はてなキーワード: 考える力とは
私はデータ分析が好きで長年個人で学んでいる。講師を依頼されることがある。
いろいろな会社や学校でデータ分析の講義をする機会をいただく。
「おむつを買った人はビールも買う」という有名な例えを出したとき、
以前は次のように考える人が多かった。
「赤ちゃんがいる人は外で飲めないし、自宅でビールを飲むのかな」
「赤ちゃんがいるのにお酒を飲むということは育児ストレスの発散かな」
「二つの売り場を近づけようかな。」
「少し高いビールを置いてみようかな」
「おむつ購入者にストレス発散グッズのメールマガジンを出してみようかな」
と考えるのが普通だと思っていた。
最近なんだか傾向が変わってきた。
同じ質問をすると、
「最近ビール飲む人減ってますよね」=単語から連想したことを言う人
「ビール買った人は何でおむつを買うんですか?」=読解力がない人
「なんでなんですか?」=想像しない人、
「それで?」=想像できない人
「育児しながらお酒を飲むんですか?モラル低すぎじゃないですか」=ポリコレ
「で、なにしたら儲かるか言えよ。高い講師代払ってんだよ」=それを考える力を身に着ける講座だよ
「ディープラーニングをしたらすごい答えがわかるんですよね」=夢見がち
こんな感じで変なことを言う人が増えた気がする。
特に単語に引っ張られて自分の思い出や勝手な主張を始める人が多い。
だいたい周りの人が諫めたり、笑いに変えてくれたりするんだけど、
本人たちはいたって真面目なのことに驚かされる。
いったいどのような痛みを伴うのか、それともなんの痛みを感じないで死ねるのか。
そして、意識がなくなるその直前はどんな感じなのかなどを考えると恐ろしい。
死ぬのは怖くないやら、人は皆死ぬから仕方ないと達観したような事を言っている人は死について深く考えていないと思える。
自分がもし明日死ぬと知って、意識のなくなるその直前までを考えてみたらどうだろう。
本当に怖くないだろうか。
あれを望んで恐怖を感じないまま死ぬ事ができるのであれば、それは違った意味ですごい勇気だと思える。
自身にとってこの死について学べたのは、健康な内に死について考えてしまうと恐怖しか訪れない事だった。
今もまだ震えている。
RADWIMPSが好きだ。
2年に一度ライブに行く程度だし、曲も全て知ってるとはいえない。
CDも気が向いたときや好きな曲、アルバムくらいしか買わない。
だけどなんだかんだもう、10年以上もずっと聴いているし、自分の中で好きな邦楽ベスト10のうち4つくらいはRADWIMPSの曲がランクインする。
洋次郎の言葉は10代のころの私を形作ってくれたと思うし、今でもそう思っている。
たとえどんな変な曲を出しても、やっぱりRADWIMPSと洋次郎の紡ぎ出す言葉の世界が大好きだから、最終的には曲も好きになる。
最近あんまり音楽そのものを聴かなくなっていたので、情報も集めていなかった。
ツイッターのTL上でRADWIMPSの新曲について触れているRTが回ってきて、どうやらRADWIMPSの新譜のカップリング曲が物議を醸しているらしいということを知った。
2016年に前々前世が映画のタイアップとして大ヒットになって(個人的には映画自体が壮大なRADWIMPSのMVだと思ったが)、それ以前より多くの人がRADWIMPSについて興味を抱き、好きになった。
もちろん冒頭に述べた通り、RADWIMPSは一見(一聴)しただけでは分かりづらい曲も多いし、取っつきにくいやばい曲も存在する(五月の蝿とか笑)
だけどどうやら今回話題になっている曲は、ちょっと今までのソレとは毛色が違うらしい。
正直に言います。
私はこの曲を許せません。嫌いです。
きっと一生好きになることはありません。
リリース当日に洋次郎が発言した、まっすぐに届きますようにっていう発言。
違うんじゃないの?って思って、悲しいやら腹立たしいやら悔しいやらで涙が溢れた。
何回も何回も歌詞を読んで、洋次郎の言葉を咀嚼したけど、どうしても私には理解できない。
今までの洋次郎の言葉を考えてみても、この曲だけは、全然かけらも理解できないしいいとも感じられない。
もちろんこの曲をいい曲だ、好きだと言っている人もいるし、その人たちを否定する気はない。
だけど、この時機で、この言葉で、この曲を書いてほしくなかったしリリースをしてほしくなかった。
ファンの色目もあるかもしれないが、RADWIMPSは今やほとんどの中高生が知っているバンドだし、好きなバンドのひとつだと思う。
その、影響力を、インフルエンサーとしての自覚を、洋次郎はきっと望んでないかもしれないけれども、リリースする前に持ってほしかったし、周りもちゃんと考えてほしかった。
もちろん、愛国心はいけないものではないけれど、盲目な愛国心ほど危険なものはない。
たった半世紀の間に二度もだ。
そのあとはイデオロギー、主義主張をめぐってあわや地球の危機にまで陥った。
そして翻って、今の日本の子どもたちに、盲目的にならないくらいの考える力はあるのか?
過去に日本が行ったことに対して、単なる受験に必要な暗記事項としてではなく、世界を構成してきた歴史として考える力が、果たしてどれくらいあるのか?
大人やメディアやSNSの言ったことを鵜呑みにしない思考力があるのか?
(もちろんこれは大人にも言えることだが、RADWIMPSの影響力や、people who live in Japan の将来のことを考えた場合に子どもとしている)
たかが歌詞ごときで、カップリングの曲ごときでと笑う人もいるだろう。
だけどそれは、過去に学ばない理由にはならない。正当化する理由にもならない。
特に今のご時勢、世界のどこもきな臭くて、戦争する理由を探している人が一定数いる。
謝罪してほしいわけじゃない。
撤回してほしいわけじゃない。
ただ、RADWIMPSにも、洋次郎にも、そして一番はファンにも、その言葉の持つ辞書的なもの以外の意味を、もう一度考えてほしい。
どうも長くなってすみませんでした。
仕事柄、勉強の苦手な中学生を指導することが多いのですが、極一部に「惨憺たる」としか表現できない生徒が居ます。
具体的には
「秩序」が読めない。
「understand」の意味を知らない。
といった生徒です。
そのような生徒たちには、3つの共通点がある事が分かりました。
(全ての人間が学力を要する職に就く訳ではなく、現代社会にそのような職は必要不可欠である。)
といった事実を踏まえてもなお、進路を実現するためには学力を要します。
この事に類似した事実を、彼らは教えられていません。彼らは受験に際し、初めてこの事実に触れるのです。
②楽しめる活動がない。
部活動、学校行事、読書やイラスト、ドラマやアニメの視聴など、何か一つでも楽しいと思える活動があれば、それをストレスの発散や、人との交流に使うことが出来ます。
③基礎知力が足りない。
自習して学力が伸びるためには、最低限の考える力や知的好奇心が必要です。
それは、オセロやすごろくなどのボードゲームや、しりとりや駄洒落などの言葉遊びで培うことができる程度の物です。
それさえあれば、日常生活から語彙や知識を増やすことができます。
以上を満たした生徒は、急に勉強を強要され、分からないことを教えられ続け劣等感や反感を抱き、それを解消できない。
といった状況に陥ります。
①から③の共通点は、幼少期に親子で会話をしたり、音楽が好きそうであれば楽器を習わせたり、一緒に遊んだりする事で回避できるはずです。
最も劣悪な場合は、親がそれらの事をしておらず、子供の学力は学校や塾の責任と捉えている場合です。
その場合、親の勉強に対する態度により、子供が社会的にも精神的にも不利益を被ることになります。
これは最早「知的ネグレクト」と言う形で捉えるべきではないでしょうか。
誰だっていいところと悪いところがある
はてなにはそういう方が多い、よ!!
で、どうすればいいのか、という話ですが
4C分析
Customer value Cost Convenience Communication
これらを上手に使いこなせば、うまく人生生きていける、よ!!
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」
とある。
おや、今まで幾度となく本を買いだめ、積読、積読、で知識の肥溜めを豊かにしてきたつもりが、
セネカ『人生の短さについて』に並ぶ、警句が光る本を見つけられた。
一方、読書の巨人、知の巨人の松岡正剛さんは読書をとかく推奨している。
ただ、ショウペンハウエルの主張と相容れないものではなく、いかに鋭く独自の読みをしていくのかが重要と説いている。
ただただ同化し、筆者の主張が脳内にこだまする構造は悪である。
Gabege In, Gabage Outという言葉がある。 何でもそうだけれど、たとえ考える力があっても、考えるための「最低限の知識」がなければ頓珍漢なことを言うものだ。
しかし、ちゃんと大学で卒論に取り組んだ人であれば、自分の考えを仮説としていったん保留し、それが正しいか検証したり、「そもそも自分にはまだ知識や情報が足りていないのではないか。足りていないとしたらどんな情報か」について考える訓練をすることになる。なので、あまりにも政治信条の話などで無い限りは、頓珍漢なことを言う割合は減ってくる。
しかし、残念ながら大学生がみなそういう訓練を受けているわけではなく、文系のいくつかの学部ではそもそも卒論がなかったりする。東大や一橋ですら卒論課題はない。基本的に「文系の学部卒」の人は、そういう訓練をしないまま卒業出来てしまう人が多い。まして、言い方は悪いが偏差値の低い大学を卒業している人は、自力で頑張った人以外は「そもそも思考の訓練を受けていない」として扱うべきなのではないか。
企業の採用活動って、営業職でもない限り、まずは学歴そのものを問うより、卒論に関する教授の評価を聞いたほうが早いと思うんだよね……。というより、それが学歴だと思う。東大の法学部卒より、MARCHの院卒のほうが偉い、となってないのは大量一括採用の名残とリクナビの都合による不合理な慣習でしかないと思う。
研究系企業は当然卒論を参考にするし、制作系やプログラム系も、制作物のPFを提出させるところが多いので必要なところはすでにそうしている。資格職は当然受験者に高いハードルを求める。コミュニケーション能力という意味でも、電通や総合商社などは「推薦」という名の成果物が前提にある。
基本的に、そういう「成果物」の存在を前提としない方向性で採用されない人間というのは、その時点で、たとえ東大卒であろうが「学歴」という意味では劣っているいると受け止めるべきだろう。 ネットでは就活の面接対策などの話が語られるが、「面接」をしている時点ですでにスタート地点で遅れている。それでもポテンシャルが高い人間はそこで一発逆転できるチャンスがあるのだから、能力の有る人間には良い制度だろうが、いつまで経っても採用の仕組みが改善されないのは「本命ではない、数合わせを採用するための仕組み」に過ぎないからであろう。
企業からすれば、「本当にポテンシャルが高い人間はこの仕組で十分一発でわかる」し、それ以外の人間は当たりであろうが外れであろうが構わない。大企業であれば有るほど、今の仕組みで優秀な人材が必要な数採用できる限りは、コスト的には高いがリクナビなどに負担させているリスクを今更背負って新しい仕組みを目指すインセンティブがない。
かくして、今日も「不合理」でありながらも「十分に効率的」な制度がゾンビのように続き、文系大学生は、思考こそが武器なはずなのにまともな思考力すら教育されないまま大学を卒業していくのである。
と、ここまで書いたけどフランス文学については素晴らしい発言をされる優れた知性を持っているはずの内田樹さんや、政治や経済といった門外漢のことについては頓珍漢なことをいう。物理学については素晴らしい知見をお持ちのキクチマコトさんもご覧の有様なので、卒論でちゃんと考えがつくというのはただの妄想かもしれない。
40に差し掛かってきて、記憶力や考える力がとみに落ちてきていると感じる。何とかしよう、と思ったという話
最近、仕事でとっさに何か話題をふられても、「あのアレ」てな感じでぼんやりした言葉しか出てこなくて、若手のキビキビして的確な言葉や意見にたじろぐばかり。
でも若手の言っていることややろうとすることが何だか拙速な感じもする、でもそれがうまくその場で伝えられない。
あれ、自分は元々こんなに知識が半端で、意見が言えない人だったっけ、とふと思った。
そこで本や資料を読んでみた。
が、いくら資料や本をよんでも、水で紙を張り付けるように、時間が経つと知識は剥がれ落ちていく。意見はもちろん、まとまらない。
「ああ、若くないのかな」
と、思った。
翻って似たような年の同僚を見る。
彼は、別にものすごく賢い訳ではない。でも、同じような仕事をしていたのにふと気づくと「あれこいつこんなに詳しかったっけ」と、思わせる時がある。
何が違うのか。
彼は、いろんなものによく飛び付く。飛び付くだけでなく、すごく知ったかぶる。
人から聞いた話を、さも自分が考えついたかのように話す。つつくとすぐボロが出るので、「知ったかカッコ悪い」
と、どこかで思っていたが、自分との差はそこなんだと思う。
読んで聞いて手に入れた知識を、そのまま定着させるには、自分はもう年を取りすぎた。
大学を出てもう15年くらいになるが、あんまり自分のインプットした知識や意見を、文章や口頭で発表することがなかった。
仕事をするにしてもテンプレや先行事例に頼りすぎていた感がある。安楽さに走って意見のやり取りを避けていたこともある。
若い頃とは違い、手に入れた知識は間違っていようが積極的に使って咀嚼していくしか定着の道はないのだろう。
知ったか上等。年を取った分、面の皮も厚くなったことだし、アウトプットを頑張って、せっかくのインプットを台無しにしないようにしよう。
最近になって働き方改革とかセクハラとか昭和の時代から引きずってきた慣習が変わっていこうとしている。それって、さんざん馬鹿にしてきたゆとり世代が社会に進出したあたりからだと思っている。年々学生の学力が低下しているのは否定しないが、根性論で物事をすすめようとする考え方を一掃するにはカリキュラムを削りに削るのは必要だったのではないか。
それにもかかわらず、プログラミングや道徳の教科化などどんどん教える教科を増やそうとしている。文科省は考える力を養うことや新しい時代に対応するためという理由にしているが、考える力を養う点は今までの主要5教科で十分対応できる。今まで天下り的に教えることをやめればいいだけであって、別に教科を増やす必要はない。考える力をつけるためには考えるための時間が必要である。別に余計な知識を増やす必要はない。
コンピュータリテラシーについては教育すべきだと思っている。約3割の小学生は自分のスマートフォンを持っているという。いくらフィルタリングを掛けていても自分のスマートフォンから発信する方法は規制されていない。学校裏サイトや掲示板といった独自の文化を持った閉じたインターネットでは無くなった。YoutubeやTwitterにはいまや小学生でも投稿できる時代だ。気軽にTwitterにアップした画像が実は位置情報付きだった可能性があると知っている小学生はどれぐらいいるのだろうか。
新元号に変わろうとしているが昭和の時代に逆戻りしているように感じている。詰め込み教育の成れの果ては、ただ知識を暗記するだけが勉強だと勘違いすることだ。それと同じことを次世代の子供達におこなおうとしているのではないか。時間が足りず、義務教育の現場では夏休みや土曜日に授業をしているところもあると聞く。限られた時間で教えるには何を教えるかを考えなくてはならない。むやみに増やしてもコンピュータのストレージのように知識を吸収できる人間はわずかしかいない。そういう意味では、何を絞って教えようとしたゆとり教育は少なくとも失敗ではないと思っている。
俺は自他ともに認める「鬼の上司」だ。
ちなみにアラフォー独身の氷河期世代で、「鬼が人を育てる」がモットー。
実際、一度谷に突き落として這い上がってきた奴は、皆文句ない仕事ぶりだ。
ほぼ全員、日付が変わるまでオフィスに詰めて、土日のどちらかは必ず出勤。
GWも、リーダーの俺か率先して1日しか休まないと決めていて、部下もそれに倣わせている。
「あそこの部署はいつも最後まで皆いる」「土日も必ずいる」のが定番になって久しい。だがそれがいい。
ミーティングも可能な限り効率を求め、曖昧な返答や詰めの甘い返答は一切許さない。
必ず目標を決めさせるし、決めた目標が達成できない時は「それは確かに無理」とこちらが納得する理由を挙げさせてからリスケを考えさせる。
そう、考える力を養って欲しいのだ。
タバコやトイレ休憩に逃げる奴については本人不在時を狙って「あいつ遅くね?」とその部屋の全員に問いかけ、引き締めを図っている。
とはいえ厳しいだけじゃなく、部門内メールでは親しみを込めてニックネームを宛名にしているし、メッセンジャーは俺の名字から連想した、敢えて恥ずかしい自称を付けちゃってる。例えば増田だったら「マスカキ」みたいな。
厳しく言った後は、可能な限りマイルドかつにこやかに「ま、そうは言ってもキツイよね」とフォローも忘れない。
これは俺の「引き受けた仕事は、完遂するその日まで、死に物狂いでしがみつく」という超強気のスタンスに課長が惚れ込んだからに他ならない。
そんな俺もジョークのセンスだけはイマイチで、何か気を利かせた洒落を言ったつもりでも、皆全然笑わない。悔しい(笑)
まあでもオヤジがオヤジギャグを言うのはごく普通のことなので、文句は言わせないけど。
ほぼ全員既婚で子持ちもいるのだが、「今度の休日は家庭の用事がある」と言っては土日目一杯休み、夏休みは夏休みで一週間以上平気で取りやがる。
お前ら、男のくせに仕事で評価されなかったら立場ないだろ。クビになって野垂れ死んでも知らねーぞ。
てか、奥さんいるんだったら家のことは任せりゃいいじゃんか。
しかも奴らは仕事に宿題が残っていても、休みの予定は絶対に変えない。仕事舐めてる?って感じ。
てか、婚活してもなかなか相手が見つからない俺への、当てつけの如きやり口で、とてつもなく不愉快。
しかも、コイツらはテメーのことを棚に上げて、幹部会議では俺の部門の進捗遅れに必ずツッコんでくる。
そうなると反射的に腹が立つし、俺が部門の防波堤にならなきゃで、こっちもついつい喧嘩腰で応戦する流れになってしまう。
「遅れが分かってんなら少しはこっちを手伝えよ、お前んとこは部下まで揃いも揃って夜はさっさと帰るし休日はたっぷり休み取るし、こっちがどんだけ必死で頑張ってるのか分かってねえくせしてふざけんじゃねーぞ!!!」
と暴れた所で、上述の課長が「まあ、増田んとこはこれ以上出来ないところまで頑張っているし、常にリーダーとして手は打っているわけだから」と助け舟を出してくれて収まる。
ちなみに一番頑張っているのは課長。
妻子持ちなのに週2~3日しか帰らないのが普通とか、そのバイタリティには男の俺でも惚れる。
他人の仕事の出来にケチ付ける暇があったら、課長の爪の垢でも煎じて飲めって、いつも思う。
そんなわけで、キツい年度末が終わって、俺も少々疲れ気味である。
鬼だからって退治するみたいなスタンスはやめて欲しいわ…と最後に冗談書いてみたけど、これも皆笑わないんだろーな。
泣けるぜ。
うちの職場は、企画部門は正社員で(一人当たりの分量は多いと思う)、事務センターのようなところは正社員2,3名の下に嘱託、派遣、アルバイト等の様々な雇用の人が数十人います。
ある日、嘱託(50代女性)が顧客リストのエクセルを見ながら、「印刷できない!」と別の席にいる私(正社員)に聞こえる程度の声で言っていました。
近づいてみると、数千人が掲載されているリストを印刷しようとしたところ、印刷設定が自分で出来ないために、細い線になったリストしか印刷できないとのことでした。
私「印刷設定で縦横の縦の枚数を空欄(ブランクと言っても理解してもらえない)にするか、印刷したい枚数に縦を設定すればできますよ」
嘱「どうやってやるんですか!?」
私「印刷画面で選んでいけばいいんですよ」
と、その女性は終始、リストを作った私に不満を言っていました。
なお、その女性の両隣の嘱託社員は、その不満を聞いて唖然。(ほかの人も50代、60代)
ちなみに、その人は教えてもメモを取りません。
嘱「私さんだからできる」
と言い放ちます。
私は入社以来、新しい部署に行くごとに最初の1年はメモを取っており、それを見せながら、
私「私は何度も同じことを聞くことは失礼だと目上の人に習いました。メモを取り、そのメモを見てもどうしてもわからないときだけ聞いています。
もし聞くことになったとしても、メモを読むことで不明な点も明確に出来るので、相手の時間を奪う時間も少なくて済みます」
嘱「そのメモを配布してほしい」
と言ってきたのです。
(なお、私は業務自体のマニュアルは、着任前には無かったので、すぐに着手して嘱託社員全員に配布し、業務時間中に勉強会まで行っています。)
うまく伝わらないかもしれませんが、消費者目線というか、自分がしたいように出来ない時に、すぐに外部(他者)へ不満や要求にしてしまうのに、年齢は関係ないのだなと思いました。
物事を考えたり、実行する前にロジックやフローチャート、パターン化などを考える力や、よく言われる問題解決能力、想像力(仮説力?)は、世代とか年齢ではなく、その人が勉強や仕事だけでなく、どんな人生(生活)を送ってきたのかが影響するのかもなと思った瞬間でした。
猪突猛進。いや、猪突盲進。いやいや、猪突盲信。
もう無条件で信じ込む様の滑稽なこと滑稽なこと。
あの汚職の数々を目の当たりにしてまだ支持率が40%近くあるんだぜ?
判断能力なさすぎて、アメリカで白人として生まれていたら無能ゆえアイデンティティーを示そうと白人至上主義者になっているイメージ。
多分当たってるけど。
増税に次ぐ増税、それでも尚忠実なF欄安倍の犬となるか、ネトウヨよ。
もし日本に法が、倫理が、誇りが、国家としての実質的な機能が残っているのであれば。
でもネトウヨは言うんだ、今安倍が退陣して、誰がなるんだって。野党の誰が可能なんだって。
日本の政界、少なくとも60歳超えた老人に未来を考える力もなければそもそも意思もない。あるのは保身だけだ。
最低でも、これだけ国民の年金が崩壊しかかっているにもかかわらず、議員年金だけ残ってりゃわかるだろ。
日本が世界一政治家をAIに置き換えることに意義があると思う。
政治力なんてそもそもいらないんだよ、必要なのは合理性だけでいい。
以上
91年生まれと言うとゆとり教育の影響を色濃く受けた世代らしい。
テレビでは毎日のようにゆとり世代の出来が悪い、円周率は3!若者の〇〇離れ!とやっていた。
あまり頭の出来は良い方じゃない子供時代だったので、当然周りからはヤンヤヤンヤ言われた。
ムカついたので絶対に良い結果を出すと子供心ながらずっと思っていたし、今のままだと生きていけないかもしれない、っていう危機感は子供の頃からずっと持っていた。要領が悪かったってのもあるだろうが、子供の頃にあんまり遊んだ記憶が無い。
その後一浪こそしたがそれなりに難しいレベルの大学に入り、大学院まで進んだ。
幸いにも大学には真面目な人が比較的多く、毎日しっかり自分の専門を勉強できたように思う。
実習が多い学科だったからというのもあるが、座学中心の学校を出た人よりかは割といろいろ出来るだろうという自負はある。座学の理論をしっかり学んだかといえばまあ、若干怪しいところはあるが...
就活では自分の専門をしっかりと伝えて、それなりの規模の会社のある部署に、今年の4月に新卒としてはおよそ10年ぶりの人材ということで入れた。
ここまではまあ順調だった。
ところが会社に入っていろいろ雲行きが怪しくなってきた。
初対面のおじさんたちから「ゆとり世代だから」という決めつけから全てが始まるのだ。
もちろん「ゆとり世代」という言い回しは、おじさんも気にしているのか今の所聞いた覚えは無い。
ただだれも、今目の前にいる自分よりも若い人間を相手に会話をしてないのだ。
おじさんの頭の中にあるステレオタイプだったり、おじさんの若かりし頃に向けて会話しているのだ。
(あなたたちもやったでしょうって言われても、雀荘で徹マンとかやったこと無いぞ....徹夜で課題ならたくさんしたけど...自己紹介乙です〜って感じ。)
あなたは私の一体何を知っているんだ。
私が25,6年の人生をどう過ごしてきたかなぜ知った気になって語っているんだ。
何をあなたは知ってるんだ。
いつもそう思いながらも適当に相槌を打っていた。
まあおじさんの昔の苦労話を聞くぐらいだったらまだよかった。
が研修が終わって、自分の部署に赴任してからいろいろまずいことが起き始めた。
どんどん自分の考えたことを出してどんどん行動してくれ!と言われて入社したのでまあ自分の考えるようにやっていた。
大学で学んできたように、渡された仕事を効率的に進めていった。
ところがおじさんたちの表情は明らかに嫌がっていた。
新しいことを生み出すんじゃなくて、自分たちの思い出話の方に興味を持っているようだった。
かつての夢の焼き直しみたいなアイデアばっかり見せられた。
答えの無い問題にぶつかった時、それでも手を動かして試して考えてみるってことをおじさんたちは出来なかった。
答えの無い問題を考える能力に関してはゆとり世代のほうがあるように思う。
ただおじさんたちの嫌な顔を見る限りは若いのは黙ってろっていう空気をなんとなく感じてしまう。
まだ心が折れるような状況では無いけど、この先もこのままなのかと考えるとしんどい。
会社の偉い人たちが「どんどん行動してくれ」って言っていたのは、おじさんたちがこうだからなのかもしれない。
が、その会社の偉い人たちと話してても「わけえのは黙ってろ」っていう空気を出しているように感じた。
結局上の世代は私たちにステレオタイプ通りの「ゆとり世代」であって欲しかったんだろうな。
上の世代が逃げ切るまでの間のサンドバックとして存在して欲しかったのだろう。
自分で考えられない、積極性の無い、学の無い自分たちよりもさらに学の無い存在としての「ゆとり世代」であって欲しかったのだろう。
頑張ってもだめ、頑張らなくてもダメ、どうあがいてものけ者扱いされてきた。
いろんなことを我慢して生きるために専門性を身につけてきたはずなのに、なんだこれ。
「昔から若者はそう言われてきた」って言われても、「ゆとり教育を受けてきた」っていう根拠(笑)がおじさんたちの頭の中にある限り、私たちが適切な評価を受けること、適切なコミュニケーションが取れることは無いような気がしてならない。
私はもうダメかもしれない。
最近Twitterの創作界隈で #魔女集会で会いましょう というタグが流行している。やたら流れてくるのでTL上で一度や二度はタグを見たことがある方もいるだろう。
これら#魔女集会で会いましょう タグの付いた作品は、Twitter上で1作品概ね1〜4枚の画像としてアップロードされている。大まかなストーリーは、どの絵師が描いたかに関わらず「魔女が人間の男の子を拾い、育てる。時は流れ、育った男の子は魔女のナイト的な役割を担う」という感じである。
もちろん異なる絵師が各々作品を作っているのだから多少の違いはあるが、大体そんなところである。
これらの作品に対して、わかり手(@anbakurakoya)氏が非常に痛快な批判をしていたのでまずは紹介したい。毒親に育てられた身としては、「ああ、わかり手さんは毒親(母親側)問題について理解があるんだな」ということがよく伝わってくる。しかし、わかり手氏の批判はツイッター界隈の老害化の象徴であるかのようにも見える(これについては後述)
まずはわかり手氏の良さを伝えることからはじめよう
魔女集会タグからダダ漏れてる「彼氏みたいな息子が欲しい♡」という欲望、それリアルでやると毒親まっしぐらコースなんでマジで気をつけてな…。
「彼氏みたいな息子が欲しい」という願望を持つ母親(毒親の一種)が一部にいて、とんでもないことになっているのは経験上よく分かる。また、毒親が自分のキモさについて自覚的でないというのも共感できる。
さらに、下記のように「リアルと創作を区別しろ」と仰っているのも非常に納得が行く。
自己擁護の事例としてはこういうのね。いやその関係性が「幸せ」じゃねぇだろ、リアルでやったら毒親まっしぐらだろって話をしてるんだけど、どうも「虚構と現実の区別」とか言いつつ全く区別がついてないっぽくて怖いんだよね。
リアルと創作というのは別のものであり、明確に区別を付けるべきだという意見は全くその通りだと思う。
で、ここで立ち止まって考えてみよう、 #魔女集会で会いましょう タグとはそもそも一体なんなのか??#魔女集会で会いましょう タグを叩いたり援護したりしている人は当然趣旨をある程度は理解していると推測されるが、念の為確認してみよう。
このタグは九頭さん@coneshait という方が最初に始めたタグで、元ツイは以下のようである。
https://matome.naver.jp/odai/2151839444121733201
#魔女集会で会いましょう このタグで、『魔女が拾った男の子が成長して、魔女よりでかくなって(ごつくてむさくてがっしりしてて)魔女を全力で愛して守る男になる話』の絵を描きますので、誰か描きたい方いらっしゃればこのタグつけて好き勝手に…
ここに絵師が集まって、沢山の作品が投稿された模様である。2日後や3日後の「どんな設定盛っても構わん」という追加の発言もあるものの、多くの創作が1レス目のお題に沿った『魔女が拾った男の子が成長して、魔女よりでかくなって(ごつくてむさくてがっしりしてて)魔女を全力で愛して守る男になる話』というリファレンスに沿った内容となっているようである。
なぜこういったタグが流行るのかと考えると、絵師が「お題」に餓えているか、流行に乗っておいて自分の絵を少しでも見てほしいと思うからなのではないか。
絵を描く力と、ストーリーを考える力というのは全く別物である。一枚絵の画力はあるがストーリーはあんまり思いつかないというような絵師がこういったタグに飛びつくのも合理的だと思う。魔女と青年を絵にしたら映えそうだし。
ではここでわかり手氏の発言の話に戻ると、 #魔女集会で会いましょう タグに群がっている人に「毒親願望」があるのだろうか?これはTwitter上の流れを見た私の推測だが、タグに群がる人々の多くは毒親願望を持っておらず、「魔女とかショタとかのかっこいい絵を描いたり見たりしたかった」という程度の意思しかなかったのだと思う。
ここでもう一度わかり手(@anbakurakoya)氏のツイートを引用する。
魔女集会タグからダダ漏れてる「彼氏みたいな息子が欲しい♡」という欲望、それリアルでやると毒親まっしぐらコースなんでマジで気をつけてな…。
果たして、「魔女集会タグからダダ漏れてる「彼氏みたいな息子が欲しい♡」という欲望」なんてあったんだろうか?お題なんて記号にすぎず、毒親願望なんて多くの人が持ちあわせていなかったところにわかり手氏が「彼氏みたいな息子が欲しい♡という欲望」なるありもしない概念をいきなり持ち込んでしまったのではないかと私は考察する。
同時に、わかり手氏のこのツイートについても的外れであると思う
私がこのツイートを的外れであると思う理由は「ストーリーを考える手間を極力省き、決まったお題で絵を描く遊び」をしているところに「ストーリー考えろ!」と言うのは、ナンセンスだからである。
毒親についてであっても、そうでないことであっても、自分の意見を貫き通せるのは素晴らしいことである。また、経験則から色々なことを語るのは、後の世代にとって有益となる可能性が大いにある。
だがしかし考えてほしい。刑事モノのドラマを見て雑な気持ちで楽しんでいるときに「本物の刑事はこんなんではなくてだな...これは、現実に全く則していなくて...」とやたら絡んでくるオッサンがいたら「老害キモっ」と思わないだろうか?
わかり手氏はまさにその老害の絡み方をしていないだろうか?
Twitterの特性上、TLに流れてくるのは基本的にはフォローしている人達の意見である。しかしフォローしている人の意見なんて小さな部分集合に過ぎない。フォロー外にはフォロー外の世界があり、当然自分より若い人達だっているし、そこにはそこの掟がある。
Twitterのはてな同窓会老人村界隈でゴチャゴチャ言い合ってるのも結構なことだが、所詮は老害化しつつある村であることをそろそろみんな自覚してはどうか。
人間らしく生きるためには、考える力が必要です。そして、考える力を取り戻すためには、「何もしなくて良い時間」を増やす事が必要なのです。子どもたちを成長させる遊びや、人々を感動させる芸術作品などは、「何もしなくて良い時間」から生まれています。
最近は時間の大切さに気付く人も増え、お金よりも時間に価値を感じる人が増えてきました。特にお金がなくて困っている訳でもないのに、無理して働いているという状況に疑問を持ち、進んで仕事を辞めていく人も多いです。いくらお金があったとしても、過労で倒れてしまっては意味がないし、自分の時間がなければ楽しめません。
多くの人は自分の時間を犠牲にして必死に働く事で、収入を得ていています。そのため、時間の大切さを忘れてしまい、いつの間にか年を取っていたり家族と過ごす時間を失ったりするのです。しかし、忙しく働いていると、そんな事を考える余裕すらなくなってしまいます。それはすなわち、人間にとって大切な「考える」という力を仕事に奪われているという事です。実際にブラック企業などは、過酷な労働環境に疑問を持たないように従業員の考える力を失わせる事で成り立っています。
この記事を読んでいるあなたも、きっとお金よりも時間が欲しいと思っている事でしょう。人間は誰もが未熟なんです。弱い人間とか未熟な人間の方が、はるかに膨れ上がる可能性を持っている。熟したものは逆に無抵抗なものなのです。いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きること。それを忘れちゃいけないと思うのです。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきです。それが誇り!死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストを尽くすことです。何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことです。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、委縮せずありのままに生きていけば良いのです。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切です。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。
今さらですが僕たちが生きるこの社会では、お金がなければ生きていくのが不可能です。
お金が無いからと言って、人さまの家に勝手に上がり込んで冷蔵庫を漁ったり、畑から食べ物を盗むわけにはいきませんものね?
自分で稼いだお金で快適な衣食住環境を整え、毎日お金と食べ物を交換し生きていくしかないのです。
要はなんらかの経済活動(仕事)を行わなければお金が手に入らない社会システムの中に生きる限り、お金がなければ生きていくことが不可能なのですね。
ところがいざ社会に溶け込めば会社や従業員同士の競争の縛りから逃れる事が出来ません。
この矛盾が人間らしく生きる活力を奪い、僕らの健全な思考さえも奪います。
しかし上には上がいるもので、時に誰かと自分を比べては落ち込んでしまう。
その意味では競争とは一般人を24時間365日死ぬまで働かせるための罠なのかもしれません。
1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。
1ヶ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみると いいでしょう。
1週間の価値を理解するには、週間新聞の編集者に聞いてみるといいでしょう。
1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。
1分の価値を理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に聞いてみるといいでしょう。
年の瀬にフト疑問に思うことがあったので書いておく。
私の夫と私の友人はすごく似てると思う。
基本ベースがネガティブな私から見たら、どちらも底抜けに楽天家に見える。
羨ましいなーと思ったこともあったけれど彼らに比べて自分が暗い人間だということは特に私はマイナスに感じない。
と言うのが世の中はネガティブよりポジティブが、暗いよりは明るいほうが良いとされがちだけど、ポジティブで明るい人ばかりだったら慎重に警戒する人がいなくなり、めちゃくちゃになるだろうことを彼らに教わったからだと思う。
本当に彼らはめちゃくちゃだ。
いつもなんでも何とかなるとしか思っていない。
よくよく見ていると、確かに何とかなってはいるのだけど、それは彼らの周囲の人間が何とかしているのであって、彼ら自身が何とかしているのではない。
こんな彼らを前にして、無論私は何とかする側の人間だった。
今までも。
そしておそらくこれからも。
鳥頭なの?
なんで何も考えてないの?
自分で何とかできたと思ってるの?
と、思わないではないし、ほら何とかなったじゃんとニコニコしてるのを見ると無性に殴ってやりたくなる時もある。
人生やったもん勝ち。
何も考えてない人間の勝ちだ。
暗さ湿っぽさの一切ない人間にそれを指摘しても無駄なことだと学んだ。
なんだかんだ言いつつ、それに対応出来る自分がわりと好きなことにも気がついた。
ただどうしても納得できないのは、この2人がとても相性が悪いと言うか、お互いにお互いを信用できないと思っている。
凄く良く似ていてよく似た言動をしているのに、本人らは気がつかない。
そして彼らは両者とも霊感がある。
らしい。
らしいと言うのが私には殆ど霊感がないので見えないし、わからない。
けれど、構って欲しいがゆえにそのような嘘をつくタイプではないので、霊かどうかはわからないけど何かはあるのだろうと私は思っている。
なのに、お互いがお互いの霊体験を信じない。
霊体験と言うのも不思議なもので、体験を語れば語るほど嘘くさく聞こえてきてしまうと言う特徴がある。
私のように霊感の少ない人間でも、まあ嘘じゃないんだろうけど、多分霊とかじゃなくて化学的な何かだよくらい思うのに、なぜ霊感のある者同士が否定し合うのだろうか。
本当に不思議でならない。