はてなキーワード: 薄っぺらとは
■その1。
毎回言ってるんだけど、今回こそはゲームレビューをやりたいと思って……選んだのは『夏祭』。タイトル通り、ゲーム自体は、三日間の夏祭を描いたものだから、プレイ時間は短い。たった三日間で、キャラクタを描写しきれるのか? と思っていたのだが、演出手法として、イベントごとに回想シーンを頻繁に挿入することで、要点はきちんと押さえている。ただ、毎回毎回、お約束のように回想シーンが入るので、それが少々うざったくもあるけど……。 最近のストーリー型のゲームにしては珍しく、二時間ドラマのようなスタイルで作られている。なので、このゲームは、大作型の作品ではない。ここを勘違いすると食い足りないような印象だけが残るだろう。
筆者も、まんがで最近流行している、虚構の現風景を描いたエコロジスト的な作品の流れにあると勝手に勘違いして、今回のサブタイトルをつけたのだけど、実際にプレイしてみると、特に自然描写などに重点を置いているという訳ではない。おそらく、あくまでドラマチックな演出の舞台として、この設定を選んだだけなのだろう。なので、今回のサブタイトルは嘘っぱちだ。サブタイトルは、レイアウトの都合上、原稿を書き始める前に決めてしまうので、こういうこともある。
しかし、こう書くといかにも薄っぺらなゲームのように思う人もいるかも知れないが、別にそういうゲームではないし、特筆すべき所もある。ヒロインである[橘みやの]のシナリオなのだが……気の弱い幼なじみという基本設定自体は通俗的なものだ。しかし、中盤から後半にかけて、そのスタンスが表面的なものであったことに、主人公は気づく。早い話が、三角関係から来る、すれ違いと嫉妬の地獄絵図が展開されるのだ。
ただ、『たとえばこんなラヴソング』や『週末婚』のような、サイコスリラーばりの鬼気迫る展開をする訳ではない。三角関係の当事者たちは、あくまで良識の持ち主であり、自己の欲望を優先できない弱い人たちである。この葛藤を文学的な執拗さで書くと、『WhiteAlbum』のように、美少女ゲームには異例の悲劇性を帯びるのだけど、このゲームはあくまで、テレビドラマ的な構造の作品なので、予定調和的な結末へと向かっていくし、ここで、虚構の現風景を想起させるような物語設定の仕掛けが効いてくる……少女まんが的な、感傷と情緒の感覚に訴える設定が、毒性を中和しているのだ。
とはいえ、この予定調和を少女まんが的なユートピアと捉えるのも、違うような気がする。それはむしろ、恋の熱情ではなく、愛情に起因する、穏やかな信頼によって支えられる……『とらいあんぐるハート』『とらいあんぐるハート2』で描かれるような、疑似共同体に向けられるべき評で、ボーイ・ミーツ・ガールな恋を描いた『夏祭』にそれを当てはめるには、少々違和感があるだろう。
■その2。
まあ、[少女まんが的]という言葉が何を指すのかは、かなり曖昧だし、それはむしろ、白泉男児である相方の領域だったりするのだが、結局のところ、『夏祭』は、スタンダード過ぎるのだ。それは決して悪いことではなく、むしろ美点なのだけど、価値観が多様化し、結果として、家族や友人といった単位での崩壊を招いている状況の中では、かつては正常とされていたものも、異常とされてしまう。
そして、マッチョイズムからも、フェミニズムからも取り残された人々は、[癒し]と[萌え]の過剰な摂取と、虚構の原風景への逃避を計るのだ。筆者はそういう思考には否定的だが、これはこれで、スタンダードな価値観を欲する動きなので、そういう嗜好の全てを否定する訳には行かないのだ。
『夏祭』は、目から鱗が落ちるようなゲームではない。だけども、プレイした後の安心感は、[癒し][萌え][虚構の原風景]といった要素によるものでもない。娯楽作品に不可欠なバランス感覚をちゃんと備えており、背骨が通っているのが、この安心感の正体なのだと思う。
ただ、スタンダード故に、これはどうか?という箇所もある。Hシーンだ。作画・文章共に描写力がなまじ高い分、不自然な印象が強調されてしまう……主人公のテクニックが上手すぎるのだ(笑)。変な話ではあるが、若い男女のボーイ・ミーツ・ガール的な恋を描くというテーマは、文章力の高いHシーンとは、相反してしまう所がある。早い話が、初々しい恋のドキドキ感……言ってしまえば[童貞魂]を描く作品でのセックスは、ポルノグラフィに求められる実用性とは、いまいち結びつきにくいのも事実なのだ。
だとすると、先月取り上げた『Kanon』の、意識的に回避することができてしまうHシーンの方が、作品のテーマと親和性は高いのかも知れない。肉体関係抜きでも、精神的な絆を結ぶことはできるし、トゥルーエンドも見られるというのは、美少女まんが雑誌の編集者だったくせに、Hシーンのない作品を平気で載せていた筆者にも、かなり衝撃的だった。ただ、それを認めてしまうのは、美少女ゲームの存在意義を問われてしまうということなので、簡単に納得はできないんだけどね……。
……しかし、これは「むほっ、これは嬉しい不意打ち……これに比べたら山岡さんのはカスや!」と、『美味しんぼ』の京極さん風に叫んでしまうのに近い(笑)。そして、「おいおい、お前さっきまで士郎のメシを美味そうに食っていたじゃねえかよ」と、自分に突っ込んでしまうのだが……って、話がズレた。
『夏祭』の場合、シナリオごとの構成にばらつきが激しいという難点はあるのだけども
、Hシーンの扱いは、物語にきちんとリンクしていたので、個人的には安心している。しかし、美少女ゲームにとって、セックスをどう扱うかは今後、重要な課題になるのではないかと思う。それはそれで、本末転倒な気もするが、美少女まんがではもう、その問題を語ることができなくなってしまった以上……そう、H以外の要素に市場が寛容である間に、思考を突き詰めていかなければならないのだ。市場が下り坂になれば、H以外の余計な要素は真っ先に排除されるのが、ポルノ業界の常なのだから。
■来月は1999年度の総括。
という訳で、次回は『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏をゲストに招いて、恒例(?)の1999年度総括ですー。それにしても、この手の原稿ばっか書いているくせに、ファンサイトの類は全く知らなくて、軽い気持ちでサーフしてみたんですが、筆者の原稿など簡単に吹き飛ばすほど強力な、美少女ゲーム論が山のようにあるのね……もっと突き詰めないとな……。
余談ですが、『恋愛シミュレーションツクール』を買いました。いかんせんエンジン部分が弱く、実際にゲームを作るには、ちょっと苦しいんですが、恋愛ゲームの構造を解析するという意味では面白いソフトでした。
我々は自分をコントロールしたいけれども、いざ自分をコントロールしようとすると、自分をコントロールされたくないという欲求が抵抗してうまくいかない。
そのようなアンビバレントな状況に常日頃から陥りがちです。そんな自分と自分が喧嘩するような状況、相反するペルソナの具有。これを解決するにはどうしたらええんじゃろ。
仏教的には自我への執着を捨てましょう、さあ修行しましょう、ということで簡単にかたがつくのですが、現代人にはなかなかそんなゆとりがないようでございます。
たとえばですね、1日5分や30分の呼吸瞑想で自己の客観視がずいぶんとやりやすくなります。「あっ自分と自分が喧嘩してる」「あっ執着してる」とすぐに気がついてやめられるのです。
たった毎日5分でも気合いを入れて取り組み、継続すれば十分に効果はあるんですが、これがなかなか皆さんやろうとしない。問題の根本原因が自己の客観視の欠如にあることになかなか思い至らないのでしょう。
代わりにやっていることはと言えば、目先の問題や興味にばかり飛びついているのです。一度自己を俯瞰し、諸々の問題に通底する深部を垣間見るような体験をしてしまえば、また違ってくるのですがね。
ともかく多くのばあい客観視には興味がまるでない。客観視して自分の心がどんなふうに働いていて、どういう仕組みで人生や生活の苦しみが生まれているんだろうか。
それが分かれば苦しみが緩和され、色んな問題が解決される、あるいは問題がそもそも問題ではなくなるのではなかろうか?面白そうだぞ!そういう興味がまったくないのですね。
ですから、より多くの人々に瞑想をしてもらうには、瞑想すれば若返りますよ、記憶力アップしますよ、というような薄っぺらいことを言って釣るしかないと思うんです。
だけどまともな指導者はそういうことはなかなかやらないのですね。騙しているみたいじゃからな。結果として、大衆の間にそういう方法が広まらない、一部の人だけに共有されている状況が続いているのでしょう。
ごくごく当たり前でシンプルなことなんですが、何も体験のない人からすれば「むずかしそう」「あやしい」「めんどくさそう」「当たり前のことを難しく言ってるだけ」と映るのは今も昔も変わりません。
仏教を知らなくて瞑想もやってない人は「我慢」と「ストレス発散」という方法でこれを乗り切ります。
そんな雑なやり方ではすぐに限界が訪れるとは思いますが、シビアな環境で生活していない人、高い目標をもたない人、快適な人生を志向しない人はこうした方法でも何とか妥協できる結果が得られるでしょう。
色々と辛くなって会社を辞めた。
初めての経験だった。
社内で話す声がうまく出せなかった。
事務所から離れると、もしかしたら変なテンションになっていた。
何かおかしい、と思ったけど、そんなこともあるさと流していた。
ただ辛かった。
メンタルは弱くないと思ってた。
誰もが完遂できない雑務の山をこなした。
でも違った。
無理だった。
もう色々と無理だった。
なんか全部が怖くなった。
作業が回り始めれば気分も乗るかとキーボードを叩いたけど無理だった。
湯船に1時間以上浸かっていた。なぜか湯船から出られなかった。悲しかった。
感情の振れ幅が大きくなった。
ひとりごとが出るようになった。
電車内で怪訝な目で見られて気づいた。
全部自分のせいだと思ってこらえた。
その後全部を他人のせいにしようとした。
もう無理だと思った。
辞めると決めた。
これからどうしようとかは思わなかった。
反省とかもできなかった。
反省をはじめたら戻ってこれないと思った。
とにかく今この瞬間をなんとかしたいと思った。
俺が悪いんじゃねえと思わないとやっていけなかった。
汚い言葉を吐いた。
信用を失った。友人を失った。
母には心配をかけたくなかった。
だから倒れる前に辞めた。
もうちょっと頑張ったらなんとかなったかもしれないけれど、余力のあるうちに辞めた。
辞めた日、ドキドキして眠れなかった。
体に痺れのようなものを感じた。
涙があふれた。
何かを吐き出したかった。
こういうことを書くと優しい言葉がもらえるシステムだと勝手に理解した。
苦しいです。
保護されたのはよかったと思う。
わたしは牛肉も豚肉も鶏肉も大好きだし、その肉を食べながら猫を大切に飼っているし、家畜もペットも野生動物も同じ命なのに区別して扱う自分の倫理観の薄っぺらさも重々承知の上で、完全なる人間のエゴに基づいて、物珍しさだけで「トドが保護されてよかった」と感じている。そのエゴについて論じるのはまた今度でいい。
むかしあったマスコミ主導のタマちゃんブームとかああいったのも世の習いだと思う。
だから興味本位で、マスコミがトド保護の現場を取材すること自体は、まあわかる。わかるというか、とやかく言う資格はわたしにはない。
その上で言う。
中継しているリポーター、お前は何様のつもりなんだ。
人の前に立ち言葉を操る仕事に携わる者として基本的なスタンスがなっていないばかりか、いささかの美学すら感じない、むしろ不快感しか撒き散らさないお粗末さ。
「ら」ってなんだよ。「ら」って。
「ら」ってのはそもそも係る対象を他より下に位置づけることばなんだよ。
「従業員の方々が」だろうが。
見物客、なぜ餌を持って来る。
お前飼うのか。家でトド飼うのか。
いや気持ちはわかる。
野良猫に、いけないと思いつつ餌をやりたくなってしまうのと根本的には同じだろう。
でもクマにドングリ問題と若干重なるものを感じ、個人的にあまり賛同はできない思想だ。
「感動した」と号泣するおばちゃんも、きっと悪い人じゃないんだろう。
何かしら、自分の人生のどこかにリンクするところがあったのかもしれない。
衰弱してゆくトドの姿は痛々しく、確かに保護されてよかった、とは思う。それは最初にも言った。
世間にはいろいろな価値観を持った人がいて、ひとつのものごとにも多様な角度からさまざまな反応が集まる。
その反応の中でもとりわけ振り切れたもの、今回で言えば上記のような人々の反応、そういうのをわざわざピックアップすること、基本的な自分の立ち位置もわからない、いかにも頭の悪そうな、美学もポリシーもなさそうな人間たちがマイクとカメラを持たされて、極端な反応をする人々にさらに極端に同調した映像と音声を公共の電波に流すこと。
「マスコミなんてそんなもんだろ」「何を今更期待してんの?」
もちろん、情報は取捨選択すべきもので、発信源を見極め、思想の偏りや経済事情などを考慮して受け取るべきものなのは今や常識だ。
マスメディアの代表格であるテレビは視聴率がすべての世界だから、つまんない内容に対して「つまんねえからもう見ねえよ」と言い続けていれば少しはつまらなくなくなるはずだし、偏向報道に対して「こんな公平性に欠けた報道なんてもう見ねえよ」と言い続けていれば、少しはまともな報道をするはずだし、おかしなことば遣いや不適切な取材についても(以下略)。インターネットにすっかり先を越されているけれど、そのインターネットでテレビを批判し続けることが、今のテレビをもっと面白くすることになるといいな、と思ったりしている。トドは助かってよかったと思うし、水族館の方々は本当にお疲れ様です。
コンドームのPI値は3%、つまりコンドームを使っている女性のうち3%は1年以内に妊娠するので
20歳くらいでセックスし始めたとして、10年セックス相手が途切れなければ30歳までに3割が妊娠する計算。
40歳までには6割か。過半数超えるな。
海外から来たデータなので、レス大国日本だともっと少なくなりそうだけど。
しかし
これ、「コンドームは意図的に破損しなければ破損する可能性は少ない」と考えてるって事だよね?
何故コンドームをそこまで信頼しているのか謎だ。
実物見た事ないとか?あんな薄っぺらいゴムなのに、壊れるなんて有り得ないと考えている奴の認識が謎だ。
破損しなくても外れたとかよくある話だよね。
「こういうのも『人権軽視』の一種なのだろうな」(http://anond.hatelabo.jp/20141009224728)を書いた増田だが、参加者が増えたことによってますます流れが分かりにくくなってしまったな。
これは俺がうまく整理できなかったせいでもあるので、申し訳なく思っている。
もちろんギャラリーに対して、な。トラバ削除とトラバツリー汚しを繰り返して自らの醜態を隠蔽することしか頭にない相手方(http://anond.hatelabo.jp/20141010222658)に対しては軽蔑の感情しかない。
ちょっと考えてみたが、俺はこの記事で互いの主張の流れを要約・評価したうえで改めて出典を示し、以後はこの件に関して記事を書かないことにしようかと思う。
ただし、流れの追いやすさを維持したまま相手方の醜態を周知する方法が見つかれば新たに記事を書くかもしれない(良い方法があれば教えてほしい)。
その場合は、この記事に追記をする(つまり○○(新たな記事)を書いたのは俺である、とこの記事に追記する)方法で自分が新たに書いたものであることを示そうと思う。
1
俺が、前段で「表現の自由についてろくに知りもしない癖に偉そうに語っている(ように見える)連中を放置すべきではないのではないか」という趣旨を述べ、後段で「関係ないが」と断ったうえで、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるということを知らない人も多いのだということをここ数年で気づかされた」という趣旨を述べた。
2
これに対して、相手方から「公共の福祉による制限は極めて厳格でなければならない」という趣旨のトラバがついた。
3
俺からの反論として、「俺は公共の福祉によれば簡単に人権を制約できるなどと考えているわけではない(実際最初の記事にそのようなことは一言も書いていない)ので、トラバは的外れである」ことを指摘するとともに、「人権を十把一絡げにして各権利の性質を考えることなく『制限は極めて厳格でなければならない』などと述べるのは人権論をまともに理解していないのではないか」という趣旨を述べた。
ここで少し補足しておくと、「表現の自由」は人権の中でも優越的な地位を占めるとされ、これに対する制約の合憲性を判断する際には厳格な基準によらねばならないとされる。このような理解が前提にあるので、人権一般について、「公共の福祉による制限は極めて厳格でなければならない」などと表現することは、法学をやっている者にとって非常に違和感がある。
4
相手方から「人権制約のうち表現の自由に関するものが争点なのにも関わらず人権制約と大きい枠組みに逸らしている」という趣旨のトラバがついた。
この時点で「3」のうち俺の「的外れである」との指摘については無視されているように思われる。
5
俺からの反論として、第一に「人権制約の話をするにあたっては予め『関係ない』と断っている」、第二に「『公共の福祉による制約を受けるということを知らない人も多い』という結論を導き出した根拠として、表現の自由に関連する最初の記事前段の2つのリンク先に限定せず、『それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状』を挙げている」ことから、後段の人権制約に関する話の争点は「表現の自由」ではない(人権一般である)という趣旨を述べた。
6
相手方から、第一に「人権論が学問的営為であることの周知をすべきであることと公共の福祉によって人権が制約されうることの周知がなされていないこととは関係がある」、第二に「表現の自由に対する制約も人権制約であるから関係がある」という趣旨の「反論」がなされた。
このような流れをふまえれば、「6」が反論になっていないことは明らかだろう。
相手方は「4」で、「人権制約のうち表現の自由に関するものが争点」なのに「人権制約と大きい枠組みに逸らしている」と述べている。
これはつまり、一般的な人権制約ではなく、「表現の自由」が争点である旨を述べるものだ。
そして、これに対する反論として、俺は「5」を述べたものである。
http://togetter.com/li/729640
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/729640
どうしようもないな。
いつものことながら、こうも訳知り顔で「表現の自由」について語れる面の皮の厚さにはおそれいる。
おそらく、人権論が体系化された「学問」であるという意識がないんだろうな。
「人権」はさまざまに分類され、それぞれについていかなる範囲で保護されるべきか、ということが慎重に議論されている(大雑把な言い方だが)。
そうした事実を知らず、あるいは軽く考える人々を放置することは、「人権」を薄っぺらい理想論と捉え(議論の厚みを知らないだけなのに!)容易く切り捨てる風潮を蔓延らせることにつながるのではないか。
そうだとすれば、これも一種の「人権軽視」というべきだろう。
人権論の権威を高めるとは言わないまでも、学問的な営為であることを周知するためのなんらかの手当てが必要だと思う。
関係ないが、昔ある人と「公共の福祉」について話したことを思い出した。
そのとき俺は、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるなどというのは誰でも知っている常識であって、皆それをふまえて議論している」という趣旨のことを述べ、相手は「いや、そのことを分かっていない人も結構多い」と応じたように記憶している。
それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状は、相手が正しかったことを明らかに示していると言わざるを得ない。
Mさん、俺が間違ってました。
後段(「関係ないが」以降)だけを読めば、これはどう読んでも人権一般に対する制約の話であって、「表現の自由」に限定した話とは読めない。
しかし、前段と関連させて読んだ場合、後段についても「表現の自由」に限定した話と読む余地が出てくる(その場合相手方が「2」で「極めて厳格」との表現を用いたことは、不自然とは言えない)。
そこで、「そういう読み方はしないでくださいね。前段と後段はまったく別の話であって後段は人権一般に対する制約について言及したものですよ」と注意喚起するために(も)、俺は「関係ないが」と断っているのである。
したがって、相手方が「表現の自由に対する制約も人権制約の一種である」などと主張することには意味がない。相手方は、人権一般ではなく表現の自由が争点だと述べているのだから。
相手方が主張すべきは、後段のみでも表現の自由に限定した話と読めることなのである。
本件に関して意味ある主張のやりとりはこの程度であって、後は相手方が勝手に、
なお、俺がこの件に関して書いたのは、本記事及び出典中の奇数番号の記事のみである。
今後新たに記事を書くことがあれば、適宜追記していく。
webメディアで起業した人の多くは、出口が見つからないとメンタル面で致命的なんだろうな、と思った。
しょせん虚業、というのは言い過ぎだが、広告だけに頼った空中系のサービス業ってどこかで収益が頭打ちになる。
おまけに、webメディアって、クオリティを追求する方に向かう人が極端に少ない気がする。
それはおそらくインターネットというメディア特性だとは思うんだけど、クオリティを求めるという方向も無しだとすると、
どこかで「飽きた」段階で、その仕事には「お金」以外のモチベーションを感じられなくなっちゃうだろうなぁ、と想像した。
仕事は金だよ、金だけど、金だけで動き続けるのは結構しんどい。
金以外に、人の役に立っている実感とか、人を面白がらせたい、自分の創作欲求を満たしたい、面白い目にあいたい、面白い人と知り合いたい、とか
そういうことも、仕事をしながら前に進むためには結構大切で、でも、PV対価広告だけで食っていってると、その辺がすぐにすり減りそうだ。そもそも「人の役に立ってる」の対極にありそうだし
TVつまんね、既存メディア糞、ってのも事実だけど、一方で、既存メディアは最後には「何かを創り出したい」という一点で踏みとどまってるようなとこもある。
瞬間最大風速的に「面白がられる」「役に立つ」ということにおいてはwebメディアは得意分野だけど、「何度でも見たい」「人生変わった」みたいなコンテンツは、
いわゆるwebメディアはまだ作りだせてないし、作る気もなさそうだ
大手のコンテンツサービスが出そろって10年以上は経過してるし、web広告と既存広告の広告費も逆転したけど、コンテンツの質を高めたいという様子も感じられない
そもそもnanapiみたいなのって、情報量的にはアレな雑誌よりも薄っぺらかったりするしなぁ。
そういう仕事って、自分にとっては、続けられて5年が限度だな、と思ったんだ。まぁたくさんお金がもらえるとしたら10年が限度か
だから、買ってくれる人が見つかってよかったね
早い人だと、数ヶ月で月収100万、これからは副業しないと厳しい時代だとかなんとか。
始めからコンサル料だなんだと言って金を取ろうとしているのは分かってたんだが、アフィカス(29歳I君)がどんなものか見に会いに行ってきた。
アフィカスは俺に告げた。
「俺は、公務員を6年やっていた。その頃、たまたま情報商材を30万で買ってその内容に感動してネットビジネスに参入した。とあるセミナーに出るようになり、塾にも入った。その塾で俺は圧倒的な成績を残して、月収100万を四ヶ月目には達成していた。それから俺もセミナーや塾を開くようになって金儲けするようになった。今は会社を東京と大阪に持っている。燃焼2億の会社を持って自由に働いてるんだ」
そして、Macbookを取り出し、物販サイトを参照にやり方を少しだけ教えてくれた。
「お前にも物販とトレンドアフィリのやり方を教える。まぁ、コンサル料で100万円、一生涯保証するから」と告げられる俺。
内心俺は、「申し込むわけねーだろ、バーカ」と思いながら、「払えません。」とだけ告げた。
「金の問題じゃない、気持ちの問題だ。俺がコンサルするって言ってやってるんだから、この波になろうぜ。金持ちになりたいだろ?クレジットカード持ってないのか?」
どうしても俺の金を引き出したいらしい。確かにアフィカスの格好を見れば金持ちに見えるが、話の内容は薄っぺらだった。というか、自慢と「こんだけ儲けました」ていう具体的な数字と、俺から100万円出させるための話だった。
そろそろいいやと思い、帰りたくなった俺は、このアフィカスの前で「うぜぇ、こいつ」という態度で接してやることにした。
「お前といるより女といた方がいい。俺の時給いくらだと思ってる?お前にはやる気が無いし、これからも変わらない。マインドが俺とは違うからな。ところで、この飲食代お前が払え。」
まぁ、アフィカスなんてこんな奴らばかりですよ。
ちなみに、調べていくと公務員だったといいますが、そいつのプロフィールにはサラリーマンを6年やっていたと書いていました。嘘で固めてるんですよ、アフィカスは。
気をつけなはれや。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/729640
どうしようもないな。
いつものことながら、こうも訳知り顔で「表現の自由」について語れる面の皮の厚さにはおそれいる。
おそらく、人権論が体系化された「学問」であるという意識がないんだろうな。
「人権」はさまざまに分類され、それぞれについていかなる範囲で保護されるべきか、ということが慎重に議論されている(大雑把な言い方だが)。
そうした事実を知らず、あるいは軽く考える人々を放置することは、「人権」を薄っぺらい理想論と捉え(議論の厚みを知らないだけなのに!)容易く切り捨てる風潮を蔓延らせることにつながるのではないか。
そうだとすれば、これも一種の「人権軽視」というべきだろう。
人権論の権威を高めるとは言わないまでも、学問的な営為であることを周知するためのなんらかの手当てが必要だと思う。
関係ないが、昔ある人と「公共の福祉」について話したことを思い出した。
そのとき俺は、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるなどというのは誰でも知っている常識であって、皆それをふまえて議論している」という趣旨のことを述べ、相手は「いや、そのことを分かっていない人も結構多い」と応じたように記憶している。
それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状は、相手が正しかったことを明らかに示していると言わざるを得ない。
Mさん、俺が間違ってました。
1年まえくらいに書いた本のことがまだ心に残っているので、そのことについて書こうと思う。
本の題名は「フラニーとズーイ」。村上春樹版の新訳という触れ込みで本屋に平積みにされていたので買ったのがきっかけだったと思う。
作者のサリンジャーのことはもちろんしっていてキャッチャーインザライとナインストーリーズは読んでいた。キャッチャーインザライの方は4回ほど読み返すぐらいには好きだったけど、ナインストーリーズの方はあまりはまらなかった。
で、「フラニーとズーイ」に戻る。未読の人もいるだろうからオチに関するネタばらしはなし。
この本は2個の中短編から構成されて、前半はフラニー、後半はズーイに関する話となる。ちなみにこの二人は兄妹。
「フラニー」篇はフラニーとその彼氏とのデート模様を記したもので、基本的に彼氏目線で進んで行く。
こじゃれたレストランでカエルのサラダ!を食べながら、エリート大学生の彼氏はいくつかの事柄についてご高説を垂れるんだけど、フラニーにはその薄っぺらさ・自意識の強さを瞬時に見抜く。だけどフラニーはそう思う自分自身の自意識を認識しすぎて自己嫌悪に陥ってしまう。
まあこのパートの事はどうでもいい。
「ズーイ」篇は「フラニー」での出来事の少しあと、舞台は家族の家で語られる。フラニーが「フラニー」篇での事件で精神的につらくなってしまい、何も食べずに実家のソファーに引きこもってしまっていて、そのことを母親がいかにも母親的な心配の仕方をしてズーイになんとか助けてやってくれないかとなぜか風呂場で延々と語るところからはじまる。
で、そのしつこすぎる要請をうけて(あるいは何もしなくても自分から動くつもりだったのかもしれないけど)ズーイは妹のところに赴きなんとかその状態から脱するよう説得する。だけどズーイの上から目線で辛辣でしかしあまりにも正確すぎる意見を言われ、フラニーはより深く傷ついてしまう。自分が今まで何度もやったように、また妹を傷つけてしまったことに気づいたズーイは自分の非を自覚しショックを受け一旦妹の元からはなれる。しかしその後、少しトリッキーな方法により兄妹間で再度対話がなされる。
はっきりいってこの導入はだらだらしていて話の筋をつかみにくい。その傾向は一度目のフラニーとの会話でも続いていくが、2人が議論を進めるうちにだんだんと誰しもが一度は感じたことがあるだろう繊細すぎる問題が2人の共通の核となる問題であることが明確になってくる。ここで「繊細すぎる問題」とは非常に言葉にしづらいが、あえて言うなら「『自意識が高く、そのためいつも人を見下してしまう』ことに自分で気づき、自己嫌悪に陥る」ということになるだろうか。
はっきりいってこの時点までは本を読んでいてあまりおもしろいとは思わなかった。
しかし、最後の対話部分を読んでいて、本当に奇跡的な読書体験ができた。それまでズーイは延々とフラニーに対して徹頭徹尾ロジカルなアドバイス(というよりは精神的なえぐりだし)を行ってきたんだけど、最後の5ページあたりから、まったく違うアプローチでの対話を試みる。
その部分は本当に奇跡じみていて、自分はなにか大きな予感を感じながらページをめくっていった。読み進めるうち自然と鳥肌が立った。そして、本当にその予感は的中し、ズーイの言葉によってフラニーも、そして読んでいる自分も圧倒的な力で救われた。自分は信者ではないけど、聖書の中で神が起こす奇跡を体験したら、まさにこのような感じ方になるんじゃないだろうか。その感覚はあまりに言語化しにくいし、自分がなぜこんなに感動したのかもよく分からなかったけど、ただただ昂揚感があった。
なんというか、本を読んでいてこんな体験をしたのは初めてかもしれない。
大学やめました。あと東京から大阪へ。 退学届だ。 https://twitter.com/yudai214/status/512846285561294848/photo/1 気持ち悪い文章書こーって思っただけですので、暇ならどうぞ。 私は自分の世界の中で生きていて、多くの人とは生きてきた世界が違って生きてる世界が違って生きていく世界が違うと思う。 コミュニケーションは相手の認識を信頼できないと双方向にはならなくて、私は他人の認識が信頼できないし、 自分は無口で考え事だけが多かったと思うので、人間は認識が全てだと思ってて、認識は複雑だった。 ちなみにその認識の構造は、再帰的な構造になってることが多いように思える。 また、人間はとにかく表現が下手であると思う。親も表現が下手だし、子供も表現が下手だし、私も表現が下手。 言葉での理解と、体が理解しているかは別の話。 体で理解するのと言葉で理解するのも違うはず。 体が動くか、動かないかというのは、あるはず。積み重ねである。 すべての行動には理由があって、なんで言えないのかは疑問をぶつけたい方。 自分は人間だけど、相手が人間なのかどうかが分からないからだと思う。 物事は存在している形で存在している。 言葉は写真のようなもので、薄っぺらい一時的なものだ。 人間は環境の生き物。 表現のためだけに環境という言葉で表現したけども、目に見えるものの話ではない。 同じ環境に違う個体を投入しても違う反応が得られるであろうが、 その個体をどの環境に投入するかによっても異なる反応は得ることはできるはずで、そちらの方。 すべての人間は人間らしい行動をするはずだと信じることでしかこの世に人間としては存在できない。 (この調子だと永遠に終わらないのでこういうのここまで) 昔の私は無鉄砲さがあって、それで迷惑をかけた人もいると思っているし、 今の私はできなくなったことが増えて、できなくなったことで迷惑をかけた人もいると思う。ごめんね。 (また何か言いたいことがある方はyudai214◆gmail.comまでどうぞ) 人は評価を求める生き物。 評価する能力のない人からの評価ではだめ。自分が評価していない人からの評価ではだめ。 評価している人から評価されたい。評価していない人からの評価はどうでもいい 自分の心がどう感じるのか、どう感じるのかに嘘をついても仕方がないと思っていることをあらかじめ前置きしておくけれども、 自分が評価している人ってなかなか難しくて。そしてもちろんのことながらどうにかしたいと人間は望むものであると。 他人にはできるけど自分にはできないこともとても多いし、自分にはできるけど他人にはできないこともとても多いのだ。 すべての人にそういうのがあると思うけど、とりわけ私は得意不得意の極端さが半端ではなかった 人間は環境の生き物で、別にゲームの大会で優勝したところで環境がよかったからでしかなくて、私である必要も特になく。 (ゲームは都合の良い展開を相手がどう認識するのかを自分が認識してそれを楽しむ。) 私という個体は反応するように反応すると思うので、てきとうな環境に放り込まれればいいんじゃないかと他人事のように思っているので興味のある人は大阪にいたりするので声かけてもらえればわたしとってもうれしいなとかいうお話でした。 (最近は毎日のやる気が全くない生活に陥ってしまっていたので、なんらかの刺激がもらえればうれしい) (これ書いてる現在は大阪にいまして、今日は東京にいって段ボールに荷物つめたりします。全く寝れなかったので書いてました。)
人とコミュニケーションが取れないわけじゃない
普通に会話できるし冗談も言える、酒の席にも参加できるし女子とも話せる
けれどそれは演技で素の自分じゃなく、実際は相手にまったく興味なんて持てなかった
興味なんてないんだからこちらから話をもちかけるのなんて稀だった
卒業した時点で成績はかなり優秀な方だった
薄っぺらい人間関係しか築けなかったのでニートになってから誰とも電話もメールしていない
こちらから話すネタ(ニートネタはやめたい)もないので携帯なんてずっと充電してない
ぼちぼちプレイしていたネトゲを2月から熱心にプレイするようになった
暇ばかりのニートに時間を大量に費やすコンテンツはいい暇つぶしになる
孤独すぎた結果、人生にもゲームにも全てにおいてやる気が消沈してしまった
まったく動かなくても体重は増えないが顔色は悪いし肌も白くなって気色悪い
物事は存在している形で存在している。 言葉は写真のようなもので、薄っぺらい一時的なものだ。 人間は環境の生き物。 表現のためだけに環境という言葉で表現したけども、目に見えるものの話ではない。 同じ環境に違う個体を投入しても違う反応が得られるであろうが、 その個体をどの環境に投入するかによっても異なる反応は得ることはできるはずで、そちらの方。 すべての人間は、人間らしい行動をするはずだと思っている。 気づき。ためらい。 最初は意識的に行い、無意識となって習慣となったりする。 今ちゃんとやったという行為があってそれは過去になる。 過去ちゃんとやったと言えるために今を生きる。 人は評価を求める生き物。 評価する能力のない人からの評価ではだめ。 自分が評価していない人からの評価ではだめ。 評価している人から評価されたい。評価していない人からの評価はどうでもいい(理不尽な評価に対する皮肉的返し) なぜ人は生きるのか。理想が存在するからだ。 私は相手に言葉を求めることはいたしません。私が求めているのは言葉ではなくて、人間であることです。 相手が人間であることを求める目的のために、言葉は使われるだけです。言葉自体には価値はございません。人間であることに価値があります。 人間を求めて、その上で言葉を求めるものなのに、言葉だけを求める、過去が存在しない人たち。 ポエム書いても仕方無いけど思うことは存在するし、存在しなきゃ存在できないし、存在するものが存在するように存在しなきゃ存在するものが存在するように存在しないし、承認欲求とかも表現でしかないし、存在するそのものではないし、 承認を求めるというより、存在を求めるってのがまだ表現としてマシに思う 自分で自分(の認識空間)に満足しているから誰よりも幸せ。自分は自分を尊敬しているし、生まれ変わっても自分になりたいし、そう言えるように生きた。 誰も幸せにならないことは誰も望んでいない。 美しいものが好き。美しくありたい。 ◆ 生き苦しいところがあって、生き苦しさの解消が一番コスパの良い投資に思える。 自分が嫌になることも昔は全くなかったけど最近は体が死んでてなにもできなくて嫌になるし、他人がもっと若い頃に経験するイベントをかなり遅くに経験してる感じがすごくあるけど、別に自分が経験してて他人が経験してないことだって…… 人をまともに評価する気がないって宣言した人を称賛する人間たちが嫌 楽しい、という言葉も昔はよく分かんなかった気がする。とにかく言葉がよくわかんなかった。 表明したくないことは私にもあって、簡単に言えばやる気がないことだったりするけど、表明をためらうことによって悪循環しかないなって思ってるところはあって まず何よりも他人の言葉に対する認識が謎すぎる。信じられない。どう認識してるのかさっぱり分からない。 よくカウンセリングとかいう文字列を見るけどそんなに身近なものなのかしら。別世界のワードだと認識してしまってるところが強くある。 忘れたくないという思いが強くて、すごく足を引っ張ってる。忘却は恐怖。 問診とか何も異常がないです以外の応答をしたことがないのだけど、カウンセリングを受けさせるためのカウンセリングがまず必要な気がする コミュニケーションに飢えてる自覚あるけど、そんなことしてる場合ではない自覚もあるけど、これ両立しないからしんどい 言葉に対する葛藤が一番大きい。ふつうの人は言葉に葛藤がないのか、ないのか。 体がかゆい→かく→手を洗いたい、の動き、毎日十数回繰り返してると思うけどかなり時間と水道代使ってると思う 許可がないと何もできないみたいなところある。完全な自由などはなくて部分的な自由。いろんなものを整理したい欲求があって、でもノウハウがない。無駄に潔癖症でマスクと手袋では足りない。目がいたいから嫌だ、みたいな 納得できないことは納得できない理由がたしかに存在したからめんどくさい 適切な環境を与えればとても高度な出力ができた体であった、と思うのは人類共通ではないのだろうか まじめで丁寧に仕上げることができるという長所は漠然とした自覚があって、でもなんか言葉に対する不信感があって表現しようがなかった 忘れられない一瞬一瞬の場面はなんだったのだろう。発声こそしないものの頭の中ぐるぐる
何を書いても絡む人がいる。粘着する人もいる。反論に時間をかけてしまえば、人生の無駄。
最近のブロガー界隈のブログセミナーやそれに近いオフ会が嫌だ。すごいすごい言い合ってブログをいかに有名にするかなんて自己啓発セミナーと同じだ。あんな人たちと関わりたくない。純粋にテキストが好きな人とだけ関わりたい。
他人に文句ばかりの記事を書いて、そのくせ他人への文句は良くありませんね!と言い出したり、作品や批評を出さないのに小説はいいもんだ!なんて言う人とは関わりたくない。こういう指摘を受けたあとに、思いつきの感想や誰でも知ってるような心理用語と紐付けた薄っぺらい記事を慌てて書くような人はほんとに気持ち悪い。やり続けた人こそ資格があるのに。自覚あるなら辞めちまえよ。
つまりは、ブログや書くことより自尊心や承認ばかりに目が向いている人が増えてきて悪影響受けそうだし、気持ち悪さしか感じないので、ネットで文章書くの、やめようと思いました。
なんつーか、オレだけは分かってる!みたいな、他人への文句やらネットで漁ったネタを使ってブログで何度も書く人たちなんか飽きてとっとと消えてくれれば良いのに、開き直って消えないんだよな。ゴミクズ精神の持ち主だから。こんな気持ち悪さなんてゴミクズ以外は書くまでもなく誰でもわかってるだろうけどあまりにもひどい。
宣言するのも承認欲求/このコメント自体が承認欲求を求めてる←こういうコメントもキモい。辞めたいの4文字を脳内空想決めつけ根拠なしの後づけで自分の納得したいような解釈しかできない程度の低い読み手が多いのも辞めた理由の一つ。書いた内容に同意するかどうか以前の問題だろ。なんでもかんでも承認欲求に結びつける頭の悪さを程度の低いって言ってんの。
やめたって書いてんのにやめるといいと思うってアドヴァイスする人の思考回路っていったいどうなってんの?笑 バカにとってはバカと遊べて楽しんでるんだからバカでない人が出てけ、こんな感じの理屈を平気で言える人がネットでは生き残るんだなぁ。悪貨は良貨を。俺達の愚痴を言わずにとっとと出てけ、とは語るに落ちたな。最後に一回くらい愚痴言わせろよ。
スターつけてる人たちも同じレベル。ほかにも呆れるコメントばかり。困るに違いない!ってどこに書いてるんだろ。やめたってこれを最後にしてに決まってんだろ。反応してる!最後くらいおかしいねって言わせてくれよ。自分のブログ捨ててるから増田に書いてんだろ。誰だかわからない状態でやめないでって言われるに違いない!とかそんなバカいねぇだろ。誰だかわかってほしいなんてどこに書いてんだ?自分のことだけ考えてろって、自分のために書いててもバカに絡まれてやめる人の多さ見ればバカが暴れまわる現状のヤバさわかるだろ。
こういう人たちがネットに長く居座って不快だと自覚のある自分の振る舞いを正当化して開き直ってるんだからそりゃネットはバカと暇人のものでしかないよな。
学生時代、詐欺師かなにかその辺りのうさんくさい生き方をして、我が身と口だけを頼りに立ち回り、最後はどうしようもなくなってボロクズのようにのたれ死ぬ事に憧れていた。
ところが、現実はどうだ。
生まれ故郷の田舎で就職し、そこそこ美人の嫁さんと結婚をし、複数人の子を設け、年収は350万円程度で貧しいながらも笑いの絶えない家庭を運営している。
それだけではなく、近所に住む親戚内でも立ち回って雑務をこなし、地区では役員を務めているし、消防団にも所属している。地区の行事には当然の様に頭数に入れられており、草刈りから宴会まで、いろいろとやることがある。
もちろん、PTAもいろいろあるし、友人付き合いもいろいろ。
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こんな筈ではなかった。
様々な縁と、それを振り切れない優柔不断と、臆病さ、それに妙な器用さが僕の足を縛り付ける。
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誰か人生を代わってくれないだろうか。
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ちなみに、不健康な肥満体で見た目は悪いですが、年に三人ほどは嫁さん以外に手を出しているので、女を口説く手管は人並みだと思います。
人生変わってくれる人は、現状と見た目を教えてください。
http://anond.hatelabo.jp/20140831224816
お前がいう当時がいつなのか俺には分からないが、それの始まりから何年経ったんだ?
Kanonがお前にとっての泣きゲの始まりならあれからすでに15年は経ってる。
お前はその間何をしていた。
お前のトーチャンカーチャンが泣きながら結婚してお前の出産を見届けた時期はすでに通りすぎているだろう。
それなのにお前はまだエロゲのBGMで泣けるだなんだ言ってるんだ。
お前の人生はどこにいった?
他人が作った物語の中ではなくて、現実の中で嬉し涙を流してもいい年齢じゃないのか?
お前のエロゲの探し方も泣けるで、
他人の評判を当てにして有名な作品だけ埋めていこうって浅はかさ。
ライターのネームバリューを信じて予約した作品がバグまみれだった時の悲しみをお前は知っているか?
自分の直感を信じて買った作品が、他人には説明できないような自分のツボと噛み合って、自分の人生とリンクした感動を味わえた時の喜びをお前は知っているか?
家に引き篭もって他人がレビューにつけた点数や、レビュー数を当てにして「最近はいいゲームが無いようですなー」といつまでも言ってるお前の人生、泣けるで
感動を自分の手で掴もうとしてないお前自身のあり方が、エロゲの選び方にまで滲み出てる、泣けるで
誰かが作った感動を、誰かがたっぷりとオススメしてくれて、それからようやくその感動に手を伸ばす。
そうやって他人の手垢に染まりきった心の震えでお前の人生は一杯なんだよ。
お前が今まで流した涙の何割が「(他人が名作だと言ってるゲームだし泣いておこうかな)」という薄っぺらい無意識の底から湧きでた物なんだろうな
泣けるで
お前の人生、レビューに振り回されるだけのお前の人生が泣けるで
自分自身で「隠れた泣きゲー」を発掘しに行くスピリッツを持たない、お前の人生そのものが、
まるで俺みたいで本当に泣けるで
アドバイスしたりされたりが嫌いなら、それを嫌だと言おう。
その前に「なぜ嫌いなのか?」を考えてみよう。
君は何故アドバイスされるのが嫌いなの??
それともアドバイスが嫌いなのではなく、何か他の要素を嫌っているのかもしれない。
そうやって原因分析する事で、君は相手に対して、君の嫌な事をしっかりと主張して、
信条や価値観が似ている人だけが親友とか信頼し合える仲間になるのかと言うと、そうでもない。
というか、そんな事は全くない。
実は、信頼し合える仲間ってのはより多くの時間を共有しなければ作れない。
そして重要なポイントは、時間だけではなく苦労を共有する事だ。
少なくとも君自信が薄っぺらい人間関係しか築けないと感じているのは、
部活でも会社でもなんでもいい。むしろ半ば強制的な方がいいくらい。
いい話だね。良いメッセージだと思いたい。
いやいや。
「泣かせる前に」って、
まるで橋下が何か心変わりしたみたいじゃないか。
請合ってもいいけど橋下は今でも例の女子高生については「勝手に泣いとけ」って思ってるよ。
いい話だが、「美談」にならない様な、成績の良くない私立女子高生の要望だったらどうだったんだろうね。
2012/02/05
どうだったんだろうねって。
わかりきってるだろ。
「家が貧しいって言いながら必死に勉強もせず私立入ってるような奴は救う価値なし!」
って
橋下はオブラートも無くハッキリ言ってるじゃん。似たような事例でもいつも。
橋下は、
橋下基準の「自分で出来ることを十分頑張ってる」奴が頼ってくると涙を流して力になるぐらいの人情家で
橋下基準の「自分で出来ることを十分やってない」奴が頼ってくると「死滅しろ」って吐き捨てるぐらい嫌悪をあらわにする。
出来合いの言葉にすると
という風にまとめられる。
橋下の個人的な人生に対するスタンスは一貫してる。わかりにくさもない。
「お前のスタンスは施政者として冷酷すぎ。頑張ってない奴も救え」だとかならば
批判足りえる。
だがこれらのブコメと☆つけてる奴等は
橋下の中で「K君」と「成績の悪い私立女子高生」がどういう差をつけられてるのかすらわかってない。
だから「K君に優しくしたのに何故女子高生に優しくできなかった!今ごろ改心しても遅いぞ!」などと
もちろん橋下は全く”改心”なんかしてない。
K君、人生しんどいことがあっても頑張れば必ず報われる。人生捨てたもんじゃない。日本社会は捨てたもんじゃない。.
僕ももう一頑張りしないといけないと、エネルギーをもらったよ。.
今回のK君の行動こそ公の行動。勉強させてもらいました。.
お互いに頑張ろう!
大阪市長 橋下 徹
書き手が滲み出してくるイイ文だ。
頑張らない奴に対して人生や日本社会がどうあるべきかを明確に述べてもいる。
〇違いというとすぐ変顔や溢れ出るヨダレで表現する凡百のフィクションはこのセンスを見習うべき。
キャラ立てというのはこのようにやる。
そして
こんなにわかりやすくも確固としたキャラ・スタンスを打ち出してるのに
それすらきちんと読み取れない批判対象を理解出来ないのであれば、
当然問題点の整理や抽出なんかも出来ず、つまり批判なんか出来ない。
お前等は一切口出さなくてよろしい。