はてなキーワード: マクガフィンとは
でもね、これらの作品における同性愛って作り手にとって都合のいい関係でしかないんですよね。
『社会から迫害され理解されることそのものを拒絶された感情』の象徴として都合よく利用されているだけです。
あるのは『自分の欲望と社会のバランスがゼロサムゲームの様相をなす状態での葛藤を描く』という目的だけです。
引っ越しの時にドアを開けっ放しにするために、ドアの横に重しとして置かれた家電製品と何も変わりません。
それを見て同性愛者が「私達が理解されようとしている?」と期待感を持ってしまう姿はとても辛いです。
見ていられないんです。
でもね、それを騙しているとは思いません。
勝手に勘違いして勝手に裏切られた気になってる同性愛者が悪いだけです。
だからって何も知らずに不意打ちされるのは可愛そうじゃないですか。
だから私がこうして教えてあげているんです。
勘違いしたら、傷つくだけですよ。
まとめ
これだけ騒いでこれで終わり?
メッセージは何なの?
まー最初に言いたいのは、怪獣でブンドドしたいのか、何か意味深な話がしたいのか、人間ドラマを描きたいのか、どれかに絞れよってことです。
包み隠さずに言えばマクガフィンとメアリー・スーを悪魔合体させた環境テロババアを暴れさせたのがただの舞台装置でしかないからもっと手短にやれ。違うというなら単なる仲直りじゃなくてしっかり描けってことです。
主人公気取りのオルカ一家が丸ごと不要だったとすら言えますね。ガメラシリーズやゴジラシリーズにはちょくちょくああいう家族が出てくることは確かにあるんですけど、それは怪獣映画が子供向けであるが故になんか道徳的なシーン入れないと見せに来た親御さんがモニョるよねって要素の解消としての装置なわけでして、単におっさんオタクがうおおおおするだけのモンスタープロレスでしかないならいらんのですよ。
ドラえもんでもなきゃクレヨンしんちゃんでもないんだから、ただただ怪獣が暴れてりゃいいんですよ。
あの一家がテロリスト活動を通じて何かを取り戻す過程なんてのは、映すにしても映像感をつなぐための接着剤として割り切って10分ぐらいでいいんですよ。
マジでね。
ババアいらね。
娘もいらね。
親父もいらね。
んでまあ次に言いたいのはね、オチショボくねってことです。
ギガデストロイヤーと戦ってるわけでもないのにバーニングしだしたのはビックリしましたけどね。
でもそれやるならもうギガデストロイヤーやスペースゴジラと戦えよって話ですよ。
キングギドラが怪獣として最高なのは確かでしょうけども、この令和の時代に世界中の怪獣をキングコングまで含めて叩き起こしてまで倒す相手としてはちょっとまだ足りないです。
結局はオーバーキルであっさり終わってましたし。
最後にチラっとそんなシーンがありましたけど、あそこまでを開始1時間15分でやって、そんで最後にバーニングしてたら最高だったんすよ。
ゴジラとギドラ死んだ→メカキングギドラ登場人類終わった→実はメカゴジラ作ってた→やっぱ勝てねえ→芹沢とキングコングが犠牲になりゴジラ復活→メカキングギドラ+ファイヤーラドンvsバーニングゴジラ+モスラ+ガメラ
ぐらいのやりすぎ座組でやってこそのKoMでしょう。
怪獣大決戦にスタースクリームと化したラドンおまけしただけの話で終わられちゃ消化不良なんですよ。
そんでまあなんでこの映画が尺とスケールの割にオチがショボかったのかというと、ひたすら人間ドラマやってたからです。
それもまあ怪獣との共存とか未知との遭遇とか科学兵器開発とかよりもメインは、どっかの被災者家族が、頭おかしくなって暴れまわって娘がそれに振り回されてるうちになんかスッキリして和解、っていうただそれだけの話に尺を使いまくったからです。
なんですかコレ?
我々が映画館に払った2800円(3Dメガネ込み)は超弩級の怪獣プロレスを見るための値段なんですよ。
突然リングに上がり込んできた裏方スタッフによる家族への手紙朗読会をブックと言い張って見せられても困るんすよ。
その時間があるなら話をもう一回り回転させろよってことです。
最高クラスの映像も、重量感も4DXとの完璧な相性も、原爆とゴジラの関係性へのリスペクトも、最高すぎるメインテーマアレンジや、しみったれた自衛隊なんてテーマソングすら関わらせてやらねえという割り切り方も、中学生が教室でするような妄想を幼稚園児がクレヨンでコンテにしたためたようなジャンクさも、全部、全部、この勿体なさが台無しにするんですよ。
なんで?なんでこんな素晴らしい映像を作れるのに安っぽい環境テロリストとヒスババアによるくだらん終末論が物語の柱として居座ってるの?となってしまうんですよ!!
テロババアによる凶行なんてのは最初の1時間でかたをつけて残りは全部怪獣と科学者による殺戮パーティーであるべきだったんですよ。
必要ないんです。
世界を滅ぼしたいテロリストはまだしも、愛を叫びながら地球を滅ぼしたがる頭お花畑のおばちゃんも、後悔することが仕事みたいな面した陰気なおっちゃんもいらないんですよ!
結論!
映像 最高!
座組 おしい!
重量感 最高!
4DX 超最高!
リスペクト 最高!
ストーリー 💩💩💩
キャラ まあまあの💩
やあやあどうもお前らこんばんは。
FGO最近全然やってないけどTLに冬木クリア条件のイベントがあるって流れてきたからシナリオ読んで来てその勢いで書籍版も買ってきたマンだよ。
*この先、FGOイベント及び書籍『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』のネタバレ満載ですご注意ください。
さて。
俺はこの『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という小説が許せない。
ゲームのシナリオの方はどうでもいい……って言ったら失礼か。とにかく。小説独自要素?小説の落とし?が許せん。
この小説は。消費者にとって、そして二次創作者にとっては福音かもしれないけど、一次創作者にとっては、間違いなく、呪いだ。
タチの悪い呪いだ。
物語る者の矜持を打ち砕いて、迷わせてしまうような、そんな呪いが込められている本だ。
この『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』は、「脚本家が倒れたミステリ映画の続きを登場人物達が考える」という、メタミステリものだ。
個人的には『愚者のエンドロール』あたりを連想するところだけど、まあそれは置いといて。
作中では5つの「あり得たかもしれない未来」(ルート)が提示された。
ゲーム版では、プレイヤー達の「投票」によって、一番得票の多かったジャンヌ・ダルク・オルタルート(エリスルート)が選ばれ、"撮影"されたのだが、小説版では提示された5ルートの全てが一旦は"撮影"されたことになっている。
大まかなストーリーの説明はこれくらいにして、俺の気に障った箇所についての説明をしていこう。
『鳴鳳荘』の冒頭には、ラストにも繋がる、とあるシーンがある。
おじさんが幼女の大事な本を壊してしまい、図書館の司書(作中作の「映画」では脚本を務める)に修復を依頼する、そんなシーンだ。
ゲームではこのシーンは「映画」にうまく組み込まれるだけだったが(伏線回収は見事であった)、書籍版では、なんと、このシーンに対応するシーンがエピローグとなっている。
紆余曲折の末、壊してしまった「ペパーミントグリーン色の本」(ゲーム版の方で亡くなってしまったキャラのことを暗示してるらしいですね)を復元したおじさんが、幼女に本を返却する。
「これはわたしの読んでいたご本とは違うような気がするわ。出てくる子たちや舞台は同じなのに、なんだか違う話を読んでいるよう……」
そう。
「不幸な事故」によりバラバラに壊れてしまった物語を、おじさんたちがなんとか修復し、意味の通じるようにページを繋ぎ合わせたが、もともとの物語とは全く違うものになってしまったのである。
更に幼女は続ける。
「このままページを捲れば、本当の結末とは違うものが待っているんでしょう? それは……とても怖いわ」
これに対して、おじさんはこう答え、
最後に、こう読者に語りかけて、『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という「物語」は幕を閉じる。
(登場人物の感情や物語上のマクガフィンを受け)「何より結果をもって、その選択を肯定しようなんて……おこがましいとは思わんかね?
ちなみにこのおじさん自身は、世界史上実在した人物をテーマにすることが多いFateには珍しく、創作をバックボーンにもつキャラクターである。余談ではあるが。
創作者の、「物語る者」の役目は、責務は、自分の頭の中にぼんやりとある、つかみ所のない"話の種"みたいなものを、しっかり捕まえ、「物語」という形にして消費者に届けることである。
もちろん、その過程で、いくつもの"語られなかった"可能性は摘み取られる。
あり得たかもしれない未来のひとつを捨て、もうひとつの未来を掴み取るための主人公の決断。
見えかけていた可能性のひとつを捨て、別の可能性を選び取るためのヒロインの葛藤。
世界にとってか、主人公にとってか、主人公の愛する者にとってか、はたまた悪役にとってか。
誰にとってかは不定にしろ、とにかく、より良い「結果」を目指す登場人物たちの苦悩、死闘、葛藤、そして決断。
だから――
よりにもよって、そんな一次創作の登場人物達に、「良かったところまで巻き戻して、そこから想像しなおせばいい」だなんて言わせるなんて、許せない。
「『本当の結末』なんてない」と主張するのは、「全ての結末は等しく同じ価値がある」のと同じことで。
それは、「本当の結末」のルートに辿り着くために主人公たち登場人物が払った犠牲を、抱えた葛藤を、定めた決断を、無価値であると貶めることにはならないだろうか。
物語る者は、物語を創り出すと同時に、物語の中の人物の"感情"も創り出す。
全部が嘘でも、主人公が、ヒロインが、登場人物が抱えた"感情"だけは本物で、そんな"感情"に人は共感するから、人類は有史以来物語を求め続けてきた。
そう、俺は思っている。
この『鳴鳳荘』は、ひょっとすればそんな「登場人物の感情」は交換可能であり、等しく価値がある(≒等しく無価値である)。そう主張していることになりはしないだろうか。
だとしたら、俺は、この作品のことを許せない。一生根に持ってやる。
翻って、二次創作をする人たち(同人誌に漫画を書いたり、pixivに小説を書いたりする人を想定している)からすれば、この「呪い」は間違いなく「福音」であろう。
というか、彼らが日頃からやっていることだろう。
あり得たかもしれない未来、語られなかった可能性を追い求め、掬い取り、自分の力で結晶にする。
「こうだったらいいな」「あれがああだったらどうなってたのかな」
"if"を追い求めるのは、ロマンがあるし、楽しい。それはわかる。
でも、その楽しさは、「原作が絶対」という前提あってこそのものではなかったのか。
公式で語られたことは全て「正しい」。その前提の上で、ちょっとだけ世界を歪めてみて、結末がどう変わるのか。
それを楽しむための、ただの思考実験ではなかったのか。
"全ての結末は等しく同じ価値がある"だなんて、俺にはとても思えない。
現実的なことを言えば、Fateがもともとマルチエンディングな"ノベルゲーム"という媒体から派生したものであることと、俺が抱えているもやもやは繋がっているのだろう。
ゲームはセーブ&ロードシステムが使えるから何回だってやり直しができるし、消費者(プレイヤー)はいくつも用意された結末を全て体験することができる。
キャラ前提どころかシナリオが本当におまけ、キャラが何かするための触媒でしかないしマクガフィンどころか本当にどんなどうでもいい事でもキャラさえ絡めば話が成立する状態。
本当にもう全部キャラによるキャラのためのキャラクター消費なわけ。
プリパラもなんのかんのいって皆友だち皆アイドルというメインストーリーがあってその上にキャラが乗っていたんだなあ。
プリチャンはエモくてバズって人気者になりてえがメインストーリーだからひたすらキャラがキャラ押し出してればいいもんなあ。
いやまさかキャラクター消費の方向をとことん加速させてくるとは。
恋愛をシミュレーションしているんであって物語を読ませてるわけじゃねーんだよ。恋愛というアドベンチャーを提供しているんであって物語がメインじゃねーんだよ。
伏線バリバリ整合性トレトレのストーリーがお望みなら最初からそういうジャンルに行けよ。音楽や綺麗なイラストが目当てならサントラやイラスト集でいいんだよ。恋愛シミュレーションは恋愛のシミュレーションなの。そこを分かって。
パッケージ見て「このキャラと恋愛したいな」と感じた人が買うものなの。レビューやランキングを見て「重厚なストーリーと評判だったので読ませて頂きたく馳せ参じました」って層は他のジャンル行けよ。これそういうのじゃないからね。
恋愛をシミュレートする過程において発生した物語がたまたま重苦しかったり人生観が変わりそうになるような話になったというだけなの。本質的には恋愛を楽しむのが目的であって、そのためのマクガフィンでしかないわけ。そこをどうも勘違いしている人が多いね。年に100本やってレビュワー気取ってる層にもそういう人達が多いんだから困っちゃうなあもう。
発売早々あちこちで絶賛の声が聞こえるマリオの新作だけど、率直に言って私は大いに失望させられた。
操作感が気持ちいいとかヴィジュアルが素晴らしいとか褒める人はそういうところばっかり見てるけど、私が問題にしたいのは多分みんなが話題にするのを避けているストーリーに関してだ。
今時お話の始まりにさらわれて、ずっと助けてーって言ってるだけのヒロインとかある?????
自立した人格が与えられていないってレベルじゃない。単なるマクガフィンと化している。強大な力を持つマジックアイテムに置き換えても何ら問題ない。
露骨に女性をモノとしか扱わない物語展開で、ストーリーが進むたびに不快でしかなかった。
そもそも任天堂という企業はそういう現代的な感覚が希薄すぎない?
ゼルダの伝説もずっと主役は男性で、一応タイトルになってるゼルダ姫は添え物でしかない。
ポケモンは一応主人公の性別は選べるものの、アニメの主人公はずっと少年だ。
唯一期待のできるメトロイドのサムスもシリーズ自体がキモオタにそっぽ向かれて最近出番がない。(メトロイドがキモオタに人気がないのも、任天堂に蔓延する男女差別意識とは無縁ではないだろう)
欧米の開発会社が作ったプレステや罰箱でプレイできるゲームは現代的な価値観にアジャストしてむしろ男女や人種による差別と戦闘を切って戦っている。
それに対して、任天堂の作るゲームの売りは操作感とかヴィジュアルとか、動物的な感覚に訴える「快感」ばかりで、新たな価値観を打ち出すことができていない。
気持ち良ければそれでいいのか?って感じ。
外側の皮が一枚違うだけで、肉体的な快感に訴えるという意味では国内で量産されている糞みたいなソシャゲーと大差はない。
はっきり言って幼稚だと思う。
こんなゲームが大傑作扱いされている時点で、日本の人権意識が欧米に追い付くのは相当先になるんだろうなと暗澹たる気分になる。
まあ没落国家だし、追いつくことは永久にないかもしれないけどね。
あーあ、そりゃ自民党が勝つはずだよ。
あなたは、メインテーマとサブテーマの区別もつかないんですね。
『えんとつ町のプペル』は夢の話ではない。
作者があとがきで、わざわざ太字にして懇切丁寧に説明してくれている部分をよく読んでみましょう。
この物語のメインテーマは、夢を叶えるために行動することです。
太字したり、同じ言葉を繰り返して強調していることが、作者がもっとも伝えたいことだからです。
ちなみに、例の無料公開のページには、最後にこの言葉が繰り返されています。
http://spotlight-media.jp/article/370505056378315909
他の誰も見ていなくてもいい。
黒い煙のその先に、お前が光を見たのなら、
信じぬくんだ。たとえ一人になっても。
それから「信じぬくんだ。たとえ一人になっても。」の言葉も2回繰り返されてますからね。
つまり作者は、自分は孤軍奮闘で夢を叶えるために常識破りの行動してる、とでも思ってるんじゃないでしょうかね。
なぜなら、プペルは作者があとがきで
「夢を見る」「夢を語る」「行動する」といった、大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノをまだ持ち続けているという意味で、主人公を《ゴミ人間》にしてみました。
と書いてある通り、「大人になる過程で皆が折り合いをつけて捨てたモノ」の擬人化であるからです。
プペルとルビッチが友達になるというのは、ストーリーの「表層」でしかありません。
「そこに込められた意味がある」ということを、作者はわざわざあとがきで 懇 切 丁 寧 に 説明してくれているのに、あなたには理解できなかったのですね。
西野氏が無料公開した理由は、2000円が出せない子どもがいるから、と説明していました。
こんなに野暮ったく物語のテーマを易しく丁寧に説明するあとがきを書くのも、子どもに対して向けたものなら仕方ないかな、とも思ったのですが、あなたにはもっともっと丁寧な説明が必要だったようですね。
父親のペンダントを見つけるために物語は進んでいきますが、これを「マクガフィン」と言います。
「……ぼくの父ちゃんが、その『ホシ』をみたんだ。
とおくの海にでたときにね、ある場所で、頭のうえの煙がなくなって、
そこには光りかがやく『ホシ』がたくさん浮かんでいたんだって。
町のひとはだれも信じなくて、父ちゃんはうそつき呼ばわりされたまま死んじゃったんだ。
でも、父ちゃんは『煙のうえにはホシがある』っていってね、
ホシをみる方法をぼくにおしえてくれたんだよ」
つまり、父親は煙で覆われた閉じられた狭い世界のえんとつ町(言うまでもなく現代社会のメタファーですが)を飛び出して、外の世界で「ホシ」を見た(夢を叶えることのメタファー)という存在として描かれています。
あとがきの言葉を使うと「常識に屈せず」、夢を叶えるために行動した「モデル」として描かれているだけで、愛してくれた父親としての思い出が語られるような描写はありません。
これを親子愛の物語だというのは、「天空の城ラピュタ」が親子愛の物語だと言っているようなものですよ。
私にもお話しする相手には「下限」がありますので、あなたへのお返事はこのへんで終わりにしておきます。
20年前、まだ彼女達が赤ん坊だった頃、彼女達の親は独立戦争の指揮をとっていた。
その結果は敗北、彼女達の親は戦争犯罪人として処刑されてしまう。
小国は再び、大国の支配下におかれることとなるが、再起を狙う独立派は、赤ん坊の姫を次の旗頭に据え、潜伏を続ける。
その際に、姉は独立派と共にゲリラと共に、妹は大国の支配下に置かれた国の中枢で生きて行く事になる。
大国の国としてのあり方を根底から覆すマクガフィン的な物の位置を発見した独立派は、それを手に入れるため再び戦いを仕掛ける。
しかし、双子姫の姉は幼き頃から続いていた戦いの日々を辞めさせるため、マクガフィン的なものを奪い逃げ出してしまう。
そして、逃げ込んだ先で偶然、双子は再開する。
戦いを辞めさせたい姉と、大国に苦しめられ息も出来ない国民を救うために戦いを続けたい妹と、2人の意見はすり合わない。
2人は争いながらも、自分たちを慕い、何より今苦しんでいる民のために何が出来るのか苦悩する。
自分たちは国民を、国を、ひいては自分たちを支配する大国を、何よりそうしてしまった世界を、俯瞰で見ていることを、あたかも自分たちだけが特別な外側にいるような考えでいることを。
あたかも、時の流れ全てを知って、自分たちだけが正解を知っており、それ以外の全員が間違っているのだと、思い込んでいた事に気付く。
改めて、自分たちが何をすべきなのか、ではなく何をしたいのかを2人で話し合う、
離ればなれだった20年間を埋めるように、2人は話し続ける。
人類の革新、ニュータイプと呼ばれ宇宙に適応し、オールドタイプではなし得ない、超常の感覚によるコミュニケーションを可能とする2人であっても、たった2人っきりの姉妹の家族の合意すら得られない。
人類史における進化の速度の例から見ても、そんなことは当然のことなのかもしれない。
ジオン、デラーズフリート、ティターンズ、ネオジオン、シャアの逆襲。
幾多の戦争を経験してもなお、連邦の”高官”という地位は守られ、そしてそれは次の戦争の火種になっていく。
そう、木星の総督に”高官”の娘をあてがうことが発端になる争いには、人類の革新もコロニーの独立などのお題目とは関係ない、ただの「差別された」ことへの不快感しかなかった。
その不快感が、ドゥガチを、カリスト兄弟を、ギゾを、凶行に走らせる。
とどのつまり、人が人を支配することは、今この瞬間の平和を生む事はできても、10年、20年先の、100年続く平和を生む事はできない。
だけれども、その先に待つのは何だろう?
結局、ミネバ・ザビとミネバ・ザビになれなかった者は、そんな答えのでない議論を朝まで続け、気付くと眠っていた。
国に残った妹は川澄綾子さんに決定です!
みなさんのキャスティングをお待ちしておりまーす!
これはもう万人に知れ渡った事実だろう。
運と論理をしっちゃかめっちゃかにかき混ぜた結果、ゲーム性というものは万人の見解の中で細切れに吹き飛んでしまっている。
そして文句のたれあいと足の引っ張り合いがおき、最後には『リア狂』という単語が飛び交うようになるクソゲーである。
役職の狂人や人狼を疑っているうちはどんなにいがみ合っていてもいい。
「誰々はプレイヤーとして間違っている」「誰それはルールを理解していない」
この程度ならまだましだ。
「ほにゃららはゲームを壊して楽しんでいる」「むにゃむにゃは負け続けた腹いせにわざと自分たちのチームを負けさせようとしている」
ここまで来るのだ。
本当にここまで来る。
そりゃこうならずに平和に推理ごっこをして論理的に答えにたどり着くことはある。
前置きここまで
その原因はある1つに集約される
嘘つきゲームだと思われすぎて意味なくウソを付くやつがいるから? NO!NO!NO!
勝利と敗北の真っ二つだから? そうだそれもある
『チ ー ム 戦 だ か ら だ』
「無能な味方は射殺しろ」とは古事記にも書かれているブッダの教えだがまさにそれが起きるのだ。
味方が無能でなければ勝っていたという戦いは非常に辛い。
相手をしている側も敵チームにまぎれていた無能がゲームを破壊したから勝ったというのは釈然としない。
勝利という結果は目的ではない。
たまに「ゲームの勝ち負けに熱くなってる~~」と言う人間がいるが、違うのだ。
多くのガチ勢は「ゲームを真剣にプレイすること」に熱くなっているのだ。
勝利ではなく求めているのは過程だ。
いいゲームがしたい。
楽しめるゲームがしたいのだ。
ただ楽しみたいのだ。
勝利は目的ではない。
だが悲劇は起きる。
ちょっとしたミスで危ういバランスの上に成り立っていたゲームは崩壊する。
そして何が厄介って一見するとミスをせずにプレイするのは凄い簡単に思えてしむことだ。
それは1人プレイのゲームなら、目を光らせた上級者と本人だけが気付いて胸の中で「ドンマイ」と言うだけで済むようなものだったろう。
しかしチーム同士がお互いの言葉の尻尾をつかみ合うゲームでのちょっとしたミスは大きな混乱を引き起こす。
ただハトと言い間違えて「カラスは白い」と言ってしまった程度の事がてんやわんやの大騒動を引き起こすのだ。
ドミニオンでアクションカードを切る前に貨幣を出してしまったらどうなるだろうか?メンゴメンゴでやり直せるかも知れないし単に1人のプレイヤーが一手損するだけかも知れない。
だが人狼は違う。
全てのプレイヤーが混沌の渦の中に叩きこまれ「おっと間違えた」で時間を戻すことは出来ないのだ。
そうして全体のゲームを壊した責任を1人のプレイヤーが取る羽目になる。
何故こうなってしまうのか。
これは他のチームプレイの遊びでも同じことは言える。
確かに言える。
だが人狼は「お互いが危ういバランスの上で協力する」という徹底した前提が有る。
そしてプレイヤー達の順位が「チームの勝利」と「チームの敗北」しかない。
他のパーティーゲーム、例えばニムトとかなら「あちゃーあと3点だったのになー」「まあビリは回避できたわ」と頑張ったプレイヤーはそれぞれに強がりが言える。
だが人狼は違う。
最後の二択までいって始めてそれが許される。
その前の段階で誰かの致命的なミスでチームやゲームが崩壊したらもう全てがおしまいだ。
下手したら勝利チームは存在するが意味不明だから全員敗北ともなりかねない。
そうなのだ。
個人戦でないがゆえに、二位や三位になるものはおらず、時には勝利者すらいなくなってしまうのだ。
ゲーム終了時に吐く言葉として「惜しかった」すら許されず「クソゲー。◯◯最低だわ」とはっきり口にだすかオブラートに包むかそれとも無言を貫くかしかないのだ。
実にクソである。
クソである
コントローラーやマウスを握りながらふと金にもならない技術も身につかないくだらない作業に余暇を消費したくないと思ってしまう。
悔しい。
そう思ってしまうのが悔しい。
ゲームで何も身につかないのは当たり前だ。
そりゃネットゲームで知り合いが増えたり、学生時代にドラクエの話題で盛り上がったりはしたけど、それはあくまで触媒にしただけであってゲーム自体はコミュニケーションのネタでしかない。
その中身は昨日のニュースでもいいしアニメの話題でもいい、ゲームの攻略情報なんて話に刺激を加えるためのマクガフィンだ。
そうだゲームなんてやっても結局楽しいだけでなんにもならない。
オナニーしてシコシコして気持ちよくなったなんて素晴らしいんだ(byディオゲネス)でしかない。
それを知っていて俺はゲームをやったはずだ。
「こんなの人生の役には立たないよね」という声に「でも楽しいから問題ねぇ!」と強気に返せなくなってきた。
「確かに俺もそろそろ勉強とかしとかないといけないな」「ジムでも行って体を鍛えないと成人病にかかりそうだ」なんて声が聞こえてきたらそのまま押し切られて「本当にその通りだ俺は一体何をやっているんだ」と熱が冷めてしまう。
悔しい。
格好つけて「所詮は0と1の羅列さ」なんて言ってみせた所でそれはタンパク質の塊である自分を棚に上げた恥知らずなマウンティングでしかない。
悔しい。
「ガンダムUC」の最終話ついてちょっと書きたい(ネタバレあり)。
最初に立場を明らかにしておくと、増田は、典型的な富野信者であって、ガンダムプロレスにはあんまり興味がもてない人間だ。バイアラン・カスタムとかシュツルム・ガルスのトコとか、こんな意味ねーシーン全部削って、会話に尺まわせよと怒っていた。そーいう面倒くさいやつが書いたもんだという前提で読んで欲しい。それと後半は電波。富野信者なので。
で、この「ガンダムUC」、MSチャンバラについては絶賛されているが、ストーリーの方は賛否両論がある。だが私は批判することに意味があるのかと当惑している。こーいうのは、主張者が主張した内容をマジに信じている、という前提がなければ、なりたたない。私は、そこが信じられないのだ。
「UC」最終話を劇場で見て愕然とした。「送り手はこの物語のメッセージをまるっきり信じていないのではないか」と衝撃を受けた。この作品に対して、茶番だの陳腐だの説得力がないだのただの二次創作だなどと言うのはいいが、それを一番、自覚しているのは送り手自身なのではないか、という疑念をぬぐえずに今に至っている。
どういうことか。
「ガンダムUC」というのは「ラプラスの箱」という秘密を廻る物語だ。
これはほとんどマクガフィンに近く、中身は実はどうでもいい。とにかくこいつが連邦の中枢により隠蔽されたことで、宇宙世紀の歴史(とニュータイプ思想)は歪み、1stガンダムから「逆襲のシャア」まで続く戦乱の歴史が巻き起こることとなった。しかし歪んでいようが何であろうが、百年続けば、それは秩序の一部となってしまっている。
既存の秩序の維持するため、「箱」を隠蔽するか? 混乱を呼ぶとしても、「箱」を公開するか?
少年たちは後者を選ぶ。たとえ波乱の未来を到来させるとしても、「不正義による秩序」より、勇気を持って「正義による未来」を選ぶ。物語が描くべき正しい選択、正しい若者のあり方だと思う。
かくして宇宙世紀は箱の呪縛から解放される。人の革新=ニュータイプ思想のもと連邦とジオンの戦いが形を変えて繰り返される不毛な連鎖から解き放たれる。これはもちろん、終わることを許されず、次々と続編を創ることを余儀なくされたガンダム産業の比喩でもあり、だからこそガノタの胸に響く。
もちろん、我々ガノタは、その選択の先に待つ「F91」や「V」の時代が、必ずしも希望に満ちた未来でないことを知っている。だが、そうだとしても、「これまでと同じことをひたすら繰り返すだけ」より「失敗覚悟で新しい世界を創る」ことを選択した若者たちの決断は、とても尊いものとして描かれる。
それを見届けて、シャアもアムロもようやく成仏する。一年戦争の呪いから宇宙世紀が解き放たれた瞬間である。
富野信者が、勝手なことしやがってと怒るのはわかるが、しかし、ともかく、それがこの映像が発したメッセージなのだ。
だが、恐ろしいことに、劇場で上映されたこの作品は、実に4年間、7巻かけて書いた結末を、直後にみずから全否定するのだ。スタッフロールが終わり、何が始まるか。
突然に、1stガンダムのリメイク、「機動戦士ガンダムORIGN I」の予告が始まるのである。
http://www.gundam-the-origin.net/
「一年戦争の時代」からの解放をテーマにした物語のラストで、唐突に「一年戦争」がリメイクされますよーと嬉々として宣言されるのである。よーやく成仏できたシャアは30分待たずに現世に呼び戻される。この予告編は意図的に、映画「機動戦士ガンダムⅠ」の予告に似せて作ってある分、余計ループ感は強い。
唖然とした。個人的には「UC」7話はそこまで引き込まれるものではなく(イデオンネタは超大喜びしたけど)、「及第点」ぐらいの印象だったが、それでも感動を返せ、という気になった。本篇終了後即座に全否定される映画なんて聞いたことがない。一体、原作者や監督やスタッフは、どうしてこんな暴挙を認めたのか。本当にそれでいいのか。このあたりの意思決定の構図はよくわからないから、とりあえず「送り手」と一緒くたにする。ともかくこの送り手が、自分で発した「箱の解放」とか「一年戦争の呪縛の終結」とか「歪んで腐敗した旧体制から混乱覚悟で新しい時代へ」なんてメッセージをまるで信じていないし尊重する気もないことだけはあまりに明らかだ。
新しい時代なんて創るつもりはないよ。
え? じゃあ「UC」はなんだったのって? ほらわかるでしょ、本音と建て前ってやつですよ、おたくもニュータイプだったら察してくださいよ、ねぇ。ほら、キュピーン! って。
これはそういう宣言だ。
ハルトーシ少年は継承した「富野の箱」を手みやげにサンライズ財団の重鎮となり、バンダイム・エレクトロニクスのガンプラを売る人になりました……それが4年かけた「ガンダムUC」の結果です、と言っているのだ。おかしいですよ晴敏さん! そんなの富野信者の晴敏さんの言うことじゃないですよ!
そんなわけで「UC」の内容についてまともに批判することの意味を私は見失った。だって送り手が、自分の語った物語を信じてない、それどころか一番ひどい形で全否定を行ってしまっているのだ。今更何を言っても単なる死体蹴り、いや、それどころか、そのような批判こそ、送り手はむしろ望んでいるのだとさえ思えてくる。
つまりこういうことだ。
メチャクチャ単純化すれば「UC」での賛否両論というのは、ガンプラオタクと富野信者の対決である。前者はとりあえずMSVが一杯出てくれば喜ぶし、後者は富野神の書いた聖典に他の誰かが一筆書き入れることなど許さぬと批判する。ガンプラオタク濃度が濃いヤツは「UC」肯定するし、富野信者濃度が濃ければ「UC」否定という話だ(繰り返すが、メチャクチャに単純化すれば、である)。
だが、両者は本当に対立しているのか? 前者の主張は「ニュータイプ思想とかどうでもいいから新しいMSV一杯出せ」であり、後者の主張は「下銭な二次創作者如きが富野神のニュータイプ思想(宇宙世紀史でもいいが)に手を触れることなど一切まかり成らん」である。
この両者は必然的に「永遠に一年戦争の外伝だのリメイクだのを作り続ける」という結論に帰結するしかない。前者は積極的に、後者は消極的にそれを肯定する。そして送り手もまた、それこそを望んでいるのはすでに見たとおりだ。
そうしてガンプラオタクは送り手の造ったMSVのプラモを買い続る。富野信者は彼らを嘲笑うことで「自分こそ富野神の思想を守り続ける孤高のニュータイプ」という立場を確保できる。
しかし、私は富野信者として、そこに安穏とすることはできぬ。そんなことをすれば脳内カミーユ・ビダンが「あなたはいつも傍観者で、人を弄ぶだけの人ではないですか!」とスイカバー突撃をかけてくるからである。散っていたお禿様の髪に顔向けできぬからである。富野信者であるということは、富野を聖典とすることではなく、富野のように生きることだと信じているからである(だから、今度の「Gレコ」だけが本当のガンダムなんですよ、という立場にも私は立つことができぬ)。
(大人しくガンダムを卒業すればよいのはわかっている。それができれば苦労はしないのだ!)
ガンダムはロボットアニメでありサブカルチャーである。ガンダムはビジネスとの兼ね合いの中でしか生まれこないし、それこそがガンダムの強さ、ガンダムの同時代性の源であることは、絶対に否定できない(ガンプラ売りに徹した「ガンダム」は嫌だが、押井守映画のような文学モドキの「ガンダム」なぞもっともっと嫌だ)。
だからハルトーシ少年だって、私が↑で書いたことは百も承知かもしれない。きっと彼は叫ぶだろう。
「やりました、やったんですよ、必死に! その結果がこれなんですよ! 映画の「ローレライ」(と「戦国自衛隊」と「亡国のイージス」)がコケて、右傾エンタメ作家の席は百田尚樹に奪われて、今はこうして富野の二次創作を書いてる! これ以上、何をどうしろって言うんです! 何と戦えって言うんですか!」(註1)
私は、彼に答えるべき言葉を持たない。こんな時は、富野神に還るしかない。神は言っている。
"Century color Million color" ――せいきの色はまんこの色であると。
違う。
ターンAターン、だと。∀だと。全肯定であると。
送り手が自分のメッセージを一切信じていないなら、それを批判して何の意味があるだろう。逆だ。有効なのは、相手が信じていないメッセージを、こっちが文字通りに全肯定してやることだ。つまり∀UCだ。
バナージが何も考えずに箱を開けた、その蛮勇を評価するように、富野のニュータイプ思想を継ぎ、「逆シャア」の先を書こうとした覚悟は評価する。
駄作も愚作も一杯出来るのを承知で、宇宙世紀のその先が語られるのを心から望む。
できるかぎり応援する。
それしか、ガンダムに対し、緊張感を持って向きあう=富野的である方法は、ないような気がするのである。
むろん、それは、終わりのないディフェンスである。
ガンプラオタクからはそっぽを向かれ、富野信者の罵倒に耐えねばならぬ。
しかし、それでも、えんえん一年戦争をリメイクし外伝を造り続けるよりマシだと信じる。
その向こう側に何もなくても――いや、しかも脳波コントロールできてしかも手足を使わずにコントロールできるマシンにセシリーが触手レイプされ、バイク戦艦が街々を踏みつぶし、カテジナさんがオデロもシュラク隊も鏖にして、月光蝶でみんな灰になったあと、全人類が無限力に溶け合って何もかもが因果地平の彼方にスペースラナウェイする哀しみが待っていたとしても――、かまわないのである。
STAND UP TO THE VICTORY!
註1:いや、もちろん田母神俊雄と戦ってくれればよい。ついでに百田も撃てばよい。実は「ガンダムUC」の小説版には、田母神論文事件を露骨に批判した箇所が存在する。詳しくはこちら → http://kaito2198.blog43.fc2.com/blog-entry-388.html。小説版が出た頃には、ただの右のヤバイ人だった彼が、若者の支持を受ける保守系政治家候補となってしまった現在こそ、福井の田母神批判はアクチュアリティを増している。