FFIIIがなぜ子供時代に楽しかったのか、それは主に舞台設定にあるように思えた。
小さな洞窟から始まり、巨竜に出会い、従者と姫のラブロマンスを知り、ここがちっぽけな世界だと知る。そして浮遊大陸の脱出がある。
浮遊大陸の脱出を体験した当時の子供達は一様に鳥肌が立ったという。
自分は巨大飛空艇インビンシブルが水中から出てきた時もかなり問い肌がたったくちだ。
バブル好景気を反映するかのように思い描いた希望と欲望が無限に拡大してゆく。
見たこともない森林や島々、古代遺産や革命的な発明、小さな洞窟から始まった少年の冒険は空も海底もどこへでも行ける広がりを見せ、やがて二元対立を中和へと戻す、勇気の闘いへと変貌する。
そこにあるのは少年たちという存在を通した国の成長記であるようにも思えた。
少なくとも当時の日本に資本主義の拡大性に対する信心があったことはうっすら伝わってくる。
経済はわりとどうでもいい話だ。
問題はいつまでも広がっている大空、どこへでも行ける機械、果てしない宇宙などを連想させるサブカルチャー作品が激減したことだ。
SAOやデカダンスのような箱庭型の作品、日常系の作品、リアル志向のゲーム、萌系。
自分が思いつく限り、胸いっぱいの果てしなさと躁状態を延々と維持できる作品が思い浮かばない。
あるかもしれないが、メインではない。
今の子供達が思い浮かべる世界は、どこかと繋がっている空や未だであったことのない人々や国々ではなく、ネット端末なのだろう。
だから物語世界で事件が起こるとき、ネットを起点にして起こりがちになる。
都市伝説も謎の組織も、異世界に転生したあとも何がしかの端末が顔を出す。
子どもたちにとって世界は既に判明したものでしかなく、探求するものではない。
少なくともそうしたふうに感じているのではないか。
インフラ内で物語は起こり、インフラ内の隙きを縫うようにして問題が起こり、インフラ内で完結する。
広がりが感じられないので、今ある可能性の中でトップに立つには、という思考が先鋭化してYouTuberが人気になる。
かつては空の広がりが感じられたのだろうか?
少なくとも70~80年代のドラえもんにも、世界は探検し尽くされてつまらなくなった、とのびたがぼやくシーンがあった。
未開発地域は今でも広がっている。
はたまた経済が悪いのか。
それでも空は狭くなっている。