はてなキーワード: 中国語とは
ビックカメラの欠番当選Switchは店員が買ったんじゃなくて地元の有力転売屋に流したんじゃないかなーと思ってる。
ビックカメラ系の隠語に11番っていうのがあって、これは転売屋の事を指すんだけどさ。大抵の11番は個人プレイヤーとか家族程度の規模だし、もっと組織化してたとしても基本的には毅然とした態度で現場は対応してると思うんだけど、困ったことに家電量販店が密集した地域には大抵いくつかコネの強い転売屋グループってのが存在するんだ。
これらは家電量販店の身から出たサビというか、そのコネの強い転売屋グループのトップってのがずばりビックの元店長とかなんだよね。これはヤマダにしろヨドバシにしろ、どこも一緒で、キャリアの枝分かれの隙間というかダークサイドにこのコースが存在するんだ。
彼らは元業界、OBとしての威光を使って地域の店舗(後輩、元部下、同僚の店長、副店長)と非常に有利な交渉を行える。限定数量品のバックヤード確保やポイントアップが特に強力で、21世紀になってから、おおっぴらに値引きとか現金周りの特典こそコンプライアンスがうるさくて出来なくなったものの、ポイントっていう不明瞭でルール整備の整っていない部分ではいまだにおいしい思いをしてるんだ。
家電量販店も、店舗ごとのシマでいえば、販売ノルマだのなんだの上から耳タコで言われてるからさ、安定して定期的に大量購入してくれる窓口があるってのは店長とか現場のトップは楽できるし嬉しいんだよね。OBは現場の辛さを知ってるから来店時間とか都合してくれて、閉店間際に黙々と召使い連れて箱で持っててくれたりすっから助かるなーって話なのよ。仮に25パーセントとかわけわかんない還元率つけてノートパソコンとか売るにしても、一般のお客さん集めたら阿鼻叫喚の地獄になるけど、OB転売屋グループなら手間もなく静かに右から左だからさ。
あと家電量販店業界ってめちゃくちゃ狭くて、20代で数年ヤマダの販売員やってた奴(かわいそうにずっとバイトだ)が辞めても、潰しがきかなくてとなりのヨドバシでバイト販売員はじめて、あらまぁ30代突入みたいな人材のジャグリングが狭い地域でずっと行われてるんだわ。で察したと思うけど、転売屋グループの上って先述の通り家電量販店の元店長とかリーダークラス(これも偉そうな肩書だがバイト)のOBだから、こういう業界渡り歩いてきたというか消耗した奴を、ちょっとの見所があれば的確に拾ってくんだわ。
でも一番良いのは中国人の留学生バイトだね、彼らは頭がいいから中国語も日本語も英語もできたりするのよ。販売員の名札にさ、3カ国語OKとか書いてあるような子ね。彼らはだのに、つかえねー日本人のボンクラ店員と同じ時給1000円とかでコキ使われてんだわ、アホだよね。障碍者雇用枠のバックヤードスタッフと私同じ給料だったんですーって怒ってた子なんかもいたね、そういう優秀な人材を過小評価するアホな組織構造がおいしいのよ。ウチ(転売屋グループ)で日本語や英語を話せない中国人召使いを君が指揮してみない?もっと楽して稼げるぜーって軽く誘えばいいからさ。
ちょっと話がとんじゃったけど、件の消えたSwitchはそういうOB系大口購入窓口へのお中元だったんじゃないかなって。あらかじめ当選番号があって、その上で該当番号を抜くってやり方は末端の連中だけで完結しない気がしてさー。
殺し屋1って漫画は元やくざの破門された不良なんかが、身を寄せ合ってタタキグループみたいなよくわからん隙間の仕事をやっているってのが最初のあらすじだったと記憶してるんだけど、家電量販店業界にもそういうドロップアウトした先の世界が地続きになって存在するんだよね。企業に良いように使いつぶされた奴らが蜘蛛の糸ほどの繋がりを使って家電量販店を少しは齧らせていただこうみたいなね。
Gガンダムの石破天驚拳が『石破・天驚拳』じゃなくて『石破天・驚拳』であることは意外と知られていない(元ネタの武侠小説の主人公の通り名が「石破天」さんで、石破天さんもビックリのすごい拳って意味だよ)— あろまーら (@aromara1) 2017年6月27日
普通にこっちじゃねえの。
https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E7%9F%B3%E7%A0%B4%E5%A4%A9%E9%A9%9A/m0u/
せきは-てんきょう【石破天驚】の意味
音楽・詩文・出来事などが、人を驚かすほど奇抜で巧みなことの形容。石が破れ、天が驚くほど巧妙であるという意から。
石破天驚の出典 李賀「李憑箜篌を引く」
吳絲蜀桐張高秋 空山凝雲頹不流
女媧煉石補天處 石破天驚逗秋雨
夢入神山教神嫗 老魚跳波瘦蛟舞
吳質不眠倚桂樹 露腳斜飛溼寒兔
金庸がこっから人や技を名付けたのを、さらに今川が取り入れた、って流れなんだろうけど。
言葉としては大元の「石破天驚」から取られているはずなので、区切りは「石破・天驚・拳」でいいと思われる。
追記
LD掲載のロングインタビューをテキスト打ちしたサイトが有るのですがその中を見ると両方共関係ないですね。最初は「天破侠乱」だったようです。ご参考までにhttps://t.co/oqhAu60g6O— 5 (@NI_5) 2017年6月27日
最初にあるひとつの四文字熟語からインスパイアされて「天破侠乱」っていう言葉を考えたんですよ。香港でのレコーディングのときに、これを唄の中にセリフで入れることになって、日本語にその場で訳して、かい摘んだ説明をして、一度英語に直してもらって、それから広東語に直してもらったのが「石破天驚」なんですよ。和解釈、英語になって、広東訳っていう手順なんですよ。なんと面白かったのが、香港から帰ってきて最初の四文字熟語をもう一度調べて見たんですよ。そうしたら「石破天驚」って書いてあったんですよ。これは自分自身、本当に忘れていたことなんで驚きました。
書き起こしなので分かりづらいけれど、これは今川監督が、(李賀の詩に由来する)「石破天驚」という四字熟語にインスパイアされて、「天破侠乱」という新しい言葉を考えたということか(中国語に「天破侠乱」という言葉はない)。
その「天破侠乱」の意味するところを翻訳者に伝えて広東語にしてもらったら「石破天驚」と訳されて、逆引き的に意味が通じていることが証明されたというエピソードのようだ。
もともと今川監督が「石破天驚」という四字熟語を知ったのは、金庸作品あるいはその映画からの可能性が高いが、いずれにせよ「石破天驚拳」は「石破天驚」という既存の四字熟語が元ネタだと断定していいだろう。
デマが定着しないことを祈る。
https://www.facebook.com/note.php?note_id=10155518526459066
2017年下半期の怪文書コンテストグランプリを掴み取りそうなこちら。
私は正直にいってドン引きした。
この文章を書かれた田中さんという方のtwitter,facebookを遡ると、思わず眉間にシワが寄る。
大量にアップロードされている謎のセクシー?中国語動画と自撮り写真。中には裸エプロンなんてものもある。
あの怪文書を読んでいても感じたが、承認欲求と自己顕示欲の闇に飲み込まれてしまった人間の成れの果てを
見てしまったような気がする。
私の子供が通う小学校の近くに、この一帯では有名なモンスターペアレンツがいる。
すこしでも気に食わないことがあると、物凄い剣幕で怒鳴りこんでくるそうだ。
子供はというと、他を寄せ付けない圧倒的な学力を有しているものの、同級生とちょっとした衝突を起こすと、
子供は親を選べない。
多分きっと、豊田議員のお子さんも日常的に言葉の暴力へ晒されていたことと思う。
他人の家の事情でありながら、自分も子どもをもつ一人の親として、本当に胸が痛い。
周りから見て、明らかに異常な環境下に置かれている子どもたちに何か出来ないかと悶々と考えている。
今日の決算行政監視委員会は衆参両方で総理入りです。民進党に注文だけど、もうちょっと連携して質問内容リレーしてくんないかな。できないなら加計学園のことで勝負するなら衆院は宮崎岳志、参院は桜井充議員で時間全部使ったほうがいいですよ。質問の内容、順番、総理の答弁を予測した上でのきめ台詞に至るまで、全部不満。篠原豪議員の質疑はよかったといえばよかったんだけど、順番的には宮崎議員より前にしたほうが良かったし、公文書管理法見直せってつめたのは西村議員とかからもすでに聞いたときとおんなじ答弁してるんだから、予測できたと思うんだよね。「がっかりです」とかじゃなくって、「明らかにする意思は全然無いということでいいんですね。」、「要は隠蔽する気でしょ」と連発していかないと、ペーパー答弁返されるだけだよ。まぁ一年生議員だから仕方ないかもしれないけど、お行儀が良すぎる。
まずジャブですが。これに関しては民進党の大串博志議員も間違った発言をしているので、それも含めて、加計学園問題については宮崎岳志議員、木内孝胤議員、桜井充議員あたりを出さない民進党も良くわからない。まぁどっちにしろすぐわかるうそつくのやめて欲しいんだけど。
大串
「(略)今度は国家戦略特区として、首相が議長をやっているところで、こういう形で決まっていると、行政がゆがめられているんじゃないかと問題になっていて、そこで結局加計学園より前に(これは間違い)京都産業大学が手を挙げてたわけですよね。そっちは行かずに、結局加計学園だけ認められる。あっちの場合は広域的にという文言を入れたという話がありますけど、しかしそれはもう、大阪にあるからということで、京都、あるいは山陰地方で言うと必要だということは、京産大は言われていたのに、こっちは認めず、加計だけになったということも含めてですね。やはりそこに安倍首相の意向が働いたんじゃないかということになりますから、政府の責任ということは大きな問題になるといえると思います。」
「今のは、かなり誤解があって加計学園が、愛媛のほうで先に申請を出して(これは正しい)、そして今さまざまな議論になってますよね、文書があって、京都のほうが提案したのは、その文書が出た後です(これは間違い)。実際に、申請書が出てるのは、その後なんですよ(これは確実にはいえないけど多分間違い)。ですからあの文書で議論している最中には京都のほうはまだ手を挙げていません(これは間違い)。そういう意味で言えば、きちんと整理をすれば、片方を排除して、そちらだけを特定したわけではないということを是非ご理解いただきたい。」
何をもって提案というかですが、今治・加計学園が提案したのは、平成27年6月5日、京都・京産大が提案したというか内閣府側に意思を提示したのは、平成28年3月24日(区域会議での追加提案)、WG開催前の国家戦略特区の最後の集中募集期間は平成28年6月17日から7月29日の間ですから、正式に様式を提出しているのが、遅かったとしても、この時期には提出しているはずです。平成28年6月8日に公表されている、平成29年度国の施策及び予算に対する政策提案の中で、獣医学部の新設がすでに盛り込まれているので、京都府としては平成28年3月24日に、提案した、あるいは手を挙げたという認識でいるはずです。また京都府は平成27年12月に文部科学省に関西連合の知事(松井一郎を除く)の連盟で獣医学部新設の陳情をしているので、当然文部科学省はその意思も把握しています。
また問題の文書は平成28年9月26日ごろからのやりとりですから、内閣府も文部科学省はこの時期すでに京都産業大学の新設の意思を把握しています。
ということで、大串議員の「加計学園より前に」というのも間違ってるし、小野寺議員の「あの文書で議論している最中には京都のほうはまだ手を上げていません」も間違い。印象操作はやめていただきたい。
一発目から、この前の今井雅人議員のときに、前川さんが自発的にやめたんじゃなくて、地位に恋々としていたと官房長官がいったことを、前川さん自身が否定したといったときに、「ウソだよ」と安倍さんがヤジったことを受けて、「前川さんはうそつきだと思いますか」というすげぇ単純な質問から入ったら、3分ぐらいベラベラしゃべるしゃべる。しかもやっぱり答えない。自分が答弁席でヤジりまくってるくせに、開始20秒で「野次はやめていただきたい」、厚顔無恥もいいとこだね。
「(夫人と加計学園の関係の深さをあげつらったあと)熟度の高い提案は、平成13年から出されている、この今治市の事業のみだったと承知している、と答弁されている。しかし、実は、それは事実ではなかった。加計学園以上に具体的な提案が、京都産業大学から出ていました。加計学園の提案はA4で2枚、引用文とか除けば実質1枚くらいですよ。京都産業大学の提案は、23枚、熟度はずっと高いでしょう。しかも、この提案は、昨年の10月17日だったんですけど、5か月間もHPに掲載されなかったんですよ。総理の答弁を聞いていたマスコミの人が、どうなってるんですかって指摘があって、答弁から3日後に慌ててHPに掲載された、隠蔽ですよ、これ。先ほど、何十ページ出した今井雅人議員質疑での山本幸三答弁)と言ってるんですけど、ちっとも、モノを出してこない。それ全部、国家戦略特区と関係ありますか?あるいは獣医学部と関係あるものですか?はっきりしないんですよ。総理、少なくとも、熟度の高い具体的提案は、加計学園だけだったという答弁、これに関しては取り消されてはいかがですか。」
「その前にですね、随分委員が印象操作でですね、いい加減なことをベラベラ言われましたから、少し、反論させて頂きたいと思いますが、まさに、ミャンマーの件は、既に外務省から答弁をさせて頂いたように、同行の経済界、そしてあるいは、ミャンマーの場合は、学校への支援、等も含めて、ということで広く、公募をしたわけでございまして、加計学園だけ、ではありません。名古屋大学、あるいは、あー立命館のですね、大分校、等々もですね、応募をしてくれました。そしてこれは、結構、ショートノーティスになってしまうんですよ。発表との関係においてですね。ですからいけない学校も多い中、加計学園は、いわば、応募をしてくれたわけでありまして、ミャンマー人の職員の方、支局、また多数の留学生を受け入れている、また毎年毎年、外国人の弁論大会を行っているんですよ。これは大きな大会なんですが、ミャンマー人も優勝しているんです。ですから当然のことなんですよ。そして、お疑いになった(政府専用機の)支払いを政府がやっているかのごとき質問を(宮崎:そんなこといってないですよ)質問をされて、空振りをされましたが、しっかりとですね、こちらはお支払をしている、ということ、で、あります。さらにですね、ウチの家内がですね、NPO等、これはね、加計学園がいいことをやっているんですから、それ、一緒にやるのは、当然のこと、じゃ、ありませんか(宮崎:だから持ちつ持たれつっていってんですよ)。いま持ちつ持たれつという言い方自体がですね、印象操作じゃないですか。いいことを、たとえばミャンマーの小学校を作ったりとかですね、そういうことを、やっているんですよ。ですから私は当然のことだろうと申し上げているわけでありまして、またグレートフォールズの小学校についてですね、訪問して、ミッシェル・オバマ、という話も、大統領夫人も行かれた、ということも、おっしゃったわけでありますが(長いよ)、そ、や、ここはですね大切なことなんですから、言わして下さいよ(宮崎:はい)ちょっと聞いてください。ここ、この学校において、学校においては、まさにこれ、日本語のカリキュラムがあります。これ、ワシントンにおいてですね、日本語のカリキュラムを維持するということは、大変重要なことでしてここには、上院議員や、下院議員や、シンクタンク、に、行ってる方々のご子息が通っているわけで、ここで日本語教育を、その御子息たちがですね、学ぶということは、日本に親しみを持つ、そういう影響力のある方が増えるわけでして、実はですね。日本語、教育がですね、実は中国語に変わりそうになったんですよ。そこで、この学校と姉妹提携を結んでもらう所を探してですね、加計学園がですね、手を挙げてくれたわけでありまして、そういう支援をしてくれたわけでありまして、1993年か4年には天皇皇后両陛下も、天皇皇后両陛下も、この小学校を訪問されているんですよ。そういうことも、全く調べずに、全く調べずに(宮崎:知ってますよ)、あるいは、調べて、今、いや、待って、今、宮崎さんね、知っているにも関わらず、まるで、強引にこの小学校を選んだかのごとき印象を与えようという、自ら、これ、語るにおちる、語るにおちる状況と言っても、私は、いいと、思いますよ(この話はグレートフォールズ小学校の姉妹校提携を昭恵夫人と下村夫人が行ったと加計学園の宣材に書いてあって、そこに安倍夫妻がオバマ夫人と訪れた、というような話で外交日程を加計の宣伝につかったんじゃないかという話)。そこでですね、そこで、加計学園につきましては、これは、提案があったのは、これは、福田政権、で、ありまして。えー、これは第12次でありまして、第12次であります。で、そして、麻生政権でも、よろしいですか、今、喋っておりますから、質問したんですから、よく聞いて下さい。そして、福田政権、が、まず対応して、安倍政権では、そもそも受け付けてないんですよ。第一次安倍政権では出さなかったんです、その時も友人でありますが、出していません。出したのは、福田政権、で、あります。そしてそこでは対応不可、麻生政権でも対応不可だったものが、鳩山政権では、これは、第16次で、22年度中を目途に速やかに検討と、なっております。そして、その提案には、大学設置母体は、学校法人、加計学園と、これ明記されて、いる、わけで、あります。いいですか、この、明記されてる、いわばこれは、まさに、あなたたちがおっしゃっている加計学園ありき、要するに、加計学園ということで、皆さんは、そこで、22年度を検討、そして、第17次、において、も、22年度中を目途に、速やかに検討、となり、そして、菅政権においても、速やかに検討、そして野田政権になっては、24年度中を目途に、速やかに検討、となった、わけであります。いわば、速やかに検討、という事になってきて、この間ですね、ずーっとですね、いわば、加計学園は、これについてですね、申請し続けているのは、事実、で、ございまして。そして、安倍政権になってもですね、これは、22年度(読み間違い)、あるいは、22次23次24次、ときて25次26次とこうきているわけであります。こういう経緯であれば熟度が高まっていると、こういう答弁でまったく問題ないのではないかとこう思った次第でございます(京産大の熟度と比較しろってきいてんだけどね)。」
続きはトラバ
自分の親父は超大手電機メーカー(日立、東芝、ソニー、パナソニック、三菱電機、SHARP、のどれか)で自称技術者をしている。
でも僕はそんな親父をすごく情けないと思う。
技術トレンドには疎く、DIYなんかで自分で何か手を動かそうという気配もない。
読む本と言えば部下を育てるだとかドラッカーだとかの名前の啓発本ばかり。
正直、本当に情けない。
生まれてこの方、数学の楽しさだとか科学の話題だとか語ってくれたことがない。
円周率がどうして無理数か、人工知能の話題、脆弱性を突いたウイルスの話題、レアメタルの重要性と使われ方、電子工作の話、化学の話、
たぶん親父はこういうことは全くわからない。知ろうともしない。
今まで何話したっけ。
酒に強くなれ、スーツのウンチク、発展途上国の成長やばいとかだっけ。
結果的に飲み会多い会社嫌だ、スーツ着る仕事嫌だ、家電メーカーやばいってイメージだけ残った。
プログラミングは全く知らないという。知ろうという気配もない。
パソコンには疎く、スマホも使わない、ルーターの設定も人にやらせようとする。そもそもルーターって何って感じ。
唯一電球の交換だけは得意。
だぶん自ら何かを作ることはできないんじゃないかと思う。
でも冒頭にも言ったように超大手メーカーの自称技術者。しかもなにかしら部下を動かす立場のエンジニアだ。
きっと、中国語ができて部下を育てられればいいんだろう。
現在僕は社会的にも給料的にも父親の会社の同世代より低い立場にあるが、上も下も技術的な話題に貪欲な人たちに囲まれて楽しい。
なんかけっこうな数の人に勘違いされてるようで驚く。そんなおかしなことじゃないでしょ。ということで補足。
言っとくけど、これは剽窃や無断転載をしていいって意味じゃないですよ。参考文献の情報を表示する方法が違うってだけの話。
標準的な理系とか社会科学系の論文では、注ってこうやって示しますよね(以下、例はあくまで架空のものです)。
Trump (2018: 70)は次のように主張している。一方、Obama (2018: 47)はこれに反対していて……
この場合、文献リストがないと駄目です。だってこれだけじゃ、どの論文・書籍のことなのかわからないもん。だから、論文の末尾に文献リストをつけて、
って書く必要があるわけです。これがないとアウト。
トランプは次のように主張している(※1)。一方、オバマはこれに反対していて……(※2)
※1 Donald Trump, Make America Great Again (New York: Trump Tower, 2018), 70.
※2 Barack Obama, Yes, We Can (Chicago: UC Press, 2018), 47.
って表示することが許されてるわけですよ。これ、末尾に文献リストつける必要あります? そりゃつけた方が親切だと思うけど、なくても別にいいでしょ。だって参考文献の書誌情報はじゅうぶん伝わってるんだから。
なんで下のようなやり方がされるかっていうとですね、私も確かに上の方が便利だと思うんですが、文系の論文だと、
みたいな資料を引用することが結構あってですね、そういうタイプの資料を扱う研究者にとっては下の形式の方が楽なんですわ……。もちろんそれらの資料でも、工夫すればちゃんと上の形式で引用できますし、実際そうやってるひともいるけど、下のやり方は伝統的なので根強く残ってるのです。
あとまあ、学会によっては「下のやり方で書いて文献リストをつけるな」って投稿規定に書いてあったりするしね(もちろん上を指定してる学会もあります。ケースバイケース)。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
おっ、せやな。シカゴ・マニュアルそのものじゃないけど、手元の解説書を読んでみたら、次のように書いてあるわ(分量的に引用として許される範囲を超えているけど、そこは勘弁してほしい)。
本書は、2つの最も一般的な引用方式を扱っている。「注記式参考文献目録方式notes-bibliography style」、または簡単に「参考文献目録方式bibliography style」(人文科学全般や一部の社会科学で用いられる)と、「カッコ入り出典―参照リスト方式parenthetical citations-reference list style」、または「参照リスト方式reference list style」(大部分の社会科学、および自然科学と物理学で使われる)と呼ばれるものだ。(後略)(※1)
参考文献目録方式の引用では、資料を使ったことを、典拠に言及するセンテンスの最後に、上つき数字を付けることによって示す。
He argues that "in an uncertain world, printed materials can be put to use in ways that make them powerful." 1
それから、対応する数字をつけた注で、引用の出典を挙げ、それに関する情報(著者、表題、および出版情報)とともに、該当するページ番号を明示する。注はそのページの一番下(脚注と呼ばれる)か、レポートの最後に集められたリスト(後注と呼ばれる)の中に印刷される。すべての注は共通の形式をとる。
N: 1. Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making (Chicago: University of Chicago Press, 1998), 623.(※2)
※1 ケイト・L・トゥラビアン(沼口隆・沼口好雌訳)『シカゴ・スタイル――研究論文執筆マニュアル』慶應義塾大学出版会、2012年、194頁。
※2 同、195頁。
元増田でも例を挙げたけど、この方式を採用している英文学術誌なんてたくさんあります。私が見たことある限り(ちゃんと読んだというわけじゃなくて、単純に論文をダウンロードして形式を確認した限りということ)では、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ロシア語の学術論文でこの形式は許容されてる。
海外の著者だと、たとえばウンベルト・エーコが『論文作法』って本の中でこの方式を詳しく説明してるので、ご覧になってみては。
人文系からすると、この方式を知らない方がガラパゴスですよ。だって、文系は理系の人はこの方式使わないで別の方式使うよね、って知ってるもん。なんで理系は、文系では別の方式も使うよねって知らないんです?
もちろん、この方式でも、たとえば1冊の本にまとめる場合なんかは末尾に文献リストをつけるのがふつうだと思います。だってそうじゃないと、その分野に関する文献にどんなのがあるか知りたいときにめんどくさいもの。一度、文献リストをつけられてない英語の本を読んだことあるけど、注を逐一確認して文献を探すのめんどくさかったですよ。ただ、論文程度の分量なら、注を逐一確認するのもそこまで苦ではないし、だいたい単にめんどくさいってだけでじゅうぶんに出典表示の義務は果たしてるし、紙幅の問題もあるしで、つけないことが多いんじゃないかなぁ。学位論文とかで、文献リストを絶対につけること! っていう決まりがある場合はつけないといけないけど、それは単に投稿規定守れっていうのと同じ話なので……
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
日本語、というか、そもそも言語っていうものが外国語を大量に取り入れて発展するものだって知らないのか
多少かじれば知るようになるけど言語っていうのはかなりいい加減なものだしカタカナ言葉が増えるなら表現できる幅が広がるし規制するより増やしたほうがいいと思う
増田の文章を読む限り、増田が「他者の好みに寛容」な人には見えない。酒飲みをDisってたりな。
それを念頭におけば、増田と嫁は似たもの同士だ。相手の好みに不寛容。
つまり、問題は「手間」じゃなくて、増田の嫁は増田の好みに対して不寛容なだけなんだよ。
心をこめて、おいしい料理を作るわけだ。一生懸命な。でもってその出来上がりは、100人いたら、まあ90人はおいしいっていう料理なわけだ。
ところがな、あんたの大事なパートナーだけはその料理にう○こかけてくれって言うわけだよ。
「おれはう○このかかった料理が大好きなんだ! 大した手間じゃないだろ? かけてくれよ!」ってな。
あんたは内心、その準備がイヤでイヤで仕方ない。一応、言われたときに渋々するわけだが、やりたくないんだ。だって
どう考えてもそれがおいしいとは思えない。それどころか家畜のえさ以下の処理をしてるようにしか思えないから。
自分が心をこめて作った料理をそんな風に扱うこと自体、激しい抵抗感があるんだよ。これはもうどうしようもないな。
それしたら相手が喜ぶということもギリギリ理解してる、そして少々手間ではあるが、できないことはない。
でも、どう考えてもそれがおいしいとは思えない。できればやめて欲しい。でもやらないと夫は不機嫌になる。
「あなたおかしいよ」の一言は、言い過ぎかと思って言えない。そういう葛藤の中ででてきた「だって…」の嫁の一言だと思ってみなよ。
大げさだと思うか? だがたとえば中国語で「冷めたご飯」は、日本で言うところの「臭い飯(=刑務所の食事の俗称)」と同じ意味がある。
冷めたご飯とう○こまみれのご飯、同じくらい、ご飯の作り手に対する敬意を欠いていると感じる人間は、いても不思議ではないし、
その程度には、増田も増田嫁も互いの好みに対して不寛容だ、と、要はそれだけの話だと思う。
というわけで、「増田を全面支持」「大した手間ではない」というあなたの反論には同意できないな。
この、指摘してるっぽい増田はそもそもCDDBのこと理解してなくない?
使ったことあるのかね
CDDBにはボランティア運営のデータベース(複数ある。英語メインとか、日本語メインとか、中国語メインとか)と、
企業運営のGracenoteがあってこっちは利用にライセンスが必要
カーナビに使われてるのはGracenote
Gracenoteに関しては、原盤メーカーが曲名データを登録できるようになってるけど
当然登録しないメーカーもいるので、その場合も含めてユーザーがデータ登録可能になってる