はてなキーワード: 馬鹿丁寧とは
法解釈の例
第17条:気象庁以外の者が気象(中略)の予報をの業務(以下「予報業務」という。)を行おうとする場合は、気象庁長官の許可を受けなければならない。
→うん
第19条の3:第17の規定のにより許可を受けた者は、当該予報業務のうち現象の予想については、気象予報士に行わせなければならない
→つまり民間企業事業者とかがする(使用する)予報の予想の部分は例外なく予報士がしたものじゃなきゃダメなのね
第58回学科一般問12(c):リゾート会社との契約によりスキー場の運営に用いる気象の予報を提供する業務について許可を受けている者が、予報業務の目的を変更して新たに一般向けの気象庁の予報をインターネットで提供する業務を始めようとする場合は、気象庁長官の認可を受けなければならない(正)
→つまり「気象庁の予報」を提供することが予報業務の目的の変更にあたるということのなる。それはつまり、気象庁の予報の提供が第17条に該当する予報業務だということになる。
(もしそうでなければ、問題文は目的の変更ではなく第22条に基づく予報業務の休廃止になるはずだ)
→つまり、提供にする「気象庁の予報」も、第17条に基づき予報士が行ったものでなければならないことになる。
言ってる意味が全くわからない。特に民間等で予報士に予報させるのは予報業務許可事業者だろ
例えばウェザーニュースライブで予報士に予報させてるのは予報業務許可事業者であるウェザーニューズになる
1問正解に過ぎない問題の解釈が他人と違うならその問題は自分の解釈でやって違うなら抗議するかネットでキャンペーンでも張ったらいいのでは?
↑予報資料は予報士がしたものを使わなけならないのかという論点が全然見えてない
気象庁の発表をインターネットで伝えるのに認可が必要なんですか?
じゃあテレビ局が気象庁の発表文を放送で流したり、事後にwebに見逃し配信するのも認可いる?
(煽るつもりはなく、率直な疑問)
↑うん。だからさ、どこがどう勝手なのか、逐条的に「お前の推論はこの部分でこの条文のこの記述に矛盾してる」という形できっちり示してみせてよ。できないからそんなふわふわしたレスしかしてこないんだろ?
はじめまして、ROM専オタクです。毎日のように一次二次問わず創作を読み、匿名感想を送っています。
昔から定期的に話題に上がる、感想文に何を書いたらいいかわからない問題。
筆者の友人もよく、感想送りたいけど、内容をどうしよう……と悩んでいるので、友人にしているアドバイスをまとめてみました。
あくまで個人の経験を元にしているため、サンプルに偏りがあることはご容赦ください。
1 挨拶
3 結びの一文
構造的にはビジネスメールとか、一般的な手紙と大差ないですね。人によっては事務的に感じることもあるかも。
ただ自分の観測した範囲だと、この構文でネガティブに捉えられたことはないので、下敷きとして優秀だと思います。太古から使われているだけある。
まずは挨拶。手紙ほどかしこばらなくていいので、時節の挨拶までは行かなくてもいいです。
『こんにちは/はじめまして、いつも素敵な作品を楽しみにしております』
もっと言うと、『素敵な作品を』に具体性があるとなお良いですね。〇〇くんの活き活きとしたイラストを、とか、切なくもどこか癒やされる小説を、とか。
ただし、具体性は語彙力とは違うので、言葉を無理に飾る必要はありません。
ばいんばいんでどちゃくそえっちな雄っぱいを、とか、めっちゃキュンキュンくるシチュエーションを、とか、砕けた言葉遣いのほうが届くパッションもあります(前者だとマシュマロなどの検閲にかかるリスクはあるので、少し工夫が要りますが)。
次に、作品の好きなところなど。
ここはわりと何でもありですが、最初に挨拶で出した部分を掘り下げるのが流れ的にも自然かなと思います。
特定のキャラクターをよく書かれる人なら具体的な作品名、特定のシチュエーション設定を多く題材にされているなら、その作風で受けた印象など。
『私は〇〇さんの書かれる☓☓くんのイラストが大好きで、先日書かれてたお花見のイラストの、桜を見上げてまったりしているときの、朗らかな表情に射抜かれました!』とか、
『〇〇さんの書かれるビターエンドが大好きで、最初に望んでいた幸せには届かなかったけど、それでも辿り着いた結末にどこか満足げな二人を見ていると、えもいわれない切なさを感じます』とか。……ちょっと長いかもしれない。
一つ注意点としては、他の特定の作品を想起したとして、作者さんがオマージュを公言されてない場合は、言及は控えたほうがいいと思います(かなりの古典とかなら言わずとも狙っている可能性もありますが)。
(明らかにパクってるなあ、という場合の対処法は、こちらでは差し控えさせていただきます)
あとは、軽く自分語りを入れるのもいいかもしれません。『〇〇さんの作品に出会ってから☓☓について調べて、もっと作品の解像度が高まりました』とか、『残業後の一番の楽しみが、〇〇さんの作品を見ることです』とか。
あまりにネガティブ過ぎたりしなければ、割と何でもありです。画面の向こうに人がいる感じ、大事。
結びの一文は、作者さんを慮るか応援する文章で締めます。ここは時節の挨拶が一番無難かな、と思います。
丁度、これを書いてる今が異常気象レベルの猛暑ですので、『まだまだ暑い日が続きますので、どうぞご自愛ください』とか、『夏バテなどされませんように、美味しいものをたくさん食べてください』とか。
ここでは作者さんを思いやりつつ、応援してる気持ちが伝わればいいので、あまり形式に縛られる必要もないですが、どう書いたらいいかわかんないよ!というときは、『手紙 結び 季節』で調べ、先人の知恵を拝借するといいです。
以上のことをまとめつつ試しに一つ、架空の感想を書いてみると、
『こんにちは、いつも〇〇さんの書かれるAB作品を、楽しみにしております。
先日のバレンタイン漫画で、Bが放課後まで何もしてこないのに不安になったAが大声で公開プロポーズするところで、めちゃくちゃ笑わせていただきました。
〇〇さんのABは、繊細で美麗な絵柄とギャグのギャップが素晴らしくて、いつも仕事終わりに元気をもらっています。
来月はイベントに参加されるとのことで、〇〇さんの御本を買えるのを楽しみにしております。
でしょうか。
はてぶを見ていると「xx点しか取れなかった私がxxヶ月で700点取ったTOEIC勉強法」というのをチラホラと見る。多分TOEIC高得点を目指して英語の勉強をしているもののスコアが思うように伸びなくて悩んでいる人がこういう記事を見るのだと思うけど、逆に聞きたいのは「TOEIC700点取れない勉強法」ってこの世にあるの?だ。
例えばDuoを暗記すれば600点取れるとか、Forestしっかりやれば800点取れるとかTOEIC800点くらいまでは普通に英語の知識を積み上げれば取れる、その程度のものでしかない。しかし、英語の勉強を頑張ってやっているのに700点とか800点とかどうしても取れないと悩んでいるのであれば、一旦以下の内容を深呼吸して考えてほしい。
もうちょっというなら、自分は英語の勉強はやったがDuoもForestもやってないし、TOEIC対策もやったことはない。それでもコツ次第で800点は超えている。なのでこれから書くことはそれなりに説得力があると思う。
TOEICをやって思ったのは「中卒くらいの文法知識があれば問題ないし高卒レベルだったらわからない文法に出会うほうが珍しいていうかあるのかな?」だった。英語のこの辺までの文法を学ぶだけなら1〜2ヶ月もあれば十分だ。TOEICの問題では「文法知識で困ることはないが単語がわからなくて困ることはある」ということは往々にしてあるので、文法なんかはとっとと終わらせてボキャブラリを増やしたほうがいい。文法も「構造や理論を理解する」のではなくて「こういう文法のときはこういうことが言いたい」くらいで十分だ。
単語を覚える、英語を読む、聞く、書く、話す、ということをやってたほうがいい。話すのは難しい?じゃぁ後でもいいよ。ボキャブラリが貧弱なら話だって「オーグッドグッド」くらいしか言えないだろうから。ボキャブラリも「頻出単語」という素晴らしいものがあるのだからよく使うものから覚えていくことができる。参考書を1年やるくらいならこっちを1年やったほうがいいとすら思っている。
また、英語を「理屈で理解しようとしている」のではないだろうか?言葉なんで人類の歴史の中で混ざって離れて変わって流行って廃れてそんな成り行きの中で出来上がってきたものなのだから「論理的に整合性がある」なんて言うものは存在しない。
なんで「Here you are」が「どうぞ」で「How are you」が「御機嫌如何」で「Take it easy」が「おくつろぎください」なんだ?
なんで「chalk、sheep、soap、fish」が不可算名詞なんだ?
「mouseの複数形がmice」だとか「dataの単数形がdatum」だとかなんで単数形になってむしろ文字数増えてるんだ?
「waiterが男性でwatressが女性」なのに「widowのときだけ男性にerがつく」このときだけ逆じゃないか!
論理的に矛盾なく説明できる?論理的に説明できるかもしれない、歴史とか文化とかの研究を突き詰めれば。でも一般的な視点なら「そうだからそう」以外の何物でもない。もっというと「英語の勉強においてはどーでもいい」ものでしかない。そういうのは文法やボキャブラリを増やしたあとでやってもおそくない。とにかく今は「英語の上っ面」を理解しよう。そしてそれで十分だったとTOEICを受けて思うんじゃないかとすら思っている。
TOEICのリーディング試験で「時間が足りなくて終わらない」という人をよく見るけど、自分は「全問マークして見直ししてそれでもすこし時間が余る」くらいだから、「時間は多いかちょうどいいの範疇」としか思っていない。おそらく時間が足りない人は「問題を頭から順番に解いている」で、自分は「マークシートに最終的に全てマークしている」という違いがあると思う。
すべての問題をノンストップで平均数秒で解き続けられるなら「問題を頭から順番に解く」方でやればいいけど、あなたには不可能だ。おすすめするのは「マークシートに最終的に全てマークしている」だ。
自分のやり方はこんな感じだ
1周目、数秒で解ける問題は解く、解けないならマークシーとに横線でも書いて次に行く。問題を読んで選択肢を見て「1,2,はいこれ!」ってできるなら解け。「1,2,?」なら次の問題に行く「1,2,うーんこれかも?」位に思えたなら薄く塗って次に行く(あとで消すから複数マークしてもいい)。これが終わって残り30分
2周目、解けない問題に再挑戦するが、「10秒で解けないなら適当にマークしてしまう」という原則を守る。一旦大半の問題をマークし終わると精神的に余裕が生まれて当初わからない問題がわかるようになることがある。2周めと同じで「これっぽいけどうーん、、、ってなったら薄く塗っておく。これが終わって残り10分
3周目、自信がない問題を見直す(薄くマークしたやつね)。「これ明らかにAだけどBってマークしてたわ」というのが一瞬で見て取れたときだけ直す。複数マークしたならどっちか選んで消す。ここで全部マークし終わったことになる。自分の場合、これが終わって時間いっぱいか数分残る
2周めで「10秒で解けないなら適当にマークする」と書いたけどここで自分なりのノウハウがある。それは「設問に選択肢を当てはめて黙読して一番自然な感じがしたものを選ぶ」だ。それでもわからないなら、Cを選んでいる。Cが明らかに違うならB、A、Dと言うような感じ。以前友人から「どうやらTOEICの回答はCが正解である確率が高いらしい」と聞いたけど、別に眉唾でも構わない、きちんと英語を学んでいるなら700点は取れてるだろう。
長文読解にしてもリスニングにしてもまず問題の内容を全て把握してから問題をとこうとする人がいるが、どちらも半分は試験に関係のないどうでもいいことを言っているような気がしているし、最悪3割聞き取れれば類推して解ける問題もある。それよりも設問と選択肢を先に読んでおいて「必要な情報を待ち構える」ほうが特典しやすい。
必要な情報もあたりがつくなら当たりをつけておく。例えばwhatなら物、whoなら人、whyなら理由、whenなら時間、whereなら場所だ。この時点で消せる選択肢も出てくるだろう。
最後にこれはけっこう大事なんだけど、マークシートにはみ出さないようにきっちり塗りつぶしてたら時間がかかる。
あの小さい丸からはみ出さないようにしっかりとHBで濃く塗りつぶす、を丁寧にやるとけっこう時間がかかる。わりと雑にやっても問題ない。あと、あまり濃く塗ってしまうと直すのが大変だから、そこそこにして3週目で「薄いな」と思ったら改めて濃くしている。
さっきも書いたけど「xxヶ月でxx点達成!」といったところで、それは書いた人がそうだったのであってあなたもそうだとは言っていない。仮に書いた人と全く同じようにやったからって同じ結果が出るわけじゃないし、許容できる誤差の範疇にも収まらないと思う。
TOEIC700点を取ることを目標にした英語の学習はTOEIC700点を取って終わる。TOEIC700点はあなたに何をもたらす?もたらしてくれるとしてそれの価値はどの程度のもの?会社から報奨金数万円もらえる?給料がすこし上がる?点数取得に費やした人生とのバランスは取れている?
勉強法記事を書く人はTOEICで高得点を取る、PVを集める、収益を上げる、あなたのような人がいる限り永遠にPVを生み出す。記事を書いた人はTOEICからかなりの価値を受け取っている。
TOEICを取得したら受験で有利になる?立派な理由だ。だけどTOEIC頑張りすぎて他の科目がグダグダになったら本末転倒だ。TOEICスコアを踏み台に何かを成し遂げたい、TOEICスコアを取得した後に受け取る価値があなたにとって見合うものなら一生懸命やればいい。単に趣味として取りたいのであれば、英語を使った他の趣味を遣りつつその結果としてTOEIC700取ったほうがいいと思う。
大事なことなのでもう一度言うんだけど「TOEIC700点なんていうのは別にTOEICの勉強しなくても普通に英語を学んでいれば取れる。もしあなたが取れないなら勉強法以外のものが間違っていると考えたほうがいい」
もう誰も興味ないかも知んないけど、9月21日に第1回目の第三者検証委員会があったので、あ、ありのまま見てきたことを話すぜ!
「この規模の大学図書館としては図書購入が少なすぎ、もっと買うべき」「大学図書館として新たな知見を収集していくことは義務」「新しい図書を収蔵するためのスペース確保はどこの図書館でも共通の悩み」「図書購入と図書除却は大学図書館にとっては重要な一連の業務」「電子ジャーナル化や近隣図書館との連携による蔵書の相互貸し出し等はスペース確保のために一定有効」「除却図書の妥当性は次回以降だが、リストを見る限り、一○郎とか○indows95の使い方とかもっと早く捨ててもよかったのでは?」(ここは吹いたぜ、ちくしょう)
で大学側の担当者は「実は除却したのは初めてです」(おい・・・・大学設立70年って書いてなかったっけ)
まぁ、まとめるとはじめての除却、馬鹿丁寧に4年くらいかけて除却リストを作成、2~3千冊は教員が研究室で引き取り、高知県立大学大学紀要1万冊程度は保存用を残して古紙回収業者へ、残りは焼却したらしいが、高知県内図書館に6割程度が蔵書あり。残りの4割も馬鹿丁寧に版違いは除いて計算してたが、ほとんどが雑誌類でざっと見ていわゆる図書は2~3千冊かな(詳細は最終報告書にのるだろう、現在調査進行中らしい)
大学の説明聞いた後で、2社(たぶん高知○聞と国営放送)以外はマスコミ撤収。あ、あんな冷めた目は見たことがなかったぜ。批判的な委員も報道とはずいぶんと違うって印象もったかな、トーンダウンしてた。
一番議論が白熱したのは、燃やす前に周囲の図書館に一声かけてもよかったねってところかな。たぶんその点が今後の議題の中心になりそう。
一般聴講はせいぜい10人程度だと思う、その人がマスコミなのか関係者なのかはよくわからんが案外少ない。
おれ自身2回目以降出席するかどうかわからんが(たぶん行かない)、興味ある人は年内めどに最終報告書でるらしいからそっちを。
アニメが面白いからちょっと原作読んだけど読みにくくてしょうがないわ。
絵は上手いし話も内容そのものが丁寧なのは分かるんだが一回読んでも理解できねえ。
かといって何度も読めば理解できるから何周もして新たな発見をしろって感じの作品でもない。
つまる所、漫画を沢山読みまくってきてお約束はいくらでもすっ飛ばせる人間向けに書かれているということだろう。
それはさしずめ今時のSFが今更タイムマシンやタイムパラドックスという単語の意味について馬鹿丁寧に説明することがなくなったみたいに。
国際スパイアクション物や戦国異世界転生みたいな作品で時折歴史や地理の側面でハイコンテクストな要素が混じってくるのは知っていたが、漫画読みやフィクション消費者としての経験値がとことん要求されるタイプのハイコンテクストさで描かれる漫画があったとはね。
映画だとそういうのがあるのはなんとなく知っていたんだ。
映画を見慣れた人間は行間を読みまくって賞賛できるんだろうけど映画をあまり見ない人間はチンプンカンプンで雰囲気しか分からんだろうと推察できる作品をいくつか見たことが有るから。
漫画というジャンルだと大衆よりなメディアの風習によってそういうマニア向けで素人お断りな表現は丁寧に回避しているものだと思っていたよ。
せいぜいが恋愛漫画で電車の音が声をかき消したら告白だと分かるとか、野球漫画でバッターが自信満々にバットを投げ捨てたらホームランだと分かるとか、それぐらいのレベルに留まっていると思っていた。
漫画だって立派に芸術してていいしマニアの方を向いた作品を出版社が出してても別に構わないわけだ。
まさか逐一何かあると行間を脳内で補完し続けないといけないようなレベルの漫画もあるとはねえ。
漫画舐めてたわ。
頭に浮かんでは消えていく直球の罵詈雑言をぶつけ合うネットの喧嘩スタイルを
そのノリを現実へ持ち込んでしまった結果、ネットの恥は書捨てだったのをメディアに拾われて、
ほんの一時期なにか事件があるたびにインターネットのせいにされ、
(今ならネットは皆つかっているから、〇〇サイトなりアプリのせいになる。)
ニュースやワイドショーの締めに「ディスプレイの前にいるのは同じ血の通った人間、
ということを忘れてはいけない(戒め)」みたいな糞コメントをされ、
それを真に受けてネットと現実を同じ人格として扱うのを当たり前と考える人口が増加し、
ネタにマジレスを真顔で受け止める人が増え、「ネットと現実がリンクする」なんていう
一昔前の小説や映画の出来事が、大したドラマもなく身近な現実になった結果、
決して表には出さずネットに書き捨てるだけだった偏見や差別や不謹慎ネタを現実に持ち込む人や、
20年位前。
当時は緊急連絡網ってのがクラスごとにあって(今でもあるの?)、クラス全員の自宅の電話番号が書かれてるプリントが各家庭の電話機の横にあるのが普通だった。
ある日鍵っ子で留守番してるときに電話がかかってきて、○○の父ですが連絡網をなくしてしまって全員の電話番号を教えてもらえないかみたいなことを言われた。
知ってる名前をだされてその父親というオトナからの電話だということですぐに信用して、内心めんどくさいなーと思いながら、名前と電話番号を馬鹿丁寧に全員分教えてしまった。
そんでたしか数ヶ月か数年後だかにそういうのに気をつけてみたいなことを言われて、そのときにようやくあれはやっちゃいけないことだったんだってぞっとした。
それと同時に騙された自分がすごく情けなく恥ずかしくなった。
騙されたことを結局誰にも言えなかった。
今思い出しても本当にムカつく。
性的ないたずらしかり、子どもって本当に善悪とか常識が足りてないから、ちょっとした不審者情報に大騒ぎしてるのがこの世も末みたいに面白がって騒がれてるけど、実際用心しすぎるに越したことはないと思う。大まじめに。
10人連れて行くのが業務妨害じゃない。
業務妨害になるような利用方法するのが問題なんだぜ?
たった一人でもカウンターから離れないような奴がいて、
その職員が馬鹿丁寧に対応した挙句他の利用者が迷惑をこうむったら
そんな奴をあしらえなかった職員もダメだが
その利用者は十分に業務妨害。
自分の行為が法的に問題がなかろうが
他人に迷惑をかけていると気づいた時点で止める。
それを止めなければ業務妨害。
妨害に気づいてちゃんと止めたのに「こいつのせいで!」って言い続けたら職員が悪い。
って、当たり前の事がわからない・できない奴が多くなったから、何時までもこの問題あげつらってるんだろ。
http://anond.hatelabo.jp/20100718230218の増田だが
ふざけんな。
イメージだけで語んな。
お前こそふざけるな。
何がイメージだ。
一度しか優しくは言わない。
もう俺はお前にちゃんと馬鹿丁寧に言った。
はっきり言う。
お前こそイメージで語ってる嘘つきだ。
付き添いを長くやってたら、絶対に分かる事だ。
一度ならず経験する事だ。
それをイメージだと?
馬鹿じゃないのか。
これをイメージだなんて言うなら、お前が何日も付き添いなんてしてない証明だ。
お前こそ脳内で遊ぶな。
お前の遊びに、医療従事者や、経験者を巻き込んで感情を逆撫でするな。
その腐った目で15年を無駄に過ごして来た証が、今のお前の言葉だ。
腐った目で何を見たってお前の思う通りの物以外は
「イメージ」で、「ふざけるな」って事だ。
てめぇの思う通りだけで世界なんて動いてない。
てめぇの見た物だけが世界じゃない。
何が死ねだ。
おふざけもいい加減にしろ。
一生そんな腐った2ちゃんねらーみたいな事して過ごす気か。
良いか、もう二度と言わない。
お前にコメントも返さない。
軽々しく他人に死ねと書くな。
殺すぞなんて書くな。
お前の馬鹿な言動から、お前は特定できるんだぞ。
特定されて恥ずかしく思うようなおふざけは二度とするな。
http://www.nytimes.com/2010/05/02/opinion/02edmundson.html?scp=2&sq=pink%20floyd&st=cse
「じゃあ、学校を出たら、何をするつもり?」
卒業を間近にしたバーモントの田舎の大学で、少なくとも十数人のクラスメイトに、私はこの質問を聞いてまわった。友人たちの答えに、私はとても安心した。特に何もないさ。羽根をのばすんだ。ぶらぶらするかな。考えたいことが色々ある。まずはゆっくりするよ。1974年だった。誰もが、そういう風に話すのが当たり前の時代だった。
実際のところは、友人たちは本当のことを教えてくれなかったのだ。見方によっては、とんでもない嘘をつかれた、とさえいえるかもしれない。卒業式の日までに、同級生のほとんどは、ロースクールや大学院に進んだり、ニューヨークやサンフランシスコで、クールで貴重なインターンシップをはじめることがわかった。
でも、私の場合は、本当にゆっくりすることにした。5年のあいだ、私はあちらこちらを点々として、何もしなかった。正確には、どうしても必要だったとき以外、できるだけ、何もしなかった。タクシーの運転手、映画フリーク、コロラドの山男、バーモントにあったクレージーなヒッピー学校の教師、映画館の支配人(これは、ほとんど仕事がなかった)、船の乗組員、ディスコのドアマン、そんなことをやっていた。
そのなかでも、ジャージー・シティの音楽プロダクションでやったステージクルーの仕事が、一番思い出深い。職場はルーズベルト・スタジアム、芝生席もいれると6万人を収容する、古い、化け物みたいな箱だった。トラックからアンプを引っぱりだし、ステージに設置する。6時間かそこらしたら、トラックに戻す。これを私は、グレイトフルデッド、アリス・クーパー、オールマン・ブラザーズのライブでくりかえした。クロスビー・スティルズ・ナッシュのステージは、ちょうど、ニクソンが大統領を辞めた日の夜だったのを覚えている。けれども、私にとって、一番思い出深い仕事での一番の思い出は、ピンクフロイドが出演した夜に起きた。
ピンクフロイドは、サウンドに相当のクオリティを求めていた。ステージ上のアンプは、縦にも横にも、周囲を威圧するほど積みあがり、パリ・コミューンのバリケードのようだった。それだけでなく、スタジアムの高い位置3か所にも、ピンクフロイドはアンプを集めて設置するよう要求した。それで、私は午前中ずっと、オンボロスタジアムの階段で、どでかい木製のアンプやら配線機材を運びつづけた。
仕事はもうひとつあった。パラシュートの形をした絹製の白いキャノピーが、ピンクフロイドのステージには必要だった。設置には6時間かかった。私たちが聞いたところでは、キャノピーを使うのははじめてで、ピンク側のスタッフも、どうしたらいいかよくわかっていなかった。設計図らしきものはあったが、あまり役にたたなかった。だが、「アメリカの知恵」をもってして、キャノピーはなんとか屋根の形に膨らんでくれた。「アメリカの知恵」とは、つまり、ロープをあちらこちらにひっぱったり、手当たり次第に結んでみたりした、ということである。
ピンクフロイドのライブは夜10時にはじまった。ところが、私たちが死にそうになりながら運んだアンプからは音が出なかった。たくさんの人がアンプの上に座ったか、蹴ったか、配線を切ったかしたのだろう。アンプのタワーが沈黙をつづけるなか、ピンクは自分たちの仕事をし、観客は公演の終わりでライターに火をつけた。そして、私たちは、3時間かけてアンプをバラして、トラックに戻した。階段上に残ったアンプは、私たちが作業を拒否したので、お互いをいくらか罵ったのち、ピンクのスタッフが回収した。
あらためていうと、ツアースタッフとステージクルーの間には、ほとんどの場合、何らかの対立があったのだ。あるとき、たしかクイーンのライブだったと思うけれど、クイーン側のスタッフ5人と私たちのクルー十数人が殴り合いになった。すると、騒ぎを聞いて駆けつけたセキュリティまで、喧嘩にくわわった。だいたい、バイカーギャングだったり、空手の黒帯だったり、そういう連中だ。ツアースタッフの方はそれなりにがんばったけれど、ついに勝てないとが分かったらしい。ひとりが、シャンパンをケースごと持ってきて、回し飲みをはじめた。それで、みなが酔っぱらい、幸福感にひたった。
ピンク側のツアーマネージャーは、キャノピーをそっと降ろして、きちんとたたみ、元の木の箱に戻すよう求めた。しかし、キャノピーにはヘリウムガスがたっぷり詰まっていたし、さらに栓がどこにあるのか、誰にもわからないことが問題だった。また、キャノピーをステージに固定した際、私たちがあらゆるところを馬鹿丁寧にきっちり結んだおかげで、それをほどこうとしたら、水夫たちの集団だって頭をかかえたに違いない。誰もが疲れていた。酒を飲んだ人間は、使い物にならなくなった。そして、もう朝4時になっていて、家に帰るべき時間だったのだ。
空飛ぶ枕をどうやって片付けるか、みなで作戦を練るうちに1時間が過ぎた。だんだん、大学のゼミのようになってきた。そこに、私たちステージクルーのチーフ、ジムが登場する。ジムは、私たちはジンボーと呼んでいたのだけれど、お人好しのバイキングの親玉のような人で、どんなときも、何があろうとクルーを擁護した。ギターケースを落っことした私を怒鳴りつけるスティービー・ニックスに、エドマンドソンに怒鳴る権利があるのは俺だけだと、大声で抗議してくれたこともある。そして、ピンクフロイド屋根事件のときも、ジンボーは危機的状況で自分がいつも期待されていることをした。つまり、行動を起こしたのだ。
ジンボーはステージのすみに忍びより、ポケットから折りたたみナイフを取り出して、聖なる屋根を地球につなぎとめているロープのひとつを切りはじめた。私たちクルーの3、4人も、同じことにとりかかる。「おい、なにをしてるんだ!」ピンクフロイド側のチーフが叫んだ。「お前らをぶちのめして…」そこまでいってから、かれはジンボーの手にナイフがあること、クルーの数人も同じだと気付いたのだった。2、3分後、私たちはロープを皆断ち切った。
最後の太いロープが切れたとき、大きなため息のような音がした。すぐには何も起きなかった。また少し待ったけれど、何も変わらない。
しかし、キャノピーはついに上昇をはじめた。白くて柔らかい、贅沢な雲のように飛んでいく。そのとき、地平線から太陽が沸きあがり、キャノピーの絹地も、薄く、柔らかな緋色にかがやいた。熊が腹の底から笑うような、ジンボーがいつも通りの笑い声をあげた。私たちも一緒になって大笑いする。ピンクフロイドのスタッフも同じだった。私たちはまるで、終業式を迎えた日の、学校の子どもたちのようだった。私たちは裸のステージから、大西洋の先へ静かに流れてゆく絹の屋根を見つめていた。何人かは手を振った。
「じゃあ、学校を出たら、何をするつもり?」35年が過ぎて、大学の教師になった私は、自分の学生に同じ質問をする。今日の学生たちは、あまり隠し事をしようとはしない。そして、ロースクールにメディカルスクール、ジャーナリズムやビジネスでの学位、中国での研究留学、日本で英語教師をすれば相当のお金になることなど、いろいろと話してくれる。そういう彼らを、世間は肯定するだろう。
そう、私も学生たちにはとても感心している。だがその一方で、心配もしているのだ。かれらは、決心を急ぎすぎてはいないだろうか。もうすこし落ち着いてみたり、ゆっくりすることも、やってみたらどうだろう。私はそう考えずにはいられない。そして、空に消えた白い絹のキャノピーを私は思い出す。まだ今も目の前にあるかのように、私はそれを見ることができる。私は手をあげて、それを指し示したい。学生たちにも、見てもらいたいのだ。