はてなキーワード: パターナリズムとは
最初に断っておくとこれはどちらの陣営を揶揄・批判・擁護するものではありません。
例の団体に限らず左派は裁判やら記者会見やらネット工作(笑)やらでブルージャパンしてキャンセルカルチャーを批判対象に対して行っていた。
実際にそれは有効で、近年でも左派・フェミ界隈に対し批判的な言説を行っていた人物がお手紙でその地位から引きずり降ろされ
社会的地位と収入を奪われ弱者男性へと転落していった事は記憶に新しい。
実際に必殺・キャンセルカルチャーを繰り出す前にも、お得意のネトウヨ差別者レッテル貼りの連呼で
批判者を「こいつは社会正義に反しているからこいつの言動には価値が無い」という流れに持っていき、黙らせていた例は枚挙に暇がない。
もちろん一企業などの「そもそも反撃出来ない、し辛い」対象を選んで攻撃、悪く言えば殴りやすい相手を選んで殴っていたのが、今までの左派リベラルのやり方だ。
勿論批判者である左派は「正義の人」なので、キャンセルカルチャーに対する批判はアンチの悪質な嫌がらせとして一蹴していた。
そのやり方を多方面にし続け、ヘイトと恨みを青田買いした結果の先に、暇空という「キャンセルされる社会的地位も名誉も無いが資金力(戦闘力)がある」
本来であれば左派にいそうな無敵の人(社会的に)を産んでしまった。
彼は元より左派が自称している「正義の人、存在」でも無いので、彼をいくら悪魔化した所であまり効果が無く、逆に批判する言動の汚さが中立的な立場からも嫌厭される始末だ。
(恐らく氏の発信力が失墜するには、ここでは書けないレベルの「痛い腹」や所謂下のスキャンダルが無いといけないが、今の所は見えて来ていない)
目的はともかく手段は正しい彼の手法は、言ってしまえば今まで左派リベラルがやっていた「合法的な嫌がらせ」をパターナリズムして模倣している様にも思える。
虚実ないまぜの問題をぶちあげ世間へアジテーターしていく様は、一昔前の「ヘイトスピーチへのカウンター」活動を見ているかの様だった。
しかし暇空は左派リベラル的には「男でオタク」という倒すべき悪であり、世間からも同情されにくい属性を持っている。
対する左派リベラルは「女性」を押し出し、女性の弱者性を盾にして少々の批判や矛盾をさばいてきた。
「これは女性差別です!」というヤツだ。実質社会的強者である女性が使える最強の盾である。
恐らくColabo側には女性の盾がある限り、世間からの同情も買いやすく完全勝利とは到底いかないだろう。
だがしかし、左派に批判的な者が左派の手法を模倣して暇空という無敵の人を排出した様に、今後はアンチ左派・フェミ界隈に対するカウンターとしての存在が生まれる日も遠くないであろう。
即ち、左派やフェミニズム言論に否定的で、キャンセルされる社会的立場も無く、拡散力が高く自前で資金を調達出来る能力のある「若い女性」である。
(個人的にはV界隈に候補者がいるのでは無いかと思う、何故なら彼女らの収入と社会的地位は所謂オタク文化の興亡と直結するからだ)
勿論彼女らのバックには「男」がいるのだが、女性を全面に押し出し最強の女性の盾を使うというのは左派の常套手段である。
左派アンチも馬鹿では無いので、この手法を模倣する日は遠くない。
1,2に関してはほぼ同義だが、つまり現在のマスメディアは報道機関ではなく(会社はもちろん政府や警察の)広報機関に成り下がっており、記者の考えを世に示すということができなくなっている。これは記者や権力者が保身や個人的な利益の確保に走り、中立性を笠に着て意見を述べることを避けてきた(無記名の記事や「ネットではこのような意見も出ている」というような言い回しがまさにこれである)ことに起因する。なので当然、都や共産党を敵に回すような記事はもし正義感のある記者や問題点に気づくことのできる記者がまだ存在したとしても書くことができない。
日本において支援はパターナリズムに陥りやすく、"してやっている"という構図にすることで権威を帯びたり利益を得たりすることに利用され、それはまさに差別であり搾取構造を形成する。未だに女子アナなどというものを売り物にしているマスメディアが男尊女卑企業なのは疑いようがなく、そのような会社は弱者女性に支援"してやっている"団体とは差別の温存という目的を共有しているので、都合の悪い記事を書くことがないというのが3である。
赤ちゃんが発音しやすい発音としてpの音が存在するのに、幼児語以外の日本語でパ行を用いる語句は少ない
罰符とか法被とか日本とか確かにパ行が使われた日本語はあるけれど、明らかに少ない
何故だろうと思いぐぐって見ると、平安時代には「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」と発音されていたらしい
「母(はは)」は「パパ」と読んだということか!
しかしそうなると次の疑問はp→hに音が変化するのは日本語以外でも発生するのかということ
どうやらこの変化は唇音退化と呼ぶらしい
wikipediaの唇音退化のページを見てみると英語……というかインド・ヨーロッパ語でも同様に発生しているみたいだ(←英語の場合そのような変化の規則をグリムの法則というらしい)
photoとか
これがfatherに変化したってわけね
でも日本語ではほとんどパ行の音は消えてしまって、英語だと生き残りが沢山いるってのも不思議だ
っていうかパトリオットとかパトロンとかパターナリズムの語源ってpaterか!
頭の中で繋がった
SNS上での論争では丁寧に議論を積み重ねて結論を得るのは難しいので、局地戦を仕掛けて勝利を積み重ね、相手陣営が如何に非論理的で頭が悪く、自分たちがその割りを食った被害者かを第三者に主張することが有効と言える。具体的な方法としては、浮いた駒(用意に破綻する主張をしてしまう無能な敵陣営)を晒し上げてTogetter等にまとめればそれを見た大衆は「○○派って変な主張ばかりだし、馬鹿にしてもいい存在なんだな」と思ってくれる。まあ所謂セレクティブエネミーというやつである。
暇空氏以前の表自と規制派の戦いを振り返ると、これまでは表自側が優勢だったという印象は拭えない。これは表現規制派が問題とする萌え表現について問題ではなく受忍限度内であるとの判断をする人が若者を中心に多い[1]にも関わらず、表現規制を要求する際の根拠や基準を明確には示せない(少なくとも聴衆を納得させられる状況ではない※)こと。またこれまで性的な被害を受けてきた被害者であるがゆえの強い言葉での否定が晒し上げられてしまった際にパターナリズムや男性嫌悪に基づいて規制をしようとする人達という印象が先行してしまったのではないかと考える。実際に日経新聞の月曜日のたわわ広告や大阪駅の広告では規制派側の要求は通らず、広告事業者側も客ではない規制派のクレームは社内基準等を盾にあしらう、という対応が(少なくとも商業広告では)定着しつつあるように思える。またそもそも問題であると感じた萌え絵表現をアドホックに叩くという戦術は、中立であった少なくないその作品のファンが根こそぎ相手陣営につきかねない危険な方法だったように思える。
前置きが長くなったが、これらを踏まえた上で暇空氏は現在表自側の浮いた駒になりつつある。暇空氏が現在戦っている土俵は表現の自由ではなく仁籐氏の本業であるColaboのアウトリーチ活動であり、表現規制に反対する立場の人でも仁籐氏の本業の活動については肯定的な人も多い。暇空氏は生活保護ビジネス陰謀論と会計の杜撰さを武器に戦いを挑んだが、陰謀論は返り討ちにされ、会計だけではColaboを潰すには足りない。また会計の問題についても意図的な不正で大金をせしめていたというよりは単に杜撰だったという印象があり、仮に「東京都と相談の上、今後は適切な会計処理を心がけます、それはそれとして暇空氏の誹謗中傷は許せません」となった場合にどちらに理があるのかは明らかである。また暇空氏自身だけであれば良いものの暇空氏は過激なファンネルを抱えており、彼らが誹謗中傷を行ってまとめて浮いた駒として負けてしまうことは世間への印象として非常にリスクが高い。これに関連して、暇空氏と同じく表自側のインフルエンサーである青識氏はColaboへの誹謗中傷をやめるよう注意喚起をしている。これはColabo憎しで本業に影響を与えた輩がまとめて敗北する事を危惧していると考えられ、青識氏の行いはあまり好きではないがネット上での喧嘩のやり方については流石にプロであると感心した。
Colaboの本業を叩きに行く暇空氏の戦いはほとんどギャンブルであり、今後の展開によっては大敗する可能性がある。また表現の自由の枠組みの中で戦っていれば有利であった表自にとって戦線を拡大するギャンブルを犯す意味は薄い。暇空氏はすでに暴走しており止めようがないが、良識ある表自としては一度暇空氏とその過激なフォロワーに肩入れすることはせずに推移を見守るべきと考える。
※自分の意見としては規制の基準は必ずしも規制派が示す物ではなく関係者の合意によって双方で作り上げるものとの認識なので、規制派が皆が納得する基準を示せないからといって即座に主張が無効とはならないと考える。一方で規制派も表自に対して基準を検討するためのテーブルに着けとの方向性を示せず、自身らの暗黙的な基準を押し付けたのはパターナリズムとの批判は免れないのではないと考える。
[1] JR大阪駅「性的広告」に見る日本で炎上が続く真因 https://toyokeizai.net/articles/-/636895?display=b
リベラル・フェミニズムは「人は生まれながらに自由」「男女は同じ人権を持っている」「互いの権利を害さないよう法律や条例があるしその調整もする」という方針で、はてなー的にはおそらく異論があんまないタイプのフェミニズム。
ポストモダン・フェミニズムは「ジェンダー(社会的性別)は許せないからそれを再生産しそうなあらゆる物は批判する」「法律や条例では快適な社会には足りないのでアップデートした倫理や規範で更に強い制約を設ける」「弱者の意見が常に正しいので女性の言うことに従わなくてはならない」という、社会学者とかジェンダー論とかを大学で専攻した人が染まるタイプの奴。
どっちも一応フェミニズムだし、後者の方が近代の議論だから余計タチが悪いんだけど、どちらも学問を名乗っていて社会運動の側面もある。社会的性別を徹底的に排除した社会というのがどうあるべきか(目指すべきか?)などは考えてみる価値はあると思う。
後者の方はその理屈の振り回し方が活動家や宗教家に便利過ぎたという致命的欠点があるせいで、例えばミサンドリーをこじらせただけの人が萌え絵を封殺するための棍棒としてフェミニズムを使う。
あと矯風会の「女の権利を制限して肌の露出も娼婦も許さん」みたいなパターナリズムゴリゴリな思想も倫理や規範みたいな顔をしてフェミニズムを振り回す。もちろんリベラルとは真逆なのでこいつらをリベラルと呼んではいけない。
ジェンダー解体の観点から萌え絵批判をする場合、社会にある性差を再生産しそうなあらゆる物(シャネルの広告でも男性アイドルでも良いけど)もすべて否定しないと一貫性が無いし、棍棒として振り回す奴らは自分に都合が良い部分だけしか勉強してないからちゃんとポストモダン・フェミニズムを勉強した人からすらも馬鹿にされる。
アップデートした倫理なんて物は学問の世界ですら答えは出ていないのに、宗教家は適当に都合が良い部分だけつまみ食いして自分が正しいと言い出すので矯風会的にはかなり使い勝手が良いんだろうなポストモダン・フェミニズム。
そもそも学問ってのは「誰の口から出ようが正しい物が正しい」っていう再現性こそが要なのに、ポストモダン・フェミニズムは「弱者が正しい」と言い出したから弱者以外が何を言っても間違いとしてしまった結果、学問ですらなくなってしまって袋小路に迷い込んで失敗した学問なんだけど、そこを反人権の全体主義者やミサンドリズムに目をつけられて乗っ取られたから活動家や宗教家が便利にフェミニズムを名乗ってる。
俺は他人の思想や市場の経済活動を法律やら倫理やらで制御しようという考えがそもそも間違いだと思うので、規範を押し付ける事で他人の思想を制御しようとしてくる奴らは残らずクソだと思ってるし、絵を焼く奴らも服装を押し付ける奴らも反人権な巨悪だと思う。
でもフェミニズムって名乗って活動してるからこの辺の経緯と実体を知らない人から敵視されずに済んでるんだと思う、ガン細胞みたいなやつだ。
その通り
被害者のいない2次元の絵にすぎんものすら危険視してそれでもって特定の人間を否定し愚弄し制裁しようという態度は
突き詰めれば共産党のような強権的な思想統制を敷く体制への道をボトムアップで作りかねない、自由主義国としては警戒すべき草の根パターナリズムであるから
半裸の少女絵を町中で見たいわけではないが、そういうのが掲示されてたとしても各個人でそれぞれの価値観に応じた受容やスルーで「ああいうのが好きな人もいるよね」程度で流せるよう学習していかなければならないわけで
弾圧していくことでそういう世の中の清濁を吟味する能力のない白痴の温室栽培人間ばかりになっていくことを助長してしまう
全員が賢くあろうとしなければ維持できない民主主義社会にとって体制の崩壊を招く危険思想だよ過剰な表現の取締りというのはね
この手のパターナリズム拡大の根源には他人は愚かであるに違いないという傲慢さがあるわけで、そういう人々を利することがまず健全な社会形成の障害なわけ
例えば猫の写真が可愛いけしからんっていう感覚と、二次元美少女の露出衣装(二次元の世界では普通)がけしからんっていうノリは、ほぼ同じ。
40代以上の人間にはその感覚を会得する機会が多分なかっただろうなとは思う。
だから二次元美少女のあり方、立ち振舞いや生き様を、現実の青少年の延長と捉えるのは強烈に違和感がある。
それこそ銃で殺し合うFPSゲームのプレイを国民に許しているのは狂気の沙汰であり禁ずべきみたいなのと同じ。
娯楽文化のお決まりがある中の架空の世界観と、現実の区別がついてない。ちゃんと区別をつけられる人間の理性をないものとしてる。
この表現を受け取る人にはそんな賢さはないだろうと、現実に悪影響が出る程度の知能しかないだろうと、馬鹿にしてるんだね。
そういう見下し由来の恐怖に支配されてパターナリズムを振りかざす流れってのはこういう所から出てきて、甘く見てると韓国の保健福祉部とか中国の共産党みたいに「行き過ぎでは?」って域まで容易にエスカレートして干渉してくる。
歴史的に革命をもたらす者って本人は猛反発にあってボロボロに朽ち果てていくけど死後結果的に本人の目指した時代がやってきたりするじゃないですか。
それまでの価値観だと異常者でしかなかった「家庭的にも社会的にも何も成していない男」が自由恋愛と格差社会の時代には普通に現れることを身をもって証明してくれた人たち。
特に当時オタクの持ち物だったインターネットをガッツリ弱者男性マインドに寄せていったのは良くて、これで下の世代がかなり"教育"された。
おかげで今は「適当に生涯独身で生きます」と宣言しても表面上は「ま、いいんじゃない?」と返すのが正しい世の中になったし本心からそう思う人も多い。
氷河期弱者男性のおかげで今の俺たちがあるといっても過言…いや過言か。でもそこそこ貢献してくれたと思う。
ただ、そうやって彼らが(部分的に)作り上げた時代に…彼ら自身はいまいち適応できていないのが残念なところだ。
まず本人らの価値観が更新されていないからいまだに妻子持ちの年収800万~年齢的には1200万あたりに「普通」のラインを置いているフシがあり妙に要求が高い。
しかもパターナリズムが抜けていない場合が多くて影響を与えたはずの下の世代ともやたらと衝突を起こす。
なんといってもずっと針の筵だったから性根が腐りきってしまっているのが致命的で、もう属性がどうとかではなく普通に付き合いたくない人間になってしまった。
最初の話になぞらえると今は氷河期弱者男性にとって死後の世界、腐りながら彷徨う姿はゾンビのようなものだから、せめて速やかに成仏してほしいものだ。
去年、「日本語の原郷」についての論文(Robbeets et al. 2021)が話題になった。増田は専門外の素人ながら疑問を持ったのでツッコミを入れたんだけど(anond:20211121124146)、今年の6月に入って専門家集団から「あの論文は取り下げろ」という反論論文が出ていた(Tian et al. 2022)。といっても、プレプリントサーバのbioRxivに置いてあるだけで、学術誌に掲載されたわけではないんだけど、まあいずれどこかには載るよね多分。
そういうわけで、反論論文の内容を(素人なりに)紹介していくよ!
ふええ……知らない人ばっかりだよぉ……
22人の共同著者による論文だけど、その多くは中国人研究者。ほかは数人のヨーロッパ人。中国人研究者については全然わからない。漢字で書かれれば一人か二人は名前を聞いたことがある人がいるかもしれないけど、ラテン文字で書かれているので誰が誰やらさっぱりなんだよな……
ヨーロッパ人研究者のうち、ラッセル・グレイ氏は聞いたことがある。20年くらい前に『ネイチャー』に印欧語族の起源に関するレター載せてた人だ(Gray and Atkinson 2003)。ホセ・アロンソ・デ・ラ・フエンテ氏は以前ロベーツ氏の著書に辛辣な書評書いてた人で、去年の増田でも引用した。
そしてトマ・ペラール氏は、日本では有名な研究者だ。彼は宮古島の北4キロに浮かぶ人口数十人の離島大神島の方言について博士論文を書き、それが「母音あるいは声帯を震わせて出される音を含まない単語がある」という世界でも珍しい特徴を持った言語であることを明らかにした(Pellard 2009: 80–85;ペラール 2011: 28–29)。ペラール氏は母語のフランス語だけでなく英語や日本語でも論文や共著を発表していて(最近だとペラール 2021とか)、琉球諸語の言語復興についても発言しているので(ペラール 2013; 2015)、琉球諸語に関心を持って調べたことがあれば一度は名前を聞いたことがあるはずの人物だろう。
要するにこの反論論文には、そのへんの日本人よりはるかに日本語に詳しい研究者が参加しているってこと。
反論論文は、ロベーツ論文で挙げられている同根語(cognate words)が少なすぎると指摘する。
同根語というのは、「起源を同じくする単語」のことだ。ある言語から分かれた娘言語たちは、いずれも共通した同根語を(二次的に失ったのでなければ)持っているはずだ、というのが比較言語学の基本的な考え方だ(生物学でいう原始形質/祖先形質にあたる……と思う。多分)。もちろん、偶然の一致とか、言語の場合は借用語とかがあるので、言語学的な検討を行って「これは祖語から受け継がれた同根語である」というのを確定させて、それをもとに言語の系統関係を判断していく。
たとえば印欧語族だと、次のような対応関係が見いだせる(例はウィキペディアの「印欧語彙」のページから持ってきた)(*がはてな記法の一部と認識されちゃうっぽいので*で代用)。
- | 印欧祖語 | 英語 | ラテン語 | サンスクリット語 | トハラ語 |
父 | *pH₂tér- | father | pater | pitṛ́ | pācar |
2 | *dwóH₁ | two | duo | dvā́ | wu |
足 | *ped- | foot | pēs | pā́d- | pe |
馬 | *ék̂wos | 古英語eoh | equus | áśva- | yuk |
複数の語派(語族の下位区分)にわたって対応する語彙が存在することがわかると思う。これらの同根語が存在することで、「英語とサンスクリット語は親戚なんだなぁ」というのがわかるわけだ(お墓に卒塔婆って置いてあるじゃん。あれに書いてあるのがサンスクリット語)(足で操作する機構を「ペダル」といったり歩行者デッキを「ペデストリアンデッキ」といったりするのは、英語のfootに対応するラテン語pēsからの派生語なんだよね)(「父権主義」が「パターナリズム」になるのも、英語fatherに対応するラテン語がpaterだから。これがポルトガル語でpadreになり、そこから日本語に入って「ばてれん」になるわけですよ)。
ついでに日琉語族の表も示しておく(Vovin 2017)。基礎語彙において規則的に音韻が対応しているのは、これらの一致が偶然ではなく日本語と沖縄語が親戚であることの動かぬ証拠だ。
- | 標準語 | 沖縄語(首里) |
これ | kore | kuri |
鳥 | tori | tui |
米 | kome | kumi |
場所 | tokoro | tukuru |
しかしロベーツ論文は、ひとつ以上の語族でみられる同根語が317、2つ以上の語族でみられる同根語がわずか50、そして5つの語族で共有されている同根語はたったの2つに過ぎないという(Tian et al. 2022: 2)。思い出してほしいんだけど、ロベーツ論文はテュルク・モンゴル・ツングース・朝鮮・日琉の計5語族が同一の起源を持つと主張しているのね。なのに5語族で共有されてる同根語はたったの2ってどういうこと? って話になるでしょ。全然「トランスユーラシア語族」の証拠になってないじゃん。
っていうか、その50個の同根語リストの中には、ロベーツ氏自身が「これは借用語だよ☆」って書いてる単語が入ってるんだってさ。借用語は除くというのが比較言語学の基本なのに(借用語だと気づかずにリストアップしたならまだしも)借用語だとわかった上でリストアップするのヤバくない? そんなこと言ったら日本語が英語の親戚になっちゃうよ? 大丈夫?
反論論文の著者たちはこれに激おこぷんぷん丸になっていて、ロベーツ論文の「著者たちは彼ら自身の歴史的言語比較の原則を無視し、証拠を彼らの必要にあわせて歪曲している」(Tian et al. 2022: 3)とまで断言している。そりゃ、借用語混じりのたった数十の同根語で「トランスユーラシア語族は、ありまぁす!」って言われたらそう言いたくもなるわな。
遺伝学的にも、ロベーツらの論文は「不当な仮定(unjustified assumption)と、移民についてのありえそうな他の仮説を排除した選択的モデリング」に基づいているとバッサリ。考古学的証拠も「弱い」と切り捨てている。このへんは遺伝学や考古学に詳しいはてなーに解説をお願いしたいところ。
ロベーツ論文の結果を再現しようという我々の試みは[言語・遺伝・考古の]3つすべての面で重要な不一致をみた。さらにいえば、ロベーツ論文はこれら3分野の研究成果を統合するために「三角測量」を用いたと主張するが、その「三角測量」とやらの手法を定義も記述もしていない。したがって、彼らの手法に従って3つの分野に関する訂正を組み合わせることも不可能だ。つまるところ、我々が行った3つのデータセットすべての再検討は、ロベーツ論文の主張を完全に崩壊させた。トランスユーラシア仮説は未実証である。私たちはこの論文を取り下げるよう謹んで勧告する(Tian et al. 2022: 7)。
要するにアルタイ語族2.0は失敗したってことっすね。ロベーツ氏は「民族主義的な議題を持つ人々にとっては、自分の言語と文化の起源が国境の向こうにあるということは不快な真実だが、すべての言語と文化、人間は混じりあっている」って言ってたらしいけど、まずはご自分の仮説がボロボロだという不快な真実に向き合ってほしい。
こんなガバガバ論文を載っけちゃった『Nature』については、まあ……仕方ないところもあるのかな? ちょっとでも言語の系統とかに関心を持っている人なら「これアルタイ語族2.0じゃん」と気づける内容だけど、理系の雑誌の編集者にその目利きを求めるのも酷かな……査読者選ぼうにも誰がこの分野の権威かすらわからんだろうからな……ただし『トランスユーラシア語族ガイドブック』なんてものをホイホイ出版したオックスフォード大学出版会テメーはダメだ。お前んとこは人文系の研究書いっぱい出してるんだからアルタイ語族2.0くらい見抜けるだろうが!
なお、ペラール氏のツイッター(@ThomasPellard)を見たら「そもそも論証の基盤になってる語彙の出典が書いてないやんけ。これスタロスチンが作ったデータベースからのコピペじゃね? っていうかいくつかの言語が対応表に載ってないから同根語を検討できないんだけど?」という趣旨のツッコミをしていた(https://twitter.com/ThomasPellard/status/1536288665936306176)。あっ……(察し)
そろそろ凱旋門賞ですが、タイトルホルダーくん楽しみですね。天皇賞(春)と宝塚記念の圧勝劇(+お姉ちゃん)ですっかりファンになりました。ロンシャンでも逃げ切ってほしいですね。ただ背負ってる期待が大きすぎるドウデュースくんにも勝ってほしい……武豊を凱旋門賞に勝たせるために生まれてきた馬になったら胸熱すぎるでしょ……
あと先日のセントウルステークスは感動で泣きそうになりました。桜花賞のころから推してたので……(ソングラインちゃんも安田記念戴冠おめでとう。BCマイル頑張れ!)。スプリンターズステークスで今度こそ待望のG1制覇を成し遂げてほしいですね……
ユキノビジンは! 引けませんでした!(すり抜けで夏服メジロドーベルとサクラチヨノオーが来たのでまあ良し)
これ見落としてましたわ。教えてくれて感謝。こちらの方がわかりやすいのでみんなペラール氏の解説動画を見てクレメンス。
博士号って持ってないからわからないんですけど食べられるんですか? ご飯粒よりおいしいんですか?
ここでもいくつか紹介されているようにトマ・ペラール氏は日本語でもいろいろ書いているしTwitterやAcademia.eduなどでも積極的に情報や研究を公開していて我々素人にとってはとてもありがたいです
ペラール、ヴォヴィン、ローレンスの3氏は色々academia.eduに上げてくれてて助かりますよね。ところで素人とはいったい……うごごご。
有り難い要約だけど、最後の「アルタイ語族2.0」だから胡散臭い、という部分はやや迂闊かと。当該論文はそうでなさそう、というだけで真に画期的な論文によりアルタイ語族が復権することは可能性としてはあるよね
もちろんそれはそうです。ちゃんとした比較言語学的な手法で「アルタイ語族」の存在が実証できるのならそれは歓迎すべきことで、その可能性は残されています。ただ、これまで数百年にわたって研究が続けられてきて熱心な擁護者も大勢いるのにまだ確固たる同系の証拠が出てきてない、というのは相当に重い事実ですよね……。ロベーツ氏は「民族主義的な議題を持つ人々」のことを揶揄してますけど、日琉語族の分類というのはまさにその「自分たちの言語はどこから来たのか」というルーツ探しの情熱に取り憑かれた人たちがいっぱい研究して、それでもなお結論が出ていないテーマなわけで(cf. 日本語の起源 - Wikipedia)。
増田はドシロートなんでなーんも独自の見解は持ってないですが、古代ロマン的な観点からはanond:20211121124146でも言及した大陸倭語仮説が面白そう(「大陸倭語」の存在はまだ定説にはなってないことに注意)。島嶼倭語(仮に「大陸倭語」の存在が実証されない場合は日琉語)のUrheimatは五十嵐氏の指摘に沿えば近畿地方のあたり(多分四国ではない)。日琉語族が列島と半島にまたがって分布していて、そのうち大陸倭語が南進してきた朝鮮語族に同化されたと考えると古代の日本と朝鮮半島との関わりに色々納得がいく(繰り返すように素人が古代ロマンといくつかの論文に基づいて妄想したものです)。では仮に対馬海峡をまたいだ日琉語族の存在が実証されたとして、そのUrheimatは……どこでしょうね? なんもわからん。
あ、トラバでやたらゲノム研究のURL貼ってる人は、(もし同一人物なら)去年の議論で血統と言語系統を混同したり(anond:20211121201022)、論文や増田の内容を理解できてなかったりする(anond:20211121224311)ような人なので、マトモに相手する価値はないっすよ。一応ご忠告。
記者座談会 統一教会と自民の関係にメスを 反共右派として育てた為政者の罪 | 長周新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/24165
岡良様 on Twitter: "長周新聞・・・スゲェーな!"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/oka1029ri/status/1549691233039446018
これらの記事が「真のジャーナリズム」とか「地方紙の気概」とか絶賛されてて、
確かに部分的には正論なんだけどちょっと怪しさがないか?と思ったので長周新聞について調べてみたよ。
B 日本統一教会の原点は戦後に反共産主義を掲げて岸信介を中心とした右翼連中でつくっていた「防共挺身隊」といわれ、岸信介の出身地である熊毛地方には一定の集団がいたことが知られている。山口県は戦後の共産党トップだった野坂参三、宮本顕治、志賀義雄などもいて、それこそ彼らは田布施の隣である光出身だったりもする。政治的には右も左も激しかったわけだが、その防共挺身隊と岸信介がパイプを持っていた韓国の反共宗教団体である文鮮明の統一教会がドッキングして、日本統一教会が誕生したという。
こことか、岸信介が日本における統一教会の活動をバックアップしてたとか自宅の土地を統一教会にアジトとして使わせてたとかいう話はこれまでに色々な媒体で見たけど、
「岸信介自身が作った防共挺身隊が韓国の統一教会とドッキングして日本統一教会になった」って話は見た覚えがない。
岸信介が統一教会と昵懇の仲だったどころか岸信介の作った組織が発展して統一教会になったんだよ!
なんて話が本当だったらすごいショッキングだし、他でも大きく取り上げられてると思うんだけど。これは何がソースなの?
https://www.chosyu-journal.jp/aboutus
要するに派閥抗争に敗れて日本共産党を除名された人が集まって作った日本共産党(左派)の機関紙。
気概はあるかもしれないけどこれを地方紙で括るのはちょっと無理があるなぁ。
共産党は分派を許さない(民主集中制)ので思想や意見が割れたらどっちかが抜けるまで戦うしかないわけだけど、
日本共産党(左派)は徹底的に毛沢東を崇拝し中国共産党の方針に従うべきという考えの派閥だったので、
日本共産党は日本独自の路線でやっていくべきだとする主流の自主独立路線とは相容れなかったみたいだね。
そんな感じで日本共産党(左派)はあまりにも毛沢東を崇拝していたため、
日本共産党は彼らを「毛沢東盲従集団」とか呼んで罵倒していたよ。こういう左翼の罵倒ボキャブラリー好き。
http://maoist.web.fc2.com/jcp/jcf000.htm
福田正義の経歴も面白くて、満州日日新聞で記者やってたときに後藤新平の功績を称える伝記を書いて日帝の中国侵略正当化に荷担していたんだけど、
それについてはひた隠しにして自分を「不屈の革命戦士」と売り込んでいたただのお追従野郎とか散々言われています。
長周新聞の創設者であり編集主幹であり日本共産党(左派)初代中央委員会議長である福田正義は2001年に亡くなっているんだけど、
長周新聞ではその死後も彼を編集主幹として名を掲げているとのこと。
この辺がやっぱり日本共産党とは違い毛沢東主義を貫いている日本共産党(左派)っぽくて、個人崇拝が強めだよね。
日本共産党も志位和夫がずっと選挙もなしに委員長に居座っててどうなんだとは言われているけど、そんな露骨に個人崇拝をするようなことはないし。
そしたらリニューアル前の長周新聞のWebサイトに面白コンテンツがあるという情報があったのでWebアーカイブで見てみた。
2002年に行われた福田正義氏追悼記念集会の特集ページで、スピーチとかの内容が記録されているよ。
中でもこれがすごい。
https://web.archive.org/web/20160304141021/http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/himawari.htm
長周新聞は長周新聞人民保育所という社員用の保育所を設けていて(それは偉いと思う)、
そこ出身の子供たちが「楽しかった、運動会!」「「運動会!」」みたいなのをやるパートがあったみたいだね。
小六男・小六女 わたしたちのお父さん、お母さんは、
小六男 貧困も失業も戦争もない、新しい社会を実現するために、
小六男 ひまわりは、一九七三年四月、長周新聞の保育所としてつくられました。
間
小五女 まだ仕事が残っているときは、段ボールで寝かされていた。
中二女 だれもかまってあげられないので、赤ちゃんは、人の足音がするときだけ泣くようになった。
中三男 家に帰るのはいつも夜中でも、朝早く家を出て、赤ちゃんもお母さんといっしょにがんばった。
中二女 そして、子どもたちが将来、お父さん、お母さんのように、社会の発展のために役立つものになるようにと、
中一男 ひまわりをつくってくれました。
下学年 ひまわりは、今年で、二九年目です。
中三男 ひまわりを卒業したぼくたちの先輩は、おじいちゃんのあとを受けつぎ、
五年生 わたしたちも、先輩たちのようになるために、
確かに保育所を設立したのは福田正義だったのだろうけど、福田のおじいちゃんがまったく一人でやってくださったみたいな言い方なのがなんかすごい。
小六男 一、勤労人民を尊敬し、労働やたたかい、生き方に学ぼう!
小五女 四、学校の成績で仲間を差別せず、ひまわりの目的で団結しよう!
五番がかなり民主集中制っぽさがあって良い。
小六男 福田のおじいちゃんはみんなの声を代表して、長周新聞をつくられました。
小六男 自分の小さな幸せでなく、みんなの幸せのために、奮斗した。
中二女 福田のおじいちゃんは、ひまわりにいつも心を寄せてくださいました。
中二女 わたしたちが学校の帰りにおじいちゃんにあって、「こんにちは」というと、ニコニコ笑ってあいさつをしてくださいました。
小二女 長周四五周年のとき、
小四男 体が痛かったのに、
小六女 わたしたちの出し物のときは、いちばん前で見てくださいました。
中二女 そして、病気とたたかいながら、ウソをあばき、まちがっているものとは、断固たたかい、
中一男 ぼくたちにほんとうの真実はなにかを教えてくれました。
小六男・小六女・中一男・中二女 長周新聞は、強い!
こういうのを2002年にやってるっていうのもなかなか驚きだ。
これ見て思い出したのが何かというと、森友学園が話題になったときに出た幼稚園の子供たちの映像だよね。
「安倍首相、がんばれー!」「安保法制国会通過、よかったです!」ってやつ。
毛沢東主義・スターリン主義を貫徹すると何故か結局指導者の個人崇拝に行き着くの面白いなぁ。
法的根拠が特にない安倍晋三の国葬に反対するのは正論だと思うし私も同意するんだけど、
それ書いてる新聞がめっちゃ指導者を崇拝する式典をやって子供たちにこういうのをやらせてたっていうのもなかなかだよ。
カルト宗教が話題になってるときに見るとこういうのも別の形の「二世」問題のような気もするなぁ。
小六男 おじいちゃんに誓うこと
小一女 わたしは、大きい子のいうことを聞きます。手伝いをがんばります。
小四男 自分のことだけでなく、人のことを先に考えて行動します。
小五女 わたしは長周に入るために、自分からすすんで重いものを持ち、力をつけます。
「小一女 わたしは、大きい子のいうことを聞きます。」のパターナリズム感!
全体的に目上の者の言うこと聞いて正しくあれみたいな感じがあるけど、
日本共産党(左派)は元から反米の愛国主義を掲げていてナショナリズム色が強いから、やっぱりパターナリズム的な感じなんでしょうか。
子供たちの理想として「ジャーナリストになる」とかじゃなく「長周新聞に入る」が謳われているのもなんか二世問題っぽいね。
そんで安倍晋三暗殺に紐づいて統一教会と政治の関わりについての批判や国葬への批判は概ね正論として、
長周新聞が他の問題についても正論を言ってるかというとそうでもないわけで。
https://twitter.com/lautream/status/1301343209751109632
ちょっと前の香港問題では「世界は中国の味方!アメリカは孤立!」とか言って中国共産党を支持していたり、
「ウクライナ戦争を1日でも早く止めるために日本政府は何をなすべきか」 ロシア史研究者有志が声明発表 専門的見地から行動提起 | 長周新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.chosyu-journal.jp/shakai/23102
ウクライナ危機に国際社会はどう向き合うべきか 緩衝国家・日本も迫られる平和構築の課題 東京外国語大学教授・伊勢崎賢治氏に聞く | 長周新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.chosyu-journal.jp/kokusai/22976
ウクライナ戦争では「アメリカが悪い」とか「ミンスク合意が」とか「ロシアは満州事変と同じことやってるんだから日本は先に自分の過去を反省しろ」とか言ってたよ。
まあなんというか、いろんな意味で普通の新聞ではないから普通の新聞に書けないようなことも書けて、時々正論を言ったりもするけれど、
やっぱり普通の新聞ではないからあんまここをソースになんか言うのもあれだなぁって感じですかね。
その辺の一般人はともかくこれを真のジャーナリズムとか言って持ち上げてる学者先生とか議員先生はもうちょっとソース選んだ方がいいと思います。
ソースはスプートニクとか、ソースはHanadaとか、ソースは世界日報とか、そういう感じ。
『80年代には海外では見直されていた「生活習慣病」という考え方』
https://news.yahoo.co.jp/articles/5015da26607a03ab2fd804f94bd39019607c12f9?page=3
ーー先生が立て続けに、「生活習慣病」について書いた論文を読んで驚いたのは、当初、アメリカでは真逆の発想で導入されたという事実です。1950年代から60年代にかけて公民権運動が活発になった時に、自由主義思想の広がりと共に広がったと書かれていますね。
《生活習慣病概念は自由主義的自己決定権意識と結びつくことで、自らの将来を自らの力で変えることができるという「健康版アメリカンドリーム」として米国の市民・政府・科学者の間で広く受け入れられたのである。(『糖尿病プラクティス』38巻2号)》
元々は、「生活習慣病」は、「専門家に縛られず、自分で自分の未来を切り開く」というアメリカンドリームだったんです。当時の発想としてはすごく良かったし、その考え自体は今後も活かすべきだと思います。
これ凄く重要な指摘だな
なるほど、「生活習慣病」という発想も、元々はそこまで悪いものではなかったんだね
パターナリズム(父権主義)に対する反抗の趣旨を含む概念だったと。
でも今は寧ろ逆だよなあ