2020-08-12

FFIIIを久々にプレイした

FFIIIがなぜ子供時代に楽しかったのか、それは主に舞台設定にあるように思えた。

さな洞窟からまり、巨竜に出会い、従者と姫のラブロマンスを知り、ここがちっぽけな世界だと知る。そして浮遊大陸脱出がある。

浮遊大陸脱出体験した当時の子供達は一様に鳥肌が立ったという。

自分は巨大飛空艇インビンシブルが水中から出てきた時もかなり問い肌がたったくちだ。

あの頃のゲーム世界が広がってゆく世界こそが全てだった。

バブル好景気を反映するかのように思い描いた希望欲望無限に拡大してゆく。

たこともない森林や島々、古代遺産革命的な発明、小さな洞窟から始まった少年冒険は空も海底もどこへでも行ける広がりを見せ、やがて二元対立中和へと戻す、勇気の闘いへと変貌する。

そこにあるのは少年たちという存在を通した国の成長記であるようにも思えた。

少なくとも当時の日本資本主義の拡大性に対する信心があったことはうっすら伝わってくる。

経済はわりとどうでもいい話だ。

問題はいつまでも広がっている大空、どこへでも行ける機械、果てしない宇宙などを連想させるサブカルチャー作品が激減したことだ。

SAOデカダンスのような箱庭型の作品日常系作品リアル志向ゲーム、萌系。

自分が思いつく限り、胸いっぱいの果てしなさと躁状態を延々と維持できる作品が思い浮かばない。

あるかもしれないが、メインではない。

の子供達が思い浮かべる世界は、どこかと繋がっている空や未だであったことのない人々や国々ではなく、ネット端末なのだろう。

から物語世界事件が起こるときネットを起点にして起こりがちになる。

都市伝説も謎の組織も、異世界に転生したあとも何がしかの端末が顔を出す。

子どもたちにとって世界は既に判明したものしかなく、探求するものではない。

世界は押し広げるものではなく、インフラとして使うものだ。

少なくともそうしたふうに感じているのではないか

インフラ内で物語は起こり、インフラ内の隙きを縫うようにして問題が起こり、インフラ内で完結する。

広がりが感じられないので、今ある可能性の中でトップに立つには、という思考が先鋭化してYouTuberが人気になる。

かつては空の広がりが感じられたのだろうか?

少なくとも70~80年代ドラえもんにも、世界探検し尽くされてつまらなくなった、とのびたがぼやくシーンがあった。

未開発地域は今でも広がっている。

ネット意識支配しているから狭くなったのか。

はたまた経済が悪いのか。

それでも空は狭くなっている。

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