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はてなキーワード: 野戦病院とは

2021-08-22

anond:20210822083127

どこに回すの?重症病棟がいっぱいだから野戦病院作るんだよね。

口先だけの助ける助ける詐欺日本当たり前の光景じゃね?

2021-08-20

野戦病院を作らない理由説明するよ

野戦病院野戦病院うるさいので何で作らないか書く


1.そもそも野戦病院」という名前が使えない

各自治体で臨時医療施設等は設置しているが、「野戦病院」という名前を付けたら病院としての法的な基準を満たさないといけないので、他の名称を使っている。

入院待機ステーション等)




2.体育館にベッド並べて中等症患者大量に診るのは無理

→「野戦病院」のイメージって体育館にベッド並べてる感じだけど、配線とか考えたら病院の駐車所とかにプレハブ建てたほうがいい。

京都府体育館入院待機ステーション設置したけど7床だけ

ただベッド並べて「軽症者や無症状者を隔離する」のには使えるけど、それならホテルや自宅で良くない?




3.酸素ステーションホテル実質的野戦病院

野戦病院という名前を使ってないだけで、野戦病院的なものはある。酸素ステーションもそう。

東京都が旧国立児童館こどもの城」に130床の入院待機ステーション酸素ステーション)開設する。もちろん酸素投与だけではなくて点滴、投薬、医師看護師による24時間モニタリングもやる。

ホテル療養を臨時医療施設として抗体カクテル療法もやっていく。

これはもう野戦病院




5.増やせないのは場所ではなく人が足らないか

東京都入院待機ステーション酸素ステーション)は、東京都看護協会が時給5000円くらいで応募してるけどなかなか集まらない。

んで、これを時給1万とか2万とかにちゃうと、すでに民間病院公的病院宿泊療養施設でこれより低い給与で働いてる人が辞めたり求職者を取られるから病院からクレームが来る。

じゃあ全員上げればって思うけど医療従事者の雇用はそんなに市場原理でやっていくのは難しい。


6.日本医師会が野戦病院作れって言い出したのは開業医利益のため

日本医師会開業医利益を代弁する団体。在宅療養者が増えれば開業医負担が増えるから、でかい箱作ってそこにまとめて入れてほしいだけ。

政治家人殺しなのだろうか

感染者がまた増えて、連日嫌なニュースばっか。

昨日は自宅療養の妊婦が受け入れ拒否で、新生児が死亡のニュースを、LINEで、Twitterで、テレビであちこちで見かけた。

そもそも崩れてきている医療現場と日々カツカツだろう従事者の皆様。

それとは別で対応しきれないマニュアルの穴。

後見直していくための症例になるだろう、と記者会見では語られていた。じゃあ昨日のニュース新生児死ぬ必要があった子なのかと悲しくなった。

だってコロナ禍じゃなければ、きっと生まれてこれたからね。

野戦病院の話も見かけた。ビックサイトかに臨時の病床を設けたらどうかというやつ。

「見慣れた祭の場の天井見ながら死ぬのか」っていうコミケ戦士たちのコメントがあって嫌だった。悲しすぎるでしょ。

でもビックサイト病棟になったとして、それを看てくれる医療従事者は足りてるのかな。

野戦病院という非常事態下で働くことになる人達には特別手当とかを出してくれるのかな。

そういう補償もなく、働いてくれてる人達を、「仕事から当然でしょ」と偉い人たちは思ってなかろうな?

小池さんの顔がまたやつれている。激務だろうし、いろんな対応に追われてるんだろう。それは大変だろうし、負けないで欲しいと思う。

ただ、こんな状況下でまだ自宅療養を推奨していて(というかそれしか方法がなくて)自宅療養の問題吹き出してるのにこどもをパラリンピック観戦に参加させるのはどういう意図でそうしてるんだろう。

この間、自宅療養してた3人家族母親けが亡くなるニュースやってたぞ。家で母親が亡くなったこものその後のメンタルケアどうするんだろう。

極端な言い方をするが、菅さんが「陽性者を皆殺しにします」と言ったわけじゃないし、小池さんが「都民は全員殺します」と言ったわけじゃない。

虐殺ではなく、病死だけど、それは真っ当な病死なのだろうか。

本当に手を尽くしてるんだろうか。こどもより高齢者ワクチンを優先させて、こどもを観戦させようとして、こどもの親が死んで、生まれてきたこどもが瞬間亡くなったこの状況が「手を尽くしてる」とは呼べなくないか個人的には呼びたくない。

また今日もそういうニュース流れるかもしれないと思うと、あるいは自分がそうなるかもしれないと考えると、金曜日なのにとても憂鬱

2021-08-17

コロナ病床増やしても…東京都が「野戦病院」をつくらない理由

病や死はケガレなので、なるべく隠しておきたいから。

体育館にベッドが並んでいる絵を報道されると、菅や小池ケガレが及ぶおそれがある。

毎日記事は読んでない。

2021-08-14

「つくらない」× 「つくれない」◯

コロナ病床増やしても…東京都が「野戦病院」をつくらない理由 | 毎日新聞

https://mainichi.jp/articles/20210813/k00/00m/040/270000c

ベッドや施設があっても医療従事者が足りないということは、もう散々各所で問題にされてきたことのはずだが、

今知ったような記事をあげる毎日新聞ポンコツぶりが目に余る。

タイトルおかしい。「作らない」じゃない。

「作れない」んだ。

医療従事者は数年で増やせねーんだよ。

2021-08-11

anond:20210811042125

それ以前の問題だぞ

自宅隔離して家族全員肺炎で死亡とかい事態を起こしてる中国とかでも

野戦病院作ってるので

 

一応、選挙を踏まえて撤回はしたものの、首都圏病院に降りてる通達

上級国民安心安全のためベッドを空けろで変わりがないみたいだね

日頃からパルスオキシメーター酸素飽和度測ってたほうがいいぞ

もっとも困難な状態にあると伝えたところで入院出来るかは運だがな

2021-08-04

anond:20210804165854

京都がやるみたいだけど、病床がないならまずは愚直に野戦病院みたいに増やすしかないよなぁ

今回の自宅療養の方針おかしいのは、まあ色々おかしいんだけど、

からズバッと線引きされちゃうと、現場医師はそれに従うしかなくなるわけで、

医師がこの患者は軽症や中等症Iだけど、入院させた方がいい、と思っても、

いや、国が決めたことですから、みたいになってしまって患者が自宅で死んでしまいかねないわけで、

医師会側からも、方針原則としては分かるが、現場医師判断を優先させてください、

と菅氏にその場で言い返してたので、それはそれで医者良心を信じるしかないと思ったんだけど、

そうなると自宅療養の方針云々の話はまったく意味をもたない

線引きして、入院してれば助かった命を見捨てて、

これで医療崩壊は防げたから、みんなも五輪を楽しもうぜ、みたいな話に思えてくるわけで…

憲法改正なんかしなくても、まだまだ内閣としてやれることはあると思うんだよなぁ

そういうブレーンが不在なのか、人材がいてもおまえに発言権はないみたいにされるのか…

2021-07-30

東浩紀 Hiroki Azuma on Twitter: "感染者数が増えると医療逼迫するというなら、がん患者が増えても医療逼迫するし、肥満が増えても医療逼迫するし、交通事故が増えても医療逼迫する。というかそもそも高齢者が増えれば当然医療逼迫する。医療逼迫しないことを目的にするという言説自体がぼくはどうも受け付けないんですよね。"

あずまんが批判されてるけど、武漢コロナ病院がひっ迫したとき

中国では巨大テント野戦病院みたいの作ってたじゃん?

日本も似たような施設を作ろうとしていたと思うのだけど、なんかいつの間にか立ち消えになって、

今になって騒ぎ出すのは、なんかすごく違和感あるのよね。

2021-05-17

なぜ大阪野戦病院的なものを作らないのか疑問

だだっ広い空間にベッドだけずらっと並べて、

簡単パーテーションで区切るヤツ。

 

外国だと常識のようにやってるし、

東京でも笹川財団あたりが作ってた(使われなかったと記憶)。

 

プライバシー風呂トイレ共同なんで生活環境は落ちるけど、

不安希望者だけは入れれば良いんじゃないかなぁ、と思う。

重症病棟ボトルネックなら意味は薄いけど…。

2021-03-31

大東亜戦争という聖戦に対するフィリピン人神対応!涙が止まらない・・・

「苦患のルソン戦線坂田澤司

・・・バギオ市内に入るが早いか、比島人の凄まじい怒りの罵声が待ち受けていた。

ドロボー

ジャパン、パタイ!」

「ゲット、アウェイ

ありとあらゆる罵声と投石の嵐を、出来る限り姿勢を低くしてくぐり抜け収容所へ向かった。

(中略)

途中、比島人は沿道の至る所で我々の通るのを待ち受け、家から飛び出して来て、バギ市街にも増して激しく、

バカヤロー!」

ドロボー!」

と声を揃えて大声で怒鳴る。

女子供までが、さも憎々しげに

ジャパンソルジャー、パタイ!」

と首を切られる真似をするかと思うと、侮蔑を表す彼等特有のしぐさで親指を立て、

「ゲット、アウェイ!(出て失せろ!)」

と繰り返し、大小の石がトラック目掛けて飛んできた。

(中略)

(貨車に乗り換え)途中停車する毎に比島人の憎悪のこもった眼差し、怒声、投石の嵐が続いた。

(中略)

後日収容所で聞いた話では、投石で頭を割られた兵隊、酷い者はピストルで撃たれて死人まで出た貨車もあったという。

ルソン島敗残実記」矢野正美

しばらくして小さな町に入ると、鉄道沿線には黒山のように住民が並んでいる。

列車が近付くと一斉に石を投げてきた。

(中略)

小石がパラパラと頭上に飛んでくる。

女達までが私達に向かって舌を出し、首を叩きながら喚いている。

ドロボウとか、パタイ(死ね)という言葉が、コーラスのように響いてくる。

(中略)

何のためか列車が野原の真ん中に停車したので、ホッとしてシートを取ると、住民達はここにもいっぱい居て相変わらず石を投げつける。

一人の老婆が近寄ってきて、

ジャポンマニラ、パタイ!」

と言いながら、ビンロウの実を噛んで、真っ赤な口から血のような唾を吐き出し、憎しみを込めて叫ぶ。

肉親の誰かが殺されたのか、或いは家を焼かれたのか、家財でも奪われたのであろう。

「お前達はマニラで殺されるんだ!」

そう繰り返している。

彼等もまた、大きな戦争犠牲者であろう。

私達もあのサンフェルナンド上陸以来、比島の住民達にしてきた事を考えると、その罪の大きさを思わずはいられない。

殺人強盗放火強姦、ありとあらゆる罪を重ねてきている。

お前が言うな

ケダモノタイ

「ルソンの霧」石田

途中、いくつかの集落を横切った。

部落には、既に、もとの住民が復帰していた。

彼等は、床の高い粗末な家の窓から顔を出し、黙ったまま、私達に軽蔑の目を向けていた。

彼等は、時々空に向けて小銃を放った。

それには度胆を抜かれた。

「ルソン戦・死の谷」阿利莫二

線路際にフィリピン人が群がって石を投げ始める。

ジャパンポンポン、パタイ!」

この罵声だけ覚えている。

(日本人射ち殺せ!)

こんな心だろう。

「Gパン主計ルソン戦記」金井英一郎

マニラ市街を通過する。

平和を取り戻した猥雑な街。

人が溢れている。

交差点で止まる度に、バカヤロドロボー、パタイ罵声の嵐。

マニラの港に着くと、何百人ものフィリピン人男女が待ち受けていた。

タイタイ(死ね死ね)

ハングハング(首を締めろ)

石だけではない、ビンやコップを割った凶器も飛んできた。

最後の強烈な禊だ。

嗚呼草枕」於保忠彦

街を通過する時は、日本兵は頭を抱え、路上から飛んでくる石や、薪を投げつける老婆や子供から身を守らねばならなかった。

ジャパニーズ、パタイ!」

と叫んで、手を首に当て、首を斬る仕草をする。

「ルソン海軍設営隊戦記」岩崎敏夫

タルラックを通る時、群衆が私を見つけて、

バカヤロー!」

とか、「死ね!」とか叫んでいる。

ところが、Millare軍曹が立ち上がって、

「He is a good man! He is good!」

と怒鳴っている。

これには有り難かった。

(中略)

途中、フィリピン人が待ち構えていて、

ドロボー!」

とか、「バカヤロー」

とか怒鳴っている。

どうしてこんなに怒鳴られるのか。

マヤントクでの住民との交歓の後だけに、狐につままれた思いであった。

重機関銃分隊長のルソン戦記」川崎恵一郎

バギオの街では・・・(中略)現地民が我々を見て、

バンケーロ」(馬鹿野郎)

「パタイ」(殺す、もしくは死ね)

罵声を上げる。

(中略)

しばらくして貨車は動き出す。

ゆっくり進んでいく。ときどき、

バカヤロー!」

ドロボー!」

と叫ぶ声が聞こえる。

貨車日本兵が乗ってる事が分かるらしい。

所々に陸橋があったり丘の高いところがあると、この下を通る時が大変である

現地人が橋の上や丘の上に石を持って待っている。口々に、

ドロボー!」

バカヤロー!」

「パタイ!」

叫びながら石を投げつける。

(中略)仲間の中には石が当たって血を流してるものもある。

フィリピン戦線の人間群像守屋

住民パラパラと家から路上に駆け出して、手を振って何か大声で叫んでいる。

私達はテッキリ戦争が終わったので、喜んで我々を歓迎するために、家から飛び出したのだと思った。

我々は彼等の姿を見ると、ニコニコして手を振った。

ところがこれが大間違いで、彼等は形相恐ろしく、口々に、

ハポンドロボーバカヤロー!」

と言っているのである

ハポンとは現地語で日本の事である

なかには石を投げつけようとする人もいる。

「生ある限りルソンへ」礒崎隆子

再びトラックに分乗、サンホセに向かった。

途中、現地民から日本語で、

バカヤロー!」

ドロボー!」

「ヒトゴロシ!」

罵声を浴びせられ、石を投げられた。

私達は頭を抱え荷台にしゃがみ込んだ。

石が頭に当たり血を流す人もいた。

現地の人を略奪し殺し、平和国土戦場にしてしまった私達日本人は、どんなにされても文句の言える立場になかった。

「ルソン死闘記」友清高志

トラックが一つの集落差し掛かった時である

前方の沿道の両側にビッシリと住民が群がっている。

彼等はトラックが近付くと、老人から子供に至るまで、一斉に喚声を上げた。

ドロボウドロボウドロボウ・・・」

拳大の石がいくつも飛んできた。

中には、手を首に持ってきて、水平に動かし、お前達は絞首刑だ、とジェスチャーで示す者もいる。

この調子では、フィリピン全土が、日本軍に対する恨みの炎で燃え上がっていよう。

多少の覚悟はしていたものの、私の予測は甘かった。

「傷跡・ルソンの軍靴佐藤喜徳

無蓋列車はなおも南へ南へと進んだ。

そして、何度か、現地民の罵りと投石を受けた。

「バキャヤロ!」

ドロボー!」

現地民が我々に叫ぶ侮辱日本語は、とりもなおさす日本占領時代に我々が彼等に使っていた言葉の仕返しであった。

「パタイ!」

「ヤマシタ、パタイ!」

日本人を殺せ!」と投石する現地民の怒りを、我々は無蓋列車の中で、首をすくめて我慢した。

(石をもて追われる如く)敗残の身を、私は車中で目をつむっていた。

生還者の証言加藤春信

(証言者その2)・・・ところが思いもかけない次の言葉で、冷酷な現実実態を思い知らされた。

ジェスチャーを交えて投げ飛ばす彼等の言葉は、相手侮辱する時に使う日本語の、

バカヤロー!」

ドロボー!」

なのであった。

しかも、罵倒するだけでは飽き足らず、彼等の中には青竹を振りかざして殴りかかってくるものもいたし、私を目掛けて、小石を投げるものもいた。

(中略)

それなのに、まるで泥棒猫でも打鄭するように、青竹の一部がささくれだって裂ける位の勢いで、殴りまくる人もいた。

筋肉の脱落した痩せた体を目掛けて、ビシリ!ビシリ!と打たれる度に、不思議に肉体的な痛みは感じなかったけれど、まるで心臓に五寸釘でも打たれるような激烈なショックを受けた。

そして、その時、身に滲み通るような敗戦の惨めさをつくづく感じたのであった。

「1945年夏・春菊よ谷のせせらぎよ有難う」岡田梅子

人家のある所を車が通っていくと、我々は罵声を浴びせられ、小高い家の庭先で洗濯をしていたオカミサンは、矢庭にタライの中の石鹸水を浴びせかけたのであった。

(中略)

遠い金網の外側にはフィリピン人たかって、拳を振り上げたり、唾を吐きかけたり、日本人へ憎しみを表しているようであった。

「1945年夏・フィリッピンの山の中で」新美彰

沿道のフィリピン人達は、私達の乗ったトラックを目掛けて、石を投げつけ、日本語で、

バカヤロー!」とか、

「インバイ!」

とか知ってる日本語で、罵り嘲笑う。

この付近フィリピン人の家を我が物顔で横取りして、作物を荒し廻った私達だから、どんなにされようとも仕様のない事だと思う。

私達はあの人達にとって、さぞ殺したい程憎い日本人だろう。

(中略)

駅につけば付近住民ギターを持って、貨車の周囲に集まってきて、何かタガログ語で歌い、罵り、嘲笑う。

言葉の分かる小母さんが口惜しいと涙をためておっしゃる

「激闘ルソン戦記」井口光雄

バギオに近付くにしたがって、現地民達が増えてきた。

ジャップ・パタイ(死ね)」

ギロチンOK」

マールダル(マーダー、人殺し)」

ドロボー!」

と口々に喚きながら石を投げつけてくる。

手を頸に当てて引き斬るような手真似をしては、唾を吐きかけ、バナナの皮などを投げつける。

(中略)

事実日本軍は彼等の財産である家々を強制的使用し、床や壁を剥がして家捜しをしたり、燃料の代わりにして荒らした。

作物を押収したり、家畜を殺して食べる事にも貪欲であった。

ときにはゲリラスパイと見なして、善良な市民さえ射殺した(注、斬首だろうに)。

寒風のごとき日本兵と、太陽のごときアメリカ兵では比較にならない。

ルソン島野戦病院・全滅の記」西井弘之

途中で、シビリアン達が口々に

ドロボー!」

バカヤロー!」

と盛んに私達のトラック目掛けて投石したが、フルスピードで走り抜けてくれた。

(中略)

(列車に乗り換えた後)停車駅では無蓋列車に座らされ投石を防ぐ。

相変わらず

バカヤロー!」

ドロボー!」

罵声と共に投石するシビリアン達。

情けない。

そりゃ情けないわな、天皇軍隊もの

世の中に、日本兵程情けないものはない。

日本兵など、人間もっとも下等な存在からね(日本兵日本人)。

強姦ばっかしやがって!

タイだよ!

フィリピン人達の怒りは、俺の怒りでもある。

強姦魔!

恥知らず

爪の先の埃程も、日本兵に同情などしないからね。

ケンペースケベ!

ちんこ斬っちまえ!

2021-01-21

医師看護師既得権益から免許の人数を増やすことはしたくない。

まりコロナへの対処永久にできない

医師を増員して自分らに不利益するくらいなら野戦病院患者に手投げ弾を渡すべきだと医療者の全員が思ってる

2021-01-17

民間病院医師能力がなくコロナ患者を診れないってマジなの?

https://news.yahoo.co.jp/byline/kutsunasatoshi/20210117-00217857/

野戦病院的な施設他国で作られて日本では作れなかった理由がそんなところにあったとは

だとすると、かかりつけ医総合診療医って一体何だったんだ

2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

2020-08-02

anond:20200802191243

船の科学館東京だよね

日本財団が設営する不気味な大型野戦病院 - 政府医療崩壊を想定済み 2020-04-08 23:30

tps://critic20.exblog.jp/30978192/

>>病院を一つ新設しようとすれば、病院法に基づく申請と認可の手続きがあり、

>>複雑な書式と審査プロセスがある。建築基準法規制もある。開業まで何年もかかる。

>>それらを全てすっ飛ばし異次元規制緩和でつくばの山の中に野戦病院が建つ。

>>政府は、ここに9千人の首都圏コロナ患者収容する思惑なのだ

>>そのときは、夏だが、すでに首都圏の借り上げ諸ホテルが満杯状態になり、収容しきれなくなった大量の軽症者が自衛隊車両ピストン輸送で運び込まれるのだろう。

>>おそらく、つくば野戦病院敷地内には大型の遺体安置所と火葬場が併設され、

>>1日300人ほど出るであろう死者を、感染症法30条の規定に従って24時間以内に灰にする

ゆりかごからかばまで

2020-04-24

コロナ 本日の状況 まとめ

日本財団野戦病院案は20日たっても進んでないっぽい。っていうか「なみはやリハビリ病院」の「PCR陽性看護師感染病棟で働かす」くらいでないと実行できないんやろなぁ ひどい話

ほぼほぼ医療機関新規クラスター源になってる。はよ防護服あげて。あと日本郵政ヤバいときいた

・鼻奥でなく唾液で発見できるというイエール大PCR唾液法をちょっぱや日本にも導入してほしい。そりゃそうだ3密の要因は鼻水でも喉でもなくつばだ。疫学抗体検査CTと併用してほしい。なぜ韓国でできたドライブイン検査先進国日本でできないのか

厚生労働省ホームページ帰国者接触相談センター電話をかけていい症状として「37.5度×4日」というアホクソ条件しかなかったのが「風邪様の症状」もようやく追加されたけど(路上死者が発見されたからだろう)だからってホントPCマジでやる気あるの? どうせかかりつけ医から紹介状もらえば・・でしょ、かかりつけ呼吸器内科医コロナ相談インターホンはなしかけてくれっていってるぞ、いくら7ひきのこやぎにでてくるこやぎみたいなバカでもかかりつけ医男性壮年喫煙歴あり)にオレは移したくないぞ

オンライン処方も予約がいるけど場所によってできるはできるらしい ただうちのアホかかりつけ医以下略

感染がわかったらホテル借り切ってロボットで飯だけあたえてラインモニターして唾液PCR陰性になるまでとじこめて順次地方疎開させてくれ。東京マジでもうむりでしょ 医療関係者芸能人政治家秘書がニュー3密になりかねない

スーパーシャッター商店街借りて分店ださせればいいのでは

・できないなら「にほんには原発ウイルスをまともに扱える技術力がありませんね

事実証明していますからいいのがれできませんよね

やさしい中国格安で電力や医療スタッフを売ってあげますよ」

技術立国日本終了~やで

・ただHIVとの合成具合がおかしいとノーベル学者から指摘されてるし変異も酷いとのこと。おいおいマッチポンプ度高まってきたぞ。もしかしてあれだけ戦争賠償金を払わされてた日本はしかえしにコロナ禍(生物兵器漏洩賠償金請求できるのかもしれんな

・何度も言うけど一般市民国庫の財源を気にする必要はない。もらえるものは堂々ともらえ。反緊縮できない日本を早めに脱出するいいチャンス

子供しわ寄せがいくのは「アビガン使用可能性のために不妊治療が中止されていること」「実習系授業ができないこと」「小学生休校分の補講なし」だ なんでオンライン授業できないのか

家庭内自己隔離者が増えると部屋数が増えるので冷房負担が例年より増えるのではないか工場がとまっているかもしれないがそれでも電力が足りないなら命にかかわる。その意味でも疎開できるように東京パニックを先にどうにかしてほしい

・はやめにやりはじめないと徳徳島警察勝手に市外ナンバー車両をとめて鎖国しだしたぞ 里帰り女性破水してもPC検査なしでは入院を断る岩手病院県境検温岡山山形https://www.sankei.com/west/news/200424/wst2004240012-n1.html https://www.topics.or.jp/articles/-/354994

おまえら独立する気かw

というかそんな余力が地方にあって東京にないのが問題では

2020-04-23

anond:20200423175329

だよね、でも無症状感染者もご飯は食べるからどうしてもスーパーコンビニなどのご飯が買えるお店には出歩くよね 死にたくないし

野戦病院であれ収容してご飯をあたえたら絶対に出歩かなくても大丈夫だよね

2020-04-17

anond:20200417150759

簡単にまとめると

いい加減、目覚めなさい。

日本という国は、上級国民の人たちが楽しく幸せに暮らせるように、あなたたち凡人が安い給料で働き、高い税金を払うことで成り立っているんです。

そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでるか知ってる?

 

今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。

PCR検査が受けれる基準不公平なんかに気づかず、ネット漫画でもぼーっと見て何も考えず、

アベノマスクが届いたらおとなしく着用して、

コロナ感染爆発が始まったら、真っ先に野戦病院で死んでくれればいいの

2020-04-13

anond:20200413131139

ホテルとか病院なんて全然たりない

辺鄙場所テントを張って野戦病院化して隔離する以外ない

火葬場も併設して

一瞬で恐怖国家の出来上がり

2020-04-09

日本財団が設営する不気味な大型野戦病院 - 政府医療崩壊を想定済み

anond:20200409050339 https://critic20.exblog.jp/30978192/

>>おそらく、つくば野戦病院敷地内には大型の遺体安置所と火葬場が併設され、

>>1日300人ほど出るであろう死者を、感染症法30条の規定に従って24時間以内に灰にする算段なのに違いない。

>>遺骨が自衛隊の手で家族に届けられる。

>>首都圏の下級国民は、こうして常磐道を通って終の棲家に行き、家族にも看取られないまま死に、灰になって常磐道を帰ってくるのだ。

なんだこれ

アッツ島ですか?アウシュビッツですか?

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-20

anond:20200220182308

野戦病院以下で元々まともな事なんか出来る環境じゃない

日本に来た時点で最初から負け戦

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