はてなキーワード: 人知とは
そんな報告を聞くがてら、友人知人同士数名集まって話していたときのこと。
会話の流れで矛先が私に向き、Aが放った一言。
「増田くんはこんなにカッコよくて優しいんだから、絶対幸せになってほしいと願っている」
Aは見た目は普通だが男を手玉に取るのがうまいタイプ(小悪魔系とまでは言わないが)。
この集まりの中にAより顔もスタイルもいい女はいくらでもいるが、真っ先に結婚が決まったのはAだった。
Aは私のことをなんとも思っていないだろうし、私もAはタイプではないが、こういうマウントをとるかのような発言は正直腹が立った。
今までにも恋愛・結婚の話題になることはたびたびあったが、このような言及は一切なかった。
別段マウンティングの意図はなかったとしても、はっきり言って屈辱的だった。
一方でAはそんな発言ができる自分の置かれている状況に大いに満足し悦に入っているようでった。
人間とはやはり余裕を持たなければならないのだと思い知らされたが、その余裕を身に着ける術がわからない。
そもそも余裕ってなんだ。
1. 書く。
2. 文書力がない。
3. 諦める。
自分の書いた文章を見直す。まずもって文章として見やすくない。
何より面白くない。読んでも「あっそっすね。」としか思えない駄文が生成されている。
ホッテントリに上がるような増田の愚痴は、だいたい「こんだけ文書力ある人が無能なわけない」とかブコメに書かれて応援してもらってる。
数日前だかもう2週間ぐらいは経つか、TLに某バラエティ・ドキュメンタリー番組の動画が流れてきた。
「毒親」について。
ただその時、フォローしている既婚子持ち女性数人(いずれもお子さんは未就学児)が、
こんなの私もよくやる!」
と拒絶反応気味に吹き上がっていたのが気になりどうしてもモヤモヤが消えないので
ここのアカウントを取った。
強大なストレス源になったのは私の成人後なので、
つまり、これから書くことはあくまで元友人を含む毒親や虐待の経験談への印象を元にしている。
なので「知りもしないくせに偉そうに」と言われるかもしれないが、
そういった家庭や加害・被害の実体験者およびカウンセリング等の対応に仕事として携わっている「当事者」以外からの
「毒親」という存在そのものに対する軽視するようなコメント、感想は、少なくとも直接は書かないでもらえると嬉しい。
さて本題。
「こんなので毒親と言われたらたまったもんじゃない」と、怒りというより悲鳴のようなコメントを上げていた方々は、
(動画に対して)食事の時間が決まってるのに、作ってから「いらない」と言われてもキレたらだめなのか
感謝の言葉ひとつなければ「私はこの家の何なの」と言いたくもなる((動画内で、姉妹仲良くジュースを飲みながらテレビを見ているところへ母親が現れ、「あなた達がいるとすぐ汚れるんだから」と言いながらテーブルを拭き、「私はこの家の何なのかしら」と子どもたちを睨めつけながら言うシーンがある))がそれもだめなのか
といった点で件の動画に引っかかっていた。
うーん。
ちゃうねん。
「その動画や番組の是非については言うつもりはない」って書いたけど、
これは例の挙げ方が良くなかったのかなと少し思う。
でも虐待・毒親体験談をそれなりに見聞きしている自分には割と胃が痛くなる動画だった。
夕飯の準備ができてからご飯いらないと伝えた娘に対して母親が激昂し、その子の分のハンバーグをゴミ箱に捨てようとする。
やりすぎじゃない?
「そうすることで反省を促そうとしてる」という意見ももらったが、ビビらせるだけだと思う。
結果、その動画内ではどうなったかというと、女の子は学校から帰って母親の背中が見えるだけで「今の機嫌」が気になるようになった。
確かに自分がある種家族のルールを破った(食事の準備ができてから「いらない」と伝える)ために親を怒らせた、という
この動画の部分だけを見ると、これで「毒親」と言うのは大分大袈裟に思えるし、
毒親や虐待について幸いにもあまり見聞きしていない人には「その先」や「裏側」を想像させるようにはなっていなかったかもしれない。
でも実際にはいろんなことが積み上がってたんだと思うよ。
でなきゃ一度や二度「怒られた」ぐらいで「家族」の姿を見てビクビクなんてする?
あの動画にマイナスの反応をしていた人たちは、とても子育てを頑張ってるんだと思う。
で、頑張れば頑張るほどダメだったんじゃないかと思う部分が増える。
だから自分にも身に覚えのあることを指して毒親と言われたから拒絶反応が出たんでしょう。
ツイッターでは何度も書いたけど、
どうしようもなくイライラして怒鳴ったとか、つい手が出たとか、
そういうこと自体が(母)親には許されない、したら即毒親、と言ってるんじゃないです。
そりゃやらないのが一番だけど。
あの動画では伝わりにくかっただろうけど、問題は親がキレる基準やタイミングが判らないってこと。
虐待で逮捕された親たちも口を揃えて「躾のつもりだった」と言うけれど、
我が子が社会でやっていけるように言動や生活態度を整えていくのが躾とすれば、
毒親と呼ばれる人たちの行為は「自分(親)の機嫌に沿うか沿わないか」が基準。
子供は「社会的に正しいか正しくないか」ではなく「お母さんお父さんを怒らせないか」で行動する(しない)ようになる。
親じゃなくてもいますよね、自分の望む反応じゃなかったらキレる人。((例えばせっかく選んだプレゼントをいらないと足蹴にでもされたらそれは怒っていい。
それは「足蹴にした」ことに対して。
子供のリクエストを聞いたわけでないなら、喜ばなかったことに対してキレてはいけない。
というか、そういう場合「残念がる」のがマトモな感覚だと思うのね。
「毒」というのは「お前のために選んでやったのに!喜べ!」ということ。))
相手の自主性や尊厳を摘み取り自分の臓器のように扱うのが「毒」。
あと、「私はこの家の何なのかしら」のように、「自分がこれだけ○○してやってるのに」は危険。
友人知人に対してだって「(頼まれたわけじゃないのに)○○してあげたのに(見返りがない)」は人間関係こじらせる元だけど、
はっきり言って子供なんて子供が自分で生んでくれって言ったわけじゃないじゃないですか。((子持ちの友人も見ているところではとても言い難い))
してやってるも何も、おおよそのことは親の義務です。
件の動画への擁護(?)として「なんでも毒毒言って(母)親を追い詰めるな」というのがあったけど。
赤の他人に比べたら何も言わなくても伝わる部分が大きいけど、全ては「コミュニケーション」です。
で、コミュニケーションというのは、悲しく残酷だけど、受け取った側の認識が全てなんです。
私は最近、「そんなつもりじゃなかった」「気にしすぎでは?」と思うようなことで長年の友人を2人失いました。
「そんなつもり」かどうかは受け取った側が判定することで、
多少のエクスキューズはさせてもらえたとしても、それで許されるかどうかは相手次第。
親子も同じです。
親がどんなに頑張ったって(頑張らなくたって)子供が心を殺されればそれは毒。
友人や恋人関係で考えたらいいかもしれない。((私は恋人いたことないから知らんけど。))
毒と称される親は自分自身がそういう育てられ方をしてきたケースが多く、
親一代だけを責めてもどうしようもないかもしれない。
子育てに疲れてメンタルが死にかけのSOSでもあるかもしれない。
あるけど、「情状酌量の余地がある」ことが即ち「無罪」にはならないですよね。
なる可能性がまぁまぁあるだけで。
なんかそこをごっちゃにした感想(「母親だって辛いんだ!」)を受け取って、ツイッターでは文字数も打つのもしんどくて投げたのでした。
結局ここでも言いたいことはまとまらなかったけど。
ただともかく、「こんなので毒親と言われたらたまらない」は、個人の感想としては構わないのだけれど、
「何でもかんでも毒毒言うな」となると、痴漢やセクハラに対する「気にしすぎでは?」と言った軽視発言を想起させられて黙っていられない。
「あなたは」毒親じゃないしそんなことする親がいるなんて信じられないかもしれない、けどいるんだよ。
子供が可愛くて可愛くて仕方なくて、たまには怒ってしまうこともあるけど子供のためなら何でもしてあげたくて、子供もパパママ大好きと言ってくれる人たちには想像もつかない世界があるんだよ。
https://anond.hatelabo.jp/20170422022801 の増田です。元の記事を書いてから1年半が経ち、計2年半ぶりに妻とセックスをした。友人知人の誰にも言えないこの体験と気持ちを増田に書く。
レス以前のようなペースや関係に完全に戻ったというわけではないが、こんな例もあるということが誰かの希望にもなれば幸い。しかし、セックスレスを経験したぶん、この記事の内容(他人のセックス)をねたんだり憎んだりする気持ちもわかるので本当に辛い人は読まないほうが良いかもしれない。また、自分でも驚く長文になってしまったので暇な人向け。
自分が語りやすいように、↑の記事を書いてから起こったこととか、変化を書いていく
・引っ越した。引っ越して新しいベッドで何か新しい進展があるのではと思ったが何もなくて落ち込んだ
・妻に言われた「できない理由」の改善を続けた。筋トレ・食事制限などで15kg痩せた。マウスウォッシャ・歯間ブラシなどで口臭対策をがんばり続けて、寝起きまたは臭いものを食べたとき以外は大丈夫と言われるところまできた。しかしそれだけでは何も起きず落ち込んだ
・友人知人との結婚式とかに出なくなった。元記事にも書いたけど性生活が充実している人間を見るだけで辛く、他人の幸せを祝う余裕がオレにはなかった
・友人知人と会うイベントに出なくなった。上に同じ。「最近どう?」と自分のことや結婚生活のことなどを聞かれたときにどう答えてもセックスレスのことが頭をよぎり、心から「絶好調」とはいえず、他人とプライベートな会話をするのがいやになった
・妻が体調不良で仕事をやめた。大事にはならなかったけど、しばらくは専業主婦をがんばってもらうことになった。身体を崩した直後はさすがにセックスのことは頭になく、本気で心配したしできるだけ近くにいるようにした。元気になってからは以前より妻の体力や時間に余裕が出てきてもしかしたらセックスあるかもと期待したがなかった
・この間にも元記事に書いたような衝突が何回かあった。たいてい結婚記念日とか誕生日とかのタイミングでお互いの気持ちを正直に伝えるときにぶつかって、それは本当に悲しいことだった
・自分からは強制はしないという態度で「ほんの少しでもしていい気分になったら教えて」と言い続けてきたが、その機会はなかった
ちょっと大げさかもしれないがこの状態が続いたら心から死にたくなっていたかもしれない。いや、死にたいというか消えたい、という感じ。自分の人生で一番近いと信じる妻に本当の気持ちだけは拒絶されていて、生きててもしょうがないとは何度も思ったりした。
で、ここからがすることになった経緯。
10月にセックスレスをお金で解決した話 https://anond.hatelabo.jp/20170422022801 を読んでこれはいけるかもと思った。上述の通り妻は専業主婦になって趣味にお金を使うようになったのでちょっとした取引のつもりでこの増田と同じように持ちかけてみた。もちろん記事は見せてない。
妻がちょっと考えこんでいたので「今なら初月キャンペーンで○千円上乗せだよ!」とか冗談を言ってみた。すると「前にも言ったように家族として見る気持ちが強いからセックスしたいとは思えないし、それに久々すぎてセックスがちょっとこわい」と言われた。このあとまたいつもの展開でややケンカ気味になり、カッとなって「もう今年もつまらない年で終わり」とか「平成と一緒にオレも終わりだよ」とか「いきなりブチ込もうとはしてない、せめて指一本入るぐらいの進捗があれば希望が持てるのに」とか強い言葉を使ってしまった。
すると、妻が困りながらも「そこまで言うならわかった、指一本だけね」と言ってくれた。ふだんカッとなることなんて滅多にないオレがそういう態度を見せたのに結構驚かれたのかもしれない。「嫌だったらすぐ言って、やめるから」と約束をした。
ここのパート、かなり生々しくて読み返すと厳しい感じだったのでトラバで書きます。
翌日も仕事だったので寝不足で目が覚め、急いで会社に向かったのだがそのときの気分に自分でも驚いた。他人のセックスをねたむ気持ちが和らぎ、余裕をもって他人に接することができた。妻とのセックスにこだわるオレは小さい人間なんだとずっと思ってきたが、こんなに単純であるとは思ってもいなかった。
それから1週間がたち、あれから妻とはセックスをしていないが、おそるおそるいくつか質問をしてみた。
・なんで指一本と言っていたのに最後までしてくれたのか?→「指が思ったより大丈夫だったので挿入への不安が減った」「たまたまそういう気分になった」
・次はありますか?→「調子に乗るな」「2年半がまんできたんだから次は2年半後」←あまりに酷いと言うと「長時間やって疲れるから翌日おたがいが休みな日だけ、月1ぐらい?」とのこと。
妻心がわからない…。でも、まだこれからどうなるのかはわからないけど、希望が湧いてきたので生きてみます。
・コンドームを付けてオナニーをするようになった。昔大量に箱買いしたコンドームが余っており、もったいなかったというのが理由だが、やってみたらはまってしまった。どんな姿勢でフィニッシュしてもいいので安心だし、手元が見えなくても安心なのでVRとかとの相性も良さそう。
・セックスレスのオレにとっては挿入できないことがコンプレックスなのでAVの挿入シーンに異常に拘るようになった。挿入する瞬間を何度も繰り返したり、結合部をズームアップして出し入れしている映像に興奮したりする。よくあるイく瞬間だけを集めた動画よりも、挿入の瞬間だけを集めた動画が欲しい…。他人のセックスをねたむ一方で性欲を発散しなきゃいけない歪んだ気持ちはあったが、AVを見るのは大丈夫だった(たまに駄目なときもあった)。
ライフステージが変わると友人と話が合わなくなったりして新たな友人関係に変わるとか言うが、実は古い関係ほど残しておいた方がいいのではないかと思う。
子供〜学生時代の、ライフステージなんて関係ないような頃に作れる友人関係は特殊で、成人してから作れる友人とはまた違うように感じる。
何年、何十年と時間が経てばもちろん変わるものがあるが、しかしそれでも変わらず残った関係はとても安定していて、安心できる。未だにライフステージなんて関係なく友人関係が残っている。
別にいつまでもベッタリしている必要はなくて、忙しい時期なんかは塩蔵しておいてもいいのだ。ただし、完全に捨てない方がいい。
実は自分にも一時期そういうライフステージ云々の感覚はあって、わざと同窓の集まりを欠席してみたりもしたが、今になって振り返ると結構な思い上がりだったなと反省している。
今、自分の両親がそろそろリタイヤ組となり、彼らが現在主に付き合いを続けているのはやはりそういった古い友人関係だ。
歳をとり、病気や死別する友人知人が少なからず増えて、それこそ新たなライフステージとなった時、お互い安心して楽しく付き合いができるのがそういった旧知の関係なのだろう。
人生、色々な事があるから全てがうまくいくとは限らない。生まれるものもあれば消えるものもある。だけど、時が経っても残っていたものは、何かしら意味があると思う。
昨日退勤中に腹が痛すぎて死ぬかと思った。お腹を下すってのがあんま経験ないんだけど、波があるのを初めて知った。車で30分かかる道のりの中で少なくとも3回はいい波きた。頭の中で静まりたまえーつってね。アシタカさながら。車の振動伝わらないように足つっぱって尻をあげた。途中しんどくてコンビニ寄った方が…とも思ったけど寄ったが最後立ち上がれずに終わる気がして家まで直行を選択。
無事家で大きな花火を打ち上げられた。死ぬかと思った。幸いだったのは青信号が続いて早く帰れたってこと。日頃の行いは大事だとトイレで実感した。
一体何事。ごめんなさい。ここまで危機迫った体験30年近く生きてるけど本当なくて。お腹下すとどうなるか…思い出すだけでも恐ろしく冷や汗もんです。誰しも人知れず戦っている。先人達が沢山いることがわかり心から尊敬してます。
最後にひとつだけ。先週金ロー観たせいか脳内BGMがいちいちもののけ姫だった。波くるたびタタリ神が山から降りてきてたし、花火打ち上げた時サンは森で私はタタラ場で共に暮らしていた。次観る時、きっとこの経験を思い出すだろう。純粋な気持ちで観れなくなった事が少し寂しい。
( 2018年秋アニメ2話までほぼ全部観たから感想書く その2 からの続き)
伏魔殿に住む悪魔たちのゆるふわ日常アニメ。良い最終回だった。一応縦軸は悪魔のお仕事を通じて「善悪の彼岸」を識る物語。知らんけど。
デフォルメが強めでゆるいキャラデザ、コミカルな演出、淡いパステルカラー等、全体がゆるくてふわふわした雰囲気に包まれている。控えめに言っても体感5分で終わる謎の空間。もはや白昼夢である。ミュリンかわいい。
ベルゼブブ嬢を演じる大西沙織は「才色兼備のキリッとしたお嬢様だけど…」というキャラクターを演じている印象が強いだけに(とじみこ・十条姫和、こみが・色川琉姫、ウマ娘・メジロマックイーン等)本作のようなゆるふわ系の演技が非常に新鮮。ただベルゼブブ嬢は伏魔殿の首長なので、柔らかい側面と同時に硬い(凛々しい)側面もあり、そういうオーダーによく合致しているキャスティングだと思う。
スマホゲー同時展開のオリジナルアニメ。ラジオでつながるパラレルワールドを舞台にしたSF系。
電波でつながるパラレルワールドといえば「シュタインズ・ゲート」「オカルティック・ナイン」を思い出すけれど、あっちがサスペンス・ホラーっぽいのに対して、こっちはアクション要素多めといった感じ。あとパラレルワールドというモチーフの違いとして、本作は「別世界の自分に会いに行くための舞台装置」という感じがある。本作の特徴としてパラレルワールドの数だけ同じ人物が登場するというギミックを採用しているのだけれど、演じ分けがかなり明確。例えばパラレルワールドの自分が出てくるアニメ「ガンスリンガーストラトス」では演じ分けはあまりしていない感じのディレクションだったけれど、翻って本作では全くの別人みたいな演じ方になっている。そもそもメイン5人のキャスティングがガチなので(黒沢ともよ、Lynn、東山奈央、小清水亜美、井上麻里奈)、「女の子5人のキャッキャウフフをテーマにした作品じゃないガチ感」がすごい。1話では黒沢ともよのみだったが、2話以降アクセル全開。
主演の黒沢ともよ曰く「シナリオに大きなギミックを仕込んでいるので楽しみに待っててね」とのこと。シナリオにでっかい伏線を仕込むのは「オカルティック・ナイン」「ISLAND」等ゲーム原作のアニメにおける楽しみの一つなので、ゆっくり待つことにしている。
ダンデライオンアニメーションスタジオによる3DCGがかなりゴリゴリ動いている。本作は概ねバトルモノなので、戦闘シーンにかなり力を入れている模様。
かなり硬派なシナリオに合わせたキャラクターは浅田弘幸によるデザイン。「テガミバチ」は好きな作品なので嬉しい。同氏はかなり情報量の多い絵を描く人という印象だったので、アニメのキャラクターは結構シンプルなデザインという印象を受けた。アクション多めなので動かしやすいデザインなのかな。
個人的に、異世界に至るまでのプロセスをどう描くかを比べるのが好き。一旦主人公の死を経験したりするので、シリアスよりなのかギャグよりなのか、演出の裁量があるシーンだと思ってるのだけれど、本作はそこらへん硬さと柔らかさのバランスが凄く良かった。
転生したあとも、音楽や展開含めて緩急のある仕上がりになっていてテンポがいいアニメになっている。8ビットサウンドの音楽はやっぱりドラゴンクエスト等をリスペクトしているのだろうか。エイトビットだけに?
物語はだいたい2つのパートに分かれていて、「世界のいざこざパート」はそれこそ主人公の起こした騒動で穏やかではなくなった世界の様子を描いている。ここはオーバーロードっぽさがある。一方主人公の冒険パートはオバロと比べ、たった一人で悠々自適なぬるいRPGを楽しんでいるそれ。ヴェルドラのおかげで主人公の満たされ具合が心に優しい。
作中でも言及されているけど、初期のスライムは何も見えないのでどう絵にするのか気になってたけれど、抽象的演出を使ってうまく主観を映像化してた(触った感じとか)。またやってくれないかなあ。あとスライムの表情が豊かで、描いてる人は相当楽しいんじゃないだろうか。
本作のキャラクターデザイン・総作監はあの江畑諒真。最近だと「プリンセス・プリンシパル」5話でおなじみ。当然各アニメーションにも彼の特徴は反映されていて、例えば冒頭の主人公が歩いている姿のバストアップを見ただけで「江畑だ!」ってなるくらい江畑っぽい。彼が演出を務めるOPは「アブソリュート・デュオ」並に彼らしいアニメーションになっているので、いかに本作が血の気の多いアクションアニメであるかがわかる。主人公はあんまり好戦的な性格っぽくないのにね。
本旨と若干逸れるけど、さっき1期を観終わったので以下1期の感想。
虚淵玄脚本による人形劇(元ネタは中国の人形劇)。日本・台湾共作のアニメ。シナリオはいわゆる冒険活劇。王道アクションRPGみたいな感じ。絵もアクションが中心。
シナリオについては、単純な善悪ではない理由で同行する一行という部分が良い。文字通り呉越同舟すぎる。個人的に鳴鳳決殺が一番好き。あと掠風竊塵がド外道だった。後半のシナリオも口八丁手八丁を中心に戦っていくスタイルは単純明快な冒険アクションとは違った楽しみがある。
まず動きがおかしい。人形の顔についた水滴の大きさから見てかなり大きな人形を使っているのか、手足がかなり長い。それを非常に器用に動かしている(というか、どうやって動かしているのか分からない)。すこし引きで見ると人間にしか見えない。表情も、暗いシーンでは「少し表情の硬い人間」に見える。面白いのは、激しいアクションシーンほど人間のような動きに見えること(マジで人間だったりして)。指の先から足の先まですべて技工を凝らした動きになっている。
演出も優れている。戦闘シーンは単に人形を動かしているわけでもなく、ファンタジーという表題通りエフェクトモリモリで華やか。実写のメリットである、奥行きのあるアクション演出も多く、奥から手前に向かって光る剣が飛んでいく演出とか好き。特殊効果以外の演出もすごくて、爆発エフェクト(まじでセットを爆破してるっぽい)、雨(まじで雨を降らせている)、爆散するモブ(マジで四散してるっぽい)、背景セットの作り込み(どんだけ大規模なセットを作ったんだろう)、決めポーズの、カメラの切り替えを多用しためっちゃ手間のかかる演出とか。アニメに出来て人形劇に出来ないことってなんだろう?と考えさせられる。例えば「豊かな表情」というのは作画アニメの大きな長所だけれど、「デジタル人形劇」こと3DCGアニメは「表情が硬い」という評価を結構覆しているので、技術革新によって人形劇の印象もどんどん変わっていくのかな。
2期は1期の続きで、主人公や掠風竊塵がどんな奴か判明したあとの話なので、1期からの視聴を強く推奨。
週刊少年ジャンプ連載漫画原作のスポ根アニメ。防具を付けない稀有な格闘技。
競技としての格闘技を描いた今年のアニメでいえば「メガロボクス」だけれど、本作は高校生相撲を描いているので、あそこまでアウトサイダー&血生臭さは無く、とても青春している。特に1話は小関信也を演じる落合福嗣がすごく良かった。
原作ではそんなに気にならかったけど、主人公がとても小さい。ゆえに土俵の上でのみ体が大きく、強く見える演出が映える。
制作のGONZOはあんまりアクションのイメージがなかったので、本作のアクションシーンがかなりキマっててびっくり。特に1話の演出は熱量も含め息が止まるような迫力を感じた。元々相撲という競技が非常に短時間の戦いなので、その凝縮された時間をうまく描いている。2話の「タックルしながらの回り込みを上から抑え込むしぐさ」とかめっちゃすごかった。アツいぜ。
原作を読んでいる人が全員思うことはやっぱり「あの目尻からみょーんってなるやつ、どうやって描くんだろ」なので、早く見たいな。
角度のθ(ラジアン)は無関係。「Radiant」のほう。フランスの漫画原作。週刊少年ジャンプ連載の漫画みたいなノリの、古き良き時代を思い出す冒険活劇。ロックマンDASHっぽい。製作はNHK。
1話は説明的な演出が多いので、話を理解しやすい。2話以降もちゃんと「前回のあらすじ」があるので、忙しい人でも前回のあらすじを観ていくだけで最新話に追いつける安心設計。
1話から「主人公つえー!」ではない展開っていうのは珍しい印象なので(ワンピースで言えば、ルフィ幼少期のエピソードが1話、みたいな)、成長物語か。今後訪れるであろう主人公の受難を思うと、シリーズ構成が上江洲誠なのはそういう…(ちなみに2話からハードな展開)
キャラデザは割とシンプルで、全体的にかわいく、少年漫画っぽい。特に敵が可愛い。ゆえにファンタジーな部分とダーティーな部分の橋渡しをするキーになるキャラ(おっさん)がすげえ良い。
主人公を演じる花守ゆみりの少年声が好き。カワイイ系の印象が強いだけに、わすゆの銀みたいなハツラツとした声(特に叫び声)出せるのはすごい。本作は銀よりも少し大人っぽい調声。
ハピエレのスマホ向けRPGゲーム原作のアニメ。ファンタジー系冒険活劇。
かわいいキャラデザも含め、雰囲気はハピエレのゲーム原作アニメ「ラストピリオド」っぽさがある(内容は決してラスピリのような社会風刺アニメではない)。
シナリオは概ねモンスターとの平和的共存を探る冒険アニメであり「ポケットモンスター」に近い。1話は「メルストにでてくるモンスターってどんなん?」という説明回。説明的な演出ではなく、実際に生きているモンスターの姿を見せることで描く演出好き。「そこら辺で寝そべってる(お互い警戒しない)」「意思疎通の有無(信頼する相手の言うことは聞いてくれる)」「大きさ(子猫サイズからビルのようなサイズまで)」「気性(優しい子から気性の荒い子まで)」「人間に協力的(一緒にサーカスの仕事してたり)」「暴れてるときの攻撃性(つよい)」等。戦闘シーンはBGM含め結構アツい。
ガチのチア監修が入っている(監修を務める柳下容子は元NBAのチアリーダー。日本でチアリーディングチームをプロデュースしてたりするすごい人)。動画工房による、重力を感じるキレッキレのチアリーディングアクション良かった。使用する曲もめっちゃ好き(1話挿入歌は作曲:浅倉大介)。ただし主人公たちは初心者ゆえ、ガチのチアアクションが出る機会は少なめ。
きららキャラット出身の日常アニメなので、きららフォワード出身のハナヤマタと比べエモさよりもゆるさが前面に出ている。かわいい。
尾崎由香(けものフレンズ・サーバル役とか)の底抜けに明るい声が癖になる。ハナヤマタのハナ・N・フォンテーンスタンド(CV.田中美海)とか好き。
AmazonPrimeVideo独占
脱・悲劇版ロミオとジュリエット(ラブコメ)。週刊少年マガジン連載作品だけに、気軽に見られるラブコメ。
家柄が致命的な壁になってくっつく事が出来ないという既存のモチーフに加えて学園内の派閥対立もくっつけて、わちゃわちゃした感じになっている。
原典と比べてジュリエットちゃんが強い独立心を持っていて、それが物語の動くきっかけになるっていうシナリオがなんか今っぽくて好き。ロミジュリ読みたくなったので、オススメの翻訳があればおしえて下さい。
わりと喧嘩するシーンの多い作品なのだけれど、1話の決闘シーンでやけに剣の音拘っているなぁと思っていたら、音響効果:森川永子だった(同氏は京アニ作品の音響効果を担当してたり、今期だと「SSSS.GRIDMAN」の音響効果を担当している人)。流石に毎話あれだけ激しいシーンは無いにしても、楽しみではある。
ヒロインのジュリエット役が茅野愛衣だけど、まさか死なないよね。まさかね。
群雄割拠系学園モノ。は~乱世乱世。容はいつものBASARA。
声のテンションや絵のテンションが最初からクライマックス。終始テンション極振りの展開で彼らの戦いを描いている。
1415年、戦火の欧州を舞台にした英雄譚。2話から本編に入れるよう、かなり早足だった1話。冒頭20分くらいがプロローグ。
アンゴルモアみたいな時代劇ではなく「戦場のヴァルキュリア」のようなファンタジーモノ(もっとファンタジー要素多め)。人知を超えた力によって戦争を変えていくお話。面白いのは、主人公は「無敵の力を直接得た人間」でもなく「悪魔の力を阻止するために立ち上がる勇者」でもなく「戦争を変える力を普通の人間に与えた錬金術士」。倫理観による葛藤を一足飛びでバケモノを生み出すあたり、主人公の独善的な価値観がどう転ぶのかが気になる。当時の倫理観としては「バケモノを見つけたら教会に差し出さなければいけない」と描かれているので、生存ルートとして文字通り世界を変える壮大な物語なのかな。あと超人化の際やけに説明的なモノローグがあったので、今後も続々量産予定?
ゆるふわ日常ショートアニメ。なのに小話集。ゆえに1エピソード30秒くらい。人外さんは言葉が通じないので、(猫みたいな)人外さんの気持ちを慮る主人公の物語。もし猫と結婚したら、毎日きっとこんな感じなのだろう。
中国の漫画原作ショートアニメ。ざっくりいうとペットの擬人化みたいな作品。
全体的に柔らかいタッチのアニメになっている。ペットの声が村瀬歩くんだったりしてBL風に仕上がってるのだけれど、ガイコツ店員さんが言っていたように海の向こうでもそういう文化があるのだなぁ、としみじみ。
進研ゼミに付いてくる漫画の代アニ版。ショートアニメ。ひょんなことから声優を目指すことになった主人公が代アニの授業を受けながら成長していくお話。
ターゲットはおそらく「これから代アニで声優を目指すことになる若者」なので、本筋は青春ドラマ。主人公の福島潤はさておき、ヒロイン役の野口衣織は現役の代アニ学院生。たまたま以前から知っていた方なので、見ているこっちが緊張する。シナリオも彼らの受難が続きそうな感じなので、1話からもう胃が痛い。
彩度が高く柔らかい背景。それほど書込みの量が多い作品ではないけど、基本会話劇だし。
宇宙x漁業(フィッシングではない)がコンセプトのゲームアプリが原作。第二の種子島でおなじみ、広島県尾道が舞台のアニメ。宇宙飛行士と漁師といえば、子供にとって将来なりたい職業1位2位を競うほどの人気職だけれど、かといって本作が子供向けアニメかどうかはよくわからない。ノリがフレームアームズ・ガールっぽい感じがするけどホビーを売ってるわけでもないのね。内容は概ねテンポの良い会話劇。
主人公の女のたちと対立するのは漁師町の男。子供vs大人というよりも女性vs男性という切り口っぽい。対立構造を作るために「男女雇用機会均等法」まで持ち出してきてる割に社会派アニメではない模様。
これ個人の好みの話でしょっていう人いるけど、
なんて好みなんだ!つきあってほしい!ってなったり
俺は丼もの食べない女の子が好きなんだよー!って自分の好みを言う分にはいいんだけど、
本人のそばにいる友人知人の女性とかが普通に丼もの食べます、っていう人のときに
女の子なんだからそんなことしない方がいいよ、下品だからやめなよとか言ってしまうと
男のくせにケーキとか好きなのやめなよ~とか言う女の人も同じでね 色んな場面でこういうのあるけど
自分の思うとおりに他人をコントロールしたい気持ちが透けちゃって、
それが当たり前、みたいに思ってるところがわかってしまうの個人的にはいやだなあって思うよ
男でも女でもなんでもその人の好きなとおりにできて色々言われないのがいいよ
以下、司法試験受けるどころかまともに法学で単位とれなかった法学徒崩れの一見解です。
まず、法学にもざっくり2つの分野が存在する。現実社会で運用されている実定法を研究する「実定法学」と、それ以外の法にまつわる研究をする「基礎法学」だ。
このうち、基礎法学には、少なくとも今「○○ 査読」でググった程度の範囲では、論文誌に査読がある。少なくとも法哲学・法制史・比較法学・法社会学あたりで査読付論文誌があるのは確実だ。勿論ないものもあるだろうし、そういうものに関しちゃガンガン批判していくのはありだろう。ただ、少なくとも「全ての法学分野で論文に査読がない」というのは明らかに間違い。
こちらはおそらく事実。というか、査読というシステムの意味があまりないということは考えられる。これは、実定法学というもののイメージがついていないと多分理解しにくい。
の三段階くらいレイヤーが存在する。ひとつ目は誰だろうと覚えてる当たり前の知識だけど、二つ目になると正解がないので絶対に個々人で異なってくるよね、3つめに至っては言うまでもない、みたいな話はおそらくある。
具体例を挙げよう。刑法には「刑罰は何のために存在するのか」という考えにざっくり2つの異なる立場が存在する。「ある個人が、悪とされる『行為』を行ったのでそれを罰しよう」という行為無価値論と、「社会的に悪い『結果』をもたらしたからそれを罰しよう」という結果無価値論だ。これは刑法における根本的な思想である。それらはどちらが絶対的に正しいとかではなく「どの分野でどの程度どちらの立場を優先するか」というレイヤーで争いがある。
具体的には、「心が壊れた人間による殺人」と「自分の赤ちゃんを殺そうとした人間を殺した母親」などだ。前者は刑法39条の規定により無罪となるとしよう。なぜなら、心神喪失状態での行為は「自分の行った行為に対する責任」を問うための刑罰を化しても無意味だからだ。その人は自分がおこなったことの意味を理解していないから、刑罰を科すことに意味がない。ふざけるな、という意見は多数あるだろう。心情的にそれは俺も理解できる。しかし、それでもなお刑罰を科すとするならば、それは「誰かが人を殺したという『結果』が悪いことである。だから、本人が自分の行為を理解していなくても、社会としてその結果をもたらした人間を罰しなければならない」という立場をとる、ということにならざるをえない。
では、「自分の赤ん坊を殺されようとしている母親が、殺そうとしていた人間を殺した」といった場合、その人間に対してどういう立場をとるべきなのか?「人を殺したという結果は社会にとって変わらないのだから、赤ん坊が殺された母親であっても刑罰を科すべき」という立場になり得るのか?
この話は、実のところ論理的には適切な例ではない。結果無価値論と行為無価値論は違法性阻却の議論で出てくるものであり、前者は心神喪失による有責性の阻却の話で、後者の緊急避難(追記:ブコメで「正当防衛ではないか」とありましたがそのとおりです。ありがとうございます……)による違法性阻却の話でしか出てこないからだ。もっと言えば刑法と民法と憲法では基礎になる論理が全く異なる。ここで俺が言いたいのは、実定法における「本当に基礎の基礎の大前提になる考え」は、法解釈において多くの矛盾を生み出す、ということだ。そこには「正解がない」。どの場面でどのような立場をとるか、それは1か0かで決められる問題ではなく、「ある場面ではAの立場を肯定し、別の場面ではBの立場を肯定する」、そういった解釈違いが、刑法民法刑法何百何千もの事例において発生する。それらに対して、「ある事例でAの立場をとり、別の事例ではBの立場をとる」という判断の組み合わせに、論理的な整合性をどのようにつけるか。それを生み出すのが、ざっくりと法学における「学説」と呼ばれるものになる。繰り返すがこれは刑法の例であり、民法や憲法では細かな部分は異なるだろう。だが、どの分野でも「学界の多数説」「学界の少数説」「実務における判例」の3つが異なる立場にある、というものが1つや2つくらいあるのは当たり前だ。それが実定法学の実情だ、と思っていいはずだ。
そんな現実において、あくまで俺の認識に限って言えば、その「矛盾しない解釈の論理体系を構築する」というのは研究をやる上では当たり前のことだ。論文出す以前に、研究ができるかどうかという前提の話。何の話をしているかというと、その能力を持っているかどうかを確認するのが「司法試験」であり、司法試験程度(そう、司法試験「程度」)を合格する能力がないと、法学研究なんてできない、というのが現実なのだ。全体的な解釈の整合性をとれているのは当然である。司法試験に合格すらできない人間は研究者になれない。「最低限の研究能力」という点で、院なりなんなりに進んでいる時点で最低限の自然淘汰が発生しているのは実定法学研究では当たり前の前提である。したがって「最低限の論理的整合性が取れてるかどうか」という意味での査読はそもそもない……というのが、院生の友人知人を持たない俺の、推測レベルでの解釈だ。そもそも論文を出せる環境にいる時点で、能力が保証されているからだ。
そして、そこからさらに「構築した論理体系による学説が『受け入れるに値するものか』」って話にまで踏み込むと、そのための「査読」ってなによという話がある。たとえば、心神喪失状態で何十人と殺した人間を無罪にすべきという、法学の論理的に整合性がとれている説を唱える人がでてきた場合、それを査読する意味とは何か。論理的には正しい解釈体系が、何十人もの法学者によって何十個と出来上がっているなかで、誰の立場をとるか。ここまでくると、正直なところ、査読がどうこうという話ではないのだ。はっきり言えば、「その学説を社会が受け入れるかどうか」って話なのだ。
この辺りを、法学を勉強したことがないひと、いや法学を勉強したひとですら勘違いしていることがあるけど、法と社会/法と政治というのは、ものすごく漸近している。法学の学説が受け入れ良レルかどうか、というのには少なからず社会的価値観/社会通念が影響しているし、法は決して固定的なものではなく、社会のなかで変動している。法は社会に内在しているし、社会に対して法は影響力を持つ。
そうした実定法学の特徴が生み出すのは、ある一定のレベルを越えると「学説が正しいかどうか」が「その学説が多くの人に受け入れられるかどうか」という問題に近づいていく、ということだ。法学部にいればよくあることだったが、どんなすごい教授でも、講義のうち何か1つくらいは、その人独自の(少数派)学説をとっていることはざらにある。だから、そういった場合に「査読があるかどうか」は問題にはならず、「発表した学説が受け入れられるか/無視されるか」という話が、業績や信用性、実力の評価として組み込まれるんじゃねえかな、とは思う。
まあ、それが客観的指標とは言いがたいのが問題だ、というのは絶対ある。だが、その場合はどのようなかたちであれば「客観的指標」による評価を法学が下せるのか、というのも問題になるだろう。
このように、「研究ができる/研究論文を出せる」という環境にいるというスクリーニングの上に、「それが社会的に受け入れられるか」が重要視されるという事後的なスクリーニング、その二つがあるからこそ、実定法学に査読の文化がない、というのはおおよそ雑な話としては、言えるのではないかと思っている。
で、これを読んで異論があるガチの法学研究者の人、補足というか訂正頼む。ぶっちゃけ法学でまともに単位とってない俺みたいなアホが補足いれないといけない状況にうんざりしてるんだ。真面目に誰か解説してくれ。