はてなキーワード: トロとは
ネイティブと一口にいっても、地域差がある、という話をもう少しする。
これは英語ではもちろんのこと、スペイン語でも同様。多分、中国語でもそうだろう。
スペイン本国で標準語とされるカスティジャーノとラテンアメリカのスペイン語は実はけっこう異なる。
これは学習するときに、これは全世界で通じるのか、それともラテンアメリカだけなのか、スペイン本国だけの言い方なのか、いちいち気になってしまい、ちょっと煩わしい。
さらにラテンアメリカでもメキシコからチリまで幅広く、それぞれに異なるボキャブラリーがある。
「猫ふんじゃった」というときに、「踏みつける」は、ピサールなのかパテアールなのか。お隣同士の国でも異なったりする。
自動車はカーロなのかコチェなのか。あなた方はボソトロスなのかウステデスなのか。
ベントソはスペインでは「風が強い」という意味だが、中米では「屁をこいた」だ。
クロケタはメキシコではコロッケではなくドッグフードのことだ。
そう。スペイン語を学ぶという場合、ネイティブを目指すというのは、
そもそも、どのネイティブを指すのか、という時点で、たくさんの選択肢がある。
なので、スペイン語圏を旅するときは、正しい言い方などを気にしていたらキリがない。
ネイティブのように話す、という英語学習にありがちなあこがれは、スペイン語についてはあまりないように思える。
ネイティブっぽくというこだわりよりも、間違ってもいいから、とにかく話すという習慣がついていくひとのほうが多いように思える。
ラテンアメリカでスペイン語に馴染んだ人は、カスティジャーノのセー(C)の発音に苦しむと聞く。ラテンアメリカではTHの発音はない。
ラテンアメリカから入ったひとがスペインのスペイン語を理解することのほうが、
スペイン本国のスペイン語から入ったひとがラテンアメリカのスペイン語を理解するよりも、適応に苦しんでしまうようだ。
とんでもない間違いだぁ…こんなの零点だ零点
【また追記】
すべてのコメントや言及エントリにお返事はできないけれど、少し追記したいです。
同じように結婚後の姓に馴染めない、みたいな既婚者先輩の声も多数聞けて、私だけじゃないんだー、と思えてよかった(小並感)。
n年経っても慣れない、みたいなのを読んで、逆に覚悟が決まったのかむしろ気が楽になりました。ありがとうございます。
あとこれは是非言いたいんだけど、ちらほら夫を責めるというか、夫が悪いみたいなコメントが見えましたが、それは違います。やめていただきたい。
現状は女性側が姓を改めるのが「一般的」とされていて、よって私がエントリで書いたような有形無形の負担を女性が負うってケースのほうが件数としては多いのだろう。でも、いざ男性側が姓を変えるってなった時には、(有形の負担は大差ないと思うけど)無形の負担は女性の比じゃないんじゃないかと思う。「なんで?」って話になる機会も断然多そうだし。そりゃ特別な主張がなければ夫側の姓にしますって。
妻側が姓を変えて負担を負いがちっていうのの裏側には、夫側が姓を変えた場合の、馬鹿にならない負担の大きさがあると思うんですよ。だとすればこれは女性差別だ!男が悪い!っていう話ではないですよね。
【追記ここまで】
少し前に結婚した。どちらの姓を名乗るか決めるにあたって、ごく普通に、夫の姓を名乗ることに決まった。
私は夫婦別姓制度については、まあ別姓にしたい人は別姓を名乗れるようになればいいんじゃない?そのうち制度ができればいいよね、くらいの考えで、言ってみれば「他人事」として考えていた。自分がもしも結婚したら、「普通に」夫の姓を名乗ると思ってた。そこまで生まれたときの姓に執着がある訳じゃないし。
むしろ、夫婦別姓のために事実婚とし、子どもが生まれる時だけ入籍、その後離婚する、みたいなスタイルを取っている夫婦の話をテレビで知ったときには、すごく率直に言って引くというか、白けたような気持ちになったりもした。
ラディカルに夫婦別姓を主張する勢に対しての評価は5ch(2ch)なんかでは私が観測する限りではまあ辛辣で、「姓が変わるとか別にノーダメ、名前変わるくらいでそんなに影響があるとか大げさすぎる、旧姓にそこまでこだわるとか頭おかしい」みたいな意見が多勢に思えた。私はそんな論調のスレを見るたびに、「でも別姓も選べたっていいじゃん?」と思うと同時に、自分に関しては「まあ普通に相手の姓でいいけど」と思っていた。すごく率直に言えば、「姓が変わるとか別にノーダメ、名前変わるくらいでそんなに影響があるとか大げさすぎる、旧姓にそこまでこだわるとか頭おかしい」と、うっすらと思っていた。
そんで時は流れ、結婚するということになり、じゃあ苗字どっちにする?という話になった。
(現)夫は、「俺はどっちでもいいけど」と前置きした上で、夫の姓を名乗ろう、と提案した。養子でもないのに妻の姓を名乗るということになると、夫側に何か名前を変えたいような疚しい背景があるのではとかあれやこれや勘繰られるからと。
私もせやな、と至極納得して、我々夫婦は夫の姓でやっていくことに決まった。
私は夫の姓でやっていくことに決まった。
言っておくと、私は元の姓と夫の姓どっちがいいか比べた時に、純粋に夫の姓の方がいいなと思った。まあまあよくある私の元の姓に対し、夫の姓はちょっと珍しい姓であった。なんなら「レア苗字ゲットだぜ」くらいに思っていた。もっと言うと今でもたまに「かっこいい苗字やん…」としみじみしたりする。
という訳で私は姓が変わることが決定し、あと結婚もまず間違いなく決まったと判断し、会社に結婚の予定を報告した。「名前は某に変わりますが、業務上では引き続き増田でお願いします」と伝えた。
私は一介のしがない事務員だが、いくつか特定の取引先を担当していたので、取引先それぞれに「結婚しましたので名前変わりました☆」と言って回るのがめんどくさかったのだ。
ずっと前になるが、今の会社ではなく、新卒で一番最初に入った会社の先輩社員で離婚された女性がいた。同じ頃に別の女性社員が結婚して「名前が某になりました」と通達があったので、私はおそるおそるその離婚した先輩社員に「名前どうなるんですか…?」と聞いた。先輩社員は「いや、苗字は変えない」と答えた(離婚してもそれまでの姓を名乗れる制度があるのはその少し後に知った)。
大して親しくしていていただいた訳でもないのに、今考えるとなかなか不躾な質問に、わりとさっぱりした表情で飄々と答えてくれた先輩の、その後に小さく「最悪だよね…」と呟いたその声を、上司に結婚を報告しながらなぜだか思い出していた。
パスポートを変更し、銀行を4行回り、思ったよりも時間がかかって携帯電話の名義変更はその日はできなかった。
何枚も書類を書いて、慣れてないので(あと私が大変粗忽者なので)名前の欄を旧姓/新姓で書き損じまくり、最初の何枚かは窓口のお姉さんも私も新婚に免じてって感じで「あらあらうふふ☆」ってノリだったのがいい加減私の表情も死んだ。
家に帰って夫に一日の苦労を愚痴ったら、「でも俺が苗字変えたらなんか疚しいことあるのかって思われちゃうからね」と姓を決定した時の理由を繰り返した。
まあ確かにな、と私も思い、とはいえ一日で(仕事休まなきゃ行けない所は)ひとまず手続き済ませられた訳だし、これでおおよそ済んだ訳だし、と、それ以上愚痴を言い募るのはやめた。携帯の名義変更は済んでいない。
ここまでですでに長いが、私が本当に言いたいことはまだ書けてない。
こんなに書いて本題に入れてないのに自分でもびっくりしているが、私が言いたいのは、「思ったより生まれ育ってきた苗字にアイデンティティー持ってました」ということなのだ。
結婚後もそのまま何も変わらず仕事をしていて、業務上は名前変えません宣言をしているので、私は平日の昼間という日常のほとんどを「増田さん」として過ごしている。新姓を使うのは、クレジットカードの署名(名義変更してるから)と宅配便の受領の署名(クレジットカードの名義変更したから通販のアカウント変更したから)くらいだ。
で、それ以外のふとしたタイミングで名前を使う機会があると、いまだに逡巡する。逡巡した結果、旧姓を使ったりもする。飲食店の順番待ちで名前書くときとか。
新姓を使ったっていいはずなんだけど、「クレカや身分証と紐付く場面でもなし、新姓使う必要ある?」と思うと旧姓を書いてしまうのだ。もっと言うと瞬間的に「私増田だもん!!」と思っているのに気づく。
きっと会社で旧姓使ってるから慣れてないんだ、と思う。私はわりと転職してきた人間なので、きっと今の会社もずっとはいない。転職活動の暁には新姓で履歴書を書いて、新しい会社では新姓で活動する。
でもそう考えると、なんか、胸が締め付けられるのだ。
という事実に、怖じ気づいている。
姓が変わるのは自分が自分でなくなる感じ、という言い方は、かつて私が引いていたラディカルな夫婦別姓論者さんたちの言い分ではなかったか。
結婚すると名前が変わるってのは「普通」のこととして広く受け入れられてきている訳だけど、しかしよくよく考えてみれば、名前にアイデンティティー抱くってのもごくごく普通ではないですか?
自分が当事者になってやっと分かったというのも至極トロい話で恥ずかしいけど、このアイデンティティー抱いてる対象が変わるっていう衝撃が「普通」の名のもと受け入れられてきたってのはちょっとすごいと思う。
名前変わるなんて別になんてことない。って言ってる人たちは、一度本当に変わってみて欲しい。って正直ちょっと思うけどこういう論法は反発を感じるよね。分かる。私もそうだし。っていうか私だって当事者にならなきゃわからない気持ちだったし。
まとまらないけど疲れてしまったため急だけどそろそろ終わりにします。姓を変えるってのは、有形(手続きの煩雑さ)無形(アイデンティティーの揺らぎ(こう言うと大袈裟に聞こえるけどそうとしか端的に表現できない))の負担があるんです、っていうのを吐き出したかった。
仮面ライダーのやつは、今回は見に行くつもりはなかったんだけど、友人から「見とけ、笑えるから」と言われたので見に行ってみることにした。
twitterなどで若干否定的な意見も目にしていたけど、つまりそれが「笑えるから」ってことなんだろうなと、ギャグ映画を見るつもりで見に行くことにした。
ドラクエの方は、シリーズ中5が一番思い入れが深くて、SFC版からPS2、DS、アプリと、ハードが変わるごとにやっていて、半ば原理主義者化している自覚があり、また小説版も大好きなので、その辺のゴタゴタからも見に行くつもりはなかったのだけど、twitterで「5点満点中マイナス100点」等、あまりに酷評されているから逆に気になった。
そんで、今日たまたま時間が空いて、ライダー映画の後にちょうど良い時間の上映があったこともあって、はしごで見てきた。
と、ライダーの名前を出しておいて何だが、今回の話にライダーは余り関係無くて、バーターで付いてくる戦隊の映画の方の話をしたい。
(ライダー映画は、突っ込みどころの多さも含めていつも通りの、安定した面白さだったので、特に語ることはない)
で、その、ライダー&戦隊映画を見た後でドラクエの映画を見たのだ、という話をしたいのだ。
まず、ドラクエの話をしたい。
散々な酷評が聞こえてきていたのと、後記する理由でハードルがガン下がりしていたのとで、期待値はマイナスだった。二時間の苦行になるだろうと思っていた。
事実、始まって10分ほどの間は、心が10回くらい折れそうだった。
リメイク時に後付された設定がさもSFC時代からあったかのような改ざん!!
っていうかそこまでゲーム画面でやるのかよ!!そのまま最後までゲーム画面流せばいいじゃねーかもう!!
あれもこれもすっ飛ばすのかよ!!
ゲレゲレかよーーーーーーー!!!(ゲレゲレ派の皆様すまん、プックル派なんだ)
ドラゴンオーブはそこにはねーーーーーーーーーーーーえ!!!!
ヘンリーそんな奴じゃねーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
ラインハットほったらかしかよ!!!!!!!妖精の国すっ飛ばしたからサンタローズに春が来てねえじゃねえか!!!!!!等々。
いや分かってるよ2時間で話まとめるためには仕方ねぇよ、でもさーでもさーーーと心の中の原理主義者が泣いていた。
しかし、綺麗なグラフィック、迫力の戦闘、懐かしい音楽、佐藤健の流石の演技(直前にライダー映画を見ていたとおり、特撮畑の人間でもあるので、特撮出身俳優のアフレコに対する判定は甘々な自覚はあるが、「あ~電王だ~」と思う瞬間は一切なかったので、さすが佐藤健だと思う)に押し流されるように時間は過ぎていく。少なくとも(心の中で原理主義者が泣く以外の)時間経過に対する苦痛はない。
原作と違う点に突っ込みは入れたいと思うが、時間内に話をまとめるためには仕方が無い。
例えば、ヘンリーのキャラが違うとは言っても、SFC時点で我々に許された解釈の範疇ではあるように思う。
リメイク版には仲間会話があるが、SFC版でNPCとして交わした会話はわずかだ。ああいう解釈をしていた人が、まあ、いなかった訳ではないかもしれない。ギリギリ。
リュカのキャラクターは全く小説版の「リュカ」ではないが、「どこかの誰かが操る主人公」としては、誰かの頭の中にはああいう主人公もいただろう。
ビアンカフローラの選択。そんなに簡単に「自分の本当の心」なんて分かるか???とも思ったが、一応、フローラがいいならまあよしとしよう。
個人的に、特に回収もされず、一番残念だと思ったのは「娘ーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
・・・まあ、これも仕方が無いだろう。大人の世界には予算とかの問題がある。
普通に考えて5のストーリーを「正しく」映画化しようとすれば、5章仕立てくらいにしないと終わらないだろうから、「どう二時間にまとめるか」も見所だ。文句を言うより楽しんだ方が得だ。
後半のプサンの「今回はそういうことになっている」的なメタ発言も、嫌いな人は嫌いだろうが・・・と思いつつもクスリとした。
ここまで超好意的に受け止めていたが、流石に「えええええーーー」と思った。
ついでに、「あ~~~~~~~~~~~~~これオタクが発狂するやつ~~~~~~~~~~~」と酷評の理由も理解した。
確かにちょっとグサッときた。いい年してこんなところで仮面ライダーの映画からドラクエの映画はしごして見てる自分の胸にグサッときた。大人にはなれてねぇわぷー。
しかし、その後の真実の暴露により、前半で心の中の原理主義者を殺した、気になるポイントの数々が全て伏線として回収された。
幼年時代をゲーム画面でスキップしたことも、リメイク版の設定のはずなのにSFC版に存在していたかのような扱いだったことも、ヘンリーのキャラクター解釈も、なんであんなに解釈が違うのに「リュカ」なのかも、ビアンカとフローラの選択の顛末があんなんだった理由も、プサンのメタ発言の訳も。
もう、なんか、ここでぞわーっとした。
気に入らないと思ってたことの全てに理由があった(娘の存在のことは置いておく。少なくとも見ているときはそう思ったんだ)。
今まで「どこかの誰かの頭の中にあるドラクエ5の世界を見てるんだな」と思って我慢していた事が、ある意味それで正解であり、また、一気に「どこかの誰かの物語」が、「主人公の物語」あるいは「自分の物語」になった気がした。
その辺は上手く言語化できないが、体感としては「うおおおおスッキリーーーーーーーーーーーーーー!!!」だった。
最近は予定調和的なハッピーエンドが約束されているライダー映画ばかり見ていたので、ついぞこのところ体験していないカタルシス。
その後に登場したキーアイテムがロトの剣だというのももう、細かいことは抜きにしてたまんねぇわという感じ。
確かにあの瞬間、主人公は自分だった。子供の頃からドラクエと共に育った自分自身だった。あの一瞬、まさしく「YOUR STORY」だった。
(後で冷静に思うと「自分の」物語だと思うには物語の解釈が違いすぎるが、あの一瞬はそんな細かいことはどうでも良かったのだ)
そして、「経験した冒険は、確かに本物だ」というメッセージこそが、本当に我々に向けられたものだったのだろう。
大人になれ、現実に帰れ、そんな風に言われることが多い社会だけれど、我々が「ドラクエ」から貰ったものはそんなありきたりで薄っぺらな言葉で踏みにじれるようなものではないはずだ。
と、言われているはずなのに、一度発される「現実に戻れ」というメッセージの前に「そんなこと言われたかったんじゃない!!!!!!」って発狂するオタクが多いのはちょっとこう・・・オタクのメンタル弱すぎじゃねえの・・・という気がするが、まあそれは現代社会では仕方の無いことでもあるし、今回の本題ではないんだ。
言いたいのは、一本の映画として見たときに、よく出来ていたじゃないか、ということなんだ。
確かに、もう5の物語は身体に染みついてしまっているから、全く5の物語に触れたことがない人にとって、提示されている情報が十分だったかについては冷静な判断ができない。
ストロスの杖のあたりとかは説明不足だったようにも思うが、まあ、「息子が頑張って探した石化が解けるアイテムである」くらいは伝わっただろう。
(ちょっと使い方それェ~~~?!!と思ったりしたが)
(ルーラの辺りは怪しいかも知れないが、「ルーラ」といえばワープの魔法である、というのは有名だと思いたい)
二時間でまとめる為にはどうしても大幅なカットが必要である、そのためにカットされたり設定が変更された部分について「そこをカットするのかよ・・・!そこをそう変えるのかよ・・・!」という視点で気に入らない箇所を除くと、「え~~~~」と思った部分は大概、ラストで伏線として回収された。
その、ラストの展開それ自体が気に入るかどうかはともかくとして、5のストーリーを知っていればいるほど「あれっ?」と思う箇所には、大体理由付けがされている。
長い話をカットした時にありがちな「えっその話いつしてた??」みたいなのも、多分、なかった、と、思う。(なにせ冷静な判断ができないのだ)
一人の男の一代記になってしまうので、ストーリー全体が駆け足感あったのはまあ、仕方が無いと思うが、それも設定を知った後なら逆にリアルだ。
もちろん、二時間に納める為にカットされた部分、変更された設定について、文句を言おうと思えばいくらでも言える。娘はどこへ消えた。
ラストの演出については、これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうなとは思った。
「ドラクエを見に来たつもりだったがSAOだったか」と思ったりもした。
「これをドラクエで、しかも5でやる意味はあるのか」みたいな批判もあるだろうと思う(これは、はっきり意味があると思うが)。
「5のファンとして、納得できるかどうか」の話であって、「映画自体のクオリティが極端に低い」ということではない。
それなのに、あたかも「映画自体のクオリティがめちゃめちゃ低いから見に行かない方がいい」みたいな言説ばかり飛び交っているのは非常に残念だと思う。
CGは徹頭徹尾圧倒的に綺麗である。(ドラクエ5らしいか、は置いといて。。。)鳥山明の絵とは遠いが、動いて居る彼らを見ていれば全く気にならなかった。
物語や設定が破綻しているということもない。もちろん重箱の隅を突けば色々出てくるだろうが、世間一般の映画と比較して特段トンデモ展開という訳でもないと思う。虚無でもない(後述)。
(ただ、主な比較対象がライダー映画であり、あれはトンデモ展開をやってナンボみたいなところがあるので、若干ふつうの人より「トンデモ展開」判定は緩いかも知れない・・・その辺りの自信はちょっとない)
とはいえ「好き嫌いは分かれるな・・・」「文句の言いどころがいっぱいあるのは分かるな・・・」とも思ったので、薦める相手は慎重に選ぶ必要があるのはわかる。
たぶん、元からこの作品はオタクの方を向いて作られた映画ではないんだろう。
(まず、オタクの方を向いているならちゃんと声優を使うはずであるし、そもそも3DCGにしないだろう)
友人にこのクソ長ったらしい感想をもう少し縮めて伝えたところ、「子供の頃ドラクエやってたパパが、懐かしいっつって子連れで見に行って、そんで夏休みの間にソフト買って親子でやってね、ってことだろ」と言われたが正にターゲット層はそこなんだろう。30~40代の子持ち父親(あるいは母親)。ちょうど小中学生の頃ドラクエ5をスーファミでやっていた世代だ。(だからこそ、今「5」が選ばれたのだろうと睨んでいる。3以前だとリアルタイム世代がもう少し上になってしまうし、4は5章構成で話が長すぎる。6以降だとまだちょっと若い)
「現実と向き合え」って言われるのが何よりも嫌いなオタク(と、あとフローラガチ派)は見るべきではないと思うが、まさしく「子供の頃ドラクエが大好きだったが、今はまあ子供もいて、そこそこ大人やってます」って人には是非薦めたい・・・・・・いや、そう言うタイプの人は最後のどんでん返しでカタルシスを感じてくれなそうである・・・ある程度「ゆうしゃとしての自分」に思い入れがないと・・・だがそう言う人は得てして現実と向き合うのが嫌であり、あるいは原作からの改変が些細なことでも許せないタイプ・・・実にジレンマである。
(・・・と、そのようなジレンマを抱える構造になってしまったことが「失敗」といえば「失敗」かもしれない)
また、この流れをもって主人公を「リュカ」としたなら、確かに久美沙織に対して何かしらの仁義は通すべきだと感じた。その一点においてマイナス100点である。
5の主人公=リュカの図式を作ったのは間違いなく小説版であろう。(もし万一、「リュカ」あるいは「リュケイロム・エル・ケル・グランバニア」の名がエニックス(当時)サイドから提供されていたのだとしたらそれを明確にして欲しいし、作者があのような(慎重な)声明を出す以上、命名は久美沙織側だったのだろうと思っている)
製作委員会におかれてはその辺は本当に仁義を通して貰いたい。この素晴らしい作品に、そんな事務的なことで味噌が付いて欲しくないと思う。
で!!!!!!だ!!!!!!!!!!実はここまでの長ったらしい話は全部前段であるっていったら怒る???
何でここまでドラクエ映画を大絶賛するかっていうと、作品自体が(人は選ぶものの)素晴らしかった(のに世間の評価がだいぶ偏ってるから、いっちょこっちは絶賛しとこう)っていうのは大いにあるんだけど、その直前に見た、見てしまった戦隊映画があまりに、あまりにも虚無だったからというのも大きい。
虚無映画のダメージがまだ残っているうちに見た為、通常時の1.5倍くらい面白く感じた...と言う可能性が否定しきれない。正直なところ。
(ブースト効果がなくても十二分に面白かったと思っただろうが、ここまで熱狂的に、最高に面白かった!!!!と思ったかどうか、怪しい)
というわけで「虚無映画の後にドラクエ見たら予想以上に面白かった」って話がしたくてドラクエの話始めたら思ったより熱が入ってたらしくてすっげー長くなったごめん。
でもこの後また長々虚無映画の話をさせてくれ。誰かに聞いて欲しいんだ。
「5点満点中マイナス100点」の栄光はまさに今年の戦隊映画みたいなもののためにあるのではないか? ドラクエではなく。
いや、戦隊映画については多くの人々が「ライダー映画のバーター」程度にしか見ていないのだろうと思う。
だって毎年バーターで、ライダーは一時間、戦隊は30分と相場が決まっている。ライダー単体の映画は大人1800円キッチリ取るが、戦隊単体の映画は大人1200円だった時代もある。
最近は戦隊単体の映画は期間限定上映になってしまったほどだ。悲しい。
だから、毎年大した期待は掛かっていないし、つまらなくてもその後のライダー映画が面白ければ何の問題も無いのだろう。
現に、今年のライダー映画に関する評判は、良い物も悪いものも合わせて耳に入る。つまり、それだけの人数、戦隊の映画も見ているはずなのだ。
しかし、誰も話題にしない。あんなに虚無だったのに!!あんなに虚無だったということを誰も口にしていない!!!その程度の興味すら抱かれていないのだろうか・・・それとも虚無すぎて何も言えないのか・・・
あるいは、「名作」とまではいかずとも、通常のテレビ放送の二話分くらいの時間を使えるのだから、ちょっとしたスペシャル回くらいの話はできる。
テレビ放送を見ている時よりはちょっとわくわくした気分で楽しんで見られて、特撮映画のことだから突っ込みどころも多いが、概ね「楽しかった楽しかった」と思える作品がほとんどだ。
(折角の「劇場版」がそれでいいのか・・・という話は一旦横に置いておく。今は、多くは求めまい)
少なくとも「早く終われ・・・」と祈ったことは、(毎年見ている訳ではないが、6~7本くらいは見ているはずだ)一度も無い。
それがだ。今回は半分より手前くらいのところから「早く・・・終わらないかな・・・」と魂が吸われていたのだ。
確かに、今年の戦隊はあまりちゃんと見ていない。が、それは過去の戦隊においても同じ事が言える。
(おおよそキャラクターや敵が何者かくらいは知っているが、毎週毎週熱心に見ている訳ではない。これはライダーも同じだ。友人たちと話のネタにするために流し見しているくらい。そこまでガチ勢ではない)
だから、「例年より話が分からない」「例年よりキャラクターに思い入れがない」という点で「面白くない」訳ではない。
「特撮映画」というジャンルには独自の文明があるので、割合トンデモ展開が許される。
(実際のところファンが「許して」いるかは知らないが、平成だけでも20作品にわたってトンデモ展開をやり続けながら絶対的コンテンツとして君臨しているのだから、許されていると思っていいだろう)
突然東京がひっくり返って江戸時代になろうが、突然信長が蘇ろうが、突然歌って踊ろうが、サーカスを始めようが、見た目は大人頭脳は子供だろうが、侍もいるし天使もいるし忍者もいる。タイムスリップも日常茶飯事、作中における原理原則の多少の無視もよくあることだ。今更騒ぐようなことでもない。
「展開がトンデモすぎる」「作中の設定が無視されすぎて変」という話でも、ない。
六千五百万年前からいきなりタイムスリップしてきた人類(的な生き物)が居たら、まずは文明の違いに腰を抜かすところからじゃないのか???とか
六千五百万年前の文明発達しすぎだな?いやそれは作中設定があるからいいとしても、こっちの部屋はロストテクノロジー仕様なのにあっちの部屋は旧
承認欲求といえばマズローの5段階欲求でお馴染みの人間の欲求のやつです。
そんでアドラー心理学では承認欲求を満たしてはいけない的な論調があるんですけど、これ割と合ってると思います。
ただ勘違いされやすいよな〜って気もする。例えば承認欲求を持たないくせにお前なにWeb上に文章投稿してんだよ、チラシの裏にでも書いとけ、承認欲求あるんだろ!みたいな反論されそうだけど、承認欲求はある!そして承認されたいので行動する!ここまでは良いと思うんだよね。問題はこの世ではたいてい承認されないことのほうが多いということですよ。
ここでアドラー心理学が提案してたのが、承認されなくても良い、承認されないことを受け入れる。ってことで、それがまぁ昔から自己啓発系の文書で繰り返し言われてる「他人の目を気にするな」とかの考えであり、例の本のタイトルに使われた「嫌われる勇気」って考え方に派生したのかな〜って感じです。
そんで、もし承認欲求のために動くのが最善で承認欲求が満たされることこそ目的であるとして活動するとどうなるでしょう。前述のように承認されないことのほうがほとんどなので、試行回数を増やせば増やすほど、承認されないという体験を積み重ねます。
Web上に溢れてる、僕のお気持ちを無視するな、俺の正義を否定するな!といって大暴れしているモンスター共の正体はこれです。承認欲求に従い自分で自分をコントロールできずに欲望のまま突き進んだものの末路です。こうなってしまってはもう誰にも承認されることはありませんし、承認されないことでフラストレーションをためて大暴れする、嫌われ拒絶される。拒絶されたことを受け入れられずフラストレーションをためて大暴れする。といったループに陥ります。
アンコントローラブルな状態で手放しで承認欲求の赴くままに行動すると自然に良い結果を生み出す。みたいな社会の認識がある感じするんだけど、多分それは間違っていて、食欲とか性欲なんかと同じように本能の赴くままに貪るのではなく適度にコントロールしたほうがいいのかと思う。
当たり前のことっちゃ当たり前のことなんだけど、承認こそ重要!承認されてこそ人間であり、承認されない人間はカス!社会に存在する価値無し!みたいな論調はやりすぎだし、そういう常識を真に受けてしまった人たちが不幸を量産してるよな〜って気がする。しらんけど。
みっともないとか、恥ずかしいとか、その歳なのにまだ〜とか、相手に失礼とか、立場をわきまえてとか、そういう言葉が出てくる文脈はだいたい、他人の頭の中にある常識なので、そういうもの相手にいちいち「承認」されるために頑張ると、マジで地獄だよなぁって感じです。
そういうの克服するためにセルフエスティームとかの考え方も使えたりするのかな。
アトロクでの火曜日のこのコーナーが好きで、いつも楽しみに聞いているのだが、それじゃあ自分の元トモってどうなのか?とふと振り返ってみると、元トモと言える人すらもいないことに気づいてしまった。
元トモがいるってことは疎遠になる前はその人とは友達だったというわけで、友達とワイワイと楽しい日々を過ごしていたということになる。
それじゃあ自分はどうだったのか?と再び振り返ってみると、友達がいないわけではないのだが、何というかもうその時点で元トモのような希薄な関係性だったので、その人と疎遠になったところで、それは私にとっては元トモではなくただの他人になってしまっているのである。
このラジオのコーナーを聞き終わっていつも思うのは、"僕は友達が少ない"のではなく、"僕は友達がいない"人間だったということに気づくことだ。
https://anond.hatelabo.jp/20190617204447
これ書いた増田です。思ったよりコメントとかもらえてて、皆さんのお話を聞けて割と幸せです。一人で悶々としていると考えすぎてよくわからなくなっていく。
これを誰かに打ち明けられる人生だったら良かったのだけれど、そんな人を作れなかったので今ここにこうしている。
ありがとうはてな。私は確かに、増田に救われているものの一人である。
ただみなさんに一つ謝らなくてはいけない。
そう、私は医者にも行ってなかったし、診断も受けてなかった。だから、書いたことは全部想像で、こういう状況下ならどういう感情になるかをシミュレートしただけの文なのでした。
ただ、一つ弁解させて欲しいんです。
あの文は、嘘だった。
けれど、もう過去形です。
今は、本物に変わったのです。
そう、私は数日前に、発達障害である診断を正式に受けたのです。
なんであの文を書いたかというと、衝撃を分散させたかったから、というのが一番の理由です。文を書いた時、私には障害者である診断が9割は出るだろうと確信を持っていました。残りの1割はただの怠け者の健常者であるという結果だろうと。どちらにしても残酷ですね。
どちらにしても、割と衝撃的な診断になるだろう。だから、その前の心の準備があの文でした。いわゆる、リハーサルです。
私がこれから、どんな目を向けられて生きることになるのかを、確かめておきたかった。
実際の舞台で言う所の、記者を呼んで行う最終リハーサル、ゲネリハに近い感覚でした。
割と障害者であると診断される確信はあったので、自分が障害者だと診断された時の感情としては全く嘘偽りのない、赤裸々な言葉たちが確かにそこにはあるのですが、やはりタイミングとしては嘘になります。違っていた可能性もあったわけですし。ごめんなさい。騙すような真似をして。
実際の私の症状は、ADHDもありましたが想定外に自閉症スペクトラムも付いてきました。むしろ、こっちがメインでADHDの方がオマケ、くらいの状態だそう。
私は、思っていたよりも生きにくい世界で生きていたらしい。
想像以上に重めの障害として捉えてるような医者の口ぶりに、いささか狼狽を隠せないのでした。
その診断を、粛々と、穏やかな気持ちで聞くことができたのは、やっぱり皆様のおかげだと思う。ありがとう、増田の皆さん。割と人生ひっくり返るような現実を心安らかに受け入れられたのは、皆さんのおかげです。皆さんの忌憚のない意見が先にあったからこそ、その衝撃は和らいだのです。
医者からの言葉も、割と皆さんが言っていたことを要約して砂糖漬けにしたような耳障りのいいお話だった。
もし世界の脳のタイプの人口がひっくり返ったら、あなたの方が正しくて、今の多数派の方が自分は間違っているんだと精神を病むことになるんじゃないかな。あなたは、ちょっと運悪くこの脳のタイプが少数派の時代、社会に産まれちゃったけど、でもあなた自体、あなたの脳は問題ないんだよ。
まあ、正直、捉え方の問題でしかなくない?どんなに好意的に捉えても問題が解決するわけではなくない?とは思ったものの、それもまあ一つの優しさかな、と思って深くは考えないことにした。
そんなわけで割と心は、やはり穏やか。
結局のところ私はやはり自分が普通になれない理由を求めていたのだ。
普通になろうと頑張ることを諦めるための理由を求めていた。一般社会でそれを諦める理由なんて、病理的なものしかないだろう。
私は、詐病でもなく、真っ当に、それを止めることができた。ありがたい話である。
これで労力を無駄なことに使わなくて済む。
それに、これは自己肯定感の話にも繋がるように思える。
今までの自分なら、どうして私は普通になれないんだろうと悩みに悩んでいたところだったが、障害者であることが確定した自分なら、障害あるなりに頑張ったんだもんね!と納得ができるように思えた。
私は、「健常者でどう頑張ってもグズの私」は一切愛せないし許せないけれど、「障害者でトロいけど頑張っている私」にならば優しくできるような気がしたのだ。
それは、差別だろうか。だとしたらごめんなさい。
それに、本当ならそんなこと、障害のあるなしに関わらず、できるはずなのにね。どうにも不器用にしか生きれない。
話は少しズレるが前回の文は障害者への差別意識が高いために苦しむのだ、という意見があったが、それは弁解しておきたい。あれは、どちらかというと、自己嫌悪、自虐の色合いが強く、世間一般の障害をお持ちの方々へ向けたものではないことはご理解頂きたい。
そういう言葉を発せられる時点で差別なんだよ、と言われたら何も言い返せないのだけれども。ただ、あの言葉たちは、私に障害者という属性が付与されたから産まれた言葉たちなのだ。私がそうでなければ、発さなかった言葉たちなのである。そこは、信じて頂きたい…が、こういう言葉たちから自分の意識しない差別って浮き彫りになるものですよね。反省のきっかけにもなるので、そのあたりへのご意見、特にお待ちしてます。
そんなわけで、私の業火のように荒れ狂うような感情の波は、リハーサルの架空の時間のうちに消費されたために、今は穏やかに、障害者である自分を受け入れられている。
いや、ただ、薬が効いているから穏やかなだけなのかもしれないけれど。
フルニトラゼパムの眠りから覚めたから、穏やかなだけなのかもしれないけれど。
ただ、先生からのお話は、今までの人生の伏線回収みたいで、謎が解き明かされていくような感覚だった。
いや、むしろ思い当たる点が多すぎて、これはコールドリーディングじゃないか?とさえ思った。
あなたの地元の駅に商店街ありますよね?そこのパン屋さんの作るカレーパン、本当に美味しいですよね!みたいな。
理解してくれるかのような素振りすら今までの人生で得られなかったのだから、ほんの少し微笑みかけてくれるだけで嬉しくなっちゃう単純な人間なのだ私は。
それに、これが医師でも詐欺師でも、話に乗らなきゃ人生は微動だにしない。
なら、乗りたいのだ、私は。
不適合者に薬を飲ませて利便性を図りたい世間の思惑にはまっているのだとしても、それで人生が好転するならむしろWIN-WINだろう、きっと。
そう言い聞かせながら、不信感を拭うことにしている。
さらに加えると、思いがけない救いが一つあった。
こういう気質は、遺伝するから…親のどちらか、似たような人いたりしない?
母です。私に似ているのに、私よりも勝手にいきていて、私より傍若無人な母。
その、トゲのある無神経な言葉に何度も苦しんで、母親のことが理解できずにいた。
むしろ憎んでいた。憎くて、家から出た時、離れられてどれだけ嬉しかったことか。
それは、救いだと思いました。
今まで理解できなかった母を、許すための糸口を見つけられたから。
もしかすると、もしかすると、私は親に嫌われていたわけではなかったのかもしれない。
障害のために歪んで見えていただけで。
まだ何も確証はないけれど、そんな可能性が見えただけで、とても嬉しかったのです。
その話を医者にしたら、まずは自分のことだけ考えなさいと窘められましたが。
みんなが増田に求めるものは、きっと強い感情の奔流のようなものだと思うから、きっと私のこの安らかな文は、前回の狂いそうなほどの衝撃の中で書いたそれよりも、きっとつまらないに違いない。
けれど、やっぱりみなさんの存在に救われたものとして、その後をお伝えしたかったし、感謝の念をお伝えしたかったのです。
ありがとうみなさん。
頑張ります。
生きやすくなりたいともがいた日々は、障害の言葉で無に帰ったわけじゃなくて、むしろもがいたから障害という答えにたどり着けたんだと今は思ってます。そう信じてます。
病院からの帰り際、モンシロチョウを見かけました。太陽光が突き刺すような、アスファルトの熱が柔く伝わる、少し早い夏のような日。
そのモンシロチョウは、ゆらり、ふわりとまるで、よろついているかのようなおぼつかない動きで公園の緑の中へと消えていきました。
夏にもモンシロチョウは生まれるとは聞いたことがあります。けれど、この炎天下で、この蝶はどれだけ生きれるんだろう。
今までの自分なら、その姿に勝手に自分を重ね合わせ、世を儚んでいたのだと思います。
けれど、今の私には、別の姿に見える。
あの蝶に木陰という場所があるように。
きっと私にも、穏やかな、帰りつくことのできる場所が、あるんじゃないかって。
そしてこれからの人生で、そんな場所を見つけられるんじゃないかって。
今はまだ、蝶のように美しくはなく、蝶よりもおぼつかない、ゆらめくような足取りだけれど。
そう信じたくなったのです。
勝手に、蝶と私を重ねて見ながら。
どうか、私にも、そして読んでいるあなたにも、あなただけの、それぞれの木陰を見つけられますように。
もう見つけている方には、その木陰の中で、健やかに、美しく、揺るぎなく、生きれますように。
みなさま、本当にありがとうございました。
追記。
更に追記。
増田で文を書いたら、お言葉をいただけることが嬉しくて…ブログを立ち上げました。
もちろん増田だからコメントもらえてたのはわかってるんですが。
記録を、私という連続性を付与してつけていきたいと思ったのです。
もし私の文にご興味ありましたらお越しください。
半年ぶりのご無沙汰です。春になって水が温んだと思ったら、いきなり夏でした。冬越しをした生き残りのメダカたちと本年のスタートです。
冬越しの結果をまずお伝えします。
良好でした。サンルーム内の台の上に発泡スチロール製の容器を5個並べました。半分ほどふたをして残りを開けておくようしました。冬越し率99%台の好成績。アナカリスは、発泡スチロール容器のふたをして保管。春先から新芽が出まくりでした。
南面に集中配置したのが功を奏しました。冬は温かい場所においてあげるのが良いみたいです。
ちなみに東面で網で取れなかった屈強な奴らが若干残りましたが、こいつらは屈強なだけあり生き残りました。
ということで、家の周りの水槽のポジションを季節によって配置換えすることはとても有効でした。
・壊れたもの
昨年アマゾンで買った10分岐のコックが空気が抜けるようになりました。本年は塩ビパイプにコックをねじ込んだ自作のものに切り替えます。
トロフネ40用の自作の網がたるんできました。安い網を使ったのが良くなかったらしく、樹脂製の網に切り替えたいと思います。
晩秋の水替えであれだけ捕獲したのですが、春になって10匹ほど捕獲しました。捕獲後は近所の小川へリリース。水面に寄せ付けないさらなる工夫が必要かもしれません。
令和元年度の事業計画です。
みんなが急に令和元年とか言い始めたので、令和元年度でいきます。
・黒タライを増備
黒タライを5個増やしました。南面の暑いポジションは深型の黒タライが8個並ぶこととなりました。水替えなどの運用がとても楽になりました。
南面に配置していたトロフネ40x4個は、東面へ配置換えとなり、NVボックス#13の利用を極力排除して、水槽の大型化を推進します。
・ヒメタニシの導入を加速
レッドラムズホーンからヒメタニシへ。水の浄化役を交代させます。
稚エビをメダカが捕食することがわかったので、ミナミヌマエビは単独で飼育していきます。エサを集中させるため貝類もなしでいきます。
長野のお土産の七味唐辛子のスチール製の容器がメダカのエサ入れとして使いやすいです。詰め替えるときは、ふたが完全に取れてえさが入れやすく、えさを与えるときは、ふたのサイドに開いた穴から少量ずつ出すことできます。キリミンなどの空き容器を使って詰め替えていましたが、長野の七味唐辛子容器がとても使いやすいです。長野県をドライブしているときに道の駅で七味味のゴマが入っている大容量のものを発見。こちらは、より大型でたくさんのえさを入れておくことができます。長野に行った際にはぜひゲットしてください。ちなみ梅味のゴマもあります。
いやしょうもないダジャレはともかくとして、最近やたら多いじゃない?
プラスチックゴミで海が汚れていかんぞってことで、紙だの木だの竹だののストローがまあ次々とさあ
こないだテレビで見たのは、カンナ屑みたいな木に接着剤つけて、それをわざわざ人の手で丸めて、さらに何日も乾燥させてできあがりなんだとさ
たかが一回使うだけのストローに手間かけすぎだろ、内職じゃねえんだぞ
いやそりゃさ、プラスチックゴミが減ること自体はとてもいいことだと思うよ
ストローばっかりじゃなくてレジ袋も最近いろいろ言われてるし、なんかカップラーメンの箱も植物性の何かに変わるらしいし、世の中ちょっとずつエコに向かって動き出してる
だいたい普段ストローなんかそんな使わないし、こじゃれた店行くような文化圏の人間でもねえから、あんなもの明日なくなろうが別に構やしない
ただ思うわけよ
「真っ先になくすべきもの」として槍玉に挙げられて、意識の高さをアピールするためにとりあえずといった感じで今日も迫害されてるプラスチックストローを見ると、なんか正直つれえんだわ
他人事と思えなくて