はてなキーワード: 広報とは
虚構新聞の記事では、「日本ユニセフが、使途が不透明だとして批判されてきた同団体への寄付金について来年度から透明化を徹底させると明らかにした」と書いてあるから、ある程度公開しているのは知ってるでしょ
で、その既に「透明化されている物」に対しても批判はされている
では、その大金を何に使っているのか。内訳は募金活動事業費(約14億5000万円)、啓発宣伝事業費(約5億円)、管理費(約3億円)など。職員わずか36名の団体が募金を右から左に動かすだけで、30億円近い活動費を使うことには違和感もある。職員の給与は「地方公務員並み」(日ユニ広報室)というから人件費だけでは数億円だろう。
http://www.unicef.or.jp/about_unicef/pdf/syusi_yosan2013.pdf
役員報酬計 18,479,000円
福利厚生計 58,645,000円
雑費計 17,883,000円
業務委託費計 1,099,569,000円
職員数は66名らしいので給与総額はこんなもんだろうが
それにしても雑費と福利厚生が多すぎるし
あと業務委託費って何?10億円以上も業務を委託するなんてありえる?
正しい批判かどうかはともかく。
サードブロガーという単語に集まる人達に何か奇妙な感覚を受けてて
やっと気付いた。いわゆるこいつらの正体は、はてなブログを「公式様」と呼ぶ。
むしろ、この広い世界を、はてなが全てを回してると思いこんでいる。
確かに、アルファブロガーとか言われた実態の近くには
でも、彼らはインフラとして、それを利用するだけで
そういうものじゃなく、孤高を目指すのに、なぜか慣れ合う。
今、はてなは変化している。
個々の寄り合いにより形成されていた村社会とは異なるものに変化している。
うっすらとだがある特定の方向性を付けられ、そこに向かうよう誘導されたモノ達が増えている。
名ばかりの村長は引退して、表には出ない本来の管理者達が、この町の都市開発を始めた。
もう、村では無いのだ。はてなは町になった。
はてなの広報がやってる活動で、結構前からやってたんだろうけど
はてなブックマークがビジネスツールのインフラとして成功したことによって
効果があらわれて見えてきたんだろう。
でも、やり方に失敗してる。
彼らブロガーは、独り立ち出来ない。依存を繰り返して自立しようとしない。そして視野が驚くべきほど狭い。
彼らの話題は議論の場を提供するものではなく、10代しゃべり場を見せつけてるようなもので
恥ずかしくなり、さらにどうでもいいい。
全然良い方向に向かってない。
http://takeiteasy.hatenablog.jp/entry/2013/10/25/195623
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/10/26/004018
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/10/26/003855
http://anond.hatelabo.jp/20131008150622
これぶっちゃけ特定の人向けに書いたんだけど思いっきりサードブロガーに並んでた
増田のキテル感
http://anond.hatelabo.jp/20131025130255
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/10/30/150443
id:kawapara3 さんへ
無断転載ってなに?ってことですが
著作権法で許可された転載可能条件から外れた転載になると思います。
ウィキペディアによると
転載可能条件とは
日本の著作権法では、出所を明示すれば著作権者の許可なしに自由に転載してよい著作物は、以下3つのみである。
説明の材料として使う場合に限定して「国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物」(著作権法32条2項)
「新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く)」(著作権法39条1項)
同一の著作者のもののみを編集して利用する場合を除き、公開して行われた政治上の演説又は陳述及び裁判手続(行政庁の行う審判その他裁判に準ずる手続を含む)における公開の陳述(著作権法40条1項
らしいです
自分の定義としてもうちょっとざっくり言えば、は著作権保有者に無断でコンテンツをそのまま使用する行為ということを指しています。
どうも、お久しぶりです。
今月はじめに、「日経新聞で紹介された小学校のネット教育」について、「このネット授業に賛成する人の意見が聞きたい。」という増田記事でみなさんにコメントを求め、基本全レスしてた元増田です。
あの記事中にも書いたけど、このネット教育について件の小学校に問合せた。するとなんと、この授業を行い、なおかつ教材の開発者でもある、岐阜聖徳学園大学の石原教授ご本人より、返信のメールをいただいた。
はてな匿名ダイアリーへお名前を出して掲載する旨も了承を得ているので、ここでそのメールを紹介する。
このメールは9/5にいただいたが、ひとえに私の怠慢により3週間後のこのタイミングとなったことを石原教授にお詫びします。きっと少なからず気をもんでおられたと思います。申し訳ありませんでした。
《問題となった日経記事》
岐阜聖徳学園大学付属小学校(岐阜市)の6年生の授業をのぞくと、児童たちがタブレット(多機能携帯端末)のチャット機能でコメントをやりとりしていた。匿名なので書き込みは徐々にエスカレート。5分ほどで相手を誹謗(ひぼう)中傷する言葉が増え始めた。そこで教師が手元のボタンを1つ押す。するとチャット画面上に実名が表示され、楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れた――。
なお、URLとタイトルは9月上旬に私が初めて見た時から変更されているので参考までに載せておく。引用部分については変更されていない。
《ネット上の反応》
この授業のやり方に対して、2ちゃん、2ちゃんまとめサイト、はてブ、ツイッターなどで散々な批判が浴びせられた。まとめサイトは400以上のブックマーク、2000のツイート、800のFacebook「いいね」を集め、私の増田投稿も100以上のブクマがついた。Googleの検索結果を見ても日経記事を発端に、この授業が批判混じりに面白おかしく取り上げられている様子がわかる。
主な論調は「匿名と言ってチャットさせて後から実名さらすのは酷い」といったものだ。私も記事を読み、そう思った。
思っただけでなく、「どうなのこの授業?」という主旨で増田に投稿し、授業に賛成する人(・・・も約半数みられた)の意見を聞かせてもらった。冒頭で「全レス」したと書いたのはこのときの話だ。
その中で、やはりどうしてもこの授業について当事者の話を聞いてみたいという思いにかられ、問合せをしたところ返ってきたのが、これから紹介する返信ということになる。
とにもかくにもメールをご紹介します。メールの改行されてしまったところの調整等をのぞき、そのまま貼り付けています。
岐阜聖徳学園大学附属小学校の情報モラルの授業に関して、多くの関心が寄せられておりますが、スレッドを拝見しますとその中にはいくつか誤解も含まれているようですので、教材の開発者として、また今回話題になっている授業を行った授業者として実際の話をさせていただきます。
実はこのスレッドの元になった日経新聞の記事は実際の授業の様子を正確には伝えておりません。
記事を書かれた記者の方は、実際に授業をご覧になったわけではないからです。
記事では実際にご覧になったような臨場感を感じられますが、教材の開発に関わった企業の広報や授業の一部のビデオ映像などを取材されて書かれたものです。
そして記事の内容は、私が授業で意図したものと全く異なります。この点について説明させてください。
記事では「5分ほどで相手を誹謗中傷する言葉が増え始めた。」とありますがこれは事実に反しています。
実際の授業でも実名と匿名でそれぞれ5分間書き込みをさせたのですが、匿名のチャットでは一部の児童が意味不明の文字を連打したり、少し乱暴な言葉を使ったりしただけで、相手を名指しして中傷したり、誹謗するような書き込みをした児童は一人もおりませんでした。「・・楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れたーー。」も実際の授業を見られたわけではないので記者が想像して書かれたものです。気まずい空気が流れたわけではありません。
実際の授業を想像してください。担任が見守る中でクラス全員でチャットを行って、わずか5分で相手を誹謗中傷する書き込みをする児童が現れることは常識的にあり得ないことです。
もしそのような状態であれば、情報モラル以前のクラスだといえるでしょう。
端的に言えば、私の行った授業は、「児童にわざと誹謗中傷の書き込みをさせたうえで、見せしめのために実名をさらす」というものではなく、実名と匿名の違いを理解させ、匿名でも実際には本人を特定できることを体験的に知らせることがねらいです。
児童の人権に関わることなので、チャットを始める前に「相手を傷つけること」、「意味の分からないこと」、「乱暴な言葉遣い」、「汚い言葉を使うこと」はやめようと、それぞれ実例を示して指導しました。また、匿名の書き込みを実名に変換する前に、児童に「実名に書き換えてもかまわないか」と確認を取り、もしひとりでも「いやだ」と言う児童がいれば実名には書き換えないつもりで授業に臨んでいます。
日経新聞の記事が一人歩きして、教師による児童へのだまし討ちの授業のような印象を与えてしまって多くの方に心配をおかけしましたが、実際にはそのようなことはありません。この授業のせいで学級内でいじめが起きたり、人間不信が生まれたりするようなこともありません。附属小学校のスタッフの皆様や何より子どもたちや保護者の皆様の名誉のために、あえてこのような場で実名で発言させていただきました。
読んでいただくとわかるように、2ちゃん、まとめサイト、私の増田などを大いに騒がせたような「事実」はほぼ無かったと、日経記事での報道内容をほぼ全面的に否定している。具体的に、記事と異なる点をあげると下記のとおりだ。
記事の引用箇所たった185文字の中に、当事者の話と異なる点がこれだけあることが驚きだ。
このお返事をいただいてすぐ記事の内容について日経に問合せたが「新聞社の原則として、特定の記事に関して個別に見解を表明するというようなことは致しかねます」ということで、返事は得られなかった。
ここまでが一連の流れである。よければもう少しお付き合いください。
そしてもし気が向けば、この増田をブクマしていただけると嬉しいです。
《本授業について現状での自分の考え》
ここで「日経記事は間違いだった!」と短絡するつもりはない。
しかしながら、石原教授の主張には、名前を出して掲載することを許可いただいた時点で一定の信頼性が担保されていると考えてよいだろう。
もし主張に間違いがあれば、もっともダメージを受けるのは石原教授だからだ。
元増田で「日経記事をうけてJ-CASTが小学校の教頭にインタビューした記事がある」ことをブコメで示唆してくれた人がいた。
そのとき私はJ-CASTの記事は、授業の具体的内容や日経記事の誤りについて指摘していなかったし、学校を代表して教頭が当たり障りのないコメントをしているのかな?程度の印象しかもたず、判断保留としながらも、日経記事に重きをおきたい旨を書いた。
しかし上のような状況で、明確に日経記事を否定された今となっては、まったく逆の心証を抱いている。
仮に記事中に事実と異なる記述がなかったとしても、それでもまだ問題がある。つまり、チャットで児童の実名を出す前に確認をとったことを書かず、事前に説明や指導がなされたことも書かず、私も含め多くの人に授業方法に問題があるかのように錯覚させる記事となった。
まとめるとこうだ。日経はこの授業を実際に記者が見て取材することをせず、事実ではないことを書いた可能性がある。また、授業の説明として必要と思われることを書いていない。その結果、岐阜聖徳学園大学附属小学校の指導者、児童はじめ、関係者の名誉を損ねたおそれがある。
石原教授には、上に紹介したメールはもちろんのこと、その前後のやりとりにおいても真摯に対応していただき、大変感謝しています。にも関わらず、この投稿が遅くなってしまったことをあらためて、お詫びします。
なお、この増田記事自体が「石原教授」自身が自演で書いているのではないかという勘ぐりもあろうが、冒頭の元増田にこの記事へのリンクを貼ることでその可能性は排除できると考えている。
《あの記事が出た時点でなにができたのか?どうすべきだったのか?》
例によって長くなったがここまでで書くべきことは書いた。
ここからはおまけみたいなものだが、自分にとって必要なことなので書いてみる。
まずは結果として事実でないかもしれない記事を元に増田に投稿したことについて。
一般的に、新聞記事を元にネットであれこれ議論するのは、それが匿名の増田のような場所であっても、それほど不当なことではないだろう。
もちろん誹謗中傷が含まれるのは論外だが、そうでなければ一次情報に当たらなかったからといって非難されることはないように思う。
その上で書くが、もうすこし慎重になることはできた。
実は投稿する前に、記事の真偽について吟味する手間を省いたことを認めないといけない。
俺はあの日経記事には、そのまま鵜呑みにしてはいけないサインがあったと思ってて、俺はそのサインに気づかないふりをして増田を書いた。そこを今反省している。
サインというのは石原教授も触れている「5分で誹謗中傷が増え始めた」というくだり。ここはブコメで指摘している人もいたが不自然だ。普通に考えると5分で誹謗中傷が「増え始めた」と表現できるような状態になるとは想像しづらくて、記事の表現に無理があるように思える。
だからといって他の部分まで「嘘」とはいえないが、記事の信憑性に疑問を持つことはできたかもしれない。そして増田への投稿をやめようかとブレーキをかけるくらいのことはできたかもしれない(ただそうすると小学校に問い合わせることもしなかっただろうし、結果としてこの記事の信憑性についてより深く疑問をいだくこともできなかった)。
次に、やはり避けて通れない日経の取材について。これはちょっと分からないところがあるので、もし知っていたら教えて下さい。
石原教授の言葉が事実だとした場合、今回の記事がこの記者の個人的な失策で、かつ、普通ならまず起こりえない失策あることを願います。
さらに余談を重ねる。
事実ではないかもしれない記事をベースに騒いでしまったという反省はありつつも、今回の件を通して自分なりに子どものネット教育について考えを深めることができた。俺自身は教育者ではないが、親としての意見だ。書いてあることはたぶん色々なところで言われていることの焼き直しみたいな内容になっていると思うのであしからず・・・。自分の考えを整理するために書いています。
このような状況下で「失敗を通して学ばせる」というのは少々乱暴な話で、失敗の程度は大人が積極的にコントロールすべきだろう。いくら野球が大好きでも、小学生をメジャーリーグの試合に出場させたら命の危険にさらされる。成長度合いに応じてステップアップさせるのが最善なのは言うまでもないことだが、なぜかネットの話になると「とりあえず放り込んどけ」みたいな論がまかり通る。それは大人が責任放棄していることだと気が付かないといけない。
などなど、個々の家庭レベルでもやれることはたくさんある。
ちなみに中学生(高校生、大学生)になるまではスマホもケータイもPCも触れさせないという選択もありそうだし、実際やっている家庭もあるだろうが、それだと子どもにネットとのつきあい方を教える機会を持てないし、やっぱりネットを正しく使って欲しいという気持ちがあるので、小学生のうちでもどんどん使えばいいと思っている。
《日本経済新聞社へ》
返事ください。
世界遺産に犬連れてきて、絶対悪さしないと思うのかねということ。
これについては、社会的には犬を許可したり許可しなかったりするのは自由だから受け入れる側の問題でしょう。(盲導犬は完全に別枠だけど。)
別に子供だろうがなんだろうが絶対悪さをしないとはいえないんだから。
まあ、人間様は生き物の頂点だから、単にペットとして、人間のために飼ってる、と堂々と言ってる人には文句はないな。
俺だって家畜の肉食べてるし、動物を下に見てるのは間違いない。「自分の癒やし」のため、動物を飼うなら、まあ、一種の道具みたいなもんだし、
馬車とかで使う馬と一緒だし、別にいいよ。
が、一方、ペットを家族だとかそういうこと言い出す奴は矛盾し過ぎて駄目。それこそ、それなら山に離して返してやれよ、って思う。
残念ながら家畜化された犬は自分で餌をとる能力すら奪われてるからそうすると死ぬだけだけど。どちらにしろ不幸。
だって、家族とか言いながら、はてなとか言う会社の半公式みたいなブログで、死んだ犬の写真載せちゃうんだぜ。
恐ろしくない?
会社の広報担当的な人が死んだ時、これが死に顔です、って言ってブログにあっぷして、
それにみなが「いいね!」ってやってるのと実質おなじなんだぜ?
「『将来の職業の6割は、今まだ現存してない職業になるでしょう』とのアメリカの研究があります」
「つまり、あなたのお子さんの6割は、まだ現存してない職業に就くことになります」
という話をしたところ、「ママ連に不安と動揺が広がった」とウチの妻が言ってた。
はてな村を定期巡回している自分にとっては、このネタは既知のネタだが、
http://b.hatena.ne.jp/entry/japan.cnet.com/news/business/35018390/
ちょっと考えてみればよ~くわかる話なんだが、
こういうプリミティブな教育情報も、案外保護者って、知らないものですね。
艦これが爆発的にヒットしたのだけれども、それがガールフレンド(仮)のような大々的宣伝でなく、口コミによって客足を伸ばしたものだったというのが驚きであったのは周知の事実。ま、その口コミっていうのもヒラコーショックとまとめブログのおかげなんだけども、ヒラコ―が発信したのは偶然だったとしてもその拡散はDMMの狙い通りであったというのが今回の記事の趣旨。
まず、艦これサービス開始にさかのぼること1年前にDMMがちょっとした組織変更を行っているのが重要で、2012/4/1からDMMは「ネット事業広報・協力部」なる組織を発足させている。広報の方はぶっちゃけ元からあるに決まっているだろうが、協力というのがみそでこの部署が出来てから、ツィッター上でのDMMの言及数が2012年3月1比で、2013年6月1日には2倍の11293ツイート、9月には3倍の16862ツイートなっており、何をしている部署かは明白だろう。DMMという会社名をツイートすること自体がある種不自然なわけで、ここからステマの実態ぽいものが見え隠れする(発言したアカウントが新しいものかそうでないものか確認作業できる方いらしたらお願いします)。もともと、ヒラコーショックが起こる前から艦これはブラウザーゲームではヒットしていた部類であり、もともとツィッターで(じわじわ)広げていったゲームが平野氏の発言に爆発的にというのがヒットの実態で、平野氏の発言によって「ネット事業広報・協力部」の真価が発揮されたとみえる。
さて、ヒラコーショックでの真価の発揮というのが、もともとあったツィッター工作とまとめブログ工作によるもので、前者は上記のごとくだが、後者においても2012年3月31日に主要2chまとめサイト50サイトの内、DMM関連の広告を出していたものが8サイトしかなかったのが、6月31日に、23サイトとなっているのが興味深い。もっともそれらのブログが不自然な艦これ推し、あるいはDMM関連商品推しをしていたかは怪しいところなので、これはどっちかというと「広報」の域を留めるものなのかもしれないが、ヒラコーショックでの「協力」ぶりは半端なかったのも事実である。
とここまで書いていて、所詮陰謀論だろと疑われること間違いなしなようなので、もっと直接的に書くと
「…(中略)…弊社のネット事業とネットユーザーから認知されている事業に乖離があり…(中略)…こうした認識のギャップを埋めるネット事業の広報、そのための各種協力団体・個人との連携が必要である。…(中略)…①より効率的な広告活動の実施、②SNS、Twitter等の利用による各種連携…」
がネット事業広報・協力部の設立趣旨で、これを基に工作を行っていったわけです。
ま、それでも艦これがここまで成功するとは夢にも思いませんでしたが、ネット事業広報・協力部の一助よって艦これがヒットしたということで、「艦これがヒットしたのはDMMのネット戦略の転換があったから」というややミスリーディングなエントリを閉じたいと思う。
冷蔵庫に入るのは、どれほど重たい罪なのか。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130904/1378297680
↑とか読んでて思うんだけどさ、そんな難しい話にゃなってないと思うんだよね。
罪だとか罰だとか、裁くとか正義とか、そんなたいそうな話には"まだ"なってないと思うよ。
いつもの日本と同じく、責任を負いたくないから出てくる対応ってやつだろ。
あれで、おまわりさんが「気がつかなかった」って言ってんだけどさ、
そう言うこともあるかも知んないけど、ありゃあ「なあなあ」ってヤツだろ。
オイコラ警官ってのは嫌われるけどさ、バカは一発殴って小一時間説教ってのがまあまあ効いてた頃もある。
軽犯罪にひっかかったり、器物破損になるようなモンだって、説教で済んでたりした。
何が言いたいかって言うと、
昔っからバカはいたし、町内ではそいつがバカだってのも見えてた。
単に、周りが寛容で、ま、殴ったり殴られたりでもそれはそれでうまくいってた。
で、だ。
バカが「こうなご云々予告」で捕まったりするだろ。
あれが「バカの可視化」とか「ネットの正義感が」でどうのってのは、違う。
被害届があったとしたって、捜査する義務はない。(告訴とは違う)
でもだ、じゃあそのとき本当に学校で無差別殺人が起こったらどうなるだろうか。
目の前でバカが「こうなご!」って騒いでりゃ、バカ扱いして説教すりゃ済む。
だが、学校から被害届が出れば、それは捜査しなければならない。
バカの可視化が問題でもなければ、周りが不寛容なわけでもない。
正式なルートに乗った場合、それに「対応しない」のは「対応しなかった責任」が生じる。
つまり、「正式なルートに乗っている場合は、正式に対応する」のが正しい対応だ。
それに対して対応しないというのは「あの店はアレを許す店だ」と認めたことになる。
それにクレーム係が責任を取れるだろうか。広報は?法務は?株価に責任を持つ経営陣は?
なら、どう対応するか。
消毒をするだろう。入れ替えるだろう。返金にも応じるだろう。
誰もが責任なんか取りたくない。
じゃあ、全く逆に、裁量で握りつぶせる場合はどうなるだろうか。
例えば、あやふやな情報での「あんたんとこの社員は割れ厨だ」みたいな通報。
未成年者の飲酒も喫煙も罰則はなくても明確に法律で禁止されている。
それよりも、明確にはどの法律に違反しているか判らないような、バカ行為で大学が謝罪して処分したりしてる。
これらも全く同じで、「あの大学はあれを許す大学だ」ということが公になったときの責任を取りたくないからだ。
まだメディアの力は強いよ。
Twitterでバカが騒ごうが、それに対してクレーム入れようが、別に対応する義理は無い。
内々でなあなあに済ませたって、別に何の問題もない。
でも、
『その後「事実関係の裏取り」をされて「クレームを入れたがなしのつぶてだった」と報道されたら、どうなるか?』
と、企業側が考えたらどうなるだろうか?
1人2人がブログで騒いでたって、まだまだたいしたこた無い。
それをネットメディアが記事にして、それを元に新聞社が動いて、ワイドショーあたりでネタになったら終わりだ。
だから、それに対してインセンティブのある(売り上げ低下、株価下落、担当者処罰の責任を取りたくない)者が、行動を起こす。
ひらたくいや、「訴えが正式ルートにのった」ってのが可視化されるようになったのが、問題の本質だと思ってる。
結局の所、関係者から正式ルートで対応依頼が飛ばない限り、面倒ごとは無視される。
飲食店や小売店が炎上騒ぎに敏感に反応するのは、飯食う人間や買う人間がみんな関係者だからだ。
そして(例えそれが愚かだったり感情的だったとしても)一定数の関係者が嫌がってれば、メディアはニュースバリューがあると判断する。
これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。
この作品を読み解く上でもっとも重要なキーワードは『風立ちぬ』である。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄の小説『風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。
商業的立場に基づいたパッケージングと広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然極まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機と大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。
とはいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢に質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬ』である。
多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品からの引用がちりばめられている。しかしおそらくその意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からのシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。
日本文学の伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったものと定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。
一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要な機能を果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。
しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである〝文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失が自然と不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである。
そうして状況が収まり、不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。
このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。
そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語を区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るものを主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。
先の見えない時代。戦前の文学の匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画のタイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。
(続く)
確かに過去は辛かったのかもしれません。が、それは貴方に絶対的な能力がないからではありません。貴方は貴方なりに自分をしっかりトレーニングしてきているのです。
算数や数学は、社会に蔓延する様々な問題を解決する道具のひとつです。人によっては算数ドリルが好きで、応用が苦手という人もいるでしょう。そういう人は帳簿つけには向いていますが、例えば経営コンサルには向いていないでしょう。
貴方は、人に言われたことの理解が遅くて悲しいと言っていますが、本当にそうでしょうか?例えば、設問を変えて(上司が貴方に次の仕事の話をする設定で):「今度のクライアントは、下町の細い路地にある八百屋なんだ。ちょうどサザエさんに出てくるような八百屋でね、奥さんと旦那さんと二人での家族経営だ。一人娘もたまに手伝っているんだが、店で林檎を売ることにしたのは娘さんアドバイスだろう。林檎は三個セットでひとつのザルに入っているんだ。」と言われても貴方にはそれほど苦ではないでしょう。多くの人は貴方より先にストップになると思います。
ある意味、貴方の情報処理の仕方の方が、コンサルとかマーケティング等には向いてると思いますよ。そういう業種では、「クライアントの八百屋がリンゴ売ってるんだけど、今度ミカンとセット販売することになったんだ」と言われて「数式思い浮かべて‘あー、そうなんですか’」では話にならんのです。
大抵は売上げ利益向上がゴールになるけど、じゃあ何が問題なの?がポイントです。立地は?顧客ターゲットは?家族経営なの?営業時間帯は?広報はしてるの?他にどんな商品があるの?近所に競合は?従業員は誰?誰が経営の方針を決めているの?現在の負債額は?銀行借り入れ?仕入先は?掛売りOK?などなど・・・。貴方はそういう「想像」をすることが大好きで得意な筈です。次から次から泉のように湧いてきていますよね?多くの現場を積んで、ケースをパターン化して、頻度の高い順に覚えておくのは大事ですが、たまーに過去の体験が役に立たないケースにも出くわします。そのとき、貴方の「想像力」が貴方をビジネス的に助けてくれるはずです。
最後に、自分をあまり卑下しないでください。それは貴方の体力・知力を奪います。精神科の先生は貴方に重大な人生の「気づき」を与えてくれました。是非、そのチャンスを無駄にしないでください。算数問題のように話を抽象化する能力も必要です。是非、トレーニングして今ある自分の能力と併せて、自身の人生に役立ててください。
政府は「株式市場に良質な中長期運用個人投資家が集ってくれる」ことを期待している。
「良質な個人投資家が、健全な資本市場を支えるという、教科書に描いたような理想的世界」
2.コンマ数秒までは行かないが、日々の売買で短期での鞘抜きを狙うFX的な個人投資家
しか存在せず、「教科書のような個人優良投資家」は、育ちようがない。
「健全な個人投資家」の育成のために、政府は「個人への投資教育が重要」と
トンチンカンな政策を掲げているが、多分「半官半民で個人への投資広報組織を立ち上げ、
余談は兎も角として、政府が本気で「個人からの中長期スパンの資本投資を増やしたい」のなら、
「毎日、毎秒、コンマ数秒のインターバルで取引する」という株式取引の
「前提、常識」を疑ってみてはどうか?
例えば、
「毎年1回、7月1日にだけしか取引できない、特殊な上場株式」というのを設定する。
投資家は、7月2日から翌年6月30日までの間、じっくりと当該企業の業績状況、経営者の考え方、
技術力や新規投資を判断し、更に6月下旬に開かれる株主総会も投資判断材料にする。
その上で、7月1日の1日だけ「売り」「買い」の注文を出す。
別の言い方をすれば、
「マネタライズ、換金化のチャンスを、1年間の全平日(250日近く)から、1年間に1日だけ」と
敢えて制限する。
換金化のチャンスを全平日から「1年に1日だけ」と制限することで、自ずから短期投資(投機)が排除され、
中長期投資が生き残ることになる。
「取引チャンスを増やす、より高速取引に対応するように進化することが、全ての投資家にとって『絶対善』である」
という思い込みに囚われているように見える。
「取引チャンスを減らす、取引タイミングを制限する方が、パラドックス的であるが、
個人投資家の利益になる場合もある」と思うのだが、オカシな考えだろうか?
希望する企業だけが、「1年1回取引の特殊市場」への上場市場替えをすればいい。
また、叩き台として「1年に1回」という案を出したが、半年に1回でも四半期に1回でも毎月1回でもいい。
月500円で自治会に入れて、ゴミ捨てられるならまだマシなほう。
うちの市は
ってスタンスなんだけど、
自治会に加入するのに、入会費として7万6千円 (市内平均) 取られる。
ちなみに長野県。