はてなキーワード: 過去問とは
大学も予備校も高校も受験生たちも……なんというか、日本の大学受験はまだ未開だったんだなあと50代に突入した今冷静に振り返って思う
こういうこと言いっこなしだけど当時の試験問題の総合的レベルは今と比較して冗談みたいに低かったと思うよ
こういうのはスポーツと同じで時代が進めば必ずどんどん洗練されてレベル高くなるもんだから仕方ないことなんだけど、
2000年代くらいからセンターの過去問を戯れに見て(特に数学2Bや化学あたりが)明らかにやばくなってきてるのを感じて、
共通テストに突入してからハッキリとヤバいレベルに洗練されてなおかつ難度が爆上がりしててビビったもん
それにもかかわらず有名国公立の共テやセンターの合格者平均得点パーセンテージが俺の時代と全然変わってなくて
「ああ、AO入試とかの推薦枠が定員の3割もなかった当時と比較して、今一般入試ってもんは明白に次元の違う厳しい競争になったんだな」
と察した
俺たちの時代はさっきも言ったように大学受験界隈が本当に未開も未開で、
「睡眠時間7時間も8時間も取るなんて怠けてたら落ちる。そういう奴は必ず負ける」
とか
「みんなが解けないようなカルト級の難問を制する者が入試を制する」
みたいなアホ丸出しなことを平気で言ってて、
しかもそれが「ハッキリとした誤り」として訂正されることが全然ないくらいには正しい情報共有(そして良質な参考書が今の比じゃないほど少なかった)が難しい時代だった
あと日本史なんかだと
とか
とか
今考えれば「馬鹿じゃねーの、そんな問題に付き合ってられっか」で丸っきり相手にせず、さっさと基礎~標準問題を絶対取りこぼさないよう徹底的に訓練する以外ないんだけど、
当時の受験生たちは
「いーや、あのカルト問題だって実はどこそこ社の教科書にだけはちゃんと掲載されてる情報だったんだぞ?それを捨てるのは甘え。捨てる者は落ちる」
だなんて大真面目に言う者が大半だったから、みんな無駄な努力に無駄な努力を重ね、しかも予備校などの受験産業もそれを後押しした
だから詐欺みたいなカリキュラムの受験塾なんかを個人が立ち上げても余裕で商売になったんだろうなとも思う
例えば、
授業なんぞしないで滝行させるとか
試験とマジで何も関係ないスピリチュアル書籍読ませて感想言わせて詰めて泣かすとか
(実際、こういう笑えないほどお粗末でインパクト強い受験塾は存在していて、なおかつ年間200万とかの受講料を設定していても浪人生は押し寄せていた)
ただし、狂ったように加熱していたのは私大受験だけで国公立は平常運転だった
最後に1989年に私大と国公立両方受験した者達の合否データを示して終わろうと思う
【追記】
自分は、私大受験バブルのピークは過ぎてたとはいえ1993年に慶應経済「のみ」を受験して見事に現役合格したふかわりょうを尊敬している。
彼は電波少年の坂本ちゃん東大受験企画に呼ばれた時や内P唯一のレギュラーだった番組黎明期なんかに慶応卒をドヤる振る舞いを許容範囲で披露していたが、
あんな異常な時代に慶応経済に現役で受かったという事実や自負を全く表に出さない謙虚さは同世代として凄いと思う。
一方、
現役受験の年が私大受験バブルピーク年とほぼ重なっていて、結果的に一浪で明治大学文学部補欠繰り上がり合格した安住紳一郎は、
その浪人期間がいかに苦しく精神的にギリギリだったかをおりに触れて語り、
今でも学歴・受験ネタなら大学高校中学問わずやたらめったら詳しく、
なおかつ「今でも指定校推薦組を許してない」と公言してはばからないが、
あの感じはまるっと全て凄ーくわかる。
運悪くあの当時の受験地獄に晒されることになった世代の中で安住紳一郎の「二浪明治大文学部補欠合格」という結果はそれでもかなりいいほうだし、
結局東京神奈川千葉のどこの私大にも受からず人生捨てたような感じになった奴は腐るほどいた。
(余談だが、
私の地元というか受験可能な公立高校グループのなかでは都立日比谷が1番賢かったのだが、
当時は日比谷ですら現役時に法政合格を確保できれば同級生平均より明白に良い結果だったので
「こんな大学受験厳しかったんなら高校入試のとき大人しく法政行ってたわ」と嘆く奴が絶えなかったという笑えないエピソードがある)
横ですまんけど大学を妄信してるとかそういう問題じゃなくて、そりゃ昔でもすごい人はいたし今もカスみたいなやついっぱいおるわなっていうだけの話なのではっていう
今でも高卒現場職で論文読んだり書いたりするくらいの人はいるしたまたま親の世代で有能な親戚が出たが現代ではアホな知り合いしか作れんかったっていうだけでは
追跡調査がざるだから比較は難しいけど、共通一次/センター試験/共通テストみたいな比較的長いことやってる試験の過去問の系譜とか見たら、同じ階層が受けてる現代の試験とかがどれだけ難易度上がってるかよくわかると思うよ
そりゃ昔の超絶エリートと今の平均的な学生みたいなの比べたら昔のが難しい場合は結構あるけどな
良くも悪くも受験RTAみたいな感じになって教育も効率化しまくってるし、日々いろんな技術が向上してるんだから全体として平均的な学力が(数十年前と比べて)落ちるわけないやんっていう
27歳実家暮らし大卒フリーター。これからやりたいことはない。というか、やりたいことを見つけてもそれをやるための環境を手に入れる能力がないので探していない。自分を見つめるのが怖い。夜が怖い。将来が怖い。親の死が怖い。周りの目が怖い。今回、恐怖に打ち勝ち自分の人生の分岐点を振り返ってリストにしてみた。結果としては死にたくなっただけで得るものはなかった。とにかく、今更気づいても何もかも遅い。来年にはもっと悪いことや後悔が増えてるだろう。この世界に大きな樹脂が垂れてきて、年を越す前にこの宇宙ごと琥珀になれば良いのに。
・高校時代に数学や物理で躓いた時、ちゃんと勉強しなかったこと。
最近ふとしたきっかけで数学と物理の教科書を見直しながら問題解いてみたらなんてことなかった。もっと早くやれば国立や理系を諦めることなく、人生は違っていただろう。今更気づいても何もかも遅い。
同じ中学の同級生がワラワラおり、地元の男子は全員悪い意味での野球部ノリで、俺はいじられキャラだった。俺に彼女なんてできたら絶対笑われるしいじられのネタになるなという自意識で断った。今更気づいても何もかも遅い。
早稲田政経か慶應法法を目指したが、英語や世界史の勉強すら怠けてどっちも落ち、浪人する気概もないため早稲田の社会科学部に進んだ。塾のチューターから提示された課題や過去問解析をちゃんとやればよかった。今更気づいても何もかも遅い。
一年の前期の必修授業で寝坊し自分のプレゼンテーションをすっぽかし、担当教授や同級生から激しく詰められた。謝罪し挽回するために頑張ればよかったが逃げた。必修はもちろん同級生の出る可能性の高い授業も出られず、結局同級生が来なくなる3年秋まで授業に出れなかった。3年留年した。今更気づいても何もかも遅い。
大学をボイコットしてる間にバイト先で初彼女ができた。しかし、男性経験のある彼女に対して引け目を感じ、また自分の陰茎や体毛に対するコンプレックスから自分の部屋に彼女が泊まりに来ても手を出すことができなかった。キスすら出来ずそのうち振られた。それ以来彼女はいない。勇気を出せばよかった。今更気づいても何もかも遅い。
留年を理由なく重ねて就活は絶望と決めつけ、就職活動しないまま大学を卒業し、地元に帰って今も働いてるファミレスでアルバイトを始めた。4年留年しても就職してる人の話なんて探せばゴロゴロ出てくるため、最初から決めつけず新卒就職すればよかった。今更気づいても何もかも遅い。
自分の観測範囲だけだが、昔より大学生が勉強してるように思う。
一流大学はもちろん、三流大学でも課題のレベルはもちろん違えど課題の山だ。
出席さえすれば単位をもらえるような科目や何年も過去問と同じ期末考査をする科目は減り、学生たちも単位さえ取れればいいではなく、より良い成績で単位を取りたいと競ってる。
Fラン大が中学生レベルだとか、レポートのコピペだとか、あたかも今の大学生が不真面目かに言われるけど、明らかに昔より勉強してると思う。
傍目からみると、正直言ってバイトなんかしてる場合じゃない、勉強に専念すべきと思うのだけど、みんな奨学金とバイトでやりくりしてる感じ。
みんなというと主語が大きいかもしれない。
もちろん裕福な大学生もいれば、授業なんか出ないでバイトに明け暮れる大学生もいる(卒業出来るかは別として)。
ただ、これから親になる人に知ってほしいのは、大学は入学さえすれば卒業は簡単でバイトと遊びにほうける場所という認識は過去のもの。
https://anond.hatelabo.jp/20220625110515
の続きです。秋のデスペ受けて、午前I免除、午前II88、午後I62、午後II64で合格しました。ぎりぎりで人にお見せするようなものではありませんが、現場経験なしでもなんとかなった例として役立てていただければ幸いです。
ネスペの次はデスペと決めていたものの、結果が出る前から新しいモノに手を出す気にならず、ネスペの合否発表を待って放送大学のデータベースの教科書を購入。2回通して読んだ後、ネットで評判のよい『情報処理教科書』を買って1回通して読みました。
この頃、paizaで新しいSQL講座が始まり、期間限定で無料で視聴できたので、一通り視聴。並行して、午前II対策で定番の過去問道場に着手しました。道場に掲載されているのは325問、13年分です。
ネスペまでは午後の過去問は読むだけでしたが、デスペは分野が少なく(わたくしの場合、物理設計は捨てたので論理設計とSQLだけ)、実戦練習として過去問を解くコスパがいいと判断して、午後Iは10年分(H24~R3)、午後IIは6年分(H28~R3)解きました。時間を計って本番さながらに、とすると面倒になって挫折する可能性大なので、時間にこだわらず、わからないところはすぐあきらめて、とゆるゆるな形で。ちなみに、『情報処理教科書』はH14からの過去問をダウンロードできると謳ってますが、過去問自体はIPAサイトの過去問ページへのリンクで、H20以前はデッドリンクでダウンロードできませんでした。
最初は午後IIがしんどくて、2時間(本番の制限時間です)かけても解けないし、そもそも2時間ぶっ通すのが無理で1問を2回に分けたりしていたのですが、2年分やったら(なお、R3から順に遡って進めました)慣れてきて、中断なく通しでできるようになりましたし、正答率も上がってきました。量が多いのが最大のハードルであって、年が異なってもやることに違いは少ないので、コツがつかめると楽になってきます。
逆に、午後IIより易しいと舐めていた午後Iがヤバかったです。午後IIと違って出題のバリエーションが多く、相性が悪い問題だと合格ラインである6割に届きそうな気がしません。そんな相性の悪い年が10年中3年もあれば焦りもするというものです。まあ本番でそうなったら諦めるしかないのですが。
午後過去問に時間を割いたので、午前過去問は、本番の前々日になってようやく二巡目終了。ネスペまでの経験で、そこまで根を詰めなくても合格ラインには届くな、という割りきりがあり、想定より少しだけ遅れたペースでした(なお、正答率は一巡目が約7割、二巡目が約9割)。前日は二巡目で間違えた問題を一通り復習しながら要チェック問題を絞りこみ、当日朝にそれを2周して午前対策は終了です。
3 試験の思い出
午前は楽勝でしたが、午後Iで愕然。捨てた物理設計、ガチの1問は想定してましたが、もう1問にもそこそこ入ってきてるじゃないですか(3問中2問選択)。100点満点で60点とらなきゃいけませんが、物理設計を捨ててる時点で満点が70~80点ぐらいまで下がっちゃうわけでして。逆に言えば、論理設計&SQLは正答率80%ぐらいが必要に、とハードルがずいぶん上がってしまいました。まあ、物理設計を捨てたのが判断ミスだったんですけどね。ついでに、タイムアップ後の回収を待つ間に、アホみたいなケアレスミス(複数項目を回答するもののうち、特定の条件に当てはまるもの(わかる人向けに書くと「主キー」)には下線を引かなければならないのに、引き忘れた)を見つけてしまい、これが決め手で落ちるんじゃないかと気が重くなりました。
4 次
ITストラテジスト受けるつもりです。事務屋の領分にずいぶんと近づくので、ネスペやデスペよりハードルが低いんじゃないかと期待。
今年行われた河合塾の全統マーク模試の国語の評論文。内容はロミオとジュリエットにおけるジュリエットのセリフに、家父長制への疑問とそこからの脱却、はっきりとそう書かれていたわけではないが、ジュリエットが家父長制に反抗するということで、フェミニズムをも見出すというものだった。
なんか色々大丈夫なのか中立的な文章にしたほうがいいんじゃと無駄に心配してしまったわ
その子は大阪大学志望で過去問の英作文を添削したが、言論の自由や民主主義や社会福祉を守らなければならない。みたいな、ネットだと共産党乙wとか言われそうな文章を英作文させててこれまたびっくりした。
まあ河合塾はイチ企業だからいいとしても国立大学はこれでいいのかと思ったわね。学問の自由だからいいのか。おっさんだけど老婆心。
世代間の話になると、単純に数の多い世代の声が大きくなるから、忘れ去られがちだけど、1987年度生まれ(今年で35歳)の悲惨さはなかなかのものだから、ちょっと聞いてくれ。
まず、この年生まれは、悪名高きゆとり教育の第一世代である。ただ、ゆとり教育を受けたのは中学3年の一年間だけ。一年だけで一体何が変わるんだ。小学校の授業は非ゆとり世代は教育のはずなのに、なぜか「円周率は3だったんだろ?」とか「おててつないでみんなでゴールする運動会だったんだろ?」とか、ゆとり教育の偏見を全部ぶつけられるところから始まる。
そして大学受験の時、この世代からセンター試験の英語でリスニングテストが始まる。新しい試験だから、過去問もないし、対策しづらいから本当に困った。
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。
https://anond.hatelabo.jp/20220930230732
こっちの続き。主に旧統一教会に関すること書くよ。反応がきっついので多分最後。
旧統一教会が過去に「霊感商法」を行っており、過去問題があった団体というのは周知のとおりだと思う。
https://news.yahoo.co.jp/articles/61d40e2e670a91125101a0d09b87544e51e0d6b7?page=1
との内容。
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20220712-00305301
冷戦時代の負の遺産。ただ、現役の議員らが積極的に彼らにかかわっていたかは微妙。
http://www.the-journal.jp/contents/arita/2006/06/post_10.html
国会議員の地元事務所が依頼を受けたならば、祝電を送るかどうかはそこで判断するのが通例だ。結婚式や葬式への電報とほとんど同じ水準の判断だろう。
祝電を送った安岡興治元法相の事務所が「出席依頼があったので電報を送った」というレベルのことだ。
[略]
私も少し勘違いをしている時期がありました。
宗教団体が特定の政党を支援すること自体は、合法。これが認められないと信者の方が選挙で投票することができないので、よく考えると当たり前。
問題になっているのは「過去に問題を起こしていた宗教団体とつながりがあるのは如何なものか?」程度で法律違反ではない。
https://www.sankei.com/article/20220930-KNJU7E6VGNLZBI3QRWTR3ZGB2A/
自民党以外からもつながりは見つかっている。もちろんこれらも合法。
テロを起こしたオウム真理教に対する解散指定の請求が棄却された時点で、旧統一教会にそれを適応するのは難しい。
オウム真理教(以下「教団」という。)は、教団に対する一連の取締り、宗教法人法に基づく解散命令、破産法に基づく破産宣告等により打撃を受け、破壊活動防止法(以下「破防法」という。)に基づく解散指定に係る手続の進行中は活動を自粛していたが、解散指定の請求が棄却された後は、世論の動向等を見極めつつ再び活動を活発化させ、財政的基盤の充実、強化に努めるなど懸命に組織の生き残りを図っている。
[略]
7年12月14日、政府は、オウム真理教に対する破防法に基づく解散指定に係る適用手続の開始を表明したが、極左暴力集団は、中核派、革マル派等がそれぞれ反対集会を開催するなど、強い危機感を示した。特に、革労協狭間派は、8年2月21日に公安審査委員会委員長宅等に対する2件の発射弾ゲリラ事件(東京)、9月24日に「中国公安調査局調査第一部首席調査官宅放火事件」(島根)を引き起こしたほか、公安調査庁、公安審査委員会等に対する「抗議はがき運動」、公安審査委員会委員宅周辺での抗議街宣等にも取り組んだ。
中核派は国葬反対デモで目立っていた団体で、テロ活動も行っている。
共産党も同時期にデモを行っていた。極左暴力集団とのかかわりはないとは言うものの、同時期にデモするのは「連携してない?」という疑念を持たれてしまうので良くはないと思う。
旧統一教会に問題があることはあり、それに対する批判は問題ないと思っている。ただ信者であるという理由だけで、「関わりを断つ」というのは差別。
これ、一時期の嫌韓と同じで、対象が「在日」から「旧統一教会」にすり替わっただけ。リベラルからするとこういった差別行為は認められないはず。特に報道の過熱にはかなり危機感をもってる。
https://www.jijitsu.net/entry/miyaneya-touitsu-kateirengou-teiso
「宗教2世」「犯罪行為にかかわっていない信者」がこれらの風潮で被害を受けることは目に見えている。魔女狩りの様相を呈していて、本当に良くない。
前回の記事と違って、全然ブクマつかないな。コメントも落ち着いているというか。この記事の内容は国葬の話からも少しずれちゃったしね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/949191226041810944
みんなこっちにコメントしてるのか。ただ...なんだかな...悲しいな。
まあ、これだよね。
もう誰も見てないから、ここからは完全にチラシ裏の落書きの独り言。
全盛期の2010年前後のはてなブックマークに比べると、随分とドロドロした所になっちゃったな。「ウェブ進化論」で提唱されていたバーチャル研究室なんて概念はもう見る影もないというか。
あるのは党派性で歪んでしまった認知と、建設的な議論でなく罵詈雑言を浴びせるコメント群。昔もリベラル寄りのコメント多かったけど、まだマシな感じだったし、ブログのエントリーも面白い記事がたくさんあったな。