はてなキーワード: 試行錯誤とは
俺自身はライブ会場に足を運んだわけではないので伝え聞いた範囲しかわからないから間違ったことを書いていたら申し訳ない。
で、
これは「悪く言ってる」と受け取られてもしかたないのではないか。
アイマスの声優さんたちだって「しょうがない」なんて気持ちではやっていない。もちろん釘宮さんみたいにアニメの仕事が忙しくなってしまった人もいるけれども、手を抜いたり妥協したりは、決して、していない。その場その場ででき得る限りのパフォーマンスを発揮しているはずだ。
技量の差はあるかもしれない。
努力があってとしても観客から見える結果がすべてかもしれないが、「ダンスは下手でもしょうがない」なんてことは舞台上の声優さんたちも観客である自称・プロデューサーさんたちも思っていないはずだ。
そこは譲れない。
私見では、ラブライブの強みは9人のグループユニットとしての一体感ではないかと思う。
アイマスはわりと一人一人が個別に交代でステージに上がることが多いような気がする。グループになるとさほど一体感がないように見えるというのはたしかにあるかもしれない。全体曲ではさほど激しいダンスをしないような気もする。
対して、ラブライブは全員での曲が多いイメージがある。グループ全員でダンスも歌も合わせるには当然全体練習が必要なはずで、時間の調整が必要だったろうと思うし、練習の積み重ねがあってこそ一体感や連帯感が形成されていくというのは納得できる。南條さんが時間を合わせることができたのはすごいとも思う。
μ’sというグループとしての完成度の高さは、誇っていい。
もうひとつ、トラバ元の増田は「アイマス」と「シンデレラガールズ」を区別して「本家アイマス」の話をしているのかもしれないが、「シンデレラガールズ」ではいわゆる「声優畑」でない人も起用している。
ダンス畑出身というわけでもないのでダンスが格段に向上するわけではないだろうけど、「声優専業」の人だけではないことは知ってもらいたい。
中にはゼノグラシアやジュピター、竜宮小町のようにファンから大ブーイングをくらうようなこともしてきている。
決して順風満帆ではなかったし、
お仕着せのマニュアル
などではない。
衝動的に書き殴ったので支離滅裂ではあるけれども、「悪く言うつもりはない」と弁解していてもあんな書き方をされては腸が煮えくり返るので、もう少しご配慮願いたい。
質問はYes・Noで答えられる形式まで落としこんでから質問する。
質問・要望はできるだけ正確に、前提から丁寧にかつ簡略に伝える。
分かってもらおうとしない。推し量って理解してもらえるだろう、という話し方をしない。機械だと思って正確に入力することに努める。
資料に・メールに・1度でも記載して送っていれば伝えたと思っている。たしかに書いてはあるので、事細かに読むことを優先する。
資料にざっと目を通して、あとは口頭で確認しようと思ってはいけない。正確に書いて伝えたのに読めていない、とバカ扱いされて大変不快な思いをすることになる。
「何を言っているか分からない」は罵倒ではない。本当に理解できていないだけ。腹を立てるよりは正確な文章で伝える努力を。
可能な限り、口頭ベースではなく文書ベースでコミュニケーションを取るようにする。口頭だと伝達は早いが伝え方・受け取り方のギャップが大きく双方ともひどく疲労することになる。
スキルは高く、責任感もあり、コミュニケーションへの努力も見受けられる。
が、生まれ持った資質や育成環境によるコミュニケーションパターンは容易に変えられるものではない。それはしょうがないと思っている。
とにかく周りに何もない。それはさらに山奥の田舎にしても同じだが、まだあっちの方が救いがある気がする。
郊外にあるのは家だけである。つまり、郊外にしかないものはないのだ。
当時の娯楽を振り返ってみても、今から思えばホントクソだったなあと改めて感じる。
確かミニ四駆ブームの終わり頃だった。たいていの子供はマシンを買ってもらえたがそれだけで、
小さい小さい自家用のコースすら、ほとんど誰も持ち合わせてはいなかった。
どう考えたって、都会とは遊びの質が違う。
きっと、行きつけの模型屋か量販店にまともなコースがあって、パーツの選択に試行錯誤して、
こっちときたら、肉抜きや塗装すら○○くんの兄ちゃんの手による驚異のオーバーテクノロジーであり、
パーツの選択も適当そのもの、しかもやることと言ったら道路や空き地で犬のウンコに注意しつつ走らせるだけである。
そんな、文字通りクソみたいな環境より、ずっと楽しいに決まっているではないか。
まあ、もしかしたら都会のお子様は、えっそれ割と面白いかもとか思われるのかもしれないが、
ナチュラル上から目線でそんなことをおっしゃられても、こちらとしては大変困るのである。
幸いというかなんというか、今の子供はまだマシだ。
今の化粧技術はすごくて。スッピンならクソブスがちょいかわいいくらいになる。
これが行き過ぎていて。今、スッピンなら普通くらいの顔の女がちょいブスくらいの扱いになっている。化粧したブスのほうが、普通のスッピンを簡単に抜くから。
なんでこんなに化粧の強さが増したって、骨格ごとの化粧のやり方のバリエーションや化粧品の品目も増えたし、整形も安価だし技術や評価基準も確立してるし、アートメイクなる刺青や、カラコンも当たり前、痩せる方法が確立(運動、栄養法、管理法)されたので化粧する前提のBMI22をわりと簡単に満たすことが可能になった。
また、芸能人やモデルの試行錯誤で化粧のやり方のバリエーションやかわいいと思われる顔のバリエーションが増えた。
しかし、これらのメイクは、落とし穴ってか。「vsイケメンorドキュン」用なのだ。
普通の男は、これらを見て、「ああ、かわいいんだろうな」とは思うが、「付き合いたくないな」と感じる。だって、面倒くさいでしょ。そんだけ頑張ってる女が求めてくる欲求ってどんだけ。
しかも、それってイケメンやドキュンみたいな自分に自信アル奴対象のファッションだったり(リア充的コミュニケーションに溶け込める)、コミュ力だったりするから、フツメンは疲れる。
ラインのスタンプ押し捲って、顔文字なんて、面倒くさいのと一緒。
この系統の女と普通の仕事するのすらダルイのに、ましてや付き合うなんて考えない。相手の女からしても、イケメンやドキュンに対するファッションなので、フツメンに興味ない。
イケメンやドキュン用のコミュニケーションや考え、見た目を作ってきたのだから、ますますイケメンやドキュンが好きになるのは当たり前、女にしてもそいつらと付き合うほうが楽。
だけど、イケメンはせいぜい10%いるかいないか。ドキュンはDVばかり。女もこれにはドン引きして、お互いイケメン用のファッションを作りあった女友達しか付き合えなくなる。
つまり、フツメンもイケ女を避けるし。イケ女もフツメンが苦手。
これだと思う。
アフタヌーンの短期連載系だと「弾丸ティアドロップ」(稲見独楽)は好きだったな。全2巻。
古本屋の主人——は世を忍ぶ姿の殺し屋のお姉さんにほれちゃった高校生の男の子が、お姉さんを守るためにふたりで逃げ出す話。荒唐無稽な設定なんだけど一応非現実要素(魔法とか)は入ってなくて、主人公の頑張りでどんどん物語がドライブされるのが気持ちよかった。おそらく最初から2巻の予定で作られてて、密度が高くてテンポがいい。
http://kc.kodansha.co.jp/product?isbn=9784063107050
って絶版かよ! つらいなー。
あと申し訳ないがこの表紙あんまりセンスよくない。気になった人は試し読みまでしてみてほしい。
ついでに思い出したのでもうひとつ。
これはまたかよの部類かも知らんが「はるかリフレイン」(伊藤伸平)。全1巻。
高校生の主人公はるかは彼氏であり幼馴染みでもある啓太を交通事故で亡くしてしまう。ところが葬式の日に見かけた不思議な黒猫の力で、はるかは気がつくと事故当日の目覚めた時刻に戻っていた。ここから自分がうまく立ち回れば啓太は死なずにすむかもしれない、とはるかが延々と試行錯誤する話。いわゆるループものなのだけど展開そのものにある種の人生観がこもっていて、それがはるかにある変化をもたらしていく。最後のひとこまのモノローグがその変化と対応していて印象深い。ベネッセの「高1challenge」という雑誌に連載されていたらしい。
あんなん嘘だろと思う
そりゃ中高生とかなら知らんよ
エロ動画をみてシコッても現実にセックスをしたいとはおもわない
そんな人間にとって現実に自分の身に降りかかるセックスというイベントは恐怖である
20代童貞の初体験は間違いなく処女のそれより恐ろしいものだと言いたい
実際に剣を持って野生の肉食獣と戦うとなったら怖すぎてできない
みたいなもんだろうか
で、まあセックスっていうかマンコは手やオナホに比べると気持ちよくない
様々な工夫が凝らされたオナホや自由自在に調整できる右手にただの肉の穴が勝るはずがない
セックス(マンコ)の気持ちよさというのは精神的な部分に依存しているのだ
その精神的な部分が恐怖に塗りつぶされている童貞にとってセックスが気持ち良いものであるはずがない
俺は6年間の日常のオナニーも含め様々な試行錯誤の結果、かなり調子がいい時ならば膣内で射精できるようになったが
中折せずにセックスを終えれたことはない
まだ20代だというのにだ
コピペで「おい!そこの裸の女邪魔だ!アニメが見えねえだろ!」みたいなのがあった気がするが
現実の女に対する性欲なんてそんなもんになってる
性欲マックスに溜まってる状態で目の前に好きにできる絶世の美女とオナホがあったら間違いなくオナホをとるだろう
だからこそ「童貞は女に飢えていてセックスしたくてたまらなかった」みたいな表現、演出を見ると(その旺盛な性欲…もといセックス欲に対する嫉妬も含め)なんだか腹が立つのだ
例えば「同じピザを頼むならお腹が膨らむパン生地がいい。」といったような、AよりBのほうがコストパフォーマンスが優れているという考え方をする方は肥満に注意が必要です。
常日頃から得な方を選ぶクセをつけている人は、何かにつけてカロリーも過剰に摂取しがちです。
また、そういう考え方をする人は、カロリーに限った話ではなく、提供する側の意図、優位性の誤認によってコントロールされやすい人であるともいえます。
自分が選んでいるようで選ばされている人は、選択肢の多様性を失い、カロリーにかぎらず人生のバランスを損ねている可能性があります。
そうしたタイプの人は、自らの選択が正しいことを疑わず、ダイエットにおいても試行錯誤を怠り、効果の無い自分流ダイエットを続けてしまいがちです。
そういう人への特効薬はただ一つ。「時に損をすることを覚える」とうものです。
しかし、これも一見損をしているように感じるだけで、あなたにとって未知なる新しい経験という新しい価値をもたらします。
一時的に体重を落とすだけのダイエットは必ずリバウンドします。
真に痩せたいと願うのであれば、生活習慣、つまりは人生や環境を変えなくては達成されないのです。
人生に閉塞感を感じている方、まずは損を受け入れてみてはいかがでしょうか。
その選択はあなたに必ず新しい価値をもたらしてくれるはずです。
国語は漢字、作文、音読、語彙、読み取りといろいろやることがある
全体的にできるようにさせてあげるのがいいんだろうけど難しい
そもそも俺の授業で子どもが本当に伸びてるのか分からなくて不安
無駄なことやってるんじゃないかと思う
を読むと、物語の授業展開例に「気持ちを想像しよう」系の活動が多くてなんか頼れない。
こういう気持ちを問うやつは現職の先生からもけっこう批判されてる。
物語文でも「ちゃんと内容を理解させる」ことが国語力に繋がると考えてる教師は多い。
それで、そのための授業展開を解説した本もけっこうあるけど、これも取り入れづらい。
まずクラスには文章の内容が頭に入ってないのがそれなりにいて、読み取りの授業についてこない
その教材に入る前にたくさん音読をさせておいても頭に入ってない
かといってそいつらに合わせたようなクラスの多数が当たり前に分かるような授業してもつまらない
逆にやたらと理解力のあるやつもいる
そういう格差がありすぎる集団に対してどういう授業をしたらいいのかが分からない
読む書く話す聴くをどのくらいの配分でやるのがベターなのかわからん
(一応配分は決められているけどそれを忠実に守ってる人はいないと思う)
漢字もやたらとある上にそれを授業内でやると10分とられてきつい
文章を書くのがうまくなってほしいけどなかなか難しい
ひな形を与えて書かせたりすることは多いけど成長してるのかどうかわからなくて不安
視写もときどきやって子どもは集中してるし嬉しいけど力ついてるのかな
この間、エビデンスベースの教育経済学が話題になってたけどああいうのは嬉しい
教育技術にも根拠が欲しい 子どもが伸びるという確信が持てる活動をさせたい
すごい(?)先生たちが書いた教育技術の本はたくさんあるが、思いつきで書いてんじゃね?と思うことが多い
教育現場でスタンダードになってる授業方法もそれが本当に効果的なのか謎
授業の流れが一目でわかる板書がいいからそうしろって言われたけど本当にそうなんかなとも思う
ずっとこんなんで悩んでるから俺は教師に向いてないのかもしれん
以下ブコメへの返答
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
若手です。授業法を参考にするときはビッグネームの先生の書籍を読みます。
でも、あれが大事これが大事と人によって大事にすることが違っていたり、時には指導法に関して正反対の考えが書いてあることもあるので「これだ!」と確信して取り入れられません。
あと、ベテランの先生はそれぞれ流派というか主義みたいなのがあってバラバラだしわかんないもんです。
それって矯正不可なんですかね。
もしも大人になっても矯正できるのであれば、低学年で字の美しさに気をとられるあまり他の面が養われなかったらもったいなくないですか?
それに字を丁寧に書くことがその子の将来にとってどれほど得なのか(頭が良いのに字が汚いやつがたくさんいる)、字を丁寧に書かせることで失うもの(授業が終わっちゃう)とか
いちいち考えてしまいます。字の美しさの指導はベテランの教員でも意見が分かれるところなので難しい。
文章力と関連あるかは別にして、国語の成績とか偏差値とかは全国クラスでした。それを支えたのは、公文式と乱読だと思います。公文式の最初の方って、書き取り以外だとひたすら品詞分解したりするんですが。
恥ずかしながら公文式がどんなことやってるのかよく知らないんですが
今度調べてみます
俺もそんな気がする そういう風にこしらえられた学校用の教材はないような気もするけど(自分が知らないだけかもしれない)そして作るのはつらすぎる。
手際の良い先生は、個々の能力に合わせて授業をセッティングしているように思う。跳び箱でいえば、高さ違うやつを並べて跳ばすように。
教育用語に学習の最近接領域というのがあって、その子にとって最も丁度良い学習課題が最も能力を伸ばすというものなんだけど(こういうのをうまく利用して授業組み立てたい)、
毎日の授業でうまいことそれを取り入れるのは難しい 自分が未熟だからというものあるが。
子どもとマンツーマンなら効果的に伸ばせると思うけど、担任一人じゃつらいものがあります。
ほんとそうですよ
http://u999u.info/o32m 公文式国語の「方法」を読むといいよ。絶版だけどamazon中古あるみたいだし。要約力を重視していた。文章の中から重要な要素を抜き出す能力ね。中学生相手に塾講師と家庭教師していたとき役だった。
安かったんでポチりました
…ほんと…国語は…難しいよな…。そもそも国語の「学力」が何であってどう測るのか、という時点で、理科や算数に比べて曖昧で、市販のテストの点数との乖離が大きい気がする…。
その通りで、算数は何を学ばせるかが明確で分かりやすいのであんまり悩まないです
宿題を一杯出したり漢字を死ぬほど書かせたり色々と強制する事はバッシングがやばいけど将来的にあの時やってよかったと思う時があるかな。
自分が受けた教育がよかったと思うことと、本当にその教育が良い効果をもたらしたのかということの間には、かなり隔たりがあると思いませんか?そこを間違えたくは無いです
根性主義的な学習はある程度効果をあげるかもしれませんが失うものも多いように思います。宿題をどっさり出す勇気はありません
自分の漢字学習のさせ方は、宿題は少なめにしておきつつ、小刻みにテストをしたり、作文に使ったりと、忘却曲線を利用したようなやり方で思い出させて学習させてます。
いま私も子供らの国語教えるのには試行錯誤してる。毎週読書させて簡単なあらすじと感想書かせて。無理矢理は読むの嫌いにさせちゃうし、楽しみながら習慣化させたい
同業?学級文庫や図書室の本だけだと満たされないかと思い、うちのクラスは家からの本持ち込み可にしてるんだけど、本嫌いな子は持ってこない
その通りで、余計なことをしたくないから意見は参考程度にしておいて授業で使うかはまた別
漢字の書き取りをめちゃくちゃやらされた結果、書き順とか部首名とかばっちり頭に入った。大人になった今でもしっかり覚えてる。脳の容量がもったいないからできれば全部忘れたい。
漢字めちゃくちゃやると他のことができなくなる
日本の国語教育って漢字偏重というかそれが重荷になってる気がしませんか
「新出漢字は軽めにやっておき、今後数年間で忘れたり思い出したりを繰り返してるうちに記憶が定着する」と自信をもっていえるなら俺は軽めに教えて他のことをしたいです
まあ自信をもっていないからモヤっとするんですよね。
あとこれもすごい悩ましいんだけど、書き順は正確に教えるのが当たり前になってますけど、書家の方が「正しい書き順はない」とおっしゃっていて、それ聞くとガチガチに正しい書き順を覚えさせるのがいいとは思えなくなっちゃいません?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://anond.hatelabo.jp/20150920002242
結局自分が欲しいのはエビデンスなんですよ 指導要領解説にしたってエビデンスです エビデンス厨なわけです 教育に裏付けが欲しいんですよね。
何か確かなものを頼りにして授業したいんですよ。
まあでもそんなパーフェクトに近い指導法はないですよね?だから手探りでいくしかない 指導要領解説は前任校が国語の研究をしてたんでちょっと読んでましたけどまじめに読んでなかったので読んでみます
オタクにとって言われて嬉しいのは何か、というか何のためにオタクやってるのか、って考えるとオタクとして誇らしいのは「楽しそうだ」と言ってもらえることであって、「知識すごい」でも「頑張ってますね」でもないと私は思ってる。で、楽しみ方は千差万別なので、他人がとやかく口出しすべきじゃないと思うんだわ。で、ある人が「より楽しむためには」という目的を持つのはいい。そのための方法論とかあるべき姿みたいなのを一生懸命考えるのもよい。そういうのを考えて楽しくなるんだったらいうことない。ただ、なんかね、そういうことを一生懸命やってる人を傍から見てるとあんまり楽しそうに見えないんだなこれが。
もしかしたら、本人は本当に楽しんでるのかもしれないけどね。自分が楽しいから、自分がやってることをまとめたり言語化したりして共有したい、というつもりでやってるのかもしれない。だとしたら悪気は無いんだろうね。 でも、なんかね、傍から見えてると自分が考えた「あるべき姿」という枠にガチガチになってて見ててあんまり楽しそうに見えないっていうね。で、楽しそうに見えないだけならいいんだけど、その人のブログを見に行ってみると、言ってることとやってることが違うんだよね。もう作品を純粋に楽しむという感じじゃなくなってて、書いてる内容の割合を見たら作品の感想とか解釈の記事は半分以下で、作品を楽しむための「べき論」ばっかり一生懸命書いてたりする。しかも、その「べき」論について、自分であーでもないこうでもないって試行錯誤したり実践するだけならいいんだけど、なんか中途半端な出来の「べき論」をこさえてはいちいち他人に向けて発射しちゃうのね。 「いつまで☓☓やってるの?」とか「なぜみんな☓☓しないのか?」みたいなことを言っちゃう。 自分の正しさを証明したいのに誰もそれをほめてくれないから他人を落として自分持ち上げようとしちゃう。あげくのはてに他人が書いた作品批評を批評するページまで作っちゃってる。これはもう完全な病気。
これって、どこかでみたことあるなあって思ったら、やってることが自分の人生を充実ぶりをアピールするためにいちいちサラリーマンにケチをつけないと記事がかけないイケなんとかさんと似てるんじゃないかなって思ったね。自分が本当に楽しいと思ってるなら、他人のこととかどうでも良くない? 自分が楽しいと思ってることをありのままに書けばいいだけだよね。なんで他人のダメ出しする必要があるの? わかんないな。しかも、その人が書いてる作品の感想とか読んでも、実につまらなさそうなのね。 記事の文字数書いて僕頑張ってますアピールしたりとか、作品からいっぱい引用してちゃんと読んでますってアピールはしてるんだけど、で?っていうね。ふーん頑張って記事書いたね、10000文字お疲れ様、とは思うけど、その作品面白そうですね、あなたはこの作品を心から楽しんでるんですね、羨ましいなって思えないんだわ。むしろ、楽しむことよりも「楽しんでるって思われたい」とか「すごいって思われたい」んだろうなオーラがプンプンするぜー!
オタクだし、どういう方法で楽しもうが勝手なんだけど、他人をこき下ろさないと自分の言ってることの正しさも証明できないっていうのは、自分の主張が弱いって認めてるようなもんだから早急に改善したほうがいいよ。
どれくらいヤバイかっていうと、ここ数年ろくに会話していなかった反抗期の息子と超喋ってるくらいヤバイ
息子が新しいステージを作っている間、絶対見ちゃ駄目だよ!って言われて2時間くらい自分の部屋に閉じ込められるんだけど、いいよーって呼ばれて行くとすげーテカテカした顔で俺のこと待ってんの
で、息子の仕掛けた罠に見事にハマると横でゲラゲラ大笑いしてんの
詰まってモタモタしてると、そこはブロック開いてから乗ったほうがいいよーとかアドバイスをくれたりもする
でも、ここはどうしたらいい?って聞くとさあ〜?ってニヤニヤ笑って教えてくれないんだ
普段は1日10分も勉強してないくせに、あいつ、この土日で5時間は勉強してたな
でも15分おきくらいに、お父さんまだー?って急かされる
俺のステージが完成したら息子の勉強も終わりだから、なるべく凝った造りにする
完成したら息子がプレイする
あーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返して成長していく息子に、ヨチヨチ歩きの頃の姿を重ねてしまってなんだか涙が出そうになる 嘘だけど
もちろんこれは勝負になっていて、コンティニュー回数の多いほうが負けで、罰ゲームには腕立て伏せ50回をする
これが家族団らんなのか
超楽しいじゃん
超幸せじゃん
どうか息子が飽きませんように
俺みたいな増田だなーって思って読んでたら、昨日自分が書いたエントリーだった
こんなことを書いてもトラバの方々には響かないと思うけど、俺は任天堂の回し者ではない 期待にそえなくてごめん
あと参考までに、息子は中3です
http://anond.hatelabo.jp/20150910034421 は僕も似た悩みを抱えている。何を書けば、相手がどう理解してくれるのかがさっぱりわからない。文章に限らずプレゼンでもそう。
http://hachibeechan.hateblo.jp/entry/2014/09/14/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%A8%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AF%E7%9B%B8%E6%80%A7%E3%81%8C%E6%82%AA%E3%81%84_%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E9%81%A9 の話と同じ理由なのかな?と今は考えている。つまり文章を書く、読んでもらってフィードバックを得るの試行錯誤。プログラミングと違ってフィードバックにはどうしても人間が必要な点が困難さを出している。
どうすれば、試行錯誤をいい感じに試せるのだろうか?何かコツを知っている人がいたら、是非教えてほしい
追記1:
できた文章を読み上げソフトに語ってもらって聞いてみるといいらしい。耳で聞くと意外と突っ込みどころが見えるらしく。説明不足・話の前後・要点にしたいことなどが見えてくるとのこと。
長いので嫌な人はよまないでw
自分の気持ちの整理の為、自分の弱さを肯定する(ずるいとはわかっている)為、
書かせていただきます。
私は既婚者、自分の弱さから何気に登録したサイトに女の子から声がかかりました。
彼女と私の歳の差は15歳、当初は私も冷静で最初は美人局?くらいと疑心感もあり、歳の差を考えると会う気にはなれず、いい暇つぶし程度と考えていました。
しかし、1ヶ月ほどのたわいもないメールが楽しくて、会う事になりました。
当初、彼女も彼氏がいて、ただ、不満はつのらせておりましたが、そういう事に割り切れる考えの持ち主だと解釈しておりました。
私も、恋愛の倦怠期の合間のちょっと火遊びというのは理解ができ、既婚という事を理解してくれるのなら、お互いの利害関係が一致するのなら今後も遊ぼうという事で、仲良くなっていきました。
容姿端麗、もともと、甘えられるのが嫌いではないタイプですので、彼女の甘えが自分には丁度心地よく、とても楽しい時間を過ごせました。
私自身も彼女の魅力に惹き込まれ、彼女が楽しそうにしているのが嬉しくて、試行錯誤し彼女が喜んでもらえる様、精一杯の努力しました。
しばらく月日がたち、彼女は精神系の疾患を患っていて、通院している、家族に色々問題があるという告白をされました。
確かに、情緒不安定な部分はあるなと感じておりましたが、彼女は私にその姿を見せる事は少なく、たまにメールのやり取りに険がある(私も鈍感)程度だったので、陰ながら彼女のストレスになる様な事は避けていました。
ただ、理解できない部分も確かにありました。
特に以前の彼氏の文句,馬鹿に仕方が尋常じゃないという面では、
私自身、今までお付き合いさせていただいた方を思い出しても、自分との価値観の違いから衝突する部分はありましたが、自分を少しでも成長させていいただいた方達という事で、いい思い出だったなという感情しかありません。
そういう意味では、その面に関しては以前の彼氏がかわいそうだな…と思う箇所は多々ありました。
そんな彼女とも数ヶ月経った頃に倦怠期かな?と思う今までと違う感じが垣間見えるようになりました。
私も自尊心を保つため、倦怠期と思うのが楽だったようなきがします。
過食嘔吐と当時飲んでいた精神薬があっていなかったのかな?と想定しておりました。
最終的(倦怠期かなと感じ1ヶ月程度)には、過食嘔吐の繰り返し、リストカット、ODにより、家族に救急搬送され、
救急搬送の直前(1〜2日前)に、彼女は私にこの関係(わたしが既婚者)がつらいと言う内容、
その他、数名のおじさんとメールのやり取りをしていて、遊ぶ予定があるという事で
別れを告げられました。
ただ、その時は本気で彼女を好きになってしまっていた感情から、
また、今現在彼氏になりそうな関係の人に対しての付き合う前からの愚痴がすでにおかしい(恋愛感情がない、地位名誉により付き合おうとしている)時点で、
いつでも話し相手になるよと
つなぎ止めてしまいました。
そこから一番の激動の一週間です。
突然迎えにきてと言われ(体調の面もあったので行きました)
おじさん、彼氏の話
好きだった私は嫉妬心と、カラダの心配、色んな感情が絡みあって、口うるさい親の様な存在になってしまっていたと思います。
引き止めるメッセに対して返事が途絶えて終わりました。
私なり境界性人格障害について学びました。
病状については、皆様の書いてある通り、大人の器はあるけど
感情が2〜3歳児だったなと。
例えば今の気に入ってるおもちゃ(いま欲しているもの例えば、愛、お金、教養、その時の価値観によって変わる)以外見えなくなってしまう。
こっちのおもちゃが飽きたら、次
という感じでそこに対しての欲望にストレート
夜泣きのような状態、またすべて一緒に手に入れれない苛立
それに対して、成人としての罪悪感がある。
ある意味すごくピュアで本能的で、その動物的な行動に魅力がある一方、常識にとらわれた一般人には理解がすごく難しい存在なんだなと感じました。
私の好きだった人の場合、そこまでの悪どさが見られなかったので冷静になっているのですが、
そもそもこれだけ努力したのにという事がすでに、個人の価値観(押し付け)なのであって、
また、こんなにやってるのに、なんでそんなヒドイ仕打ちができるの?と言っている事も、
死にたいと言われ夜中引っぱり回される事に対して、その人が死んだら後味悪いのも
境界性人格障害で悩んでいる人たちへ少しでも伝わるといいのですが、
あなた達と付き合った人すべてが、ネットに流れている被害者(タゲ)のような気持ちではないです。
私はその人に何も与えれなかったのですが、凄く楽しい思い出を貰いました。
治療できるならしてください。
本当かどうかわかりませんが、
治ると言われている病気です。
今3歳児なら15年後には18歳の精神年齢が備わっているんじゃないの?
すごくつらいと思いますが、できる事なら生きてみてください。
敵ばっかりじゃないです。
本当にありがとう
地方旧帝を出てメーカーの営業やってるけど、自分も似たような事を感じることが多かったわ。
見た目だけは真面目メガネだけど、とにかく要領が悪いせいで期待を裏切る事が多くて一時期かなり病みかけてた。
それで自分なりに自己分析をした結果、しんどくなるのは「自分は本当はデキる人間なんだ」って心のどこかで信じてるからだって事に気付いた。
それから自分なりの方法をいろいろ試行錯誤するようになってから少し楽になったよ。
仕事の交通整理ができないと混乱するから計画を立てる時間を多めに確保したり、
理解が遅い自覚があるから人よりもプラス1回多く確認に行くようにしたり。
上記二つは相反しないしできれば自分の経験で学び取ってほしい。
上記も一度試してみてスポンジの惨状を見て今後に生かしてほしい。
本当は、
などなど細かく思うことはあるけれど、ここはそれぞれのやり方があるのでよいと思う。
(三点目に関しては、こまめに排水溝掃除をせねばならないのが他人の場合は少し考えてほしい)
これらをしてくれず、かつ自分の食器を洗わないパートナーがいるとして、
諸事情から彼の改善は望めず、またわたしもそこはしぶしぶであっても了承済みな場合、
どうせわたしがやるのであれば、ペットの犬や猫にトイレの片づけをしつける気がないのと同様、
諸々込みで飲み込んでしまえばいいのではという結論に達して今に至るのだけれど、
人はどこでこれらの試行錯誤をするのだろう・もしくはなぜしないのだろう、と考えてしまう。
わたしがこの日記で言いたいことは、
ではなく、
「家事をあまりしたことがなく、食器洗いなどに意識を向けたことがない人に対して、
大人になったら食器洗いの方法などという些事に口を挟む人は少なくなると思うので、
でした。
以上です。
6年前に理系大学院を卒業した。研究分野は癌だけど、実験手技は細胞つかったがちがちのバイオ。
僕は天才でもなければ秀才でもないので、研究者になる道は鼻からあきらめていた。大学に残ることはもちろん、企業で研究職として働くのも嫌だった。
バイオは就活で不利とかいうけれど、確かに他の分野に比べれば不利なんだけれども、自分の実験内容をわかりやすく伝える力と、元気さ・さわやかささえあれば内定はもらえると思う。
事実、俺は大手製薬メーカーの研究職や開発職として内定もらったけれども、でもやっぱりそこで働くのは嫌だった。
というのも、研究なんて1人の天才さえいれば、後はその指示に従うコマにすぎなくて、1人の天才になるのは無理だと思ってたからだ。
ということで、結局文系就職したわけなんだけれども、当時、文系就職はそれほどメジャーではなく、僕の学部からは2人しかいなかった。
文系就職で幅広い知識を身につければ、天才じゃなくても生きていけると思ったからだ。
今思えば、浅はかな考えだったと思う。それともこう考えるはないものねだりなのかもしれない。
会社から求められるものは専門性ではなく、人を束ねる力だったり、無理を通すことだったり、人を説得する力だったり、いわゆる人間力、というものだった。
いくら専門的な知識を身につけたところで、出世するのは営業畑で実績を残した人。
会社に3年で見切りをつけて、また大学に戻った。医学部に再受験した。
ラッキーなことに1年間の勉強で医学部に入れたし、キャリアとしても社会人から学生に切れ目なく移行することができた。
というのも、医師は医師免許という最強のカードがあるため、医師と研究者というのを両立できる。
これは他の資格ではまず無理で、研究者は研究者でしかなく、ほかの何かと両立することは非常に困難だ。
久しぶりに開くPubmed
しかし、現実は冷酷で、ある時期を境に論文が出てこなくなった。
GOOGLEで検索したら、新設薬学部の助教として働いていることがわかった。
僕は研究は大好きだった。
誰から言われるでもなく、毎日泊まり込みの勢いで実験をして、ポジティブデータがでたら深夜誰もいない研究室で叫んだり、何か月も仕込んだ実験結果が無駄になって目の前が真っ暗になったり、それでもやっぱり研究が好きだった。
順調にいけば、あとすこしで医師になれる。でも、医師となっても、研究はもうしないだろう。
何がいいたいかというと、研究をしたいんだったら、医学部に入って医師になるべきだと思う。
興味がある研究分野じゃないとか、そういうことじゃない。
独自の仮説をたてて、それを試行錯誤で検証し、考察するのが研究で、分野はぶっちゃけなんでもいいと思うし、それに医学はまだまだエキサイティングな分野だ。
いい話だけど、
量と質は、もう限界に来ている。
次の日本アニメの旗手は細田氏だっていう世間的な期待とプレッシャーは
あるんだろうけど、
びっくりするほど興ざめだった。
心の中にどういう化学反応を起こすのかというところが
エンターテインメントとして一番の肝でしょ。
それをさ、全部わざわざセリフでご丁寧に説明したら、なんの余韻も想像の余地もないじゃない。
どんなお客さん想定して作ってんのよ。
あと、ビジュアルにこだわっているのにほとんど演出上意味のないシーンが多かったのも
正直まったく共感できなかった。
なんだこれっていう。
これね、たぶん細田氏が悪いんじゃないよ。
NHK番組見てて思ったけど、誰も細田氏に対して何も言えてない感じっていうか、
完全に細田氏の「おれのかんがえるさいきょうのシナリオ」になってて
それが全肯定されてると見えるんだが。
どんな能力あるクリエイターでも、映画みたいに巨大なプロジェクトになったら、
ひとりの考えだけで進んだら歪んでいって、お客さんを置き去りにした
それを組織文化として、徹底的にこの20年間やり続けてきたのが、ピクサー。
チームで人を育て、チームで面白い映画を作り続けることをミッションに、
一方でスタジオジブリの宮崎氏も、細田氏の手法も、完全に1人の監督依存スタイル。
あるいは監督に親しい有力者が介入して作品をスポイルしていく危険だとかが野放しになっているし
実際最後のほうの宮崎作品とか、今回の細田作品とかも、その危険が実際の作品の質の
低下につながっていると思える。
あと、この方法だとまったく人が育たないよね。
宮崎氏の引退で、日本アニメの終わりみたいな現象が起きてる時点で、詰んでる。
俺、一時期、アカデミー賞のアニメーション映画でピクサーばっかりが受賞してたとき
日本アニメは正しく評価されてないんじゃないかと思ってたんだけど、
今ならそれは間違った思い込みだったとよく分かる。
持続的に、クオリティの高いエンターテインメントを出し続ける方法。
オスカー受賞し続けるのは当たり前。
2001年の千と千尋の神隠しが受賞したのは、天才宮崎の属人手法の日本アニメ選手がたまたま傑作を生んだだけ。
かつバケモノの子くらいの映画が本当に面白いと思ってしまう人が沢山いる時点で、
これから日本のアニメーション映画の質が持続的に高くなる可能性は極めて低いと言わざるをえない。
残念だ。
残念なガラパゴス。
俺はピクサーを見るよ。