はてなキーワード: 演出家とは
陛下の開会宣言中に聴衆が起立するかしないかは、礼儀作法的にはどちらでも良い (但し、統一感は重要) そのため、座りながら聞くという行動自体は咎められるものではなく、昭和天皇の開会宣言は全員着席している (エリザベス女王の時は全員起立)
進行やアナウンスがしっかりしていれば、全員が指示に合わせて座るか立つかは容易に実現出来ることではあるが、今回の五輪では何も配慮されず、更に陛下がIOC委員会や臣民と同列に並ぶ非常に不敬な配置だった。
演出家の責任ではあるが、正直この突貫工事のような状況で完全な配慮は難しいだろう。最大の不敬犯は、陛下の開会宣言中に着席した者ではなく、この状況下で五輪開催を最終決定した者である。
陛下の開会宣言中に聴衆が起立するかしないかは、礼儀作法的にはどちらでも良い (但し、統一感は重要) そのため、座りながら聞くという行動自体は咎められるものではなく、昭和天皇の開会宣言は全員着席している (エリザベス女王の時は全員起立)
進行やアナウンスがしっかりしていれば、全員が指示に合わせて座るか立つかは容易に実現出来ることではあるが、今回の五輪では何も配慮されず、陛下がIOC委員会や臣民と同列に並ぶ非常に不敬な配置だった。
演出家の責任ではあるが、正直この突貫工事のような状況で完全な配慮は難しいだろう。最大の不敬犯は、陛下の開会宣言中に着席した者ではなく、この状況下で五輪開催を最終決定した者である。
オリンピックの開会式で必要だったのは裏方の演出家の先生ではなくて、スポンサーを立てつつ表の国際社会に出てインタビューを受けることに慣れている舞台や映画の監督だったのにね。
椎名林檎は断ってもよかったのにな。
サブカル頂点みたいに君臨してる椎名林檎さえ断ってれば、小林賢太郎氏までの人たちも断れたのに。
選ばれた演出家や音楽家たちは椎名林檎の人脈に結局繋がるわけだし、でかい企業が人集めめんどくさくて椎名林檎を口説き落としたとしか思えん。
では、イマジン入れた責任は、音楽監督の田中知之氏にあるのだと思います。
これはコロナ関係なく、着物の件からあるわけですよね。ベタに海老蔵をねじ込むような国が、洋楽のイマジン使えって言う教養あると思います?国がねじ込んだのはイマジンではなくて、国内海外にボランティア経歴があり、君が代歌ったMISIAで、それと、もしかしたらゲーム音楽の方だと思います。
少なくとも、ドローンでイマジンの歌詞を用意できるぐらいには、イマジンは以前から用意されていたわけですよね。椎名林檎の代からイマジンではなく東京五輪音頭的なベッタベタな日本の曲を用意しなかった歴代の音楽監督や、さらに言うと、英語で開会式や閉会式のコンセプトを通した音楽監督の上のエクゼクティブプロデューサーの日置貴之氏の責任ですよ。全然、演出家と噛み合ってない。
表舞台に出て説明責任も負ったりする舞台・映画監督や、せめて作家性のある構成作家が仕切るべきオリンピックの開会式を、裏方でかつ、通常業務のステークホルダーがアーティストや芸人サイドである演出家が仕切ったから。
舞台や映画監督はスポンサーの意向を聞きながらもオーディションを経由してバックグラウンドチェックを行うことでお友達以外からも参加者を募り、かつ観客動員数などの責任を負い、客の期待していることを読みながら、シーンの転換に一貫したシナリオのある舞台を作るのが仕事。向いている方向は、客、または、スポンサー。演者は監督の思い描いたシナリオや絵コンテの流れを実現する素材。
一方で演出家は、シナリオの部分を担保するのがアーティストやお笑いネタを作る側、脚本家であり、演出家自体は出来上がっているシナリオやそのシナリオに沿って動く側を良く見せるのが仕事。向いている方向は、演者。演者の活躍や表現をサポートする立場。
このゴタゴタは、AKIRA案という、復興五輪や日本外交どころかオリンピック憲章と全然関係ない案を出した演出家のMIKIKO先生のキャスティングから間違いは始まっている。
AKIRA案って、そこと何の関係あるんですか?表現者サイドの自己表現よりも、日本の民意を汲みつつ、各国の選手の歓迎の方が優先される場なんですよ。思い切り自己表現をするアーティストを支える人ではなく、オリンピック憲章の意図を理解し自分の表現力をオリンピックという場を成立させることに注ぎ込んだ森山未來的な役者・ダンサーを開会式に起用できるような教養のある監督が必要な場所なんですよ。
あと、開会式に冷戦時代だと有効だったジョンレノンのイマジンが墓から出てきたのでびっくりしたのですが、こういうチョイスをしたサブカル層が見てる世界って、難民が出ている世界や国境・領土問題でゴタゴタあるインドやパキスタン、台湾等ではなく、欧米音楽業界のさらにマイノリティの痛みに無頓着な育ちの良いボーイやガールの界隈なんですかね?さらに強者と言われる白人サイドから手を取り合ってって言われるの、どうなんですかね?マイノリティの主張を聞くことから始めないんですかね?
サブカル層はすぎやまこういちや海老蔵に対してカウンター打てるほどの人材や作品をプール出来てないぐらいに日本外交に対して考えもなく、多様性もなく、身内で固まっていただけ。そういう現状を反省しつつ、スポーツの採点でスポーツ業界の人材の方がはるかに多様だったら、大坂なおみさん以外の多様なスポーツ選手にも沢山映像等でフォーカスすれば良かったのに、そういうこともしなかった。
消防団や歌舞伎だせというのは、最低限、ベタな日本的なものを開会式に出せという、あらかじめ想定できた国というスポンサーからの要求。ベタなボランティア経歴のあるMISIAもそう。
音楽は歌謡曲・民謡・太鼓・三味線とか『のど自慢 世界大会』的なベタなもので全然良かったし、前回のオリンピックから違う系統で且つ昨今の流れを組みつつ世界でもわかりそうなものと言ったら、ヒップホップやジャズとかの黒人音楽でも良かった。他は、よさこいやねぶた祭り、漫画・アニメみたいなベタで良かったし、最初の赤い糸を使ったハイコンテキストな割にその意図が『はたらく細胞!!』っぽくて可愛いことにあっていないコンテンポラリーダンスはなくても良かった。
借りてきたマイノリティではなく、自国の中のマイノリティを見つめるなら、日本的なもので統一しても良かった。その流れで、身体障害者として途中からマイノリティになった長嶋さんの登場や、音楽業界ではマイノリティであるゲーム音楽(すぎやまこういちはともかく)は良かった。
老若男女世界各国ウケるベタでローコンテキストなものを嫌って、身内しかわからないハイコンテキストなものや、借りてきたマイノリティ性を好む人たちが、たまたまアーティストサイドを贔屓する演出家を中心となって固まり、音楽・映像サイドもそのことを気にかけなかったことが露呈した、そんな開会式だった。
才能ある人を守れと言われても、コンセプトやシナリオにあった動きをするから守れるのであって、そこを蔑ろにしてたら守れる才能のある人も守れないんですよ。シナリオや絵コンテがあるリニアなコンテンツではなく、電博の雑誌・テレビ的なノンリニアなコンテンツの作りをしていたら、枠を入れ替えるように人もコンテンツも交代されちゃうんですよ。だから外部からの口出しに柔軟に対応できちゃうんですよ。周りに何言われても「これはコンセプトやシナリオ、絵コンテの流れに合ってませんから」で断れずに。
という意見に対して、はてなブックマーカーは批判的にとらえ、
大阪なおみの参加こそが多様性があってすばらしいことだという評価が強い。
私はこれを政治が開会式の演出に介入した事例だと考えるのだが、
これが素晴らしいことならば森元や小池百合子の介入も許容しなければならないだろう。
百合子の支援団体の江戸消防記念会を参加させろと要望出してきて、
演出路線に沿わないMIKIKOを電通が排除して言うこと聞く演出家を据えた、
みたいなことが今年の前半に行われましたって書いてあります。実現しちゃったね…
— フタガワカサラ (@FutagawaKasara) July 23, 2021
どちらも政治的な力学で決まったことだ。これらこそがポリティカル・コレクトネスだ。
要するにはてなブックマーカーがいろいろ文句言ってるけど
彼らが開会式演出考えても政治的内紛の末に同じようにグダグダの開会式にしかならないよ。
あーあほくさ。
演出的な美しさがどうかなんてどうでもよくて、政治的な象徴性の方がみんな大事なんだろ?
重視してたらユダヤ人権団体と交渉して演出家解任は開会式終わってからにしようとするだろ。
いいや違うか、
ビジョンを持って全体を統括する演出家なんてものものは存在しなかったということか。
00年代にやたらと流行ってた時も高尚ぶったババァが喚き散らしてて最悪だった。「ラーメンズは他とは違う」「テレビに出てるような芸人より格上」とかそういうやつ。お笑い興味ないかずっと気持ち悪いなと思ってた。
活動しなくなり、奴らもいなくなり平穏だったけど解散の時期に喚いてる連中を見てなんとなく嫌な記憶が蘇る。
そして昨日の開会式、正直酷い出来だと思った。面白くない、楽しくない、理解も出来ない。ゲームの音楽には興味ないが入場に入ってからは各国選手を見れて楽しかった。ピクトグラムの黒子が良かったぐらいだ。
なのにラーメンズのオタクが素晴らしい出来だったと絶賛していてとにかく気持ち悪い。無理やり降ろされるような顛末で気の毒には思うが何処がよかったんだ?別に劇団ひとりもなだぎ武も嫌いではないがパッとしなかった。
こんな素晴らしい演出家なのにと案の定高尚たれて今はバッハ叩きに夢中だ。マイクロビキニだの気持ち悪い。一番嫌いなタイプのオタクだ。
オリンピックの開会式心配していた通りに全体的にちょっとしょぼかった印象をうける。民意的には望まれなかった大会だけど対海外に向けて魅せる催しに圧力をかけてしょぼいものにするのは本当に不幸に拍車をかけていてもったいないと思う。家族にキレて「飯いらねーからっ!!!」って言うやつと一緒。作った母親にダメージは与えるけど別に食わなかった俺は損しかしていない、みたいな感じ。
しょぼく感じたのは合間合間の競技場から打ち上がる花火やオリンピックのピクトグラムをリアルタイムでパフォーマーが演じるやつ。聖火点灯もそうだな。とにかく全体的にリオの閉会式のパフォーマンスに比べると目が覚めるような演出は無かったように思える。
追記)ああ、ドローンは良かった。すごく良かった。あとMISIAも。
素晴らしい演出には多くの素晴らしい演出家とパフォーマーと多くのスポンサーが必要なのだろう。色々と協力が得られずにやり辛い状況の中で開会式を作り上げたすべての人には感謝しかない。
ただ、国民の意思で100%以上の演出が見ることが出来なかったことがとても残念だと思った。俺達国民があれだけやるなって言っておいて開会式しょぼいって言うことがほんとに本当に傲慢なんだけどね……
小林賢太郎が解任になった。
ホロコーストを笑いのネタにするのは確かに不謹慎であったろうし、オリンピックの演出家としては相応しくないのだろう。ただ過去一度だけの言葉でここまで否定されて良いのだろうか。
そもそもお蔵入りされているコントを違法な手段で視聴したネトウヨが、それを中山というパレスチナ人から差別発言だと言われた政治家に伝わり、それに対して声明をだすユダヤ人団体。パレスチナを爆撃したのは誰なんだ?先制攻撃が原因だったとしても無辜の市民を何人殺害してるんだ?それは正当で許される行為なのか?
いったい誰が差別主義者でそうでないのか?
そもそも小林賢太郎がだめなら麻生はどうなんだ?ナチスの動機は正しいとかでサイモンヴィーゼンタールセンターから抗議されていただろう。安倍も靖国参拝で抗議されてなかったか?椎名林檎のヒトラーはいいのか?組織委員会、全員大丈夫か?
歓迎会に出てた森はどうなんだ?立つ資格あるのか?橋本のセクハラはいいのか?そもそもテレビつけると差別主義者いっぱい出てるだろう。そいつらはいいのか?
誰なら許されるんだ?何なら許されるんだ?
東京オリンピックは来るべくして開いたパンドラの箱だったのだろうか、どうもこの世界のインターネットはヘイトを増幅する装置となってしまったようだ。政治的な右派左派に限らず、あらゆる問題において、分断がインターネットによって加速してしまっている。
インターネットは世界を結びつけるのものではなかったのか?過去に抱いたインターネットへの希望はどこに消えたんだろう。そんなものは無かったんだろうか。差別主義者が蔓延る、エコーチェンバー化されたインターネットがあるこの世界で、どうやって差別を乗り越えるんだろう?
インターネットは世界平和の役に立つ道具なんだろうか?戦争の産物とし生まれたインターネットはやはり戦争の火種としてくすぶり続けるんだろうか。インターネットにより増幅されたヘイトに人類は勝てるんだろうか。
付け加えるとMIKIKO先生は、Perfumeのライブのように、万人単位で満遍なく老若男女が集まるイベントを手掛けた実績があります。Perfumeのライブに行くと、街の人間をそのまま会場に入れたのかと思うぐらい「色々な人々」がいます。単独客、グループ客、カップル客、家族客、お年寄り、マニア、初心者、セクシャルマイノリティ、外国人、本当に色々です。したがって五輪のような「国民的イベント」にはMIKIKO先生のような経験を持つ演出家は、うってつけだったと思います。
ラーメンズ小林やFPM田中にそういう実績(幅広くて偏りの無い観客が多数集まるイベントでの経験)が、MIKIKO先生と同じぐらい有るかと言われると、有るとは思えませんね。
ここ数ヶ月ぐらいずっとそうだ。
年寄りが若者のせいだと言い、若者は年寄りのせいだといい、おじさんはおばさんのせいだといい、おばさんはおじさんのせいだと言い、
政治家は国民のせいだと言い、国民は政治家のせいだと言い、いつどこをみても誰かが誰かを口汚く罵っている。
誰かが医者のせいだと言い、誰かは専門家のせいだと言い、誰かはアスリートのせいだと言い、
コメンテーターが悪い、学校が悪い、子供が悪い、親が悪い、ミュージシャンが悪い、演出家が悪い、ワクチンが悪い、スポンサーが悪い、自治体が悪い、市役所が悪い、区役所が悪い、市民が悪い、電車が悪い、乗客が悪い、日本人が悪い、外人が悪い、飲食店が悪い、客が悪い、そんなんばっか。
みんな次に来る悪い奴を待ち構えている。次はなんと言って叩きのめしてやろう。
ニュースを見るのが一番辛い。悪い情報、悪い言葉で溢れかえっていて気が滅入る。
なんの言葉もない、どこかの何もない通りをずっと流してくれていれば気が休まるのに。
あれが何であってもそういう過去があれば不特定多数の直接的に支持者でないものまで支持に回らねばならない公の場にでると批判は出るのは当然
アイコンとして人物をだすためには必要な脚色と不必要な過去の隠蔽があるべきであれは人選がもともと間違ってる
ただ便利なのが人選の間違いを人事の間違いといわれずアイコンの責任になすりつけることができるところ
顔がみえない運営よりも顔の見えてる代弁者を殴るのはクレーマーの当然の成り行き
店舗の運営について現金で殴りつけるのが不満の解消としては実質実体効果があるにもかかわらずバイトの店員に土下座をさせる
見えている不満点についてみえていない原因を偏差射撃できるような人間はいない みえている的を一生懸命叩き続ける
本当に失敗したと思ったのならあれを一旦引き下げて代替品の押しも押されぬ謎バンドを出すべきだろう
なぜそうしないのか まともにオリパラの話をすると肯定できない人間が多すぎる
オリパラでもなんでも程度になにも情勢を理解しておらず失うものもとくにない音楽関係者にオファーを出すにしても
この要素を理解している企画者がいれば乗り気な人間はまともな思考をしてないのでおかしなことをする
というかもとよりオリパラに名乗りをあげるアーティストのアートとかまともな気がしないはず
ではそいつをごり押しにねじ込んでやってのけるか となると時間で押すしかない もう替えが効かないのでと言い訳をする
これは下の下で小学生でも思いつく方法だ とはいえ実際にそうなっているので如何ともしがたい
もうすこしまともな神経があれば小山田圭吾を使うにしても あとから自分の担当だったと自慢してもらってかまわないが
いまは覆面プロデューサーとして新規の使いつぶせる未完成で開拓中のアイドルをつかってグループをプロデュースしてもらう
そういう方法もあったはず
今後の活躍はその裏のネタがばれて崩壊する危険性をはらみつつ運用はできないのでワンオフでも出たいなにかになりたいという
すこし考えれば素人でも考え付くそんな方法を選択せずにアイコン総叩きでねじこんでおわらせたら形だけはなんとかなるだろうという
企画にGOを出したのは相当に小山田圭吾を恨んでいる人間か もしくは人間そのものを消しゴムかなにかとしかおもってない人間だろう
小山田圭吾自身がおこなった非道な行いは到底許されるものではない それは犯罪全般にもいえるだろう
それらの人間にはチャンスはないのか といわれるともちろんある ただそこではないだけだ
男子禁制女人禁制 関係者以外立ち入り禁止 免許がなければできない行為 それらは差別なのか もちろん差別ではない
性別や身体的特徴は選んで生まれてきたわけではない それを区別するのは差別だ そういいたい気持ちもわかる
だが性別の特徴をどちらかにもっている人間は どちらかから回避不能な攻撃を受けることがある それを守るためには敵を遠ざける必要がある
おまえがでていけということではない 敵をとおざけるという意味で区別をするのだ
クスリをやって逮捕されたアーティストや交通事故で人をひき殺したことがある演出家や舞台セットや美術やプロモーションやその他もろもろ
それらはそれらを受け入れてもらえる環境を選ぶべきだ 自身が攻撃され被害をうけないために
今回はそれが足りなった 小山田圭吾は日光に弱いのに日の下にさらされたのと同じ だれがそこに引っ張り出したのかという事だ
小山田圭吾自体は日の光によわいとして それが日の光を克服するにはどうしたらいいか なんてことをどれだけ議論しても解決するわけがない
ただの人体実験をしているだけだ 本人と医学の進歩のためにみたいなことを言いながら不死身の吸血鬼を拷問にかけて研究と称しているようなものだ
おわりはない
実際にこの問題を解決するために必要なのはこの企画とともに死んでもいい音楽生命が危機に陥る可能性があるこの大会に
名乗りを上げてくれる実務関係者だろう
そんなアーティストがいない やるからにはやらせてもらうという音楽バカみたいな人間がいない
手札で一番名前がうれていたのが小山田圭吾だったのかもしれないし 普段から恨んでいて日の下で死ねと思われていたのかもしれない
むしろそっちのほうがこの引き際の悪さを納得させる
最近のひろゆきの話もそうだが場違いな晴れ舞台デビューをしてなにもかも足りていないことを晒され恥をかいて退場というのは
企画力の低下かセルフプロデュースの一般化 蔓延の象徴のように感じる
とりあえず小山田圭吾の5文字が出ている全てについて 許容層以外のすべては攻撃的になることは確実なので
それを下げるのが一番のはず
なぜそれをしないのか できないのか
どの層からも攻撃を受けても防げるアイコンを大衆の目の前にかざして本体へのダメージを軽減させる
そんな企画が必要なことくらいだれでもわかるはず それができない状況という組織体の内部は一体どうなっているのか
とりあえず小山田圭吾には自分の居場所に帰っていい感じにやっててもらったらと思う
オリパラに期待したりそういう場の質や気品を気にする連中がこない地下のそういう奴らのドレスコードがあるクラブにいれば
もしお上品な連中が現場に降りてきたら逆におなじしぐさを返してやればいいだけの話
小山田圭吾がどこまで といわれたらもう出てきませんと言うまでだろう
だれが彼をそこにずっと立たせているのか それが問題だ
各所絶賛ばかりなので、日和って増田にて感想を書かせていただきます。
2.5の経験がほとんどないので、今まで見たことのある普通のお芝居と比べちゃうんですけど、どれもこんなもんなんですか?
とにかく見せたいシーン・必要なシーンの切り取りが続いていくだけなので、感情移入がしにくいです。
黒と黄色を基調としたスタイリッシュな世界観を貫いているのはよくわかったのですが、いくらなんでも無味乾燥としすぎてるやろ...。
感染症対策で公演時間を圧縮しなければならない都合もわかってます。
にしても、あまりにもシーンとシーンの間に間がなさすぎて、感情を落とし込む時間がないです。
皆さんよくご存知ですよね?脳内で補完してね?っていう。客の事前知識に頼りすぎじゃないか?っていう。
それは演劇としてはどうなんでしょうかね。
照明で工夫するか、持ち道具かセリフでわかりやすくすることできるはず。
まーでも説明的なセリフ入れたくないんですよね?わかりますけども。スタイリッシュにしたいですもんね。
スキップがアッシュにとって大事な存在であるという表現が全くないので、悲しくならないしどうしてそこまで怒るのかも伝わってこない。
ショーターも同じく...。
終始そんな感じが続きますので、そんなつもりで観に行ってください...
自分から前のめりに乗っかっていく感じで観てください。原作から感情を補完しながら観てください。そしたらいけると思う。
ていうか、役作り、アニメに寄せすぎじゃないですか?
みなさん頑張ってるのがよくよく伝わってくると同時に、技術が拙いかたの拙さがこれまたよーく伝わってきちゃって辛い。
早乙女友貴さん、新感線の舞台でお見かけするときはアクションもできて演技も良くて...なのですごく期待してたんです。
今作は滑舌もよくないですし、ちょっと一本調子でよくないです。演出家が違うとこうも差が出るのかと。
劇団☆新感線とチケット代同じですもん。(新感線のが安い場合ある)これじゃあいけないですよ。
2.5って顔なんでしょ?イケメンにお布施しにいくんでしょ?って言われちゃいますよ。
いや、本当に私、ものすっごく楽しみにしてたんですよ。
深みのある芝居を、生と死の手触りを感じる芝居を2.5に期待した自分がおかしかったんですかね。
イケメンを見てきゃーっていう、推しメンが3次元に降臨したことだけを喜ぶもんなんすかね。
弾着(銃で撃たれたほうの人の火薬が爆発する表現のこと)もなかったし、流血もなかったし、なんかずっとみんな綺麗なまま終わった。
最後の対決でアッシュのTシャツが徐々に赤く染まってくくらいの表現ないと死にそうなの全然伝わってこなかったです。
アッシュのTシャツ、マジでずっと真っ白だったよね???最後まで白すぎてびっくりした。
こういうの作ってる側の人の目に入ると落ち込むのわかってますけど、こちらもお金を払わせていただいたので絶賛する自由も批判する自由もあるよねということで書かせていただきました。
しかも出演者がレミゼラブルなどに出演するミュージカルの中では一流と呼ばれる俳優が揃った。
信者は嬉しい!絶対見に行く!、よくわかってない人は推しが出るんだから見に行こう、大多数のミュージカルファンは何故寄りにもよって西野と手を組むのか?
更にはこの出演者の配偶者にミュージカル界を代表する俳優がいる。私はその俳優も好きだ。もちろん配偶者の仕事を全て管理するわけではないが間接的に関わってしまっているという事実、作品を見に行くのではないか宣伝を自分の番組でするのではないかとこちらも悲鳴の嵐だった。千鳥の大悟に捕まってないだけの詐欺師と呼ばれた男がミュージカル界を入ってくる。
実はミュージカルではない台詞劇のプペルを映画公開以前行っている。その際は主催がきちんとした舞台製作会社であった。演出家もプロの人であった。だがしかし、今回の主催は西野の会社、脚本演出は西野、公演の責任者であるプロデューサーは西野を愛してやまない23歳の若者だ。全てが西野の思うままの舞台なのである。
早速、演出助手が西野に悩みを相談する飲み会を「見るだけ」の権利が3万円で販売されていた。
今回の作品にクレジットされている人を調べてみるとミュージカル界において有名ではない人のほとんどが信者で構成されている。問題はそれ以外の人たちだ。
あるファンが映画公開の際に炎上した台本を大量に買わせる事件を例に挙げて本人に問題提議をしたところ「そんなことがあったんですか?」との返事があった。詳細を知らないという事態であった。ヒットした映画のミュージカル化、それをブロードウェイに持っていきたいという夢に共鳴でもしたのだろうか。(日本で行っているミュージカルは海外産のものが多く、国産を作らなければという思いが業界に数多くある)そのヒットしたカラクリも知らずに。もういっそのことなら信者ですって言ってくれたほうがいい。いいや最初から信者で構成してほしい。
ファンがごたごた言うな。離れればいいという意見もわかっているが、これできっぱり離れることができたらどんなに楽だろうか。それができたら本望でもある。
情報解禁時は悲鳴だらけだったネット上も今ではすっかり「やると決まってしまったものはしょうがない」という声が蔓延している。自分の推しは関係してないという人はもう触れないようにしている。触れるだけで損な案件なのである。
反対意見を曲げずに怒りを持ち続けることはとても体力が必要だ。まるでレミゼラブルに登場するバリケードを築く学生たちが「(加勢すると信じていた)市民は来ない 僕らは見捨てられたのだ」と諦めたとの同様に。
https://twitter.com/overmount/status/1399351701102940170?s=20
この人毎回アイマスについて書いてんだけど、斜に構えたオタクそのものでしかもさも自分が経営陣だったらこんなことしないみたいな書き方していて本当にきつい。
せめて経営企画をやってる人間だったら、緊急事態宣言で公演中止の可能性がある中で下手につなぎのあるツアー公演やったら間が抜けてアウトになる可能性があったとかも考えんもんかね?考えねえか。そりゃあこの書き方になるもんな
別に公演自体のセトリがあかんのはしょうがない。もうちょいはばもたせたってええやろっていうのは個人の意見だ。
また上記の理由が本当であってもあくまで公演する側の事情であって見る側には一切利益にならねえし、俺はつまらないと思った。は正しい主張だ。
だけど本当に書き方だけが毎回気に食わない。したり顔で自分は一家言あるみたいな書き方でヘイトとアイマスやべえぞみたいなことしか書かねえなら、それは客側だと一切利益にならないし逆に害悪なんで見てて嫌になるというのはある。勘違いしていたら申し訳ないんだけど君会社から出たら一個人だからね?団体側にちゃんと関わってから言ったらいいんじゃない?企画経営やってるんでしょ?企画立てろよ
そうでないならアンケートに粛々と書いて出せ。客がやれるのはそこまでだ。少なくともアイマスに関してはアンケートちゃんと見てると思うぜ?今までのイベントとかもろもろの動き方見てると。
https://twitter.com/shall_p/status/1399593863048617984?s=20
https://twitter.com/Fran_WilloW/status/1399603903604264960?s=20
そして何より嫌いなのは上の記事に対してこういうことをしゃしゃりでて引用コメントに言い出す人がいること
JUNGOだってどんだけ叩かれてると思ってるねん。セトリに関しては演出家権限そんなねえよ。
別に分かれとか知ろうとしろなんてことはいわんけど、ちょっと考えてもいいんじゃねえか
こういう脳死コメントが割と本当に嫌いで、そのくせ大抵自分のほうがアイマスを愛している、これに一言言わないやつはカスみたいな事言いだすから始末に悪い
頼むからもうちょい出し方考えてくれって思うわ
【1】
まず、私の投稿に対して「こういう規則の押し付けが創作の芽を摘む」というような声が有ったので、以下ではその声に答えたい。
日本では割りと「創作においては『論理』に頼らない『直感』こそが正義である」という信仰が強い。しかし、現実は逆である。きちんとした創作を生み出すためにこそ、創作家には規則や論理が必要なのである。
例を挙げよう。映画業界の話である。欧米をはじめとする諸外国とは異なり、日本には映画に関する専門的な教育・訓練を行うまともな機関が無い。そのため、映画の仕事を志望する人間は、専門的な教育や訓練を受けたくても受けられない。業界全体が、昭和の時代と何も変わらない『徒弟制度』に頼りきりである。業界志望者は、論理的・合理的なノウハウも身に着けられないまま、無駄に年月を重ねる。結果として、まともな監督も脚本家もスタッフも育たない。つまり「まともな作品」を撮れなくなり、現在の日本の実写映画は「まともなビジネス」として成立しなくなった。
映画に役者を供給する演劇業界も、実写映画業界と似たり寄ったりである。大半の劇団は良い演劇をすることよりも、地方自治体を唆して税金に寄生することや、稽古や親睦を名目にして性的関係を結ぶことの方に熱心で、肝心の本業である演技や演出は学芸会レベルのままである。
日本の実写映画業界や演劇業界は、指導の名目でスタッフや役者に灰皿を投げつけたり暴力を振るう類いの人間たちが「名監督」や「名演出家」扱いされている始末である。片や出演する演技者の方も、演技の専門的な訓練を受けていないミュージシャンとかが大役をゲットする。こういう紛い物たちが日本の映画業界や演劇業界に蔓延っているのは「論理的・合理的なノウハウの訓練を行うシステム」が無いからである。論理的な指導ができない人間は、監督や演出家を辞めるべきだし、演技の訓練をしていない人間は、演技の仕事を去るべきである。
それはともかく、漫画や小説の作家を目指す人間は、実写映画業界や演劇業界が手遅れに近い状態になってしまっているのを「他山の石」として、まずは「論理的・合理的なノウハウ」を身に着けるように努めてもらいたい。
そうすれば、日本の実写映画やドラマで頻繁に見かける「よく考えもせずに『何となくそれっぽいから』という理由だけで、悪人たちが悪企みの会議をしている場面で部屋を暗くしてみた」とか「とりあえず竹中直人や佐藤二朗やムロツヨシに滑稽な表情と動きをさせておけば、それでコメディっぽくなるだろう」といった馬鹿な描写を貴方の物語作品の中でしなくて済むだろう。
【2】
次に「セオリーから外れているけどヒットした作品も有る」というような声も寄せられた。これに対しても以下で答えたい。
野村克也がインタビューで言ったことで有名になった「勝ちに『不思議の勝ち』有り。負けに『不思議の負け』無し」という喩えが有る。論理に依らない成功の例は確かに有り得るが、それは謂わば「宝クジが当たる」ようなものである。もしも「宝クジに当たる人間も世の中にはいるのだから、自分はあくせく働くのは止める」と言い出す人間がいたとしたら、その正気を疑うだろう。
物語を書くこと、創作活動をすることは、宝クジを買うように運任せの行為なのか?それは違う。人間の頭脳を使う営みなのである。ならば、創作活動において頭脳を使って論理や規則を活用することの、いったい何が悪いというのか?そんなに頭を使って書くのに抵抗を覚えるならば、いっそコックリさんに頼って自動書記でもしてはどうか?それは冗談だが、仮に偶然に頼るにしても頼り方が有る。
蜘蛛という生き物がいる。その中でもコガネグモやジョロウグモなど、網を張って獲物を捕らえる種類がいる。網に獲物が掛かるか否かは偶然である。しかし、網を張らねば偶然を捕らえることはできない。創作活動において論理や規則を活用することは、謂わばクモが網を貼るようなものなのだと理解してもらいたい。
【3】
「とりあえず最後まで書くのが重要」という声には強く同意する。物語作家の志望者は、まずは作品を一本書き上げてもらいたい。しかし、そのためにこそ、論理や規則は有効なのである。登場人物に生命の息吹を与えて、物語を完走させる上で、論理や規則を活用することは、手助けにこそなれど決して枷にはならない。むしろ始めにきちんと考えないままで何となく執筆に着手してしまい、結果として執筆の途中でガス欠になって未完成で投げ出す人の方が、物語作家の志望者には圧倒的に多いのである。それを避けて最後まで書き切るためにこそ、論理や規則を活用して欲しい。
【4】
「文章力や画力があれば、何も起きない平凡な日常生活の描写でも読者を惹きつけられる」というのは、嘘ではないが、しかし本当でもない。それだけの力を持つような文章力や画力というのは「何を書く・描くべきか」を把握していなければ、物語作家志望者も身につけようが無い。そして、何を書く・描くべきかを把握するには、やはり論理と規則に則った思考が必要なのである。また、何も起きない平凡な日常生活は、無手勝流で簡単に書ける・描けるものではない。観察力もまた出発点は論理と規則である。