はてなキーワード: 風の谷のナウシカとは
レビュー対象商品: 風の谷のナウシカ全7巻セット ―アニメージュコミックスワイド判 (アニメージュコミックスワイド版) (コミック)
私の職業は科学者です。そして科学は宗教の一つです。私がそうはっきりとした自覚を持っているのは、この物語を読んだからかもしれない。「風の谷のナウシカ」はそういった深い哲学的な意味合いを持った物語です。
宗教としての科学は、論理という神の名の下、世界に「真実」を作り出して人々を啓蒙します。世界を「真」と「偽」に二分し、社会に「真」であることを暗に、しかし強く要求します。
私はこの「風の谷のナウシカ」を、人間が宗教を乗り越える物語だと感じました。しかし人類は宗教なしには生き長らえられないのではないか。同時にこの物語は、そうとも言っているように思えます。宗教を乗り越えて初めて見えた命の本質、その絶望に対する希望として、作者は「王道」を物語の中に用意しています。しかしこの「王道」について、作者が詳しく語ったほかの作品を、私は寡聞にして知りません。
ニーチェがその死を報告したキリスト教の神が、未だアメリカのような強大な力を動かしている現代。ゲーテルがその不在を報告した科学の神もまた、未だ生きつづけて強大な力を誇示しています。「王道」はこれらの神の内に存在するのでしょうか。
結局、人生の目的は、「いま、この一瞬を生きる」ということなんだろう。
「風の谷のナウシカ(漫画版)」最後の「生きねば…」が全てを物語っている気がする。
「宮崎駿 虚無」とかでググると、彼は虚無に襲われないようにアニメに没頭したのではないかと思えてくる。
「伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。
黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。
だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで
額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。
すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。 」
塩沼亮潤
「SWITCHインタビュー」「死ぬのは怖いですか?」という質問に対する回答
「何回か死にかけているので、もう怖くもなんともなくなった。死を意識するっていうことは全くなくなった。」
「ただ 生きられるうち、精一杯 生きようっていう気持ちですね。自分の力を十二分に発揮してこの世で終わりたい。」
西畠清順
「選ぶのは長い時間風雪に耐え、生き延びるために独特の形になった松」
人が恵まれていることは、一生懸命になれることの選択肢が無数にあることではないか。
文章を書くこともそのひとつで、この文章を書かれた「その瞬間」は、
それなりに一生懸命に生きていたのではないか?
そうでなければ、これほどのブックマークは集められないと思う。
・1000年単位の昔、発展した技術により世界が滅びかけた(火の七日間/宇宙世紀時代の戦争)
・そのために、ある政治思想に基づき、技術の封印・独占が行われ、宗教性でもってカモフラージュされた(腐海の開発者・シュワの墓所/ヘルメス財団・スコード教)
・物語の始まる少し前に、世界を変えようと目論む青年によって、技術が外に持ち出される(神聖皇帝/クンパ・ルシータ(=ピアニ・カルーダ))
・物語は進んだ技術と主人公が出会うところから動き出す(王蟲の幼生/Gセルフ)
・主人公たちは真実を突き止めようといろいろな国へ赴き、道中に戦争をする。
・真実を知りたいがために突き進むのは姫である。(ナウシカ/アイーダ :ともに姫様)
・最後に主人公は旧世紀の遺物である強大な力(巨神兵オーマ/Gセルフ)を利用して旧世紀の技術の破壊を行い、戦争をひと段落させ、自分たちの力でもって生きていこうとする。(生きねば…/僕はこれで世界一周するぞ〜!)
■SF
時砂の王、know 野崎まど、天冥の標、Beatlessとか色々あんだろ!
はてなで検索すれば、SFのランキングとかの記事たくさんあるから、ネタには困らないだろうが!!探せ!
ハーモニー、虐殺器官は映像がんばってください。ハーモニーはそこまで好きじゃなかったけど、映像化で上手く化けそう。虐殺器官は面白いシーンが会話シーンばっかだったから、映像化大変そうや。
■ラノベ
俺妹系のラノベはもういらねえんだよ!俺妹はまあまだ面白かったが、つまらないラノベをアニメにしすぎなんだよ!下手な鉄砲より、上手な大砲もってこい!
ラノベやるなら、ここらへんやれ!ラノベランキング的な記事から引っ張ってきた!
イリヤの空、ブギーポップは笑わない、わたしたちの田村くん、終わりのクロニクル、アストロノイト、風よ龍に届いているか、冬の巨人、さらば大久保町1、大久保町の決闘1、楽園まで1、あなたのための物語1、純潔ブルースリング1、ユーフォリテクニカ1、Black Blood Brother、時裁りリンネ、円環少女、ベントー、ミミズクと夜の王1、とある飛空士への追憶1、MAMA1、雪蟷螂1、アリソン、ブラックロッド1、ある日爆弾が落ちてきて1、砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない、エスケープスピード
とかちゃんとしたやつやりやがれ!ラノベでもちゃんと内容があってしっかりしてるやつな!
アニメーターもつまらない作品よりはちゃんと面白い作品をアニメにしたいだろうがよ!知らねえけどよ!
■歴史系、戦記系の漫画
あと歴史、戦記系の漫画みたいなしっかりした原作をアニメにしてくれよ!!好きなんだよ!
チェザーレ マキャベリズムの元の話 丁寧さは随一、
とかな!!面白かったぞ!
■少女漫画
少女漫画の傑作ランキング的なのがネットに転がってたから置いとくぞ!つまらないラノベやるならこれやれ!
僕の地球を守って、24年組、吉田秋生、ふしぎ遊戯、イティハーサ、青い花、闇のパープルアイ、ときめきトゥナイト、子供のおもちゃ、BASARA、観用少女、僕ら、くらげ、良いなよ、怪物、ひよこ、動物のお医者さん、恋文日和、てるてる少女、OZ、テレプシコーラ、ここはグリーンウッド、天ない、海の闇、月の影、フルーツ果実100、天才ファミリーカンパニー、百億の昼と千億の夜、町でうわさの天狗の子、動物のお医者さん、ホットギミック、図書館戦争、執事様のお気に入り、ストロボエッジ、恋愛カタログ、愛してるぜベイべ、GALS、フルバ、はみだしっ子、キャンディキャンディ、天然コケッコー、青空エール、おひめさまの世界地図、フィーメンニンは謳う、天使禁猟区、ヴァンパイヤ騎士、お父さんは心配症、こいつら100%伝説、ルナティック雑技団、CIPHER、YAKSYA、秘密、笑う大天使、王家の紋章、天上の虹、死と彼女とぼく、日出処の天子、ランドリオール、火輪、彼方から、
■漫画歴代ランキング
寄生獣とかうしおととらみたいな過去の名作のアニメ化傾向はいいな!素晴らしい!
寄生獣のアニメは120点の原作をアニメにしたら原作が面白いから80点取れたけど、原作知らない人には80点凄いね!って感じだが、原作知ってると駄目駄目だけどな!マジで映画やるからついでにアニメもしましょうみたいなの止めてくれ!のだめはアニメ実写どっちもよかったけどな。
どっかの漫画歴代ランキングがネットに転がってたから置いとくぞ!
1.火の鳥(特にオススメは鳳凰編&未来編)('54)~手塚治虫
2.ジョジョの奇妙な冒険('87)~荒木飛呂彦
5.BASARA('91)~田村由美
11.マーズ('76)~横山光輝
20.キャンディ・キャンディ('75)~いがらしゆみこ&水木杏子
同21.機動戦士ガンダム THE ORIGN('02)~安彦良和
22.MASTERキートン('88)~浦沢直樹&勝鹿北星
25.AKIRA('82)~大友克洋
28.寄生獣('89)~岩明均
35.銃夢GUNNM('91)~木城ゆきと
39.イティハーサ('89)~水樹和佳
40.藤子・F・不二雄の傑作SF短編集('80前半)~藤子・F・不二雄
45.花男('91)~松本大洋
46.赤色エレジー('70)~林静一
55.サンクチュアリ('90)~池上遼
56.バキ('99)~板垣恵介
58.同棲時代('72)~上村一夫
65.ムウ('76)~手塚治虫
66.蟲師('00)~漆原友紀
67.pink('89)~岡崎京子
75.動物のお医者さん('88)~佐々木倫子同75.もやしもん('04)~石川雅
76.童夢('83)~大友克洋
77.めぞん一刻('80)~高橋留美
同81.CIPHER('85)~成田美名子
88.ねじ式('68)~つげ義春
89.闇のパープル・アイ('84)~篠原千絵
94.こちら葛飾区亀有公園前派出所('76)~秋本治
96.月の子('88)~清水玲子
どーだ!名作なんていくらでもあるんだ!つまらないラノベをアニメにすんじゃねえ!!
http://anond.hatelabo.jp/20150114231342
1)風の谷のナウシカ
5)ベイマックス
7)ヒックとドラゴン(1)
10)以下、適宜追加予定
再生には特に理由(伏線)はない。ザ・松田である。いんだよ細けぇことは。
死の方を「明らかに死んだだろう」事態を間接的に描写するにとどめ、実は生きていたとした。
伏線は空飛ぶバットポッド(The Bat)の自動操縦できるできないのミスリーディング。
(ただし、「実は生きていた」シーンの方をアルフレッドの幻覚である、とする見方をする人もいた模様。)
成層圏で弾道ミサイルに体当たりして爆発四散という直接的描写。
クライマックスでグルート本体が死に、実は生きていた挿木から再生する。
切り株から再生するシーンが伏線となっている。そういう世界だからそちらはいいのだが、問題は、中盤に
スターロードもガモーラもドラックスも死んでもおかしくないダメージを受けた描写の後、実は生きていた、
というくだりがそれぞれある点。それにより最大のピンチの筈が弱まってしまっている。
ここまでくれば ベイマックスがラストバトルで壊れて、再生するというのは観る前に九分通り見通せてしまう。
「どうせロボットだから修理できるんでしょ」という視聴者の上を行く(裏をかく)「異次元宇宙に置き去り」
で「死」のかわりに「死」のもつ性質「永遠の別れ」をクライマックスの最大のピンチに置いた。
まず、実際の生命をやったりとったりする世界ではなく、ヒット作の前日譚であり、死ぬわけがない。
本作での死は大学を退学になることに相当し、「社会的生命」とでもいうべきものである。
モンスターズインクに入社できるかどうかという点も予め答えが与えられており、そのハンデを負いつつよく深いピンチを表現したものである。これは死んで生き返らない話パターンとみなすこともできる。
あわや死んだと思ったがに片足がちょん切れただけですんだ。
のび太やスネ夫が死ぬと思って映画を観る人はいないと思われ、生きるか死ぬかのサスペンスは
という二つの要素があることがわかる。
ブルースウェインが超再生遺伝子細胞パワーを持っていたので生き返った、では売れる映画も売れないだろう(観てみたくはあるが)
リアル寄りの世界では、死を直接描写した上で再生の奇跡を描くのは難しい。
再生の奇跡のカタルシスは、死なないとわかっている主人公では描けない。
再生(または死を避ける)能力・メカニズムの片鱗をクライマックスの勝負以前のどこかでさりげなく見せておく
ことが重要なのであろう。
についてもいつか書きたい
まずはじめに、マンガ「ナウシカ」をお読みになっていない読者のために、そのあらすじをやや詳しく説明しておこう。
すでに多少説明したことでもあるし、本書の読者であれば、マンガ「ナウシカ」を読んでおられなくても、すでに何度となく
テレビで放送され、どこのレンタルビデオショップにも置いてあり、へたをすればほとんど国民的映画扱いのアニメ「ナウシカ」
をごらんになっているであろうから、アニメと漫画双方に共通する限りでの設定の説明は省略する。
しかし、漫画「ナウシカ」のストーリーはきわめて複雑に錯綜しているため、必ずしもテクスト通りには整理できないがご容赦いただきたい。
もちろん、この記述で納得なさらずに漫画「ナウシカ」のテクストに実際に当たられることが一番である。
物語の発端はアニメ「ナウシカ」と同様に、風の谷」付近の「腐海」でのナウシカとユパの再会、ユパの風の谷訪問である。
平和なこの国も別転地ではなく、「腐海」の毒は確実に浸透し、人口は年々減り続けているし、近々始まる戦争にナウシカは
時期族長として、病める父、ジルに変って、同盟宗主国トルメキアの軍に従軍しなければならない。
そんな時、谷付近で不時着した飛行船から隣国ペジテが同盟国であるトルメキアから滅ぼされたとの報が入る。
飛行船に乗っていたペジテの姫ラステルはいまわの際に、ナウシカに謎の「秘石」を渡し、それをトルメキアの王に渡すことなく
兄の元に届けるように依頼する。
ペジテ避難船の動向を察知したトルメキアの部隊は程なく、風の谷に現れ、谷の代表として対峙したナウシカと一瞬即発の事態
の空気が流れるが、ユパの仲裁によって事なきを得る。しかしその際トルメキア兵を一人殺めてしまったナウシカは自分の中に
眠る力と凶暴性に恐怖する。
出発前夜、ユパはナウシカが管理する城の地下最下層にある部屋に案内され、そこでナウシカが管理する「腐海」の植物群を
目にする。通常の「腐海」の環境下では瘴気を発する植物群も、清浄な地下水と土で育てれば、毒を発しないのである。
これを見てユパは腐海の生態系が土壌中の有害物を還元して無害化し、かつての産業文明が汚染した地球環境を浄化している
という自らの仮説に確信を抱き、独力で実験的に結論に到達したナウシカこそ、人類の未来を握る存在だと直感する。
ナウシカは谷の将来のためにあえて、若者を残し、老人達ばかりの戦闘従者率いて、ガンシップ(小型の戦闘用高速飛行艇)とバージ(艀
ガンシップに牽引されて滑空する輸送用グライダー)で、近隣の、同じく「腐海」のほとり(この地域は「辺境」あるいは「エフタル」と呼ばれる。)に位置する小国家郡の軍勢とともにトルメキアの部隊に従軍するべく出立する。彼女達が合流する部隊の長はトルメキアの第四皇女クシャナである。彼女は本来一大軍団の長であるが、自軍の兵力の大半を主戦線に召し上げられ、今はペジテ攻略のためのわずかな兵力しか手元にない。彼女の任務は当初、ペジテで偶然発見され、その危険性を察知したペジテ当局によって封印された最終戦争「火の七日間」の超兵器、巨神兵の奪取だったが、其の復活の鍵である秘石の紛失によって当面巨神兵は役に立たない。
ついで新任の参謀クロトワによって、現有兵力プラス辺境諸族の同盟軍によって「腐海」を突破し、主戦線とは別方向から遊撃を行えとの指令が中央からもたらされる。彼女の側近たちは激昂し、この作戦自体が彼女の政敵である兄皇子たちによる、彼女を陥れる為の罠ではないかと憂慮するが、クシャナはおとなしく指令どおりに行動することを決める。
クシャナの軍とナウシカら辺境諸族の軍は「腐海」上空で合流するが、ランデブーポイントに突如ペジテのガンシップが飛来し、攻撃を仕掛けてくる。それはラステルの双子の兄アスベルであった。攻撃に巻き込まれて風の谷のバージは牽引ロープを切られ「腐海」に不時着する。
初めて本格的な戦闘行動に直面したナウシカは、機敏な行動でバージを不時着へ誘導し部下の命を守ったものの、殺戮に軽いパニック状態になりテレパシーでアスベルに攻撃をやめるよう呼び掛ける。
そのため隙を作ったアスベルもまた、クロトワの操るコルベット(戦闘用高速飛行艇)撃墜され「腐海」に不時着する。
「腐海」に降りてバージを救ったナウシカは、そこで「腐海」の主とも言える巨大な蟲王蟲と接触し、アスベルの生存を察知し、ただ一人メーヴェ(一人乗りの動力凧)に乗って救出に向かう。辛くも生き残ったアスベルは「腐海」の蟲たちを殺しすぎ、蟲の群の集中攻撃を受けていた。
ぎりぎりのところでナウシカはアスベル救出に成功するが、二人して「腐海」最下層へ落ちてしまう。気を失ったナウシカを守ろうとするアスベルの前に現れた王蟲は、ナウシカを小サキ者と呼び、彼女がそう望むから殺さない、早く去れ、自分達は助けを求める遠い南の森へ行く、と言い残して去る。
「腐海」最下層は瘴気が無く、空気も水も清浄な場所であった。ここでナウシカは「腐海」が地球環境を浄化しているという自らの直感の裏づけを得る。そしてナウシカとアスベルはメーヴェで「腐海」から脱出するが(ここまでで単行本第一巻)
花粉症が嫌だから、杉や檜を切って、日本本来の植生に戻せばいいっていう人がいるんだけど、
まぁかくいう私も花粉症なんでね。
気持ちも分からんでもないけど、
そういうこと言っちゃう発想って、杉や檜しか植えなかった我々の先人の馬鹿どもと同じレベルの発想なんで、
ジョークでも気をつけてねという真面目な気持ち。
まぁ大学では環境問題が専門でやってたんで、こういう短絡的考え方を見過ごせないんですがね。
切ると更地になるけど、植生が回復するには最低でも50年くらいはかかるが、
その間以前の植生が担ってきた水源涵養機能はどうするか?
埋める?どこに?
みんな大好きフェルミ推定ですよ。
みんながイメージする広葉樹林って、実は人が管理してるからこそできている植生なのですが、
林業従事者やそういう植生のそばに住む人って過疎で少なくなってるよね。
つまり、管理するコストが払えない社会的状況にあるわけだけど、どうする?
っていうね。結論として、われわれは腐海とともに生きるしかないんですよ。
科学的な下地のない短絡的な感想はともすると害悪しかないことを学生時代に嫌というほど学んだので、
ついこういう話には突っかかっちゃうんですが、
すいません。結論から言うと生態学学んで出直してきてください。もしくは、花粉とともに生きよう。
まぁ細かいとこ間違ってるかもしれないけど、
言いたかったことは、そんなに単純じゃないよっていうこと。
もし、ちゃんと考えた方法があるなら議論したいですね。
文明人が戦争を繰り返した結果、大気が汚染されて生きていけないレベルまで深刻化
↓
大気の汚染を浄化するために、大気を浄化する菌と蟲を精製(腐海)
↓
腐海が大気を浄化するまでに数千年はかかるため、文明人は大気が浄化されるまで卵となり眠りにつくことを決めた
↓
全員が眠ってしまうと眠りを覚ます者がいなくなるため、眠る前に人造人間を精製(将来のナウシカ達)
↓
眠りから覚めた際、人造人間と争いが起こる可能性があるので、人造人間を浄化された大気では生きていけないように作る
↓
文明人が眠りについてから数百年後、腐海は順調に世界に侵食。人造人間たちは大気を浄化する腐海が自分達にとって毒であるため、敵視する。更に世界で戦争を続ける( ← ここが映画)
↓
ナウシカは世界の戦争と関わる内に、自分達が人造人間であり、大気が浄化されるまでの“つなぎ”の存在だと知る
↓
↓
↓
end
【補足】
人造人間が生き残ったが、最後には腐海が世界を浄化するので汚染された大気でしか生きられない人造人間は未来で全滅確定
ソースはこのブログ:http://toshidensetsu2ch.blog.jp/archives/2023090.html
鈴木:いやあ、きょうはね、教えてもらいたかったんです。というのはね、『バッタ君(町に行く)』の……魅力。
鈴木:僕は正直言います、告白します。お話のほうがね、なんでこういうものが作られたのかなって、見てるうちに終わっちゃったから(笑)、そこに気を取られて。アニメーション的にどうのこうのの前に、なんでこんなもの作ったんだろうって。だからきょう教えて欲しかったんです。
庵野:そうですね……やっぱりアニメーションの技術としてすごいと思いますね。やっぱ当時のアメリカは、ディズニーも、MGMも、ワーナーも、やっぱりすごいなって。
鈴木:どういう技術が優れてたの。だって『バッタ君』好きだと思ったんでしょ?
鈴木:だって『EVA』を作った人が『バッタ君』を好きなんでしょ。これみんな聞いてみたいよね
庵野:画で描いて、動かす……なんていうんですかね、エネルギーみたいなものですかね。日本とはもう桁が違うぐらい当時は差があったと思いますね。1940年代ですもんね。
鈴木:41年。
庵野:戦前、戦中、戦後はもう、やっぱり桁が違うと思いますね。
庵野:ええ。
庵野:日本も東映動画ができてからはどんどん追いついていったと思いますけど。技術的な部分とかそういうのも含めて。でもあの時代はやっぱりアメリカが世界一ですよね、アニメーション技術は。その技術の集大成のひとつだと思いますね。まったく。まあ話は子供向けなんだか、大人向けなんだか、ちょっと、どっちなんだろうってとこはありますけども。
鈴木:あのー、ロトスコープっていうの、アレ? 人間の部分は。
鈴木:あれは正直言うとびっくりしたね、改めて見て。なんかすんげえなと思って。今のみんなが、いわゆるコンピューターでやることを、ああ昔の技術ではこうやってやったんだなって。で、それがあまりにもリアリティがあって。その対照としての虫たちがああやって描かれるでしょ。だから少しそこに世界が違いすぎるから違和感があって。
庵野:ああ、それはよかったです。
鈴木:人間のほうがすごく見えちゃったんですよ、僕は。だから、いきなり虫になると漫画になるじゃない。それが、もっと人間を見たかったなって(笑)。で、それを人間がやってるんだと思うとドキドキしちゃって。脚だけしか出てこないのに。でもそれが凄かったから。やっぱり機械じゃなくて人間がやったと思うとすごく見える。それと『(崖の上の)ポニョ』じゃないけれど、やっぱりすんごい描きまくってるね。動きまくってるというか。あのー、『カールじいさん(の空飛ぶ家)』。
鈴木:見た?
庵野:まだです。
鈴木:見てない? ちょっと――ちょっとびっくりしたんですよ。これもね、お話じゃないんですよ。隅々までエネルギーが満ちてて。だから絵筆じゃないけれど、コンピューターでやってるんだけど、ひとりひとりのスタッフの持ってる、描きたい、動かしたいというエネルギー。すごいですね。驚きました。そして、やっぱり比較しました。いろんなところと。いま勝てないと思った。で、そういうスタッフがどんどん育ってる。ちょっとすごいです、あれは。
庵野:ピクサー、最近食わず嫌いやめて見るようにしたんですね。
鈴木:(笑)。どうかなあって思ってたんだけれど。ピート・ドクターっていうの、監督のね、よく知ってたんで。ちょっと見ようかなって思ったら。ちょっと全然別のそういう感想持っちゃった。お話とかそれは、まあ、ねえ、置いといて。とにかくスタッフがのびのびと、しかもやりたいだけやってる、やりまくってる。それってやっぱり作品を色々膨らませてるよね。
鈴木:うん、だから、もしかしたら『バッタ君』も、それに満ち溢れてたのかなあって思って。
庵野:アニメーターが多分好きにやってるとは思いますよ。枚数制限なく。
鈴木:一切ないよね、あれ。
庵野:ええ。
鈴木:うーん、やっぱり凄いのか。
内藤:映像に音声をつけるとか、カラー化でディズニーに先を越されてしまって――。
鈴木:彼女が担当なんだよ。あのー『バッタ君』の担当の、あのー……なんていう名前だっけ。
鈴木:ああ、内藤っていうの。フライシャー兄弟が超えようとしたんでしょ?
内藤:はい。けど最終的には越されてしまったんだけど、さっき鈴木さんが仰ってたロトスコープだったり、あとは背景に奥行きを与える、模型を使ってやることで――っていう、そういうセットバックっていう方法を考えて、ひたすら、こう、追い越せーみたいな。
鈴木:チャレンジ精神が厚い人だよね。俺はね、『ポパイ』はね、見てたんですよ。フライシャー兄弟でしょ、あれ。子供のときにね、幻灯機っていうのを買ってもらって(笑)。そしたら付いてきたフィルムがね、『ポパイ』だったんですよ。それでね、初めて35ミリフィルムっていうのを見て。これで回すとさ、動くわけじゃない。それで気になるわけよ、一枚一枚の画はどうなってるのかって(笑)。それが子供のときの体験。それで初めてね、幻灯機をね、色々いじるわけ。どうして動くっていうのを思って(笑)。
内藤:たしかに不思議ですよね。画が繋がってるだけで。それを映しても、なんでそれが動いてるように見えるのかって、すごく不思議で。
鈴木:そうなんだよ。それで子供ながらにね、色々分解したりしてるとね、わかってきたんです(笑)。
内藤:えっ、幻灯機をですか。
鈴木:そうそうそうそうそうそう(笑)。って言ってもたいしたあれじゃないけどね。『ポパイ』って、僕は昭和23年で、戦争が終わって3年後に生まれた身としてはですね、漫画って言うと日本の漫画もあったけど、一方で『ポパイ』だったんですよ。そのぐらい強烈な印象で。だから、まさかその人の、あれが最後の作品? 『バッタ君町へ行く』。だから、興行的に上手くいかなかったわけでしょ。だから、ディズニーってのは商業的に上手くいったからね。
内藤:庵野さんは、あの作品の中でどのシーンが一番お好きなんですか?
庵野:牛の住んでる楽園が、人間の手でこう次々に壊されていくスペクタクルですね。あれがすごい一番。ええ、工事のシーンですね。工事の車とかシャベルとか無機質さと、この右往左往する虫の動きの、このコントラストっていうんですか。そういうのも含めて、大スペクタクルですね。手で描くのを知ってると「よくまあこんなのを……(苦笑)」とは思いますね。それだけでも、もうすごいと思いますね。
鈴木:俺? 俺はねえ、あの屋上へ行ってね、こうやってアメリカは滅びて行くんだなあっていう(笑)。
庵野:結局、楽園ですらも人の手で人工的に作られないと虫は生きていけないっていうことですね。
内藤:当時はもう、ああいう高いビルはいっぱいあったんですか。
鈴木:アメリカはそうなのよ。エンパイアステートビルをはじめ、いわゆる高層ビルがアメリカの象徴だったから。相当昔から造られてんだよね。いわゆる地震の少ない国だったから。
庵野:なぜ「町」だったんですかね、あれね。
庵野:まあタイトルもそうだし、なぜ町を舞台に虫の話をしたんだろう。
鈴木:うーん……。だからまあ多分アメリカっていう国が大きな変化を遂げていった、1950年代、大繁栄を迎えるわけだから。その大繁栄のなかでアメリカ人が見失っていくもの? そこらへんのを予感したんじゃないかな。
内藤:すごい不思議だったんです。そんなに歴史詳しくないんですけど、真珠湾攻撃の直後に公開してるのに、なんでこんな平和というか、一見呑気な話が作れるのかなって。
鈴木:世界大恐慌ってあったじゃない、1929年。結局アメリカの、ねえ、そういうのから始まるわけでしょ。それで結局色々やったけれど、ニューディール政策その他。アメリカは復興できなかったんですよ。ところがヨーロッパが戦場になることによって、その恩恵に預かって、それでアメリカは復興していく。結局その戦争を待つことによって景気回復したんだよね。だから、やっぱりこの映画が作られたころ、アメリカは非常に豊かだったんですね。方や日本は、っていう。貧しい国でしょ。小さな国で。やっぱり宮さん(宮崎駿)なんかもね、およそアニメーションを目指す者はこれを見なきゃ始まらないみたいなそういうコメントを寄せて。
庵野:まあ僕はそう思いますね。少なくともアニメーターは見て損はないと思いますね。
鈴木:なんか、ここのシーンだっていうところはあるの? ここがすごいって。
庵野:全編すごいですけど、やっぱり最後のクライマックスの壊れていくところ。あの虫のモブを一枚一枚描いている。
庵野:あれは凄いですね。
鈴木:俺、どっちが先か判らないけれど、僕は……誤解も与えますが、宮さんの一番すごい仕事って、やっぱり『ホルス(太陽の王子 ホルスの大冒険)』だと思うんですよ。最後のモブシーン。あれ宮さんだよね。いろんな人が縦横無尽に動く。それで空間がどんどん広がっていく。あれはちょっと舌を巻くんですよ。
鈴木:いやー、あれはすごいよね。
庵野:すごいです。
鈴木:こんな風に人がね、動いて、しかも人間の手で描いて、こんなシーンが作れるのかって。最初に見たときにラストシーンどういう人がこの画を描いたんだろう、設計をしたんだろうって。それで後で聞いてね、やっぱり宮さんだってことがわかって。うーん、「すごかったんだなあ」なんていうと怒られちゃうけれど(笑)。
庵野:いやあ、アニメ-ターとしては超一流ですよ。『(空飛ぶ)ゆうれい船』とかも好きですけどね、宮さんの仕事だと。
庵野:東映で、ここはすごいっていうところは大体宮崎駿原画のだったりしますからね。
庵野:大学……いや、高校のときですね。意識したのは『(未来少年)コナン』ですね。その前も好きでは見てたんですけど、なんだろう、ちゃんと見るようになったのはやっぱり『コナン』からですね。
庵野:リアルタイムですね。妹とチャンネル権の争いで、なんとか。
鈴木:えっ、裏になんかあったの?
庵野:裏は『(女王陛下の)プティアンジェ』っていうアニメが。
庵野:1話を見たら、親が続きを見たくなってくれてですね。そのあとは毎週ちゃんと見れるようになった。それまでは『プティアンジェ』でしたからね。
庵野:『プティアンジェ』、オープニングだけ見ればいいんだって。
鈴木:そうなんだ。……それ以来ずっと注目してるの?
庵野:そうですね、あとは『カリ城(ルパン三世 カリオストロの城)』ですね。
庵野:2回見ましたね。僕のほうは田舎だったので同時上映があって、そのあいだはロビーに出て。
鈴木:『カリオストロ』はねえ、たしかにねえ。僕が初めて(宮崎駿に)出会ったころです。
庵野:いいですよね。
鈴木:よく働いてた……。
庵野:あれが(制作期間)半年ってのはやっぱりすごいと思います。
鈴木:作画4ヵ月だもんね。
鈴木:会社から言われたのは3ヵ月で、それで1ヵ月余分にもらって。
庵野:あとでなんかあって「もう1ヵ月あれば」って言ってました。
庵野:あそこは僕にもなんか悔しいって言ってましたね。
庵野:まあ現実的でいいですよね。できる範囲のものに落とし込むっていう。
鈴木:だから……見てて、よく宮さんがね、「理想を失わない現実主義者」って。これ宮さんも言うし、実は元は高畑(勲)さんかなっていう気もするんだけど。ふたりともそうなんだけど、その理想と現実の――なんて言ったらいいかな。微妙にふたり違うんだよね(笑)。微妙に違うんだよ。
鈴木:でもよく覚えてるんだけど――『ホルス』だとね、村があるんだけど、一人狡猾なおじさんがいるじゃない。その人がいることによって村が成立している。(『風の谷のナウシカ』の)風の谷の方はね、300人くらいいて、ああいう悪い人がひとりもいない。
庵野:ええ、みんないい人なんですよね。
鈴木:一種、理想主義に貫かれてるでしょ? それで映画見るとね、高畑さんは一方で現実を映画のなかに入れようとするし、宮さんはその現実は置いといて。ところが映画作り始めると、宮さんは間に合わないと思ったらコンテを変えてでもその映画を完成させようとするっていう現実主義があるのよ。高畑さんは違うんだよね。
庵野:変えないですよね。
鈴木:変えない。それで遅れたときもね、「それは僕には責任ない」と。「それはプロデュースサイドがコンテができたときに把握してるべきだ」って貫くんだよね。映画のなかは非常に現実主義なのに、映画のなかは。やり方は理想主義というか(笑)。
庵野:まったくです。
庵野:なんですかねえ。
鈴木:で、宮さんなんかは非常に面白いって思ったのは、結局、『ホルス』作ったあと、それこそ『コナン』もそうだけど、『ナウシカ』もそうだけど、『ホルス』をひきずるでしょ?
鈴木:高畑さんは違うんだよね。全然違うものを作り始めるんです。
庵野:まあ宮さんのほうが根っこがいい人なんじゃないですか。
鈴木:高畑さんに聞いてみたことがあるんですよ。なんでファンタジーやらないのか、って。そうしたらやっぱり『ホルス』で創造できるものは創造し尽くした、と。でも、唯一その世界に持ち込めなかったのが『思想』である、と言ったんだよね。そうするとファンタジーっていうのはそれが出来る人がやらなきゃ意味がない、それが自分の総括だ、って。僕が聞いて、高畑さんいまになると違うって言うかもしれないけど、すごい印象に残って。だから宮さんが『ホルス』をひきずって。なんかっていうと『ホルス』みたいなのに戻るでしょ、宮さん。
庵野:ええ、基本はそこですよね。ずっと『ホルス』のリメイクをしてるようなね、感じがしますよね。
鈴木:宮崎……オタクとしてはどう思いますか? なんつって。オタクじゃないか(笑)。
鈴木:(笑)。でも面白いよね、そういう宮さんも『バッタ君』のアニメーションの部分って非常に着目してるし。
庵野:やっぱり宮さんは基本アニメーターだからだと思いますね。僕もアニメーター上がりなので。
鈴木:やっぱそこなんだね。
鈴木:宮さんがいま、原画やってるんですよ、自分で。やり始めたんです。本編やってるでしょ、それでその横で美術館用の短編やってるんだけど、「スタッフがいない」って。最初1分でやるって言ってたのが10分になるからいけないんだけど。老骨に鞭打って。でも結構楽しそうに。でももう69なんだよ。アニメーターっていつまで描けるんですか?
鈴木:手が動けば大丈夫? 本人もう動かないって言ってんだけど(笑)。
庵野:やっぱり、目と手ですよね。
庵野:まだです。いよいよ。50代なんて来るとは思いませんでした。
鈴木:宮さん喜んでるよ。「庵野っていくつになったの」って言うから「もう50だと思いますよ」っつったらすごい嬉しそうに。
鈴木:「そうか!」つって。「歳取れっ」って。「俺の苦しみがわかる」とかなんか言っちゃって(笑)。
庵野:僕が50になったら宮さん70じゃないですか。
鈴木:でもみんな……歳を取ってきたんですね……。
内藤:その宮崎さんが「アニメーターをやる奴は見ておくべき」っていうインタビューをしたときに仰ってた言葉を(『バッタ君』の)宣伝の柱にしてたんですけど、やっぱりアニメーターを目指す方って一部じゃないですか。
内藤:もちろん、その人達にはできれば来て欲しいとは思ってるんですけど、やっぱりそれ以外の人に、どう魅力というか、アニメーターは目指していないけどちょっと気になるとか、そういう人に来てもらえるのかなっていうのを考えていて。どうしたら人の心に響くようにできるんですかね。
鈴木:あの作品を?
庵野:僕が『バッタ君』を宣伝するんだったら、ビデオで宮さん撮って、それをテレビで流しますね。ワイドショー枠的なものとかで。それぐらいだと思います。だから『バッタ君』を流すよりは宮さん流しますね。それでこっちにちっちゃく枠でそれを流して、なんか宮崎駿がお墨付き、これ、っていう。そういう風に。
内藤:そこだけ切り取って。
庵野:調子のいいとこだけ切り取って、もう編集して。もう、ほぼ捏造でもいいから、そういう風にして流しますね。それで、あとで宮さんには謝ります。ごめんなさいって。
(以下に続く)
とりあえずどうしてもエヴァをループものにしたいやつはまどマギを楽しみにしたほうがその人のためだし、
巨神兵までエヴァの一部みたいに思っているやつは風の谷のナウシカという漫画を一度は読むべきだし、
ミサトさんひどいとかいってるやつはもうちょっと人の意図というものを読み取る訓練をしたほうがいい。
たしかにエヴァというのは穿った見方をさせようとするような磁場がある。
新劇は、ヱヴァンゲリヲンといったっていいけれど、これは前と違って至極真っ当な物語なのだ。
それは序、破ではみんなわかっていたはずで、
かつてのエヴァにくらべると真っ当だ、ということを強く認識していたはずで。
でもQの極端な急展開にめくらましを食らっている。
繰り返しになるが、僕が強く主張したいのは、新劇は、とても真っ当な物語である、ということ。
そしてどこまでも観客のために作られている作品だということ。
前置きが長くなったけれど、タイトルどおり、まともな見方を提示したいと思う。
エヴァQという作品の肝心な部分は、
碇シンジを観客のラインまで下ろしてきて、感情移入できるキャラにする、というところだ。
正直行って第壱話からぼくはなんでシンジがエヴァに乗ったのかわからなかった。
そりゃ綾波だとか親父だとか、そういった要素で乗ったという論理は捉えられたけれど、
その気持ちを理解できるかといえば完ぺきにノーだ。
時はたち、彼は序、破とどんどん成長していって、シンジさんなーんて呼ばれるような大人びた存在になってしまう。
そこにいるのは僕ら――この二十年近く前のアニメのリメイクをよろこんでみている僕らとは、まったくかけ離れた存在だ。
どうぞエヴァQをクソつまらんといって月9ビブリア古書堂でもみてください。
もともとエヴァの、シンジの魅力というのは、どこか僕ら側にいる主人公だ、という点だったはずなんだ。
それがTV版では話が進むうちによくわからなくなっていって、
旧劇の完全に狂った彼の姿は僕らとはまったく関係ないところにあった。
それとベクトルは真逆の方向を向いているけれど、破でもシンジも僕らとは関係ない存在だったわけだ。
「綾波を、返せ!」というセリフをはじめて耳にしたときの印象を思い出してほしい。
僕はまったくしっくりこなかった。どこかそれは英雄じみていたから。
こんなクソみたいな生活を相変わらず続けているる僕とは似ても似つかないキャラクターだった。
でも僕は破に夢中になった。爽快だったし、ポジティブな綾波やアスカも快楽主義的な立場で可愛さを感じたから。
そしてQだ。はじめて見たときは面食らった。
14年後って設定もヴンダーのデザインもゲンドウのサングラスもなにもかもに。
面食らっているうちに『つづく』の文字が黒背景に浮かんでいた。
見終わったあともしばらくポカーン状態がつづいていたけれど、一日くらい経つと、何か残るものがあった。
見事なまでに、僕とシンジの心象が重なり合っていたのだ。
というより、自分が映画を見ながら思ったことを、シンジが感じていたことだと考えてみると、
とてもしっくりいくことに気付いた。
起きたら14年経っていたときの驚きがまずそうだろう。
あのヴンダーだとかサングラスだとか新キャラだとかの強烈な違和感。
冗談だろと思いながらも、でも14年は立ったんだ、それはまるで旧劇から今までの時間のように、という曖昧な実感。
24話んときはどうもキモかったカヲルくんにも、妙な親近感がある。こいついいやつだな、という。
そしてサードインパクトの結果も、『急にこんなこと言われたってなあ……』という、
そして、『この世界をやり直したい』という強い気持ちと、2本の槍にすがってしまう気持ち。
なにもかもが手に取るようにわかったのだ。
いままでのシンジの行動は、観客が責めることができるか、褒めることができるか、そのどちらかだった。
でもQでの彼の行動は、どこまでも理解できるものだった。
そしてシンジの行動を観客に理解できるようにするには、この構成とストーリーは、必要不可欠であるように思うのだ。
ミサトさんだって『行きなさいシンジくん、とか言ってたくせして、あなたは何もしないで、といってひどいやつ』
みたいなコメントをいくつか見かけたけれど、ちゃんと映画全部見たのか疑うレベル。
もしくは親からも先生からもしつけられたことのないゆとりか。14歳の感想だったらゆるせるけれど。
エヴァQをつまんなかったというひとは、ハリウッド映画みたいなのを期待しているならもう見ない方がいい。
逆に、謎の考察ばっかしてる加持リョウジじみた人は、もうちょっと主人公たる碇シンジの視点によってあげてほしい。
いまさら人類補完計画の全貌がなんだろうが、どうでもいいでしょう? ゼーレの正体とか気になる?
いまだに本気でTV版の伏線まで回収してくれるなんて思っちゃいないよね? 先はどんなに予測しようが何の意味もないし。
伏線の回収なんかより、胸踊るサスペンスなんかより、キャラクター同士の馴れ合いなんかより、
そして14年前、旧劇で『現実に戻れ』とバケツ一杯の冷水を浴びせられながらも、
学びもせずまたアニメらしいアニメを期待していた僕らへの、再びのメッセージなのだ。
しかし旧劇のように、庵野さんは水を浴びせるだけで済ますのではない。
観ることで自分の現実にまで意識がいくように、丁寧に構成を組んだのだ。
そして、僕たちにはまだシン・エヴェンゲリオンが用意されているというではないか。
なんてサービス精神の旺盛な人なんだろうか、庵野秀明という人は。
僕は、エヴァQは一つアニメの新天地を切り開いたと思っている。
少なくとも碇シンジに関しては成立させているように感じた。
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。
絵はナウシカですごく本物っぽいよくできた複製セル画だと思って買いました。実際複製セル画と売ってあった気がします。
・・・・でももしかして、と今更ながら思うのですが・・・・・
あれは本物だったんでしょうか?
おそらく複製で間違いないと思う。理由は以下の通り。
よって、本物ではないだろう。
ちなみにセル画は非常にもろいので、飾っておいたりするとすぐに劣化して酷いことになる。基本的に長く使うものではないし。なので色あせてぼろぼろになった謎の物体として捨てられた可能性もあるのでは。まぁ無責任な予想だけど。
ちなみに、スタジオジブリは、もののけ姫の途中以降はデジタル制作になっているので、本編使用セル画などない事に注意が必要。千と千尋の神隠しに使用されたセル画と名乗るものがあったが騙されてはいけない。また、近年のハイビジョン制作のアニメーションはまず間違いなくデジタル制作である。
とはいえ、デジタル制作のアニメーションは絶対にセル画がないかというとそうではない。本編使用などではなく、ごく希に、雑誌やポスターなど用に版権イラストと言って、優秀な原画家やキャラクターデザイン、作画監督、時には監督自ら描くイラストというものがある。これをデジタル制作が本格化するまえは、本編がデジタル制作なのに、セルで書く人がいるらしい。これが出回る事がある。また、チャリティーオークションなどのために、特別に書き下ろしたりすることもままあるようだ。
これらは当然一品もので、しかも静止画として美しくなるよう、普通の動画用セルに比べて段違いの精度がある。また製法も異なるらしい。たとえばトレスマシン(セルに線画を移す装置)を使うと、カーボンがわりと早く劣化してしまうので、長期保存が必要と言うことで手でトレスしていたりとかするようだ。
ただし、これら普通の本編使用のセル画より出回りにくい上に、出回ったとしても恐ろしい額になる事が多いらしい。
と、別に収集家でもないしちょっと昔聞きかじった程度の知識を披露してみる。
詳しい人による補足突っ込み等あればよろしく。
サイエンスフィクションの中でも『サイエンスが単なる道具扱い』のものは「SF風○○」に過ぎなくて、「ホントウのSF」とは『サイエンスを通して人間を描く』ものだ、というのがハードなSFマニアの感覚なのだと思う。
個人的には、SF『風』に見えても芯のしっかりした作品はSFと言ってもいいと思うけど、その辺は人によって揺れるとは思う。
というわけで、○×つけてみる。一応左から「狭義」「個人的定義」の順。個人的にも×をつけたものは、一言理由を書く。
××天空の城ラピュタ(スチームパンクっぽい世界観は面白いけど、これもサイエンスじゃない)
×?エヴァンゲリオン(ラストをよく知らないんだけど、使徒ってサイエンスなの?)
××ガンダム(後付で色々考証してるけど、作品自体は設定の細かいロボットアニメ。)
△○プラネテス
個人的な好みが境界線を左右する傾向は否めない。批判は甘受する。
ちなみに、うるさいこと言う人は『ハインラインでも「夏への扉」はダメだよね』みたいなことを言う、的なエントリがちょっと前にあったような気がする。
理系大学院修士。「エウレカセブンみたいなSFって腹が立つ」と書いたら、そもそもエウレカセブンはSFじゃない、と言われた。うん、自分でもSFに詳しくないというのはよく分かっているから、専門家からみると、そうなのかなぁ、と思う。そこで、「SFって何?」って聞こうと思ったけど、Wikipediaかなんかへのリンクを張られるのが落ちだし、定義文を与えられても、結局、個々の作品がSFなのかどうか分からない。
そこで、最も広い意味でSFと呼べそうな作品を実際に上げてみて、「この中でこれはSFと呼んではならない」という事例を集めた方が、「SFってなんですか?」ということが分かりそうな気がしたので、やってみる。
とりあえず思いつくままに、10個上げてみた。以下について、SF/SFじゃない/知らないの3択で答えてくれ。「この作品が挙がってないぞ」っていうのがいくらでもあると思うので、SFかどうかの判断も含めて勝手に追加してくれ。
・ガンダム
理系大学院修士。エウレカセブンを見ているが、どうも、こういうSFを見ていると、無性に腹が立つ。最初、何で腹が立つのかわからなかったけど、ようやくわかったわ。
SFの世界では、主人公の「気持ち」で世界が変わる。実際の科学では、自分の気持ちなんて関係ない。科学にあこがれようが、科学で世界を変えたかろうが、いい論文を書きたかろうが、いい実験結果を得たかろうが、自分の「気持ち」とは関係ない。
関係あるのは、論理的に正しいかどうかだけだ。それを支えるのは、才能と金と環境だ。
SFを見ていると、「いい加減、こういう幻想を子供に見せて、科学に夢を持たせるのはやめろ!」といいたくなる。結局、科学っていうのは一部の優秀な人間だけのものなのだ。優秀な人間が頭が悪い人間をあざ笑うための道具に過ぎないんだ。頭の悪い無能な人間は、優秀な人間を恨み、羨みながらも、彼らが論理的には正しいことを言っていることを認めなければならない。嫉妬と憎悪というのは、科学に最も似合う言葉だと思う。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
それでも、論理的に正しいものは認めなくちゃいけない。その恨みと嫉妬とやりきれなさが科学の美しさだと思う。SFでは、年端もいかない少年が、世界を救ったりするけれど、そんなヒーローは科学には、ごく一部しか存在しない。ヒーローになりたい人間は、科学者以外のものを好きになるべきだ。科学者はヒーローではない。
まぁ、嫌だったらSF見なきゃいいんだけどさ。こういう幻想を見ていると、憎悪がふつふつと湧き上がる。
追記:
なんだか、まとまりなく、てきとーに書いてしまって申し訳ない。
要するに言いたかったことは、「子供に下手に夢とか希望とか熱意とか見せんじゃねぇよ。世の中挫折する人が大半で、夢とか希望とか強固に持っていると挫折するのが辛くなったり挫折を認められずに時間ばっかりたっちゃったりするぜ」ってことなんだが・・・それってSFと関係ないよね、うん。エウレカセブンにも直接関係ないのだから、言及すべきでなかった。申し訳ないなぁ。
作品としてみると、エウレカセブンは洗練されていていい作品だと思うよ。
エウレカセブン見ながら、あ、この部分的に似ていると思った作品:
まぁ、比較しちゃうよねぇ。人とロボットが精神的につながらないとうまく動かないという発想とか、いざとなったらロボットの方が意志をもって助けてくれるところとか、後は一部のグロいシーンが似ているな、と思った。が、似ているなと思っただけで伝えようとしているものは全然違うと思う。
最初のトラパーの波を読むエウレカ→風を読むナウシカ、レントン(技術者)→アスベル(工房の街ペジテの王子)、対応そのままやん、と最初に思った。
惑星が意志を持っている点とか、抗体コーラリアンとファントムとか、似ているなぁ、と思った。
星に知性があって、死んだはずの姉さんや父さんが表れるというのは、惑星ソラリスだろ。エウレカセブンは、一言で言うなら「スカブコーラルによって地球が惑星ソラリス化する話」なんじゃないかなぁ。
七夕の国
この作品は知っている人、すごい少ないんじゃなかろうか・・・マンガ「寄生獣」の岩明均のマンガ作品。抗体コーラリアンが出た時に、建物や人が材質に関係なく球状に穴が開くシーンがいくつかあるけど、これ見たとき、「七夕の国」だ!!と思った。いや、似てるってだけで、参考にしているとは思えないが。
http://tod.cocolog-nifty.com/diary/2006/04/post_6919.html
この感想、すごい。俺も、理系ならこういう簡潔な感想が書きたかった。
まだまだ、誤解しているところが多かったなぁ。
ちょっと理解がおかしかったところがあったし、変にエウレカセブンに言及して申し訳ないなぁ、と思っている。