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はてなキーワード: 大衆化とは

2022-12-28

オタク文化大衆化にすごくがっかりした

昭和生まれオタクだ。

私の学生時代オタクであることが周囲に知られることは社会的な死を意味した。私はオタクであることを隠して生きていた。

部屋でどハマりしている漫画を読み、多少同好の士と話す機会はあったものの、基本一人専門書籍を漁っていた。ひとつ漫画に対して熱は何年も続いた。当時ハマった漫画歴史物で調べようと思えばいくらでも調べられたため、専門書を読み漁った。高い本は買えず、書店でよく立ち読みをした。二、三時間立ち読みをしている私はきっと迷惑存在だっただろうに、見逃してくれた書店員さんには感謝しかない。

最近になってSNSを使ってオタク活動を始めた。同好の士と繋がっていくと中・高生とも話す機会が増えた。今までオタク趣味オープンに話す機会もなかったので純粋に嬉しかった。

しばらくして違和感を感じ始めた。その違和感の正体がなんとなく分かってきたので、このエントリーを書いている。好きなコンテンツを同じくする若年層と関わっても、しばらくすると彼らの愛好コンテンツは別のものになってしまうのだ。私が絵を投稿するたびに熱心に話しかけてくれた高校生ももう別のジャンルに夢中のようだ。彼らのプロフィールにはたくさんのコンテンツが書かれており、それにハマっている、とある。そのコンテンツほとんどの若年層のアカウント共通していることにも気が付いた。そして彼らは同じタイミングで同じことを一斉に投稿する。例としては、いわゆる"〇〇はいいぞ"などである

彼らはみな自分オタクだと自称しているのだが、果たしてそうだろうか?と段々と疑問を抱き始めた。アニメゲーム漫画を好めばオタクなのか、と言われればそれは違うのではないだろうか?彼らのうちのほとんどは、昔ならオタクが愛好していたコンテンツ流行の歌やテレビ番組と同じ感覚で消費しているだけではないのか。ただ単に普通の人が消費する、テレビや歌などの娯楽の選択肢の中に、昔オタクが好んだタイプコンテンツも紛れるようになった、それだけなのではないかという結論に至った。

若者がどうのこうのと言うつもりはない。私が一抹の寂しさを感じたのは、現代においてオタクコンテンツがこれほど大衆に受け入れられているのに、肝心のオタク自体はそのコンテンツ取り巻き楽しむ人々の中に入っていけない、という事実だ。一見たくさんの同好の士存在するように見える。しかしそのほとんどはオタクではなく、オタクコンテンツテレビ音楽と等しく選択肢として楽しんでいる人たちだったのだ。リア充で、自撮りSNSに上げたりできる人たちだった。オタク気質な人と普通の人の比率は今も昔も変わっていないのだ。これではオタクであることを隠して一人で楽しんでいた頃と本質的には変わらないんじゃないかと、思ってしまった。

結局のところ、オタクコンテンツがどれだけメジャーものになろうと、いやメジャーであればあるだけ、オタク気質な(掘り下げ型の)人間が少数派であり、孤立しがちであることを突きつけられるだけなのだコンテンツ一般化しただけでオタクが増えたわけではなかった。そして皆が皆自分オタクだと叫んでいる中、オタク気質同好の士を探すのも以前と変わらず難しい。オタク文化が大衆したことで、大手を振ってオタク気質人間考察だのなんだのできると考えていた私は時代について行けていない甘ちゃんだった。今のところ数万人はファンがいるであろうコンテンツ自分と似たようなタイプを2人だけ見かけている。

もしあなたオタク気質同好の士を友人に持っていたらそれは僥倖というものだ。彼/彼女を大切にしてあげてほしいと思う。

2022-12-06

お前らは知らんかもしれんけど騒音問題の近隣トラブル戦争なんだよ

追記: 1日経ってスマートフォンで読み直してみたら非常に読みにくい文章(1文1文が長く、文脈を掴みにくい)になっていたため、可能ならPCで読んでもらえるとありがたいです。また、節もつけて多少読みやすしました。文章自体は改めていません。簡単趣旨を要約すると「騒音問題での近隣トラブル戦争になることもあり、それは自分が直面する可能性もある(※騒音問題トラブルが必ず戦争になるというわけではない)」です。

長野市遊園地問題で近隣トラブルになっていて、どうやらじいさんがクレーマーだとして叩かれているらしい。

自分長野市住民でもなんでもないが、昔の激怒していた自分を思い出して体中が震えだしてしまったのでここに吐露して発散していく。長野市の件については、その裏にある事情は知らないので、自分はそれが良いとも悪いとも見当もつかないが、外野が好き勝手に述べてじいさんを罵倒したり「クソ自治体」みたいな発言をしているのがとにかく気に食わないのでここで色々と述べていこうと思う。また、自分はじいさんの擁護者ではない。

NIMBYと、子どものことを考えろ主義について

まず子どもが集う施設というのは、NIMBY(我が家の裏には御免)というカテゴリに属する施設である。これは誰がなんと言おうが、子どもが集う施設というのはもうそういうものであるNIMBYとは、社会全体には利益を与えるが、その近隣住民には損害を与える施設のことだ。こういうものはたくさんある。基本的には「社会全体のためにお前が我慢しろ」という施設になっている。また、補償がないことも多い。子どもが集う施設に関する補償特になにもない。「子どもの声」を「損害」扱いという部分で怒りを抑えられなくなる人もいるだろうが、いったんそういう考え方の人がいると思って飲み込んでほしい。「騒ぐ子どもの声量は大きい」と「大きい音に耐えられない人もいる」という2点については、誰しもそれぞれ同意できるはずであり、「世の中には、騒ぐ子どもの声量に耐えられない人もいて、そういう人は損害だと感じていそうだ」というふうに、客観的視点で読み進めてほしい。実際そういう人は存在している。

話がややそれてしまったが、なぜ騒音問題子どもがつくと大きなトラブルになるかというと、「子どものためにお前が我慢するべきだ」という強制が働くからだ。こういう考え方を「子どものことを考えろ主義」といい、詭弁一種である

子どもを抜きで考えた場合騒音問題は「騒音に悩まされて可哀想に」という話から始まる。ここでは明らかに騒音我慢するべきだ!」というようなことは言えないだろう。しかしそこに子どもが入った途端、「子どものためだからね。めでたしめでたし」という概念で上書きされる。しかし、騒音問題自体はなくならない。「騒音問題の話はどこに消えた?」である

子どもは当然守られるべき存在だが、「子どものことを考えろ主義」をその親が使ってくると非常に厄介である簡単に例えよう。

あなた限定品が欲しくて、あるお店でその限定品のために並んでいたとする。あなた限定品を無事手に入れることができたが、その後ろに並んでいた親が急に「それはうちの子どもが手にするべきものだ」「お前が大人のくせに限定品を得ようとしたために、子どもはひどい目に遭う。子ども可哀想だ。全部お前のせいだ」と強硬に主張してくる状態のようなものである。(あくまで例えであって、騒音問題と同等の主張であると言いたいわけではない)

別の例で例えると、ベビーカー子どもを載せて電車に乗る行為問題ないが、ベビーカーを振り回して席取りをしようとしている親だったり、「ベビーカーを持っているのでそこに座らせてもらっていいですか?」というように尋ね、断ると「子どもがいるんですけど……非常識ですね……」と言ってくるような、子どもを使って権利を主張してくる大人たちがいるということだ。彼ら彼女らは「我々は少子化に対抗する戦士であり、それに抵抗する存在邪悪である」という信念を持っている。

子どもとの戦いではなく、子どもを盾にする親との戦いであることについて

こういう行動を起こす人々は「子持ちの人」というカテゴリで括られるべき存在ではない。彼らは容易に「子持ち全体に対する挑戦をされた」というように論理をすげ替えようとする。そして「子どもがいるのに酷い」「こうやって少子化が広がっていくんだ」という論理を使っていく。ミサンドリストフェミニストと名乗るようなものである普段は人を攻撃するが、都合が悪いと子供を盾にして自らを守り被害者になろうとするという、文字通り子どもを盾にするのである。彼らにとっては、子どもとは、自分利益をもたらす便利なツール・グッズ・免罪符しかない。

誤って解釈してほしくないが、子どもは大切なものである。「子ども排除せよ」と言っているわけではない。容易に論理を捻じ曲げられるので注意しなければならない。小さい子どもに罪などは一切ない。子どもではなく、その親と戦っているのだ。

そして、実は「子どもの出す騒音」それ自体は、それほど大きな問題ではない。子ども騒音は確かに問題であって長期間続けば耐えられなくなりノイローゼになりかねないという状態になり、たいへんきついものだ。ただし、事をより大きくするのはそれに対する適切な対応が全くなされないことにある。『「子どもが出している騒音」にクレームを出すクレーマー vs (可哀想子ども+それを守る善良な大人たち)』という構図そのものが、騒音を出している側のロジックによる考え方であり、これがこの構造のまま大衆化されると、非常にテキトーな扱いになる。「子ども騒音に端を発する問題」という形で、その周辺の問題も含めて、すべての問題の焦点が「子ども」になっていく。しかし、子どもが悪いわけではない。子どもが悪いわけではないというのは、何度でも言っておく。その親が悪いのだ。ここは間違えてほしくない。本当に簡単すり替えてくるからだ。

実際の問題は、子どもの出す騒音について「なんら対策をしない」「対策をしようともしない」「それを指摘する側に問題があり『異常』だと周りに噂を流す」だったり、わざと嫌がらせをするだったりである長野市で言えば多くの車の長時間アイドリングや、盆栽の踏み荒らしなども発生していたらしい。こうなってくると、もはや子ども騒音というのは問題ではなく、大人 vs 大人の、れっきとした権力闘争の構図であると思う。(※注意: 長野市問題については自分意見を持たず、どちらの側にも立たない。じーさん側に問題がないとは言っていないし、子ども可哀想であるのはそのとおりだと思う)

子どもを盾にする人側のロジックでは、「キチガイがまた『大したことでもないこと』でクレームを入れてきた」という観念を抱えているため、対話不可能であるそもそも最初は当然対話をしようとしている。(また、クレーマー側でも意味不明クレームを入れている場合も多くあるはずであり、自分は常にクレーマー擁護したいわけでもない)

子どもを育ててるだけなのに、クレームを入れてきて迷惑だ」vs「ふつう暮らしているだけなのに、騒音解決しようともせず、当然のように我慢を強いてきて迷惑だ」という状態になってしまうと大変面倒なことになる。どちらも正義だと思っている。これは戦争である

近隣トラブルでの対応の非常な困難さと、想像以上のストレスの大きさについて

これについて、刑事でも民事でも事件化はできず、自治体警察も非常に難しい対応を迫られる。「対応」とはいうが、実質何もできないのである。ただ「犯罪がないかどうか」「合法かどうか」しか見れないのだ。よって、合法下での自力救済しかない。法はあなたを守ってくれはしない。誰もあなたを守ってくれはしない。あなた自身の力か、金の力しかない。日本では、騒音問題は「それは運が悪かったですね。我慢してください。それが法ですから」ということになっている。社会とはそういうものだ。

「そんなところを選んだお前が悪い」「引っ越せ」という、思慮に欠けた意見散見される。当然そういう場合もあるだろう。ただし、こういうのは事前にわかものではないし、引っ越すには尋常ではないお金がかかる。持ち家であれば尚更で、下手すると数千万単位で金が変わってくる。つまり人生の中でもかなりの上位に上がってくる最強最悪のトラブルである。嫌いなやつのためだけに数千万円は普通は払えない。数千万円は言い過ぎかもしれないが、ただ引っ越すだけでも、引っ越しというものは50万円だったり100万円かかるものだ。月に2万ずつ貯めていたとしよう。4年の努力を捧げることになる。嫌いなやつのために。普通我慢ならないだろう。

そして、トラブル悪化すると、人生で最も嫌いな存在自分のすぐ近くに住んでいるという状態になる。「考えないようにする」ということができなくなる。騒音存在をすぐに思い出し、精神が持っていかれる。「殺す」か「殺さない」か、そういう考え方が頭にのぼってくる。これはジョークや笑い事ではない。精神が奥深くまでやられる。絶えず戦闘モードになる。戦時下という気持ちだ。あとはもうやるかやられるかだ。どちらも異常になる。人はいとも簡単に狂う。自分だけではない。相手が『「自分が死んでくれればいい」と思っている』と思うようになる。

死ね!!!!」と絶えず言い合っているのに離れられない関係というのは、歪んだ親子か、近隣住民以外には人生においてそれほどない。会社なら簡単ではなくても辞められる。家は簡単には辞められないのだ。

もし少子化対策のためというならば、社会全体でなんとかしなければいけない。「ミクロ個人単位我慢解決すべき」という結論は誤っている。それは子育てする側からみてもそうであると思う。ここでは、「子育て側の方が悪」のように見えてしま論理展開をしているが、子育てしている親は窮屈な思いを抱えているはずであり、れっきとした社会問題であると捉えるべきだと思う。しかし、現実的には、社会はそう簡単に変われるものではないため、個々で見れば自衛するしかない。

無関係立ち位置の人でも、可能ならば心に留めておいてほしいこと

「近隣トラブル戦争」というのが理解できない人や、「結局子育てする側が我慢しろってこと?」という理解になってしまう人は、せめて平和に家で暮らすことができているという幸運を噛みしめるべきであり、自分の子もの周りでそういった話を聞かないという場合は、人知れずして我慢している人がいるのかもしれないことを知っておくべきだと思う。「静寂」「平和」は贅沢品である。いい人は、同じ目にあっても「まあ子どもからしょうがないですよ」「いやいや!子どもは騒ぐのが仕事ですよ」と言えるのだろう。それはたいへん立派なことだと思う。ただしそれは余裕があっての論理や、他人事であるからそう言えるだけであることを忘れてはいけないし、強制できるものではない。全員が聖人君子になれるわけではない。

これはアンモラルがどうのとかそういう話ではない。あなたもそうなればわかるかもしれない。

ただ、そうなってから気付いても遅いのだ。「そんなところを選んだお前が悪い」のだから

そして残念ながら、今の社会解決できるほどの余力はない。ただ「そんなところを選んだお前が悪い」のだ。

ももしそうなったとしたら、自分あなたと同じように苦しんだことを覚えておいてほしい。身の周りの誰もがあなた理解してくれなかったとしても、世界にはそういうことをわかってくれる人はたくさんいることを覚えておいてほしい。それだけで心の荒みはやや緩和されるだろう。

ただこの話は、伝えたい人には伝わらない話でもあると思う。この話を見て「自分自分の子どもが他人にそんな思いをさせてるかもしれない……大丈夫かな」とすぐに心を痛めた人に心を痛めてほしいわけではない。そういう人たちには、ただ「子育てを頑張ってください」とだけ伝えたい。この話は「はあ?身勝手。黙ってろ。うるせえな」と、気にもとめない「子盾の親」たちに伝えたい話である。伝わらないだろうけど。

まり、運が悪ければ、そういう人と戦争することになる、ということだ。そしてそういう人たちもまた、「我々」戦争することになる。

まあこれが2022年日本だということ。少子化は仕方ない。

anond:20221206142247

80年代とか結構そういう感じだったぽいぞ

大学大衆化してなかったので、頭がいい奴が「俺は学問をしにきた」とか言ってフランス文学をやってたり。

2022-11-30

anond:20221130175150

アメリカかどこかの

体格が良い男と、体格の悪い男

それぞれに全く意味のない適当な話と、論理的で内容のあるスピーチライターが作った話をさせて

どちらの話がより信頼性がありそうかを調べた実験

内容が適当でも見た目で安心感のある方の話が信頼できると評価されたって結果だったそうな。

人が集まり大衆化すると、何を言ったかより誰が言ったかになる。

未だに小泉進次郎が老人とかに人気だったりするし

日本でも同じだなと思った。

進次郎が石破みたいな顔してたら今ほど生き残ってない気がする。

2022-11-26

anond:20221126102921

最初の頃はごく一部の上流階級しかおらんかったか機能してたけど大衆化してバグが出るようになったんやろという話

2022-11-19

はてブにも女子供が増えたやね…

一般化というか大衆化というか

2022-11-06

anond:20221106035136

低年齢化大衆化してきた結果だな

誰でもネットを使う様になって人目につくもの大衆汚染される様になった。

この21世紀になっても大学進学率は54%くらいだし

理性や知性で物を見たり語ろうとしたりするインテリ層なんてまだそんなに多くはない。

2022-10-26

anond:20221026083151

最近になって大衆化は違うか

昔に比べてポケモンコラボした商品をよく見かけるからそう感じてただけか

ポケモ○ってデ◯ズニーみたいになっちゃってる?

PN: 3dsのパッドグルグルして孵化作業に没頭してたオタク

ポケモンgo流行り出してから大衆化が進んだ気がする

2022-08-29

anond:20220829084012

wwww

ろくに知りもしないのに知ったかぶるはてな大衆化もひどいな

今朝は「ゆたぼん」をフィルタに追加しました

はてな大衆化はひどいですね。

2022-06-28

anond:20220627082541

こんだけはてブ大衆化して知的水準が落ちてもまだ嫌韓嫌中の人たちは登場しないので面白いな。職業左翼の人たちは、理念先行すぎる「LGBTQの権利」とか言ってないで、正面から世代間の賃金分配、氷河期の手当、女性キャリア開発、家庭コミュニティの充実など「重要な」話題に当たり前に取り組めば支持されるのに。

2022-06-11

Live2D前後のv比較と「vの可能性」を考える

ひとことでvtuberと言ってもその成り立ちからみるに、(ひとつ象徴指標の)Live2D前後でまったく異なる。非連続な変革があり、2つのvがあるととらえたほうが考えやすい。

Live2D前のv

キャラ企画:別途シナリオライターがいる、ロールプレイを忠実に演じさせる

プレイヤー:大手がメインの企画

ガワと中身の関係性:アニメの延長、声優による魂の吹込み

配信指向マスメディアTV番組コピー商品タイアップ

3Dをまともに動かせる環境を準備できる大手プロダクション型。初音ミクのような抽象化されたIPの構築。配信活動メインにしつつも内容はTVオルタナティブyoutube等に作る、という発想だったように思う。

Live2D後のv

キャラ企画:本人が考える、演じていく中で定まる(にじホロ等大手も初期設定以降は演者に任せているように見える)

プレイヤー:個人がメインの運用

ガワと中身の関係性:顔をださずに済む当人分身

配信指向ロングテイルゲームのほか、生活全般配信対象

Live2Dは一つの代表的きっかけではあるが、この配信障壁の低下により多くの個人が参入できるようになり、ロングテイル構成コンテンツ方向性TV番組構成テンプレから離れた独自のものが増えた。ロールプレイ忠実度にも幅はあるが企画段階の設定書は薄くなり、演じる中で構築するという発想がメインで当初のキャラ付けから変わっていくのも恐れなくなっている。

vの可能性とは

マスでは作られないコンテンツが花開いたのはプレイヤーが大量に参加した、Live2Dであるのは間違いなく、我々コンテンツ消費者サイドから見ればこの変化は可能性を広げるものしかないし、必然の流れだったように思う。一方で、当時の人?が考えていた、Live2D前の「vの可能性」とは何なのか。

中身に縛られない性質

一つは抽象化されたキャラクターロールによる、特定の人(中身)の存在を取り除いたストリー演出だろうか。人々の頭の中にある○○像のみを抽出したキャラクター、中身のペルソナ等は一切入ってこない、ある意味イデアル存在

可能性は何かありそうな気もするが、今のところアニメの枠は超えられていない。そしてこの「機能」はCGM世界では初音ミクゆっくり等が担っているとも言えそうだ。まあ、ディープサイドに寄っているのでもう少し大衆化したIPがいてもいいかもしれないが、ロールプレイを徹底したプロダクション型で作るキャラクターを該企業以外が利用する場面はあまり想像できない。

中身に縛られない永続性?

もう一つ考えられるのが、キャラクターとしての永続性とそれに対するファン安心感だろうか。中身がどんなことをしたとしても、中身を変えればいい。そのキャラを愛するファンは離れず永久ファンでいられる。

ただこの発想はアニメ価値のものだ。ドラえもんがたとえ声優代替わりしても長らく人気のアニメだし、中の人コカインをやってても声優を変えてきららファンタジアに参加できる。

会話できるバーチャル存在

バーチャルからどこでもいて会話できる。いつでも会える初期AKB的なアレ。

ただ、動画投稿メインの前者vではできない範疇の話で、むしろ後者vのほうがスーパーチャットすれば反応してくれるという意味で身近になった気もする。世の中現金ですな。

いずれにしても

上にあげた可能はいずれも論破できてしま範疇だった。これ以上の検討は当時どのような可能性を謳われていたか過去の文献をあたるしかあるまい。

2022-06-04

他人との比較について

酔ったので少し書きます

他人との比較に関して思う事。

今はSNSがあまりにも大衆化しているので、

目に入ってくるすごい人が多すぎ。

TLを見ればやれあんだけ稼いだ、こんだけイケメン

本当にすごいと思う人だらけでそれ自体は良いと思うんだけど。

それを見ることで自分価値が変わることではないし、

金がなくても素晴らしい人物はいるし体形や顔がどうでも魅力的な人間はいくらでもいると思うのよな。

そうじゃなく、人として生まれたからには笑うため幸せになることに優先順位置く方がよいなって。

しか伝説の教師かなんかでそんなセリフがあったと思うけど、人間に与えられた唯一の特権は笑うこと。

笑うことは幸せであることだと思うから

なんのために生まれて何のために生きてるのかって。

人と比べてあなたすごいねうらやましいねって。

そう言われるために生まれてきたんじゃないんだよね。

それより物差し自分の中に置いて、昨日よりいくらか成長したかなとか、

今あるもの自体が満ち足りてるなって思える方がよっぽど幸せで。

情報がこれだけ溢れると自分より優れてる人なんかいくらでもいるから。

マジでいる。というか自分より優れた人しかいない。

なので他人FIREしてようが営業成績がよかろうが金があろうが高級車に乗ってようが、

そんなもんどうでも良くて自分自身で優先順位つけてそれを追いかける方が健全よな。

知らんけどof知らんけど。

これも他人意識してるからこそ書いてるのかもなぁ。

周りに人間がいなきゃこんな駄文まれないし。

ます

2022-05-29

anond:20220529123515

10年ぐらい前ならいざしらず、今そういうこと言うのって逆に白い目で見られるようになったよね。

該当記事本家)の方のブクマコメ見たけど、理解が浅いコメばっかりだし。

ちょっとズレるけど、トレパクも今や騒ぎ出したほうに疑念が向けられるようになった。

ネット大衆化してひとまわりしたことで、この点については唯一良くなっていってることかもね。

2022-04-19

高級な唐揚げ屋に連れて行ってもらった

上司増田君、来年4月の第1週の金曜日、夜は空いてますか?」

増田「えっ、だいぶ先ですね。繁忙期も終わるし、大丈夫です」

上司「よかったです。この日にちょっとした会があるので空けておいてください」

という会話から半年弱。4/8の午後に、新幹線に乗って静岡県の某駅に向かった。

素直さだけをウリにしていて気働きが鈍い自分も、上司がああいう言い方をした時点で、それが「ちょっとした会」などではないことはわかった。

車中で交わした会話からすると、ごく内々の慰労で、お客さんは関係ないと。

ただ、「ちょっといい店」なんだよ、と。

店に行く自体目的だということ、自分には特にお役目がないんだということがわかった。

夕方5時過ぎに駅に着き、そこからタクシーに乗って20分ほど。

街中から離れ、周囲を夕日に縁取られれた稜線が取り囲むような里山の前で下ろされた。

看板が出ていない、綺麗に舗装されたゆるやかな歩道を上がっていくと、

簡素な門の向こうに、小さな庭園と池、RC造で軒のない平屋の建物が見えた。

玄関ドアに着いた呼び鈴を鳴らすと、和服仲居さんが出てきて中に通された。

割烹みたいな対面カウンターに先客がいて、それがウチの専務だった。

普段なら声もかけられないような関係の人が、「おお、上司君、増田君、お疲れさま」。

自分は小心者だから、さすがにちょっと、いや相当、テンションが上がった。

舞い上がってわけのわからない返事をしたかもしれない。

専務によると、ここは以前、地元企業経営者が所有していた別荘を店主が買い取って料理店に改装したのだという。

以前は都内で知る人ぞ知る店を構えていた店主が、一念発起して静岡拠点を移したんだと。

肝心の料理は、突き出しの後は、天ぷら屋みたいに色々な唐揚げを少しずつサーブするスタイルだった。

素材によって、唐揚げの衣の味付けが全く違う。

揚げ油も白絞油とごま油を使い分けていた。

大半は衣の時点で調味されてるので、天ぷらみたいに、塩をするとか天つゆを使って最後に味を付ける過程がない。

カウンター越しに出されたものを、そのまま食べる。

そのたびに口中に、脳内に、宇宙が広がる。

硬めの衣で包まれ、噛み締めた途端に口の中で爆発するプチトマト唐揚げ

ほんのり香るクミンが腸の苦味と絶妙に合う、ホタルイカ唐揚げ

から丁寧に外した1粒1粒の食感が楽しいトウモロコシ唐揚げ

青のりを散らした、目にも楽しい車海老唐揚げ

専務上司も、口に運ぶたびに少し静かになる。

神妙に味わってから、その料理の味についての話はせずに、また雑談に戻る。

これが彼らの、もしかたらこのお店の、作法なんだなと思った。

(帰りの新幹線では3人一緒で、2人はしみじみと一品一品の論評をした。

 自分も2人に比べたら幼稚な感想を申し上げた)

そして最後の「○○鶏の竜田揚げ」。

○○鶏は、70年代に大型化して復活した肉用名古屋コーチン原種に近い、どこにも品種登録されていない鶏だという。

唐揚げという言葉から想像するくどさとかジャンク感とは対極の、どこまでも澄んだ、静謐さすら感じる体験

地鶏らしい弾力と旨味が、薄く纏った米粉の衣の香りとともに鼻腔と味蕾を満たす。

このハイライトには、3人ともしばらく絶句してしまった。

最後は小丼の親子丼で締め。

これもまた途轍もない、自分親子丼に対するイメージを塗り替える代物だったけど、最後唐揚げの後ではどう評しても蛇足になってしまう。

とにかくすごい体験だった。2時間半が半日にも感じたぐらい。

客は我々を入れて4組。それでゆったりしたレイアウトの客席が満席

こんなご時世なのに、客の半分は外国人だった。

隣席の会話を聞くに、もう引退した有名政治家が、仲間を連れてお忍びで通ってきたりもするらしい。

自分は(接待では)超高級といわれる炉端焼屋も蕎麦屋寿司屋うなぎ屋も串焼き屋も行ったけど、

唐揚げというジャンルにも、そんな知られざる至高の高級店があるということを、初めて知った。

いろんな世界があるものだと思った。

この手の店ではよくあることだけど、予約は(普通のやり方では)取れない。

専務も他の客も、実際に店に行った時に、店主と話して次に「空いています」と伝えられた日程を

半年後でも1年後でもとりあえず押さえて、その日には仕事を入れない。

それを繰り返す。結果的に、客は常連さんか、常連が連れてきた一見客だけになる。

一度常連になった客達は、みんなこの予約のサイクルを切らしたくないから、

人数合わせで知人や部下を誘うことがあって、自分は今回たまたまそのお相伴に与れたのだ。

おそらく、自分がこの先の人生で、この店の会計を自腹で払えるようになることはないだろう。

でもめいっぱい出世すれば、専務が持っている予約枠を埋めるレギュラーになって、

年に1度ぐらいは通えるようになるかもしれない。

それか、あと5年ぐらいしたら、あの目眩のするような体験を思いっき通俗化・大衆化したような

「高級唐揚げ屋」が町場にたくさんできるのかもしれない。それはそれで楽しみだ。

2022-02-17

anond:20220217130657

Xスポーツ大衆化したとき進化ってどんな感じなんだろ。

元々はストリートチンピラたちの路上遊戯だったのが五輪種目にまでなってるけど、大衆化するまではスラングのすくつだっただろうに。

ウィンタースポーツのXスポーツ金も罹るし、そんなことはなかったんだろうが、バンコールとかスケボーとかの界隈の言葉遣いがどう浄化されていったのかは気になるぜ。

格ゲー大衆化しようとしたら参考になるんでは?

2021-12-25

町にあるボロい居酒屋が好きなんだけど、そういう所にはめんどくさいおじさんが結構いて、色々な物事に対してクソコメを炸裂させる。

でもこれはその店に行かなければクソコメを味わう必要は無い。

しかSNSはその全クソコメ可視化させてしまっていて、それが辛い。

大衆化する前のサービスでいてほしかった。

Twitterよ。

2021-12-08

anond:20211208153614

マジレスすると大衆化たから。

 

ビバップ」や「攻殻」の頃とは、アニメ視聴者の層が全然違う。

ビバップ」も「攻殻」も、当時のアニメ界では成功した作品ではあるけど、

あくまマニアック気質の(90年代的な意味での「オタク」、いわゆるギークファンに受けていた。

 

今はアニメ業界自体がめちゃくちゃ広がってライト層がマジョリティーになったせいで、

必然作られる作品もそこに向けて訴求するようになった。

その結果、頭空っぽにしてブヒブヒ言ってれば楽しめる00年代以降的な意味でのオタク向けの作品が増えた。

以上。

2021-11-20

anond:20211120164857

マーク・トウェインは、1906年の『North American Review』に掲載された「Chapters from My Autobiography」において、この諺を大衆化した。

私はしばしば数字に惑わされる。自分自身に当てはめる場合はなおさらだ。ディズレイリの言葉「嘘には三種類ある:嘘、まっかな嘘、そして統計」が正当性説得力をもって通用してしまうんだ。

まあ、岸田さんは嘘つきだよな。

2021-11-06

「加工するのが芸術」という考え

https://togetter.com/li/1798597

あと芸術なら許容って言い分も
嘘を以て芸術とする、なら解るけど
芸術なら嘘でも許される、はまた違うのではないかと思う。個人的には。
[..]
少なくともこの場所まで単車を走らせてこの写真を撮って加工した身としては、2枚目の写真には現地の紅葉から感じた暖かみも寂寞も感じないか芸術としてもクソだと思ったな。

ツイート主への批判ではなく、主が批判している対象が思っているだろう事「加工するのが芸術」という考えについて。

前提として、写真自体芸術アウラからすると既に破綻しているのだけど、ベンヤミンはそれでも、写真を通して大衆芸術に参加する可能性を見いだしていた。「加工するのが芸術」という考えは、写真大衆化した80年代以降、様式歴史といった各要素の編集再構成がおこなわれるようなったリミックス文化が背景にあると思うのだが、ただ加工するから芸術とかそういうものではなく、芸術にはその時々の文脈近代以前の彫像作品で言うところの台座がそれたらしめているのだということは知っておいた方が良く、この場合は「何が台座で何が表現されているのか」考えた方が良い。

スマホが普及しさらに加工技術自体もすでに自動化されている世界にいる私たちとしては、リミックス文化の時にもてはやされた表現としての加工はもはや価値を持たなくなり、さら写真表現自体にもそれほどの価値は持たなくなった。写真価値事実のもので、その時その場所にそれがあるという証跡に価値を見いだすようになっており、加工は邪魔ものに過ぎないという考えが根底にできはじめているのだと思う。ただ、表現としての気持ちよさみたいなのはあるのでその折り合いをどうつけるのか判断に揺れている時期でもある。

スマホ間の写真加工技術競争が落ち着いたらベンヤミンが見いだした大衆芸術としての写真終焉を迎えるだろうし、その時、写真をつかった芸術がでたとしても「加工するのが芸術」という評価とは別の次元になるのだろう。というか、今までに加工で評価された写真家がいたかというと疑問ではあるけれど...

著名な写真

2021-09-27

HIPHOPシーンが知らぬ間にめちゃくちゃ面白くなってた

HIPHOPというかフリースタイルとかMCバトルに限った話。

まだ見始めて3日の超浅瀬人間なので、細かな分類とかよくわからないので間違ってたらご愛嬌

きっかけは相席食堂に出てきた呂布カルマという人に興味が湧いたこと。

正直な話、ラップHIPHOPもそれまで一切興味がなく、むしろ日本語ラップは無理やり踏みに来る韻がダジャレしか感じられずむしろ見下しているくらいのつもりだった。

そもそもメジャーシーンに出てくるHIPHOP大人の手で汚されまくってて、感謝しすぎだしオーケストラで泣かせようとしすぎだしそんないいヤツのほうがむしろ信用できるわけないしって感じだったせいもある。

実際、ほとんどが女性問題を起こして自らを台無しにしていくようなやつらばっかりだったしね。あとひとつあとひとつ言いながらどんだけ手を出してんだよって思うと草しか生えてこない。

それはメジャーに限ったことじゃなくて、薬物問題とか暴力沙汰とか聞こえてくると、純粋音楽として楽しめないよなって思うってしまうのもある。

なので要するに、どれだけサジェストされようとも開くなんてことは絶対になかったので全くもってノーマークだった。

相席食堂に出てきたときラッパーなら見なくてもいいかなと別のことを始めようとしたら、まずその風貌の独特さに引っかかってしまった。

ラッパーといえばあごひげ、ガテン系、フードかぶってダブダズボン定番R指定さんを見たときも、メジャー向けにちょっと小綺麗にしてきたねくらいに思っていた。

ところが出てきた呂布カルマはどこからどう見ても下っ端のチンピラ

吹けば飛びそうなひょろい感じで、服装と顔ばっかりがいかつい30年前の小岩チンピラみたいだった。

なにそれ。今どきのHIPHOPどうなってるの?というのが最初の印象。

実際にロケが始まってみると、大吾さんが「お人よしオールバック」と表現するくらい、いい人よりの普通の人。

とにかく終始ポンコツ。肝心のラップ部分すらポンコツ

結局最後までポンコツ

この人のどこがカリスマラッパーなの?という疑問が見れば見るほど湧いてくる。

疑問が湧いてきた以上、とりあえず見てみよう。それで音楽性もポンコツならそれまで。また来世のつもりで検索

youtube適当MCバトルを選んで開いてみる。

先攻はいかにも絵に書いたようなラッパー一生懸命韻を踏んで暴力的な言葉を並べる。会場は沸いているけどやっぱり全然きじゃない。

そして呂布カルマのターン。

いきなり遠くの視点から矢じりのような言葉を飛ばす。そうかと思うと一瞬で懐に入って重い一発を食らわせる。

別に韻を踏むわけじゃないけど、言葉選びと相手との距離感の行き来がめちゃくちゃうまい。

会場も沸く、というより唸る。

その一撃で相手自分立ち位置を完全に見失って、顔を真赤にしてまっすぐ掴みかかるような言葉を返す。それには観客も首を傾げるか失笑

まだ2ターン目、軽く笑って王者の余裕とばかりに相手を諭してから踏み潰すような上から目線言葉選び。圧倒的な火力差を見せつけながら相手の逃げ道は塞がない。

3ターン目、相手に残された手段はそれほど多くない。

玉砕覚悟で突っ込むか、一旦下がって相手の隙を伺うか、煽って失敗を誘うか、負けを認めてパフォーマンスアピールをするか。

選んだのは玉砕。本人には玉砕自覚はないかもしれない。とっくに圏外まで下がっている相手に至近距離攻撃を火力全開で繰り返すも、当然一発も届かない。

それをわかっているのか、心理的距離とは裏腹に相手の眼前至近距離まで顔を近づけて挑発を繰り呂布返すカルマ

相手言葉は全て空振りで終わる。

呂布カルマのターン。

相手のつま先をしっかりと踏みつけるような言葉を選ぶ。

相手はその時はじめて自分の居場所を思い知って、もはや逃げられないことを知る。

猛烈な威圧感を前に、逃げることも攻めることもできず、しかし止めをさすことはせず、独り相撲だったことを観客にも知らしめる。

そこにいる全員が呂布カルマ勝利確信する。

勝敗はバトル後の観客の反応の数で決まる。

先攻の名前が呼ばれると、ちらほらと手が挙がるのみ。呂布カルマ名前が呼ばれると全員と思えるほどの手が挙がる。確信事実に変わる。

なんだこりゃすげー面白い

今のHIPHOPってこんなに面白いの?とサジェストに出てきた見知らぬラッパー同士のバトルを見る。

そしたら全然違う。

そこには今までのイメージ通り、韻を踏むことばっかりに一生懸命で、肝心の勝負のものベタ足の殴り合い。

学生同士の喧嘩みたいな、距離感も力加減もわからず、ただ全力で殴り合ってるだけの野蛮な戦い。

面白みよりも不快感のほうが何倍も強く、2つ3つも見たら絶えられずにリタイヤ

それで呂布カルマたまたまだったのかと思ってまた別のバトルを見る。

やはり抜群に心理戦面白い。この展開の速さの中、あの手この手相手翻弄して、気がつけば相手の体力は残っていない。

どうやら呂布カルマという人間だけ別次元だということがわかる。

いわゆる総合格闘とか、もしくは対戦格闘ゲームとか好きな人絶対にはまる。

とにかく心理的駆け引きが抜群にうまい

営業妨害かもしれないけど、見た目はこんななのに、めちゃくちゃ真面目でめちゃくちゃ勉強してないとこうはならないはず。

要するに、今まで喧嘩自慢がノールールで殴り合いをしていた世界だったのに、総合格闘のプロが殴り込んできてしまったような感じ。

ベタ足の殴り合いで一番つええやつ決めてた世界に、立ち技寝技関節技なんでも使えるやつが出てきたらそりゃつええわ。

ここからは推測でしかないのだけど、こうしたシーンの変化が起こった一番の理由は、おそらくHIPHOPというものが先人の努力によってやっとそこまで一般からだと思う。

過去、何回かの少ない記憶で見たMCバトルは、勝敗プロベテラン投票で決めていた。

まり、どれだけHIPHOPラップスキルが優れているか勝負の決め手となっていたために、盛り上がりと勝敗の結果が異なることも多々あった。

しかし、今回見たMCバトルは、全てバトル後の観客の挙手の多さで勝敗が決まっていた。

それはつまりHIPHOPラップの専門的なスキル以上に、とにかく盛り上がったほうが勝ちなのだ

ある意味で真面目にHIPHOPを続けてきた人間からしてみれば望まない世界かもしれない。

もちろん呂布カルマラッパーとしてのスキルの高さは十分に感じられる。

韻を多用しないのはスタイルと言えばそれまでだが、それよりも、戦略性や言葉選びや比喩センスが見た限りではずば抜けて高かった。

これはあれだよ。芸人スキルだ。

実際に芸人をやりながらラッパーもやっている人間も多いらしいが、ここに来てシンパシーの高さが注目されているのだと思う。

彼の経歴をしっかり調べたわけじゃないけど、ここまで言葉を数多く自由に操れるのは、少なくともある程度しっかりした学歴か、教育を受けていないと無理。

たまたま見た目のいかつさがハマっただけで、おそらく人格は相席食堂で言われた通りめちゃくちゃ真面目でお人よしなのだと思う。

そうした作られたキャラからこそ、バトルで過剰に熱くならないし、冷静に相手を追い込めるのだと思うと、ラッパーには本当の意味で敵だよな。

彼がこのまま活躍しつつければ、MCバトルはもっと一般化して、HIPHOPシーンはカルト化と二極化していくんじゃないかな。

少なくとも、すでに分断が始まってることは確か。

なんて思っていくつか動画を見てたら、輪入道って人がこれまたやばいってことに気づいた。

多分、天才はこっち。液体みたいにどこでも入り込んでいって、そこからいきなり火力ぶちかますタイプ。もちろん経歴は一切しらないけど、HIPHOPとしての純度は呂布カルマ比300%くらい高い。

これはもう揃っちゃったわけですよ。条件が。

HIPHOPシーンは今でも十分メジャーだけど、こっから一気に大衆化する超新星爆発直前にあるなってこと。

もともと好きな人が望んだ形とは程遠いかもしれないけど、TVショーとしてこの上ない条件が揃ってしまいました。

今のうちに注目しておいて、アーリーアダプター、ギリでイノベーター語るのもありだと思います

食わず嫌いせず、一度見ておいたほうがいいです。呂布カルマ。顔とHIPHOP以外、まじで普通の人だから

並み居るガチの悪ガキ押さえつけて、それが天下取ってる状況が面白くなくて、何が面白いと言えます

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