はてなキーワード: フラニーとズーイとは
http://anond.hatelabo.jp/20151128151931
カルトにハマりつつも、受け入れてくれない周囲と葛藤を持つ女の子がいるのよ。少しずつ良くなるように説得してく話なんだけど、冒頭で恋人は大失敗するのね。で、後半、兄弟はわりといい感じで諌めるの。
不幸だなーって言ってる人に説教始めるバカって、恋人そっくりなんだよね。
相手のことをわかってもいないのにアドバイス。
信頼がなくなってるのに、心配したから、思いやったから、思い通りになるだろ!とカンチガイしてるイタさ。
むしろ黙ってる方がマシなケースもあるけど、自己満だから気づかない。
介入しなきゃ!介入しなきゃ!発情期の犬みたい。笑
他人がいなきゃ成り立たない!というのも、自分のみが、自分こそが、相手にとっての他人だ!というこじらせに気づかないだけ。
気づかないからこそ、恋人のようにしつこく連絡してウザがられる。
1年まえくらいに書いた本のことがまだ心に残っているので、そのことについて書こうと思う。
本の題名は「フラニーとズーイ」。村上春樹版の新訳という触れ込みで本屋に平積みにされていたので買ったのがきっかけだったと思う。
作者のサリンジャーのことはもちろんしっていてキャッチャーインザライとナインストーリーズは読んでいた。キャッチャーインザライの方は4回ほど読み返すぐらいには好きだったけど、ナインストーリーズの方はあまりはまらなかった。
で、「フラニーとズーイ」に戻る。未読の人もいるだろうからオチに関するネタばらしはなし。
この本は2個の中短編から構成されて、前半はフラニー、後半はズーイに関する話となる。ちなみにこの二人は兄妹。
「フラニー」篇はフラニーとその彼氏とのデート模様を記したもので、基本的に彼氏目線で進んで行く。
こじゃれたレストランでカエルのサラダ!を食べながら、エリート大学生の彼氏はいくつかの事柄についてご高説を垂れるんだけど、フラニーにはその薄っぺらさ・自意識の強さを瞬時に見抜く。だけどフラニーはそう思う自分自身の自意識を認識しすぎて自己嫌悪に陥ってしまう。
まあこのパートの事はどうでもいい。
「ズーイ」篇は「フラニー」での出来事の少しあと、舞台は家族の家で語られる。フラニーが「フラニー」篇での事件で精神的につらくなってしまい、何も食べずに実家のソファーに引きこもってしまっていて、そのことを母親がいかにも母親的な心配の仕方をしてズーイになんとか助けてやってくれないかとなぜか風呂場で延々と語るところからはじまる。
で、そのしつこすぎる要請をうけて(あるいは何もしなくても自分から動くつもりだったのかもしれないけど)ズーイは妹のところに赴きなんとかその状態から脱するよう説得する。だけどズーイの上から目線で辛辣でしかしあまりにも正確すぎる意見を言われ、フラニーはより深く傷ついてしまう。自分が今まで何度もやったように、また妹を傷つけてしまったことに気づいたズーイは自分の非を自覚しショックを受け一旦妹の元からはなれる。しかしその後、少しトリッキーな方法により兄妹間で再度対話がなされる。
はっきりいってこの導入はだらだらしていて話の筋をつかみにくい。その傾向は一度目のフラニーとの会話でも続いていくが、2人が議論を進めるうちにだんだんと誰しもが一度は感じたことがあるだろう繊細すぎる問題が2人の共通の核となる問題であることが明確になってくる。ここで「繊細すぎる問題」とは非常に言葉にしづらいが、あえて言うなら「『自意識が高く、そのためいつも人を見下してしまう』ことに自分で気づき、自己嫌悪に陥る」ということになるだろうか。
はっきりいってこの時点までは本を読んでいてあまりおもしろいとは思わなかった。
しかし、最後の対話部分を読んでいて、本当に奇跡的な読書体験ができた。それまでズーイは延々とフラニーに対して徹頭徹尾ロジカルなアドバイス(というよりは精神的なえぐりだし)を行ってきたんだけど、最後の5ページあたりから、まったく違うアプローチでの対話を試みる。
その部分は本当に奇跡じみていて、自分はなにか大きな予感を感じながらページをめくっていった。読み進めるうち自然と鳥肌が立った。そして、本当にその予感は的中し、ズーイの言葉によってフラニーも、そして読んでいる自分も圧倒的な力で救われた。自分は信者ではないけど、聖書の中で神が起こす奇跡を体験したら、まさにこのような感じ方になるんじゃないだろうか。その感覚はあまりに言語化しにくいし、自分がなぜこんなに感動したのかもよく分からなかったけど、ただただ昂揚感があった。
なんというか、本を読んでいてこんな体験をしたのは初めてかもしれない。