はてなキーワード: 低俗とは
1年前、大学の先輩で憧れの人がいた。
哲学を専攻していてジョンレノンみたいな丸メガネでとても身長が高く、いつも1人でいる人だった。隣のゼミの先輩で、もうすぐ卒業してしまう。不思議な雰囲気で浮いているのだけど、課題に熱心に取り組む姿や頭がキレるところを尊敬していた。建設的で人の悪口を言わないところも好きだった。
たまに、ゼミ生どうしの発表会にフラッとあらわれて、意見をくれる。「あなたの発表が1番良かったと僕は思うよ」その一言を聞けるのが嬉しくて、課題に熱心に取り組むことができた。適当な大学生だった自分にモチベーションを与えてくれた恩人のような人でもあった。
先輩に対して片思いというよりは憧れの気持ちが強かった。先輩の信者に近かったのかもしれない。先輩のゼミでのかっこいい姿を見れたら満足で、友達が少ないところも好きだった。たまに、図書館で偶然会ってほんの少しお話しするだけで、その日1日天にも昇る心地で、御機嫌に過ごせた。
彼女になりたいなんておこがましい。かまってもらえるだけで嬉しい。それで、良かった。
そして、先輩が卒業してしまう最後のゼミの日。ゼミどうしで送別会が開かれた。普段は顔を出さない先輩もこの日は最後だからと出席してくれた。
すると、自分のゼミの女性の先輩たちが、憧れの先輩をいじりたおす。「普段、ミステリアスだよね」から始まり、「彼女いるの?」「趣味は?」「進路は?」などなど。先輩は真摯に答えるんだけど、回答するたびに女性の先輩たちがケラケラ笑う。
先輩が、飲み会のノリで彼女の写真を見せるように要求されてる……。
なんだか、急に具合が悪くなった。先輩に彼女がいるのは薄々わかってたし、そこじゃない。低俗な飲み会のノリで先輩の正体が露出されていくのが耐えられなかった。急に涙が溢れそうになって、黙って下を向いてるしかなかった。
勝手に強い憧れを抱いていて膨らみすぎていたのはわかってる。バカな自分が悪いのだけど、憧れてる人の素性が大学生の飲み会のノリでみんなにオープンに共有されていくのがなんだかとてもとても悲しかった。独占欲ではなくて、空気感が下衆に感じられて、悲しかった。
自己中心的なのはわかってるのだけど、憧れが膨らみすぎたんだと思う。1年前の話で、いまは、別の好きな人をちゃんと見つけられてるけど、いい思い出に昇華できるようにしたい。
・追記
コンビニ向け雑誌の需要低下、または単なる企業戦略なら、千葉市長が同席しての会見には大いに疑問がある。今回の件はそもそも千葉市長の要請からはじまっている。ミニストップの市場規模の小ささを語る人もいたが、なおさら「市長との合同会見」を気にかけてもおかしくないのでは。
エロ本を何がなんでも置けという主張はしていない。子供への有害性、主に女性の不快感などの問題もわかる。店舗単位での判断がその解決策に近いと思うが、行政絡みの強行手段のような形は強く疑問なため、そのことを本文に書いた。
「エロ本」という呼び方は、今後何が恣意的にエロ本扱いされるかわからないという意味を込めて。「どう見てもエロ本だろう」と言われても、これまでは条例などの「公的な基準」で違ったのだが(それが絶対に正しいかは置くとして)、その公的基準を無視して、恣意的な判断が通ってしまった。問題はその点。内容が問題ならそれを改善するのに適正な手順がある。
現にセックス特集をする雑誌、セックスシーンの多い漫画をエロ本扱いする人も見受けられるし、そういう層は今回の件とかぶりそうに思う。また、お色気シーンのあるジャンプも不快だとして、ついこの間炎上している。その際お色気表現は「成人誌=エロ本」なみの扱いだと拡散されていた。子供が立ち読みできるこれらに加え、暴力シーンにも波及するのではと危惧する。
ズリネタの話題でだけ表現の自由勢力が活発になるというコメントもよく見るが、逆に言えばそれだけ多くの人の関心事と捉えられるのでは。オタやジジイの低俗なズリネタには味方しないがその他の表現では公正に戦う、という人に信用があるとも思えない。
・追記終り
ブコメ見ると不快なエロ本がなくなって清々した、ミニストップ最高、みたいなコメントあるけどさ。
今回の件って「エロ本じゃないものが不快だからという理由だけで売られなくなった」という話でしょ。法的根拠とかどうなってるのかわからないんだけど、ものすごく重大なことだよこれ。だから表現規制反対派は怒ってる。
エロ本じゃない、の意味がわからない人も多いと思うけど、コンビニは規約で一般的なエロ本、本屋で暖簾の向こうに配置されるような本を置けない。そもそもエロ本ならそういう措置をとらないと条例違反になる。青少年健全育成条例とかそういうのね。つまりコンビニにあるエロ本は類似図書類で、そういう本とは違う扱いの一般的な雑誌なのだ。
あれがエロじゃないのはおかしいと言いたくなる気持ちもわかるけど、それは出版社と都道府県各自治体の判断なのだから仕方ない。ちなみに年齢規制されてるのはコンビニ側の自主規制に過ぎない。他の18禁とは全く違う意味合い。
つまり、今回の件は法的にエロ本と見なされない雑誌が、手続きすっ飛ばして行政からの圧力(と言ってもいいよね)によって撤去されたという話。これすなわち表現規制でしかないんだけど、その重大さが伝わってないように思う。
コンビニでそういう本は買わないし、元々不快に思ってたし、という人がいるかも知れないけど、次は規制の矛先がどこに向くのかわからないよ。青年漫画誌や週刊誌にだって卑猥な表現はあるし、女性誌にだってある。法的根拠なし(に思える形)で、行政側からこういう処置が取れるという結果が出てしまったら、この先どうなるかわからない。
不健全図書に指定されるまでもなく、不快だからという理由だけで本を書店から撤去できるようになるかも知れない(人それぞれの見方はどうあれ法的にコンビニ雑誌はエロ本じゃないのだから、つまり理屈上はそうなる)
女性はコンビニエロ本を見るたび〜という話もあって女性の意見も目立つが、じゃあ書店にある女性向けのエロ関係の本はどうなるだろう?
書店にだって子供は来るし、書籍とは本来知識を得るためのもの、教育的であるべきだなんて親も多そうだ。そういう人たちはBLなんて有害なものを子供の目につく所に置けてしかも年齢規制なしに買えるなんてとんでもないと文句付けそうだし、女医が教える気持ちいいなんたらなんてのも目くじら立てそうだ。問題なのは、今回の件でこれらの下らない意見に確実に反論しにくくなってるんだよ。
青少年の健全な育成に不適切だとして、青少年健全育成条例に違反してもいないものをさも有害かのように一般の場から排除してしまったんだから。それを応援してしまったんだから。
エロ本が排除されたんじゃないよ。エロ本じゃないものが排除されたんだよ。
その意味をもっと考えて欲しい。この件でスッキリしたとか言ってる人、あんたらが受け止めてる以上に、これは表現界隈にとって重い出来事なんだよ。
喝采送ってる人、なんでエロが表現規制の最前線なのかもうちょっと考えてくれ。あんたらが自由に表現を楽しめるかどうかは、実はあんたらにとって不快でしょうがないエロというものにかかってるんだよ。
参考
https://anond.hatelabo.jp/20170316003106
今回はガンガンオンライン
まあ最終話なのもあって上手いこと話を収めたなあという感じ。
魔王が人間世界で普通に活動することの正当性に説得力を持たせるなら、そういうオチにしたほうが収まりが確かに良いよね。
あっくんの父親が絵に描いたような胸糞発言を繰り返して、徐々に魔族や人間すら危ない方向に意見が一致する展開は、問題の重さに反してコメディであることをちゃんと忘れていない。
最終話だからといってメインキャラばかりではなく、相変わらずモブを出張らせるのも安定感があるし、得心したあっくんの母親が身も蓋もない罵倒で一蹴するくだりからの、魔族的な解決法は一種の爽快感がある。
自分の知らない友達の一面を、自分の知らない相手によって知り、そのことをどう解釈するかっていう着眼点に感心する。
で、その中心人物であるはずの主人公が、これまた全く違う解釈をしている。
この流れを小難しい理屈を並べず、サラっとやってしまうって作家にとっては中々勇気がいることだと思う。
そのことが理解できるか、或いは共感できなかったら、今回の話を把握できないからね。
ただ、これはこれで面白いんだけれども、やっぱりちょっと物足りないかなあ。
わたモテの最近こういった人間関係の妙さを描写する作風は嫌いじゃない。
けれども最初期の主人公がこじらせながらバカやってた頃のほうが、露悪的で低俗ではあってもエンターテイメント性という意味では優れてたよなあ、とは思う。
はてブってのはまとめサイトでも何でもはてブ以外のサイトを低俗だとか言って
(そもそも、はてブも人の記事を紹介しているまとめサイト並じゃ?)
はてブがネット世論で日本の代表とか勘違いしているのが結構いるが
もはや、はてブってのはフェイクニュースのたまり場じゃないのか。
はてブを見だしたのは、はてブには「一般市民」の意見があってそこで人気記事になれば
世論として注目されてるとか言ってるのもいたから見だしたんだけど、
全く違った。
いい加減に単なる「それはデマ」だということに気付けよ。
はてブなんてのは、
日本第一党とかと同じようなレベルで世論とかけ離れていて信用できないな。
「くらえ、チョウナ・ブーメラン!」
「おい、シロクロ! やめろよ。投げるな」
「なんでだ。人に向けて投げてない」
「人に向けて投げなくても危ないだろ!」
「え? なんで?」
「投げること自体が危ないって言ってるんだ!」
「じゃあ、何を投げればOKなんだ」
「何も投げるな!」
「随分な話だな。そこまでの権限はさすがにないだろ」
「うわ、急に正気に戻らないでよ」
「こうして問題は意外な形で終結し、今でも『ヴァリオリ』の登場人物たちはこれまでと変わらない武器を持っているってわけさ」
「なんだか、腑に落ちないなあ」
父の話に、俺は疑問を投げかけた。
それは別の表現をスケープゴートにして、問題をウヤムヤにしただけだ。
父にそう返され、そりゃあ……とまで言ったところで、ふと口をつぐんだ。
そもそも何をどうすれば、どこまでやれば解決して、そしてそれが本当に正しいことなのか、或いは間違っているのか。
それらを的確に判断できるような、普遍的な物差しが俺にはなかったからだ。
いや、恐らくほとんどの人間はないのかもしれない、って言いたいのか。
「息子よ、覚えておくといい。問題ってのはな、それ自体は問題ではないんだ」
父の言葉に、俺は首を傾げる。
「この界隈の『検閲するかどうか』っていう最終的な判断は、世論などの総意によって決まっていると思われがちだ」
「だから各々が議論をして模索していこう、ってことになるんじゃないの?」
「それは観念的だし、プロセスの話でしかない。俺たち作り手にとっては何も言っていないのと同じだ。答えを迫られたときにどうするか。多くは個々人が決めるしかないことだったりする」
「それで表現を変えたくないって答えを出した場合、どうすればいいのさ。ゾーニングとかレーティングとか?」
「それは妥協案に過ぎないし、結局は表現の統制だろう。それらの基準だって漠然としている所が多いし」
じゃあ、どうすればいいんだろうか。
「つまりな、こういう番組は案外“上手くやっている”ってことさ」
含みのある言い方に、俺はその意図を読み取ろうとする。
「……もしかして」
そして、ふと思い至る。
確証はなかったが、俺は恐る恐る尋ねた。
「その入浴シーンに意識を向かせてウヤムヤにしたのは、武器だとかよりもっと問題のある表現を隠すため?」
俺がそう言うと、父は淀みなく笑った。
「はは、そんなわけじゃないか」
俺の指摘がなんであろうと、そう答えるつもりだったんだろう。
もしかしたら俺たちが気づいていないだけで、あのアニメには“問題にならない問題”が他にもあったりするのだろうか。
その答えに迫られたとき、俺はどう言えば“問題ない”のだろうか。
俺は父にもうひとつ尋ねた。
「結局、父さんはどう思っているのさ。彼らのクレームはくだらないと思っているのか、汲み取るべきところもあると考えているのか」
「息子よ、物事は0か1かじゃない。YESかNOだけではないんだよ。善良な意見に耳を傾け、頷きながら、暴力的で性的で低俗な表現をし続ける。本当の意味での“自由”はそういうことなんじゃないかな」
それって、つまり突っぱねているのと同じなんじゃないだろうか。
俺が言い表せないモヤモヤとしたものを抱えていると、弟の声がテレビのある方向から聴こえる。
どうやら『ヴァリオリ』を観ているようだ。
主題歌を口ずさんで楽しそうだった。
なんだか腑に落ちないところはあるが、弟が以前のように楽しんで観られるのなら、まあ良いかってことにしよう。
今回は少年ジャンプ+
私もこの作者を評価してはいるけれども、それはあくまで象徴として、という意味合いが強い。
1話から構図や絵の使いまわし、構成はほとんど無意味かつ意味があっても不明なものばかり。
ギャグも勢いで誤魔化しているだけでネタそのものは正直そこまで面白くないし、それを天丼で見せられるという地獄。
まあ、良くも悪くも酷い漫画。
低俗な理不尽系ギャグ漫画としてはある種洗練されている域だけれども。
前回の逆転劇のアンサーの予想ができなかったんけれども、実は既に私の中で答えが出ているものだった。
なので「むしろ今までそれをやってなかった前提で話が進んでたの?」って思った。
“質か量か”っていうテーマ構造だったのに、それがアンサーだと若干ブレるし。
ただ、『作者に飽きる』っていう表現は良いと思う。
キャラに力を入れないなら、その他の部分で勝負しなければならず、その状態だと作者への評価に繋がりやすいっていう理屈は興味深い。
締め切りを守る大切さと、それを踏まえて作者の書きたいものだったり、高いクオリティを追求することも大切だという展開も理解はできるし。
ペットロボットの件はギャグを交えつつ人間との関係性とか、ロボットの哀愁についても語っていて。
保毛尾田保毛男の復活でフジテレビに抗議が殺到しているという。だが、あのテレビキャラクターの存在があったからこそ、「ホモ」(現在では適切な言葉とはいえないが、あえて書く)やLGBTが市民権を得られたという側面も無視してはいけない。
例えばネイティブ・アメリカンを「発見」し、ヨーロッパに伝えたのはコロンブスである。同様に保毛尾田は、まったく理想的ではなく、乱暴な形ではあるがホモをテレビで取り上げることにより大衆にその存在を知らしめたのである。
確かに保毛尾田が演じたキャラクターはホモを嗤うものであり、ネイティブ・アメリカンがコロンブスを嫌うように、当事者にとっては全く笑えない話である。しかし教科書に載っていなかったLGBTという存在が、まったく理想的ではなく、乱暴な形ではあるが世の中に認知され、たった数年で市民権を得たのである。
市民権を得るとは、つまり「一般」枠で扱えるようになるという意味だ。今日でも、LGBTの素人をどう扱うかは慎重さを要する。街頭インタビューなら「新宿二丁目の声」といった枠を用意すべきだろう。だがタレントならば「オネエ」キャラが確立されており、「お笑い」や「スポーツ選手」などと同じ「一般」枠で扱うことができる。
保毛尾田が市民権を与えたとはいえ、まったく理想的ではなく、乱暴な形だったので保毛尾田さえいなければ世界はもっと平和だったと言う人もいるだろう。逆にLGBTはもっとアンタッチャブルな存在になった可能性もある。たとえば「障害者」は広く社会に認知され活躍もしているが、「一般」枠ではない。
同様に市民権を得たのが「オタク」である。イメージが最悪だった「宮崎勤」の頃からどういう経緯でここまで来たのかは識者の解説を待ちたいが、「電車男」のようなドラマの影響もあったのだろう。今では「ガンダム芸人」「家電芸人」のようにキャラが確立され、テレビで出るオタクの話題に眉をひそめる人はいない。
我々がより深く考えるべきは、なぜ保毛尾田保毛男などというキャラクターが生まれたのかという背景だ。ネット上ではテレビの人間を小馬鹿にする風潮があるが、これは大きな間違いで、キー局の人間は極めて優秀だ。確実にヒットを飛ばせるような神通力はないが、およそ視聴者が思いつく程度の批判は予見している。
また、スポンサーへの抗議はテーマによっては有効だが、バラエティの場合はそうではない。スポンサーは、決して世間からそう思われないよう気を付けているが、低俗な番組を求めている。スポンサーが求めているというのは、つまり消費者が求めているという意味だ。
一方で芸能界や芸能関係者の中にLGBTは多い。石橋貴明というタレントの交友範囲を考えれば、LGBTをネタにすることに相当な躊躇いがあったものと想像できる。ネタの中でも保毛尾田は、「ホモというのは、あくまで噂」とブレーキを踏んでいる。LGBTと日々接する中で、テレビにおけるLGBTの地位、つまり世間におけるLGBTの地位を向上させようと、石橋なりに取り組んだ結果なのかもしれない。
もっともこうしてネットが普及したことで、テレビでの地位と世間での地位が必ずしも一致しなくなった結果、「復活」に抗議が殺到しているのは時代の変化だろう。
「分かりにくい話で申し訳ありませんでした」
逆襲のシャアの制作に当たっては「ロボット戦闘ものにしない」ことを念頭に置いたという
「映画というのは、男女の関係を描く低俗なものであるべき。だからメインキャラの恋愛を描こうとしたが、今見返すと、もっと色っぽく作れたはず」
https://anond.hatelabo.jp/20170817201201
この増田が見たかったロボットプロレスとしてのガンダムと、富野監督がやりたかったロボット恋愛映画という主張が真逆だった。
ふと気づいたのだが、ネットで声のデカいこれらのアホはあまりにも思考回路が似通っている。
よってひとまとめにしてひとつの病状で言い表されるべきだ。
実際、層は近いと言うどころじゃなく被っていることだろう。
非モテ、ラノベ、ネトウヨ病の一般的な症状は、「客観的に見れば欠点がすぐわかる自分(の好きなもの)を、とにかく現状はまったく変えないままで屁理屈だけで他人に認めさせようとする」ところにある。
自分でも萌えや燃えくらいの評価しかできないのにラノベを芸術として認めろとか言い出す。
他国を批判するときは人権や平等性の問題点を理解できるのに、日本が批判されると「それの何が悪い」「ここは日本だ」で通して恥じもしない。
子供の駄々と言えばそれまでだが、匿名インターネットでいい加減に放言できることを差し引いても度が過ぎている。
無責任に唱え続けるうちに、自分でもそれが正しいと無根拠に信じ始めているのだろう。
だから、改めて「客観的にわかる欠点」を問われると、ただ発狂する。
こういう話を思い立ったのも、ネットの某所で久々に、相も変わらぬ「文学だって昔は低俗だった」論を壊れた機械のように繰り返している非・ラ・ネ病者を見かけたからなのだが、その「低俗だった」小説を東大卒のインテリがよってたかって批評し、創作し、芸術性を証明したからこその今日の文学だというだけの話を何故理解できないのだろう?
文学だけではない。
かつて低俗とされ今はそれなりの地位を築いたものは全てその初期に「これは読む(見る)価値のあるものだと証明してやる」と意気込んだ先人が、科学考証を緻密にしたり、作画、芝居、ストーリーテリングの隅々にまで拘って、作品の力そのもので世の中に価値を認めさせてきた結果である。
断っておくが自分自身は、90年代のラノベに退屈な既存文学のオルタナティブになるパンクな文学の萌芽を見たものである。
しかしそれらを感じさせた作家も消え、ラノベは当時よりももっと「ライト」な、消費材としての物語を量産し続けている。
何が悪かったのか?
時代が悪かったのか?
失われた20年とやらの、国全体がネトウヨじみた、いじけた空気に包まれている時代に生まれてしまったから、ラノベもいじけるしかなかったのか?
世が世なら、昭和の漫画、アニメのように負けん気の強い先人が「子供向けのラノベでも芸術性のある作品が作れるんだって証明してやる」と心血を込めて、結果子供たちを熱狂させ、延いては大人にも読まれるような作品を書くことになったのか?
はたまた、出版社主導で、何ヶ月に一冊きっちり出版計画を立てて乱発すると言う、あまりに余裕のない制作体勢のなせる業か。
なんにせよ、こんな志のない作品群が先達たちのように芸術的と認められる未来などというものは、万に一つもあり得ない。
ミソジニストの非モテがモテること、レイシストのままの日本が世界に認められることと同様に。
彼らがかような恥知らずな言動を常態化させてしまった背景には、匿名文化のいい加減な事を言いっぱなしにできる特性が一因としてあることには疑いがない。
さらにネットは、大多数の読者が「くだらない」と思っている事実も覆い隠す効果がある。
「くだらない」戯れ言を世界に発信し、ごく少数の生真面目な読者がそれに反論することで、彼らはそれが「議論に値する」意見であるかのように錯覚する。
いくら自分自身でもどう考えても「くだらない」はずの放言でも、そう彼らは錯覚している。
だから脳機能を正常に作動させて、自分自身の言ってることを客観的に見直すことができない。
客観的にものを見れば、横柄な男は嫌われ、低俗な小説もどきが芸術として相手にされず、人命を軽んじる国が世界から歴史から認められるはずがないのは、「考えれば」などという言葉を使うことすら大げさに感じるほど当たり前に認識できる。
それができないのはまさしく病気であって、これら非モテ・ラノベ・ネトウヨ論者に共通する病状こそ現代日本に蔓延った根本の病を顕著に代表するものであると考えられる。
海外のテック記事で「同じことを繰り返しながら違う結果を期待するものを狂人と呼ぶなら、それはソニー(の携帯事業)のことだろう」という批評を読んだことがある。
この前半はアインシュタインの言葉とされる名言らしいが(違うらしいが)、ともあれ、これはソニーのみならず現代の日本を覆う理不尽な空気をもっとも正しく表す言葉だろう。
いつ、それに本当に気づけるのか。
ポリコレは今も昔も他人を殴って気持ちよくなるだけの道具でしか無い。
その道具を振り回したがっている人間を誘導して世論を自分の方へと引き寄せている人もいるが、それはポリコレの応用的な使い方であり、そのシステムの根幹にあるのは棒で人を叩くと気持ちよくなれる人達の玩具としてのポリコレだ。
風俗で説教たれながらチンコ弄ってるオッサンと同じレベルの行為だ。
風俗説教おじの方が、然るべき場所で金払ってその時間を買って契約の範囲内で行動してる分まだずっとマシだけどな。
唐突にやってきて自分たちが気持ちよくなるだけ気持ちよくなったら棒と怪我人が散らばった惨状を放ったらかしにして次の場所にイナゴしていくポリコレよりも風俗説教おじの方がずっとマシだけどな。
筆者はコミックマーケット(通称「コミケ」)を愛する者である。
私は、徹夜組を撲滅したい。
本稿では、なぜコミケで徹夜組がなくならないか、今後どうすべきかを考察する。
2017年も8月11~13日の間、東京ビッグサイト(国際展示場)でコミケが行われた。
3日間で例年50万人を超える人が来場し、プロ・アマ、個人・法人を問わず、自己の制作した創作物(主に同人誌)を自由に売り買いできる即売会である。
コミケはあらゆる問題を抱えているが(どのような問題があるかはウィキペディア等を参照)、ここでは徹夜組の問題を取り上げたい。
「徹夜組」とは、文字通り、コミケの開催前夜から東京ビッグサイトの周辺で待機する人々のことである。
コミケ準備会は徹夜行為を禁止しており、原則として、電車の始発で開場で来ることを要請している。
徹夜行為の禁止の理由は様々考えられるが、主な理由は、深夜に大勢が集まることによる周辺地域の治安悪化や犯罪、生活環境の悪化、騒音を防止すること、また未成年者が深夜に出回ることで犯罪に巻き込まれることを防止すること等であるとされている。
なぜか。
始発で並んで入場しても既に目当ての商品が完売していることがあるという現状がある(筆者も何度も経験がある)。
これは、ルールを犯してでも、徹夜行為をせねば手に入らない商品が存在することを意味する。
事実として、在庫を僅少にしか用意しない人気サークルがあり、これが、徹夜組の創出の遠因となっていることは否定できない。
しかし、サークル参加者には販売数を自分で決める権利がある。また、人気サークルとはいえ個人であることがほとんどなので、たくさん在庫を用意することを強いて赤字の危険を一方的に負わせるのも酷である。
そこで、販売数に実績のある人気サークルや芸能人出展者、継続的にプロとして活動している出展者は、事前に販売予定数を準備会に申告するとともに、購入希望者は事前申込みをすることができるようにルール化すべきである。事前に申し込んだ者は、申込時点ですでに売買契約が締結されているので、キャンセルはできない。会場へは受け取りにいくだけであり、受け取らない人間に対しては送料・手数料受取人負担で送付する、ということである。
準備会は人気サークルを把握しているので(壁サークルの存在)、このシステムは実現可能であると思う。
これに関連して、後日通販を強制するという手段も唱えられることがある。しかし、販売数についてはサークル側が予測できない場合があり、十分な量を確保していたつもりでも予想外に早くすべて売れてしまうという場合があるから、後日再生産を義務付けるのは酷であること、また再生産には最小ロット数の制約があり再生産も簡単ではない場合があることから、問題がある。
さらに問題なのは、徹夜禁止のルールに違反に対するペナルティは存在しないことである。
履行強制がないルールには実効性がなく、参加者からみて「ルールを守る意味がない」のである。
たとえば、何者かが開場時間前に勝手に会場内に侵入した場合、国際展示場の管理権者および捜査機関は、建造物侵入罪(刑法130条)として現行犯逮捕(刑事訴訟法213条)することができる。
しかし、徹夜組のうろつく国際展示場周辺は公道であって、原則として何時でも誰でも出入りできる空間である。
東京都が条例によってこれを禁止することも考えられないではない。しかし現状生じている不都合といえば、始発で駆け付けたマジメで純朴なオタクが、お目当てのものを買えないくらいのもので、徹夜組が出ようと目立ったトラブルが生じていないから、立法事実(条例を作るべき十分な社会的背景)がないといわざるを得ない。
東京都が法的なペナルティを課さないのであれば、コミケ準備会こそ徹夜行為に対してペナルティを課すべきである。
そうであるのに、コミケ準備会は深夜も国際展示場周辺に待機し、徹夜組を誘導、整列させ、始発できた人間より先に入場させている。
準備会はいう、「徹夜組を容認しているわけではない。しかし深夜に国際展示場周辺にきた人は整理せねばならない」と。
準備会としても、東京都が条例を設けないのと同じ理由なのであろう。すなわち「大した問題ではないから今のままでいい」と考えているのだ。
繰り返すが、準備会は徹夜組に対して何らかのペナルティを課すべきである。
具体例としては、始発前に国際展示場周辺で待機していた者は、入場ができないようにすべきである。
これを徹底させる手段としては、準備会は深夜に列形成をしない。治安維持は本来その職務を担うべき警察に任せる。または、列形成してもその形成した列からは入場させないという手段が考えうる。
なお、参加者をあらかじめ管理し、次回以降の参加を禁止するなどといったペナルティも考えられるが、いかんせん徹夜をする人間が多すぎるので、人的・金銭的リソースが足りず、このアプローチは困難であろう。
コミケは一見、自由な表現ができる楽しい場、そして神聖な場のように見える。
まず、正直者が馬鹿を見る状況はなんとしても変えるべきである。
メディアで、いわゆる「始発ダッシュ」が取り上げられることがある。本当に哀れだな、と思う。だってルールを守って損をしている人々だから。
そして、欺瞞を容認するままであれば、コミケ自体の価値が下がる。とことん下がる。
コミケを知らない人間から、やはり低俗なイベントなんだね、と思われる。
コミケが「参加者はみな平等という崇高な理念を掲げる」なら、たとえ困難が付きまとおうとも崇高さを追及せねばならない。
今のままでいいなどという考え方はコミケを滅ぼすであろう。
私は現在2歳の子持ちの妊婦ですが、結婚してよかったなと思ってます。
夫婦共通の趣味のひとつが、下ネタ。どんなえぐいことでも言いたい放題。
たとえば「石原さとみの○○に○○したい~」など便所のラクガキレベルのことを言っても、何もとがめられない。テレビの街頭インタビューに答えている女性の容姿をディスりまくる、風俗嬢は割にあう仕事なのか論議など、会社でできない人格を疑われるような会話ができる。
これはお互い家事が嫌いなので、家事をする気分じゃないときに放置していると、どっちかが諦めてやる。ただ、なんとなく目に見えない役割分担のようなものはある。別にそれが全く何もやられていなくても「も~」ぐらいで終わる。
単純に見た目がかわいい。そのかわいい生物が私のことが大好きで、上目遣いですがりついてきたりする。超かわいい。
家事の合間に邪魔してきたりとか、家すごい汚されたりとかすると「子供むかつく!」ってときもある。「キー!」ってなるけど、子供とは今後も永続的に仲良く付き合っていきたいので、感情の発露として怒ることはあるけど、「試されてる!人間の器を試されてる!」と思いお世話。
仕事したり、家事したり、子どもの世話したりで毎日が大体、終わる。
趣味だった読書も今では全然してない。子ども生まれる前は、夫婦でよく映画館に行ってたけど、今は全く行ってない。最近夫婦で見た映画は「私の奴隷になりなさい」をアマゾンプライムで。
飲み会は夫婦でほとんど行かない、お互い友人が少なく人付き合いをあまりしてない。最近、服全然買ってない。
育児中に資格取っとくか~とか、どこどこに引っ越そう~とか色々考えてるけど、全部、生きるために考えてるだけ。
でも、人生楽しい。子供かわいいし、夫はいい人だし何でも話せるし、それで十分楽しい。
休みの日に家族みんなで床でごろごろしたり、公園行ってはしゃぐ子供見てるのが今の趣味。
私の友人たちは、ほとんどが子供いないもしくは独身。海外飛び回ったり、合コン行ったり、仕事を頑張ってるSNSの報告を見ると「いいないいな」と思う。
下の子の育児もこれから発生するから、その分また社会から取り残されるし、周りと比べ自分だけ若者じゃなくなった気持ちで悲しい。