はてなキーワード: 隠蔽行為とは
自称声優・佐藤利奈をはじめとする生活で出会った有名無名人を含む集団ストーカー集団から攻撃されている
自称被害者としてツイッターやブログで情報発信をされてるんだとか
https://archive003.blog.fc2.com/
https://ameblo.jp/archive006/ #←2023年11月11日朝頃表示されていないのを確認
https://anond.hatelabo.jp/20210620093633
お前等は此の儘ずっと嘘を貫き通して行くのか? (@yKvquuId1AA6Y7u)
お前等は嘘を貫き通して行くのか? (@Sinzitu00001)
「こういうのも『人権軽視』の一種なのだろうな」(http://anond.hatelabo.jp/20141009224728)を書いた増田だが、参加者が増えたことによってますます流れが分かりにくくなってしまったな。
これは俺がうまく整理できなかったせいでもあるので、申し訳なく思っている。
もちろんギャラリーに対して、な。トラバ削除とトラバツリー汚しを繰り返して自らの醜態を隠蔽することしか頭にない相手方(http://anond.hatelabo.jp/20141010222658)に対しては軽蔑の感情しかない。
ちょっと考えてみたが、俺はこの記事で互いの主張の流れを要約・評価したうえで改めて出典を示し、以後はこの件に関して記事を書かないことにしようかと思う。
ただし、流れの追いやすさを維持したまま相手方の醜態を周知する方法が見つかれば新たに記事を書くかもしれない(良い方法があれば教えてほしい)。
その場合は、この記事に追記をする(つまり○○(新たな記事)を書いたのは俺である、とこの記事に追記する)方法で自分が新たに書いたものであることを示そうと思う。
1
俺が、前段で「表現の自由についてろくに知りもしない癖に偉そうに語っている(ように見える)連中を放置すべきではないのではないか」という趣旨を述べ、後段で「関係ないが」と断ったうえで、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるということを知らない人も多いのだということをここ数年で気づかされた」という趣旨を述べた。
2
これに対して、相手方から「公共の福祉による制限は極めて厳格でなければならない」という趣旨のトラバがついた。
3
俺からの反論として、「俺は公共の福祉によれば簡単に人権を制約できるなどと考えているわけではない(実際最初の記事にそのようなことは一言も書いていない)ので、トラバは的外れである」ことを指摘するとともに、「人権を十把一絡げにして各権利の性質を考えることなく『制限は極めて厳格でなければならない』などと述べるのは人権論をまともに理解していないのではないか」という趣旨を述べた。
ここで少し補足しておくと、「表現の自由」は人権の中でも優越的な地位を占めるとされ、これに対する制約の合憲性を判断する際には厳格な基準によらねばならないとされる。このような理解が前提にあるので、人権一般について、「公共の福祉による制限は極めて厳格でなければならない」などと表現することは、法学をやっている者にとって非常に違和感がある。
4
相手方から「人権制約のうち表現の自由に関するものが争点なのにも関わらず人権制約と大きい枠組みに逸らしている」という趣旨のトラバがついた。
この時点で「3」のうち俺の「的外れである」との指摘については無視されているように思われる。
5
俺からの反論として、第一に「人権制約の話をするにあたっては予め『関係ない』と断っている」、第二に「『公共の福祉による制約を受けるということを知らない人も多い』という結論を導き出した根拠として、表現の自由に関連する最初の記事前段の2つのリンク先に限定せず、『それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状』を挙げている」ことから、後段の人権制約に関する話の争点は「表現の自由」ではない(人権一般である)という趣旨を述べた。
6
相手方から、第一に「人権論が学問的営為であることの周知をすべきであることと公共の福祉によって人権が制約されうることの周知がなされていないこととは関係がある」、第二に「表現の自由に対する制約も人権制約であるから関係がある」という趣旨の「反論」がなされた。
このような流れをふまえれば、「6」が反論になっていないことは明らかだろう。
相手方は「4」で、「人権制約のうち表現の自由に関するものが争点」なのに「人権制約と大きい枠組みに逸らしている」と述べている。
これはつまり、一般的な人権制約ではなく、「表現の自由」が争点である旨を述べるものだ。
そして、これに対する反論として、俺は「5」を述べたものである。
http://togetter.com/li/729640
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/729640
どうしようもないな。
いつものことながら、こうも訳知り顔で「表現の自由」について語れる面の皮の厚さにはおそれいる。
おそらく、人権論が体系化された「学問」であるという意識がないんだろうな。
「人権」はさまざまに分類され、それぞれについていかなる範囲で保護されるべきか、ということが慎重に議論されている(大雑把な言い方だが)。
そうした事実を知らず、あるいは軽く考える人々を放置することは、「人権」を薄っぺらい理想論と捉え(議論の厚みを知らないだけなのに!)容易く切り捨てる風潮を蔓延らせることにつながるのではないか。
そうだとすれば、これも一種の「人権軽視」というべきだろう。
人権論の権威を高めるとは言わないまでも、学問的な営為であることを周知するためのなんらかの手当てが必要だと思う。
関係ないが、昔ある人と「公共の福祉」について話したことを思い出した。
そのとき俺は、「人権も無制限に保障されるものではなく、公共の福祉による制約を受けるなどというのは誰でも知っている常識であって、皆それをふまえて議論している」という趣旨のことを述べ、相手は「いや、そのことを分かっていない人も結構多い」と応じたように記憶している。
それから数年、俺がネット上のいたる所で目撃してきた人権をめぐる議論の醜状は、相手が正しかったことを明らかに示していると言わざるを得ない。
Mさん、俺が間違ってました。
後段(「関係ないが」以降)だけを読めば、これはどう読んでも人権一般に対する制約の話であって、「表現の自由」に限定した話とは読めない。
しかし、前段と関連させて読んだ場合、後段についても「表現の自由」に限定した話と読む余地が出てくる(その場合相手方が「2」で「極めて厳格」との表現を用いたことは、不自然とは言えない)。
そこで、「そういう読み方はしないでくださいね。前段と後段はまったく別の話であって後段は人権一般に対する制約について言及したものですよ」と注意喚起するために(も)、俺は「関係ないが」と断っているのである。
したがって、相手方が「表現の自由に対する制約も人権制約の一種である」などと主張することには意味がない。相手方は、人権一般ではなく表現の自由が争点だと述べているのだから。
相手方が主張すべきは、後段のみでも表現の自由に限定した話と読めることなのである。
本件に関して意味ある主張のやりとりはこの程度であって、後は相手方が勝手に、
なお、俺がこの件に関して書いたのは、本記事及び出典中の奇数番号の記事のみである。
今後新たに記事を書くことがあれば、適宜追記していく。