はてなキーワード: 稽古とは
天然理心流の太い木刀か居合刀で稽古してる奴こそベストだと思う
スポチャンや竹刀振り回すのは技術体系からして軽い棒を振り回す技術でなんかイケてねえなって
軽い棒振り回すなら杖道かカラリパヤットでも習った方がマシやで
そもそも有効打を与えなければポイントにならないのなら鍔迫り合いに持っていって相手の手首掴んで投げてこかして防具の隙間を刺すか鍔迫り合いでかち上げで防具の隙間狙うとか色々あるけど防具の上から打って有効打です!ってアホかと
一寸斬られたらその時点で有効打じゃっつうの
何のために防具付けてるのか?防具の上を撫でて有効打ってアホだろ
仮想敵の警備員や警官はプロテクターや防具つけてんだからそれに対抗するなら防具を切るんじゃなくて隙間を制する稽古した方がよっぽど近代剣術として使えるものになると思うんだがな
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親父・・・俺の親父。教師と剣道一筋の人生を送る。昨年還暦を迎えたため自由な時間ができ、いろいろやっている。剣道が強い。
俺・・・親父の息子。親父のことが苦手。わけあって一年時間ができたため地元に帰省し、いろいろやっている。剣道のセンスは普通になかった。残念。
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GW真っただ中の5月3日。晴天だが風が強く吹いている。雲の動きも速い。時計の針は二時少しを指している。大気が不安定な一日になるそうです、と気象予報士はニュースで述べていた。焼肉を想定している夕方には天気も崩れるだろう。どうせやらないことになると高を括り、曖昧な返事をした後に自室にこもる。
適当に動画を見ているうちに眠っていたらしい。電気がついていない部屋は薄暗い。目をこすって携帯で時間を確認すると、午後5時過ぎ。軽く飯でも食べて筋トレに向かうか、少し寝ぼけながら階段を下る。少し煙臭い。マジか。外に出ると風が少しあるものの、空の青と日の赤さが入り混じる、気持ちのいい夕暮れ時だった。
親父は木炭をくべていた。ちらりと俺に目を向け、すぐに火に目をうつす。俺は観念して焼肉の準備をする。台所には分厚い肉が大量に用意されていた。筋トレ行きたいのに胸焼けしそうだなと思う。野菜は玉ねぎともやしのみ。もやしどうやって焼くんだろう。あと大ぶりのエビ。それらをまとめて庭へ運ぶ。
「父さん、飲み物なんか飲む?」
「いや、いらない」
会話が終わる。適当に飲み物を飲みながら、2人で火を囲む。木炭に火が付くのをじっと待つ。手持ち無沙汰が極まり親父の姿に目を向ける。大学の四年間会わなかっただけで、随分昔とは雰囲気が変わったように思える。
親父、白髪だらけだけど案外髪の毛は残ってるんだな。猫背なのは相変わらず。案外身長低いんだよな。そういえば結構やせたよな。高校の時は全然俺より大きかったのにな。いつから俺のほうが身体大きくなったんだろう。色々、想う。けど言葉には出さない。言葉が心の中で反響し、消えていく。
BBQってこんなに会話が無いもんだっけ?と自嘲気味に笑う。正直気まずい。そもそも親父とあんま面と向かって会話したことなかったな。子どもの時の思い出を振り返る。
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とにかく厳しい人だった。高校で指導教員として、入学したての浮ついた学生を「君たちはもう子供じゃない」とか言って震え上がらせるタイプの人。夏休み前の全校集会で薬物の危険性とかを語る人。お前の父ちゃんって武士みたいだよなとか言われる人。
「子供を預かる教師として、自分の子どもがだらしなかったら生徒の親に顔向けができない」という信念を抱いていたため、自分の子どもに厳しいのは大変理にかなっていた。
小学校の俺はいつもおばあちゃんが作った野菜炒めを残していた。これでもかというくらい大きいぶなしめじが大量に入り、ピーマンを筆頭ににんじんやら白菜やらパプリカやら、とにかく子供が嫌いがちな野菜一色で作られていた。当然、食べることができない。
豆電球の下で親父が無言で腕を組んでこっちを見ている。食べきるまで席を立つことは許されない。泣きながらきのこを咀嚼せず飲み込む。きのこを食べているという事実だけで吐きそうになる。嗚咽が止まらない。思わずもどしてしまう。
「洗って食え」
絶望する。台所に向かい、泣きながらきのこを洗う。親父はじっとこっちを見ている。それが怖くてもう一度、泣く。
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まじで怖かったなあ。当時を思い出して苦笑する。今でこそ面と向かって食事を一緒に囲めるけど、俺が高校生になるまで食事の時間は緊張しっぱなしだった。食事中のテレビは厳禁だったから、もう黙々とご飯を食べるほかなかった。ご飯を速く食べる癖は案外ここから来ているのかもしれないな、と気付く。
親父はずっと剣道をしているせいかとにかく体がでかくて、何をしても抵抗できない雰囲気を身にまとっていた。よく食べ、よく呑み、よく眠る。毎晩22時前には寝て、朝は5時に起きる。町内を何キロも走って、庭で素振りをする。当時50歳過ぎでそれだもん、中坊のガキが勝てるわけねえよな。
でも、高校生になって直後くらいに親父に反旗を翻したことがある。コテンパンにやられたわけなんだけど。今思うとだいぶささやかだけど、でも当時16の俺にとっては十分すぎる抵抗だった。
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高校生くらいの時に「親父」とか「おふくろ」って呼び方にあこがれる時期あるよね。もれなく俺もそうだった。高校生になり、「父さん」「母さん」呼びは少し恥ずかしいと感じるようになった。同級生が「親父がさ~」と喋るのを羨ましく思ったし、なんだかイケてるようにさえ感じた。
思うに「親父」という言葉には、青年期を迎える僕たちにとっていつまでも親の庇護下ではない、甘えていた関係から自立した存在になる、みたいな印象があった。言い方自体はぶっきらぼうに聞こえるけど、青年期に正しい親子らしい関係性を、親に対して人間としての尊敬を含んだ、そんな印象を「親父」という言葉に抱いていた。
高校生になって数か月たったある日、夜22時を大幅に超えて帰宅してしまった。明確に門限というのは定まっていなかったが、遅くても21時台に帰宅することが暗黙の了解としてあった。仲の良かった先輩が、「もう高校生だぞ?少しくらい大丈夫だって。」というのを真に受けてしまった。
事実、周りの友達や先輩は門限なんて存在しないどころか、よく互いの家に泊まり合っていた。「今日お前ん家泊まるわ」とか「今日疲れたし、このまま朝までいていい?」とか、そんなことがうちは許されるわけがない。もし泊まるにしても、数週間前には事前に泊まるという報告をし、親から親に連絡を行い、「泊まりに行ってきます」の掛け声とともに家をでなければならない。
そんなのおかしい、俺だってもっともっと友達と遊んでいたい。そうした思いが積もり積もって、禁忌「門限破り」を犯す。
先ほどまでの気の大きさはなんのその、家に着いたころにはビビりまくっていた。しかし家の中の電気が付いていたのもあってか、もう高校生だし大丈夫か、と妙に安心する。ドアを開けようとする。鍵が閉まっていて開かない。庭に回る。リビングにいた妹に開けるように頼む。すると妹が「お兄ちゃん帰ってきたよ」と大きな影に向かって言った。
いつもだったら21時過ぎに寝ている父さんが起きていた。どすどすどすと大きな足音を立て玄関に向かう。俺は庭で恐怖に震えていた。
「何時だと思ってるんだぁぁぁぁぁ」
ドアを開けるとともに区域全体、少なくとも両隣三軒には響くくらいの声で突進してきた。そのままの勢いで俺を思い切りぶん殴る。庭にたたきつけられる俺。その上に馬乗りになって殴り続ける。
「どんだけっ!心配したとっ!思ってるんだっ!」
単語の区切り、呼吸の合間に殴ってくる。俺はどっかのボクサーばりに顔面を守ることしか出来なかった。躾の一環として色々殴られたことはあった。でもまるで昭和の家族ドラマみたいに殴られたことはなかった。俺は怖くて少し泣きながら、これから親父と呼ぼう、となぜか思った。
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この反抗?を経て、面と向かって「親父」とはさすがに言えないけど、俺も友達の前では「親父」呼びをするようになった。すると少しずつ親への恐怖感みたいのは薄れていった。家で極力顔を合わせないようにした。塾に通い、意図的に家に遅く帰るようになった。「塾で勉強してるし、遅くなっちゃうのはしょうがないよね」みたいな。すると自然と会話が無くなる。そもそものコミュニケーション自体が無いため、ごく自然な流れでそうなった。
もちろん色々お世話になった。高校最後の大会の前は、親父直々に稽古をつけてくれた。ライバル校の先生である親父が、ライバル校の生徒である俺を教えることはどうなんだとは思うけど、とにかくお世話になったのは事実だ。結果東北大会に出場できた。ポンコツ剣道野郎にとっては十分すぎる結果だ。
俺もさすがに知ってる。親父が不器用だってことは。俺ももちろん不器用だけど、俺も親父も素直に想いを伝えられない。家では全く会話のない俺たちも、どっちも家以外ではお喋りなのが笑っちゃうよな。
大学の同期が実家に泊まりに来てビックリしてた。「お前マジで親の前では性格変わっておとなしいよな」って。母親もよく言う。「父さんはほんとはお喋り好きで、飲み会ではみんなを盛り上げてるんだからね」って。
親父は俺に対して、何かを介さないとコミュニケーションを取れない。
俺も親父に対して、素直に想いをぶちまけることができない。
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俺もう成長期じゃないし、こんなに肉食えないよ。しかもこれから筋トレ行きたいし、あんま胃がもたれるようなの食いたくないんだよね。親父も連日肉ばっか食ってない?もう年なんだしお酒も控えて、少しは健康を意識してくれよな。
ちょっと暗くなってきたね。電気つけよっか。目が悪いっぽいね。そういえば車運転するときもっと気を付けて。車間距離近すぎ、あとよそ見しすぎ。前の車が急ブレーキしても止まれるくらいじゃないとだめだよ。
これ肉焦げてない?いいよ俺食うよ。マジで美味しいよ、親父ありがとう。
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「旨いか?」
「うん」
友人に会い稽古をした
コロナの宣言等で最近稽古が出来ていなかったので良い運動となった
出掛ける前は面倒だし中止してもらおうかと考えたが土壇場過ぎたので諦めて出掛けた
稽古すればそれまで憂鬱だった気持ちもどこかへ行きアクティブな気持ちへとかわったのでやはり運動するのはいい
2年前もそれを話していたしこれも夢物語になるのだろうと思い、カメラの購入、アカウントの有無、動画制作工程を確認していく
分かったことは
・カメラはこれから買う。スタビライザー3軸ジャイロをまだ買ってないから撮影をしていない理由だった
→なのでiPhoneでの撮影を提案。スタビライザーはひとまず無しで撮影してみて手振れが酷ければ購入検討としてみては?と提案
→なのでアカウント作成手順が書いてあるサイトを紹介。解散後アカウント作るように伝えた。
→どれぐらいの動画を作るのか分からないのでひとまず撮影してみて、と伝えた。
自分はオンボロノーパソでaviultで編集して投稿していたのでiPhoneでの動画作成はよく分かってないので今度会うまでにエアプにならないように調べておかなければ。iPhoneだけで動画撮影、編集、投稿まで一台で完結出来るそうだがよく分かっていない。
友人が収益化通ったら飯奢ってもらう予定で色々教えていく予定。
自分のスペックは動画投稿はしてて、とあるジャンルのチャンネルで登録者270人程と自分のゲームの録画を保存目的で投稿する登録者0人のチャンネルの二つを持っているからある程度の投稿までは教えられるがバズるのは無理なので友人のコンテンツ力に期待するしかない。
チームで開発の仕事してる時にそれを言うことで何を期待してるの?
「俺あんまり頭良くないから(四大卒の貴方からしたら気がついて当然のことを見落としているなどしているかもしれませんがご容赦ください)」ってことなの?
ワイも別に神様じゃないので(というか、カミングアウトしてないけど投薬受けてるタイプの高IQ型の発達障害持ちなので)見落としや思い違いは普通に掃いて捨てるほどあるんだけど、それに対する当てこすりなの?
お互いにそういうのをなくすため、認識を擦り合わすために考えを話すということをやっているのに、その意義を「頭が良くない」という抽象的な謎ワードでぶち壊しにする意図ってなんなの?
そもそもIQ120超えてると、雑に計算して人生で出会う人のうち下手すると10人中9人は自分より頭が悪いみたいな状況がザラなので、今更「目の前の人が自分より物分かりが悪い」というだけでいちいち腹を立てたりはいたしませんが??
こっちの話を理解できてないくせに不明点を聞き返しもせず無理矢理話を進めようとして、それを止めると「そんなこと言うなんてひどい」とかお気持ちヤクザみたいなこと言い出す奴には流石にイラッとするけどな。
でもそういう奴はそもそも自分が物分かりが悪いという自覚がないねんから、人の話はまず聞こうみたいな姿勢が身につかんし、人の話を聞くという場数踏まんからいつまで経っても理解力がつかんまんまなんや。無限ループやな。
そんなん最悪やろ?
人間ひとりひとり立場も視点も違って当たり前、相互理解のためにしゃべり合うし聞き合うんやないんか。
そこでわざわざ頭がいいとか悪いとかの前置きする意味って何なんや?
[追記]
ワァ。増田書いてこんないっぱいトラバついてブコメもらったの初めて。
オラ怖くなってきたぞ。
誓って言いますが、そんなおとろしいことを他人様に向かって申したことはございません。
トラバでも書いたけど、ワイ転職組の下っ端で、人から学ぶことこそあれど人の知識にケチつける立場でも実力でもないねん。
発達ちゃんやから、どっちかつうと言われる立場やし言われたこと何べんもあるしな…どんだけ刺さるかはわかっとるつもりや…だからこそ自分は言わんように気ィつことるわ…
まあ、発達ちゃんやから、気ィつことるつもりでなっとらんつーパティーンの可能性は常にあるがな…
ワイ に 対して説明してくれるときの前置きとかにもくらうねん。というかワイが指示もらう下っ端の立場なのもあって機会としては若干そっちのが多いねん。
もうホンマ、どう反応して良いかがホンマにわからん。「いやいやいや、そんなことないですよ〜」か? もう何回かやったけどあの白々しい沈黙をもっぺん食らわなアカンのか?
は?
何やそれ。何やねんそれ。
言わんでええこと言うてくる人に対して何でワイが申し訳なく思わなアカンのん???
頼んでへんで? 頼 ん で へ ん で ??
どういう理屈?? 斜め上すぎん??
というか、これもトラバに書いとるんやけど、何ならそないなこと言わんどいてやって頼みたいくらいやで??
流石に神経疑うわ。アンタそれ逆恨みやで。
逆恨みする前に言われる方の居心地悪さにも思い馳せてほしいわ。
みんなばっかりずるい!!!
普通に間違えるし勘違いするし完璧やないんやから「すんませ〜ん、ワイ馬鹿やから〜」ってヘラヘラしたってええやないか!!!!
「嫌味か」ってブッスリやられるねん!!
ありゃ、当該トラバ消えとるな。
えーと、発達の身分でこれ言うのも何やけど、TPOとかタイミング?
いくら雑談ではダメ人間晒しとるワイでも、仕事で真面目な話しとるときにいちいち毎回「ダメ人間のワイです」ゆわんわ。
仕事の話する時間まで使ってワイがダメ人間であるという鬱にしかならん事実にわざわざ自分で言及してどうすんねん。高度な自傷行為か。気分も効率も落ちるわ。
ていうか、うかつに「発達ちゃんなんで〜」いうたら「障害を言い訳にすんな」の大合唱になるやつやろこれ。せやからカミングアウトしてへんねん。連発しとんのは増田だけや。
それがワイなりのプロとしてのプライドやし、誠実さのつもりやねん。
…ああ、書いてて気がついたが、だから腹立つし悲しなるし嫌んなるんかなあ?
個人的な体験では俺あんまり頭良くないから、という人が本当に頭悪かったことはない。自分に無知の知を突き付けることができる人が賢くないわけがないと納得している
それな。
それなオブそれな。
そう、そもそもこの予防線を頻繁に引いてくる人、この予防線要らん人やねん。
ワイはデキるあなたの話を聞いて1ミリでも多く色んなもんを吸収したいし自分がわかっとらんことがあったら早々に気づいて潰しておきたいんや。
なのに頭が悪いとか言われると、たとえ謙遜でも枕詞でも、なんか悔しいやんか。
そんなことよりもっとすごい話をあなたはできるはずやんか思てまう。あなたの時間をそんなことに費やさんといてや。もったいないわ。
ワイより圧倒的にちゃんとしとる人をそんなに頻繁にdisらんといてや。
言語理解と作動記憶が130超え、知覚統合と処理速度がやっと100ぐらいや。立派な発達ちゃんやで(^ν^)
あとIQは人にしゃべったことないけど、学歴は一瞬で広まってもうたんや…普通に面接した上長から漏れとったわ…あん時は凹んだわ…
ワイが受けたのはWAIS3やったけど、何や今は4が出とるらしいやないか。もっぺん受けてみたら全部100くらいのザ・平均的人間になっとらんやろか。
2人ともブン殴るつもりだったんだよ~~~~おれ頭ワリィからよ~~~!
億ちゃんええよな。ちょっと喧嘩っ早いけどええ奴や。スタンド強いし。
やめて…やめてや…
ワイは大学とは終わったんや…もう足洗ったんや…
それはともかく、言うてワイんところのお仕事昇竜拳は流石にアカデミアン昇竜拳より威力ないねん。
アカデミアンは概して殺す気で撃って来とるけど、お仕事のはまだなんか型稽古感あるんやわ。ワイが下っ端だからなのもあるやろうけど。
だから、食らってどんだけのダメージあるんかの勉強も兼ねて、じゃんじゃん打ってきてもらいたいし、前置きとか正直そんな要らんねん。
俺より強いヤツに会いに行きたくて転職したんやで。あと普通に業務が集中しすぎて身体壊したから。奥歯も噛み締めすぎてヒビ入ったわ。抜歯しかなくて大変やった。
あとな。
「それ〇〇の婉曲表現だよ」系な。
「〇〇」の内容が思っきしブレとるやないかーい!
そんなんわかるか!!!
WAIS-IIIで言語理解のパーセンタイルが99の者です。おそらくお子さんと似たような障害を抱えていると思います。
障害を抱えてもう中年になりましたが、今は加齢や薬で比較的落ち着いた生活を送れるようになっています。
その視点でいくつか、傲慢ですが、アドバイスをさせていただきたく思います。頓珍漢なことも書いてしまうと思います。ご容赦を。
まず、このような発達障害の場合は「同じことを同じようにやる」のにかなりのストレスを伴いますので、「毎日の決まったルーティン」はかなり困難です。学ぶことは好きだし理解も早いのですが、「ずっと同じ教科書を使い続ける」のにストレスを感じるんですよね。だから「教科書を音読する」のではなく、「教科書に書いてある文章を音読する」とズラして考えるといいと思います。例えば、今自分が毎日教科書を音読しなければならないとしたら、教科書を全部スキャンして文字データにして、印刷したり電子書籍形式にしたりwordやメモ帳にコピーしたりして、毎日形態を変えて音読すると思います。最終的には同じことをやるのですが、その手段を変えるイメージです。そして手段を変えることを楽しみながら行うのです。教科書音読に限らず、社会や会社で同じことをやらなければならなくなった時、「目的を同じにして手段を変える」を基本にすると上手くいく可能性が高まります。教科書をコピーしたりするのは大変なので、教科書ではやらなくていいと思いますが、通常の勉強などには取り入れていいかなと思います。
お子さんには音読は不要です。教科書の音読が無理なら歌を一曲歌えばOKとかにしていいですよ。ゲームの中の文字を音読する、でもいいです。目的は言語能力を高めることなので。お子さんには圧倒的な言語能力があります。良質な本、ゲーム、映画、どんどん触れさせてあげてください。
言語理解突出タイプの発達障害は、身体を動かさないと能力のアンバランスさに拍車がかかってきます。本当に悪化(というのだろうか)しますから、身体を動かすことも教えてあげてくださいね。
ダンスはいいですよ。「音楽に合わせて身体を動かす」というのは聴覚系と運動系を連動させるトレーニングになります。また動きの緩急がはっきりしているので、ADHDでも飽きずに行えます。半面、マラソンやランニングはまずだめです。自宅トレーニングも無理です。勉強にしても運動にしても、環境を細かく変えるのがいいと思います。宿題も、一緒にカフェに行って勉強してみるとかすると相当効率がいいです。自宅勉強や塾はきつかったです。格闘技とか乗馬もいいですよ。型稽古はしんどかったですが。型稽古のない格闘技はいいです。
目的と手段をきちんと分けて、目的達成のための手段をたくさん選択できるようにするのがいいと思います。またこのタイプは論理がはっきりしていないと動けないので、「とにかくやろう」というのはきついです。こういう理由だから、これをやるのだ、と納得すれば集中できます。
音読を始めるときにもにょもにょしてしまうとのことですが、「音読やろう」というのは「漠然とした指示」と感じてしまうんですよ。漠然とした指示なので、何かとんでもなく面倒なことなんじゃないか、と不安になってしまうわけです。「音読やろう」というのは「世界から貧困を一掃しよう」というのと同じなんですよ。難易度的には。ちょっと言い過ぎですが、「その目的を達成するためにやらなきゃいけないことを組み立てるのがとても難しい」というわけです。
ですから、「まずは鞄をおろそう」「鞄をあけるとーー」「教科書がある!」「〇〇ページを開きーーー」「読もう!」というふうに、手順を示して「これはそんなに漠然としていないんだよ」と教えてあげると最高です。迷うことなくやれると思います。
発達障害というのは、普通の人に説明するならば「夢の中で前に進もうとしても足が動いてくれないもどかしさ」なんです。あれが常にまとわりつくので、結構苦労をします。しかし、少しでも足を動かせるとわかればスムーズにいきます。
将来的な仕事は、まず社員じゃない働き方を念頭に置く方がいいですよ。会社で働くと本当にゴミ社員になってしまうので…。何か専門の資格を取るとかして、個人である程度動ける職種がいいと思います。起業、というとつらいですけど、士業とかは良いと思いますよ。個人でやるか、リーダーとして働くか、の二択かなぁと思います。社員も理解のあるところならいいとは思うんですが。そういうところは少ないですしね。
それにお子さんが大きくなるころには今よりももっと働き方が柔軟になっていると思います(そうなるようがんばりましょう!)。
発達障害が障害になってるってことは現社会とは相性めっちゃ悪いってことなので、現社会の嫌なところを煮詰めたネットも必然的に相性悪いです。
はてブとかtogetterとかまとめサイトとか、まぁ酷いですからね…。
<追記>
ものすごい老婆心ですが、普通の人との恋愛は困難ですが、同じ傾向の発達障害の人となら相性いいですよ。
私も発達障害傾向の女性と一緒になっていますし、周りを見てもそういうカップルが結構います。
あと、これは私が果たせなかった単なる希望なんですが、メンサとかに入会できそうな気がします。小学生なら検査結果をもっていけば判定されると思うので…。
床磨きの雑巾に酢をつけて往復。道場中の床が酢酸で清められる。
立ち込める酸っぱい匂い。
5:30、瞑想。拳をももに立てたまま酢の匂いをかぐ。いつでも身構えられるようにするためだ。
それぞれが「お酢!」と元気よく挨拶。型稽古では実際の酢は使用しない。
型稽古でしっかりと汗を流したあとで、7時から持久力トレーニング。
お互いが素早い動きでボトルを制したり、素早くキャップを開いて相手にかけたりする酸っぱい武道本来の競技に立ち戻る。
乱取りと試合の開始はまずお互いが納刀ならぬ納瓶の状態から始まり、始めの合図とともに素早く抜き取って相手にかける。
最近は近代化が進んでスウェー、ダッキング、ウィービングなどの近代ボクシングのテクニックを披露するものも多く、ヒートアップして思わず相手の足にローキックを放ってしまう微笑ましい面も。
酢は関係なくないですか? と度々取り沙汰されるのだが、ルール上は特に禁止されていない。
決め手は基本的に酢を相手の顔にヒットさせて「すっぱ!」と言わせたほうが勝ちだ。
声が小さく、すわ、すぱ程度の驚き方では有効1ポイントでしかない。
酢をかけておいて大きく後退するなどの「かけ逃げ」はイエローカード扱いなので、多用すると合わせ一本を取られる。
こうして乱取りが終わるとそれぞれの道場生たちは薄めた酢で道着を洗い、スイーツ(※寒天で固めた酢を食べること)を先輩たちとともに行う。戦士に休息はない(し、後輩は笑顔で食べなければならない)。
師範以上になると黒酢の使用が許される。よりまろやかで動きが掴みにくく、上級者向けである。
かかった相手もあまりのまろやかさに旨味を感じてしまい、なかなか勝負が決しない。
こうして酸っぱい武道の一日は終わる。
トレーニングといっても筋トレとか有酸素運動とかそういうものじゃない。
自分は身長185m。115kgから84kgまで落とした。31kg減。太っていた時に心筋肥大したので血圧は高めだけど、それ以外は良い数字。
練習を始めたのは30半ば。今40近く。5年くらいで31kgを落とした。
体感として、115kから110kgに落とすのが一番難しかった。楽だという人もいるが、それは代謝が盛んな若いうちだけか、短期的に太っただけの人だ。
健康目的の減量というのは、はっきり言って依存症からの脱却と全く同じだ。中肉中背から痩身を目指す美容目的とは違う。
他人から際限なく馬鹿にされ、理解を得られず、あきらめてまた依存に戻る。これを繰り返してしまっているのが肥満の人だ。
大前提として、俺たちは依存症に向き合わなきゃいけない。ダイエットと考えず、依存症と考える。
砂糖の依存性はヘロインの数倍ともいわれる。アルコール依存症からの脱却の方法がそのまま減量に活かせると思ってほしい。
周囲の理解のない言葉には惑わされないで。この投稿にも酷い言葉が飛んでくるだろうけど、彼ら彼女らは明確に敵で、悪魔で、人間ではない。
肥満は治療すべき病気だ。病人に石を投げるのは人間ではない。自分の病状を見据え、適切に段階を踏んで快復していくべきで、悪意に打ちのめされてはいけない。
エクササイズ、筋トレ、有酸素運動、それらは依存症からの脱却の過程で行われる行動であって、それらをすれば依存症から脱却できるという物ではない。
依存症からの脱却を目指す際に、いきなり運動をするのは間違っている。高確率で挫折をしてしまう。
運動の何が危険かというと、「運動への飽き」が「減量への飽き」と同化してしまって、運動と減量を同時にやめてしまうことだ。
減量しながら運動をするはずなのに、運動が先に来てしまう。短期で成果を求めてしまう。
体力づくりには運動は非常に有効だが、依存症からの脱却には運動は劇薬だ。依存症が薄れてきたら運動を楽しく行うべきだ。虫歯の治療をしてから歯磨きを励行すべきであって、虫歯の穴が開いているところに歯ブラシをねじ込んでもただ痛いだけだ。
そういうわけで、エクササイズの話はしない。カロリーの話もしない。
のどがカラカラな時でも、5分かけて水を飲むことができるか。
いつでも5分かけて飲み物を飲めるか。
肥満の人は異様に飲むのが早い。コップに口を付けたらそのまま3,4口飲む。
時間を計るのが煩わしい場合は、沸騰したてのお湯をカップ一杯用意して、すぐに一口飲む。当然大した量は飲めないが、この飲んだ量を覚えておいて、それ以降お湯が冷めてもその量を飲み続ける。
全部飲むのに5分以上は必ずかかる。
食前食後に飲み物を飲むのはOK。しかし、いただきますとごちそうさまの間は飲み物は飲まない。
飲み物を飲めないので、よく噛んで食べる練習になる。水で流し込むことはしなくなる。
喉が詰まらないよう、少量ずつ口に運ぶことになる。
ステーキを食べるときは、1cm四方の大きさに切って食べること。これはステーキを食べる作法でもあるようだ。
箸は危険。食べ過ぎる。昔から箸が普及している地域は水が豊富な地域だ。喉つまりを気にせず食べる文化が箸を生んだのかもしれない。
箸を使うくらいなら手で食べるほうがいい。実は手で食べ物を掴むと、上手く口に入れられない。必然的に一口の量を抑えられる。
子供ではないのだから、自宅で一人で食べるときに無作法をしても、外で同じことをする恐れはない。一度は手で食べてみることをお勧めする。人間はそんなに一口で物は食べられないとわかるはずだ。箸やフォークよりも指は太い。その分だけ食べる量を減らせる。
一度茶碗一杯のごはんを手で食べてみよう。口の周りを汚さずに。唇の中まで指を入れよう。
上記の方法を実践すれば、難なく達成可能だ。食後の飲み物を入れて、食事には30分かける。
30分かけて味わえるものを食べる。
健康にいいものを選ぶ必要は(最初は)ない。マックのセットを30分かけて食べてもいい。
麺類は「早く食べないと伸びちゃう」と急かされ、アツアツのものは「美味しいうちに食べなきゃ」と急かされる。
ぬるくても美味しいものを食べるといい。
そう思うかもしれない。
「再びドカ食いをし続けないための型稽古」だ。ドカ食いしてもいい。しかしそこから脱却できなくなるのはダメだ。
脱却するための型稽古がこれだ。もちろん他にもたくさんの型がある。全部は書ききれないけれど、まずは上記の3つの型をやってみてはどうだろうか。
そうすれば毎日の体重に一喜一憂することもなくなる。最初はとてもつらいが、それを目標にしよう。
運動に飽きても依存症の治療には飽きないように。いろいろと工夫をしてやっていこう。
痩せている人に言いたいことは、「あなたはアルコール依存症で苦しんでいる人にも同じ言葉をかけますか?」だ。
どうか見守ってほしい。
YouTubeでバラエティ番組の動画をぼーっと見てたんだけどさ、お笑い芸人って声でかくね? なんであんな声出んの? なんかトレーニングでもしてんの?
ダウンタウンとかめっちゃ通る声してる。ウッチャンとかも聞き取りやすい声だなーって思う。司会する人たちは声が良いんだろうか
俳優や声優だったら稽古してるからだろうなーって想像がつくんだけど、お笑い芸人に関してはよくわからん。いや彼らも稽古や練習はするだろうけど、発声メインではないでしょ。知らんけど
常に声出す仕事だから声でかくなるって理論もシンプルだけどいまいち納得度に欠ける。つーかあれかなー、声がでかい奴がお笑い芸人になるのかなー、わかんねえけど
自分は昔から何を喋っても聞き返されるタイプの人間だったので素直にうらやましいと思うし、自分もああいう風になれるならなりたい
【1】
まず、私の投稿に対して「こういう規則の押し付けが創作の芽を摘む」というような声が有ったので、以下ではその声に答えたい。
日本では割りと「創作においては『論理』に頼らない『直感』こそが正義である」という信仰が強い。しかし、現実は逆である。きちんとした創作を生み出すためにこそ、創作家には規則や論理が必要なのである。
例を挙げよう。映画業界の話である。欧米をはじめとする諸外国とは異なり、日本には映画に関する専門的な教育・訓練を行うまともな機関が無い。そのため、映画の仕事を志望する人間は、専門的な教育や訓練を受けたくても受けられない。業界全体が、昭和の時代と何も変わらない『徒弟制度』に頼りきりである。業界志望者は、論理的・合理的なノウハウも身に着けられないまま、無駄に年月を重ねる。結果として、まともな監督も脚本家もスタッフも育たない。つまり「まともな作品」を撮れなくなり、現在の日本の実写映画は「まともなビジネス」として成立しなくなった。
映画に役者を供給する演劇業界も、実写映画業界と似たり寄ったりである。大半の劇団は良い演劇をすることよりも、地方自治体を唆して税金に寄生することや、稽古や親睦を名目にして性的関係を結ぶことの方に熱心で、肝心の本業である演技や演出は学芸会レベルのままである。
日本の実写映画業界や演劇業界は、指導の名目でスタッフや役者に灰皿を投げつけたり暴力を振るう類いの人間たちが「名監督」や「名演出家」扱いされている始末である。片や出演する演技者の方も、演技の専門的な訓練を受けていないミュージシャンとかが大役をゲットする。こういう紛い物たちが日本の映画業界や演劇業界に蔓延っているのは「論理的・合理的なノウハウの訓練を行うシステム」が無いからである。論理的な指導ができない人間は、監督や演出家を辞めるべきだし、演技の訓練をしていない人間は、演技の仕事を去るべきである。
それはともかく、漫画や小説の作家を目指す人間は、実写映画業界や演劇業界が手遅れに近い状態になってしまっているのを「他山の石」として、まずは「論理的・合理的なノウハウ」を身に着けるように努めてもらいたい。
そうすれば、日本の実写映画やドラマで頻繁に見かける「よく考えもせずに『何となくそれっぽいから』という理由だけで、悪人たちが悪企みの会議をしている場面で部屋を暗くしてみた」とか「とりあえず竹中直人や佐藤二朗やムロツヨシに滑稽な表情と動きをさせておけば、それでコメディっぽくなるだろう」といった馬鹿な描写を貴方の物語作品の中でしなくて済むだろう。
【2】
次に「セオリーから外れているけどヒットした作品も有る」というような声も寄せられた。これに対しても以下で答えたい。
野村克也がインタビューで言ったことで有名になった「勝ちに『不思議の勝ち』有り。負けに『不思議の負け』無し」という喩えが有る。論理に依らない成功の例は確かに有り得るが、それは謂わば「宝クジが当たる」ようなものである。もしも「宝クジに当たる人間も世の中にはいるのだから、自分はあくせく働くのは止める」と言い出す人間がいたとしたら、その正気を疑うだろう。
物語を書くこと、創作活動をすることは、宝クジを買うように運任せの行為なのか?それは違う。人間の頭脳を使う営みなのである。ならば、創作活動において頭脳を使って論理や規則を活用することの、いったい何が悪いというのか?そんなに頭を使って書くのに抵抗を覚えるならば、いっそコックリさんに頼って自動書記でもしてはどうか?それは冗談だが、仮に偶然に頼るにしても頼り方が有る。
蜘蛛という生き物がいる。その中でもコガネグモやジョロウグモなど、網を張って獲物を捕らえる種類がいる。網に獲物が掛かるか否かは偶然である。しかし、網を張らねば偶然を捕らえることはできない。創作活動において論理や規則を活用することは、謂わばクモが網を貼るようなものなのだと理解してもらいたい。
【3】
「とりあえず最後まで書くのが重要」という声には強く同意する。物語作家の志望者は、まずは作品を一本書き上げてもらいたい。しかし、そのためにこそ、論理や規則は有効なのである。登場人物に生命の息吹を与えて、物語を完走させる上で、論理や規則を活用することは、手助けにこそなれど決して枷にはならない。むしろ始めにきちんと考えないままで何となく執筆に着手してしまい、結果として執筆の途中でガス欠になって未完成で投げ出す人の方が、物語作家の志望者には圧倒的に多いのである。それを避けて最後まで書き切るためにこそ、論理や規則を活用して欲しい。
【4】
「文章力や画力があれば、何も起きない平凡な日常生活の描写でも読者を惹きつけられる」というのは、嘘ではないが、しかし本当でもない。それだけの力を持つような文章力や画力というのは「何を書く・描くべきか」を把握していなければ、物語作家志望者も身につけようが無い。そして、何を書く・描くべきかを把握するには、やはり論理と規則に則った思考が必要なのである。また、何も起きない平凡な日常生活は、無手勝流で簡単に書ける・描けるものではない。観察力もまた出発点は論理と規則である。
古典落語の一つ。
あらすじ
八五郎は、道で友人の熊五郎に遭遇した。熊さんは、これから芸の稽古に行こうとするところらしい。一緒に来ないかと誘われるが、この熊さんは以前にもいろんな習い事をかじったことがあり、歌の稽古をすれば長屋中の植木が腐り、踊りの稽古をすれば東の空に円盤が現れたというほど、何か芸を習う度に事件を引き起こしてきたので、八五郎は一度は断るが、習う内容が「あくび」という珍しいものであったため、興味が涌き、見学にだけ行くことにする。そんなわけで芸の先生宅へ行き、あくびの稽古は始まるのだが、一番やさしいという夏のあくびの内容というのでさえ、
「お~い…船頭さん…船を上手へやっておくれ…堀へ上がって、一杯ヤッて…夜は中へでも行って遊ぼうか…船もいいが、こう長く乗っていると、退屈で…退屈で…(フワァ~~)ならねぇや…」
という難しそうな内容であるため、熊さんは悪戦苦闘する。その上、熊さんは、「遊郭」のくだりになると必ずと言っていいほど脱線してしまう。先生からも終いには呆れられ、心ないことまで言われ始めたため、頭に来て怒って出ていこうとするが、そこに来て八五郎が居眠りをしていることに気づく。八五郎は、半ば八つ当たり気味にたたき起こされ、「お前らは稽古してるからいいけどよぉ…見てる俺は…退屈で退屈でならねぇんだよ。」とあくびを一発…これを見ていた先生は「あら?お連れさんの方が、御器用だ…」。
人間性を治す気が一切ないなら
女増田のババアたちには是非イスラム国に行くなりウクライナに行くなりクルド人民防衛軍にでも弟子入りして
そのスキルとノウハウでゴルゴ13のキャサワリーみたいに異性を作るしかないな
そんなことでもしないと行き過ぎた承認欲求と狂った上方婚願望を叶えるとか無理だし
どうせもはや狂って糖質寸前になってるから三行以上の文字を読んだりネガティブな情報入るだけで視界が歪んで幻覚が見えて意味不明な妄言書き殴り始めたり
幼児退行起こして猫ちゃんニャンニャンとか不毛な奇行を始めるから馬の耳に念仏だと思うけど
それさえ嫌なら来世は大好きな悪役令嬢にでも生まれ変われると信じて屋上からステータスオープンとか叫んでダイブして異世界転生キメるしかないな