はてなキーワード: 担保とは
長かった
工事はすんなり終わった
実測は最高996Mbpsだった
たまに安定しないが、概ね200Mbps〜700Mbpsくらいが安定して出ている
Wifiでも400Mbps、上りはさほど速くなかったが多分十分
もう満足です
当分ネットの遅さには困らなさそう
ちなみにこのくらい速くなってもDL速度がすごいことになるというのは稀
恩恵を感じるのは、例えばYoutubeの副窓とか(すると今度はPCのスペックの話になってくるけど)
とにかくこれでようやく40インチの4Kディスプレイの本領が発揮できる
これまでの振り返り
来週Nuro光が家に来る
https://anond.hatelabo.jp/20190620191423
https://anond.hatelabo.jp/20190606181212
家にNuroが導入できることになった
https://anond.hatelabo.jp/20190528171313
引っ越す前にNuro導入可能か調べられないのか??
https://anond.hatelabo.jp/20190323022010
引っ越ししようかな
https://anond.hatelabo.jp/20181216064025
Nuro導入済みマンションを調べる→
https://anond.hatelabo.jp/20180821170634
IPoEでも遅い
https://anond.hatelabo.jp/20180212191307
https://anond.hatelabo.jp/20171108154846
https://anond.hatelabo.jp/20170628151332
6Gbpsのプランが安定したら乗り換えたいな
付け加えると、その「古い法律」は今でも「生きてる」からね。たとえば民法の出だし。
これを
この法律を施行する期日は勅令(天皇の裁可による命令)をもって定める。
明治23年法律第28号民法の財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編は、この法律発布の日から廃止する。」
という意味に誤りなく理解するためには、古文・漢文の知識が普通にいる。(たとえば、古文では原則として主語に助詞がつかない。「定ム」はマ行下二段活用動詞で終止形が「定む」(口語文法ではマ行下一段で終止形は「定める」)だから、ここで文は終止している、とか。「此法律」は、あとの名詞に係っているので「此」は「これ」でなく「この」と連体詞で読む、とか(純粋な漢文というよりこれは日本漢文の知識だが)。)そもそも漢字片仮名交じりの表記は漢文の訓読体をベースにしているので、漢文にある程度なじみがないと違和感がすごい。「このくらい分かるだろ」という人は、それは自分がいやいやながら「古文・漢文」をやらされてきたからだということを理解しておいた方がいい。たとえば中国以外の外国出身、日本語ある程度読み書きできる人とかでも、こんな条文になると全くお手上げだ。大学入試から古文・漢文を廃して「実用現代語教育」みたいなことだけにするということは、日本人の日本語力をその(外国人)レベルにする、ということと同義でもある。)
これが万人に絶対必要な知識・教育だとは言わない。だから、義務教育では文法まで教えないし、大学入試でも、古文・漢文なしで入れる大学は普通にある。そういう人が先の法律を見て「訳分からん」となることも、当然おかしいとは思わない。だが、ある程度専門の学習を行う「高等教育」に進学する人間にとっては、戦前に制定された法律や文献が現代社会の重要な基盤となっているという意味で、やはりこれは普通に必要な知識のうちだろうとは思っている。これが不要と言うなら、文系の大半の人間にとって有機化合物に関する化学の複雑な中身とか全く不要なわけだが、それが現代社会の重要な基盤となっているという点では、やはり高等教育を受ける人間にとってクリアすべき知識とされていることに疑問はない。
問題は、その「必要性」が充分教育の現場で徹底されていないことなのだと思うよ。高校教師でそういうことを考えている人間は確かに少ない。「なぜそれを現代社会で、高等教育を望む人間に試験として課す必要があるか」は、最初の増田のように常に問題提起されてよいとは思うし、指導者は常にそれに対して説明する/できるようにする義務があるはずだね。
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301
タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメ『さらざんまい』の感想。
"ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しからゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、
「主人公の少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当なものに思える。
本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。
これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情と恋愛の境界は曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。
主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。
だが本論が合っているのはここまでだ。
なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…
『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。
第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。
というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章でしか用いられていない)。
この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。
さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要なものだった。では、仮に現在にブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係を小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。
ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。
女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動の公準は「私的なものは政治的なもの」であり、個人的な敵愾心を敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。
また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品が商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性を対象にしたものだと言う。
現在、世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向は男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的な女性差別と相関している。
仮に「生きづらさ」を描く作品が商業的に成功して、それが女性に限定されたものなら、それは社会的な女性差別と連関したものに他ならない。
これは差別の原因だろうか、結果だろうか。
男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別が特別に女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品が女性を対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題の解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在の女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品が存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品が存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。
そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。
『違国日記』は登場人物が登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的な連帯とは一線を画している。
また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情や資本主義を全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動とSNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSにお気持ちを投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。
一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生。
そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢を反省したという論を展開したいようだが……
幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公のウテナとシスターフッド的な関係をもっているのは親友の若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?
何にせよ、そうした感情的な連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。
例えばねとらぼの社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。
「男性が男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケアの役割を女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露=男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しかし男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動部コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年のエンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」
「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異を強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。
仮に感情的な連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間。
一つには「インターネットで感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。
このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的なものだと、フェイクニュースの方が真正なニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計。
前述のセジウィックは有名な『クローゼットの認識論』で作品にセンチメンタリティの属性を付与することの危険を「解釈的暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評の用語だ。
もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックス、セックスレスが標準となった社会では、ゲイネスが記号化して商品として流通しやすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックス、セックスレスが標準となった社会で、ゲイネスを商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動とSNSの利用に人生を費やす人々の姿……
『さらざんまい』は女性を顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。
しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品の解釈が「感情的で気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNSで論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感と幻想のインターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。
「心理的安全性」って、最近よく聞く単語で、Googleが出してきた「安心して自分の意見を言える環境」って概念みたいなものなんだけど。
最近ちょっと「あれっ?」って思うのは、そういうチーム作りみたいなのを推進してる人がメンバーいじったりとか言いたい放題で。
こういう構図はなんか学校で見た気がするなあって思って、もしかしてイジメてる側に回ると心理的安全性が担保されるんじゃないかってふと気付いた。
どこまでが冗談で済むのかみたいな閾値はそれこそ人それぞれだし、まあからかったり冗談言い合えるくらいのことはいいと思ってるんだけど。
メンバーも平気そうには見えるし、だからその人が問題行為してると言いたいわけじゃないんだけど。
なんかそうやって「心理的安全性=すべてにやさしい世界 じゃない」って考えると、Googleとかモヒカンがマサカリを投げ合う世紀末に思えてきてこわい。
先日池袋のサンシャインに行ったらステージの周りでたくさん人が待ってて、「あれ?なんかイベントやるのかな?」と思ったらなんとモーニング娘。のリリイベ&握手会がこれから始まるとのこと。
私にとってモーニング娘。は小学校時代の絶対的な憧れだったし、中高生のときはちょっと離れてたものの、大学生のときに失恋してめちゃくちゃ落ち込こんでメンがヘラっていたとき、娘。好きの先輩がTwitterで「めっちゃかっこいい!!!」とツイートしてた愛の軍団のPVをたまたま見てから「なんだこれ……!モー娘。しばらく見てなかったけどめちゃくちゃかっこいいやんやばい...!!!」と劇的にハマって動画を見まくることに夢中になり、そのおかげで大分落ち込みから脱出できたという大恩人でもある。(ちなみに同じ頃にリーガルハイにもハマってそれも大分気が紛れた。おすすめです。)
娘。はまだライブに参戦したことはないけど、最近も新曲が出たらYouTubeでチェックするくらいには好きで。
時間もあるので幸運に感謝しつつリリイベのミニライブを見ることにした。
握手会のチケットは先着順かもう完売してるんだろうなーと思ったらまだ「CDを買ったら握手会に参加できますよー!」とスタッフの方が呼びかけをしていて驚愕。
握手会に参加した経験はないし、あんな可愛い子たちの至近距離に行くとか緊張するし、迷ったけど人生経験として一回握手会というものを経験してみたいという気持ちが勝って参加を決意。
しかも1000円のCDを購入するだけで娘。メンバー全員と握手できるとか破格過ぎてやばない?????(通常盤Bを購入、野中美希ちゃんのカードが入ってた!)
ライブはあんまり見えなかったけど、圧巻のダンスと歌唱力を生で体感できてかなり感動した。新曲めっちゃかっこいい。2曲とも最高。
<人生Blues>
https://www.youtube.com/watch?v=TB-xE5H5xQU
<青春Night>
https://www.youtube.com/watch?v=SKgFDdDyKLE
そして握手会になり、自分は1000番台だったので20分くらいたったかな?というところでいよいよ列に並ぶ。
はじめての握手会は周りの様子を見ながら探り探りで参加したけど、なるほど握手会ってこういうシステムなのか〜と思った部分を簡単にまとめてみた(全てのアイドルが同じシステムという訳ではないと思うけど)。
・全員に袋が配られ、荷物を全部入れる(危険物持ってたらあぶないもんね)
・アクセサリー類、特に指輪や腕時計などメンバーに近い部分は全部外す(なにか隠してたり凶器になったらあぶないもんね)
・握手する直前に袋に入れた荷物をスタッフに預け、スタッフは荷物を預かった参加者の後ろに張り付き、全員との握手が終わり次第そのまま荷物を渡される(袋に入れた荷物のセキュリティってどうなるのかな?と思ってたけどこれなら担保されてていいね)
・参加者はスタッフに後ろから両手で軽くホールドされ、メンバーと握手するごとに横にどんどんパスするように流される(時間管理の面もあるし、メンバーとの接触を最小限にするためにはこうするのかなるほどね)
敬愛する小田さくらちゃんに「応援してます!」って言おうかなどうしようかなと迷ったけど、全然時間ないだろうし、言われ慣れてるだろうし、さくらちゃんだけに言って隣にいる他のメンバーになにも言わないのもなんだかな〜(本人たちは気にしないと思うけど笑)とか色々考えたけど、何も言わずにできるかぎりの笑顔でみんなと握手することにした。(緊張でさぞ引きつった笑みになっていたであろう)
いよいよ握手のターンが回ってくると、メンバーは「ありがとう」っていいながら握手をしてくれ、1メンバーあたり2〜3秒くらいで後ろのスタッフに肩を押され次のスタッフへ瞬時にパスされていった。
なのでほんと一瞬だったし、正直緊張とあまりの時間の短さにあんまり覚えていないのだけど、1000人と握手をすればそりゃ疲れるわという感じで割と真顔めであっさり対応なメンバーもいれば、とびきりの笑顔でありがとうって言ってくれるメンバーもいた。
そんな中さくらちゃんは少し憂いを帯びた微笑みをたたえながら私の目をしっかり見て「ありがとう」って言いながら超絶丁寧に両手でしっかり握手してくれた…。ありがとうはこっちのセリフですさくらちゃん……。
「可愛くて歌もめっちゃうまくてかっこよさも色気もあってプロ意識もすごくてファンにも神対応って.............」という感じでますます好きにならざるを得なかった。
全員と握手が終わると後ろについてたスタッフから荷物を手渡され、握手会終わりとなった。
一瞬すぎてあまりにあっけなくて、「夢の中の出来事だっけ!?」と思うくらいあまり現実感がなかった。
さくらちゃんと握手できて、ますますファンになったのはよかったけど、正直な感想を言うと今後はどんなに好きな人やグループでも握手会にはもう参加しなくていいかなと思った。
実際に接触すると、あっさり対応なメンバーに対して豆腐メンタルゆえに「この子は疲れているのかな、それとも普段からこれくらいあっさりしているのかな…?」とか変に色々考えてしまってちょっと疲れた。笑
(※たぶん本当は全然塩対応じゃないのに、普段メンバー同士で和気藹々している動画を見ていたり、握手会に対して「笑顔でニコニコ握手してくれる感じなのかな〜」とイメージしてしまっていた為、過剰にニコニコしてないだけで勝手にダメージを受けてしまった可能性が大分ある。みんなちゃんと握手してくれたしね!)
ファンって色々なタイプがいて、応援の仕方も人それぞれだと思うけど、私はPVやライブでのむちゃくちゃかっこいいパフォーマンスに感動したり、メンバーや気心の知れた人と和気藹々としている様子を見て癒されるのが自分にとっては楽しいかなって。
一番初めに言っておきますが、これは何の結論も教訓も得られない記事です。
私は夢女です。
夢女とはまあざっくり言うと「あるキャラクターに恋をした人」。
本当はそれだけじゃなくて友情夢とか色々ありますし、恋をしたのが自分なのかオリキャラを作ってオリキャラとキャラクターの恋を創作しているのか、等細かくたくさんあります。
その辺の話をすると長いので気になったら各自調べてください。
ただ、今回私が言う"夢女"はそういう意味で使っていますのでそのつもりで読んでください。
つまり私はあるキャラクターに恋をしていますよ、付き合いたい、結婚したいと思っていますよ、ということです。
そのキャラクターというのがアイドルマスターsideMのとあるアイドルなのですが、その人の名前を出す意味はないので伏せます。
sideMは「理由あって、アイドル!」をキャッチコピーにしていますが、アイドルになった経緯だったり過去だったり、一人一人の「理由」をすごく丁寧に描いています。
それもあってか、本当に、人として好きになったのです。
その人を、便宜上"推し"と表現しますね(実際は推しともまた違うのですが、AさんとかにするとそれはそれでイニシャルがAのアイドルが連想されてつらい思いをする人もいるかもしれないので)。
sideMにおいては、単にアイドルとしての歌や衣装、パフォーマンスといった部分だけに焦点を当てるわけでなく、お仕事(いわゆるイベント)を通してアイドルの人となりが見えてくるということがあるわけです。
そうやって推しを知っていく内に、最初は「好みのキャラクターがいるな」だったのが「この人が好きだ」に変化していきました。
sideMに限らず、どんな作品でもそういうことはあると思います。
そうして私は日夜「推しとこういうことをしたいな」「こういう時推しはこうするのかな」「推しのこういうところが好きだな」と考えるわけです。
ここに好きな人と一緒に来たいな、こういう反応するんじゃないかな、と一人で考えてにやにやしたりしませんか?
それが自分の勝手な妄想で、実際その人がそういう反応をしないかもしれないにしても。
でもいわゆる「一般的な恋」と「夢女の恋」で決定的に違うところがありますよね。
これ、本当に本当に言いたくないんですが、実際事実なわけです。
好きになった。告白をした。OKされた。付き合うことになった。
ここまでは夢女にもあり得ます。
想像、妄想の世界なので。推しと私はこういう経緯で付き合いました、と言えば私の中ではそうなのです。
でも、推しに触れることはできません。
推しはこういうシチュエーションで、こういう風なキスをするんだ、と思っても、それを触覚で受け取ることはできません。
これは人によるので、パーソナルスペースが広い方だったり、色々な理由から「触れあう」ということに重きを置いていない場合もあるかと思います。
でもそれは叶いません。
世の中、現実に恋人がいたり結婚している夢女はたくさんいます。
その人たちに対して「本当の愛じゃない」なんて言おうと思ったことはありません。
私も過去に恋人がいた時期がありましたが、その時も夢女でした(今話題にしている推しには出会っていませんでしたが)。
ですから割りきって、「二次元で一番好きなのは推し。三次元で一番好きな人とお付き合いをしよう」と思って多少の行動は取ってみました。
職場での出会いに少し期待して、あまり頑なにならず過ごしてみるとか。
そうやって行動する毎に強く実感するのが、「私は"推しみたいな人"が好きなわけではなく"推し"が好きなんだ」ということです。
話が合う人はたくさんいらっしゃいます。
この人と生活していくなら上手くいくかもしれないなと思う人も。
付き合ったらそれなりにやっていけそうだなという人も。
でも、この人と手を繋ぎたいと思わない。抱き締められたいとも、キスをしたいとも。
人生を担保する為だけに結婚をする意味もないと思っているので、だったらやっぱり三次元に恋人はいらないんじゃないか。
本当に単なる性欲だけの問題ならぶっちゃけ今のご時世、どうとでもなるじゃないですか。
そこに思い至って、どうしよう…となっているのが私の現状です。
でもそれを満たすために他の人を好きになることができない。
"推しみたいな人"を探している限り"推し"を越えることはない。
でも、あなたのステージが、新たな世界が広がっていくこの世界は絶望するには眩しすぎる。
どうすればいいんでしょうね。
背に腹は代えられないのか。前澤氏は蒐集していた現代アートにも手をつけた。5月16日のサザビーズオークションで、所有していたアンディ・ウォーホルとエド・ルシェの作品を売却。落札価格は計8億8千万円と報じられた。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190524-00562090-shincho-bus_all&p=2
「一般論として、これまで担保にしていた株の値段が下がったので、更なる担保を求められたと考えるのが妥当です。けれど、金融業界で株は非常に恐ろしい担保です。特にZOZO株が下がり続けていけば、差額を埋めるため追加の担保が必要になっていく。何が何でも株価を上げないとダメな状況に追い込まれていきますから、前澤社長には辛い日々が続くでしょう」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190524-00562090-shincho-bus_all
個人的な見解だけど、zozoに田端という方が入ってから色々とおかしくなった気がする。
肩書きは「コミュニケーションデザイン室長」とのことらしいけど、この人が入社してから、社長がtwitterを始めたり、マスコミを利用するような動き方をしたり。
例えば「バスキアを123億円で買えば、広告費○○円相当」とか「月旅行を公言すれば広告費○○円相当」とか。
別にそれ自体に問題はないと思うんだけど、この手の人って、「上手く行ったら自分の手柄、失敗したら本人の落ち度」みたいな無責任なタイプのイメージがある。
奇抜なことを言うだけ言って、他人のお金で遊んでいるようにも感じる。
自分は2008年1月からのzozoユーザーだけど、それまでの前澤氏と最近の前澤氏のギャップが腑に落ちない。
1代でここまで来たのは間違いないんだし、地に足つけて乗り切って欲しい。
https://headlines.yahoo.co.jp/cm/articlemain?d=20190524-00562090-shincho-bus_all
これは論理性しか担保してないね。その論理では「じゃあ冤罪で男をやってやろう、という女がたくさん出てこさせることは現実ではかなり難しい。蓋然性が低いってやつ。さすが引きこもりは現実が全く分かってないなwww
派生のレスの意見は違って、話せるヴィーガンもいるということが明らかになったツリーになってると思う。素晴らしい。
概ねの合意が得られた。
>他の種を搾取することによる一時的な幸福は正しくないし、必ず代わりが見つかると思ってる。
たぶんここがキモだよね。
代用肉が出てくれば食肉産業は縮小するであろう、健康はもっと手軽に維持できるであろう、代わりの幸福は見つかるであろう……といった楽観論が貴方の主張のすべてである、ように俺からは見える。それらの楽観は実現しないと俺は思う。代わりが見つかるとは思えない(ので、見つかってから言えや、がメインの主張になる)。
しかし俺もまた未来のことを知るものではないから、楽観論が実現しないと断言することはできない。この点で完全な平行線が発生しているよね。なるほどわかり合うことは不可能なんだな、という感じだ。
ただ、楽観論が見つかったとして、それにより動物の幸福が担保されたとしてもだ。その時は虫や植物を凄まじく効率的に消費してるだろう。ということは、どこかでは線引きは必要で、種差別の撲滅は無理だよ。人間が蚊や蟻を潰さない未来なんてこない。
だから権利を認める線を「人間かどうか」にするのは、やはり最も妥当としか思えないなあ。なにせ「人権」という概念が既にあるわけだしね。動物の人権ってもので幸福を担保して、共感からくる感情的苦しさを減じたい、という思いは理解しないでもないが……。
しかしこれもやはり、信仰とか信念による認識であって、説得とか妥協とかいう話ではないんだろうな。
それはまあ、屠殺場を即刻閉鎖するのは無理だよね。働いてる人もいるし。
(代用肉が安くなれば自然とそうなるという楽観視がないわけではない)
それもある程度同意できる。
人間は野生から始まって、炭水化物に依存した状態など、様々な栄養上の問題を克服してきたし、産業としての食肉文化から脱却することは可能なはずだ。
これは端的に事実だけど、同時にこれを理由として食肉文化に倫理的な利点を見いだすのは、マッチポンプであろうとも思う。
人間は家畜化した動物たちに明確な責任がある。彼らを野生状態に返すべきではないだろう。
一番の問題は、「食べるために殺す」ことよりも、「殺すために産まれさせる」ことだと俺は思ってる。
あと飼ってる猫とか犬に肉をあげないのはやめたほうがいいと思う。
それはそう。ジビエとか狩猟を俺は否定しない。交通事故で死んだシカとか、むしろ食ってやったほうがいいと思う。動物愛護系のヴィーガンには狩猟をやめろっていう人もいるからややこしくなるけど。
あと、野生の大型動物による生態系の破壊は、そもそも人間がその土地のバランスを崩したために起きてる場合が多いはず。
ヴィーガンは人間の幸福を減ずることを推進しようとしている。すなわち、人間の幸福を軽視している。なぜそうなのか? 貴方がたがありのままの人間を愛せないからだと思う。
他の種を搾取することによる一時的な幸福は正しくないし、必ず代わりが見つかると思ってる。
それはわからないし、ありのままの人間でいたいのもわかるが、そうするには人類は進歩しすぎてると思う。
ペット虐待反対運動なら、俺も賛成するよ? フェイクファー推進や象牙禁輸もまあゆるすわ。しかし社会的な肉食の禁止とは!自分と自分以外の他者の人生を嫌悪してないとその発想は出ないんじゃないか。
その間にあるのって「自分に利益があるかどうか」だけじゃない?
他の人のことはわからないけど、俺はハンコ作るために殺されるゾウは減ってほしいし、死ぬために生まれるオスひよことかにも減ってほしいよ。家畜たちにも幸せになってほしいんだよ。
基本的な材料として、ハンカチやティッシュ類、スマホのケーブルに予備バッテリーは持ってない?
あったらそれを収める鞄がいるんじゃない?
財布をポケットにいれてるか通勤につかうカード類だけポケットで財布は鞄とかありかと思う
そういうのを忘れたり落としたりしないための道具と装いで社会人らしさみたいなのが出るんじゃない?
人の多い所で引っかかったり汚れたりしないまとまりのよい外部の影響がでにくい素材の服で
必要なものを必要なときに取り出しやすくなくしにくい装備で持っていくのが理想だとおもうけど
意味なくリュックで詰め込んで底の方には何が入ってるのかわからないサラリーマンとか
駅や電車で走らないといけない状態に追い詰められてるためスニーカーでスーツとか
オフィスにすそが広がるとか布がひらひらするような服をきてくるやつとか
「実際、問題にならないしなってないのでいいだろ」といって服装の自由とか言うけど
そのほとんどない万が一を避けるために社会人の恰好をしているわけで
トラブルがあった場合社会的活動を優先しなくていい回避のために「準備していた」という
言い訳が成り立つわけで、失敗する可能性があるという格好で失敗した場合
原因としてその予防をしていなかったことを追及されるけどそうなったときには
もしもの万が一のリスクを全部自分の責任に担保するというのなら恰好は自由だと思うよ
上司は部下が勝手にそんな責任をとれないなぜなら上司が責任者なのだから
部下の不始末に救いがなかった場合救いのない管理をしていた責任があるわけで
苦言の一つもいいたくなると思う
ちらかっていても資料をなくしてもわすれたとかトラブルに巻き込まれて影響をもろにうけるとか
普段ならないしめったにならないのでたまになったときに誤れば割合的に徳だろとか思うだろうけど
人間死ぬのは一度きりと同じように万が一の失敗も確率や数量でおきるわけではなく
おきたらそれはユニークな発生事例で比較して薄めたり多い数量と比較して責任が回避
できるようなものでもないので失敗の回避とはその万が一の1回きりを回避するために
するものなんだよ
一度きりのしっぱいで全部だめになるという希少性の高い作業について価値がたかまるので