はてなキーワード: 不道徳とは
あなたは、典型的な美大卒のデザイナーなのだろうなと思いました。
いわゆる、自身の作ってきたものや作るのもに自信を持つ職人気質であるように読み取れました。
広告が金儲けの仕組みとして、正々堂々とした道徳的な業界・仕事であると認識されたのは、30年前ぐらいという認識でいます。(これは2020年版の「不道徳な経済学」(早川書房)、訳者あとがきに記されていたことを元にしていますが、自分は実際は40年位前じゃないかって考えてます。理由は90年代において、既に広告屋が不道徳でないという認識が広まっていたという個人的見解に基づく物です。不道徳な経済学の原本がウォルターブロックという方でアメリカでの話をしている点も個人的見解に影響をあたえています。)
それ以前は、「広告は付加価値を生まないから不要である」と考えられていたようです。
つまり、ここで言いたいのは、あなたが考える広告文化とは30年から40年間でやっと道徳的な仕事であると認識されるようになったという経緯を前提にして考えてみると、道徳的な仕事であるという認識が元から浅かったのではないでしょうか。
また、「広告があるから製品がある」(広告→製品)ではなく「製品があるから広告がある」(製品→広告)という根本的なところについてはどうお考えでしょうか。
私は、広告は製品(ないしサービス)の金儲けを手助けするためのものと考えています。
つまり、金儲けをお助けするのが根本にあると考えており、金儲け(ビジネス)なのですから、お金さえ儲かればどうでもいいのです。
元来、広告とはそのような成り立ちがあったと考えます。つまるところ、広告業界とは表面的な変化は時代に沿って変わってきているが、根本的なところは何一つとして変わっていないと考えています。
さてさて、そもそも「文化」とはとても高尚な表現に聞こえますが、よく悪しき文化としてあがる政治的主張を暴力で解決する戦争だって人間の文化です。(戦争は文化で美しい!という思想をもっていましたら、ちょっと伝わらないかもしれないのですが...。)
デザイナーにありがちな、自信の仕事を高尚なものであると考える誤解はほどほどになさった方がよいかと思いまして、コメントさせていただきました。
プッチーニのオペラ《トスカ》の第一幕は、スカルピアが教会で一人トスカへの邪な欲望を歌い上げるなか、聖歌が響き渡り幕が下りる。《テ・デウム》と言われる名シーンだ。
https://www.youtube.com/watch?v=tgWW6o1y9xI
このときスカルピアは「トスカ、お前は俺に神をも忘れさせる」と叫ぶ。これは、神を忘れなければ非道をなしえないという、彼の拭い切れない信仰心の残滓を感じさせる言葉である。オペラ最後で、トスカは「スカルピアよ、神の前で会おう」と言って飛び降りる。トスカと並んで神の前に立ったスカルピアの心中や如何。忘れ去ったはずの神を目前にして、彼の良心は傷んだのだろうか。
職場にキリスト教徒のフィリピン人がいる。こいつが、ちょっとした不正行為を行って、しかもその協力を俺に要求してくるんで困っているのだ。1回数百円程度の不正で、頻度も多いわけではないが、他の同僚にも協力してあげなよ的なプレッシャーをかけられるし、本人も当然のごとく不正の協力を要求してくるので断りづらく、ズルズルとやってしまっている。やってはいるが、不愉快でもやもやしている。その不正を自由にできる立場にありながら自分はやらないのは、それが不正だからだ。信仰心のある人間よりない俺の方が倫理的だというのはおもしろい話ではある。しかし不思議なのは、その不正行為を行っているとき、彼の神はどこにいるのだろうかということ。神の前で恥ずかしくないのだろうか。それとも神が不道徳であるとか盲目であるとかが想定されているのか。ひょっとしたら「数百円、お前は俺に神をも忘れさせる」なのかもしれないが。
すっごく素朴な共感でしかないんだよ、桜を見る会のやつなんて。
もちろん世の中には多くの人が「あれは駄目だ」と思ってる人がいるよ? 問題は「似たようなことなら自分もやってる」って人がもっと多いことなんだよ。
それはすっごく小さなことでいいの。交通費をちょっと水増しするとか、出張ついでに経費ちょろまかすとか、歓送迎会で自分の行きたい店選ぶとか、そういう話よ。「厳密には駄目だけど、まあそれくらいいっか」っていう感覚はかなり広い範囲に理解されるよ。むしろ後押しにすらなってるのでは? 世の中の大多数は馬鹿だから「安倍さんも『やっちゃう』んですね、へへっ」くらいに思ってる可能性すらあるよ。
結局のところ、これも「政治的正しさ」が2010年代に入ってから声高に叫ばれるようになったことのバックラッシュだと思うけどね。正しいことって息苦しいから不道徳に生きたいんだよみんな。はーホントクソ。
色んな人の考えを聞いてみたい。
そうよ?
数千人がね。
逆にこんなのにすら君は勝てないの?
君にいくら払われているんだい?
それが君の現実なんだろ笑
https://twitter.com/kazukichi3110/status/1185511859912237056
そもそも、それが「汚い」という感覚な時点で稼げる経営者からしたら
「お察し」
なんだよね〜
まぁ、そんな人達が多いから稼げる人達は稼いでいってそういう人達を上手く使って経済回しているわけでね
https://twitter.com/kazukichi3110/status/1185514209477480449
金に疎いバカばっかだな笑
一生やってろよ笑
https://twitter.com/kazukichi3110/status/1185528580618375168
ごめん、頭にウジ沸いてるのに君より数十倍良い生活しちゃってるわ、、
なんでなんだろうね、、
https://twitter.com/kazukichi3110/status/1185537197505531905
いや、君ら頭の弱い人々に自慢したいなと思ってさ笑
ロールスもベンツのS63longもあるよ〜
ごめん、何が効いてるのかはよく分からない、、
https://twitter.com/kazukichi3110/status/1185763795613806592
どうすればここまでアレになれるのか、まったく完全にわからない。
嘘でそれを演じようと思っても、無意識に常識とか良識が邪魔をして、ここまで下品にはなれない気がする。
ネトウヨとかツイフェミとか、自分(これを書いている俺)から見て不思議な人種はネットにたくさんいるけど、なんとなく「その人がなぜそうなってしまったか」みたいなのはうっすら想像がつく。
けどこの人。どうすればこうなるんだ。
5ちゃんねるのまとめサイトで痛いやつとしてまとめられそうな文句ばかりじゃないか……高級外車自慢とか……。
ウェブカツとかいうサービスの質とか経営者や技術者としての倫理観とかはハッキリ言ってどうでもいい。
「かずきち」氏というひとりの大人の人間性がここまでねじ曲がってしまったその過程がすごく知りたい。
当人は「ブランディングとしてあえてやっていた」などとうそぶいているけれど、こんなもん、「ウェブカツ」で検索したらそのうちこの人の悪評ばかりがヒットするようになることは目に見えていて、ブランド価値をただ一方的に毀損しかしていないと思う。上場企業だったら株価が下がるくらいのできごとだと思う。
「イキったヤンキーメンタルの成金ヤカラがやってるスクール」というブランドに魅力を感じる層がもしかしたらいるのかもしれないが数は多くないだろうと思う。
前後のツイートにも(私のような善良な小市民の目から見ると)不道徳なものが多いのだけれど、とにかく徹底しているのは「カネを持っているからエライ」というゆがんだ価値観で、わずかな教養があれば少なくとも口に出しただけで軽蔑されるたぐいの言説だとわかるはずなのだけれど。
ホリエモンも独特の放言で物議を醸すことが多いが、あれは自己責任論を少々履き違えて「貧乏なのは全部お前の責任」という極論を言っているだけで、「だからカネを持っている俺のほうがお前より立派な人物である」とまでは言っていない。内心もしかしたら思っているのかもしれないが、少なくとも、それを言わない程度の良識か、口に出すのは間違いだという常識はわきまえている。
「かずきち」氏はそのホリエモンの履き違えをさらに履き違えて、「金持ちの自分が貧乏人を小馬鹿にするのはかっこいいこと」と思っているようにみえる。それをブランディングだと考えているくらいだから、なにかポジティヴな効果が期待できると思っていそうではある。
こんな人間(しかもそれを隠そうともしない人間)ができあがる仕組みが本当に不思議で、ちょっと色んな人の考えを聞いてみたい。
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
NTTの退職エントリに多い本社系やエンジニアの業務でなくもっと最前線のカスタマーと日々関わる営業系の会社に四年ほど勤めて退社しました。
非常に待遇の良い時期から必要なくなった人材や場所に対するNTTの非常に合理的な排除と、なぜか守られる年配社員とのギャップに嫌気がさして転職をしました。ただ誤解がないように言っておくと一般的なモラルのない人は多かったけど、全体的な中の人の人柄は良かったです。モラルがないというのは課長以下の非正規社員に対する権限が過大なため、パワハラやセクハラ、中でも不倫が本当に多かった。退職後に離婚して不倫相手と再婚した上司も1人2人ではなく、不倫は少なくともNTT内部では黙認されている文化でした。
前職を辞めて転職活動期間の場つなぎ的なつもりでNTT系の営業会社に入社、いわゆるコールセンター業務で既存のカスタマーとの対応がメインの職種でした。
約一ヶ月の研修を経て現場に着台すると女の人だらけの職場の為、上司との縦関係の人間関係とは別に誰が力を持っていて、誰と誰が仲が悪いかなど人間関係でかにするべき要素が色々ありました。幸い、最初についた上司がセンター内で力を持っているタイプの上司でいろいろな仕事を教わりましたが、その中にはパワハラ的な指導も多く自分より後に入った2人の後輩はメンタルをやられて休職となりました。(自分は男、上司は女性です)
前職で何も物を売らずにお金だけもらう仕事をしていた為、アクセスラインやサービスを提供して金銭の授受を受ける仕事には当初やりがいを感じており顧客対応のスキルも良好で一年目から全国のセンターでも上位の成績を抑えてインセンティブを大量にもらうことができました。
当時のNは固定回線市場もおおかた開拓し尽くされ、ケーブルテレビやその他固定回線とシェアを取り合っている状態で新規回線の獲得や辞めようとしている人をあの手この手で引き止めることで給与とは別に報酬が発生していました。基本給だけではワープアレベルの契約社員が、このインセンティブをもらうことで年代別の年収平均くらいまではもらうことができました。(基本年収給240万+インセンティブ160-240万)
その中で自分はプレイヤーとして全国でランキングに載る程度の成績をキープし、いろんなホテルでの表彰式や船上パーティーなどにも参加することができました。(2010年代の話です。)
そしてその後、NTTのアクセスライン設備を他社に利用させることで営業は他社に任せて設備だけ維持しておけば金が入る夢のシステムをビジネスデザインの偉い人たちが考え、場所における需要がなくなるとインセンティブは十分の一に縮小されると共にそれまで馬の前に吊るされた人参的に契約社員のモチベーションとなっていた正社員登用もセンターで年に1人程度から全国で2-3人と大幅に縮小してきました。
当時自分はプレイヤーとしては成果を残してチームのマネージメントを契約社員として担当しておりましたが、給与は最盛期の半分程度にもかかわらず、客先に出向き謝罪をしたり法的なリスクのある案件をハンドリング、正社員として入社した社員の指導などを担当していました。
スキル的な意味では非常にタメになった期間だったのですが、いかんせん報酬と仕事が見合っておらず転職を検討し出しました。幸いここまでの仕事で培ったスキルには業界的な需要があり、早々に外資のカスタマーサポートの内定が決まり上司に報告をして退社の運びとなりました。
上記の通り契約社員は正しく雇用の調整弁として扱われ必要な時は持ち上げ、不必要になると変動できる給与を残しておきそちらをバッサリいくのは合理的だなと思いましたが、同時に古くからNの正社員採用をされてほとんどまともな仕事ができず、社内のお手紙を運ぶだけの仕事を毎日している人たちが自分の給料の倍以上もらっている環境はメンタル的にしんどかったです。
契約社員も労働組合に強制加入となって毎月5000円弱の組合費を取られるのですが、組合が役に立ったことは一度もなかったです。(Nの組合は文字通り御用組合で非正規雇用に対して動くことはありませんでした。)
繰り返しになりますがNTTの中の人の人柄はいいのですが、モラルが薄く内部では不道徳が横行しております。不倫やパワハラもそうですが、一般のお客様に対して不要な黒電話の料金を取り続けたり、引っ越しや新設の際に不要なオプションを無責任に山盛り付けたりが平気で行われていました。皆さんも自身の契約しっかり見直して、不思議な内容がないか確認してくださいね。その上でコールセンタに電話する時はできれば冷静に怒らず、契約の見直しを伝えてください。電話に出ているのは不利な待遇の中で働いている契約社員か派遣社員のオペレーターばかりです。
でも、これはいくつかの意味でおかしいと思う。この記事は、多くの人がワクチンを摂取するべきであり、そうしないのは不道徳である、という考えに基づいて書かれている。だが、私にはそれが自明の前提とはどうしても思えない。
そもそも、自分の身体に何を入れ、何を入れないか、決めてよいのは自分だけだ。自分の身体は自分だけのもの。当たり前だろう。これが身体にペニスを挿入してよいかという問題であれば、ほとんどの人がそれを決める権利は自分にしかないと答えるはずなのに、どうして同じ理屈がワクチンでは通用しないのか。
公益のために注射針を刺して弱毒化された抗原を身体に入れろ、なんて、他人に強制してよいこととはどうしても思えない。毒であることが問題なのではない。私はそれがほとんど無害であり極めて低い確率でしか副作用は起こらずおおむね安全であることを知っている。そうではなくて、自分の身体に何を入れるかを他人に指図されるべきではないということだ。
今回はワクチンにすぎないかもしれない。でも、次が行動監視用ナノマシンだったら? 治安の良さは公益だ、やましいところがなければ入れられるはずだ、公益のためのナノマシン接種拒否は不道徳だ。そう言われたらどうする?
自分の身体に何を入れるかを決めてよいのは当人あるいはその親権者だけだ。それを他人に強いるのは不道徳である(もちろん、説得はしてよい。ワクチンの安全性を説き、公衆衛生の重要さを熱弁するのは自由であろう。相手の自由を損なわない範囲においてだが)。
(この立場は、アメリカの反ワクチン運動を紹介しているWIREDの記事でも紹介されていた。私はニセ科学に傾倒した反ワクチンはばっかじゃねーのと思うが、「政府は自分たちの子どもの体内に入るものを強制すべきではない」という主義主張は自由主義者として大いに頷ける)
それでも、そのような自由は公益のために制限されてもよい、という主張もあり得るだろう。では、ジョセフ・ヒース氏の住んでいる国ではどうだか知らないが、我々が住んでいる日本という国においてその理路は成り立つだろうか?
自由を制限し、義務化するのなら、当然その負担は最低限にまで低減されなければならない。だが現実にはどうか。インフルエンザワクチンの接種は自由診療であり、無料でないばかりか保険すら利かない。風疹ワクチンの未接種が話題になったが、ある世代の男性に限っては無料になったとはいえ、多くの人にとってそれは保険外診療として打つものである。
公益のために義務で打てというなら、その負担は最低限のものであるべきだ。高い診療費を払ってわざわざ病院の診療時間に打ちに行く手間とカネを惜しんでいったい何が悪いのか。保険診療にすらなっていない現状で接種は道徳的義務なんてちゃんちゃらおかしい。
公益のために自由を踏み躙るなら、当然それによって被る不利益は最低限度であるべきだろう。高い代償を払ってこれこれのことをしろ、そうしなければお前は反社会的な行動をしていることになるのだ、道徳をわきまえた市民ならばこのくらいの代償は払えるはずだ、などと恫喝してくる国家や社会は、正直かなり胡散臭い。
それでも、ワクチン接種費用程度ならたいした実害はないじゃないか、という反論があるかもしれない。なるほど、もしもあなたが貧困層でなければ、確かにちょっと痛い出費程度で済むだろう。だが、問題はその「義務」はどこまで拡大されるのかということだ。今あなたが遵うべきだと言っているその「公益のための義務」が、いつの間にか「兵役」になっていなければよいのだが。
そして我々が住むこの日本国は、経済的自由主義の名の下に医療費を着々と削っている。小泉純一郎以来この国の福祉は自由主義の旗の下で掘り崩され、削られてきた。このような状況で「道徳的な義務」などというものが持ち出されることには警戒した方がよい。国家が市民の生活に対して負う義務を年々縮小しながら、市民に対して「公益」を根拠に負担を迫ってくる。冗談ではない。なぜもらえるかどうかわからない年金を払い続ける人びとが、そんな「公益」とやらを慮って差し上げねばならないのか?
経済的自由主義で公的サービスを縮小するのなら、民間の自由も拡大させなければ筋が通るまい。もちろんそこにはワクチンを接種しない自由も含まれる。逆に民間の自由にある程度制限を加えようとするならば、失われた自由に見合うだけの大きな政府を実現してもらわねば困る。
感染症にかかった人間が不用意に出歩いてウイルスが拡散され、流行が広がってしまう。なるほど悲劇だ。だがそういう悲劇が起こる度に、公衆衛生を錦の御旗のごとく掲げる人びとは、大元の罹患者に向かってバイオテロだのと心ない言葉を浴びせかける。彼もしくは彼女もまた、病気の犠牲者であることを忘れ去って。
たとえば敵国の社会を壊滅させることを狙ってウイルスや炭疽菌を散布するような意図を持ったテロリストは、道徳的な非難の対象となって当然だろう。だが、不幸にも病気にかかってしまった状態で不用意に歩き回ったという、ちょっと迂闊だった程度の人が、患者が、そこまで非難の対象とされるのは絶対に間違っていると考える。それは犠牲者非難とかいうやつじゃないのか。犠牲者非難を許してはいけない。
病気は人間の意志を超えたところに存在し、運やら体質やらの本人にはどうしようもない状況に付け込んで罹患させる。そのような感染症の患者を、運悪く感染し不用意な行動を取ってしまったという理由で、バイオテロだの加害者だのと責めるのは道徳的に間違っている。そして、道徳的に間違っている主張をしている人間の言うことに従わない人間がいることは当然である。
少なくとも私は、このような言説を振りまく一部の反・反ワクチン派の醜態を見て、風疹ワクチンは絶対に打たないと心に決めた。政策の失敗によってワクチン接種の機会を失っただけの、なんの責任もない特定世代の人びとを加害者呼ばわりする連中に腹が立ったからだ。風疹の流行をめぐって吹き荒れた犠牲者非難の言説は本当に醜悪だった。あれを見てしまった以上、風疹ワクチン接種に加担することはできない。
以上、反ワクチンが必ずしも道徳的に間違っているとはいえず、むしろワクチン接種の強制こそが道義に反していることを示した。自由主義者として、そして犠牲者非難を憎む者として、私は反ワクチン主義にも聞くべき理があると主張する。なるほど彼らは科学的にデタラメなことを信じ込んでいるのかもしれない。だがそれは、彼らにワクチン接種を強要する側の道義的な正しさを裏付けるものではないのだ。むしろその強要こそが、反ワクチン論者に三分の理を与えているのである。
あっ反知性主義者だ
こういうトラバが速攻でつくわけだろ? こういう言説を(たとえ自分宛てのものじゃなくても)見る度に、絶対にワクチンは打たないぞという決意を固めるよね。
権利と他の権利は常に対立するもので100%の正義は存在しないところではあるが、我々は武装する権利や他者を傷つける権利を行使することはできない。
他人を傷つける権利を行使できないというなら、身体に注射針を刺すことを強要することはできないという結論になるはずでは。医者の行為も傷害罪の構成要件に該当することはご存知ですよね? 正当業務行為だから違法性が阻却されるだけで。そして医者にかかる患者は医療を受けることに同意しているわけですが、ワクチン接種を拒否する人たちの身体にワクチンを打つことを強要しようとしたら当然彼ら彼女らの身体への侵害となります。他人を傷つける権利を行使してはいけないというならまずワクチン接種の強要をやめるべきでしょう。
そもそも感染症を他者にうつしてしまうことは基本的に他者への加害ではないわけで。それを加害と呼ぶのなら人より感染症への抵抗力が弱く生まれついた人間としては全力で抵抗せざるを得ないですね。そのような言説を振りまく人間の言うことに従わないという消極的抵抗を今後も続けていきたいと思います。基本的にめんどくさがりなのでデモとかも意義は認めるものの参加したことはないのですが、これはコストのかからない良い抵抗方法だと思うので加害者呼ばわりバイオテロ呼ばわりに憤る人たちにオススメです。