2020-01-15

信仰ある人間不正行為を行うとき、神はどこにいるのだろうか

プッチーニオペラトスカ》の第一幕は、スカルピア教会で一人トスカへの邪な欲望を歌い上げるなか、聖歌が響き渡り幕が下りる。《テ・デウム》と言われる名シーンだ。

https://www.youtube.com/watch?v=tgWW6o1y9xI

このときスカルピアは「トスカ、お前は俺に神をも忘れさせる」と叫ぶ。これは、神を忘れなければ非道をなしえないという、彼の拭い切れない信仰心残滓を感じさせる言葉であるオペラ最後で、トスカは「スカルピアよ、神の前で会おう」と言って飛び降りる。トスカと並んで神の前に立ったスカルピア心中や如何。忘れ去ったはずの神を目前にして、彼の良心は傷んだのだろうか。

職場キリスト教徒フィリピン人がいる。こいつが、ちょっとした不正行為を行って、しかもその協力を俺に要求してくるんで困っているのだ。1回数百円程度の不正で、頻度も多いわけではないが、他の同僚にも協力してあげなよ的なプレッシャーをかけられるし、本人も当然のごとく不正の協力を要求してくるので断りづらく、ズルズルとやってしまっている。やってはいるが、不愉快もやもやしている。その不正自由にできる立場にありながら自分はやらないのは、それが不正からだ。信仰心のある人間よりない俺の方が倫理的だというのはおもしろい話ではある。しか不思議なのは、その不正行為を行っているとき、彼の神はどこにいるのだろうかということ。神の前で恥ずかしくないのだろうか。それとも神が不道徳であるとか盲目であるとかが想定されているのか。ひょっとしたら「数百円、お前は俺に神をも忘れさせる」なのかもしれないが。

  • 不真面目に聞こえるかもしれないけれど、俺らの若いころには 自由の神様という概念があった。ファラリスとファリス。 悪いことにも神様というか、守護する担当はいる。それが悪いこ...

  • 数百円の不正が本当に数百円か?本当は数万円なのではないか?金額が大きく異なるならそれは大きな不正だろうと日本人としてはおもうがあくまでも個人的におもうぐらいで国民感情...

    • 数万円の不正が金額の大きな不正ではなく、 数万円の不正を数百円で受けるという金額をごまかすという行為が大きな不正だろう

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