「古代エジプト」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 古代エジプトとは

2010-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20100319150817

そうかなあ。fjの頃からそういう人は一杯いたし、声も大きかったと思うけど。

おれは経験してないけど、80年代後半のパソコン通信とかもそういう人ばっかりだったと聞く。

むしろ最近のほうがマトモな人が多いんじゃないの?

(追記)っていうか元増田の書き込みも20年くらい前から言われ続けてる事な気がしてきた。古代エジプトから連綿と続く「最近の若者は」系か。

2009-10-24

どっちがゆとり

モンスター社員続出で右往左往する現場 「自己チュークラゲゆとり世代を戦力化するコツ』

http://president.jp.reuters.com/article/2009/10/24/BA8D7BF0-BA29-11DE-A839-21F13E99CD51.php?rpc=110

ゆとりゆとりと嬉しそうに新入世代をあげつらう記事の書き手が何歳(いくつ)か知らねえが

「近頃の若者は……」と紀元前古代エジプトの時代からいわれ続け、そんなステレオタイプ若者批判論をいさめた「いまどきの若い者はとはばかるべきことは申すまじく候」という山本56言葉も残っている。それにしても、企業現場では首をかしげたくなるケースが続出しているようなのだ。

こんな、間違い以前の非常識を平然と放置する馬鹿に言われたくないだろうと、心から若者を気の毒に思う。

2009-03-22

[]最近の若い者は

最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。

いつの時代も言われ続けることは大切な真理知恵を含んでいる。

従って、若者はいつの時代もけしからん。

 最近の若い者はなっとらん、けしからんとはよく年長者が言う。いつの時代も言う。古代エジプトの時代でもそう記されているほどである。この事実をもって「いつの時代も言われることだからたいした意味はない」と結論するのは一つの解釈に過ぎない。「いつの時代も言われることだから真実を含有している」と考えることも可能だ。その場合、人類は有史以来堕落し続けている。

 だがそう考えるのも極端すぎるので、結論としては、「いつの時代もジェネレーションギャップ存在する」と言う当たり前ことになるだろう。

2009-01-23

[][]Three wise monkeys

http://www.flickr.com/search/?q=Three+wise+monkeys&m=text

wikipedia

3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトにも見られるもので、シルクロードを経由して中国から伝わったものだという見解がある。

また、『論語』の一節に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿動」(礼にあらざるものを視るなかれ、聴くなかれ、おこなうなかれ)があり、中国ではこんにちでも、妊娠中の女性は胎教の観点から「目は悪色を視ず、耳は淫声を聴かず、口は敖言を出さず」という戒めを受ける。朝鮮半島においても、結婚前の女性は「見ても見ぬふり、聞いても聞こえないふりをして、言いたくても言うな」と教育される。

インドのマハトマ・ガンディーは常に三匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたとされており、教科書などに「ガンディーの3猿」が掲載されている。またアメリカ合衆国では教会日曜学校などで、三猿を用い、猥褻なものを見たり、性的な噂を聴いたり、嘘や卑猥なことを言わないよう諭すことがある。

2008-11-01

景気と公共事業関係がやっぱりわからなくなった

経済のことは素人

景気対策と称して公共事業が拡大されることが批判されてきたのは、その中に多くの無駄公共事業社会活動や経済活動に寄与するインフラにならないが含まれていたからと解釈してきました。北海道原野高速道路とか。

確かに、役に立たない仕事に人を駆りだして賃金を出すんなら、単に拘束を条件に賃金を出しているだけなわけで、それはもう失業者に生活保護を支給してるのと意味的に全然変わらない、と言えるし。(もちろん、勤労意欲の維持とか技術の維持とか産業の維持とかの意味がある文は全然違うけど。でももっと短期的な問題である景気とは関係ない)

その意味で、古代エジプトピラミッド建設は農閑期の農民のための公共事業だったのだという説には疑問を持っていた。北海道高速道路以上の役立たず建造物じゃないの。

ところが、だ。

今回の金融危機のことで1929年大恐慌のことを調べてみると、意外なことが言われているのね。

米国大恐慌後の不況から立ち直った最大の要因は、有名なニューディール政策そのものよりも太平洋戦争開戦による大戦特需の方であったらしいということ。戦争ですよ。ピラミッド建設をはるかに超える無駄公共事業ですよ。インフラへの寄与ゼロどころか巨大なマイナス。もちろん財政にも巨大なマイナス。しかも、勝ったからって大した権益が手に入るわけでもない対日戦。

朝鮮戦争日本特需に湧いたのはわかります。日本にとっては公共事業じゃなくて単なる輸出増加だったわけだし。

大戦特需米国不況から立ち直ったというのが本当なら、やっぱりバラマキ公共事業景気対策になるというのは正しいのか? それとも戦争は公共支出の経済効果とかではなく国民を団結させるとかそういう心理的な作用を持つから別枠で考えるべきなのか?

わからなくなりました。

2008-08-30

組織情報共有は統一教会」かよ!

報連相洗脳カルトマインドコントロール手法だった - 地下生活者の手遊び

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080830/1220032774

とうとうここまで来ました。下位の職務階層から上位の職務階層への情報伝達、連携各部署との情報共有、特殊知識資源保持者からの助言、などはおそらく古代エジプトピラミッドつくっている頃からあっただろう。「あそこに石を持ってきました」「石を滑らせるコロが足りなくなってきたから作ってくれ」「そろそろ休みが欲しいのですが明日は雨でしょうか」とかね。それらをそれぞれ「報告」「連絡」「相談」と呼び、三つの熟語の先頭の文字をつなげれば「ホウレンソウ」だ、というのは、あれだ、あれと同じだな。子供向けの防犯標語「いかのおすし」。

http://www.excite.co.jp/News/bit/00091209572660.html

●いか いかない(知らない人についていかない)

●の のらない(知らない人の車に乗らない)

●お おおきな声で呼ぶ

●す すぐ逃げる

●し しらせる(何かあったらすぐ知らせる)

ホウレンソウ」も標語としての出来はともかくとして、覚えやすそうだからどっかの財界人が提案したのをいろんなところが真似して使った、という中に統一教会もあった、だから「ホウレンソウ」は「洗脳カルトマインドコントロール手法だった」、というのか。統一教会がするめ売ってたらおちおちするめも食えなくなるな。おいおいこれは「古い箒を燃やしていたから魔女」という感じで、愉快な中世風景だな。黒猫を飼っていたら魔女点字を使っていたらナポレオン軍のスパイアストンマーチンに乗っていたらMI6、いくらでも応用が利くよ。

統一協会のツールであることに由来するからという理由だけで「ホーレンソウ」がダメだと断ずるつもりはにゃーです。エントリでもそのあたりは注意して書いたつもりですにゃ。

こんな追記をしたって、無茶は無茶だろ。統一教会が使っていたからだけではなく、「個人の主体的な判断を失わせるから」「ホーレンソウ」、組織情報共有はダメですか。そんな突飛な警鐘を鳴らすなら、コミュニケーションを行う人間関係は主体的な判断に影響を及ぼす可能性がどれもいくらかはある以上(ていうかコミュニケーションはそういうもんだろ)、それをカルトと呼ぶなら全部カルトっぽくなる危険性はあるだろ。

それでもって、徒党を組んでひとりを「脳の失敗」「あたまがわるい」「半ば本気で死んでくれ」とか吊るし上げる「はてサリンチ」は、オープンだからまだしも陽気でむしろ爽快なカルトですな。「十字砲火の的になるぞ」とかいうのもいるしな、オウムの武闘派みたいなもんだな。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://rage.cocolog-nifty.com/log/2008/08/les_mirroirs_0f91.html

苺が食べられなかった猫ちゃんがニャンニャン泣いているのかな?(笑)

2008-07-03

よく公務員の味方が奴隷自慢とかいうけどさ。

アラビアの夜の種族(http://www.amazon.co.jp/dp/4048733346)」のさわりを読んだんだけどさ、古代エジプトでは奴隷が支配者だったそうだ(本が家にあるので、うろ覚えだが)。イケメン運動神経が良く頭の良い奴隷は、とても高い値がつき、主人に買われると、大切に扱われ、高度な教育をされた。主人の姓を名乗り、あとを継ぐやつもいたそうだ。奴隷リーダーは、世襲制ではなく、実力主義であり、とても強力な奴隷軍の軍事力を握っている奴隷リーダーは実質的な支配者だった。

ということは、俺らは奴隷未満の存在だったんだよ!

なんだってー!

2008-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20080404003828

ネタじゃなくて、マジだろ、これ。

梅原 実は今、親鸞についても研究しているんです。つまり親鸞の霊も来ています。今年初めにはエジプトにも行きましてね。古代エジプト太陽の神も乗り移ってきた。

檀 ちょ、ちょっと霊が多すぎますね(笑)

2008-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20080327144334

歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。

以下、主要な長さの定義や起源wikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。

メートル(現在)

現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。

1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。

メートル(起源)

1791年フランスにおいて初めて規定された。

以下の3つの案が検討され第1案が採択された。

  1. 地球北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1
  2. 赤道の周長の4000万分の1
  3. 北緯45度の地点で、半周期が1秒になる振り子の紐の長さ

これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

キュビット

肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。

紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。

それ以外の多くの西洋の文化でもキュビットが使われた。

ヤード

0.9144メートル

キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤード起源とされる説は多数ある。

フィート

1/3ヤード

足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。

インチ

1/12フィート

男性の親指の幅に由来する身体尺であったとされている。

これとは別に、イングランドエドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。

マイル

1,760ヤード

マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。

リーグ

3マイル

元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。

海里

元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。

現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。

10/33メートル

古代中国の殷の時代には既にあったとされている。

元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。

後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。

大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。

古代中国の周代に制定されたものである。

歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。

後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。

1/10尺。

当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。

周代に尺の10分の1とされるようになった。

漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。

6尺。

中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。

60間。

丁とも書く。

条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。

太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。

後に6尺を1間とする60間となった。

日本では36町、中国では500メートル

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。

日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。

律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。

ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。

江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。

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