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はてなキーワード: マクガフィンとは

2018-12-29

anond:20181227002831

ただのマクガフィンだったらいいんだけれど、

満を持して物語に登場して、謎が謎のまま終わるとすると、

ずっと気になって物語に集中できないし、

終わってからも、モヤモヤが残るので、

できれば、どこかで謎を明かして欲しい。

例えるなら、マジシャンミスディレクションされたのだけれど、

マジシャンマジックを見せてくれないまま舞台が終わったみたいな。

そんな感じ。

2018-12-28

[]マクガフィン

マクガフィン (MacGuffin, McGuffin) とは、何かしらの物語構成する上で、登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる、仕掛けのひとつである

登場人物たちの視点あるいは読者・観客などから重要ものだが、作品構造から言えば他のものに置き換えが可能な物であり、泥棒が狙う宝石や、スパイが狙う重要書類など、そのジャンルでは陳腐ものである

2018-09-06

宇宙よりも遠い場所でだいたい批判が集まるところは大人南極隊員の行動原理希薄さみたいなところなんだけど

あれは全て舞台装置しかないっていうその仕組みにイラつくかどうかだと思う

これを雑と片付けてしまうかマクガフィンなんだと考えるかは人それぞれである

2018-05-02

プリチャンやべぇキャラだけで話作ってる

キャラ前提どころかシナリオが本当におまけ、キャラが何かするための触媒しかないしマクガフィンどころか本当にどんなどうでもいい事でもキャラさえ絡めば話が成立する状態

本当にもう全部キャラによるキャラのためのキャラクター消費なわけ。

プリパラもなんのかんのいって皆友だち皆アイドルというメインストリーがあってその上にキャラが乗っていたんだなあ。

プリチャンはエモくてバズって人気者になりてえがメインストリーからひたすらキャラキャラ押し出してればいいもんなあ。

いやまさかキャラクター消費の方向をとことん加速させてくるとは。

プリパラが全体の8割キャラ消費ならプリチャンは98%キャラ消費だわ。

キャラが動く所にストーリーがあり、ストーリーなんてものは雪の上に出来た足跡程度の結果論しかない世界

2017-10-30

恋愛シミュレーションゲームに「恋愛」じゃなくて「物語」を求めるなよ

恋愛シミュレーションしているんであって物語を読ませてるわけじゃねーんだよ。恋愛というアドベンチャー提供しているんであって物語がメインじゃねーんだよ。

伏線バリバリ整合性レトレのストーリーがお望みなら最初からそういうジャンルに行けよ。音楽や綺麗なイラストが目当てならサントライラスト集でいいんだよ。恋愛シミュレーション恋愛シミュレーションなの。そこを分かって。

パッケージ見て「このキャラ恋愛したいな」と感じた人が買うものなの。レビューランキングを見て「重厚ストーリーと評判だったので読ませて頂きたく馳せ参じました」って層は他のジャンル行けよ。これそういうのじゃないからね。

恋愛シミュレートする過程において発生した物語たまたま重苦しかったり人生観が変わりそうになるような話になったというだけなの。本質的には恋愛を楽しむのが目的であって、そのためのマクガフィンしかないわけ。そこをどうも勘違いしている人が多いね。年に100本やってレビュワー気取ってる層にもそういう人達が多いんだから困っちゃうなあもう。

2017-10-29

マリオオデッセイ失望した

発売早々あちこちで絶賛の声が聞こえるマリオの新作だけど、率直に言って私は大いに失望させられた。

操作感が気持ちいいとかヴィジュアルが素晴らしいとか褒める人はそういうところばっかり見てるけど、私が問題にしたいのは多分みんなが話題にするのを避けているストーリーに関してだ。

ストーリーというかピーチ姫の扱いについてなんだけど。

今時お話の始まりさらわれて、ずっと助けてーって言ってるだけのヒロインとかある?????

自立した人格が与えられていないってレベルじゃない。単なるマクガフィンと化している。強大な力を持つマジックアイテムに置き換えても何ら問題ない。

露骨女性をモノとしか扱わない物語展開で、ストーリーが進むたびに不快しかなかった。

そもそも任天堂という企業はそういう現代的な感覚希薄すぎない?

ゼルダの伝説もずっと主役は男性で、一応タイトルになってるゼルダ姫は添え物でしかない。

ポケモンは一応主人公性別は選べるものの、アニメ主人公はずっと少年だ。

カービーだって男の子

唯一期待のできるメトロイドサムスシリーズ自体キモオタにそっぽ向かれて最近出番がない。(メトロイドキモオタに人気がないのも、任天堂蔓延する男女差別意識とは無縁ではないだろう)

欧米の開発会社が作ったプレステや罰箱でプレイできるゲーム現代的な価値観アジャストしてむしろ男女や人種による差別戦闘を切って戦っている。

それに対して、任天堂の作るゲームの売りは操作感とかヴィジュアルとか、動物的な感覚に訴える「快感」ばかりで、新たな価値観を打ち出すことができていない。

気持ち良ければそれでいいのか?って感じ。

外側の皮が一枚違うだけで、肉体的な快感に訴えるという意味では国内で量産されている糞みたいなソシャゲーと大差はない。

はっきり言って幼稚だと思う。

こんなゲームが大傑作扱いされている時点で、日本人権意識欧米に追い付くのは相当先になるんだろうなと暗澹たる気分になる。

まあ没落国家だし、追いつくことは永久にないかもしれないけどね。

あーあ、そりゃ自民党が勝つはずだよ。

2017-04-30

飲み会敬語スーツサービス残業

ジャップランドには信仰がある。

この国は無宗教と語る人もいるがそれは違う。

この国には伝承がある。

沢山酒が飲めて、接待ゴルフが上手くて、スーツぴしっと決めて、敬語完璧に使えて、サービス残業バリバリやって、何を言われてもイエスと答える人間こそが、理想社会人であるという教えがある。

これは立派な宗教だ。

この宗教の中で、階層を生み出すためのマクガフィンの集まりによって、この国のビジネス構成されている。

そしてこの国の日常もまた、ビジネスマナー教の戒律により侵食されきっているのだ。

民明書房中世におけるジャップランド宗教観」より

2017-01-25

anond:20170125021323

あなたは、メインテーマとサブテーマ区別もつかないんですね。


えんとつ町のプペル』は夢の話ではない。

作者があとがきで、わざわざ太字にして懇切丁寧に説明してくれている部分をよく読んでみましょう。

えんとつ町は、夢を語れば笑われて、行動すれば叩かれる、現代社会風刺

この物語のメインテーマは、夢を叶えるために行動することです。

太字したり、同じ言葉を繰り返して強調していることが、作者がもっとも伝えたいことからです。


ちなみに、例の無料公開のページには、最後にこの言葉が繰り返されています

http://spotlight-media.jp/article/370505056378315909

他の誰も見ていなくてもいい。

黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、

行動しろ。思いしれ。そして、常識に屈するな。

お前がその目で見たもの真実だ。

あの日、あの時、あの光を見た自分信じろ

信じぬくんだ。たとえ一人になっても。


それから「信じぬくんだ。たとえ一人になっても。」言葉も2回繰り返されてますからね。

まり作者は、自分孤軍奮闘で夢を叶えるために常識破りの行動してる、とでも思ってるんじゃないでしょうかね。



友情(あるいは親子愛)の物語

友情物語である側面はありますが、それはサブテーマです。

なぜなら、プペルは作者があとがき

「夢を見る」「夢を語る」「行動する」といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノをまだ持ち続けているという意味で、主人公を《ゴミ人間》にしてみました。

と書いてある通り、「大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノ」の擬人化であるからです。


プペルとルビッチ友達になるというのは、ストーリーの「表層」でしかありません。

「そこに込められた意味がある」ということを、作者はわざわざあとがきで 懇 切 丁 寧 に 説明してくれているのに、あなたには理解できなかったのですね。


西野氏が無料公開した理由は、2000円が出せない子どもいるから、と説明していました。

こんなに野暮ったく物語テーマを易しく丁寧に説明するあとがきを書くのも、子どもに対して向けたものなら仕方ないかな、とも思ったのですが、あなたにはもっともっと丁寧な説明必要だったようですね。


親子愛についても、これもサブテーマです。

父親ペンダントを見つけるために物語は進んでいきますが、これを「マクガフィン」と言います


そして、父親について語られる描写は、次の部分のみです。

「……ぼくの父ちゃんが、その『ホシ』をみたんだ。

とおくの海にでたときにね、ある場所で、頭のうえの煙がなくなって、

そこには光りかがやく『ホシ』がたくさん浮かんでいたんだって

町のひとはだれも信じなくて、父ちゃんうそつき呼ばわりされたまま死んじゃったんだ。

でも、父ちゃんは『煙のうえにはホシがある』っていってね、

ホシをみる方法をぼくにおしえてくれたんだよ」

まり父親は煙で覆われた閉じられた狭い世界のえんとつ町(言うまでもなく現代社会メタファーですが)を飛び出して、外の世界で「ホシ」を見た(夢を叶えることのメタファー)という存在として描かれています

あとがき言葉を使うと「常識に屈せず」、夢を叶えるために行動した「モデル」として描かれているだけで、愛してくれた父親としての思い出が語られるような描写はありません。


これを親子愛の物語だというのは、「天空の城ラピュタ」が親子愛の物語だと言っているようなものですよ。


私にもお話しする相手には「下限」がありますので、あなたへのお返事はこのへんで終わりにしておきます

無視された時には、自分に落ち度がないか、少しは考えてみてくださいね

もう少しまともな反論ができるようになったら、またお相手してあげますよ。

2016-05-27

[]「亡国の双子姫」

20年前、まだ彼女達が赤ん坊だった頃、彼女達の親は独立戦争の指揮をとっていた。

その結果は敗北、彼女達の親は戦争犯罪人として処刑されてしまう。

小国は再び、大国支配下におかれることとなるが、再起を狙う独立派は、赤ん坊の姫を次の旗頭に据え、潜伏を続ける。

その際に、姉は独立派と共にゲリラと共に、妹は大国支配下に置かれた国の中枢で生きて行く事になる。

それから20年間彼女達は一度も会うことはなかった。

大国の国としてのあり方を根底から覆すマクガフィン的な物の位置発見した独立派は、それを手に入れるため再び戦いを仕掛ける。

しかし、双子姫の姉は幼き頃から続いていた戦いの日々を辞めさせるため、マクガフィン的なものを奪い逃げ出してしまう。

そして、逃げ込んだ先で偶然、双子は再開する。

戦いを辞めさせたい姉と、大国に苦しめられ息も出来ない国民を救うために戦いを続けたい妹と、2人の意見はすり合わない。

2人は争いながらも、自分たちを慕い、何より今苦しんでいる民のために何が出来るのか苦悩する。

ところが、ある日彼女達は気づきを得る。

自分たち国民を、国を、ひいては自分たち支配する大国を、何よりそうしてしまった世界を、俯瞰で見ていることを、あたか自分たちけが特別な外側にいるような考えでいることを。

たかも、時の流れ全てを知って、自分たちけが正解を知っており、それ以外の全員が間違っているのだと、思い込んでいた事に気付く。

改めて、自分たちが何をすべきなのか、ではなく何をしたいのかを2人で話し合う、

離ればなれだった20年間を埋めるように、2人は話し続ける。

人類革新ニュータイプと呼ばれ宇宙適応し、オールドタイプではなし得ない、超常の感覚によるコミュニケーション可能とする2人であっても、たった2人っきりの姉妹家族合意すら得られない。

所詮、人が宇宙に出て一世紀。

人類史における進化の速度の例から見ても、そんなことは当然のことなのかもしれない。

ジオンデラーズフリートティターンズネオジオンシャアの逆襲。

幾多の戦争経験してもなお、連邦の”高官”という地位は守られ、そしてそれは次の戦争火種になっていく。

そう、木星総督に”高官”の娘をあてがうことが発端になる争いには、人類革新コロニー独立などのお題目とは関係ない、ただの「差別された」ことへの不快感しかなかった。

その不快感が、ドゥガチを、カリスト兄弟を、ギゾを、凶行に走らせる。

とどのつまり、人が人を支配することは、今この瞬間の平和を生む事はできても、10年、20年先の、100年続く平和を生む事はできない。

から、ミネバはフルフロンタルを否定するのだ。

から、ベラ・ロナは貴族主義を否定するのだ。

からシャクティマリア主義を否定するのだ。

だけれども、その先に待つのは何だろう?

人が人を支配しないのなら、何が人を支配するのだろう。

誰もが誰も支配しない世界理想郷なのだろうか?

結局、ミネバ・ザビミネバ・ザビになれなかった者は、そんな答えのでない議論を朝まで続け、気付くと眠っていた。

そんな、2人に何時か彼女達なりの黄金の秋が来る場合


ゲリラと一緒にいた姉は浅野真澄さん、

国に残った妹は川澄綾子さんに決定です!

みなさんのキャスティングをお待ちしておりまーす!

2015-06-28

http://anond.hatelabo.jp/20150628223204

イケメンとか、リア充が、肯定的に捕らえられてるものが見たいんだわ。

マクガフィンとしての、イケメンリア充じゃなく。

たとえば、「リア充なら精神病になりにくいからリア充をやってる主人公」とか。「リア充勝ち組になりやすから精神病回避するためにリア充演じてるキョロ充」とか。そういう哲学的意味で、肯定してる的な。

2015-06-16

人狼クソゲーである最大の理由

人狼クソゲーである

これはもう万人に知れ渡った事実だろう。

運と論理しっちゃかめっちゃかにかき混ぜた結果、ゲーム性というものは万人の見解の中で細切れに吹き飛んでしまっている。

そして文句のたれあいと足の引っ張り合いがおき、最後には『リア狂』という単語が飛び交うようになるクソゲーである

『リア狂』とはすなわち「リアル狂人」ということである

役職狂人人狼を疑っているうちはどんなにいがみ合っていてもいい。

それはゲームの中でのプロレス

ルールに基づいた喧嘩なのだから

しかしそれがゲーム外に及べばそのゲームは完全に崩壊する。

「誰々はプレイヤーとして間違っている」「誰それはルール理解していない」

この程度ならまだましだ。

ほにゃららゲームを壊して楽しんでいる」「むにゃむにゃは負け続けた腹いせにわざと自分たちのチームを負けさせようとしている」

ここまで来るのだ。

本当にここまで来る。

そりゃこうならずに平和推理ごっこをして論理的に答えにたどり着くことはある。

だがそうじゃない時があることが問題なのだ

何故ならこの体験はプレイヤー達の間に禍根を残すからである

前置きここまで


人狼が何故こうなってしまうのか。

その原因はある1つに集約される

ルールが難しいから? NO!

セオリー存在してしまっているから? NO!NO!

嘘つきゲームだと思われすぎて意味なくウソを付くやつがいから? NO!NO!NO!

バランスがあまりに危ういから? 惜しい

勝利と敗北の真っ二つだから? そうだそれもある

だが人狼クソゲー化する最大の要因は

『チ ー ム 戦 だ か ら だ』

チームで戦うから人狼は荒れるのだ。

無能な味方は射殺しろ」とは古事記にも書かれているブッダの教えだがまさにそれが起きるのだ。

味方が無能でなければ勝っていたという戦いは非常に辛い。

相手をしている側も敵チームにまぎれていた無能ゲーム破壊たから勝ったというのは釈然としない。

やりたいのは推理ゲームなのだ

勝利という結果は目的ではない。

たまに「ゲームの勝ち負けに熱くなってる~~」と言う人間がいるが、違うのだ。

多くのガチ勢は「ゲーム真剣プレイすること」に熱くなっているのだ。

勝利ではなく求めているのは過程だ。

いいゲームがしたい。

楽しめるゲームがしたいのだ。

それは素人だって同じだ。

ただ楽しみたいのだ。

勝利は目的ではない。

過程のために与えられたマクガフィンだ。

だが悲劇は起きる。

ちょっとしたミスで危ういバランスの上に成り立っていたゲーム崩壊する。

そして何が厄介って一見するとミスをせずにプレイするのは凄い簡単に思えてしむことだ。

こんな阿呆ミス誰がするんだというミスまれによく起きる。

それは1人プレイゲームなら、目を光らせた上級者と本人だけが気付いて胸の中で「ドンマイ」と言うだけで済むようなものだったろう。

しかしチーム同士がお互いの言葉尻尾をつかみ合うゲームでのちょっとしたミスは大きな混乱を引き起こす。

ただハトと言い間違えて「カラスは白い」と言ってしまった程度の事がてんやわんやの大騒動を引き起こすのだ。

ドミニオンアクションカードを切る前に貨幣を出してしまったらどうなるだろうか?メンゴメンゴでやり直せるかも知れないし単に1人のプレイヤーが一手損するだけかも知れない。

だが人狼は違う。

全てのプレイヤー混沌の渦の中に叩きこまれ「おっと間違えた」で時間を戻すことは出来ないのだ。

そうして全体のゲームを壊した責任を1人のプレイヤーが取る羽目になる。

地獄である

何故こうなってしまうのか。

影響を起こす範囲が大きすぎるからだ。

1人のプレイヤーの一手損ではないからだ。

これは他のチームプレイの遊びでも同じことは言える。

確かに言える。

だが人狼は「お互いが危ういバランスの上で協力する」という徹底した前提が有る。

そしてプレイヤー達の順位が「チームの勝利」と「チームの敗北」しかない。

他のパーティーゲーム、例えばニムトとかなら「あちゃーあと3点だったのになー」「まあビリは回避できたわ」と頑張ったプレイヤーはそれぞれに強がりが言える。

だが人狼は違う。

最後の二択までいって始めてそれが許される。

その前の段階で誰かの致命的なミスでチームやゲーム崩壊したらもう全てがおしまいだ。

下手したら勝利チームは存在するが意味不明から全員敗北ともなりかねない。

そうなのだ

個人戦でないがゆえに、二位や三位になるものはおらず、時には勝利者すらいなくなってしまうのだ。

これこそまさにチーム戦推理ゲーム最大の問題点である

ゲーム終了時に吐く言葉として「惜しかった」すら許されず「クソゲー。◯◯最低だわ」とはっきり口にだすかオブラートに包むかそれとも無言を貫くかしかないのだ。

実にクソである

お手てつないで全滅するゲーム、それが人狼

クソである

2015-06-11

ゲームってつまらない」って思いたくない

最近ゲームをつまらないと感じることが多い。

コントローラーマウスを握りながらふと金にもならない技術も身につかないくだらない作業に余暇を消費したくないと思ってしまう。

悔しい。

そう思ってしまうのが悔しい。

ゲームで何も身につかないのは当たり前だ。

そりゃネットゲームで知り合いが増えたり、学生時代ドラクエ話題で盛り上がったりはしたけど、それはあくま触媒にしただけであってゲーム自体コミュニケーションネタしかない。

その中身は昨日のニュースでもいいしアニメ話題でもいい、ゲーム攻略情報なんて話に刺激を加えるためのマクガフィンだ。

そうだゲームなんてやっても結局楽しいだけでなんにもならない。

オナニーしてシコシコして気持ちよくなったなんて素晴らしいんだ(byディオゲネス)でしかない。

それを知っていて俺はゲームをやったはずだ。

だけどそこに意味を求めてしまう。

「こんなの人生の役には立たないよね」という声に「でも楽しいから問題ねぇ!」と強気に返せなくなってきた。

「確かに俺もそろそろ勉強とかしとかないといけないな」「ジムでも行って体を鍛えないと成人病にかかりそうだ」なんて声が聞こえてきたらそのまま押し切られて「本当にその通りだ俺は一体何をやっているんだ」と熱が冷めてしまう。

悔しい。

俺の中からまれてきた言葉が俺の楽しみを妨害していく。

格好つけて「所詮は0と1の羅列さ」なんて言ってみせた所でそれはタンパク質の塊である自分を棚に上げた恥知らずマウンティングしかない。

悔しい。

俺はゲームを楽しみたいのに俺自身がそれを妨害してくる。

無駄に格好つけたり今後の人生についてまじめに考えてるふりをして冷めたポーズを取らせようとする俺が邪魔しょうがない。

2015-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20150521130953

その言葉意味を大部分が知らないで使っている場合その言葉はただのマクガフィン意味なんてないし、大多数が誤った意味で用いている場合その用法が正しい意味なんだ。それが言語ってものなんだ。

2014-06-10

ガンダムUC最終話の劇場における卓袱台返しについて。

ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。

最初立場を明らかにしておくと、増田は、典型的富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波富野信者なので。

で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。


UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語メッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。

どういうことか。

ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。

これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。

最終7話では、主人公少年少女の選択が示される。

既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?

少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。

かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新ニュータイプ思想のもと連邦ジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。

もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たち決断は、とても尊いものとして描かれる。

それを見届けて、シャアアムロもようやく成仏する。一年戦争呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である

富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ

だが、恐ろしいことに劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。


突然に、1stガンダムリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである

http://www.gundam-the-origin.net/


正気か、と思った。全部台無しだろう、と。

一年戦争時代から解放テーマにした物語ラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編意図的に、映画機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。

唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者監督スタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。

新しい時代なんて創るつもりはないよ。

俺たちは一生一年戦争もので食っていくよ。

え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。

これはそういう宣言だ。

ハルトーシ少年継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!


そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。

まりこういうことだ。

メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタク富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャ単純化すれば、である)。

だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である

この両者は必然的に「永遠に一年戦争外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。

そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。

これは対立と言わない。共犯関係と言う。

しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである富野信者であるということは、富野聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているかである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。


しかし、だからと言って、私はどうすればいいのだろう。

(大人しくガンダム卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)

ガンダムロボットアニメでありサブカルチャーであるガンダムビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。

からハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。

「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)

私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。

"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。

違う。

ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。

送り手が自分メッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまりUCだ。

バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野ニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。

駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。

できるかぎり応援する。

それしかガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野である方法は、ないような気がするのである

むろん、それは、終わりのないディフェンスである

ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者罵倒に耐えねばならぬ。

しかし、それでも、えんえん一年戦争リメイク外伝を造り続けるよりマシだと信じる。

箱は解放されるべきだし、呪縛からは解き放たれるべきだ。

から、「UC」の先に行かねばならぬ。

その向こう側に何もなくても――いや、しか脳波コントロールできてしかも手足を使わずコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである

STAND UP TO THE VICTORY!



註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井田母神批判はアクチュアリティを増している。

2012-06-19

はてな非モテは話題のネタだったが、それこそ最も価値あることだった


ずいぶんご無沙汰していますid:Masao_hateです。


自分のことを覚えている方がどれだけ居るのかわかりませんが、

懐かしのはてな非モテ論壇について、id:amamako氏、id:republic1943氏が興味深い議論をしているので、

非モテ論壇」の一人だった人間として、思ったことを横から少々。

http://d.hatena.ne.jp/amamako/20120615/1339729240

まり「人々がその言葉について好き勝手言える」ものなら、彼らはなんでも良かったのだ。

彼らにとって「非モテ」とはただのマクガフィンに過ぎず、

から時が流れ別の言葉流行すればそちらに移っていく。なぜならそれが「人々の求めること」であるから


確かに、はてな非モテ論壇にとって、「非モテ」ははマクガフィン(ってどういう意味なのか、私にはいひとつ解らないのですが、

『話題のネタ』みたいな意味なんだと解釈することにします)であり、キャッチーな「ネタ」であったことは、間違いありません。

しかし、そのネタが「何でもよかった」と言われてしまっていることに対しては、それは違うと反論しておきたいところです。

当時、非モテ論壇でブログを書いていた人間には、「非モテネタ」以外、興味深い話題をほとんどなにも提供できない人間が多く居たように思います自分がその代表ですが・・・)。

コミュニケーション能力に劣り、リアル社会の主流派に馴染めず、自分の居場所を持つことができなかったり、居心地の悪さを感じている。

そんな人間が唯一語ることができるネタが、非モテ自分の実体験をベースにした「自意識ネタ」「自分語り」です。

当時のはてなは、非モテネタが人気を集めるという、リアルとは全く逆のヒエラルキーが発生する、不思議場所でした。

リアルではコミュニティ価値提供できず、はみ出している人間でも、ここでは自分の語りが批判にしろ賛同にしろ、

なんらかの意味を持って受け入れられる空気がある。そういう土壌が当時のはてなにはありました。

「非モ天下一武道会」は、そのネタ非モテだったからこそ、非モテな人々にとっての貴重な「居場所」や「救い」になり得たのです。

他のネタではダメだったのです。

もし、はてな非モテネタが盛り上がっていなければ、「非モテブロガー」として当時活躍していた人々が、

あそこまでPVを集めることもなかったでしょう。

「顔が普通以下では彼女ができない」 自らの書き込みを解説

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110116/trl11011618550107-n3.htm

  • 被告「そうではありません。あくまでネタです」
  • 被告「本当にそんなことを思っているのではなく、私のネタネタをかぶせて返してきている。その程度のものです」
  • 弁護人「書き込みの内容はその後どうなっていきましたか
  • 弁護人自分が見かけのことで悩んでいたのですか?」
  • 被告「そうではないです」

この記事によると、加藤は本当に非モテで悩んでいたのではなく、ネットで受けるネタだったから、

そういうキャラを作り上げて書き込みを行っていたということのようです。

僕は、加藤が「非モテネタ」を呟いていた場所が、ネットの辺境の匿名掲示板だったことが、残念でなりません。

もしも、当時加藤はてなに辿りつき、非モテブログを書いていたら?

PVブクマを稼ぎまくる「アルファ非モテブロガー」として、はてな承認欲求を満たし、友人を作り、

あのような悲惨な事件を起こすまで追い詰められることもなかったかも知れません。

当時のはてなにおいて、「非モテ」は確かに話題のネタでした。

しかし、はてな非モテを話題にして盛り上がれる場所であったこそこそが、当時あそこに集っていた人間にとっては最も重要で、価値のあることだったのです。

そして、そのことで救われた人間は、確かに居たのではないかと僕は思っています

2007-11-15

http://anond.hatelabo.jp/20071115212831

さっきまで『恋空』読んでたんだけど。そっからのコピペかと思いまった。

人間ってシンプルですね><

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前編第8章に入ったところで本日は断念。

やたらと

ヒロは美嘉の体を持ち上げて

 自転車の後ろに乗せると』

っていう描写が出てくるんだが、意味がよく分からん。

そもそも自分で乗れるし、むしろあんな不安定なところに人を降ろすのは恐い気がするんだが。実際にやってる人間も見たことない。作者の妄想フェティシズム押し付けられてる気がしてげんなりする。

あとPメールPメールDXの説明は何度もしなくてもいいと思う。つうかそもそも必要なのかその設定は。なんかの伏線なのか。それともおれはマクガフィンにはまってるのか。

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http://anond.hatelabo.jp/20071115220403

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