ひとことでvtuberと言ってもその成り立ちからみるに、(ひとつの象徴的指標の)Live2D前後でまったく異なる。非連続な変革があり、2つのvがあるととらえたほうが考えやすい。
キャラ企画:別途シナリオライターがいる、ロールプレイを忠実に演じさせる
3Dをまともに動かせる環境を準備できる大手プロダクション型。初音ミクのような抽象化されたIPの構築。配信を活動メインにしつつも内容はTVオルタナティブをyoutube等に作る、という発想だったように思う。
キャラ企画:本人が考える、演じていく中で定まる(にじホロ等大手も初期設定以降は演者に任せているように見える)
Live2Dは一つの代表的きっかけではあるが、この配信障壁の低下により多くの個人が参入できるようになり、ロングテイルを構成。コンテンツの方向性もTV番組構成テンプレから離れた独自のものが増えた。ロールプレイ忠実度にも幅はあるが企画段階の設定書は薄くなり、演じる中で構築するという発想がメインで当初のキャラ付けから変わっていくのも恐れなくなっている。
マスでは作られないコンテンツが花開いたのはプレイヤーが大量に参加した、Live2D後であるのは間違いなく、我々コンテンツ消費者サイドから見ればこの変化は可能性を広げるものでしかないし、必然の流れだったように思う。一方で、当時の人?が考えていた、Live2D前の「vの可能性」とは何なのか。
一つは抽象化されたキャラクターロールによる、特定の人(中身)の存在を取り除いたストーリー演出だろうか。人々の頭の中にある○○像のみを抽出したキャラクター、中身のペルソナ等は一切入ってこない、ある意味イデアル存在。
可能性は何かありそうな気もするが、今のところアニメの枠は超えられていない。そしてこの「機能」はCGM世界では初音ミク、ゆっくり等が担っているとも言えそうだ。まあ、ディープサイドに寄っているのでもう少し大衆化したIPがいてもいいかもしれないが、ロールプレイを徹底したプロダクション型で作るキャラクターを該企業以外が利用する場面はあまり想像できない。
もう一つ考えられるのが、キャラクターとしての永続性とそれに対するファンの安心感だろうか。中身がどんなことをしたとしても、中身を変えればいい。そのキャラを愛するファンは離れず永久にファンでいられる。
ただこの発想はアニメの価値そのものだ。ドラえもんがたとえ声優が代替わりしても長らく人気のアニメだし、中の人がコカインをやってても声優を変えてきららファンタジアに参加できる。
バーチャルだからどこでもいて会話できる。いつでも会える初期AKB的なアレ。
ただ、動画投稿メインの前者vではできない範疇の話で、むしろ後者vのほうがスーパーチャットすれば反応してくれるという意味で身近になった気もする。世の中現金ですな。
上にあげた可能性はいずれも論破できてしまう範疇だった。これ以上の検討は当時どのような可能性を謳われていたか、過去の文献をあたるしかあるまい。
こうlive2D以前の特徴を並べると、その極北がバチャみてだな・・・