はてなキーワード: ミクロとは
…というのが多くの男にとっての疑問となっているのが、昨今のジェンダー論界隈のgdgdさではないか、と思うわけだ。
いやだってさ、あのスピーチ、「フェミニズムを助けて!」て主張じゃなかったのだろうか?違うのか?
それが昨今の議論では「フェミニズムはお前のママじゃない」となっているのでよく分からない。
男にとっては、救済を求められたはずなのに、フェミニズムは万能薬じゃない、という話に移行してるので、頭に疑問符しか浮かばないのである。
要するに「具体的に男にどうしてほしいのだ?」と聞きたいのだ。
(いやと言っても、短時間のスピーチでそこまで詳細に語れというのが無茶だし、そこら辺ワトソン嬢を批判したいというわけではないが…)
「ワトソン嬢のスピーチは分かった。で、男に対して仔細にどうしてほしいのだ?」と。
別にワトソン嬢でなくても、他のフェミニストの方々誰でも良いんだがな。
勿論別に絶対しろとは言わんし、しないことを糾弾なんてしないけど。
女性の皆さんは何となく実感できると思うけど「男は具体的に言わないと分からない」んですよ。
まあ「そんなこと一々言ってやらないから察しろ!」と言うのも良いけど
それって正直至極非効率だと思うのですよね。
その「敗者は救われない」というマクロ的な問題意識と、「こうすれば敗者から脱せるよ」というミクロ的な解決方法は、まったく違うものなんだよ。
そうか。そりゃそうだ。
「キモ金おっさん問題」って、どこを問題として捉えるかも人によって違うんだね。
「キモ金おっさん」がこの世から居なくなるという状況は、生存競争の直中にいる以上、起こりえない。
その「起こりえない」状況を何とかして、この世からキモ金おっさんが居なくなる彼岸の地を目指す、世界平和を希求する非現実的な方向性か、
キモ金おっさんが一人でも減っていけばと考える、残酷な(常に残留するキモ金おっさんが発生すると考えると現状維持でしかないが)現実路線なのか、
それか、キモ金おっさんひとりひとりが、個々に生きづらさを少しでも減らせる方法を集めよう、とか、
まだほかにもあるかもしれないが、個人的には3番目のスタンスが一番しっくりくるんだよなー。
競争敗者が発生せざるを得ないなら、傷を浅くする撤退戦の方法をを集めてカタログ化してくような。←ミクロな解決方法ってこと?
始めに言っておくと、私はエマ・ワトソンは男性側にかなり融和的な方向性取ってるな、と思ってて別にエマワトソンになんら含むところはありません。
ただ、それでもエマ・ワトソンが述べている理屈にも論理的に穴はあると思ってるし全てに賛同できるわけでもありません。
それはフェミニズムでもメンズリブでもなんでもそうだと思いますけど。
「個人的なことは政治的なこと」っていうフェミニズムで重要な役割を果たしてきた言葉があります。
従来、個人的(プライベートパーソナル※指摘あったので修正)なことってのは公的(パブリック)な部分とは完全に分けられていて基本的に関係のないことです。
という前提で議論がされていました(1920年代以降の第一波フェミニズムのあたり)
例えば選挙権に関して言うと公的なことなのできちんと女性の権利を向上させよう。
といった具合に。
ところが第二波の辺りからこの点に関して疑義が呈されるようになってきました。
「実は個人的なことって政治的な事にものすごい影響与えてない?」
とか
「政治的にはこうだから、個人的なこともこうなっちゃうんじゃないの?」
っていうロジックが出てくるようになったんですね。
これは具体例で言うと
「女性ばかりが家事の分担をするのは、女性は家事をするべきという公的な目線が原因じゃないの?」
とか
「仕事を任されないので時間がある女性ばかりが家事をしてしまっている。公平であるなら男女の仕事の時間も同じになってその結果家事労働も平等化されるはずだ。」
とかね。
当然その観点で見た性愛や家族に関する議論もおこなわれました。
その中に
「男性が若い女性ばかりを性的な目線で見るから、女性がそういう行動をとるようになる」
今でもそういった議論の影響は強くて男性はそうした観点から有形無形の批判をあびてます。
例えば、不景気なので個人個人が銀行にお金を預けないでタンス預金していたら
市場にお金が回らなくなって結果的に全体で不利益を被る人が増えた。
つまり
「個々人で見ると小さなことなんだけど、それをマクロな視点で見ると社会に非常に大きな影響を与えてしまっている」
って言う話に繋がるわけです。
この理屈で行くと
という一見して社会的な構造とはあまり関連性のないように見えることが議論の上で非常に大きな論点になってくるわけです。
「女性が意識的・無意識的に強い男性を好むほど、男性も女性からの承認を得ようと強くなろうとする。その結果普遍的な女性一人一人の選択が家父長主義的な社会構造を維持することに大きな影響を与えてしまう」
という話に当然なってしまうんですね。
もちろん男性側の選択もそういった家父長主義を助長してしまう側面は大いにあって
若い女性を好むと、相対的に知恵も経験も薄い女性が選ばれがちになってしまって無意識的に家父長主義になってしまう、という側面があります(というか、フェミニズムなんだから当然こっちが主題だけど)
こういった人達が集合すればするほど社会に家父長主義的な風潮が増加しちゃいますよってことなんですね。
強い女性に指摘される「弱い男性を無意識的に排除してしまうと結果的に家父長主義が蔓延しちゃうだろうが!」
ってのが
「フェミニストは個人的なことは政治的なことを無視している」→「フェミニストは弱者男性を無視している」
というお話に繋がるわけです。
で、それを踏まえた上で「エマ・ワトソン演説」を見ると実は従来のフェミニズムに比べて大きく弱者男性に歩み寄った姿勢だと言えます。
つまりようやくフェミニズムが弱者の男性に目を向け始めた第一歩であると捉えられるわけです。
※もちろん以前からこういったことを言っている人は山ほどいるし、少し大げさな言い方ですけどね。でも影響力の強い人がこういったというのは本当に重要なことですよ。
なぜエマ・ワトソンが一部の女性から強烈に叩かれるのか、というのもこれで構図がわかると思います。
なので、その歩み寄ったエマに対していきなり「弱い男性と付き合えよ」ってのは話を進めすぎだし性急に過ぎると思いますね。
議論もまとまりきってないし、女性から男性への個人的・政治的な介入をどうすべきなのかについてはもっと違う方法があるかもしれません(強者女性がそのまま弱者男性を養うのが政治的にただしいこととするにはまだ理屈が弱すぎます)
ただし、エマ本人ではなく「女性一人ひとりの選択が社会に大きな影響を与える」っていうのに無自覚だった女性はこの点について大きな矛盾を指摘されているのも事実です。
もしあなたが「家事労働は男女平等に大きな影響を与えるので男性も考えるべき」と思っているのであれば
「女性が強い男性を好む事に無自覚である」という部分にも大きな注意を払わねばなりません。
エマ・ワトソン演説というのはフェミニズムにおいて、そういう意味で非常に重大な、一つのポイント・オブ・ノーリターンであったわけです。
男女が平等になるには男性に全てを任せるだけでは駄目で、女性自身もそういった社会に対するコミットメントが求められます。
「女性が無自覚に、強い男性ばかりを好きになり結婚してしまう」
というのは
の対比であり、厳しいことを言うなら
「強者男性に媚を売る女性は動物の本能のままに生きている獣のような女性」
と言うことに過ぎないわけです。
もちろん実際には全ての女性がそういった振る舞いをしているわけではありません。
というか一般的には色んな立場の男性に対して優しく接している人も多いですし、好みの男性じゃないからといって職場でゴミのようにあしらうなんてことしてる女性はまずいません。
若い女性が部下にいるからといってすべての男性がその女性を明らかにえこひいきしているわけではないようにです。
※環境で行動は左右されがちですし、男女どちらにも例外はいるものですが。
ここでは女性をメインにした話をしましたが、男性も改めて「個人的なことは政治的なこと」とはなんなのか考えてみるといいですね。
増田の立場には同情できるし、頑張って試験受けて合格して幸せな生活を送ってほしいし、報われるべきだとも思う。
しかしいっぽうで、増田のような善意の非正規の人が現在の搾取体制に(そんなつもりはないと思うが)加担して助けているというのも事実であって、増田は、自身被害者であるとともに、そういうブラック体制を存続させて数多くの同じ境遇の非正規を生み出している加害者でもあるのだ。
ミクロの個人的感情で増田には幸せになって欲しいと思うのと、マクロの解決のために増田には自己責任で速やかに離職してほしいしその業界は火傷をして現在体制に見切りをつけてほしいというのは、別に矛盾はしていない。どっちもその通りではあるのだから。
コメント欄ではこの両者が互いを避難し合う構造になっているが、(多くの分断がそうであるように)それこそがもっとも虚しく避けるべき自体だ。
『けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観から抜け出しているところにある。
少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。
もうひとつの「ガイナックス的なアニメの価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場のいぶし銀の技術者、ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。
私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーもインタビューで語っている。
「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)」http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html
放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)
たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事「最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズ、たつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。
「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/
ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。
―― アニメはお好きなんですか。
たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。
―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?
たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りました。http://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html
本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。
話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。
たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。
そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートがたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だから『けものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。
『シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明だから”。
ガイナックスや庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。
新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギークな価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任は野ざらしにされ担う者はいない。
2000年代、2010年代のアニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観そのものは形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。
もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。
これは自由の味だ。
ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識そのものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。
可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアをスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きのスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。
3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチが必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。
次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的なものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成、脚本・たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない(脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。
「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思います。たつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」
http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395
「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバーを関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題。
福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚はミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。
最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しである。たつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。
1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌えの主人公、エヴァ風ギミック、NARUTO風アクション、ジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通のオタクが価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。
続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーでキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。
第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションはレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。
4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。
5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ。2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。
ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」である。たつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。
『ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマがシリアスだからだ、という批判も予測されるが「ストーリーがシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。
『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグがテーマとTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。
再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。
自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァ風けもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう。
ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。
昔東京に住んでたこともあって
東京で働く人たちの話よく聞くんだけど
そのたびに「あー俺には東京で生きるのは無理だなー」と思う
早朝に出て深夜に帰ってくる(超満員電車で)
「最近は働き方改革とやらで残業なくて21時くらいに帰れることもあるよ」
とか普通に言ってくる
俺にはそんな生き方無理だなーと思う
最近思うんだけど
高卒で地元にある大企業の工場なんかに正社員で入るのが一番いいような気がしてる
庭付き一戸建てに住んで
毎晩夕食は家族一緒に
みたいな(これを「いい生活」と思うかは置いといて)東京の高学歴エリート様でもなかなかできないような生活が
そんなに仕事に「やりがい」やら「刺激」を求めてる人っているのかな
むしろ(増田にいるような人は特に)バブル時の「窓際族」みたいなのに憧れるほうが多いんじゃないかな
勘違いして欲しくないんだけど
「まだ東京で消耗してるの?」
的なことを言いたいわけじゃない
むしろ東京で俺と同じ状況(既婚子持家有)の生活できる人はマジでスゲエと思う
増田にこんな事を書くのも
「就活に敗北し、地元にUターンすることになった無能な負け組の都落ちした俺」
「普通」の人生を歩もうと思ったら東京を拠点とするのはあんまり(極ミクロな範囲での)賢いとは言えないんじゃないかなあ
ってね
確かに田舎だとマイルドヤンキー的な文化に巻き込まれたり、地域の行事への強制参加があったりなんてこともある
俺のような「三代目ナントカ」とか「湘南乃風」とか聴くだけで蕁麻疹でそうになる人間にはつらい環境かもしれないけれど
毎日の定時退社を捨てれるかと言われれば捨てられない
東京は極一部の超人と特権階級以外が生活するには厳しすぎるんだよ
最も
それはまた別の話
あの女を信用してるというよりは、お前の「地位のある男と食事=枕営業OKサイン←世間の共通認識」っていう、キチガイ妄想がおかしいって言ってる。
2013年に安倍晋三が総理に就いた後、アベノミクスと呼ばれる大規模な金融緩和と機動的な財政出動によって、名目GDPは47兆円増加した。2017年第一四半期の経済成長は年率で2.2%と、潜在成長力の0.7%を大きく超えている。失業率も2.8%まで下がり、ほぼ完全雇用状態だ。20年間のデフレによる経済停滞で錆付いていたギアが徐々に回りつつある。ここ数年の日本の経済政策は成功を収めつつある。しかし、アベノミクス第2弾の中心にある働き方改革は成功しそうもない。
1.働き方が問題?
そもそも長期的な成長力を示す潜在成長力は、土地、労働力、資本ストック、生産性の上昇率からなる。日本は人口減少社会に突入しているので、土地、労働力、資本(人口減社会に投資が集まらない)は停滞かダウントレンドにある。つまり成長戦略には、生産性を軸にするのは極めて正しい。ここで、具体的な課題として取り上げられてるのは、以下の問題だ。
b.長時間労働
お分りだろうか?働き方改革は、日本の生産性の低さを主にミクロな労働の現場に帰責している。例えば、人も金も突っ込んでいるのに儲からないのは、社員が身分制のように正社員とパートに分かれており、テキパキ働かず、無駄な残業をし、ずっと同じ会社に勤めているからだという話だ。スタートアップが「日本の生産性を上げたい」など言い、単なるSaaSを提供するのとノリは近い。
実は日本の労働時間は、「24時間働けますか?」と言っていたバブル時代と比べても20%ほど減少している。つまり20年間経済停滞したものの、単位時間あたりの付加価値は上がっている(テキパキ度上昇)。しかし、OECDの生産性ランキングは落ち続けている。生産性は購買力平価ベースのGDPを就労人口で割って出す。つまり分子の売上が一定なら、いくらテキパキ働いたところで全く影響がない。有名な話だが、日本の祝日は16日あり諸外国よりも多い。テキパキ働き、休みを取らせることを強制すると、使用者の労働コストが上昇するので、結果的に給与が減額されるのを恐れたサラリーマンは有給を取らないどころか、休日返上で働き出す(パソコンの電源を切って働く、退勤打刻をした後に働くなど)。結局、今の労働環境の延長線上にある光景ではないだろうか。※もちろん、労働法的な論点も重要だが、成長戦略とは別途取り扱うべきだ。
当たり前だが、高い生産性というのは、同じ労働力でも、より高い付加価値を生み出す。つまりビジネスモデルの問題で、ここで帰責されるべきは、個々の労働者ではなく、労働集約的なビジネスモデルを維持している雇用者と、うまく生産性で競争する環境やチャレンジを促進するセーフティネットを用意できない行政にある。マクロ的な(ケインズ的な意味ではなく)産業育成構造に問題があるのに、ミクロの労働者に責任を転嫁してきたのが、バブル崩壊以降の日本の現場だ。ワークライフバランスの議論は定期的に盛り上がり、クールビスだの、プレミアムフライデーだの国辱的な施策が残る。日本人ビジネマンは自分で着るものも、働く時間も自分で管理できない。そのような古い産業を残しているのは誰?
何故、このような労働者に帰責する生産性議論が延々と続くのかと言うと、政労使に、社会を変えるインセンティブがないからだ。
政治家:大企業との繋がりが深く、新興企業との競争を促進することが難しい。労働者に飴を与えれば票が入る。
労働者:企業の中にいるうちは、新たな競争に晒されることを望まない。労働時間短縮の飴がもらえる。
使用者:略
これでは、全く自浄作用が働かない。
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ロードムービーとしての完成度にある。
拡張と同時にディティールがクリアになる世界、出会いと別れ、繰り返しつつ前進していく日常、ある日唐突に訪れる転機、何もかもを明確とはしない終着点。
巨大ロボやメカニック、戦争というのは移動を引き起こすための装置だし、世界観やリアリティというのは移動の結果もたらされるディティールのダイナミズムのことだ。
ロードムービー形式はどこに比重をおくかで世界のミクロな部分とマクロな部分どちらにも焦点を合わせられる。1stガンダムはその上で、ミクロな世界とマクロな世界の両方と、その間にある空気を説得力をもって描きだしている。
まず前提からして間違ってる
そしてなぜ実行しないのかというと単純な話、それをやると自分が不利益になるから
社会のルール、公益性っていうのはちゃんと個人の総体的利益に直結するようにできている
赤信号を渡らないようにすることは結局自分らが得するから守ろうとする
生活保護とか刑務所の更生施設とかも結局やったほうが全体が得する=個人にとっても得するから
倫理的に良いとか悪いとかはそういうマクロ・ミクロ的な利益を客観的に説明する教育者が存在しないのと
こどもには理解しづらいから「どうとく」の授業で教え込まされる、それが親の教育しつけであったり
元来宗教っていうのは社会ルールを浸透させたいけどお前みたいなバカにも分かりやすいツールとして使われてきた
でも日本には神がいないから代わりにそこは「世間様」になってる
世間様に悪いと思われることはすんなってことで教え込まされてる
ちょっと脱線したが要するに意識・無意識で理性が利己的な判断をした結果が
という判断になる
つまり結局のところ利己的に判断しているにすぎないから理性で抑えられる優しい人ではない
それは法律と道徳がそいつの凶暴性に勝利しているだけでそいつ自身の凶暴性はちゃんと担保されている状態
だから信じて送り出した法律と道徳が負けた瞬間にアヘ顔になってそいつは包丁で暴れたり首をしめて殺したりする
人間の本性は絶対に変わらないからこそ対抗するために法が生まれた
戦争が起こるのは異なる統治社会同士だから相手を殺してもオッケーになる
同じ飴を舐めてる奴同士で殺し合うのは法が保障している利益を損失するからNG
マンモスを食べ歩きしてる時代から埋葬する=弔う習慣が確認されている
動物にしたって集団行動するものはボスがいてそいつが法になる代わりに
それと全く同じ
他の動物がボスに逆らわないように大人しくできてるのにボスに逆らう猿はそれが本性
逆説的に言えば本性を隠せない時点でそいつの人間性が露呈しているのであって
理性=その人の本性だとしても第三者に元の性質が露呈した時点でお前の主張も覆されてる
つまり酒に酔って暴行暴言してる時点でそいつの理性が本性だとしてもそいつの理性はくそってことになる
本当に理性あるなら酒をほどほどにしておくとかできるだろ