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はてなキーワード: 方言とは

2024-08-26

生理用品の無理解説明義務

被災地支援物資手配を男性に任せていたところ生理用品のナプキンが1種類しか準備されない事態になったという話を聞いた

女性スタッフの不足または女性生理事情が知られていないことが原因であろう

人にもよるが、生理は2日目から数日は大量出血になるため、ナプキンは1日3回変え、夜間は大き目のものを当てておく必要があり、一方、終わりかけの時期は少量で五月雨式にダラダラ続くので1枚で3日持つこともある

ある立場同士では説明不要事実を、別の立場の者に伝えるには追加説明必要になることはしばしばあることである

口語表現でも「サミダレ式で申し訳ありません」は日本人同士なら通じそうだが、相手外国人なら「五月雨とは梅雨のことで、梅雨とは梅が実る6月ごろの雨季のことで、昔は太陰暦使用されていたので五月雨と言いました。少なく途切れずダラダラ続くという意味です」と説明必要になる(トリクルダウンでもいいだろう)。逆に英文学を読むとき聖書知識はかなり必須である

一般的にも例えば、男女の身体の相違についてオッパイチンチンマンコといった形状の差以外がほとんど知られておらず、男性勃起とは何かを知らない幼女存在するなら問題といえよう

日本民族比較的、立場上で知り得た情報は他の立場の者に隠しておいて利用するのが美徳であり得である、都合悪いことは知りたくない、と思う習性が強めに見られる

これは密談を容易にする方言言い回しが多かったことにも現れている

しかしお互いの知識レベルの差は、随時認識され、教育により解消されなければならない

人間同士がオープンに平たく説明しあうならば、視界はより開かれて問題解決やすくなり、社会の閉塞感はより解消されるであろう

なので説明情報についての権利義務必要

2024-08-22

anond:20240822170102

自分は「とりこんで」だと思ってるけどとなりの女性がよく「とりかこんで」って言ってるんだよね…

自分が知らないだけで方言だったら指摘するのもアレだし

2024-08-21

anond:20240820172320

というか、世の中がme too運動やらなんやらでジェンダー平等に舵を切るまで、

ちょうどディズニージェンダー平等に舵を切って、アナ雪などが人気になるまで、

九州の人たちは、自分たちの「男尊女卑文化」をむしろ誇りに思ってアピールしていた気がするよ。

世の中の大勢が変わってから、いろいろなところで九州差別だと言いはじめた。

たぶん、九州の人たちはちょっとまりにも郷土愛が強すぎる。

息子に「九州男」という地方名を入れるような土地って九州以外にはないのではないかな。

これなんかは別にどうでもいいことだけど、有害レベル郷土愛が強いのかもと感じることは多い。

まり郷土愛が強すぎるがゆえに、差別と感じるところが大きいのでは?

この論理でいえば、沖縄東北の人たちは九州の人たちよりも遥かに差別されていると思う。

それこそ、ネタにできないくらい。学力方言文化等々、いろんなところで馬鹿にされているような気がするけどね。

2024-08-20

第二外国語いらないって議論あるけど

大規模産業であるフランスの)フランス語やドイツ語重要性が落ちただけで、機械翻訳とかのテクノロジー発展のスピードが遅いだろうその他言語価値は変わらんと思うのよな。

日本輸出産業育成の観点でも、市場となりうる国の現地語を使える人材が多いのは好ましい。

中南米スペイン語ブラジルポルトガル語アフリカスペイン語アラビア語ヒンドゥー語、インドネシア語タイ語ベトナム語韓国語、いっぱい役に立つ言語はあると思う。

中国語も、大陸発のテクノロジーには政治的制約がかかるから、その意味でもやる価値があるだろう。台湾国語とかい一種マイナー言語も。

いまの時代を特徴づける現象は、準普遍言語地位低下と、それに伴う地域言語方言重要性の向上である

2024-08-16

小中学生くらいまでに特有アクセント

ってあるよね?人前で話す時とか限定の。

方言とも違う、何とも言えない感じの抑揚の。あれ何なんだろう。

2024-08-15

anond:20240815140000

「すまんこ」という言葉は、標準的日本語としては認識されていません。

考えられる可能性としては、以下のものが挙げられます

方言またはスラング: 特定地域コミュニティで、標準語の「すみません」をより砕けた言い方として使われている可能性があります

誤字脱字: 「すみません」を誤って入力してしまった可能性があります

造語: 何かを表現するために、新しく作り出された言葉かもしれません。

「すまんこ」の意味特定するためには、以下の情報があると役立ちます

どのような状況でこの言葉が使われていましたか? (会話中、文章中など)

話者はどのような人でしたか? (年齢、性別出身地など)

文脈はどのようなものでしたか? (どのような話題について話していましたか?)

もし、この言葉について何か情報をお持ちでしたら、教えていただけますでしょうか。

すみません」の類語

もし、「すまんこ」が「すみません」に似た意味言葉を探しているということでしたら、以下のような言葉が考えられます

丁寧な言い方: すみません申し訳ございません

カジュアルな言い方: ごめんね、ごめん

状況に合わせて適切な言葉を選ぶようにしましょう。

不明な点があれば、お気軽にご質問ください。

2024-08-12

anond:20240811120625

エジプトにいた増田です。

思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています

そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分出会ってきた)アラビア語イスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます

大前提ですが、自分は基本、道楽勉強してきた人間で、職業的研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくま個人体験を元にした個人の感想で、学問裏付けあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。

(いきなり余談ですが、わたし出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリジムスリム、つまりムスリム結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)

シリア人結婚シリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。

また日本在住のマリジムスリムでも、家族親族との交流クルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます

ほとんどの場合ムスリム男性日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)

先述の通り、わたしアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。

イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンアラビア語はお経みたいなものイラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います

お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。

日本仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味勉強すると思います。非アラビア語話者ムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。

何ならアラブ人にとっても、クルアーンアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。

(お世話になっていたエジプト人の先生クルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見アラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからんものです)

一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います

ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハー勉強します。普段使っているアーンミーヤエジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。

外国人視点で見れば、フスハーアーンミーヤラテン語フランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます勉強しないで自然にできるわけがありません。

話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。

キリスト教聖書は色んな言語に訳されていて、普通各自言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的理解できるもの第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。

現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップ全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味整合性全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味あいまって全体の美しさが練られると思います歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。

英語ヒップホップ歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉ダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為信仰というものは、容易に翻訳可能知的了解やすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。

特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語ヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。

クルアーン特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教ルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象イメージが多いですね。

音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょエピソード的な話が続くと、とてもわかりやす言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりフレーズがビシッと入りますごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。

またヘブライ語聖書旧約聖書)のエピソード知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。

こうしたエピソードっぽいフレーズ時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます

この文体翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります

わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーン読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。

良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。

余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記学問的な界隈では結構からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのはコーラン」ですよね。

カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります

クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います

では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。

英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。

ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセント表現したようです。

実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人感覚簡単カタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。

別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語ラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。

同様にラテン文字表記英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。

あと不思議なのはアッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。

これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います

その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為のものは単なる殺戮肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚殺戮であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。

では実際のところ、平々凡々たる市井ムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います

色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。

キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですからムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリム感覚同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから

この低水準の信仰感覚というのは、あくまわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います

大人ですから知的敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています

そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています言語文化宗教連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。

まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います

そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢しょうが、違う場所から違う視点ものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。

人生、旅じゃないですか。

2024-08-11

anond:20240810161003

エジプトにいた増田です。

書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます別に面白くないと思います

わたし滞在していた時はアラブ革命前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生エジプトに逃げてきました。

それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリア勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人めっちゃかわいくて上品に見えました。

前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離していますフスハーと呼ばれる「正式言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係法曹関係演説テレビニュースなどで話し言葉としても使われますテレビアニメ教育目的フスハーが使われていたりします。このフスハーアラブ世界共通です。

一方、アーンミーヤ地域差が激しく、それぞれの方言があります

で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。

シリア方言エジプト感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしエジプト方言を喋るのもエジプトからするとかわいかったのかもしれませんが。

これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハー勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。

アニメきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。

最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。

でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然からないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです

で、途中からエジプト方言積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。

フスハークルアーン時代言葉ベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプト言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語フランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります

ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語フランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります

これも余談ですが、アラビア語ヘブライ語兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推意味がわかるものもありますそもそもラビーアラビア語イブリーヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。

ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエス最後に言った「エロイエロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみますアラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語ギリシャ語で読むべき)

この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。

おめった方言書いてみれや

たまには書いてみれ

2024-08-10

anond:20240810161003

すごく勉強になりました

ユリコさんも、きっと方言勉強なさったから話せないのですね?

anond:20240809212549

とても面白かったです。

当方結構前ですがエジプトに計2年くらい滞在アラビア語目的留学)、多少アラビア語を話しエジプト人と交流のあった人間ですが、イラン人ペルシャ人)がアラブ人を嫌って見下している感じはわかります。まぁ実際、歴史的に見るとイラン先進文化的な国で、人も繊細な感じがします。

それに比べるとアラブ人イスラーム以降にイケイケで拡大しただけで田舎くさい感じがするし、特にエジプトは「アラブ大阪」という感じでコテコテから水と油かもしれません。言語もまったく違いますしね。

そして多くのエジプト人(もちろんすべてではない)はイラン人シーア派の人を蛇蝎の如く嫌っています無神論者とか共産主義者と同じくらいイメージが悪い感じです。キリスト教徒のことはそんなに嫌っていないし、エジプトには1割くらいコプトの人がいますから、まぁ宗派対立がないとは言いませんが、割と知っているしそれなりに共存しています。(追記当方イスラームへの関心もありアラビア語を学んできたので、イスラームシンパシーがあるのですが、エジプトにいると正直、コプトの人の方が上品で話が通じる確率が高い感じです。ただ、少数派はどこでも品が良い=そうでないと生き残れない、ということかもしれません。ハーリド・アル=ハミーシーの『タクシー』という小説勉強用に訳したりしていたのですが、この中でも、イスラーム的に非常に尊敬できる態度を取っていたタクシー運転手が実はキリスト教徒とわかり、語り手が恥じ入り、多数派エジプト人のだらしなさを嘆く下りがあります

「同じイスラームの中の異端こそが憎い」わけですが、この「全然違うと許せるけど、ちょっと違うと許せない」という感情一般によくあることでしょう。日本韓国だってよそから見たらめちゃくちゃ似ていますが、だからこそ変な悪感情を抱く人たちもいます隣国なんてそんなものかもしれませんね。

ちなみにカイロの町には稀に観光客イラン人もいますが、服装などの違いで一目でわかります特に女性はアップにした髪で後ろを盛り上げて前髪チラッと見せる感じが独特ですよね。顔つきもイランの人はシュッとしている印象。もちろん、嫌っているからといって道を歩いているとボコボコにされる、とかいうことはありません。

エジプトから見た隣国イメージについては、個人的に気になったので結構多くのエジプト人に聞いてみたことがあります

あくま個人観測した範囲ですが、サウジイラクなどの湾岸諸国についてはとりあえず「金持ち」。サウジにはエジプト人が大勢出稼ぎに行っています

エジプト地域大国で、アラブ諸国の中では人口で突出していますが、逆に人間以外なにもないので、サウジにはエジプト人が教職などでたくさん入りました。エジプトには世界最古の大学・アズハルがあります。その教師たちの一部が極端なサラフィー思想サウジに持ち込み、それが後の過激派組織を生む一契機になった、とかも言われています(まぁ色々な要素があると思いますが)。

シリアについては、上品イメージエジプト方言から見るとシリア方言フスハー(正則アラビア語)に近く、なんか「京言葉」みたいな感じがします。時代劇セリフを敢えてシリア方言でやっていることがありますエジプト人はうるさいけど、シリア人は物静かな感じがします。

アルジェリアとかモロッコとか、いわゆるマグリブ地方については全然別世界という感じでよくわかりません。この辺は方言も非常に異なり、エジプト人でもよくわからないようです。湾岸パレスチナシリアあたりの言葉エジプト人的には慣れれば問題ないようですが、マグリブフランスの影響も強く難しいようです(エジプト方言に親しんだ一ポンコツ外国人的には、パレスチナシリアくらいでギリなんかわかる程度、湾岸でもうわからないです)。

ここまではアラブですが、トルコについてはイランのような悪感情は持っていないですが、文明的、支配者層のイメージそもそもエジプトは元々オスマン帝国の版図にありましたし、あの辺りは日本のようにネイション区切りがわかりやすくなく、例えばエジプト人なら「エジプト」「アラブ」「ムスリム」と複合的なアイデンティティのあるものですから、割と連続なのだと思いますトルコ系の血の入った人は沢山いて、トルコ語由来の言葉も多いです。

エジプトに行くと「旦那!」「ミスター!」みたいに呼びかける「バシャ」という言葉をよく聞くと思いますが、これもトルコ語です。ケマル・パシャとかの「バシャ」。アラビア語はPとBを区別しないので(日本人にとってのRとLみたいな)、「バシャ」みたいに発音します。

話がズレますが、イタリアエジプト地中海を挟んで目と鼻の先なので、イタリアとも言語的に被るものがあるようです。アレキサンドリアなんて地中海文化で、大昔はローマ帝国の一部でしたからね。

こういう風に色んな支配者が入れ替わってきた地域歴史を考えても、アラブの拡大があくまイスラームの拡大であったのに対し、イランイランで割と確固としてあり続けていますよね。イスラーム化することでアラブ化した地域と、ムスリムにはなっても自分たち言語文化を維持した人たちがいるのだと思います

2024-08-09

[]ねき

「ねき」は、「側(そば)」の意味西日本で広く使われます

「にき」というところもあります

「駅ねきのカフェ」と言えば、「駅近くのカフェ」という意味です。

江戸時代方言集『物類称呼』には、京都大阪奈良兵庫愛知高知で使うと記されています

ちゃんスラングアニキをニキっていって女を姉貴→ネキっていうのしかしらんかったけどこんな言葉あるんやね

2024-08-08

関東弁」でしかないものが「標準語」を自称しているのはやはり気に食わない

少し前までクッソド田舎だった関東平野江戸成金共が、さも当然のように「皆これから関東と同じ言葉を使おうね!だっぺとかだっちゃとか伝わらないやんけでごわすよろしいか~?」みたいな態度で無理やり押し付けてきてるだけじゃん。

こんなの日本人という大きな括りの中で行われたから分かりにくいだけの文化侵略一種でしょ。

たとえば今度大統領になった人がネイティブ・アメリカンに「インディアン語は通じないから使わないでね♡」と押し付けるような法律を作ったら、それは全世界からフルボッコにされて色んな陣営からやってきたスナイパーに蜂の巣にされるだろ?

卑怯なる関東人共は戦後のドサクサとかを利用してこのレベル民族浄化GHQと結託しながら平然とやってのけたわけだよ。

今や地元商店レジ方言を使うだけで「突然強い言葉で怒鳴られた!なんて失礼な店だ!」とグーグルマップで☆1をつけられるわけですよ。

日本語の喋れない奴は日本に来るな」を、本州の一部でずっと昔から使われているような言葉祖父祖母から教わった昔の人が普通に使っていたその地域の「標準語」を口にしただけでぶつけられるわけですね。

こんな理不尽がありますか?

まるで日本全土が「関東人」の植民地であるかのような状態じゃないですか?

その地域言葉も知らない連中がドカドカとやってきては、関東弁をまくしたて、それに関東弁で返してこなかったら「やーやーやーこの田舎者は標準語も喋れないとは不躾な。標準語を喋ることを気取っているとでも勘違いした意識の高い田舎っぺ大将じゃけえばいっちゃ」とコケにする、いやむしろコケにされたと勘違いして、勘違いしたままに無作法をただ返したただけと言い張るような態度で不機嫌になる」わけですよ。

いやいやこういうのが本当によくあることだから参ってしまう。

関東弁による浸食スッカリ広がって、いまや本当に関東弁が「標準語」になってしまっている。

海外にも「クイーンズイングリッシュを喋らぬもの英国人にあらぬ」といった文化があるのかまでは知らぬが、少なくとも日本においては「見ず知らずの人に関東弁以外の言葉をぶつけるのは失礼である」という価値観スッカリ定着している。

我々はこれに恐ろしさを感じることが出来る最後世代やも知れぬ。

身近にZ世代もおらぬ田舎者ゆえ若人のことはよく分からんが、今時の若者Youtubeでまず言葉を学ぶというし、関東弁を関東弁として認識する間もなく標準語だと刷り込まれているのだろう。

ゾっとしないかね?

まるでジョージ・オーウェルの書く厭世小説のような現実が広がっていないか

それともとっくに茹でガエルとして真っ赤に染め上げられてそんなことさえ分からいかね?

2024-08-06

anond:20240806162510

中国地方というより四国方言だな

瀬戸内海沿岸に広まっているらしい

もともとは「罰が当たる」「(罰が当たって)ざまみろ」という意味だったようだが

今では「めちゃくちゃ」みたいな強意の意味になってるな

2024-07-31

anond:20240731005958

話が逸れるかもだけど、単純な顔の造形だけではなくて、その人独特の色気というかモテる雰囲気みたいなのはある気がするんだよね。なんかフェロモン的な感じの。

大学時代サークルの同期に、そういうタイプのやつがいた。顔はまあまだったが、北の方の方言丸出しで、背は低くて、幼児体型(腹が少し出てる)なんだが、彼女が途切れたことがなかった。いつぞやか、そいつ二股してて(サークル仲間も知っていた)、危うく大学内で本命ニアミスしそうになって、周りがヒヤヒヤしたことがあった。

当時の俺の彼女が、そいつ初見で「あの人モテるでしょ」と言ってて、なんかそういう色気があるやつがいるんだなーと思ったことを思い出しました。

2024-07-30

リミッター

を外した方言女子は、何を言っているかからない。

でも、楽しそうなのは伝わってくるので、へらへら笑って相槌を打ってた。

2024-07-28

やばい医者なんていないよ、マイナンバーカードに診断結果がのるんだからすべての医者は同質

研究熱心な医者ものんびりしてる医者もよぼよぼの医者も全く同質

中学受験をこなし都会がふるさとである医者絶対に行かない、方言の飛び交う田舎の人も安心しろ

ランキングなんてないしAIもあるので存在しようのない名医を求める方がおかし

2024-07-27

10年以上前に書いた小説を読み返した(追記あり

15年以上前アラサーだった自分新人文学賞などを目指して小説を書いていた。

土日の大部分は小説を書く作業と、小説を書く人が集まる社会人講座の授業に費やしていた。

5年位は続けていたが、やめてしまった。

自分が書くべきことが次第に思いつかなくなってしまたことと、他の受講者の作品本屋さんで売っている小説を読んでいるうちに、自分には向いていないしセンスがないことがだんだんわかってきたからだ。

ところが最近自分パソコンフォルダを漁っていたらその頃の小説pdfが出てきた。書くのをやめてばかりの頃は恥ずかしいし痛いから二度と読むまいと心に決めていたが、今の心情としては死ぬ前にあと1回位は読んでもいいかもしれない、小説の見え方も書いていた当時とは大分違うかもしれないと思い、斜め読みでもいいからとりあえず読んでみることにした。

読んだ作品はA、B、C、Dとして、以下にその感想を書く。

登場人物やあらすじについては触れない。

A

小説を書いてみたいと思って社会人講座に通い始めて間もない頃に初めて書いた。原稿用紙350枚ぐらい。

登場人物言葉遣いが汚い。直情的すぎる。登場人物の中でホモと疑われる教師がいたのだが、今の時代ではアウトすぎる表現だった。

物語の展開が都合良すぎる。

恋愛描写がくどい。多分これが、よく言われるところの、素人おっさんが初めて書く小説ありがちな痛さかもしれない。

書いてる時には恐らく頭の中で見えていたはずのもの文字になっていないからなんのことだかわからない記述がある。

過去の知り合いを物語の中で過剰に美化している。つまり自分の当時の人生観が未熟で甘いということだろう。

主人公がずっと目指していた目的地がいつの間にかすり替わっているのに物語中では一切理由がわからない。

親の心とかの描写が表面的すぎる。

内容をほとんど忘れていたので次の展開が読めないところは楽しみでもあった。

瑞々しい恋心みたいなのはちょっとよみがえった気がした。今よりも恋愛至上主義が強い世相の中で流されつつ抱いた渇望感みたいのを思い出した。

小説すばる新人賞に応募したが1次選考にも残らず。当時はなんで?なんで?って感じだったが(それも恐ろしいことだが)今読めば選考に残るわけないのは十分納得。

B

Aの2年後ぐらいに書いた。原稿用紙500枚。

主人公思考社会への目があまりにもすさんでいる。それは当時自分がそうだったことの裏返しだろう。

弱者執拗否定しようとする力の存在をことさら強調し絶大視しようとする描写がいくつかあって、それが自分人間的未熟さというか卑屈さを浮き彫りにした。

犯罪トリック稚拙USBメモリ紛失をでっち上げただけで大企業情報漏えい事件発生というのは無理がある。

簡単に人が死ぬ。こんなに登場人物をたくさん殺しているのにその必然性も後片付けもないと、当時通っていた講座の講師にも指摘された。

書いた当時の10年後つまりここ最近時代舞台なのに、現代キャッシュレス社会を予見できなかった。虹彩認証コンビニ1000万円までの現金を下ろせてしまうという設定にはあまりにも無理があった。

刑事がすぐに暴言を吐き暴力を振るう設定が安直すぎる。下手をすれば職業蔑視とも受け取られかねない。

いい奴の主人公最初のシーンだけめっちゃ嫌なやつ過ぎてその後のシーンでの性格とあまりにも整合性がつかなすぎる。

氷河期世代負け組アラサー男性絶望感と人生をやり直しの希望みたいのは出たと思う。

当時の自分成功したあっち側ではなく、だめなこっち側人間なんでこっち側の怒りや絶望を描いたつもりだったのが、その描写に卑屈なところがあるため、かえってこっち側の怒りを買いそうでなおかつあっち側から苦笑いか同情でもされそうな残念感が今も残る。

このミス大賞」に応募して、もちろん1次選考には通過しない。当時はそんなもんか、という印象だったが、今だったら通るわけないと十分納得。

C

Bを書いた後に、今度は誰も死なない話を、なるべく心温まる話を書こうと奮起して書いた。原稿用紙350枚。

登場人物で、モデルとなる実在人物がそれまでで一番多い。そのためか痛さが際立っている。

物語の展開にAやBほどまでの唐突さはないが、それでも十分唐突

今どき年寄りしか使わないような方言若者世代にまで喋らせていてあまりにも無理がある。

主人公恋人となる女子大学生の人物描写凡庸で表面的。

難しい命題を掲げておいて導き出した答えがあまりにも安直稚拙主人公大学生なのにこれじゃ中学生かよって感じがしてしまう。

書いている当時は見えていたものを本文に描写していない(書いた気になってる)のでなんのことかわからないシーンが一箇所あった。

主人公のイチャラブシーンがくどい。がそういうのがいい人はいるのかも知れない。ただし、人物描写に深みがないからやはり読む人が読めばつまらない。

もし登場人物モデルとなる実在人物にこんなのを読まれたらと思うと恐ろしい。

縁あって知り合いの編集者の方に読んで頂いたところ「よいところは何一つない」と断言され、大沢在昌小説入門のような書籍勉強することを真剣に勧められた。(一通り読んでみたが実践にまで及ばず自分の血肉とはならなかった)

小説すばる新人賞に応募し、もちろん1次選考に通過しなかった。当時の印象としては、やっぱそうだよなって感じだった。

D

Cを書いてから2、3年後に、通っていた講座の課題として書いた。原稿用紙100枚。

書くことがなくて無理やりひねり出した感が強く出てしまっている。

既存小説のシーンを堂々とパクっている(ある小説で、土砂を積んだダンプカーが横転して人が生き埋めになるのを見て笑う男のシーンがある)

書いている当時頭に思い浮かべていたシーンと実際に書かれた描写とでまだギャップがある。

 

(全体を通して…)

読み返す前は「小説家になろう」とかにupしてもいいかなーとか思ってたが、読んでみると、、やっぱり、、、無理だわ💦

追記

増田の反応が意外と生ぬるい称賛みたいのが多くて拍子抜けした。

きしょっ💦💦

クソワロタwwwwwww

みたいのを想像してた。

時間と労力をかけて書いたものでも、客観的に見るととても拙く、世に出るレベルに至ってないというのが、趣味としてやるにもなかなか難しいところであることを実感した。

しかもそうやって自分の作ったものをある程度客観視できるようになるのに10年以上も寝かせるというのもある意味めんどくさい。

よく、10000時間修練すればいろんな趣味技術はモノになる、というようなことを言われるけど、自分場合、多分10000時間には届いていないのでまだ努力を続ける余地はあったのかも知れない。

(今じゃほとんど)自分より若いデビュー小説家や芥川賞直木賞受賞者の方は努力もすごいがやっぱりセンスとか目指してるものとか見えてるもの自分とは全然違うんだろうなと改めて思う。

あと、時代の移り変わりが早いのを改めて実感した。

LGBT関係セクハラパワハラキャッシュレス社会スマホ携帯若者言動とか、書いてる当時は気にならなくてもたった10年程度で違和感ありありなのがすぐに浮き彫りになってしまう。

追記2)

ブコメの中で、自分以外の人に読んでもらったほうがいいというアドバイスをされた方がいたので補足すると、当時通ってた講座の受講生の方にはABCDいずれも読んでいただいたし、一部は友人数名に読んでもらう機会があった。授業で頂いた色んな人の講評などがノートに書かれていたはずだから、後でそれも引っ張り出して読んでみようと思う。特に、通っていた講座の講師先生には要所要所の指摘やアドバイスを頂き、温かい目で見守って頂けたので今でも感謝している。

つまんなそうとかこんな増田じゃものになるわけないみたいなブコメもあったが、まあその通りだと思っている。自分は、仮に誰もが有無を言わさず好きでも嫌いでもとにかく原稿用紙1000枚ぐらい書いてみればとにかく書きさえすれば100人中50人ぐらいは自分のより面白いのができると思っている。本当に違うのは、書くか書かないか、ただそれだけだと思ってる。

追記3)

E

ABCDより少し後に読み直した。

Dを書いたよりも1年前ぐらいに書いた。原稿用紙360枚。小説すばる新人賞に応募して、1次選考に通過しなかった。

地元に古くからあったドライブイン商業施設などを舞台として、20代の男女の恋愛とか和解などを描いた。

時代設定を明確に2011年としていたので当時と今とでは大きく時代が変わってしまたことを改めて実感した。

ブログとか掲示板、当時のネットスラング、どれもみな、今ではほぼ絶滅してるようなものばかりだった。

登場人物人間性に触れるような描写はそれまでの中では一番ましだったと思う。

一方で、あらゆる出来事現象理由理屈をつけなければならない、本文に記述しなければならない、というような思い込みを感じるところがあって、それが読者に違和感を感じさせる要因になるのではないかと思った。理屈じゃない出来事理屈説明しようとしている感じ。

ファッション料理に関する描写が出てくるシーンを書くのが難しかった。その方面知識経験の浅さ乏しさがどうしても浮き彫りになってしまう恥ずかしさがあった。

書き始めた頃よりは少なくなったが、登場人物の直情的で暴力的な部分への違和感が残った。自分の中で、世の中はそういうものだという固定観念がまだ残っているようだった。

ABCDに比べて、読むときもっと気恥ずかしさが残っていて、主観的視点が抜けきれてない感じがした。

物語テーマが大きく2つに割れしまっていて、片方は潔く捨てるべきだったのかも知れないが、どう捨てたらもっと面白くなるのかはちょっとよくわからない。

2024-07-26

anond:20240726075135

昔と違ってテレビの影響や人の流入とかで自分の喋ってる言葉がどこまで地域の古くからある方言かよーわからん時あるね

2024-07-25

anond:20240725044855

しょっぱなに出てきて突っ込みどころかと思うけど「きょうび」は十分方言やで兄ちゃん…。(なお 「兄(にー)ちゃん」は二人称

大阪市内に30年以上住み続けてる身としては

特に気になったものだけ補足する。ちなみにこの文章方言では書かない。方言って自然と出てくるものから文章書くときはコッテコテの人でも普通に書いてる。文章で書いている奴は大抵あえてやってるか、エセのどっちか。

「しょっぱい」とは言わず、「辛い」「塩辛い」と言う

今日び「辛い」「塩辛い」って言うのは、ほぼジジババ。そのジジババも加齢で味覚が鈍ってきてるから、そこまで「辛い」「塩辛い」って言わない。


「知らんけど」は日常的に使う。知らんけど

使いはするけど、使い方が違う。言葉の締めにはまず使わない。使うにしても「ネットとかでも周りでも使ってるから」ってノリの意味合いが強い。あえてやっているんで、方言から自然に使ってるって感覚は薄い。


日本橋」は「にっぽんばし」と読む

関西とか関係なく、そもそも日本」は「にっぽん」とも読む。紙幣の裏にも「NIPPON GINKO」って書かれてる。


おにぎりせんべいが好き

関西中心に販売されてるから関東に比べればそうかもしれないけど、わざわざピックアップするほど「特別好き」ってほどではない。数あるお菓子の一つって認識の人が多い。


歩くのが速い

あくまで傾向の話として、って前提を踏まえても「人による」としか言えん。なんだったら関東の方が速い印象すらある。


ところてんには黒蜜をかける

そもそもところてんをそんなに食べない。


「おもろい」と褒められると嬉しくなる

世間一般的に「おもろい(面白い)」自体が誉め言葉なんだからほとんどの人は言われたら嬉しい。わざわざ挙げるほどの特徴ではない。


インテックス大阪は、関東幕張メッセみたいなところ

よほど特別イベントがない限り行かない。港区方面天保山がある方)から行こうとすると、車でトンネル通るか電車で行くしかない。自転車の多い大阪で、自転車で行きにくいってのはちょっと不満。


阪急電車はなんかオシャレな感じがする

鉄オタ以外は特別感情を持ってない。


関東人が思ってるほどそこまで串カツを食べない

関東人の認識がどれくらいかは知らんけど、たこ焼きお好み焼きほどは食べない。おにぎりせんべいよりは食べてる。


インスタント焼きそばペヤングを食べたことがない(UFOを食べてる)

ペヤング大阪スーパーコンビニでも普通に並ぶようになったので食べてないやつの方が珍しい。UFO関東人が思ってるほどは頻繁には食べてない。「カップ焼きそばを一つだけ挙げるなら」って質問されたらUFOかなって程度で、実際に食べる割合としてはダントツってほどではない。袋麺タイプだったら日清焼きそば一強だけど。


駐車場のことを「モータープール」と呼ぶ

モータープールと銘打っている駐車場がいくつかある」っていったほうが正確。大阪の人も駐車場のことは普通に駐車場」っていうことが多い。


今日のところはこれくらいにしといたるわ

池乃めだか定番ギャグ。厳密には「今日はこれぐらいにしといたるわ!」なんだけど、池乃めだか一言一句正確に言ってるとは限らないので別にいい。でもこのネタ負け惜しみ捨て台詞で用いられているので、なぜ元増田が締めの言葉にこれを選んだかは謎。


あと、ブコメで気になったのだと

おにぎりせんべいも好きだし満月ポンも好きだよ。

満月ポンは「老若男女問わず、みんな好きで、みんな頻繁に食ってる」って類のお菓子ではない。おにぎりせんべい特別好きってわけではないとは書いたけど、満月ポンと同列かといわれれば話にならない。カールおにぎりせんべいかだったら、ちょっと悩むけども。

あと関西ではナスのことナスビと呼ぶよ。

割合として関東より多いのは確かだけど、大阪で10人中5人いるかどうかってところ。奈良とかだとまた変わってくるかも。

総じて、他県が考える「関西人っぽさ」とか「大阪人っぽさ」って、現代ではかなり薄まってきてる。年寄なら、まあそれなりに体現できてる人もいるけど。若者テレビ取材とかだったら舞い上がってサービスする子はいるかも。ネット関西弁風の文章とかも、そういうロールプレイキャラづくりでやってる人がほとんど。

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