はてなキーワード: ディベートとは
君は成形された段ボールをどのように持つだろうか?
大きさは問わない。小さな段ボールで考えても良いし、大きな段ボールで考えたとしても構わない。
...
さて、今思い浮かべてもらった持ち方は、意外にもこれから述べる「2つの持ち方」のいづれかに該当するはずだ。
1つ目は「両手を段ボールの底に引っ掛けて持つ」という持ち方だ。
クレーンゲームの2本爪アームを思い浮かべると良い。まさしくあの構図である。
しかし、あの貧弱さはどこへやら、我々が実践した途端、とても高い安定性を提供してくれる。
「片方の手を手前の底角に引っかけ、もう片方の手を対角線上の底角を引っかける」とより更に安定するが、これはこの持ち方の一派とさせて欲しい。
さて、この持ち方をするまでもない小さな段ボールがあったとする。
それは自然と「小脇に抱えるように持つ」だろう。これが2つ目の持ち方だ。
およそ出回っている段ボールはこの2つの持ち方でなんとかなる。
なんとかなるという表現より、「段ボールを持つ」と心の中で思ったなら、その時既に行動は終わっているという表現が正しい。
思考する間も無く、我々は「2つの持ち方」のいづれかを実践してしまっているはずだからだ。
ん?なんでこんな話をするかって?
そりゃあ、
「この2つの持ち方では持てないほど大きな段ボールの話をするため」だ。
~
彼女の旧邸から荷物を運び出すべく、長い時間運転していたおれは、その車高に慣れてしまったせいか、旧邸に積み上げられていた段ボールの大きさを見誤っていた。
「あっ」
おれが抱えようとした段ボールは、その底面が地面から完全に離れる前に、鈍く沈んでいった。
まるで、装着したロングバレルの重さに耐えきれず、かかとが浮いてしまったバトルビーダマンのように、前傾姿勢になったとき、おれは初めて気付いた。
その段ボールはとてつもなく大きかったのだ。
印字を見るからに、その段ボールは「6ロール入りのティッシュペーパー」を12ロットほど詰める用途で使われていたようだ。
おおかた、近くのドラッグストアなどから拝借したのだろう。こんなにデカい段ボール、生活の中では見たことがない。
引っ越しは難航した。2人でなければ運べないデカボール。あまりの多さに、1往復で済むはずだった運搬作業は3往復にも及び、東京の端から端へ反復横跳びするような1日だった。
返却期限が迫るハイエース。
連れ猫もいた。大きくハイエースが揺れるたび、猫を気遣った彼女の視線を受けた。
手伝ってもらった友人の機嫌もどんどん悪くなり、23時半まで引っ越し作業が及んだ。
友人が帰った後、「14個てw」と散々弄った。この服の量は明らかにおかしいことに気付いて欲しかった。
弄るたび不機嫌になる彼女は、シーツもかけずに床に直置きしたマットレスの上でいつの間にか寝ていた。よほど疲れていたのだろう。その日はデカボールに言及することなく、おれも瞳を閉じた。
...
「いい加減服を捨てろよ!!!」
デカボールの中の衣類は、季節毎ではなくアイテム毎に分かれていた。
そのため「積み重ねると取り出すときの利便性を損なう」という理由で、14個のデカボールは積み上げられることなく平置きされていた。
広い家に、素敵な家具を少しだけ置くことを思い描くおれは、あの日から何度も彼女に伝えてきた。
数を減らしてくれないか?
この服は最後にきたのいつなのか?
分類だけしてみようか?
いずれも聞き入れられず、新居がデカボールに犯されているように見えてならなかった。
新居はなるべく広く間取るために、収納が限界まで削られていたワンルームだった。
この物件は駅からも遠かった。最寄駅は職場からも遠かったし、栄えている街でもなかった。
しかし「大好きなインテリアをスペースを取りつつ配置したくて」この部屋にした。
幼少の頃から部屋を与えられなかったおれが、1人暮らしを始めてインテリアに興味を持つのは必然だった。
就職してからというもの、100円ローソンのかしわおにぎりセットで飢えを凌いで貯めたお金は、全てインテリアに使うようになった。
美容整形外科で使われていたというAD COREのコーナーソファ。ACME Funitureの木工曲線見事なマガジンラック。綴化に綴化を重ねて要塞のように大きくなったユーフォルビア。
フルーツを置いて楽しむイメージがパッケージに印字されたiittalaのステンレスプレート。
実家を出てからフルーツなんて買えたことはない。そんなおれだが、インテリアにだけは心血を注いで来た。
このインテリアたちがいつか小さな六畳一間を飛び出して、大きな広い部屋でディスプレイされる日を夢見て。
そんな日々を夢見れば、100円ローソンのかしわおにぎりセットなどいくらでも食べることができた。
しかし今。
おれが掴みかけた夢は、デカボールに押し出され、ヴィンテージのソファは彼女の連れ猫に切り裂かれ、集めたインテリアたちはこんなに広い部屋の隅で、暖を取るように固まり、一部はベランダで鯖つくのを待っている状態ですらある。
日々を切り詰めて手に入れたこの広い部屋は、インテリアを配置するための広い部屋は、目を薄めて見ると全て同じに見えるような服をパンパンに孕んだデカボールに占領されている。
おれの大切なもの害するデカボールをどうにかしては欲しい。そう伝えても何も行動しない、協力する気もない、そんな彼女にふとしたきっかけで言ってしまった。
「いい加減服を捨てろよ!!!」
「は?なんでそうやってあたしの好きなものを奪うわけ!?絶対捨てないから。服って一期一会だから。大体さ、このワンルームに収納がないのがいけないんじゃん!!収納があれば片付けるよ?でも無いじゃん!!そんな中でデカボールのこと言われてもあたしにどうしろっていうわけ!?引っ越す??引っ越そっか!!!でもあたしは1円も出さないからね!!!だいたいs...」
おれは怒りで「口喧嘩がとんでもなく強い彼女」だということを忘れていた。
普段は気さくな彼女だが、いざ衝突するとなると、論理で攻めるときはひろゆきのように、論理で攻めあぐねたら田中みなみのように感情で攻めてくる。ディベートケルベロスとでも言おうか。
いくつか火花を散らしたが、そのときは結局捨てさせることができなかった。
おれ自身も反省し、捨てろとは言わなくなった。確かに収納があればこのようなことにはなっていないかもしれない。
いくらデカボールがおれが好むインテリアを迎え入れることを拒んだとしても、彼女が既に持っている服を奪う権利はおれにはない。
「初めから独りっきりだったてめーに!!オレの何が分かるんだってんだ!!!アァ!!?つながりがあるこそ苦しいんだ!!それを失うことがどんなもんかお前なんかに・・・!!」
これはその通りで、最初から手元にないことと、手元にあるものを失うことはまるで違う。
彼女のクリティカルな返しで怒鳴り合いは幕を閉じ、おれは服を捨てさせるのを諦めた。
春が終わるころ、デカボールは彼女が新たに迎え入れた夏服を飲み込むために、その体裁を崩し始めていた。
~
冬。
東京を知らない若者になら「これが文化服装学院です!」と伝えても納得して貰えるほどの服の要塞が出来上がっていた。
この要塞の基礎工事と成り下がったデカボールだが、「もー、なんで見つからないのー??」という声と共に、その要塞が掘削されるとき、彼らは隙間から顔を覗かせてくれた。
デカボールには服の重圧で紙皺が出来ていた。その紙皺は、インテリアを諦めたおれを憐んでいるようにも見えた。
捨てさせることを諦めたおれは、収納を新たに設ける方針に切り替え、何度か提案をした。
「ベランダに服の収納作ろっか?そしたら生活空間が少しは確保できるかもよ?」
「ベッド下に収納を作っても良い?引き出し型のやつ、おれが買うからさ」
彼女からおれの痛みを和らげる提案はない。おれだけがおれの痛みを解消できる唯一の存在だった。おれは思いつく限りの提案をした。
しかし、論理的かつ狡猾に、おれが余力を絞って書き連ねる処方箋は破られていく。
この量の服を飲み込みつつも、デザインを維持できるかっこいい収納などなかった。
着たい時に着れない服は持ってないのと同じらしい。レンタルスペースに置く=捨てることだと言う。重ね着のため、シーズンが違うものでも着ることがあるらしい。
ベッド下の収納は、床が見えなくなるため、家が狭く見えてしまうからダメらしい。おれも同じことは思っていた。その感性が一致しているからこそ余計苦しくなった。
実家にはスペースがなく、おれの実家に送るにしても申し訳ないらしい。
全ての処方箋が破られたころ、おれはもうデザインやインテリアはどうでもよくなっていた。
生活スペースにはみ出た服を収納するためだけに、アイリスオーヤマのプラボックスを購入した時、これまでに積み上げた感性が死んでいく気がした。
しかし、作った収納はすぐに服が食い尽くした。また作る。服が食い尽くす。また作る。服が食い尽くす。希望が見えなくなっていく。
電動ドライバーの矛先を向けるべきなのは果たしてネジなのか、分からなくなってくる。
この間にもベランダの家具は錆びていく。青いスタンドライトには服が、ベルトが掛けられていく。ソファは猫に削られ、ステンレスの棚の上にはZOZOの段ボールが積み上がり、靴箱はさんざん揺られた弁当箱の具材のようにひしゃげた靴で溢れている。
余白はどんどん服で埋め尽くされる。余白が埋め尽くされるたびに、おれの理想は霧がかってゆく。
おれはあの頃から、もうインテリアを買っていない。いつの間にか100円ローソンにも行かなくなった。
...
最近は時々夢をみる。
服に火をつける夢を。
服が、家が燃え尽きたのちも、 iittalaのステンレスプレートだけが、美しく残っているのだろうと思う。
その煤だらけのプレートだけを持って、おれはこの家を出たい。
※ここでは政治宗教その他センシティブなこと関係なく、「こういう考えである。なぜなら〜」とはっきり説明出来るくらい強いこだわりを持つものを指す。時事のいざこざとかそんな話がしたいんじゃない。
思想の自由という言葉はあるが、私は思想を公の場で語ることが何故か下品なことのように思えてしまう。どこの国とも戦争せずめちゃくちゃな差別を受けて生きてきた訳でもない若造だからほざける戯言だと自分でも思うが、思想を持っている自分のことがどうも気持ちが悪い。
そもそも、思想なんてものは育ってきた環境が違えば考えることも好き嫌いも違う訳で、他人の言葉1つですぐ180度方向転換するような生ぬるいものではない。1人の人間が数十年という長い年月をかけて凝縮し生まれた結晶である。それっぽい言い方をすれば、思想とは内面的な自己の存在証明なのだ。
それなのに、インターネットの海を覗くとあら大変。大量の人間が素っ裸にマイナンバーぶら下げて歩いてるじゃないか。ぶつかり合ってディベートする訳でもなく吐き出した思想をポイ捨てして。
それを見て引く程度の思想を持ってた自分にも引いた。さっき存在証明なんて言ったが、私は別にしょうもない人生しか歩んでない。飛んでるハエの方がマシな生命活動を行っている。それなのにハエ未満の私は、一丁前に思想でガチガチの頑固オヤジになってしまった。人生の薄っぺらさと思想の分厚さが不釣り合いすぎる。この思想と実際のアンバランスさが、自分への不愉快さに繋がっているのだと思う。
とはいえ、思想とは裸と同じくらいパーソナルなものだ。全ての理論が筋が通っていて誰も何の文句も付けられないくらい正しい思想などこの世に存在しない。そして思想にだって相性が存在する。どんなに自分の思想が世論的に正しいとしても、相性の悪い思想の人とディベートする気がない限り、思想を見せびらかすのは紳士的とは言い難いと私は思う。そんなに安く自分の内面を切り売りするべきでは無いし、自分の思想が誰かを不快にさせる可能性は頭のどこかに置いておいた方がいい。
とここまで自分の思想を思いつくまま文字に起こしたから、言ってることがぐちゃぐちゃかもしれない。それもまた思想の揺らぎだと思ってほしい。
少しフィクション混ぜて書く。
日曜、はてな匿名ダイアリーで、中学の頃に好きだった人(ブクマカ)を見つけた。
人だかりがあったから、なんかやってるな、何やってるんだろって。
私は彼氏といたし、会話に混ざりはしなかった。
って彼氏に呟いたくらい。
かも、じゃなくて、間違いなく奴だったんだけど。
口調が変わってないし。
今は、どうなんだろう。
まあでも、今の彼氏のこと、好きだしね。
そんなことより衝撃だったのは、奴がレスバをしていたということ。
私は口下手だった。
でも、奴のことが好きだった。
小学校から中学校に上がったら、ブクマカはお互いにあんまり話さなくなった。
カースト上位の人たち(有名ブクマカたち)は、気にせず話していたけど。
そんなわけで、私は奴に全然話せなかった。
もし、私が奴に突然おはようとか言ったら、変な空気になったと思う。
ただ、ずっと、見計らってた。
そこで増田が答えていた。
「なんでそんなレスバ上手いんですか〜??」
「まず訂正したいのは、これはレスバじゃなくて討論です。」
少し溜めて、続けてゆっくり言った。
「あと、僕は、少し、手が、大きい。」
増田は顔の横に大きい手を広げて、おどけてみせた。
たしかに、大きかった。
そして、思った。
私は手が大きい。
プログラミングの授業で先生に「手でかいな」って言われたこともある。
タイピングでレスバするなら、なんやかんやで披露する場があるだろうし、奴とも話せるかもしれない。
持ってるスマホだとうまく書けなかったから、パソコンで練習した。
サボると、手がなまるのがわかった。
弟にちょくちょく見せていたけど、反応は悪くなかった。
ただ、奴に見せる自然な流れは来なかった。
そして、やっとメタブで2階を作り、2人きりになる機会が訪れた。
完全に成功だった。
「いや、なんも考えてなかったけど。」
「いや才能あるわー。なったほうがいいよ笑」
そこから二人の恋が、と言いたいところだけど、それ以上のことは何も起こらなかった。
1年以上練習したのに、何も起こらなかった。
少しの達成感はあったけど、それだけだった。
そのまま卒業して会うこともなくなった。
n=1のただの感想
→2度見するほどのブスでなければいいかな…
2度見するほどのブスって精神を病んでるのが表面に出てるんだと思ってる
清潔感があれば何塗ってても構わん
でも過剰な香水・整髪剤の香りはTPO次第ではイヤだな(男女問わず)
→剃るかどうかは好みによる
臭くなければいいよ
→トレンドとかどうでもいいから、中学生の時から着てるの?っていうようなヨレヨレ&ダサはやめて、お母さんが買ってきた服以外も着て
ユニクロのマネキン買い(ユニクロが無理なガタイならサカゼン)でいいです
→スーツなら必須だと思うけど、Tシャツとかカジュアルな恰好なら着古してない・洗濯されている(ジーンズもだぞ)だけで十分
→行きたい場所に合わせるのは大切だよね
→聞き上手になれ。これは男女問わずなっておいて損はない
ただ女性の方が「さしすせそ」的な聞く技術を持ち得ることが多い気はする
→「そうだね」「ほんとにね」「わかる〜」でいいから
「それって○○じゃない?」「それは違うよ」みたいなのいらない
→上に同じく
人によっては平均じゃとても満足しないだろうし、逆もしかり
都心で子を持つなら1000万でも足りん
→学歴マウントとらない人って前提で、大卒どうこうは自分は気にならない
→婚活ならやっておいて損はないだろうけど、さわりだけ仕入れてきて「もっと君の好きなこと教えてよ」みたいに、相手に気持ち良く話させるスキルのほうが大切だと思う(仕事の接待でも使えるよ)
→自分より低くても気にならないのでどうでもいいです
→初回ならしっかりしてほしい
→ハイキングデート等で舗装してない道歩くなら先言って?って思う
→これ何の意味があるの?
→されたらうれしいけど、スマートにやるのは至難の業。日本の建物はドア小さいことが多いし…
→初回なら必須
→上座かどうかは関係なくソファー席にしてくれると普通に嬉しい
その代わりに、こっちに荷物置くよ!って言うのは女子側に求められる気遣い
→ウザいだけなのでいらないです
→一緒に見ながら決める時ってこと?どっちでもいいです
横向きとかでもいいんじゃね
→これも店員がやってくれるやろ
→ふまえるほどに交流があるならぜひやってほしい所
→見せられる財布にするとこからやってくれ……
ふつーのデートなら「出すフリ」くらいさせてほしい
奢られるのが苦手な人種もいる
アメックスの緑・青、楽天ノーマルカード、スーパーやコンビニのカード、審査のゆるい無料カードは萎える
→できて損はなし
→人として当然だろが(2度目)男女問わず!
→これ奢られるの嫌い勢と同じ
ギャラ飲みなら当然多めに出せと思う
フェミニズムっていうのは女性の不当な扱いを退けることで、飲み代を奢らせることではないんだけど日本人は論理的思考力やディベート能力が低すぎて色んな観念がごっちゃにされてて危険
アイドルの熱愛報道が出るたび、「アイドルの恋愛はありか無しか」という終わりのない討論が巻き起こる。
ディベートとしてもなかなか秀逸なテーマだと思うので、今回答えのない答えを探してみることにした。
※ただし、結婚となるとまた違った概念となるため、今回はあくまでも恋愛をテーマとする。
●「あり」派
・アイドルは職業であるため、仕事中以外の時間はオフなので何をしても良い
・人間ならば誰しもが恋をするため仕方がない
・推しは元気でいてくれればそれで良い
・仕事を応援する立場である以上、プライベートの過ごし方に口を挟む筋合いはない
●「なし」派
・アイドルは疑似恋愛の要素を含む職業上、プライベートでも恋愛をしないのが暗黙のルール
・グループ活動がある場合は、他のメンバーにも迷惑をかける恐れがある
●「バレなければあり」派
上記は、ファンが恋愛をしているアイドルに対してどう思うか、という気持ちの部分である。もし好きなアイドルに恋人がいた場合、傷心への落とし前の付け方はどうしても意見が分かれやすいところだ。
ちなみに、これがもし「恋人の浮気はありかなしか」だったらどう答えるだろうか。アイドルを恋人のように近い距離の存在と捉えるか、芸能人という遠い距離の存在と捉えているかでも、大きく結果は変わってしまう場合がある。
次は、アイドル本人の立場から考える。あなたの好きなアイドルの性格は、どのタイプに当てはまるか考えてみてほしい。
●「あり」派
●「なし」派
●「バレなければあり」派
・外で2人きりにならないなどの最低限のルールは守る
アイドルの視点で考えてみると、また違った見え方になる。例えば、ファンとしての自分の気持ちは「なし」でも、推しの性格を踏まえてみると「あり」が選択される可能性だって見えてくるかもしれない。
ファンとしての気持ちと、アイドルの立場を踏まえ、「あり」「なし」「バレなければあり」のどれかが一致したとき、初めて恋愛論争の終止符が打たれるのだ。
つまるところ、ファン各個人の考え方、およびアイドル本人の考え方の一致が求められるため、全員にとって必ずしも納得のいく答えが得られるわけではない。恋愛を語る上で欠かせない「価値観の一致」こそが、ファンとアイドルの関係にも必要不可欠となる。
また、アイドルの考え方(ファンから見えるその人の性格)が、実際の本人と一致しているのかの真実すらも分かるすべはない。あくまでもアイドルは偶像であり、イメージであり、フィクションであるのだから。
アイドルの熱愛報道が出るたび、「アイドルの恋愛はありか無しか」という終わりのない討論が巻き起こる。
ディベートとしてもなかなか秀逸なテーマだと思うので、今回答えのない答えを探してみることにした。
※ただし、結婚となるとまた違った概念となるため、今回はあくまでも恋愛をテーマとする。
●「あり」派
・アイドルは職業であるため、仕事中以外の時間はオフなので何をしても良い
・人間ならば誰しもが恋をするため仕方がない
・推しは元気でいてくれればそれで良い
・仕事を応援する立場である以上、プライベートの過ごし方に口を挟む筋合いはない
●「なし」派
・アイドルは疑似恋愛の要素を含む職業上、プライベートでも恋愛をしないのが暗黙のルール
・グループ活動がある場合は、他のメンバーにも迷惑をかける恐れがある
●「バレなければあり」派
上記は、ファンが恋愛をしているアイドルに対してどう思うか、という気持ちの部分である。もし好きなアイドルに恋人がいた場合、傷心への落とし前の付け方はどうしても意見が分かれやすいところだ。
ちなみに、これがもし「恋人の浮気はありかなしか」だったらどう答えるだろうか。アイドルを恋人のように近い距離の存在と捉えるか、芸能人という遠い距離の存在と捉えているかでも、大きく結果は変わってしまう場合がある。
次は、アイドル本人の立場から考える。あなたの好きなアイドルの性格は、どのタイプに当てはまるか考えてみてほしい。
●「あり」派
●「なし」派
●「バレなければあり」派
・外で2人きりにならないなどの最低限のルールは守る
アイドルの視点で考えてみると、また違った見え方になる。例えば、ファンとしての自分の気持ちは「なし」でも、推しの性格を踏まえてみると「あり」が選択される可能性だって見えてくるかもしれない。
ファンとしての気持ちと、アイドルの立場を踏まえ、「あり」「なし」「バレなければあり」のどれかが一致したとき、初めて恋愛論争の終止符が打たれるのだ。
つまるところ、ファン各個人の考え方、およびアイドル本人の考え方の一致が求められるため、全員にとって必ずしも納得のいく答えが得られるわけではない。恋愛を語る上で欠かせない「価値観の一致」こそが、ファンとアイドルの関係にも必要不可欠となる。
また、アイドルの考え方(ファンから見えるその人の性格)が、実際の本人と一致しているのかの真実すらも分かるすべはない。あくまでもアイドルは偶像であり、イメージであり、フィクションであるのだから。
ネットでレスバしてたら次の日「図書館で調べてきたんすけど……お前の言ってること大嘘でしたね」ってどこぞの学者の書いた本を引用して論破されて、畜生と思いながら自分も同じ本読んだら引用部分の続きで「まあこれは完全に暴論だけど」みたいに締められている所だけカットされてるの発見して、これで反撃しようと思ったらもうとっくにスレの流れでは俺が異常者扱いになってるとかそういうのしょっちゅうだったじゃん。
そういう反則上等のディベートごっこがネットの主流だったし、それが調べながら議論するっていうことの練習にもなったし、論題についての情報収集の役に立ってた。
話題のものについてそれぞれが知ってる情報を持ち寄って誰が持ってきた情報が凄いかの自慢合戦ばかりしてたし、お互いの情報の真偽を巡ってメチャクチャに言い争う奴らがアク禁されては串通して帰ってきてた。
どこそこの個人サイトで暴れていたアイツと、あっちの掲示板で暴れていたコイツの文章がソックリすぎるって話題になって、実際には恨みを持った奴がソイツに罪をかぶせようとマルチポストしてたことがアクセス履歴解析で判明とかそういう醜い争いもあったな。
でも皆そうやってパソコンのことに詳しくなったし「こういうことをしたら議論が壊れちゃうんだ」って勉強にもなった。
今はそういうの全部すっ飛ばして迷信化した「ネットでこういうのしたら駄目らしいよ。何が起こるのかは知らないけど」っていう都市伝説状態だ。
曖昧なネットの世界がダラダラ続いて、一部のやりすぎた有名人だけが逮捕される時代が続き、そうして最近になってようやく単なる凡人でも弁護士通して訴えられるんだって認識が広まるようなことが置きだした。
ネットは怖い、でもそれはそもそも人間社会自体が繊細で傷つきやすく暴力的な者共によって構築されていて最初からリアルがクソファックなのがネットでも変わらないからだってことを学ぶ機会だ。
最高の教材じゃないか。
「ネタじゃなくて本気で言ってるならソースをもってこい」ってのはディベートごっこにおける初歩の初歩だ。
そこからソースの信ぴょう性だったりソースロンダリングという裏技だったりガセ情報をサイトごとでっち上げる力技だったりの派生知識が伸びていき、ようやくデマに踊らされないまともな人間へと育っていくわけだ。
教科書に書いてあることは嘘っぱちだと書いている本の信用度は教科書よりも高いのか低いのかを、なんとなくの経験則ではなく双方の執筆者名や査読した組織の経歴から辿っていき、自分なりの答えを出せるぐらいはしないとこの社会じゃすぐ食い物にされる。
食い物にされないようになんてネガティブなモチベーションじゃやる気にならなくても、眼の前にいるムカツクレスバ相手をボッコボコにするために相手の持ってきたソースの信憑性をヒックリ返してやりてえって熱意があればきっと身につけられる技術だ。
コミュニティノートは今までのお気持ち中心のレスバ合戦よりもソースの信ぴょう性に重点を置いた本来あるべきレスバの形だ。
リアルにおいてお気持ち中心の空気感醸成に慣れてなくて、泣く泣くネットに逃げてきた頭でっかち共が築き上げたネット流のスタイルが戻ってきたと思わねえか?
「ふーん。それでソースは?」
この言葉が強い力を持っていたインターネットが帰ってきたんだ。
「ソースが正しいかどうかと、僕のお気持ちは無関係ですよね?」
全員半匿名という驚くほどに打たれ弱いアイアンモードのインターネットで、死んでも死なねえなんてヌルゲーすぎるぜと強気に弱気に臆病に勇猛に戦ってきたあの時代の緊張感を取り戻そうじゃねえか。
自分のお気持ちや感想を述べるのが非論理的だ、というのはちょっと間違っている。そもそも論理的というのは文章がつながっている状態を指していて、米国型の文章構造はピラミッドストラクチャーを持つ(ミントのピラミッド原則)。これは科学技術論文で広く採用されている方法だ。ちなみに日本風、フランス風の論理は違うということが示されており、論理的とは単に慣れであり、文化に依存する(*1)。構造さえできてれいば、その内容がお気持ちだろうが、料理の手順だろうが、交渉だろうが、論理的な文章になる。
感想を述べるにしても論理構造を作ることができるし、それを通じて論理的文章を書くことができる。たとえばアメリカの教育で用いられている4square writingは、中央に例えば「おばあちゃんが大好き」と書いて、その理由となる事柄を3つのマス目に書く。「話が面白い」「お菓子をくれる」「においが好き」とか。そして最後のマス目に「だからおばあちゃんが好きです」と結論を書く。話題が一貫しており、列挙された情報に基づいて結論が誘導されており、論理的となる。
これはハンバーガー構造や5段落エッセイとも呼ばれていて、主張、根拠1、根拠2、根拠3、言い換えた結論、という段落構成を学ぶことにステップアップしていく。高校生のころにはこの構造を極めて小論文(エッセイ)を書くのが卒業要件だったりもする。イシューに対する議論だったり、ディベートを通じて強い根拠を上げる訓練をしたり、モノポリーで遊びながら交渉術を学ぶことになる。口述でも文章でも、5段落構造がしっかりと植え付けられる。
なので、大学に入った段階で構造的な文章を書く経験が豊富である。そこで初めて感想(感情)から切り離して情報を伝えるテクニカルライティングによる訓練がはじまる。事実などの根拠の提示、一般常識や前提条件を論拠ととして組み合わせて新たな意見を述べる(トゥールミンモデルなど)、自己批判で主張のリミテーションを掛ける、といった論述の基礎も覚える。
なので感情から切り離すことや事実と意見を分けるというのは、論理的な文章のうち研ぎ澄まされた金字塔ではあるものの、最初から取り組むべき課題ではない。取り組むべきは、話題がつながって構造を作る文章を書くことにある。
最初の話題の読書感想文テンプレも、段落内では「なぜなら」でつながりを持たせてはいるものの、全体をつなぐ構造がないことが問題だと思う。3つの段落の情報がバラバラのままである。そこが問題なのであって、感想文を書くこと自体に問題があるわけではない。論理的な構造を作る訓練になっていないことが心配である。
私は卒論修論博論を指導する立場の人だけど、増田の言う通り悲惨な文章ばかりを目にして実質リライトすることになる。その問題はお気持ち文章だからではなく、論理的な構造がないことに原因があると感じている。といつつ自分は人一倍文章を書くのが苦手で、いまだに多くの本を読んで訓練を続けているし、これまでの指導者に苦労を掛けてきたと思うので、恩返しのつもりで学生さんたちに指導をしているよ。
https://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_01.html
まず「お気持ち表明文」というのは「数値的な議論や論理的な議論展開を期待しているにもかかわらず、求めていない意見や感想を述べてしまうレポートや論文」という意味で良い?
そういう意味なら、適切な(?) 国語教育のおかげなんじゃないかと思う。
例えば最近の新卒とか大学生が小学校低学年だった時の学習指導要領である平成20年の「国語科の教科の目標」は下記の通り記載がある。
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。
これだけ見ると立派なんだけど、日本の国語は道徳教育という絶対に外せない存在があって、学習指導要領の一番下にこんなことが書いてあるんだよね。
道徳との関連についての事項
国語による表現力と理解力を育成するとともに,人間と人間との関係の中で,互い
の立場や考えを尊重しながら言葉で伝え合う力を高めることは,学校の教育活動全体
で道徳教育を進めていく上で,基盤となるものである。また,思考力や想像力及び言
語感覚を養うことは,道徳的心情や道徳的判断力を養う基本になる。さらに,国語を
尊重する態度を育てることは,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国
なお,3(2)には,教材選定の観点として,道徳性の育成に資する項目を国語科の
特質に応じて示している。
そして3(2) で説明される望ましい教材の観点っていうのは下記。
ア 国語に対する関心を高め,国語を尊重する態度を育てるのに役立つこと。
イ 伝え合う力,思考力や想像力及び言語感覚を養うのに役立つこと。
ウ 公正かつ適切に判断する能力や態度を育てるのに役立つこと。
エ 科学的,論理的な見方や考え方をする態度を育て,視野を広げるのに役立
つこと。
オ 生活を明るくし,強く正しく生きる意志を育てるのに役立つこと。
キ 自然を愛し,美しいものに感動する心を育てるのに役立つこと。
ク 我が国の伝統と文化に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと。
ケ 日本人としての自覚をもって国を愛し,国家,社会の発展を願う態度を育
てるのに役立つこと。
一般的な生徒がこの学習目標を達成したかはさておき、この教材選定軸から選ばれたものは必然的に道徳の教材みたいになるんだよね。
そんでもって日本における「道徳」といえば儒教で、そして儒教的な考えってのは「年長者の考えが常に正しく、それに対して同意する」という日本人そのものみたいな考えじゃん?
変な話かもしれないけど、日本において国語教育において自由な議論とか自由な感想とかっていうのは存在しない。だって先生が常に正しいし、先生が気に入る提出物が評価されるし。学校教育において生徒の生殺与奪の権利を与えられてるのは担任教師でしょ?
お気持ち表明文はロジカルじゃないという言い方だけど、この学習指導要領の下なら、お気持ち表明文は十分ロジカルじゃない? だってそれ以外の答えは絶対に正解にならないように教材が選定されるんだから、理論的な正しさを議論するよりもさっさと媚びへつらう方が点数が高いに決まってる。おまけに中学とかは内申点がついてまわってくるから、もっと媚びへつらった答えを書く圧力がついてまわる。
テンプレを教えるのは良いが、そのテンプレがゴミだと害悪でしかない。正直、小学校の先生にロジカルな文書作成が出来るのか疑っている部分があるが、出来るというのであればそれをきちんと教えてほしい。
個人的に教師に教える能力が無いと疑ってるのは同意だけど、仮にロジカルな文書作成方法を教えたとして、生徒がロジカルな答えを書いてくるかは疑わしい。ディベートだってなんだって、年長者が知っていて、かつ正しい答えがない限り日本の授業では議論の対象にならなさそうだから。
それにディベートやロジカルなトピックを学習要領に入れたところで即座に「ロジカルで教師の受けがいい答案例」と銘打った教材が出回るのがオチじゃないかな。生徒はそれを読んで回答を書き、教師もそれを読んで回答を採点するみたいな…
こういうの俺も昔はディベート教育の乏しさのせいかなと考えてたけどよく考えたらディベートの授業自体個人の能力差が出まくってたから生まれつきの知能な気がしてるわ最近
どうやら、自分にとっては、
考えること=話すこと=口を動かすこと
頭の中で考えている時も自分の声が響いているか、自分の姿を形作って話させることで物理的な口を置き換えているみたい。
そして、人の話を聞く=他人に成り代わって話す
だから、聞いている時には話せない=考えられない
対話やディベートで深い思考に潜れないと思っていたら、口は一つで、頭の中であっても複数の口を持つことはできないらしい。
人の話を聞いてそれに合わせて話そうとしても、まとまった時には先のことを話しているから、それを成り代わって話す。だから、ずれが生じてしまう。
対話について質問を求められても、他人に成り代わった状態から、自身が話すモードに切り替えて、自身でまた話して考える過程をとらなければならないから、質問を考えるのに時間がかかるらしい。
こんなことを言っても他の人には?と思われると思う。
自身が考えている姿を、メタ的に外側から見て観察してみたことがある人はたぶんごく少数だろう。さらに、人ごとに考えている時の方法が違うのだと推測される。そして、それを疑ったこともない。
自分にとって今やっているように、文字に起こすということは、話していることと同義であり、話したことを刻みつけることであるようだ。だから、書いている時や頭で考えている時によく、言い間違えを起こす。
他の人の話を断片的に書き起こすのが得意なのは、相手に成り代わって話していることを、書き起こしているからだと思う。
文章であっても、書き起こしてすぐのものは、遠回りな文章になっていると思う。
自分の場合は体への結びつきが強いから、そういうふうになってるとも解釈できる。
こういう捉え方をすると、コミュニケーションがとりにくいことに、説明がつく。
例えば佐藤かよが同じ職場で働いてたとして、佐藤かよが女性用トイレ使っても何も思わんわ
多分他の今回の判決に懸念や批判を表明している人も、今回の裁判の事例は問題ありとしながらも、各々問題ないと思う「個別事例」はあるんじゃないかな
でも「個別事例」を引き合いに出して法律や司法判断を語っちゃうと、
・「刀を骨董品の様に愛でている人もいるから、刀の携帯を取り締まる銃刀法に反対! 銃刀法に賛成してる人は刀愛好家差別主義者!」
・「大麻中毒にならない人もいるから、大麻解禁に賛成! 大麻合法化に反対する人は実際の大麻愛好家に会ったことがないから怖いイメージを持ってるだけ!」
・「四つん這いで女子高生のスカートを除いた人が、責任能力なしとして無罪になった。私は仕事上重度の精神障害者と関わるが、実際に彼らがセクハラをしてしまうケースを見たことがある! だからこの判決を批判する人は精神障害への理解を深めるべき!」
今回の判決の批判派はお気持ちディベートをしたいんじゃなくて、判決が今後の刑事事件判決や法改正、犯罪に与える影響について議論したいんだよ
今までは戸籍が男性の場合、建物の管理者の意に反して正当な理由なく故意に女性用トイレに入ると建造物侵入罪に問われる可能性があった
しかし今回の判決では、戸籍が男性でも性同一性障害の診断を受け女性ホルモンの投与を受けている場合は、女性用トイレへの立ち入りを制限するのは違法という判断となった
ここから「建物の管理者はどこまで自由にルールを作っていいのか」と「どこからを正当な理由とするか」という論点が導き出せる
今回の判決の「建物の管理者はどこまで自由にルールを作っていいのか」に対する答えは、「戸籍の性別に基づきルールを作る自由は認めない」というものだ
「どこからを正当な理由とするか」に対する答えは、「戸籍の性別が男性のままでも、診断を受けホルモン治療しているならその事実が正当な理由となる」というもの
批判派はこの「正当な理由」が恣意的に解釈されることを懸念している
「戸籍が男性なら正当な理由になりません」ならハッキリした基準で運用できるけど、
「戸籍が男性?う〜ん、でもこの感じなら別に問題なくない?笑」なら、
ならホルモン治療なしで診断受けてたらどうなるの?ホルモン治療なしで診断受けてなくても数年トランスジェンダーとして職場にいたら?手術もホルモン治療も診断も数年間の活動実績もなかったら?と、
「どこまでを正当な理由(正当なトランスジェンダー)とするのか」の疑問が湧くし、
今までは男が女性用トイレに隠しカメラ付けようとした場合未遂でも建造物侵入罪で逮捕できたが、今回の判決によりその男が女装していたら建造物侵入罪でもしょっぴけなくなる可能性がある
そうなると犯罪者側の犯罪のハードルは格段に下がるので性犯罪は増えるわな
また、卵が先か鶏が先かという話になるが、この判決が性別変更要件の法改正の後押しになる可能性もある
このような判決に対するシステム面からの批判に個別事例で反論するのは、
全ての業務を紙とペンでこなし長時間残業が蔓延る会社でシステムがおかしいんじゃ?と意義を唱える社員に「でも紙とペンだけでも効率的に働いて残業してない人もいるから!」と一部の都合の良いサンプルだけを取り出し反論するぐらいおかしい
特に法律は社会の仕組みに関わる部分なので、こういうn=1で反論してくる奴は、そもそも議論をさせたくないんだなというのが透けて見えるので全く信用できない