映画はプロデューサーにも印税入るけど書籍編集で編集者が印税取ることないから編集者はひたすら気の毒ではあるね
女性は全身が性的だから、男性を誘惑してしまわないよう体全体を隠すべきだよ→ブルカ着用
目意外は全部性的だから、目だけなら見せてもいいよ→ニカブ着用
髪は性的だから見せちゃだめだけど顔だけなら見せてもいいよ→ヒジャブ着用
くるぶしは性的だからが見えちゃだめだけど足先なら出してもいいよ→丈の長いものを着用
ヘソは性的だから見えちゃだめだけど肘は見えてもいいよ→半袖着用
腋が見えたり胸の形が分かる服は性的だからだめだよ→日本一部フェミ的?(キズナアイの服不許可)
胸の形が分かってもいいけど乳首が見えたらだめだよ→アメリカ的
男性と同様、女性にも公衆で乳首を出す権利を認めなさい→ヨーロッパフェミ的
関係ないもの同士を引き合わせてあたかも指摘が正しいかのように見せる手法は稚拙だから使わない方がいいよ?
あと学部を増やせば同水準の医者を量産できるかというとそうでもないという主張はそれなりに説得力はあると思う。
他業界と比較して圧倒的に遅れているとされるIT化や院間のボーダーレス化もセットじゃないと門戸を広くしたところで結局困るのは患者自身だし。
高齢化がますます進んで更なる需要過多が発生するのは増田も危惧するところと同じ認識だけど単純な労働力の確保では太刀打ちできないのはお分りください。
ここら辺見た?参照してみるといいよ。
https://www.med.or.jp/cme/jjma/newmag/13407/pdf/134071240.pdf
沖縄で生まれ沖縄で育ち、沖縄で働いている純ウチナーンチュである身として、一度は教養としてみておくか、と思い、宜野湾市民会館で上演された、沖縄お笑い米軍基地14を見に行った。
沖縄のローカルラジオ、テレビではひっぱりだこで、県内に知らない人は(たぶん)いない芸人さん、小波津正光さんことまーちゃんさんが座長として企画・脚本・演出を行っているコントショーが、この「お笑い米軍基地」である。
今回で14回目を数えるこの公演は、沖縄では非常に人気が高く、私が見に行く旨を人に話す度「あい!いいはず~感想聞かせてね~」という反応はあれど「なにそれ?」という人は誰もいなかった。実際、1200人キャパの会場はほぼ席が埋まり、私が行った公演以外にもあと何回か沖縄県内各地で上演されるということである。そもそも毎年上演し、今回で14回を数える辺り、企画側の熱量とそれを受け止めるだけの県民の人気があるんだなあと感じる。
コンセプトは「基地を笑え!」。沖縄県の面積の内およそ10パーセント以上を占めており、沖縄県について語られるときに必ず問題の一つとして触れられる米軍基地だが、ぶっちゃけ県民の(主に若者の)大半は「反対運動とかが激しいのってあれでしょ、本土から来た人とか政治団体とかそういう人たちなんじゃない?…わかんないけど…まあなんか窓とかヘリとか飛行機とか色々落ちてるし、戦闘機はうるさいからまあ、なくなるならもちろんそのほうがいいけど、わざわざ座り込みとか行くのは違うかな~左翼とか右翼とかよくわかんないし…」などと言う人がほとんどである。(あくまで私の体感ではあるが)
若者の政治参加の主体意識が足りない!と言われてしまうとほんとその通りではあるのだけど、恥ずかしながら私もそういったその他大勢のひとりである。正直基地がどうとか言う前に、政治してる人たちは生活に密着した問題からどうにかしてくれ、と思う。子どもの貧困とか。いや、その辺とも繋がってたりするから根深いのか?よくわかっていない。
山積みになっている沖縄県の問題のど真ん中にドンと居座り続けている「基地問題」。そこをどう笑いに落とし込むのか。前評判は良すぎるほど良かった。期待半分不安半分で会場に足を踏み入れた。
そして観終わった感想だが、「100点!最高!面白かった!」とは正直まったく思えなかった。
なお、細かい内容は「SNSには書かないでください」というアナウンスがあったので割愛する。
まず、全体を通して(「米軍基地」という「沖縄県民にしかわからないあるある」を扱っている以上、前提がそうなので当たり前ではあるのだが)めっちゃくちゃ内輪ノリがすごい。
そこがハマると面白いのかもしれないけど、沖縄県は究極の「ムラ社会」の文化なので、各地域の文化の隔絶もすごい。なので県民でも「いや、わかんねーし…」が結構多く、ハマらないとむしろ見続けるのが非常にしんどくなる。最後辺りには完全に「業界の内輪ネタなんだな」とわかるものだけでひとネタ作られているものもあり、関係者席らしきところからは爆笑すら聞こえたが、業界人でもローカルテレビ大好きマンでも何でもない私は正直置いてけぼりだった。
沖縄県にはM-1グランプリならぬ「O-1グランプリ」という番組がある。お正月時期に放送される、名前の通り沖縄の芸人の1番を決めるという番組だ。そのネタを見てもらえばわかるが、沖縄の芸人は「沖縄らしさ」を前面に出したコント・漫才、つまり「内輪のあるあるネタ」を組み込んだものを作ることが圧倒的に多く、またレースにおいてもそのほうが有利である。その番組にはもちろん今回の「お笑い米軍基地」に参加しているFEC(沖縄にある芸能事務所「演芸集団FEC」)の芸人さんも数多く出場しているので、その流れを汲んでいるのも当然といえば当然である。
そして、気になったのは「お笑いだから」「俺たちはバカだから」という言葉を盾にした、差別やいろんな権利の侵害の嵐だった。もちろんすべては洒落であり、まじめに取り合うほうがアホであるというのはわかるのだけど、正直現代の「ボーダーレス」な風潮からは相当遅れた認識があるんだなということは感じた。
私個人として特に興味があって学んだこともある界隈の問題だったのもあって、過剰反応してしまったところはあるが「いや、ダメでしょ…」と引いてしまうような描写・演出が非常に多かった。
違和感の何よりの原因は、前説で座長が「所詮俺たち三流芸人の言うことなのだから怒ったりしないで聞き流してほしい」という旨の発言をしていたことだったと思う。
私たちは無意識に差別をしてしまうものだし、気づかずにだれかを傷つけてしまうのは仕方のないことではあるが「差別?いやいやネタだから。何マジになってんの?」という言い訳を用意してしまうのは、ちょっと違うなあと感じた。この公演に誇りをもってやっているのなら「差別的な表現かもしれないが、より伝わると思って選択した」と言い切ってほしいな、と思った。イジりとイジメの境界線はあいまいだが、「強者や権力を笑うのがお笑い」だというならば、自分たちが本当に強者としての力を持っていないか?というのも常に問い続けてほしい。
また、全体を通して「左」より「右」を笑うことが多かった、というのも違和感のひとつとしてあった。どっちも滑稽な部分はあるのだからもう少し両方を笑ってくれたらよかったのかな、と思う。あと「右」を揶揄するネタの時に、笑いどころでもなく盛り上がりどころでもないセリフで「よくいった」というようなかけ声や拍手があがっていたのは驚いた。どちらでもないフラットな状態で見に来たつもりなのに、いつの間にか政権批判団体の集会に参加させられていた、みたいな気まずさがあった。怖い。
以上のように全体的に右寄りかつ品がなく沖縄県民の県民性の悪い部分を煮詰めたような「内輪に甘い」感が強く、正直全体を通して「また行きたい!」とは全く一ミリも思わなかった。私は特にスクールカースト下層だったタイプの人間なので、沖縄の芸能界に蔓延する「スクールカースト上層部っぽいノリ」(ウェイ感とでも言うのか)にはついていけなかった。この辺はたぶん好みの問題なのだろうと思う。
ただ、ここまでゲロカスに批判してきたが、この公演を見たあと、文句を言いながらも私は「じゃあ右や左のそれぞれの主張ってどうだったけ?」「ほんとうにこの芸人さんたちが言っていたことは正しいのか?」「自分は偏っていないのか?」ということをいつの間にか考えていた。
まーちゃんさんの著作を図書館で借り、基地問題についてネットで自主的に調べ、右翼と左翼についても少し勉強した。
そうして、ハッと、こうして主体的に考えているこの行為自体が、この公演のねらいである「基地について、何かひっかかりを感じて考えてほしい」というところにばっちりハマってしまっていることに気が付いた。
なるほど、ならば。この公演は私にとって意味があったのだなと納得できた。してやられてしまったな、と思った。チケット代2000円もったいねえことしたわ、だったのが、安いじゃん、になった。
エンディングで歌われたFECの社歌の中に「とにかくやることを大事にしている」というような歌詞があった。沖縄県民は先ほども言った通り「内輪に甘い」。そして変化を嫌う。そんな中で新しいこと、前に進むようなことをするのは、本当に難しいことだと思う。勇気がいることだと思う。「まじめ」をバカにする風潮のある沖縄で、「まじめ」にバカをやるというのも、ほんとは難しかったんじゃないかなと思う。その勇気に敬意を表して、私はこの感想を書こうと筆をとった。「とにかくやる」そしてやることで誰かを動かす、それはほんとうにすごいことだ。と、何もできない私は思った。
でも、個人的におもしろくなかったのは事実なので、沖縄の芸人さん各位にはマジでもっとがんばってほしい。笑いどころを説明してしまう癖があって全体的に冗長だと思う。言葉選びが雑。オチやツッコミのワードが説明的で長すぎる。「金の斧銀の斧」のいさお名護支部さんのくだりと、タイワンオオカブトの幼虫のくだりは勢いがあって好きだった。