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2016-04-24

原作遊戯王を読んだ後、物悲しくなる理由

原作ネタバレ注意

原作遊戯王最終回を読み返す度に、一抹の寂しさを感じる。漫画最終回なんてものは大抵、もう漫画キャラ達の物語が見れなくなるから、そりゃあ悲しいだろうと思うかもしれない。しか遊戯王にはまた違った悲しさがあるのだ。

それは恐らく闇遊戯が冥界に旅立ってしまうという一点が原因なんだろう。他の少年漫画最終回は、キャラの明るい未来示唆で終わることが多い印象だ。例えば金色ガッシュ最終回は、ガッシュと清麿、他の魔物パートナー達はそれぞれの世界自分の道を歩いていくという希望的なイメージで終わっている。

遊戯王最終回も少し似ている。表遊戯は闇遊戯を乗り越え、自立する。そして「僕の物語は始まったばかりなんだ!」というモノローグと共に物語は表遊戯未来、これから物語示唆して終わる。読者がこの最終回読了後、表遊戯は闇遊戯と決別した未来でも力強く生きていけるんだろうなーと想像可能な終わり方だ。

そしてこの最終回では闇遊戯アテムの進路も描かれている。それは彼が仲間と別れ、自分の在るべき場所、冥界へ帰るという未来だ。この進路には悲しさを感じさせる。作中では冥界の扉の中には、3000年前のアテムの仲間、神官達が描かれていた。だから冥界と言っても一般的な暗い死の世界というものよりかは、アテムの元いた3000年前の古代エジプト世界解釈出来るのだろう。アテムは表遊戯のもう1人のボクという位置付けからアテムとしての人生を歩み出せたのだ。その点ではとても明るい未来だ。

しかし、アテム人生がそもそも年の割に過酷(若い王として悪と戦い、自分諸共悪を千年パズル封印する。3000年もの長い間ずっと封印されるも、表遊戯の体を借りて復活することが出来た。表遊戯城之内達と仲間となるも、自分の正体が3000年前のものであると知り、別れを選択する)なのも相まって、これまで作中で表遊戯と共に主人公として活躍してきたアテムの行き着く先が冥界という事実は、やっと記憶も取り戻して在るべき場所に戻れたんだなと安堵しつつやはり悲しいものがある。ガッシュ場合は清麿とは別れたが、それまで出会った魔物ガッシュの側にいるし、ガッシュが王として輝かしい未来を送ることも示唆される。また清麿に手紙を送ることも出来、清麿はガッシュにいつか会いに行くと残して物語は終わる。もしかしたらガッシュと清麿が再会できるかと…と思わせる終わり方だ。

しかアテム場合城之内や表遊戯と学園生活を送ることも、海馬決闘で熱戦を繰り広げる未来も作中では絶たれてしまったのだ。しかガッシュ場合は魔界だが、アテム場合は死者が住む世界である

これまでずっとアテムの華々しい活躍を見てきた一読者としては、彼の行き着く先が死者の世界なのも、もう表遊戯達や海馬と同じ世界にいることはないという未来なのも少し寂しいのだ。といっても原作の「遊戯 王」の物語として考えるとこの結末が最良で最高なのも事実である

しかしそんな原作で感じていたもの悲しさは、昨日から公開された遊戯王劇場版大分緩和された。詳しくはネタバレになるから言わない。だがアテムは表遊戯達と今でも仲間で、海馬とはライバルであることを知ることが出来たのだ。表遊戯達も自分世界でしっかり生きているし、社長も元気にぶっとんでいた。久しぶりに元気な彼らに会えてとても嬉しかった。最後も中々衝撃的なオチで驚いた。

からこれから原作を読み返しても、アテムの結末に悲しさを感じることはないだろう。

原作の続編としてこれ以上ないアンサーを叩きつけてくれたような重厚な作品だったので気になってる方は原作読んで是非見に行って欲しい。

2015-08-17

ゆとりだ、さとりだ、とか言う奴は老害だと思う

俺は33歳。ゆとり世代とは全く重なっていない。

でも、歳の離れた弟とか、仕事とか、今でもOBとして顔出してる大学部活とかで、若い連中と飲みに行ったりする機会はある。

彼/彼女らは確かに至らない点はある。でもそれは若くてまだ分かっていないだけなんだ。

成長して一人前になっていくのを見るのは嬉しいものだぞ。

ゆとり、さとり、言う奴は自分の若かったときことなんか忘れてるからそう思うだけだろ。


ゆとりダメだとか、一昔前なら最近若いものは…ってのにもっともらしい理屈付けて説得力持たせただけだろ。

そりゃたまたまなのはいるだろうさ。でもそれを全体に置き換えるのやめろよ。

最近の若者は…ってのは、古代エジプト時代から言われてたとか言われてなかったとからしいけど、俺らの親の世代でも言われてたことなのは確かだろう。

ゆとりとかさとりとか言って思考停止してる人見てると情けなくなってくるよ。

そんなに若者を蔑んで、マウントとってドヤ顔したいかねぇ。

若い子たちには、若い子たちのよさがあると思うよ。

2015-08-14

「 Sapokanikan /サポカニカンタバコ畑)」

オジマンディアン*1のせいだね

タバコ畑の地図

砂に埋もれてくしゃくしゃ

地は侘しく平らかに均された

跡なき力強い御手によって

遺跡に遊び

ポリ袋を叩いて鳴らした

勇敢なる男たちと女たちは神を敬愛

朽ちた襤褸たちの知るところとなった

口ずさむ:私を愛していますか?

私をおぼえていますか?

私のうえに雪がつもる

幾重にも幾重にも層を成して:

これも神の掌のうちなのか

パッチ・オブ・グラス』の下に、彼女

オランダ巨匠*2の骨は隠されている

どこか他の場所でトビアス

ラファエル変装しているのを

学者たちが母と子と見破るあいだ*3

他の娘たちは埋葬される

無縁墓地*4の土のなかへ

彼女たちの上ではパレード

日々を刻んで通りすぎる

大理石と鉄でできた純白のアーチの建つ公園*5を抜けて

二万の死者たちがあなたの歩みに寄り添うところ

だるい鳥達のさえずりのなかで失われていった彼らの死因

彼らの残した記録はどうしたって謎めいている

すべては廃れて消えた

文字は織られない、X線は何も映さな

蛍光なしではね

御手が始まりと終わりを司る場所ではね

私もがんばってきたんだよ でも

私の愛していたものを思い出して、私を抱きしめて、なんて言わない

なんどもなんども医者を呼んだ

でも雪が私をフローリー・ウォーカー*6ごと飲みこんでしま

そして絵の中に生きる

彼は言った:

大丈夫

「もう終わったよ」

そして飛行機に乗った

ベルトを締めずに

彼はとんでもない向こう見ずで有名で

“ぼうや”と呼ばれ

市長としてタマニー・ホールタマナ首長混同しながら

落下へと突き進んでいった*7

そして私たちは水準をあげる

賢く健全な魂を回復するために

狩人たちは

百年前からずっと見て、そして絶望してきたのかも*8

そして驚きをもって見つめて

私たち公園に捨てて錆びつかせてきた捧げ物を

私たちの髪をピンと逆立てると誓って

ジョン・パーロイミッチェルを見送るために

私たちの働きが不可欠なのかもしれない西部戦線

慈悲を! 神よ!

出て行って、狩人が石碑を解読するのを待って*9

この街の下に何が横たわり、去っていったのか

見よ、そして絶望せよ

見よ、そして絶望せよ

---

1 シェリーの詩『オジマンディアス』より。古代エジプトの「王のなかの王」オジマンディアスを詠った詩。このあと続く砂漠遺跡イメージシェリーの詩に準じている。全体をつらぬくモチーフでもある。

2 ゴッホ絵画パッチ・オブ・グラス』のこと。

3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作の絵画についてのエピソード。この作品は長いあいだ、旧約聖書外典トビト記を下敷きにしたポピュラー宗教画モチーフ「トビアス大天使ラフェエル」の絵だと信じられてきたが、のちの研究でもともと「母親子供」の図として描かれたものティツィアーノ弟子宗教画へ改変したものと判明した。

 ちなみに「トビアス大天使ラフェエル」はこんな話。ユダヤの盲人トビトの息子トビアスは、父親から昔貸した金を回収するように命じられてメディアの地まで旅をする。そのとき同行者として大天使ラファエルがトビアスについてくる。トビアスは旅から帰るまで、自分の同行者がラファエルだと気づかなかった。

4 歌詞では「potter’s field ポッターフィールド」。無縁墓地を指す。語源新約聖書マタイ福音書銀貨三十枚でキリストを売ったユダ自責の念からクビをつって自殺ユダから押し付けられた銀貨のあつかいに困った祭司長たちは陶器職人(potter)の地所を購入し、行旅死亡人墓地に定めた。

5 ワシントンスクエア公園のこと。パリ凱旋門モデルにしたワシントンスクエア・アーチが建っている。もともとは貧困者用の無縁墓地で、今もその下には2万人以上の遺体が埋まっているという。

6 オーストラリア人画家アーサー・ストリートンの絵『Spring』の元ネタになった人物のこと。ストリートンの恋人だったらしい。

7 「ニューヨーク市長坊や」の異名を取ったジョン・パーロイミッチェル1914年から17年までの三年間、ニューヨーク市市長を務めた人物。彼は当時ニューヨークを仕切っていた悪名高き集票マシーン一種政治団体タマニー・ホールと激しく対立し、17年の選挙落選するや第一次世界大戦に参加するため空軍へ入隊した。入隊の翌年、彼は飛行訓練中の事故で死亡。原因はシートベルトを締めなかったことによる落下事故だったという。

8 シェリーの詩『オジマンディアス』の「全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」から引用

9 ホレイショ・スミスの詩『オジマンディアスから

2015-07-10

http://anond.hatelabo.jp/20150710171028

面白いから回答してみよう。せっかく増田見出しをつけてくれたんで、それぞれにツッコミながら

 

概要

五輪当初、開催計画書に記載されていたコンセプト「環境対策」「世界一コンパクト大会」「1964年東京五輪施設再利用からだいぶずれているのが気になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/2016%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E6%A7%8B%E6%83%B3

これがIOCに提出されたのが2009年新国立競技場の計画が現在の形になった2012年までの間に何かがあったのだろう

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4

[参考]

総工費2520億円の巨大さに隠された秘密

増田がなぜかドルベース予算計算しているが、為替重要なのは費用の大部分を海外から調達した場合のみ

多くの費用人件費みたいな国内要素だったりすると想像されるので、2012年から為替変動は無視してもいいんじゃないかと考える。

いや費用ほとんどは材料費で、これが大部分海外から調達だよみたいな話だったら再考する

「アンビルド女王」という都合の良い呼称

ザハに責任をかぶせることはできない。これは同意

ザハがアンビルド女王という呼称で呼ばれ始めたのは1983年香港の高級クラブ仕事あたりかららしいので

新国立競技場のコンペの時点では相当アンビルドで有名だったはず。

コンペの要件に「まともに建設できること」を加えてなかったことが原因。

ではなぜそんなことになったのか。

ディスクロージャー情報開示

「旧国立競技場は、たぶん経年劣化で使えない(取り壊しは恐らく不可避)」

この情報は初耳。ただ、前段の議論で「1964年東京五輪施設再利用」みたいなコンセプトは一旦否定されたと見ていいので、

取り壊さずに使うにはどうすればいいかの調査予算すら立てられていなかったと想定される。

から最初から取り壊し&競技場新規作成ありき。

増田には現場に近い建築家権限が弱いことが特筆すべきことのように書かれているけど

コンセプトやら要件定義の段階でいきなり建築家意見を聞くことはなく、要件が固まってから適切な専門家を選び出すのが普通なんでこれは仕方ないように思える

責任者不在の、嘘

ここまで考えると、責任者は本当に限られた予算内で作れるものを作ろうと考えていたのかすら怪しくなってくる。

親父は何らかの目的青天井予算で車を買わせていたんでは。

読者への挑戦状

おそらく犯人というか問題点は、2009年から2012年の間に「コンパクトから重厚長大」にコンセプトが変化したことだと思う。

多分契機は震災アベノミクス震災復興強制的予算を注ぎ込んだら思った以上に景気がよくなったんで、

政治トップの方で緊縮財政派の立場が弱くなって公共事業景気回復の流れになったんだろう。ここがアベノミクス施行に至る流れで、五輪コンセプトの変化の遠因になったと推理する。

要は新国立競技場古代エジプトピラミッドだ。最初から目的は派手にカネを使うことにあったんだと思う。

 

となると今の方向は特に意図していないものではないということになるんだけど、問題納税者に何も知らせずに勝手にコンセプトを変更したこと。当初の予算1300億円も黙ってコンセプト変えるための目眩ましにしか見えない。

今一番怒られてるのは多分ここで、有識者は「金ばら撒くなら独断ピラミッド建設業界にばら撒くな。俺らにもよこせ」と主張してる。

2015-04-18

世界史だったら

世界史の教師は,授業で使った問題集をそのまま引き写した定期試験で,その問題集暗記しとけば解ける問題じゃなくて,「古代エジプト北アフリカ古代ローマ帝国の動向を300字以内で論ぜよ」とか「古代フランスの発生史を説明せよ」とか,そういう問題定期試験で出せっつのカエサルだのポエニー戦争だのを単発で答えるだけなら馬鹿でもできるわ

2014-11-14

物々交換儀礼お金基本的お話

人類学って言うのはどうしても「実例」の丹念な積み重ねになるので、その「解釈」つまり読み解き方には差が出る。

で、「物々交換なんか無かったんや」てなエントリー話題さらって、それに対する反論に引っかかるところがあったんでソレについて。

「暮れの元気のご挨拶」と「スーパーでの買い物」

人類学宿命とも言える所に、「やっぱ珍しいところから入るだろJK問題というのがある。

日本人って、デート神社縁日金魚すくい彼女浴衣を着てくるのが普通なんだろ?」とイギリス人から言われたらどう応える?

まあ、厳密に言えば間違いとはいえないがそれはほぼファンタジーだぞ、という説明は難しい。

例えば、物々交換はあったと言う例でスターを集めているコメントに以下のものがある。

いやいやいやいや。ヤップ島の例だけを根拠学説全否定するのはどう考えてもおかしいでしょ。トロブリアンド諸島のクラとか、ポトラッチ(蕩尽)とかどう説明するの。人類学の成果を無視しすぎ。

トロブリアンド諸島のクラ』とは、ザックリ言えばパプア・ニューギニアの島々で行われている儀礼的な交易を言う。

Kula ringなんかでググると出てくるから省略するが、これはgift economies、つまり贈与経済とされる。

というかだ、仮にも人類学という単語を発するからには、近代人類学の父と呼ばれるブロニスワフ・マリノフスキを避けては通れないし、

彼がその名声を確立したクラをめぐる『西太平洋の遠洋航海者』を読んではいなくても概要ぐらいは触れたことがあるだろう。

単なる装身具にすぎない腕輪や首飾りを交換するためだけに危険海洋交易を行う理由が、経済的な財物の交換ではなく、政治的権威とその維持を含めた儀礼的な制度であるという主張だ。

また、『ポトラッチ(蕩尽)』も同様だ。これも「贈り物」が語源とされる北米インディアン伝統的な贈与経済だと言われている。

ザックリ説明すれば、その構成グループの中でイベントがあると、一番持っているヤツが振る舞うという、風習だ。

簡単に例えよう。

日本には古来物々交換なんぞ無かったと言われて「おいおい、お中元お歳暮無視する気かよ」と返しているのと同じだ。

普段のお買い物の話に対して、儀礼的な相互贈与で反論するのは、控えめに言っても筋が悪い。

古代物々交換の話

というかだ、人類学チョコっとでもかじったことがある人間なら、クラ、ポトラッチとくればピンとくる。

フランス文化人類学であるマルセル・モースの代表作とも言える「贈与論」だ。

文化人類学では「お返しを期待する贈り物」を「互酬」と言い、リターンを期待しない「真の贈り物」とは区別して語られる。

で、この互酬のうち、遅延して交換するものは、基本的儀礼的だったり政治的だったりする。

そして、即時の交換(その場で交換する)ものを、Barterつまり物々交換と呼ぶ。

で、この物々交換お金起源として(比較的悪しざまに)主張したのが、アダム・スミス国富論(The Wealth of Nations)だ。

ただ、さっきまでの話で判る通り、文化人類学者は常々「いや、物々交換って基本的には部外者とのやりとりに使ってただけで、村人同士では儀礼的なものだよ」と言ってきた。

じゃあ、お金ってどこから来たの?

言葉が通じる同じ仲間同士で、物々交換が行われていたという強固な証拠は無い。というか見つけづらい。

が、沈黙交易(Silent Trade)と呼ばれる、言葉の通じない(場合によっては通じても姿を見せない)相手との物々交換が行われていた記録はある。

信用も無く関係性も希薄なので、その場で交換する必要があって、社会的義務政治的権威とは切り離される。

この場合、お互いに価値が有るものとして砂金や塩を用いることはあった。

古代エジプトにおいても、鋳造貨幣は対国家のような対外取引でしか用いられなかった事からも、貨幣は信用と切り離されて当初存在した。

それがそのうちに、「金銀を持ち歩くの危ないから、金庫に入れておいて引き出せる札だけやりとりしようぜ」となった。

これが紙幣発生の一形態だ。(他の発生形態もあるので、調べてみると面白いよ)

ここで、巡り巡って、原始的な村人の相互扶助形態に戻る。

まり、「この札を持っていけば金に交換される」という信用がトレードの基礎になっているのは、

「オレが今日は魚をやったけど、こんど家の建て直し手伝ってくれよな」という顔なじみの村民にある信用と、本質的には同じだ。

その村でその信用を裏切る行動を取れば、適切に制裁されるという「村秩序に対する信用」が、村人間の普段のお買い物の基礎になっている。

お金の話と、評価価値経済

譲渡することのできる信用がマネーだと言っているが、人類学はそれに反論はできない。

実例の積み重ねと、演繹から論述は、方向性が違うからだ。

文化人類学者が積み重ねてきたことは、単純な物々交換とクラ交易とは違うという反論だ。

あるグループ内で通用する単位が、他のグループにおいても通用するとされた時に、マネーが産まれると言われれば、

そういう定義もあるかも知れないな、と思うだけだ。

極端なことを言えば、「1シナモン」という単位を作って、はてな流通させても良いわけだ。

ある人が「これ釣りか解説欲しいんですけど」→「これは釣り記事です」と解説するのが10シナモン

ある人が「これほんとかなあ」→「これは科学的にこうオカシイ」と解説するのが5シナモンだとしても良い。

これが、スポンジボブとお姑サンの間で行われている間は、単なる貸し借りの単位しか無い。

「今回は私が解説したので、3シナモン相殺ですね」とかできるわけだ。

それが「5シナモンくれたら、Microsoft戦略について語るよ」とか

10シナモンで家を建てます」とか他人が入ってくると、

これはもう、評価価値経済になる。

そして、そうならないだろうと素朴に想像できることが、お金本質になる。

シナモンという評価価値無限に生まれるが、それを適切に流通させるには、信用が必要になる。

この「信用」とは何か、「1シナモン」で記事を依頼したり、記事を書いたりする為に何が必要か考えると、お金とは何かという答えになる。

ニクソン・ショック以降、(正確にはニクソンよりちょっと後だけど)通貨金本位制でなくなった時点からお金とは信用とそれを担保する何かによって支えられている。

まとめ

沈黙交易代表される「信用出来ない相手との物々交換」は行われていたし、証拠も記録もある。

ある集団内での資産(獣や魚や穀物)を再分配する機能が、巨大化するにつれて歪んだ記録もある。

しかし、クラ交易ポトラッチは、単純な物々交換と異なる「互酬」つまり、信用や政治的権威を背景にした贈与文化であるとされている。

それどころか、文化人類学者であったモースは、経済的な取引は社会的価値交換の一部に過ぎなかったとすら言っているのだ。

まり、大昔に物々交換は無かったのだ!と言われた時に、物々交換はあった!として例示する対象として、全く相応しくない。

---

なお蛇足ながら、集団内の物々交換煩雑から媒介物としてタバコが用いられた近代の記録なら、あるよ。

(The Economic Organisation of a P.O.W. Campでググると良いよ。超面白いよ)

2014-05-15

ホンマでっか-女性に対する些細な疑問-まとめ

女性ってなんで何に対しても直ぐ「カワイイ」って言うの?

01:女性が言う「カワイイ」は半分本音で半分社交

 顔の真ん中に目がありふっくらしている→生得的にカワイイ認知

02:「カワイイ」を共感しないと女性同士の仲が崩れる

 女性同士はモノを介在させてコミュニケーションをする傾向が

03:女性同士は否定を共感すると強い友情が生まれる

 肯定の同意友情 否定の同意→より強い友情

04:カワイイ共感すかで仲間かどうかを判断

 カワイイ共感するかで仲間か判断→女性同士の暗黙のルール

 若い女性はお揃いで買いたがる→一緒に買わないと強い反感に→8人中7人は後悔する

05:女性現実的なのは結婚生活だけ

 女性結婚すると現実的な考え方になる傾向が強い

 基本的女性は何歳になってもロマンチストな部分がある

06:結婚生活を脅かす物は女性にとって全て敵

 結婚後は楽しませてもらったことより現実的な金銭の方が気になる傾向が

 交際中は生活費を脅かさないため単純に喜べるが結婚後は別

07:女性は泣く男性を見てかわいいと思う

 泣くなど、女性が守りたくなる様な振る舞いをする事が重要

08:「カワイイ」と言うと顔が可愛くなる

 カワイイ母音が「ア」と「イ」→歯が出て可愛い表情に

09:「カワイイ」は生存競争を避ける為の言葉

女性ってなんで男性に気を持たせるの?

10:女性が言う「カッコイイ」はただの挨拶

11:気がある女性を見分けるには瞳孔が開いているか見ろ

12:女性から「カッコイイ」と言われたら脈が無い

 オスが先にアプローチ→その中からメスが選ぶ

 アプローチが無いのに「カッコイイ」は挨拶の可能性が高い

13:女性は見た目で男性を判断しない

14:女性は男の服装を見て稼ぐかどうかを判断している

 恋愛に発展しやすいが結婚愛として見られるかは別

15:ボディタッチをする女性は男の集団全員にモテたい

 ボディタッチでアプローチしてほしい事を男性全員に伝えている

16:女性は男が何を身につけているか直ぐチェックする

 稼いでる=自分の為に使ってくれると判断→お金を使わないと逆効果

女性が爪にこだわるのは何故?

17:女性自分で見て満足出来るから爪にこだわる

 メイクは鏡を見なければ自分で満足感が得られない

 手や爪は常に目に入る→満足感を得やす

 手や爪をほめられると自分で得た満足感が2倍に

 古代エジプトの王ファラオが爪にマニキュアの跡が

 マニキュア=高貴な人の象徴お姫様の心を持っている

 見た目で勝負できなくてもネイルで女度を上げられる

18:アラフォーを過ぎると見た目では勝負できないからネイルをする

 先っぽシンドロームの表れ→まつ毛のエクステ・肘膝のエステアラフォーから格段に増える

 結婚できないアラフォー女性の特徴→ネイルエステ通い、海外旅行好き

19:男女の違いが出るのは指先

 検視性別が分からない遺体は指先を見て判断

 細い指先は女性象徴→爪を飾るのは当然

20:ハイヒールの高さと爪の長さは相関する

 女性は女らしさを意識するとハイヒールを高くしたり爪を長くする傾向が

女性は「優しい人が好き」というが「優しい人」と「いい人」の違いは?

21:5回に1回優しくすると女性はハマりやす

22:女性の怒りにすぐ優しくすると安い男に見られる

23:女性の言う「優しい人」は自分にとって都合がいい男

24:女性は人の前ではなくこっそり褒めろ

 ほかの女性にわからないように褒めると効果

25:いい人は社会から見てで女性感情は無い

 優しい→古語「やさし」→身も痩せるほど思うという意味

26:自分コストをかけてくれる男性=優しい人

27:「優しい人が好き」な女性=かまって欲しがる女性

 わがままな可能性大

28:多くの女性とHが出来る男は自己中でスリルを求める嘘つき

 世界3万5千人調査したアメリカ大学が発表

女性ってなんで結婚したら変わってしまうの?

29:女性はだれでも20代半ばから女らしくなくなる

30:女性は70歳を超えると女性ホルモンが男の1/2に

31:女性結婚するとより自分テリトリーを守ろうとする

32:女性の99%が「変わったのは旦那のせい」と思っている

33:妻から見て夫は外から雑菌を家に持ち込む人


34:子どもが生まれたら世の夫はほぼお荷物状態

35:妻は夫のさりげない優しさに気付く余裕はない

36:女性にとって結婚はゴール、男はスタート

37:結婚男性ストレス女性の約22倍

38:料理が好きな女性結婚後変貌する

2014-04-26

猫背が治った気がする

犬派か猫派か。

人類誕生した時にはすでに争いの火蓋は切って落とされていたという。

古代エジプト時代に至り、ついに猫が神格化されたことによって決着が着いたように思えたが

ペルシア人のエジプト侵略によって猫の地位は降格した。

 

 

しかし、それでも現代に至るまで猫派が優位にたち続けていたことは日本のことわざからも分かるだろう。

例えば「猫の手も借りたい」という言葉がある。

何の役にも立たない猫の手でもいいから借りたいという意味である

何の役にも立たなくても借りたいのは犬ではなく猫の手らしい。

激怒した犬派が作ったのが「豚に念仏猫に経」であったが、巻き込まれた豚派は猫派につくことになりますます猫派の勢力は増していったという。

なぜか馬派の一部も猫派にまわったというのはまた別の話になる。

 

 

くそんなくだらない議論を交わしている猿どもにはうんざりさせられる。

猫か犬かなんて嗜好の問題はどうでもいいし、僕はどちらか一方に肩入れする気はない。

しかしなぜか猫背だ。

猫背からといってなにか困ることがあるわけではないがみっともない格好であることは確かだ。

そこで猫背が治す方法という本を買ってみた。

そこには膝立ちをすると猫背が治ると書いてあったのでさっそく試してみるとなるほどたしかに背筋ピンとなる。

だがまさか膝立ちで生活するわけにはいくまいと思いそのままの体勢で本を読み進めるとどうやら重心をつま先の方にかけて立っていると猫背になるらしい。

僕はまさにいつもつま先に重心をかけているようなしょうもないである

さらに読み進めるとかかとの方に重心をかけろと書いてあった。

立ち上がりやってみるとたしか猫背が治っているような気がする。

僕は犬派だ。

2014-03-26

ツタンカーメンの生涯が壮絶すぎてヤバい

ツタンカーメンすごい、まじすごい。

何がすごいって生まれ育った家庭がまずすごい。

王家なのはいいとしても、お父ちゃんがとち狂っててまじやばい

このお父ちゃん名前アメンホテプ4世って言うんだけど、

ある日、アテン神というよく分からない神様への信仰に目覚めちゃう

今までの宗教全部否定して、アテン神のために都まで遷都

本人も改名して、アクエンアテンアテンに仕える者)みたいな変な名前にしちゃう

今でいうなら、親父が突然新興宗教にハマって、変な名前を名乗り出した挙句修行とか始めちゃう感じ。

そんなお父ちゃん配偶者になった人もまた一味違う。

なんとツタンカーメンのお母ちゃんは、お父ちゃんの妹。

まりツタンカーメン、血濃すぎ。でも、これ古代エジプトでは普通のこと。

結局、そのお父ちゃんは大騒ぎしたあげく、民衆の支持は得られないまま志半ばで憤死。

そして、息子であるツタンカーメンが若干9歳にして王位に着くことに。

さすがに、お父ちゃん奇行を間近で見ていただけはある。

もう新興宗教はやりませんよって言って、昔の信仰を復活させる。

今でいうなら、自分も2世なんだけど親父がはまってた仏教系の新興宗教にはうんざりしちゃって

土着の神様を讃える神道転向する感じ。

ちなみに、ツタンカーメンの奥さんとなったのは、

アンケセナーメンっていう人なんだけど、この人実は、お父ちゃんの前妻。

まりツタンカーメンから見たら、

昔お父ちゃんすったもんだあった人が今の嫁。

ビッチだなおい。

でも、これも古代エジプトでは普通のこと。

そんなツタンカーメン即位してから10周年、19歳のある日ひょんなことから骨折してしまう。

さらに運悪くマラリアにもかかる。

そして、生来虚弱体質が影響してか、なんとそのまま死んじゃう。

これがマジヤバいファラオことツタンカーメンの生涯。

ここでツタンカーメンの不運も終わるかと思いきや話はまだ続く。

ツタンカーメンミイラを作ったミイラ職人は、やたら茶目っ気のある人間だったのか、

よせばいいのにツタンカーメン男性器を90度曲げて天井に向かった状態で固定した。

ツタンカーメンミイラ発見したハワードカーター氏も、

さぞかし驚いたことだろうと思うが、そこはさすがに考古学者。

直立した男性器についてのメモがしっかり残っている。

おかげでツタンカーメンミイラ勃起していたなんていう話が広がるハメに。

後にも先にもそんなミイラなんてツタンカーメンしかいない。

誰かの茶目っ気のせいで後世でまで笑いものにされる。

ツタンカーメン呪いの矛先は、

盗人でもなく考古学者でもなく、もはやツタンカーメン自身に向かっていたんじゃないか。

ツタンカーメン人生、壮絶すぎる。

2012-10-26

Pocket Planes 都市解説日本語

アフリカ

Al Fashir
エル・ファシールは、周辺地域でつくられた穀物や果物を供給する農業市場です。
Algiers
アルジェは、海から迫り上がるように建てられた白く輝く建築群のために、別名「白のアルジェ」と呼ばれています。
Bamako
バマコという名前はバンバラ語で「ワニの河」を意味する言葉に由来しています。
Beira
ベイラは、ジンバブエ、マラウィ、ザンビアなど南アフリカ諸国が輸出入を行う、古くからの主要な交易地です。
Benghazi
ベンガジの地は、2011年のリビア内戦で転換点となりました。
Cairo
カイロは、スフィンクス像やギザのピラミッドに近いことから、古代エジプトとも関係が深い都市です。
Cape Town
ケープ・タウンは、東アフリカインド、極東への供給基地として、オランダ東インド会社によって開発された都市です。
Casablanca
カサブランカ港は世界でもっとも大きな人工港の一つで、モロッコの経済、ビジネスの中心とされています。
Dakar
ダカールは、かの有名なダカールラリーの終着点でした。
Djibouti
異国情緒あふれる建築群が立ちならぶジブチは、「紅海におけるフランスの香港」と呼ばれてきました。
Durban
ダーバン市の有名な海浜地帯は、ゴールデンマイル、あるいは日常的に「マイル」という名前で呼ばれています。
Harare
ハラレ(1982年以前はサリスベリー)は、ジンバブエ最大の都市であり、首都でもあります。
In Salah
サラという名前は「よい泉」という意味の言葉に由来していますが、イン・サラの水はむしろ悪質で塩辛いことで知られています。
Johannesburg
ヨハネスブルグは世界の輝かしい首都であると主張していますが、その栄冠を主張する都市は他にもあります。
Juba
(Wiki のリンク先がムンバイになっています)
Kaduna
カドゥナのシンボルは、現地ハウサ語でカダと呼ばれるワニです。
Kampala
ブガンダのカバカ(王)、ムテサ・イは、やがてカンパラと呼ばれるようになるこの地域をお気に入りの狩り場としていました。
Kananga
カナンガとは「平和と愛の場所」という意味です。植民地時代以前は、領土問題を解決する条約の制定会議のために首長たちがここに集まったためです。
Khartoum
(Wiki のリンク先が長崎になっています)
Kinshasa
キンシャサは、コンゴ川リビングストン滝上流において航行可能な、初めての港として建設されました。
Kisangani
サンガニは、コンゴ密林地帯最大の都市です。
Lagos
ラゴスは、小川に隔てられた、ラゴス潟湖の南西口を縁取る島々に生まれた大都市です。
Lilongwe
リロングウェにはたくさんのヨーロッパ人と南アフリカ人が住んでおり、多くの国際支援機関がここを本拠地にしています。
Livingstone
リビングストンは、巨大で美しいビクトリア滝の水源地です。またの名をモシ・オア・ツニャ、「雷鳴轟く煙」という意味です。
Lobito
ロビトは、アフリカで最も良質な天然港を利用するために、ポルトガルマリア二世の命令で1843年に建設されました。
Mahajanga
マハジャンガは、美しい浜辺、ココナッツの木が並ぶ遊歩道を備え、そして雨のふらない晴れ間が8ヶ月続く、人気の観光地です。
Mogadishu
モガディシュは、インド洋沿岸のベナディール地方にあり、数世紀にわたって重要な港として機能してきました。
Mombasa
モンバサは、近代において香辛料、黄金、象牙貿易の重要な中心地でした。
Monrovia
1822年に建設されたモンロビアの名前は、リベリア植民地化の突出した支援者であった合衆国大統領ジェームズ・モンローにちなんで名付けられました。
Nairobi
ナイロビ国立公園にはライオンキリン、クロサイなどたくさんの動物がおり、また400種以上の鳥たちの繁殖地にもなっています。
Port Elizabeth
ポート・エリザベスにある聖ジョージ公園のクリケット競技場は、オーストラリアイングランド以外の地で練習試合が開かれた最初の会場です。
Port Sudan
ポート・スーダンは、紅海からナイル川までを繋ぐ鉄道の終着駅として、1909年イギリスによって建設されました。
Timbuktu
ティンブクトゥはサハラ砂漠の南の端にあります。砂丘に囲まれ、道路は砂で覆われています。
Tripoli
トリポリは、そのターコイズブルーの海と白亜の建物で、情緒を込めて地中海の人魚と呼ばれています。
Windhoek
ナミビア大学、ナミビアで唯一の劇場、中央省庁本庁舎、また主要なメディア金融機関はすべてウィンドフックにあります。
Zanzibar
ザンジバルの主要産業は香辛料、ラフィア椰子と観光業です。特に島嶼部では、クローブナツメグシナモン、胡椒を産出しています。

アジア

Aden
アデンは、1937年までイギリスインドの一部として統治され、アデン居留地として知られていました。
Ahmedabad
アフマダバードは、20世紀前半におけるインド独立運動の最前線でした。
Anadyr
アナディリは、ロシア東端の街であると同時に、ロシア極東地方にとって重要な港と空港になっています。
Baghdad
チグリス川沿岸に位置するバグダードの街は8世紀に成立し、アッバース朝の首都となりました。
Bangalore
バンガロールは庭園都市とも呼ばれ、かつては隠居生活天国と呼ばれていました。
Bangkok
バンコクでは、夜の繁華街に加えて文化的建造物やアトラクション異国情緒を醸し出しています。
Beijing
北京首都国際空港は、世界で二番めに多い利用者でごった返す空港です。
Butwal
ブトワールは、西ネバールカトマンズ都心を繋ぐ主要な玄関口です。
Cebu
セブでもっとも有名なランドマークマゼラン十字架です。1521年に、フェルディナンド・マゼランが鋳造したと言われています。
Chengdu
成都には、世界的に有名なジャイアントパンダ生育研究所が設立されています。
Delhi
ニューデリーの設立記念碑は、英国王ジョージ5世とマリー妃によって1911年12月15日キングスウェイキャンプに定礎されました。
Dhaka
ダッカの街では毎日40万台の自転車リキシャが走り回っており、世界一のリキシャの首都として知られています。
Guangzhou
1514年、欧州人として初めて広州にたどり着いたポルトガル人は、遠隔貿易の独占権を確立しました。
Hanoi
ベトナムの首都ハノイは、2010年、公式に建設から1000年を迎えました。
Harbin
ハルピン国際雪祭りは、世界四大雪祭りの一つです。
Hong Kong
香港は、1997年に中国が統治権を取り戻すまで、大英帝国植民地となっていました。
Hyderabad
ハイデラバードは、トリウッドとして有名なテレグの映画産業の中心地です。
Istanbul
今はイスタンブールです。コンスタンチノープルではありません。
Jakarta
ジャカルタは、別名ビッグドリアンといいます。ビッグアップルと呼ばれるニューヨーク市インドネシア版と目されているためです。
Jerusalem
イェルサレムは、三つのアブラハムの宗教、ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地です。
Kabul
カブールは3500年の歴史を持っています。交易路に位置するその立地の戦略性のために、多くの帝国がカブールの谷を巡って戦ってきました。
Kandahar
カンダハール地方は、高級フルーツ、特にザクロブドウの産地です。
Karachi
カラチは、南アジアと広域イスラム世界における高等教育の中心地です。
Kolkata
かつては英語綴りの Calcutta が正式名称でしたが、ベンガル語の発音にあわせるため2001年に Kolkata に変更されました。
Kuching
クチンはブルネイ首長国の一部でしたが、1841年に、英国人冒険家ジェイムズブルックの個人王国として割譲されました。
Kuwait City
1936年の油田発見によって、衛生、教育サービスなどクウェート市の生活水準は劇的に向上しました。
Lhasa
ラサは、ポタラ宮、ヨハン寺院やノルブリンカ宮殿など、チベット仏教の強い文化的特徴をもつ土地です。
Magadan
マガダン経済の主な収入源は、金鉱業と漁業です。
Manila
マニラは、1平方キロメートルあたり43,079人が住む、世界一人口密集率が高い都市です。
Mumbai
かつてボンベイとして知られたムンバイは、インドで1番、また世界では4番めに人口が多い都市です。
Muscat
マスカットは、アラビア海オマーン湾岸、戦略地であるホルムズ海峡の近くに位置しています。
Nagasaki
1945年8月9日、長崎はアメリカによる2度目の原爆攻撃の標的になりました。
Nanping
南平を取り囲む高い城壁は、古代に敵襲に備える防壁としてつくられ、砲撃を防ぐために使われました。
Norilsk
リリスク、タルナクのニッケル鉱床は、世界最大のニッケル、銅、パラジウム鉱床です。
Novosibirsk
ノボシビルスクは、モスクワサンクトペテルブルグに続いてロシアで3番めに人口が多く、アジアンロシアでは最大の都市です。
Osaka
大阪では、大阪湾湾岸にある人工島につくられた関西国際空港が営業しています。
Padang
(Wiki 記載の英文が他の街のものになっているような…。)パダンは、平均年間降水量が4,300ミリで、インドネシアでもっとも湿度の高い都市の一つです。
Palu
パルの主婦業は、木材彫刻、木材加工、編み物、さらにカゴづくりや敷物づくりを含みます。
Pevek
20世紀を通してソ連に錫、ウラニウムを供給したペヴェクの労働者は、強制労働制度による囚人たちでした。
Port Moresby
1975年9月、パプワニューギニアはポート・モレスビーを首都として独立しました。
Rangoon
ラングーンの下町は、緑に包まれた通りと、デカダン調の建築物で知られています。
Riyadh
サウジアラビアの首都として、リヤド南アジアイエメンスーダンなどの出身の住民も住む多様性のある都市です。
Sapporo
札幌は、サッポロビールと、有名なホワイトチョコビスケット、白い恋人の地元です。
Sendai
2011年3月、マグニチュード9.0の地震とそれに続く大規模な津波が仙台を襲い、深刻な災害を引き起こしました。
Seoul
ソウルは、世界でもっともインターネット接続率が高い都市です。全人口の半分以上がブロードバンド接続を活用しています。
Shanghai
上海は、人口において中国、世界でもっとも大きな都市です。
Shenyang
瀋陽は、中国東北地方における主に日本、ロシア、朝鮮との交通、商業の中心地です。
Singapore
シンガポールは、シンガポール島、またの名をプラウ・ウジョン島として有名な本島を含む63の島々で構成されています。
Taipei
台北101は、101階建ての超高層ビルで、完成時には世界で一番高い建物でした。今は2番めです。
Tehran
イランはその歴史上、何度も遷都をおこなってきました。テヘランイラン国家の首都として32番めになります。
Tiksi
ティクシの冬はとても寒く、11月から2月まで、気温はずっと氷点下です。
Tokyo
東京は日本の首都で、世界最大の都市です。ゴジラなどの巨大怪獣に定期的に破壊されます。
Ulan Bator
ウランバートルは、1639年に遊牧民仏教修行の中心地として建設されました。1778年に、現在の位置に恒久的に落ち着きました。
Urumqi
中国西域最大の都市ウルムチは、世界一海から遠い都市の記録を保持しています。
Vladivostok
ウラジオストクロシア太平洋艦隊の母港であり、太平洋におけるロシア最大の港です。
Xi'an
秦始皇帝陵と兵馬俑は、西安郊外にあります。
Xining
西寧は、夏の涼しさから中国避暑地の首都とも呼ばれてきました。
Yakutsk
ヤクーツクは、1880年から1890年代に金やそのほかの鉱物の大規模な埋蔵が発見されて以降、都市として発展しました。
Yinchuan
銀川は、周辺草原地帯の遊牧民が飼う家畜の群れから生産される動物製品を取り扱っています。

2010-06-28

http://anond.hatelabo.jp/20100628020830

最初一神教の神を発明したのは、BC1300年頃のモーゼたん、もしくはその何代か前あたりのユダヤ民族司祭誰かさん

キリスト教イスラム教も信じてる神様ユダヤ教と一緒。キリストを神の預言者として認めた人たちが立てたのがキリスト教キリストに加えてムハマンドも認めてるのがイスラム教。実は「唯一神」というのは史上ただ一度しか発明されてない、かなり変わった発想。

古代エジプトで一時流行った太陽神信仰一神教として認める異説あり)

2010-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20100319150817

そうかなあ。fjの頃からそういう人は一杯いたし、声も大きかったと思うけど。

おれは経験してないけど、80年代後半のパソコン通信とかもそういう人ばっかりだったと聞く。

むしろ最近のほうがマトモな人が多いんじゃないの?

(追記)っていうか元増田の書き込みも20年くらい前から言われ続けてる事な気がしてきた。古代エジプトから連綿と続く「最近の若者は」系か。

2009-10-24

どっちがゆとり

モンスター社員続出で右往左往する現場 「自己チュークラゲゆとり世代を戦力化するコツ』

http://president.jp.reuters.com/article/2009/10/24/BA8D7BF0-BA29-11DE-A839-21F13E99CD51.php?rpc=110

ゆとりゆとりと嬉しそうに新入世代をあげつらう記事の書き手が何歳(いくつ)か知らねえが

「近頃の若者は……」と紀元前古代エジプトの時代からいわれ続け、そんなステレオタイプ若者批判論をいさめた「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」という山本56言葉も残っている。それにしても、企業現場では首をかしげたくなるケースが続出しているようなのだ。

こんな、間違い以前の非常識を平然と放置する馬鹿に言われたくないだろうと、心から若者を気の毒に思う。

2009-03-22

[]最近の若い者は

最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。

いつの時代も言われ続けることは大切な真理知恵を含んでいる。

従って、若者はいつの時代もけしからん。

 最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。この事実をもって「いつの時代も言われることだからたいした意味はない」と結論するのは一つの解釈に過ぎない。「いつの時代も言われることだから真実を含有している」と考えることも可能だ。その場合、人類は有史以来堕落し続けている。

 だがそう考えるのも極端すぎるので、結論としては、「いつの時代もジェネレーションギャップ存在する」と言う当たり前ことになるだろう。

2009-01-23

[][]Three wise monkeys

http://www.flickr.com/search/?q=Three+wise+monkeys&m=text

wikipedia

3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトにも見られるもので、シルクロードを経由して中国から伝わったものだという見解がある。

また、『論語』の一節に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿動」(礼にあらざるものを視るなかれ、聴くなかれ、おこなうなかれ)があり、中国ではこんにちでも、妊娠中の女性は胎教の観点から「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」という戒めを受ける。朝鮮半島においても、結婚前の女性は「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」と教育される。

インドのマハトマ・ガンディーは常に三匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの3猿」が掲載されている。またアメリカ合衆国では教会日曜学校などで、三猿を用い、猥褻なものを見たり、性的な噂を聴いたり、嘘や卑猥なことを言わないよう諭すことがある。

2008-11-01

景気と公共事業関係がやっぱりわからなくなった

経済のことは素人

景気対策と称して公共事業が拡大されることが批判されてきたのは、その中に多くの無駄公共事業社会活動や経済活動に寄与するインフラにならないが含まれていたからと解釈してきました。北海道原野高速道路とか。

確かに、役に立たない仕事に人を駆りだして賃金を出すんなら、単に拘束を条件に賃金を出しているだけなわけで、それはもう失業者に生活保護を支給してるのと意味的に全然変わらない、と言えるし。(もちろん、勤労意欲の維持とか技術の維持とか産業の維持とかの意味がある文は全然違うけど。でももっと短期的な問題である景気とは関係ない)

その意味で、古代エジプトピラミッド建設は農閑期の農民のための公共事業だったのだという説には疑問を持っていた。北海道高速道路以上の役立たず建造物じゃないの。

ところが、だ。

今回の金融危機のことで1929年大恐慌のことを調べてみると、意外なことが言われているのね。

米国大恐慌後の不況から立ち直った最大の要因は、有名なニューディール政策そのものよりも太平洋戦争開戦による大戦特需の方であったらしいということ。戦争ですよ。ピラミッド建設をはるかに超える無駄公共事業ですよ。インフラへの寄与ゼロどころか巨大なマイナス。もちろん財政にも巨大なマイナス。しかも、勝ったからって大した権益が手に入るわけでもない対日戦。

朝鮮戦争日本特需に湧いたのはわかります。日本にとっては公共事業じゃなくて単なる輸出増加だったわけだし。

大戦特需米国不況から立ち直ったというのが本当なら、やっぱりバラマキ公共事業景気対策になるというのは正しいのか? それとも戦争は公共支出の経済効果とかではなく国民を団結させるとかそういう心理的な作用を持つから別枠で考えるべきなのか?

わからなくなりました。

2008-08-30

組織情報共有は統一教会」かよ!

報連相洗脳カルトマインドコントロール手法だった - 地下生活者の手遊び

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080830/1220032774

とうとうここまで来ました。下位の職務階層から上位の職務階層への情報伝達、連携各部署との情報共有、特殊知識資源保持者からの助言、などはおそらく古代エジプトピラミッドつくっている頃からあっただろう。「あそこに石を持ってきました」「石を滑らせるコロが足りなくなってきたから作ってくれ」「そろそろ休みが欲しいのですが明日は雨でしょうか」とかね。それらをそれぞれ「報告」「連絡」「相談」と呼び、三つの熟語の先頭の文字をつなげれば「ホウレンソウ」だ、というのは、あれだ、あれと同じだな。子供向けの防犯標語「いかのおすし」。

http://www.excite.co.jp/News/bit/00091209572660.html

●いか いかない(知らない人についていかない)

●の のらない(知らない人の車に乗らない)

●お おおきな声で呼ぶ

●す すぐ逃げる

●し しらせる(何かあったらすぐ知らせる)

ホウレンソウ」も標語としての出来はともかくとして、覚えやすそうだからどっかの財界人が提案したのをいろんなところが真似して使った、という中に統一教会もあった、だから「ホウレンソウ」は「洗脳カルトマインドコントロール手法だった」、というのか。統一教会がするめ売ってたらおちおちするめも食えなくなるな。おいおいこれは「古い箒を燃やしていたから魔女」という感じで、愉快な中世風景だな。黒猫を飼っていたら魔女点字を使っていたらナポレオン軍のスパイアストンマーチンに乗っていたらMI6、いくらでも応用が利くよ。

統一協会のツールであることに由来するからという理由だけで「ホーレンソウ」がダメだと断ずるつもりはにゃーです。エントリでもそのあたりは注意して書いたつもりですにゃ。

こんな追記をしたって、無茶は無茶だろ。統一教会が使っていたからだけではなく、「個人の主体的な判断を失わせるから」「ホーレンソウ」、組織情報共有はダメですか。そんな突飛な警鐘を鳴らすなら、コミュニケーションを行う人間関係は主体的な判断に影響を及ぼす可能性がどれもいくらかはある以上(ていうかコミュニケーションはそういうもんだろ)、それをカルトと呼ぶなら全部カルトっぽくなる危険性はあるだろ。

それでもって、徒党を組んでひとりを「脳の失敗」「あたまがわるい」「半ば本気で死んでくれ」とか吊るし上げる「はてサリンチ」は、オープンだからまだしも陽気でむしろ爽快なカルトですな。「十字砲火の的になるぞ」とかいうのもいるしな、オウムの武闘派みたいなもんだな。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://rage.cocolog-nifty.com/log/2008/08/les_mirroirs_0f91.html

苺が食べられなかった猫ちゃんがニャンニャン泣いているのかな?(笑)

2008-07-03

よく公務員の味方が奴隷自慢とかいうけどさ。

アラビアの夜の種族(http://www.amazon.co.jp/dp/4048733346)」のさわりを読んだんだけどさ、古代エジプトでは奴隷が支配者だったそうだ(本が家にあるので、うろ覚えだが)。イケメン運動神経が良く頭の良い奴隷は、とても高い値がつき、主人に買われると、大切に扱われ、高度な教育をされた。主人の姓を名乗り、あとを継ぐやつもいたそうだ。奴隷リーダーは、世襲制ではなく、実力主義であり、とても強力な奴隷軍の軍事力を握っている奴隷リーダーは実質的な支配者だった。

ということは、俺らは奴隷未満の存在だったんだよ!

なんだってー!

2008-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20080404003828

ネタじゃなくて、マジだろ、これ。

梅原 実は今、親鸞についても研究しているんです。つまり親鸞の霊も来ています。今年初めにはエジプトにも行きましてね。古代エジプト太陽の神も乗り移ってきた。

檀 ちょ、ちょっと霊が多すぎますね(笑)

2008-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20080327144334

歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。

以下、主要な長さの定義や起源wikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。

メートル(現在)

現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。

1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。

メートル(起源)

1791年フランスにおいて初めて規定された。

以下の3つの案が検討され第1案が採択された。

  1. 地球北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1
  2. 赤道の周長の4000万分の1
  3. 北緯45度の地点で、半周期が1秒になる振り子の紐の長さ

これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

キュビット

肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。

紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。

それ以外の多くの西洋の文化でもキュビットが使われた。

ヤード

0.9144メートル

キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤード起源とされる説は多数ある。

フィート

1/3ヤード

足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。

インチ

1/12フィート

男性の親指の幅に由来する身体尺であったとされている。

これとは別に、イングランドエドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。

マイル

1,760ヤード

マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。

リーグ

3マイル

元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。

海里

元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。

現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。

10/33メートル

古代中国の殷の時代には既にあったとされている。

元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。

後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。

大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。

古代中国の周代に制定されたものである。

歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。

後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。

1/10尺。

当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。

周代に尺の10分の1とされるようになった。

漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。

6尺。

中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。

60間。

丁とも書く。

条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。

太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。

後に6尺を1間とする60間となった。

日本では36町、中国では500メートル

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。

日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。

律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。

ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。

江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。

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