はてなキーワード: 躁状態とは
はじめての不倫?のあとで躁状態の元増田に教えてあげるが、いいセックスをした後はどうしても会いたくなる。
そりゃもう何度でもね。
だから、不倫相手っていうのは、ある程度会う頻度をコントロールできる人とするんだよ。
そうすることで、気持ちの冷却期間と、セックスによる躁状態とをコントロールして、疑似恋愛を楽しむもんだ。
でも年末のこのタイミングで関係を持ったと言うことは、年末年始のお休みを挟めば多少ちょうどいい冷却期間になるから、年明けからは普通になると思う。
もしここで欲望に負けて連絡をとると、泥沼だ。
全てを失うよりもつらいことが待ってると思うぞ。
まぁ知らねーけど。
俺だったら年明けまでやりまくるけどな。
あと、仮に医療従事者の給与を上げても、どうせコロナが沈静化したら給与は元に戻るわけで、
そう考えると准看護師なんて目指すぐらいなら看護師になった方がいいのですけどね
社労士や行政書士なんかになるより、弁護士になった方がいいのと同じです
たった数年のコロナのために無駄な資格を取るのはバカバカしいと思います
これまでの歴史と同じであれば、コロナが収束した後は急激に反対の時代が来ると思われます
つまり、コロナ禍では密を回避していたのが、超過密が好まれるようになるとかそういうことです
飲み会文化、飲みニケーションみたいなのも復活します、というか好まれる風潮になるでしょう
いずれにせよ、コロナ後の経済は躁鬱の躁状態のように急上昇するはずです
個人的にはみんな騒ぎ過ぎなようにも思うのですけどね
どんなにギャーギャー騒いでも、大量に死んでも死ななくても、
これまでの疫病の歴史から考えれば、この状況がそんなに長く続くことはほぼ有り得ないわけで、
「朝の引き継ぎ、何かやばいことを言ったような気がする」
予感は的中した。
どんな職種かは伏せる。お世話をする系。
夜勤入りた私に、同僚は「大丈夫?この仕事きつい?」と声をかけてきたた。
とんでもない。仕事は楽しいし、人間関係も全く悪くない。こんなホワイト企業にクズいていいのか、本当に感謝している。
そして「睡眠導入剤を飲んでいることをベラベラと周囲に聞こえる声で誇らしく喋っていた」とのことだった。
ただ睡眠コントロールのために服薬していただけなのに、もう地獄である。
そんな事があったのかと他人事の私に、同僚はまた眼を開く。
ハイテンションとは真逆の生き物、他人と喧嘩したのは小学生が最後。
さぞ同僚は怖かっただろう。
夜勤明けで退勤し、午前中はしばらく躁状態が続き、翌日は公休。
死んだように眠ったことも、後で「そういえば」的な感じで昨日思い出した。
(後でそうだったなとしか思えず、その瞬間は全く意識がない。無意識で身体が動き、後で行動の記憶が蘇る感じ)
深く眠ったあと、ラインや電話の履歴、周囲の反応でふつふつと思い出す恐怖。
【~夜勤入り】
・朝5時から朝10時まで一人でまったりウィスキー。小瓶ストレート180ml。酒量はいつもの事、夜勤入り当日に飲んだのは初めて。
・正午から夜勤入りまではいつものように家事をこなしながらゲームとネットサーフィン。
【夜勤入り~仮眠】
・仮眠までなんなくこなす。
・なんかやばい気がしたので、水もたくさん飲む。
・記憶がスッポリない。
【(躁)帰宅後~正午】
・連絡をとったのは今まで連絡したかったが気兼ねしていた人。男女関係なく5人くらい。ある人には、「ずっとそのテンションだったら良いのに」と意図せずとも通常の私を全力否定。
【正午~夕方】
・気づいたら眠っていた。ちゃんと布団で寝ていた。この時点では何も気づいていない。
【夕方~翌朝】
【翌朝~】
・前日に連絡をとっていた人たちから引くほどの反応に驚く。電話、ラインもいつもは帰ってこないのにわんさか届く。
それも心配ではなく、「あなたと話したい」というテンションで。
また、この時、あの朝テンションのヤバさと、夜勤明けもヤバかった記憶が紐付けられる。
芋づる式に、「なんかやった気がする。その時の事を考えると、ソワソワする」という感情が湧き上がり、色々断片的に思い出す。
死ねる量の薬も持ってない。
いうほど追い込まれているわけじゃないんだと思う。
家もあるし親もいるし進路も決まったけど
それがダメなんだと思う。
いじめられた記憶はあるけど死ねって言われた記憶はないし その時もやっぱり飛び降りられなかった。
親は優しいし家庭はそこそこ裕福。たぶん。
三親等以内の
その後も1回家出した。すぐ帰ってきてくれたけど。
私含めて全員 外では平気な顔してる。
寧ろ人当たりが良い。
奇跡的にそこに復帰してるし。
「そういう家」に生まれた自分に酔っていた頃もあったけど もう無理だろ。もう無理だろ。
入院しようかって話になったけど
スマホもないところで
だらだら生きているくらいなら絶対死んだ方がマシ
ただし 飛び降りられない。
痛みだとか高さが怖い ということが
=本当は生きていたい ではない。
それは確かに甘いと思う。
作っていた。約束は守らないといけないので。
12月も予定がある。でもどうせ私はまた
平気そうな顔をして、「来年もよろしくお願いします」って適当に笑うんだろうな。そんなのを何日も何ヶ月も何年も繰り返すと思うとゾッとする。一時的に回復してまた鬱に落ちるのが本当に嫌だ。
楽して生きられないなら
せめて楽に死なせてくれ、と思う。
結局まだ飛び降りられない
請われて半日かけて帰省して「私達いつも怒鳴り合ってるよね、夫にもそう言われちゃった」とふとこぼしたら、それが母の逆鱗に触れて泣きながら罵られた。父はボーッと見てたが最期に発した言葉は「長旅で疲れて躁状態なんだよ、娘は。興奮してるんだよ」しかも笑いながら治めようとした。治まるわけねーだろうが。この親父いつもそうだな。兄のDVに母が苦しんでるとき逃げて、私がそれを見てリスカしてても無視して、それも時効だと思って今は私が母のヒステリーからかばってやってんのに。この家は本当にどうかしてるな。帰省のたびに怒鳴り合う家族が普通かよ。どこの家もこれくらい怒鳴りあってる!てマジですか?泣きながら罵るのが普通なの?すごいねみんな大変だね!母は普通って言葉が大好きだけどはっきり言っておかしいようちは。もう両親の性格は絶対変わらないのでそういう家族だと自分を無理やり納得させて耐えて、小さい子ども二人夫に預けて帰省してたけどもう無理。Twitterの病気アカウントのフォロワーには娘がなかなか会いに来てくれないとか言ってたけど、アンタの娘は仕事もしてるし子どもも夫もいるからそんなに暇じゃないんだよ金もないんだよ。孫がいる年だとバレたくないじゃないよ。いい加減にしろ
だけどもう死ぬ死ぬ言うから無理して会いに来てんだろうが。帰省すると必ず怒鳴り合いになるけど耐えてた。今回でもう糸が切れてしまった。子どもは母が大嫌いな義実家に預けてきてる。義実家はうちの親よりだいぶ人間的に立派だよ。母は一方的に敵対心を抱いてるけど。
もう呼ばれても来ません。自業自得。気づかないまま逝くんだろうね。「アンタのことを一番に思ってる」「アンタのために生きてる」「孫より好き」という台詞を好んで使う人だから。言動が一致してないんだわ。もう無理ですね。
双極性障害でメンタルクリニックに通ってるんだけど、毎日毎日自分の社会不適合性を自覚して辛い
所謂ラピッドサイクラーで長い時は数週間から1ヶ月うつ状態が続いてその間は何もできないしたくない。
飯も食べたくなかったら逆に食べすぎたりみたいな感じ。
もう本当にひたすら寝てたいし労働なんてもっての外で24にもなるのにいまだにフリーターで死にたすぎる。
逆に躁状態の時は明らかに無理だろって量の掛け持ちシフトを寝ずにこなしたり1日何回も飯食ったり深夜いきなり友人に電話したりetc・・・
・過剰な浪費
これを全部無意識のうちにしちゃってるってのが本当に最悪。躁の時って判断力のタガが外れる感じがして、しかもこれが月に何回かあるからとてもじゃないけど健常な生活なんて営めない。
このままだといつか友達にも家族にも見放されて1人になっても社会不適合のままで落ちぶれて死んでくんだろうな・・・って思うと逆に死にたい(?)
真面目に手帳取るか悩んでる。
推しキャラの二次創作を公開してる作者さんに、匿名でメッセージ送れるときはちょくちょく感想を送るようになった。気まぐれだけど。
感想メッセージ(作品を無料でひろく公開してる時点で感謝の念が生まれるので内容の半分はラブレターみたいになりがち)をもらうことを嫌がる人はそんなにいないっぽいので、もっと早くやったら良かった。
送った奴の頭がどうかしてるマシュマロメッセージに推し作者さんがブチギレてなきゃ、自分は感想や応援をこんなに気軽に書いて送ろうとはならないままだったかもな〜と思うと変な話だ(これ軽躁状態では、と思わなくもない)
作品ツイートのあとにマシュマロやらのリンクツイートしてあると、感想やラブレター送るかって気持ちが加速するので、感想ほしい人はそうしてほしいなりなあ…。
匿名メッセージは受け付けてない人にはどうしようもない。感想をリプライなりで送るだけのアカウントを作ったほうがいいのだろうか。
FFIIIがなぜ子供時代に楽しかったのか、それは主に舞台設定にあるように思えた。
小さな洞窟から始まり、巨竜に出会い、従者と姫のラブロマンスを知り、ここがちっぽけな世界だと知る。そして浮遊大陸の脱出がある。
浮遊大陸の脱出を体験した当時の子供達は一様に鳥肌が立ったという。
自分は巨大飛空艇インビンシブルが水中から出てきた時もかなり問い肌がたったくちだ。
バブル好景気を反映するかのように思い描いた希望と欲望が無限に拡大してゆく。
見たこともない森林や島々、古代遺産や革命的な発明、小さな洞窟から始まった少年の冒険は空も海底もどこへでも行ける広がりを見せ、やがて二元対立を中和へと戻す、勇気の闘いへと変貌する。
そこにあるのは少年たちという存在を通した国の成長記であるようにも思えた。
少なくとも当時の日本に資本主義の拡大性に対する信心があったことはうっすら伝わってくる。
経済はわりとどうでもいい話だ。
問題はいつまでも広がっている大空、どこへでも行ける機械、果てしない宇宙などを連想させるサブカルチャー作品が激減したことだ。
SAOやデカダンスのような箱庭型の作品、日常系の作品、リアル志向のゲーム、萌系。
自分が思いつく限り、胸いっぱいの果てしなさと躁状態を延々と維持できる作品が思い浮かばない。
あるかもしれないが、メインではない。
今の子供達が思い浮かべる世界は、どこかと繋がっている空や未だであったことのない人々や国々ではなく、ネット端末なのだろう。
だから物語世界で事件が起こるとき、ネットを起点にして起こりがちになる。
都市伝説も謎の組織も、異世界に転生したあとも何がしかの端末が顔を出す。
子どもたちにとって世界は既に判明したものでしかなく、探求するものではない。
少なくともそうしたふうに感じているのではないか。
インフラ内で物語は起こり、インフラ内の隙きを縫うようにして問題が起こり、インフラ内で完結する。
広がりが感じられないので、今ある可能性の中でトップに立つには、という思考が先鋭化してYouTuberが人気になる。
かつては空の広がりが感じられたのだろうか?
少なくとも70~80年代のドラえもんにも、世界は探検し尽くされてつまらなくなった、とのびたがぼやくシーンがあった。
未開発地域は今でも広がっている。
はたまた経済が悪いのか。
それでも空は狭くなっている。
昔、一週間位眠らずにハイになり過ぎて最後はトランス状態になった事がある。つまり完全に気が狂った状態になった事があって、いわゆる神が降りるとか、真理に辿り着く、とかそういう感じの精神状態になった。いまだに強烈な体験と記憶していて、その時の経験で得た価値観がいまだに、自分の人生の行動や選択の規範になっている所がある。
なんで一週間も寝ないでハイになったかというと、ちょっとした仕事の思い付きをどんどん広めて行ったら、世の中全てをひっくり返せるぜ!位のアイデアが広がってしまい、しまいには世界を変えるすごいものを見つけてしまった!みたいになった。
「危ない人」という線の手前にいる状態を表す言葉ではなく、完全に線の向こう側、あっちに行ってしまった人である。
今思うと統合失調とか、極端な躁状態とか、そういうのに近い奴で、正常な判断が全くできていなかった。
最後には、宇宙の真理を見つけた興奮で意識が混濁して、映画とかで見るような、死後の世界とか、宇宙の外とか、曼荼羅でフラクタルで自己相似性的な何かを見て体験して悟って宇宙とか時間とかスケールとか、そういうのを一周して帰ってきてる気がしてる。今ではそれが自分の頭が作り出した妄想である事を十分承知しているが、世界の秘密を暴くような不思議な現状とか、SFのイカした未来像とか、新しい価値観を唱える言説とかを目にする度に、そうそう、それそれ。わかるわかる。みたいな既に知っている様な気になるのが、いまだにヤバイ感じだけど、面白くもある。
宇宙の誕生とか、物質と反物質の偏りとか、電子の軌道とか、周期表とか、ペンデュラムウェーブとか、生物の誕生とか、DNAやRNA、たんぱく質のネットワーク的な相乗効果とか、フィボナッチ数とか、自己組織化とか、フラクタルとか曼荼羅とか、Powers of Ten とか自己相似性とか、赤い薬を飲んで仮想世界から目覚めるとか、銀河を見て詩人を連れて来るべきだったとか、AIの台頭とか人間の精神が機械化されるとか、テクノロジーが宇宙を再生産するとか、そういうのがないまぜになった結果、出て来た結論は、世界はたった一つの点が複雑な運動によって作り出した無限の広がりという解釈だった。
点の単純な反復運動が、波を生む。波は、時間や空間、物質の根源を生み出し、振動の異なる動きが、別の位相で見た際の異なる物質としての振る舞いを行う。これが、自己相似的に上位の位相においても、同様の動きの無限のパターンを繰り返すことで、ミクロの位相での様々な粒子のバリエーションで様々な物質を生み出しており、いつしか時間やスケールを一周してきて元に戻るみたいな世界の捉え方をしている。ちょうどアナログ漫画のスクリーントーンをずらして重ねるとモワレが発生する様に、無限の周期を持つ多数のスクリーントーンを重ねると、無限の組み合わせのモワレが発生する様なものだ。このモワレの密度の異なりが、上位階層の複雑な構造を生み出してゆき、一件異なるスケール単位での、自己相似的な特徴も、実はミクロからマクロまで一貫した法則性があるのではないか?という気がしてならない。
そして、一つの点の動きには、法則の上で限界があり、ちょうどペンデュラムウェーブが、一定時間で再び同じ周期になる様に点の動作にも限界があり、閉じた世界の中での無限でありながら有限な動きを繰りかえしているものが、世界のすべて、みたいに考える様になった。意識っていうのは、この点が、あるとき、ある時間、あるスケールにおいて、自身を観察している一瞬を切り取ったもので、根底では1つの点が自身の運動を観測しているに過ぎない。みたいに考えている。世界はたった一つの何かの振る舞いが、無限の広がりと組み合わせの上で成り立つ、有限な何かだ。みたいな世界観で、この点は私でもあり、あなたでもあり、すべての何かである。みたいな奴。
実は以前、こんな話を面白半分に周囲の人に話してみたら以外に否定されなかったりして、面白いもんだなと思う。
史上もっとも偉大な科学予測の試みとクラークに評された、科学と人類の未来について論じた先駆的名著──『宇宙・肉体・悪魔──理性的精神の敵について』
https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2020/07/24/080000
アスペに対する差別は少数民族迫害として訴えていくのが一番理解を得られやすいだろうけど
(チー牛はブサメン差別!って言われてもアスペ以外の人は?不審ではあるけど言うほどブサイクか?ってなる)
自閉の人は自分が「普通」であることにこだわるから難しいだろうな
ASの普通へのこだわりの大きな特徴は、少しでも普通であることを否定された場合に限り、
「自分が普通だ」「自分が正しい」と死に物狂いに自己正当化する行動である。
実はこの「普通へのこだわり」自体が最もAS的な特徴であるのだ。
「自分こそが普通中の普通で、ほんの少しも偏ったところは無い」と異常に自己正当化し続ける。
世間の全てが自分の主張を当たり前に受け入れるべきであり、その根拠は「自分が普通であるから」というわけだ。
全体を包む「空気」の中に、50パーセントから前後10パーセント程度の広がりを持ったものとして「普通」があり、
しかも「変わっている」「異常」との境界は連続的で、「少し変わっている」「大いに変わっている」というのがあるだけである。
だから「自分が普通」と死に物狂いに力説することは多数派の「普通」の話ではなく、発達障害の問題そのものなのだ。
「本当はあなたが変なのだ」と本当のことを忠告しようものなら極端に逆切れしてその忠告した相手を執拗に攻撃し続ける。
ほとんど人の話も聞かなくなる(この点では躁うつ病の躁状態に似ても居る)ので、この状態になると周囲の人が心配してケアしようにも手がつけられない。
躁鬱かも?って思って精神科に行こうと思ってるんだけど、大体予約の電話いれるときは「鬱」で初診の予約がつく10日後くらいはすでに「躁」のタームがきてるから何も話せなくなってしまうみたいな経験を3回くらい繰り返してる。今度は「躁」のときでもちゃんと話せるように「鬱」の間に思ったこととか感じたことのメモをとってる。躁鬱じゃない人間は"デスノートの所有権"に当てはめて考えてほしい。所有権を持ってる状態が「鬱」で手放した状態が「躁」。躁状態で鬱状態のことを説明するのは絶対不可能。でも、「鬱」のタームが来たら全てを思い出して後悔する。まぁそもそも俺自身、相談に成功した試しがないから自分が躁鬱なのかすら判明してないんだけど。
アスペルガーの人は「自分が普通であること」にこだわるようなので
自分が元から障害者だったと認めることはできないんじゃないかな。
あくまで女のせいで自分は障害者を選んだんだということにしたいんだと思う
アスペルガー障害の普通へのこだわりの大きな特徴は、少しでも普通であることを否定された場合に限り、「自分が普通だ」「自分が正しい」と死に物狂いに自己正当化する行動である。
ほとんど人の話も聞かなくなる(この点では躁うつ病の躁状態に似ても居る)ので、この状態になると周囲の人が心配してケアしようにも手がつけられない。
実はこの「普通へのこだわり」自体が最もASD的な特徴であるのだ。「自分こそが普通中の普通で、ほんの少しも偏ったところは無い」と異常に自己正当化し続ける。
世間の全てが自分の主張を当たり前に受け入れるべきであり、その根拠は「自分が普通であるから」というわけだ。
本当の多数派の「普通」はこういう極端なものでは無く、全体を包む「空気」の中に、50パーセントから前後10パーセント程度の広がりを持ったものとして「普通」があり、
しかも「変わっている」「異常」との境界は連続的で、「少し変わっている」「大いに変わっている」というのがあるだけである。
大学の時に精神病んで、うつ・摂食障害・強迫神経症(だっけ?)・統合失調症の診断受けた。
高時給バイトしながら過食嘔吐に課金してたけど、そのうち生活立ち行かなくなって焦って自殺未遂して実家戻された。
そこから躁状態でガリガリに、一定までいったら離人感?ていうのかな。自分が自分じゃない感じが湧き出てきて、思考能力が著しく落ちた。
常に自分の視点じゃないところから自分を見ている感じ。ぼんやりと、なんとなく「消えたいなあ」みたいな感情だけがある。
自殺しようとしなくなったので大学復帰したけど、2ヶ月ぐらい経ったころ頭がだんだんおかしくなっていった。
提出物が遅れたりすると、もう全部何もかもだめだ!一貫の終わり!って焦りが止まらなくなって、人と交流できなくなった。
「私のことなんて嫌いになるに決まってる。もう大っ嫌いと思ってる」
常に頭の中がこういう焦りでぐるぐるして、通行人の顔すら見れないし、日傘かサングラスで自分の顔を隠さないと外に出れない。
そのうち見られてもないのに視線が怖くなって、他人から批難される会話を頭の中で妄想して、過呼吸おこしてた。
そのころ統合失調症っていう診断をうけていた。劇薬を処方されていた。
統失って「謎の組織が追いかけてくる!」「神○○のお告げが云々」とか言ってるひとのことだと思っていたのでたまげた。
今思えばなんでだってぐらい悲観的な妄想ばかりしてたけど、きっとそれも症状のひとつだったんだろうと思う。
結局見知らぬ土地に引っ越して、自分で仕事してお金稼ぐうちに全部寛解した。
6年何かしらの病気がつきまとっていたけど、寛解して数年。何事もなかったように正社員で働いて、去年結婚もした。
なんであそこまで精神を病ませていたのか、いまでもよくわからないけど、いまだに自分で思考回路がメンヘラ寄りだなって思うことがある。
三月二十二日(日)
今日こそはジョギングをさぼってソープランドに行こうと思い、7時に起床したのだが、思考が切れ切れで面倒くさく、ぼんやりしていたら正午になっている。昼食を済ませ、シャワーで清潔にし、歯をしっかり磨いて外に出たはいいものの、駅まで歩いたらソープランドで一発抜くことが馬鹿馬鹿しくなってしまった。5日間の禁欲が無駄になるのは業腹だが、今晩は2, 3発抜いておこうか、それとももっと理性が吹っ飛ぶほど精子を溜めてから平日にソープに行くべきか、迷う。
自分は細かいところまで想像ができる。ソープランドの湯船での他愛のない会話、イソジンでの洗浄、中途半端な勃起など。気乗りがしないときにはそうした細部にうんざりし、2週間ほどの禁欲ののちにはその妄想だけで抜ける。性行為そのもので抜かないのはなんだかおかしい。
せっかく禁欲したのに、今日になってなんで萎えてしまったのかを考えると、今日の自分は別に女性の身体に猛烈に触れたくてたまらないわけではないわけではないからだと気づいた。おちんちんをおまんこに入れて動かしたいのではない。おまんこをなめ続けたいのではない。それよりも、彼女ができたときにきちんと勃起するかどうか、そしてうまい角度で挿入できるか、さらには性行為の姿勢を長時間維持できるだけの筋力があるのかが不安で、要するに自分のメンテナンスをしたいらしい。それだったら精巧におまんこをかたどったオナホを使えばいい気がしてきて、面倒くさくなったらしい。それに、初対面の女性と話をして、いきなり勃起するのは自分にはハードルが高い。ソープランドでは多くの人が、前半はマットプレイをしてリラックスするのも、こうしたことが理由なのだろう。いったい、風俗に通う男性のうち、どれほどが純粋に性行為をするためだけに行っているのか。男性の性欲は、とかく戯画化されがちではあるものの、それほど単純なものではないだろう。
さて、7時ごろからずっとソープランドのことばかり考えて時間をつぶしてしまったのだが、帰宅してからはそれほど熱心に空想するつもりになれない。仕事中とか、あるいは躁状態っぽいときには、それこそ日本各地風俗巡りの旅だとか、海外のFKKとか、マカオのサウナとか、乱交パーティーとか、いろんな計画を立てるというか実現させることの恐らくないであろう妄想に浸るのだが、8日以上の海外旅行なんかを考えるとわかるように、計画を立てているときの異様な高揚感と、それをいざ実現しているときの楽しさは性質がまったく違っていて、何かを実行しているときは現実のことだからもろもろの制約や困難があり、それはそれでゲーム的で非常に楽しいのだが、無制限の空想特有の快感はない。そして、楽しいはずのことを実行した後、こんなもんか、と腑に落ちる瞬間、無限ではなく有限の世界に墜落した感じ、現実のものだと認識するあの気分、あれは物悲しくはあるが満足感もあり、嫌いではない。つまるところ、彼女とこういううららかな春の日曜日にだらだらとセックスがしたいのだが、相手がいるからと言っていつでもできるとは限らない。
そういえば、部長同席の昇進祝いの会はつつがなく済んだ。同僚とはプライベートで飲むほどの仲ではない。仲が悪いわけではないし、酒の席の会話は続くのだが、終わると少しほっとしている自分がいる。どちらかといえば聞き役に回っていて、それで気楽にやっている。面白かったのは、自分の馴染みの蕎麦屋が部長もお気に入りで、丸の内の支店に向かう時にはいつも食べているそうだ。それと、近場のラーメン屋に係長がランチを食べに行ったら、社長がすぐ後ろにいたとのことである。ランチの場所は気を付けたほうがよさそうだ。
結論から述べると、マッチングアプリでは彼女を作ることはできなかった。
けれども、2年間の経験から何も学ばなかったわけではない。そのことを再確認し、次のステップに進むために本記事を書く。自分を振り返り、失敗した点を反省しながら、絶望したり自棄を起こしたりしないように、時折この記事を振り返ることとしたい。
また、これからマッチングアプリを使う人にとって、参考になることがあればうれしい。確かに、女性と交際にまでは至らなかったが、全然マッチングしなくて困っている人には、役に立つかもしれない。
pairsとwithを使用。それぞれの仕組みは基本的に同じ。検索条件で異性を絞り込み、気になる相手に「いいね!」を押す。互いに「いいね!」を押すとチャットができるようになる。どちらも、毎日ランダムに無料で「いいね!」を押せる相手が出てくる。
プランはどちらもプレミアム的なものを選択。これだと通常1か月に付与される「いいね!」が30回から50回に増える。
この二つのアプリの仕様はよく似ている。どちらもコミュニティに入ることで共通の趣味や興味関心で検索ができる。ただし、withのほうがおおよそ2週間に1度DaiGoによる心理テストがある。そして、このテストにより相性がいいとされた異性は「いいね!」を1日に10人までなら無料で押すことができる。適度に「いいね!」を押す相手が入れ替わるし、無料で選べる相手が増えるのはありがたいが、心理テストのたびにDaiGoのドヤ顔を毎回見ることになる。
pairsを半年、しばらく休んでwithを1年半使ってみた。結果、どちらが特に使いやすいということはなかった。しかし、どちらも毎日ログインすることにより無料で「いいね!」に交換できるポイントがたまっていく。普通に使っていれば毎日ログインボーナスがもらえるのでありがたいのだが、まるでアプリにこちらの行動を支配というか指示されている気がするのはいただけない。ソシャゲの類をやらないので、そうしたことが煩わしく思えてしまう。
使い勝手そのものはいいのだが、こうやって様々な条件の女性が並んでいるのは、カタログみたいで興ざめというか殺伐とした気持ちになる。それに、相手の女性が何人から「いいね!」されているかも表示されるので、野菜か何かの品評会みたいだ。18歳のビキニの女性に3000近くもの「いいね!」がついているのを見るとやりきれない思いがする。谷間を見せたりしているだけでも露骨に「いいね!」がついているのも、あまり気持ちのいいものではない。自分もおっぱい大好きだけどさ。
逆に、「いいね!」をたくさんもらっている男性のプロフィールも参考にすることができるのだけれど、僕の苦手なさわやかな人間の写真が出てきたので、即閉じた。
プロフィールはできるだけ詳細に書いた。それから、友人と楽しそうにしているところをサブ写真に選んだ。コミュニティはできるだけたくさん入った。自分は読書が好きなのだが、読書のコミュニティだけではなく、作家ごとのコミュニティにも入った。こうすることで、共通の話題の多い女性を探しやすくなった。
こちらから「いいね!」を押すのは、大体20から40くらいの「いいね!」が押されている相手を中心にした。何百もの相手から「いいね!」をされている相手からすれば、当然埋もれてしまうからだ。弾の無駄打ちはしたくなかった。確かにお金を払えば「いいね!」する回数を増やせるが、すでにプレミアムプランを使っていたので、その必要はないだろうと判断した。それに後述するが、自分は同時進行が苦手だ。
相手の女性は、自分と同じ内向的な読書家で、美術館が好きそうな人を中心に「いいね!」していったが、もしかしたら意外と相性がいいかもしれないと思い、例えば国内旅行や登山が好きな人も選んでみた。ガチ勢ではないが、友人と富士山に登ったことはあるので、新しい趣味として開拓してもいいかもしれない、と考えたのだ。結局そういう相手とは会話が続かなかったけれど。
結婚歴は未婚を選んだ。もしかしたら、離婚歴のある人のほうが優しくしてくれるかな、とも思ったのだけれど、今回はやめておいた。やっぱり過去の人と比べられてしまうのが怖い。御覧の通り、僕は器が小さい。学歴は初めのうちは気にしていなかったが、結果として高卒よりは、大卒・専門学校卒のほうが共通の話題も多く、話は長く続いた。
メッセージを同時進行するのは気が引けたが、相手もそうしているだろうし、そこは割り切ることにした。ただ、自分の頭の処理能力を考えて、3人までの同時進行とした。どのみち、同時進行でデートに誘うことができたケースは1回だけだった。自分はそこまでモテるわけではないので、そうした心配はしなくてもよかった。
会話をして1~2週間してから実際にデートに誘った。そこで音信不通になるケースもあるので、実際にデートができたのは1か月に1度か2度だ。
もともと、デートした各相手について項目を立てて論じようかと思って手帳を取り出していたのだが、馬鹿らしくなってやめた。10人以上の相手それぞれについて思い出すのも大変だし、振られた相手なのだから面白くない。それに、細かく書いていくとねちねちした恨み日記になってしまう恐れがあるので、細部は省く。
結果だけ言うと、様々なタイプの女性と会った。たいていは常識的だったが、中には残念ながら失礼な相手もいた。
ひどいケースだと、こちらを一目見るなりムスッと黙り込んで、理由もわからないまま不機嫌な相手と水族館を回る羽目になったこともあった。2回目のデートで「ごめんなさい、やっぱりあなたとは恋愛できそうにないです」と告げられたこともある。誠実な人柄を感じたので諦めもついたのだが、その直後に「あなたの顔って、面白いですね」などと言われたのには傷ついた。男性が女性に対して敬意を欠いた失礼な態度を取るのが許されないのと同様に、女性も男性の自尊心を大事にしてほしい。
まだマシなケースでは、会話が弾まなかったり、恋愛対象にはならない相手だって互いに気づいてしまったりした。でも、これはどっちも悪くない。需要と供給が一致しなかったのだ。
でも、マッチングアプリを使っているうちに、1回で終わるデートが2回目に続くことがぽつぽつと出始めた。
そこで、ある女性と3回目にデートした時に告白した。3週間連続でデートできたので、これは間違いなく行けるだろう、と思ったのだ。けれども、彼女は驚いた様子で返事を保留した。僕は待つことにした。そして、7回目のデートの後、8回目のデートのリスケジュールの途中で、彼女は音信不通になった。
さようならを言う機会さえ与えられなかったのか、と思うと吐きそうだ。悔しい。小説も漫画も音楽も趣味がぴったり合って、普段ならできないディープな話を何時間してもお互いに飽きなかったのに。
そういうこともあり、一緒に見に行った岩井俊二や三谷幸喜の映画まで嫌いになったし、彼女が好きだと言っていた東京事変の印象も悪くなってしまった。すすめてくれた「子供はわかってあげない」や「北北西に曇と往け」も背表紙が見えないように逆にして本棚に置いている。ついでに、「パラサイト」を見に行こうという話になっていたのだが中止になったので、ポン・ジュノ監督の映画はしばらく見たくないし、ついでに是枝裕和監督のことも褒めていたので、当分この監督の作品を見ることもないだろう。なんというか、自分の好きだったものまで嫌いになってしまいそうでみじめだ。しばらくすれば、またまっさらな気持ちで好きなものを好きだと思えるようになるはずなのだけれど。しばらくは映画を見たいとは思えそうにない。
きちんと「一緒に過ごして楽しかったけれど、あなたとは交際できません。ごめんなさい」の一言があれば、ずっと救われていたのに。その程度の言葉をかけるのも面倒くさかったのか。そこまで軽んじられているのかと思うと情けなくて泣きそうになる。そういえば、本名を教えてくれた時も、男性でいえば鈴木一郎みたいな感じだった。そもそも偽名だったのかもしれない。そういえば遅刻魔だったのも、僕のことなどどうでもいいと思っていたのだろうか。それとも、本当に事故にあったのであろうか。心配でならない。
こういう時に限って、過去の恋愛のみじめな失敗を思い出す。例えば、大学時代に片思いをしていた女性から童貞を馬鹿にされたこととか、前の職場の同僚の女性から面と向かって恋愛感情を見せたわけでもないのにいきなり迷惑だといわれたことだとか、告白したけれどもやっぱり保留にされて、1年以上たってから振られたこととか、とにかくみじめな失敗ばかり浮かんできて仕方がなかった。
そして、残念ながら2年間で1度も手をつなぐことができなかった。
現在、音信不通、という最悪の結果を受け入れてから2週間ほどだ。正確にはラインの返事が来なくなってから4週間、こちらからの催促のメッセージが未読のまま3週間が過ぎた。土日はジョギングをするほかは、家に引きこもって寝ているばかりだ。コロナウイルスのせいで、美術館に気晴らしに行くこともできない。仕事にも集中できない。失恋した直後は同僚のなんということのない口調に激昂しそうになった。その時は1度席を離れて6秒数える、アンガーマネジメントを試みた。しかし、腹の虫がおさまらなかったので、100まで数えることを3度やった。さすがにこれは効果があった。とはいえ、そのあと結局体調を崩して職場を2日間休んだ。
今日も最低限のパフォーマンスは確保しているが、突然襲ってくる虚無感は抑えがたい。手が止まってしまう。それでも、原因がわかっている落ち込みだから、対処の仕様はある。
いやっほーい、自由だ! これから風俗で未経験のプレイをたっぷり楽しんじゃうぞ! うひひ! みたいな気分になることもないではないが、それはちょっと躁状態のときの考えだ。本当は、自分は好きな人と手をつないでデートしたり添い寝したりしたいのだ。まるで人生の実績解除みたいに、複数プレイに興じたり、白人美少女と寝たり、メイドさんにお尻ぺんぺんしてもらったりしても、そこまでの喜びはないのだと思う。
自分は恋愛対象としては魅力的ではないのかもしれない。そのことを身をもって体感させられた。しかし、それで絶望するつもりはない。結婚相手としてなら考えてくれる人もいるかもしれないからだ。
もともと自分は結婚願望が強く、子供も欲しい。マッチングアプリからの疲れから十分に回復したら、そういう条件で折り合ってくれる人を探してみたく思う。マッチングアプリは単純に素敵な彼氏彼女を見つける場所で、僕に対する需要が少なかった可能性がある。
それに、結婚相談所にはアドバイザーがいる。なんであれ、苦手だったり詳しくなかったりする分野の出来事に立ち向かうには、専門家に相談するのがいいはずだ。病気になったら医者にかかる。進路相談には学校や塾の先生に相談する。悩んだらカウンセラーに相談する。それと同じことだ。
確かに自分の生涯にはロマンチックな出来事は少ないかもしれない。自分は高校・大学時代の甘酸っぱい恋愛にあこがれたが、失敗してきた。こういう絵にかいたような青春が欲しくて、人生をやり直したくなり、胸が苦しくなることもあるが、自分は10代、20代にそうした恋愛に挑戦し、敗れてきた。そのことは悔しいし、無力感に押しつぶされそうになることもある。恋愛を扱ったテレビを見るのも苦痛だ。元カレ・元カノという言葉を聞くだけで、複数の相手と付き合ったことがあるのだという事実を見せつけられている気がして悔しい。だが、それでもチャレンジしたことは恥じてはいない。行動せずに文句だけこぼしていたよりは、ずっとましな人生を送ってきたはずだ。
長々と読んでくれてありがとう。
つらい失恋の渦中にある人が慰められるといいと考えて執筆した。
そしてこれを読んで一歩踏み出す勇気が出る人がいたら、もっとうれしい。
これは失敗の記録だ。だが無意味ではない。
泣いたっていい。気が済んだらもう一度アタックする。
女性から断られる勇気がまた出てきたら、それは3か月後か半年後かわからないが、またチャレンジしたい。
たくさんのコメント、本当にありがとうございます。励みになりました。
ここまでコメントをともらったのが初めてで、すべてにレスポンスはできないのですが、こちらも勇気が出ました。
一言だけ。手を繋げなかったのは、相手がずっとポケットに手を突っ込んでいたからです。
生理前でもないのに不安とイライラと情緒不安定がおさまらないとき、ああ私は本当にメンタル(あるいは脳の機能)がブッ壊れてるんだなと思って悲しくなる。思春期のころからずっとそうだった気がする。なんで産まれてきちゃったんだろう。私なんかいないほうが良かった。私はメンタルがブッ壊れてるわりに自傷も他害もしない。家に引きこもって独りで布団の中でグッと耐えてる。だから具合が悪くても放置されやすい。自傷なり他害なり、何かしか問題を起こす人はだいたい精神科入院歴がある。私は入院歴は一度もない。強いて言うならばこうやって部屋にずっと引きこもっていることが「入院的な環境」と言えるかもしれないが。もしインターネットがなかったら、私はもっともっと孤独で、それに耐えられなかっただろう。昔から孤独なときは常にネットにいた。別にそれで気持ちが救われるわけでもないのに。ただ時間潰しにしかならないのに。私はリアルでは他人を求めていないが、心の何処かで他人を求めてしまっているんだと思う。無意識に他人を求めてしまう気持ちをゼロにしたい。そうすればきっと楽になる。私はもう誰も見たくないし誰とも関わり合いたくない。こんなことを増田に書いて誰かに読んでもらおうとしてる時点で矛盾してる。
私はなんでメンタルブッ壊れ人間としての人生を歩むことになったのかな。
なりたくてなったわけじゃない。それが悲しい。
いつか主治医が言っていた「人生は楽しんだもの勝ち」という言葉は数ヶ月間ほど私に力を与えてくれていたが、今はそうじゃない。
楽しもうと思っても色々障害があって楽しめない。
障害というのは、自分の精神状態の不安定さだったり、外出しようと思ってもできない無気力状態だったりする。
躁状態になりたい、と懲りずに思う。うつ状態というのは端的に言って生き地獄だから。人生楽しんだもの勝ちと言うなら、私が躁状態で楽しくアクティブに生きてるときに静止しないでほしい。私が楽しんで生きていられるときって大体は躁状態のときなんだから。私は楽しみたいし、楽しまなきゃ生きてる意味はもはやない。子どもを産み育てるつもりも異性と付き合うつもりも仕事をする気すらない。自分独りで生きていく。
どうか壊れた人間に何か生産的なことを期待しないでほしい。それから…しょうもないことで褒めないでほしい。
私は私がなりたい人間にはなれなかった。最低限ここまでの基準には到達したいと思う基準にすら到達できなかった。だから自分のことが好きになれない。頑張りたかった。努力して実力不足を超えたかった。たしかにそう願って努力した時期があった。他の人たちがそうしているように。
私はこれからも行動化を起こさず目立たず社会の最下層にて独りで静かに暮らす。上にいる人たちが眩しいと同時に憎い。特にインテリの家に生まれ裕福に産まれ育ち心身ともに健康で努力できる人が憎い。それは全て私がほしくて手に入らなかったものだからだ。