はてなキーワード: 性愛とは
「女性をモノではなく人間として見てほしい」と女性の人権向上を目指す方々は口々に言う
ならそう言う人達が「男性をモノではなく人間として見ているか」と言うと自分は全くそうは思わない
容姿、収入、性格、家事能力など彼らの目から見て水準に達していないとされる男性は「人間」扱いされていないと感じるからだ
人間として水準に達していないと感じるからこそ彼らは男性に優れた容姿、恵まれた収入、自分への気配り、身の回りの世話を求めるのだろう
もし「女性の事を一人の人間として見てくれる」存在が居るとするのならば、それは彼女達を性愛の対象として見ない女性かゲイの男性だけではないのだろうか
【追記】
ゲイの男性なら皆が女性を「一人の人間」として見ている訳では無く、「女性」という属性で見ている人も大勢居る
彼らは異性を愛する男性と違い決して女性を自分の性愛の対象としてラベリングしないし、女性を自分の性愛の対象としてラベリングする事もしない
自分を性欲の対象としてではなく一人の人間として見てほしい女性の友人になってくれるゲイは居るかもしれないけれど、女性がゲイの男性と性愛のパートナーになりたいと願っても結ばれる事は難しいだろう
努力したら女には向いてないって進路を閉ざされたり受験のテスト点数を予め削られたりしないのか?
努力したら性犯罪者やすれすれを狙う嫌がらせを反感を受けないように気遣いながら避ける、毎日毎日常にの努力をしないでいられる楽な人生を得られるのか?
努力したら出した成果を踏みにじってだってブスだしとかいわれないのか?
努力したら結婚したら養ってもらえるんだからって遠慮を要求され仕事を取り上げられないのか?
努力したら出産や子育てや家事をパートナーにほぼ丸投げしても周りからわかるようにヒソヒソされず孤立もしずらく当たり前に幸せに暮らしていられるのか?
努力したら見知らぬ野次馬からだから女はって粗捜しされないようになるのか?
普通のシスヘテロ男性なら16歳くらいの女性に欲情するのって当たり前のことなんですよ。
だから「犯罪者予備軍は身近にいる」と思ってもっと警戒した方がいい。
逆に、大体13歳以下の、初潮前の女性に欲情するペドフィリアは「普通じゃない」んですよ。
「普通じゃない」ということは、つまりマイノリティということで、だからこそ差別を受けやすい属性でもある。
18~歳の実在女性に欲情するのは~18歳の実在女性に欲情することと紙一重なのに、被害者のいない小児型ラブドールを叩く人達はそちらを問題視しない。
対人性愛、対人セックスそのものが内包する罪から目をそらして、「私はやましいことをしていない」とエクスキューズするためにペドフィリアを仮想敵に仕立て上げようとしている動きには、もっと警戒しなければいけない。
BLに限らず、性表現ってそういうところあるのに無視されがちだよなぁ。
Gender Expressionであったりだとか、個人のセクシュアリティとアイデンティティに密接な関わりがあるのに、「オナネタ」と揶揄されて一蹴されてしまう。
対人性愛者はセックスパートナーを「恋人」と呼んで、まるでセックスとは無縁かのように振る舞うことが許されるのに、性表現を「オナニー」という直接的な性行為と結びつけることがセクハラだと認識して貰えない。
「美しい性表現」とかそういう話(だけ)ではなく。「我々の性のあり方」というアイデンティティを表現しようと思った時に、「俺にとってはこういうのが抜けるんだ」と表現するのは自然だし、表出の文脈次第で「オナネタ」は「オナネタ」でなくなることもありますよね、という話。
近年「サイコパス」という言葉がカジュアルに使われることが増えた。
シリアルキラー・異常性愛者・ヤンデレなどと混同され誤用されている。
これは「悪の自覚がない」とは異なる。
悪いことであるとは知っているが、
そのためサイコパスは平気で嘘をつく。
自分の業績を捏造し、失敗しても巧みに言い訳をするので、表面的には魅力的に見える。
普通なら良心の呵責でブレーキがかかるところを、サイコパスなら躊躇いなく踏み込める。
それはある種の決断力とみなされうる。
サイコパスの多くはただの「嘘つき」として生きている。
社会生活上に困難をもたらす人間の特徴を「障害」と定義するならば、
サイコパスたちは「生まれつき良心に障害を抱えている」だけでしかない。
故に「反社会性パーソナリティ障害」という病名がつけられているのである。
サイコパスへの理解を阻害し、彼らが引き起こす問題をさらに大きくするだろう。
芸能人やアイドルという職業は、「人間が記号を演じる仕事」としての側面と、「演者としての個人」の側面を持つので、「個人を記号化し、後者を消費する」罪は裁かれるべきだと思う一方で、前者をまるで後者の如く裁くならそもそも芸能やアイドルという職業そのものを失くすべきじゃないの?(反語)と二次元性愛者の私は思うかな。(私は三次元の芸能人やアイドルには興味無いけどね。)
テレビやイベントでファンの前に立つ時の芸能人は、私生活とは別人でしょう。そこは区別しないといけないと思う。BL創作者も、またそれを裁こうとする人も。
「ファンの前の姿の"裏の顔"を妄想する」自由はあると思うけどね。(「職業としてのイメージ戦略」には抵触しそうなので、業務妨害にならない程度に弁える必要はあると思うけど、それは「個人を消費する」罪とごっちゃに考えてはいけないよね。)
*文学以外も入っている。個人判定があやふやなので全部入りにした。すまん😭
*「書いた記事が圏外だった😢」と呟いたそこのあなた!当ランキング、はてブ数上から順で決めただけなので、おすすめ記事があれば
新規投稿⇒タイトル「anond:20210114162908」で本文に自薦他薦紹介を。みんなで増田文学2020をブラッシュアップできればとー✏️
叩きたいだけの増田やアンケート等は除外するとか
建設的な意見。明らかに増田文学でない投稿は「増田文学でないランキング」を作ってそっちに載せるか🤔
ただ気力がない+加えて2019ランキング作成に気持ちが移っている
順位 | ブクマ数 | タイトル | 日付 | 備考 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
432 | 512 | anond:20171010083534 | 12/24 | 3年前の私へ | ||||
519 | 479 | 高速道路のトンネルで漏らしそうになった話 | 10/29 | |||||
不明 | 307 | 足立区が滅びた日 | 09/04 |
|592| |451 | |anond:20200606114353| |06/06| |どこからか腐った肉の臭いがする|
不明 | 395 | anond:20200808105038 | 08/11 | どーも、あのときのトビウオです。楽園に行く夢は叶いましたか? |
参考:個人的にランキング入りしてほしい増田(解説付き)
よく婚活アドバイスとかで恋愛感情を抱ける相手と結婚に向いてる相手かどうかは別、結婚を恋愛の延長で考えてはいけないとか言う意味で「恋愛感情のゴールで結婚とか思ってるんだ(笑)」というマウントがあるが、待ってほしい。これはマジョリティの考え方でマイノリティを圧迫している。
デミ・セクシュアルというセクシュアリティがある。平たく言うと、恋愛性愛が衝動や突発的な情動の産物ではないタイプである。相手をよく知り、人生ともに歩めるパートナーと思えてはじめて恋愛感情が芽生えるような、そういう衝動とか唐突な恋愛とは無縁なタイプの性的マイノリティだ
このタイプにとっては恋愛と結婚はわりと地続きであり、地続きでも実際あまり問題がない。マジョリティの感覚で言えば、結婚に向いている人が恋愛対象となるからだ
重篤なSEXコンプレックスや異性のトラウマを抱えていない限り
たぶん、次のどれか
他者に対して基本的に性的欲求を抱くことはありませんが、強い愛情や深い友情を持った相手に対してなど、
ごく一部の場合に性的な欲求を抱くこともあるセクシュアリティです。「半性愛」とも呼ばれています。
→ たとえ結婚しても本心から心が通じ合ったと納得できるまで性欲が湧かない
他者に対して性的欲求(や恋愛感情)を抱かないセクシュアリティ
→ 誰に対しても性的な魅力を感じないし他者に向ける制欲がない
宗教的な理由、思想的な理由で、結婚する前のセックスはどんなに好きでもNG
誰になにを言われようが自身にとって大切なポリシーなら大事にすべき
この人だったらカプれるとか自分を選んでくれたからとかよくわからない理由で付き合っている
とりあえずカプれるかではなくそもそもキス出来そうな人をちゃんと選ぼう
あんま関係ないと思う。極端なSEXコンプレックス・トラウマが無いなら
デミセクシャルのように性欲を抱くシチュエーションが極めて限定的なのか
[WIRED] セックスを拒絶する若者たち──アロマンティック・アセクシャル
https://wired.jp/2016/05/08/aromantic-asexual/
「手を握る以上のことは、わたしにはとても奇妙に思えました」。高校に入ると、人生は厳しさを増した。
周囲にアンドロイドだとか血の通わないやつだと呼ばれ、いつも自分が変人であるかのように感じていたという。
彼女は、自分に異常があるのではないかと考えるようになった。医師にも診てもらったが、君はかわいくて若いんだから心配しなくてよろしい、と笑われた。
「情報が何もなかったんです」と彼女は言う。「真っ暗闇のなかにいるようでした」
そこで彼女は、自分が唯一愛せるものである音楽に身を捧げることにした。17歳のころまでに、彼女のバンドは少数ながら熱狂的なファンを獲得し、
本物のロックスターたちが出演する大きなイヴェントの前座を務めたり、そのバックステージに出入りできるようになったりもした。
スターとグルーピーたちのふしだらで乱れた世界に10代で投げ込まれたにもかかわらず、彼女はそんなことにはまったく興味が湧かなかった。
反セックスを誓っていたわけでも、眼前の光景に道徳的に反発したわけでもない。ただ単に心惹かれるものがなかったのだ。
しかし、いずれ自分もそれに調子を合わせることを期待されると彼女は知っていた。よりセクシーなイメージをつくるために、
スカートを短くし、トップスをタイトにするといったようなことだ。幻滅した彼女はロックの世界から距離を置いた。
そんなとき、彼女はネットでジェイムズと知り合った。数カ月の間親しく友達付き合いをしたあと、1年間の遠距離恋愛を経て、
「性衝動という点では、わたしたちは一致していませんでした。でも彼は、わたしには欲情しないようにしてくれたのです」。
ジュヌヴィエーヴは言う。彼は我慢していた。ずっと我慢していたのだ。彼らが出会ってから3年後、彼女はようやく初めて自分のなかで欲望がうずくのを感じ、
彼と性的な関係をもつようになった。
「彼のことを十分に知って、わたしの心が『彼こそがソウルメイトだ』と判断したときに、体のほうもそう判断したんだと思う」。彼女はTumblrにそう綴っている。
あるいはアセクシャルでそもそも他者に向ける性欲を持っていない可能性
セックスする必要性を微塵も感じないけど、他者に向ける性欲がある人ならばセックスを拒否する理由もわからない(婚前交渉NGのポリシーを持つ場合は除く)
男の娘(おとこのこ、おとこのむすめ)とは、肉体的な性別は男性でありながら女性にしか見えない容姿を持つ人物を指す言葉である。
漫画やアニメ、ゲームといったサブカルチャーに触れている人であれば、一人か二人は該当するキャラクターが思いつくであろう程度にはよく知られている存在である。言い換えれば、一定の需要のあるジャンルなのだ。
不満が溜まりに溜まってしまったので、今回は「私が男の娘を苦手な10の理由」をここに吐き捨てていく。
先に言っておくと、私の肉体的な性別は男で、性自認は男、恋愛や性的関心の対象は女性である。
それを前提とした上で読んでいただきたい。
冒頭で挙げた通り、男の娘は女性にしか見えない容姿をしている。
これがもうとにもかくにも厄介である。
というのは男の娘が登場する作品では日常茶飯事である。私も何回かやられた。
女の子を恋愛や性的関心の対象にしている人間からしてみれば、男の娘は詐欺や罠としか思えない。この悪質さがよく分からない人は性別を逆にした「男の娘に見せかけた女の子」をイメージして欲しい。本質的にはそれと同じだ。
一番悲惨なのは、男の娘キャラクターを女性だと思い込み、女性キャラクターとして性愛の対象にした後に判明するパターン。強烈なトラウマになるほか、一部の猛者はそれが原因で“目覚める”らしい。
風の噂では、同人作家がとあるキャラクターの同人を女の子であること前提で作っていたら、後に男の娘であることが判明し、ちんちんを描き足す作業が必要になったとか。
今日も「男じゃねえか!」という悲鳴がインターネットの海に反響する。
これは男の娘がメジャーになったが故の(私にとっての)悲劇と言える。
女児向けアニメにすらいる。ポケモンにすらいる。深夜アニメにも当然のようにいる。
というか草分け的存在の一人、「男の桜ちゃんが好きなんや」でおなじみの有栖川桜はコロコロコミック連載『バーコードファイター』出身だったりする。
もはや「この作品なら男の娘は出ないやろwwww」みたいなのは通用しない。震えて眠れ。
男の娘は女性にしか見えない容姿を持っていることは再三述べた通りだが、彼らは性格や振る舞い、言葉遣いも女性的であることが多い。理由は様々であり、「女性的な外見がコンプレックスであり、それを指摘されないよう最初から女性のように振る舞う」「女性として育てられた」「性自認が女性」といったものがある。
その結果、同じ作品に登場する他の女性キャラクターがボーイッシュだったりお転婆だったりすると、女性的な振る舞いをする男の娘がより女性的ではという風潮が出来上がってしまう。
そこまではまあネタとして許せる範疇なのだが、それが発展して「ヒロインよりも可愛い!」「こいつが真のヒロイン」とか言われてるのを見ると他のヒロインを推している人からしてみれば腹が立つ。
こんな記事を書いている私にこれを言う資格はないかもしれないが、何かを褒めるときに何かを貶める手法は多大なヘイトを買うのでやめた方がよいだろう。
上と近いことを言っているが、微妙にニュアンスが違うので分けた。
性別の違いがある以上、男性目線で言えば、女性には怖いものであるとも言える。
それを考えると、女性の見た目をした男性である男の娘は、「女の面倒くさい部分が嫌な人向け女の子」と言えなくもない。ヴィーガンが大豆で作った肉を食べるように。
だが、それを理由に本物の女の子を否定して欲しくはない。何かを褒めるときに何かを貶める手法は(以下略)。
男の娘が登場する作品において、以下のようなシチュエーションを見たことはないだろうか。
男性主人公と男の娘ヒロインが仲良くなり、ついに恋愛にまで発展する。
だが、男の娘は自分が男であることに負い目を感じており、このように尋ねる。
「私(僕)は男なのに、それでもいいの?」
男性主人公は広い心でこれを受け止め、男の娘と結ばれるだった。
私はこのようなシチュエーションを見ると、「いや、女の子じゃないと無理でーす! なぜなら私は女の子が好きだからでーす!」とか考えてしまう。
男の娘を受け入れることのできる主人公と、受け入れられない私。
完全に被害妄想なのだが、「お前は俺と違って、男の娘を受け入れられない差別主義者だ」とマウントを取られているような感覚に一方的に陥ってしまう。
最近ではポリコレの圧力があるので、それと男の娘が悪魔合体して本物の女の子が好きな我々が攻撃されるのではと、内心ビクビクしている。
ただ顔が女っぽいだけのタイプ、趣味で女装しているタイプ、女の子として育てられたタイプ。
その中でも私が特に苦手なのは、男である自分が嫌で本気で女の子になりたいと思っているタイプの男の娘である。
男はつらい。
いや、女の人にもつらい部分があるのも分かっている。生理があれば体調はしっちゃかめっちゃかになるし、性犯罪に遭遇する危険性もある。
だが私は男なので、どちらかと言えば男のつらさに共感してしまうのだ。どうしても。
強くあれという圧力。女の人と比べて性的な価値が低いことによる、支援や同情を得ることの難しさ及びそれによる孤独・将来への不安。異性から性的な承認を得られないことによる悔しさ。自分の肉体や性欲を汚らわしいと感じてしまう自己嫌悪。それら全てに心当たりがある。
最近オタクが「美少女になりたい」と語っているのをしばしば見かけるが、これは男であることのつらさが関係していると思える。
私は男でありながら女性らしくあるタイプの男の娘が持つ「男である苦しさ」がなんとなく分かってしまうので、見ていてつらいのだ。「生物学的メスに成り損なった落伍者」「性別ガチャの敗者」といった悪口を吐き捨てては、それがブーメランになって返ってくる。創作物の世界ぐらい、正真正銘の女の子を見て癒されたい。
(7)荒れやすい
その理由の一つは男の娘という属性が、他の属性と混同されやすいからだろう。
具体例としては女装男子というものがある。これは単に女装している男を指すので、一目で男と分かる場合でも含まれる。つまり、男の娘と女装男子は異なる定義を持つのだ。混同すれば、愛好家からのバッシングを受けることだろう。
他にも、美少年・ショタ・TS娘・ふたなりといったものと男の娘をごっちゃにした言動を取れば、炎上すること間違いなし。
このように定義付けで荒れる男の娘界隈には「怖い」という印象があるのだ。
長々と男の娘が苦手な理由を語ってきたが、これをもって男の娘を滅ぼそうとは思わない。
こんなにも広まってしまった以上、男の娘を蛇蝎のごとく憎んでいる私の方が時代に取り残された淘汰されるべき存在なのだろう……そう考えているからだ。
私は世界から隔絶された洞窟に潜み、生物学的に女性であることが保証された女の子だけを愛好し続けることにする。
佐藤と鈴木を組み合わせて、「佐鈴」だの「さとすず」だのと書いたり読んだりする。
そこに意味を持たせる界隈がある。
もちろん、攻めといったら穴に棒を入れるほうで、受けといったら穴に棒を受け入れるほう。佐藤が鈴木の穴に棒を入れるということだ。「鈴佐」だったら、攻めの鈴木と受けの佐藤で、鈴木が佐藤の穴に棒を入れることになる。
これは何にもかえがたい規則である。佐鈴の鈴木は、佐藤の穴に棒を入れてはならない。鈴佐の佐藤は、鈴木の穴に棒を入れてはならない。上の穴だろうが下の穴だろうが関係ない。例外はない。
例外はないので、佐藤も鈴木もどっちもどっちをやりたいときは、「佐鈴佐」とか「鈴佐鈴」とかって書くことになる。「リバ」というやつだ。佐藤も鈴木も下の穴でもいいし、佐鈴の佐藤が鈴木の上の穴に棒を入れてもいい。そういうときは、「佐鈴佐」とか「鈴佐鈴」とかって書かなきゃいけない。
何の話だっけ。佐鈴を佐鈴と書かなきゃいけない界隈の話。
書かなきゃいけないんだよ。佐鈴も鈴佐も佐藤と鈴木だけど、佐鈴は鈴佐じゃなくて、鈴佐も佐鈴じゃなくて、佐鈴も鈴佐も佐藤と鈴木では駄目なのだ。
でも駄目。
検索避けのためである。この界隈では、佐藤と鈴木の恋模様を特殊性癖に分類しているのだ。人を選ぶと言い換えてもいい。佐藤と鈴木の恋模様は、到底、一般人の目に入っていい内容ではない。
つまり、純粋に「佐藤」と「鈴木」を求める人のための検索避けである。ここで「佐藤」「鈴木」のタグを並べては、彼らの検索を妨害しかねない。佐藤と鈴木の恋模様は特殊性癖なのだ。こちらも特別なタグを使うべきだ。
ということで、一般人の検索を妨害しない、検索避けのための特別なタグがこちら。「佐鈴」「鈴佐」。ぜひ、佐藤と鈴木と穴と棒の関係に従って、適切に選んでほしい。
それでは。この日記は、あなたのすばらしい特殊性癖ライフを願う佐鈴の提供でお送りしました。
佐藤と鈴木の穴と棒に相談してください。彼らの将来を想像するのも悪くないと思います。
「佐鈴」も「鈴佐」も使わなければいいと思います。だからといって「佐藤」「鈴木」のタグを使うことはしないでくださいね。純粋な気持ちで「佐藤」と「鈴木」を検索する一般人の目を汚すことになるので。
って感じ。
いわゆる二次創作の、いわゆるBLの、いわゆるCPの、っていう界隈の話なんですけど。よそのことは知りません。
穴も棒もわからない佐藤と鈴木の恋模様には、どんなタグを付ければいいんだよ。いや知ってるよ。原作の題名にしれっと「腐」の字を混ぜた特別なタグがあるもんな。一般人とのすみわけのために、原作の題名やら略称やらは使わないで、この特別なすみわけ題名タグを使わなきゃいけないんだもんな。でも佐藤と鈴木がいることをどうやって伝えろっていうんだよ。
あっ、すみわけ題名タグを使ったときは例外ですか。そうですか。これですみわけができたから、佐藤と鈴木をそのままタグにしても問題ないってか。
じゃあ「佐鈴」「鈴佐」は? あっ、すみわけ題名タグがなくても、特殊性癖を意味するタグですか。あっそう。そうだよね。インフルエンサーが2人を組み合わせて「佐鈴」とか「鈴佐」とかって呼んでたらびっくりしちゃうよね。わかるわかる。
嘘。大嘘。わかりません。わからん。わかんね。こんなありふれた呼称が何だって?
コンビタグとかグループタグとかっていうものがあるんですけど、これは佐藤と鈴木の恋模様ではない関係を描いたことを表すタグで、たとえば佐藤と鈴木が2人でたばこ休憩するからって「たばこ休憩組」って呼ばれたりするんですけど。ですけど。
なんで特殊性癖じゃない関係のほうが、こんな特殊っぽいタグを使うんですか。なんで、あんなにありふれた「佐鈴」が使えないんですか。意味わかんねー。せいぜい、すみわけ系題名タグと「佐鈴」を併用したときにだけ特殊性癖を表すことにしろ。そうでもないときにちょっとインフルエンサーが「佐鈴」を呼んだくらいで発狂するな。
そもそも二次創作BLは特殊性癖か? 男と男の恋模様がそんなに特殊か? 特殊って言えるの? 今? 現代? 令和ですけど!? いやべつに特殊だろう普通だろうと、インフルエンサーがBL前提で「佐鈴」を呼んでもよくない!?
あっ違う? そういう差別的な意味ではない? 今だからこそデリケートな話題だからこその配慮ってやつ? そこまで配慮したいならタグじゃなくて、おまえの二次創作を読む人間が必ず通るところで説明しろ。文章で説明しろ。
「BLです。男と男の同性愛描写がございます。現在、同性愛を含めて、ジェンダーはデリケートな問題を孕んでいます。こちらの二次創作は、そうした問題について無神経な書き方をしているかもしれません。ご注意ください」
みたいな?
それともこっちか?
「原作で同性愛者と言及のない男性を同性愛者として描写しております。捏造です」
「原作で異性愛者と明確に言及されている男性を同性愛者に変更しました。捏造です」
まー二次創作なんか全部だいたい捏造ですけど。つーか、ジェンダーについて言及のない登場人物を異性愛者前提で扱うのもどうかと思うけど。もう原作にない恋愛(性愛)関係のすべてを警告しろ。
「この二次創作は、原作で言及のない恋愛(性愛)描写を含みます」
一部の方々のアレであることはわかっているんですけど、私みたいに嫌な思いをする人間もいるので、もうなんか「すみわけ」の気配を察知するだけで涙が止まらなくなり、日常生活に支障をきたし、今も泣きながら、このどうしようもない思いを吐き出したらすっきりするのかなとか考えながら、これは好みの話ですが、鈴木が受けに回った瞬間どうしようもなくメスになる現象が苦手です。
年取るにつれてBLコンプライアンスがどんどん厳しくなり「風邪ひいた受が色っぽくて抱く」「仕事中に会議室で」「温泉の露天風呂で」などの昔は読めたものがコンプライアンス違反で読めなくなってしまってきた🙅🏻♀️
BLコンプライアンス、別にいいっスけど、このひとナルトのカカシ先生とイルカ先生のカップリングやってるんだよな
カカシ先生とイルカ先生、俺の記憶だと同性愛者とは読めなかった というかまあそれだけならまだ許せるんだけど(追記:一貫性を保つならやっぱここ許しちゃダメだな!)、カカシ先生の方はどちらかというと異性愛者に見えたぞ イチャイチャタクティクスとか好んで読んでたし(まあ同性愛者でも異性愛の恋愛本くらい読むだろうけど!) アニオリでカカシ恋歌なる回があったという情報もあり、とにかく同性愛者とは看做しにくい
ええのか?勝手に定めたあんまり原作に沿ってるとは言えないセクシャリティをキャラに押し付けて二次創作するのはええのか?
俺的には風邪ひいてるときに(合意の上で)セックスするより、他人の生み出したキャラのセクシャリティを歪めて二次創作することのほうが「コンプライアンス」違反に見えるんですけど……
アレなのかな カカシ先生もイルカ先生も原作中で恋愛描写少ないし、かなり綿密な読みのもと同性愛者だったって結論を出した上でやってんのかな それならまあ文句もねえけどな……
異性愛でもそうだけど、カップリングってポリコレ的にかなり危ないと思うんだよ 明確に描かれてないセクシャリティを貼り付けちゃダメでしょ
カカシ先生に関しては異性愛者もギリセーフ(?)、イルカ先生は完全に謎 アセクシャルの可能性もある
アセクシャルキャラに恋愛させるのはアウトじゃん異性愛でも同性愛でも両性愛でも
いや、本音を言うとどうでもいいよ
でも合意とかその辺を重視するならそれよりもっと根幹の部分にも注目するべきなんじゃねえかって話だ
ホモフォビアとか言って差別主義者扱いしたら勝ったことになるって考えが気に入らん 俺は異性愛カップリングもダメさでは同じだと思うぞ
富野作品には厭世観や人間不信が感じられるので、生殖や恋愛への否定を予想して見ることになるのだが、いつの間にか性愛への肯定描写がされていて、そこがうまく繋がらないのだ。
下世話に言えば、アムロもカミーユも機能不全家庭育ちで恋愛や家庭への不信をこじらせ幼なじみにも冷たい非モテっぽいのに、ララァやフォウとは出会って即スマートにいい感じになるのはNTの共感を踏まえても納得できないってこと。
これは富野自身が結婚し子供を作っていることへの「こんな作品作ってて家族持ちなの!? だから子孫肯定なのかもしれんけどよく結婚する気になったな!?」という戸惑いとも近い。
アムロもカミーユも家庭を省みず仕事にのめり込んだり不倫する両親を軽蔑していたし同時にそんな親に愛されたかったけど叶わなかった
そこで「あの両親を見て恋愛なんかする気が起きる訳ないだろう!」とはならず気になる女を見かけたらすぐに口説いて親密になろうとしてしまう
その理由は簡単で、単純にあの二人は性欲が強くその上で自分の欲望にとても正直なので、両親という最悪のケースを知っていても性愛を肯定出来てしまう
アニメだと生々しすぎて描かれなかったけど、小説版ではあの二人が戦争に巻き込まれる前頻繁に自慰を行っていた事や女性を性的な目で見ていた事が明かされている
アムロはセイラさんと寝たり親父のPCでエロ画像見ていたり、カミーユはファの体操着の写真を性的なオカズにしていた事が匂わされていた
他人と一緒になっても良い事なんてある訳が無いだろう…って諦観と、それでも異性とやりたくて仕方ない…という本能の肯定が同じ作品で描かれるのが富野作品の生々しさなのかもしれない
「それが事実であろうがなかろうが、いい加減弱い立場の特有性ばかりしたり顔で語るな」という話なんですよねぇ。
「女性の○○」というものを語る時、それが事実であろうがなかろうが、それを語ること自体が女性蔑視に基づくものであって、「いい加減『男性の○○』も語れよ」という反論はありうるわけで。
「オタクの○○」とか「アニメや漫画の○○」も同じで、「いい加減『人間の○○』『人間関係の○○』『対人性愛の○○』についても語れよ」という反論がなされているわけで。
二次元美少女の表象が社会的な文脈・ミームと無関係ではいられないからって、だからなんなんだよ?
分かりやすくなるようにアムロというキャラクターに着目した表現をしたけど、アムロなりシロッコなりカロッゾなり、個のキャラクターだけを見て「はいこいつの言動はモラル違反~!そういうキャラがいるから富野作品もモラル違反~!」と怒ってるっつうワケではない。
確かにそういう心理になりがちだから、私にその部分がないとは言い切れないけど、距離を置きたいとは思っている。
私としては、富野のキャラクターたちはそこそこ色んなスタンスの人間がいるのだが、全体の流れや演出だと、前半は厭世が強めでも結末部分には性や生殖の肯定が感じられる、そしてその肯定に唐突さがあるという方が本丸である。
流れや演出からなんとなく感じたものなので説明が難しいのだが。
Zなんかは、基本的には鬱屈が漂ってるくせに誰もかれも妙に色恋に熱心で、その色恋のせいで死ななくてもいい人もたくさん死んだのに、それにも関わらず露骨なセックスのメタファーを感動的に描いたラストで終わる。
F91もそれに近い。F91はシーブックはそこまで鬱屈してないが(なんか母親と距離感じたけどな)、セシリーに家庭環境のヤバさと生きづらさと情緒不安定さが付与されてて、そんでラストはイチャついて終わる。
初代と逆シャアの組み合わせは、ララァとの出会いが結局アムロにもシャアにも深い傷になってるし、逆シャア内だけでも男女のもつれでゴタゴタしてるし、ケーラもアストナージもクェスもギュネイもチェーンも死ぬし、やっぱ性愛ってダルいぜと思わせてるけど最後は命の力で命が救われて命って大事って雰囲気になる。
他のトラバに「生命賛歌が共通してある」という言葉が出てて、確かにそういうニュアンスがあると思う。
そしてその生命賛歌が、急に出がちな気がする。
私が見た限り「色々しんどい場面見せたけど、でもやっぱり生命ってステキだよね!」という感じなのだが、その「でもやっぱり」の根拠が薄いと思うんだな。
しんどい場面たちは相当な説得力をもってシーンが重ねられるのに、生命のステキさは自明の事のようにポエムっぽい演出で描かれて、置いてけぼりにされてしまう。