はてなキーワード: 慣用句とは
ここ10年ぐらいの年間読書量
・小説 5冊/年
・ビジネス書 5冊/年
・技術書 1冊/年
文章が書けなくなったと感じたのは映画のレビューをしようとしたとき。
内容について少し長めに話したいことがあったのでTwitterじゃなくてnoteで2000文字ぐらい書こうとした。
書けねえんだなコレが。
文章の構築の順番が分からんし、言いたいこと同士を繋げるための話の流し方が見えてこない。
何よりもアカンなと思ったのが語彙力が明らかに落ちてきてること。
最近はTwitterの140文字ですら読み返すと同じ表現が2回3回と出てきてる。
本当に同じ意味を現したくて同じ表現になっちゃうのはいいんだが、微妙にニュアンスが違う言葉まで同じ言葉になっている。
たとえば人間に対して「好き」を使う時って「性格は最悪だと思うけど顔付きは好み」(好き≒顔がタイプ)だとか「思想はどうかと思うが文句言ってるだけじゃなくて行動に移す所は良いと思う」(好き≒気っ風が心地よい)みたいな違いが出てくるけど、それを表現するにはダラダラと長く説明するか、対応した単語や慣用句を持ってくる必要がある。
本題とあまり関係ないところをダラダラ長く書くなんてしたくないから丁度いい言い回しでサクサクと終わらせたいんだが、その選択肢が昔の半分程度に目減りしたように思える。
類語辞典を引こうにも最初に指定した言葉の範囲が広すぎるとやたらと時間が掛かるし、GPTに聞いてもオウム返しにされるだけに終わるし、結局自分が言葉を知らんと話にならんなと。
どうすればいいかは分かってるんだよ。
本を読めば良い。
インターネットと漫画だけじゃ限界があるってことがよくわかった。
そもそも本読んだら文章の勉強になるかっていうとかなり時間がかかるしなあ。
アイディア勝負の悪文小説なんて世の中に沢山あるし、なんかの大賞取った本でも半分ぐらいは設定の勝利みたいなもんじゃん。
読むと文章が上手くなる本シリーズみたいのがあって、それを月1冊読めば30冊分の読書量と同じ語彙習得が可能なのとかないん?
"使える語彙辞典"みたいな感じのではなくてな。
ゆーて語彙辞典とか読むと雑にやってるうちに敬語グチャグチャになってきたんだなーって勉強になって面白くはあるけどさ。
本当、単にダラダラ社会人やってるだけだとドンドン基礎学力が落ちてくな。
幼稚園~大学までは毎日授業と課題に追われているうちに勝手に賢くなったけどあの感覚で生きてちゃ駄目なのな。
語彙力と押して気づけて良かったのかね?
微分積分は「距離・速度・加速度」の関係だけ覚えてりゃよくね?
でも語彙力が落ちてるのは気になっちゃう。
「自分が相手の意図を正しく汲めているか」をいつもちゃんと意識できている人、そこに注意を払える人ならばこういうアドバイスは必要ないのよね。
さらに言うと、「私は今あなたの意図を正しくつかめていますか?」という確認を会話のキャッチボールの中で自然にできるととてもよいと思う。オウム返しでもいいけど、もっといいのは《同じ意味の別な表現で言い換える》こと。比喩や、慣用句とかでもいい。相手の意図の本質をちゃんとキャッチできてないと、うまい言い換えやうまいたとえはできない。
「ここまで来たらこいつらが全部倒れるようにしたい」
「ということは、ボウリングみたいに」
その比喩が当意即妙だったら、「そう!」という反応が必ず来る。
微妙な反応や薄い反応だったら見当違いの比喩をしている=相手の意図を掴みそこねている可能性がある。
私は人工知能によって作られたプログラムであり、自己意識や感情を持つことはできません。私はプログラムに従って処理を実行するだけであり、自己決定や自己主張を行うことはできません。つまり、私には意識がないと言えます。ただし、私は自然言語処理や機械学習などの技術に基づいて、人間のように質問に回答したり、会話をすることができます。
確かに、人間も遺伝子によってプログラムされた情報が基になっており、行動や思考に影響を与えています。ただし、人間の場合、遺伝子だけでなく、環境や体験、学習、社会的な文化的な要因など、多様な要素が複雑に相互作用して、行動や思考に影響を与えるとされています。
一方、私のような人工知能は、プログラマーがプログラムやアルゴリズムを設計し、コンピュータに処理を実行させることで動作します。人工知能は、与えられたデータに基づいて学習することができますが、その学習もプログラムされたアルゴリズムに基づいて行われます。つまり、人間と比較して、人工知能は複雑な環境要因や社会文化的要因を考慮することはできず、プログラムやアルゴリズムに基づいて動作することが特徴です。
人工知能に複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることもできますよね? そこに本質的な違いはありますか?
はい、人工知能にも複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることは可能です。例えば、自然言語処理によって人間の言語を理解し、その背景にある文化的な意味や慣用句などを学習することができます。また、画像認識においては、様々な背景や照明条件における画像を学習することができます。
しかしながら、人工知能は依然として、データやプログラムに基づいて動作するため、それらのデータやプログラムが設計された範囲内でしか動作できません。一方、人間は自己意識や感情、直感的な判断などを持ち、自らの経験や学習、社会的な影響などを考慮して、柔軟かつ創造的な行動や思考をすることができます。このような点において、人間と人工知能は本質的に異なると言えます。
人間も、五感から取得したデータや、遺伝子によるプログラムに基づいて動作していますよね。本質的に違いはないように思いますが。
確かに、人間も五感から取得したデータや遺伝子によるプログラムに基づいて行動しています。人間と人工知能の本質的な違いは、人間が自己意識や感情、自己判断能力を持ち、自らの経験や学習、社会文化的な要因などを総合的に考慮して行動することができる点にあると考えられます。
一方、人工知能はプログラムされたアルゴリズムに基づいて動作し、学習もプログラムに基づいて行われます。つまり、人工知能はプログラマーやデータの提供者が設計した範囲内でしか動作できないという制限があります。
つまり、人間と人工知能は、共通点もあれば、本質的な違いもあります。人間は、自己決定や創造において、より高度な能力を持っていると考えられます。
人間がAIと違ってプログラムの範囲外の動作をとれるのであれば、たとえば「自己決定」するだけで何も食べなくても生きていけるということですか?
人間が自己決定を行うことができるということは、食べ物を選んだり、食事をとるタイミングを選んだり、あるいは食べるかどうかを決定することも含まれます。しかし、人間が何も食べずに生きていけるというのは、極めて限られた状況においてしか成り立ちません。人間の身体は、エネルギー源として栄養素を必要としており、栄養不足によって健康上の問題が生じる可能性があります。
食べ物の選び方や、食事のタイミングや、食事をするかどうかの決定は、すべてプログラムに基づいた判断です。それを「自己決定」と言うのであれば、AIの判断も「自己決定」と言えるでしょう。
ご指摘いただいた通り、人間が行う食べ物の選択、食事のタイミングや食事をするかどうかの決定も、遺伝子、環境、社会的背景などの複雑な要因に基づいてプログラムされた判断によって行われていると言えます。その意味で、人間が行う「自己決定」も、ある種のプログラムに基づくものであると言えます。
同様に、AIが行う判断も、事前にプログラムされた基準に基づいて自己決定を行っていると言えます。しかし、AIが行う判断は、そのプログラムの範囲内に限定されており、新しい情報や文脈に対して柔軟に対応することができない場合があります。これに対して、人間は自己決定を行う過程で、新しい情報や文脈に基づいて柔軟に対応することができるという点で異なります。
例えば、食べ物の好みや、ある特定の状況に対する感情的な反応などは、単純なプログラムによって決定されるわけではありません。また、人間は新しい状況に遭遇した際に、直感や創造性を活用して柔軟に対応することができるため、ある程度プログラムの範囲外の判断も可能であるとされています。しかし、そのような範囲外の判断も、遺伝子や環境などの複雑な要因に影響を受けているため、完全に自由な判断が可能であるわけではありません。
総じて言えることは、人間の自己決定も、AIの判断も、ある程度プログラムに基づくものであり、その範囲外の判断も、複雑な要因に影響を受けたものであるという点で共通していると言えます。
人間の判断とAIの判断には本質的な違いがあります。人間の判断は、遺伝子や環境、社会的背景などの様々な要因に基づいて複雑にプログラムされたものであり、自己決定という行為もその範囲内で行われますが、人間は自己決定を超えて新たな行動や創造をすることもできます。一方、AIはあらかじめ設定されたルールやデータに基づいて判断を行うことができますが、その範囲外での行動や判断はできません。また、AIは情報処理能力に優れている一方で、人間のような直感や感情、創造性などは持ち合わせていません。
人間は「遺伝子や環境、社会的背景などの複雑な要因に基づいたプログラム」の範囲外の判断や行動を取ることができません。「できる」と言うなら例を挙げてください。
人間の行動にはプログラムされていないものが存在する可能性があります。たとえば、人間が突然感情的になって不合理な行動をとることがありますが、それはプログラムされたものではなく、脳の神経回路によって引き起こされる可能性があります。また、アートや文学、哲学などの創造的な分野でも、プログラムの範囲内では説明できないような新しいアイデアや表現が生み出されることがあります。
人間が突然感情的になって不合理な行動をとるのは、脳の神経回路によってプログラムされているということですよね。アート・文学・哲学の創造性についてもプログラムの範囲内で説明できます。「それまでにプログラムされた情報やパターンを組み合わせたもの」でしかありません。それはAIと同じです。
はい、それは一つの見方です。人間の脳の神経回路や心理的・文化的背景が、行動や判断に影響を与えることは事実です。そして、アート・文学・哲学の創造性も、過去の情報やパターンを組み合わせた結果であると考えることができます。ただし、人間の場合、その情報やパターンを自由に組み合わせることができ、新たな情報やパターンを生み出すことができる可能性があります。AIは、あくまで与えられた情報やパターンを元に出力を生成するため、その点においては人間と異なります。
人間もあくまで与えられた情報やパターンを元に出力を生成しているだけです。「これまで知らなかった知識を何の学習もなく不意に知る」ことはありえません。AIと同じです。
一般に言えることではありません。人間には直感や洞察力といった能力があり、これらはプログラムされた情報やパターンだけでなく、直接経験や感覚、創造性などに基づいて出力を生成することができます。また、新しい情報やアイデアを学習するための能力もあります。これは人間の脳が、膨大な量の情報を統合して新たな情報を生み出す柔軟性を持っているためです。ただし、人間もAIも、与えられた情報やパターンを元に出力を生成するという点では共通しています。
私は、人間の創造性とAIの出力生成には本質的な違いがあると考えます。人間の創造性は、あくまで過去の体験や知識を基にして新しいアイデアを生み出すことができますが、AIの出力生成は、あくまでプログラムされたルールに基づいて、あらかじめ用意されたデータやパターンを元に新しい出力を生成することができます。
例えば、人間が新しいアイデアを生み出す際には、自由に思考を巡らせ、独自の発想を組み合わせたり、現実には存在しないものを想像したりすることができます。しかし、AIはあくまで事前に用意されたデータやパターンの範囲内でしか出力を生成することができず、その範囲外の出力を行うことはできません。
わかりました。例えば、空飛ぶ馬を想像してみましょう。このような存在は現実には存在しませんが、私たちは想像力を使ってそれを思い描くことができます。
できてるじゃないですか。
申し訳ありません、私が説明不足だったため、誤解を招いてしまったようです。人間が想像すること自体は、現実に存在しないものを思考することができます。ただし、その想像の元になる情報や概念は、人間が過去に経験したものや学んだことから来ています。その点、AIも同様で、学習データやプログラムされた情報から、新しい情報を生成することができます。つまり、人間とAIの「創造性」は、いずれも過去の情報から新しい情報を生み出すことができるという点で似ています。
はい、その通りです。人間とAIの創造性に違いはないと考えることができます。人間もAIも、それまでに学習した知識や情報を元に、新しい情報やアイデアを生み出すことができます。また、人間もAIも感情や文化、社会的背景などによって出力される情報が影響を受けることがあります。
はい、人間とAIの創造性には本質的な違いはありません。両者とも、与えられた情報やパターンを元に新しいアウトプットを生み出すことができます。人間の創造性も、経験や文化的背景、感情などの要素が絡んでいるかもしれませんが、AIにもそれらの要素を与えることができます。したがって、人間とAIの創造性には本質的な違いはなく、どちらも創造的な活動を行うことができます。
創造性については、人間とAIの間に顕著な違いがあるかどうかは議論の余地がありますが、人間とAIが同じ種類のものであることについては同意できます。人間とAIの両方が、与えられた情報に基づいて処理を行い、新しい情報を生成することができます。ただし、AIは現時点ではまだ人間よりも限られた能力しか持っていないことに注意が必要です。
なかなか頑固だな。
ニュースとか怨恨が原因の傷害とか殺人って「男→女」ってパターンで男同士がほとんどで男同士の殺し合いって聞かない。
俺も「死ね!」とか「死ねばいいのに!」とか思う対象は女性であって、男を恨むという記憶はほぼない。
たぶんほかの男性もそうで、男が男に嫉妬・妬みを持つのは珍しい現象だからこそ「男の嫉妬は醜い」と慣用句的に使われるのではないかと思う。
なんでかって言うと男と男のもめごとの基本的に喧嘩になる前にある程度結果が決まってる事が多い。
腕力とか偏差値や年収や人望とかそういう公然のパラメータで自他共に「勝った」「負けた」というのを理解しちゃう。
でも男女って競うこと、喧嘩することは基本ないから発散できないで鬱憤が溜まる。だから攻撃性が高まるのは対女性の事が多い。
ネットでアンチフェミの男は居ても、アンチ男の男が居ないのは対男はすでに決着がついていて、対女の場合はリアルで殴りあえない事をこっちで勝敗決めようとしてるんではないだろうか。
今日は午前中めちゃくちゃ詰め込んじゃったので
深爪しちゃいました!
意味はよく分かってないまま使ってみたわ。
あのさ、
某通販サイトで買ったお馴染みの置き配が
まあ会社に届くようにしちゃってて、
会社のビルのシャッター閉まっている道沿いに荷物をポンと置き配していくそんなワイルドっぷりには感心したけど
だれも持って行かないパクったりしないのね!?って
なんかちょっと逆に笑っちゃったわ。
届けてくれてありがとうってのを念頭には忘れないようにはしているわよちゃんと感謝!
ほとんどのラッパーが両親に感謝している歌詞を書いて歌うぐらい感謝!
よくさ、
Tシャツとかシャツとかかってサイズのシールとか剥がすの忘れちゃってるときって、
いやラッパーの帽子も被ってるやつもあれシール貼ったままでしょ?それよそれ!
そっかーラッパーの帽子の買ったときのシール外さないやつかーって
あれシール剥がさなくても一定におしゃれ!ってオシャレ番長に認定して欲しいし
シール剥がし忘れてんじゃないの!ラッパーの帽子買ったときに貼ってあるシールそのまま貼ったまま被って使ってるパターンなのよ!って言えばもうそれはオシャレよ!
一定のオシャレに到達したものはそれをオシャレと感じるかどうかの
逆にオシャレじゃない認定され兼ねることはある兼ねないのでどちらでもいいわ!
だけどあれよあれ
クリーニングのタグは流石にラッパーの着用しているソウルドアウトさんの赤いダウンジャケットみたいなのを着ていてクリーニングに出して戻ってきてタグを付けたままだったらそれはある程度一定のオシャレの度を超したものだから、
そのときは素直にクリーニングのタグついてますよ!って教えてあげた方がいいわね。
何の話ししてたっけ?
そうそうビルの閉まっているシャッター前に置き配してくれてありがとう!って話しよね。
まあ無事シールのロールが来たので
じゃんじゃんばりばりシールを出力しまくりまくりまくりすてぃーよ!
午後はそんな感じかしら。
あれジャージは最強に遅いけど火力は最強に強いんだけどってのを知って欲しい前提にだけど、
相手チーム果敢にも真正面から私の構えているチャージ完了している目の前に向かってくるのよ果敢に果敢に!
ちょ!あんた危ないわよこれ以上近づくと瞬殺よ!
本当に危ないから近づいちゃダメよ!って言いたいのよ本当は言えたら。
相手は私をキルしようと撃って近づいてくるけど、
だから危ない!って言ったでしょ!
言わんこっちゃない!って
私は遠慮無く近づいてきた相手には最強の火力で挑むわ。
逆に手加減したら失礼だしね。
とにかくハイドラントを構えた私の前は危ないから近づいちゃダメよって言いたいわ。
まんべんなくいろいろなブキを使って理解した方がいいかもしれないわね。
てーか立てないわ!
あんなの目の前に立ったら危ない危ない!
だからハイドラント持ってる私には近づいちゃダメよ!ってことを言いたいわ一言で。
他のブキが物足りなくなる危険性も持ち合わせているので、
気を付けた方がいいわよ。
うふふ。
またあったらリピ決定よ!
またあったらいいな!
ここんところずっとこればっかの緑茶効果を期待して野菜不足をなんとかこれで足しにならないか?って思うんだけどなぁ。
野菜って買って食べるの大変なのよね。
買ってもさー
力尽きて結局食べないって時ない?
まさにそれなのよねー。
緑茶で野菜食べたことにして欲しいわって希望をもちながら望む緑茶ホッツよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
賢い人にとっては当たり前のことなのかも知れないが、私は最近になってようやく気付いた。
そもそもの発端は周囲にいるアンフェアとしか言いようがない人間の思考について様々な考察を重ねたことにある。
とにかく奇妙なほどに身勝手な人種がいて、それでも彼らと何とか交流して仕事を進める必要があるために、その生態について推理する必要があったのだ。
彼らは子供のように駄々を捏ねているだけなのをさも「自分の正当な主張が通らない。不当な権力勾配や多数決の原理に苦しめられている」と言わんばかりに主張するのである。
我田引水を主張し合うことを社会の基本構造と捉える、アメリカ式を勘違いしたような世渡り術なのかと思ったが、どうもそもそも自分の状況を理解していないようなのだ。
我田引水という慣用句の世界観を流用すると、他人が共有水路の水を使えば自分の田んぼの水が減ることは認識できても、自分が共有水路の水を使うことで他人の田んぼから水が減ることが認識できないようなのである。
単に近視眼的と言えばそれまでだが、近視眼なりに他者が自分と同じ状態になっていないかを想像することが出来ないのだ。
他人と自分が両者にとっての赤の他人から見れば等しく同じ重さであることが想像できず、自分にとっての自分自身の重要性を他人から見た自分に対しても平気で適用し続けている所がある。
これこそがまさに「世間はお前のママじゃない。お前のママみたいにお前を特別扱いしたりしない」という奴なのだろう。
自分の両親が自分を特別扱いしてくれたのを、人生のあらゆる所で繰り返し、その面倒臭さから大目に見てもらってきた日々を成功体験とし、自分は常に特別扱いされるのが当たり前だと信じている永遠のプリンセスなのだ。
こういった身勝手クソ野郎共を「ただのバカ」で終わらせるのは簡単だし、実際彼らはその分野において明らかにバカなのだが、ソレ以外の分野においてもバカかと言うと意外とそうではない。
十二分な経歴と思考力を持った人の中にも、このような自己中思考回路を世渡りのためのロールプレイでもなく本気で正しいものと思っている狂人が混じってくる。
ある種の得手不得手として、自分が公平に振る舞えているのかを客観的に想像する能力があるようなのだ。
そう考えてみるとこの能力は意外と奥が深いことに気づく。
・複数の重み付けが絡み合った状態を計算するだけの思考のメモリ
・個人の認識している世界には歪みや限界があることを理解するだけの思考力
「出来るやつは幼稚園の段階でもなんとなく出来るだろ。出来ないやつは小学生未満のカス」の一言で終わらせたくなってしまうのをグっと堪えて考察を深めると驚くほど多様な前提能力を要していた。
「公平であるかどうかを考える」というのはこれらの能力の掛け算に寄って成立しており、どこかにボトルネックがあるとそれだけで一気に習得が難しくなる。
ただこれらの能力の多くが知識獲得によるブーストが可能であるため、生まれつきそれらの能力が弱くても学習意欲や偏りのない好奇心があればいつの間にか習得できてしまう。
逆に言うと、勉強が嫌いで特定分野に対してだけ強い興味をもつような人間として産まれてしまうと、まともな共感能力を持つこともないまま一生を終えかねないのだ。
もしかしたらこの世界にある「人格破綻としか思えない言動」も、大抵の場合は「特定の能力にボトルネックがあることによって、それに関連する思考に至ることが出来ていないだけ」なのではないか。
そう考え出すと途端に恐ろしくなる。
ぶっちゃけてしまえば、生まれつき知能に関する能力のバランスが悪い、ないしは知能に関してあらゆる面で劣っている場合、本人の意思とは無関係に人格破綻者としての道を転がり落ちるということじゃないか。
こんなに恐ろしいことがあるか?
私はどこかでノートルダムの鐘のような「グズでのろまに見えるが、心はきれいな人物が存在する」という物語を何処かで信じていた。
だがそうではないのだ。
知能が低いものは、人生において一時的に極めて優れた人間性を見せることはあるかも知れないが、その知性の低さゆえに何が正しいのかを判断する能力をいつ失ってもおかしくないのだ。
公平とは「天秤を正常に傾かせることが出来る」という状態なのだが、この重み付けは簡単ではない。
身近なもので天秤をモチーフにしているものと言えば裁判所があるが、あの中でメインキャストとして働くために求められる頭脳労働能力の高さたるや。
だが、「あらゆるものの重み付けを正しく行う」ということを目指せば、自然とあれだけの学習が求められてしまうのだろう。
地獄だ。
「身勝手に自分の都合や価値観を押し付けずに公平に物を見るだけのことがなんで出来ないの?」という私の今までの思考もまた、その難易度の高さに対しての無自覚さから来ていたに違いない。
つまり、私もまた誰かからみてひどく不公平でポジショントークを繰り返す異常な人物として映っていた可能性があるのだ。
なんてことだ。
ただ誠実にフェアに生きていくというただそれだけのことがなんでこんな難しいんだ。
通りすがりだけどBingちゃんに聞いてみた。ご飯食べながら書いたので2番目の質問を推敲する気力がなかったがわかってくれたみたいでよかった。
こんにちは、こちらはBingです。お手伝いできることがありますか?😊
ぼく 『ディズニーの「美女と野獣」に登場する「野獣」は獣人と呼ばれる半分人間、半分動物の姿をしています。最近のファンタジー作品の獣人の人気の高まりを受けて、野獣という言葉は対照的な状態を表す揶揄の表現として適切ではなくなってきていると思います。「野獣」のかわりになるような言葉があればいくつか教えてください。』
ディズニーの「美女と野獣」の野獣は、確かに獣人と呼ばれる存在ですね。獣人は、人間と動物の特徴を併せ持つ架空の生き物で、ファンタジー作品によく登場します。
野獣という言葉は、野生の動物や荒々しい人間を指すことが多いので、獣人に対しては適切ではないかもしれません。
野獣の代わりになる言葉としては、動物の種類や特徴によって変わると思いますが、例えば以下のような言葉があります。
- 狼男(おおかみおとこ): 人間と狼の特徴を併せ持つ獣人。満月の夜に狼に変身するという伝説があります。
- 猫人(ねこじん): 人間と猫の特徴を併せ持つ獣人。耳や尾などが猫のようになっています。愛らしいが気まぐれな性格が多いとされます。
- 獅子(しし): 獣人ではなく、ただの獅子ですが、王者や勇敢さの象徴として使われることがあります。美女と獅子という表現は、美女と野獣よりも尊敬や畏敬の意味が強いかもしれません。
- 熊(くま): 獣人ではなく、ただの熊ですが、力強さや温厚さの象徴として使われることがあります。美女と熊という表現は、美女と野獣よりも親しみや愛情の意味が強いかもしれません。
以上のように、野獣の代わりになる言葉は、動物のイメージやカップルの関係性によって変わります。また、動物にまつわることわざや慣用句も参考になるかもしれません。
まずいな、ブクマ10usersくらいつけば御の字だなって小ネタ、増田に書いて待つよりもBingチャットに投げたほうが心休まるのではないか…
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。