はてなキーワード: 細川とは
「結界なんてあったの?気がつかなかったよ」
どうやらこの地上に惹かれた白い線のようなものが「結界」だったらしい。
「馬鹿な!どんな物も触れただけで一瞬で灰になる結界だぞ!?ありえない!!」
騎士団長が叫ぶ。
よくわからないけど、また俺は何かやってしまったようだ。まあ、いいや。
「いずれにしてもこれで俺たちの勝利は確実に…」
「危ない!あれを見て!」
と、姫騎士のナナが指差す虚空に、いつの間にか白く光る光球が静かに輝いていた。
…と思った刹那、光球は突然俺に向かってまっすぐに飛んできた!
ーー避けるか?いや間に合わない!
俺は握った剣を振りかざすと、飛んでくる光球を一閃。
魔力の込められた俺の剣に当たった光球は飛んできた勢いでそのまま打ち返される。
しかし、それで終わりにはならなかった。
光球は一塁手の明石から捕手の細川に送球され、本塁封殺。そして、細川から再び一塁へ送球。
この時、打者走者の西岡がラインの内側を走り、守備妨害と判定され、ゲームセットとなった。
和田監督は、ベンチから飛び出し抗議したものの、判定は覆らず。歓喜の鷹ナインとは対照的に阪神ベンチは、しばらく呆然としたままだった。
今メディアで賑わっている森友問題の本質は「官邸主導」の行き過ぎだと個人的に考えていて、この官邸主導の仕組みが誕生した経緯をまとめてみた。今から30年ほど前の日本の政治は、霞が関の官僚と、官僚の利害を代弁する族議員たちの影響力が非常に強く、官邸や首相の力はそれほど大きくはなかったのだ。
1.1980年代後半のリクルート事件において、官僚と族議員、産業界の3者の癒着構造が批判された。
この事件の発覚によって、政官財の三者の癒着構造がメディアによって徹底的に批判された。このリクルート事件以前にも贈収賄事件は色々あったが、自民党の55年体制を批判するという意味において、国民的な議論が沸き起こった。この頃までの日本の政治は、官邸の影響力はそれほど強くは無く、中央省庁や族議員達の利害を調整する役割の方が重要であった。
2.1990年代前半に自民党が下野し、非自民の細川連立政権において政治改革が行われた
1993年、自民党の宮沢内閣は総選挙で大敗し、細川氏を中心とする連立政権が誕生し、自民党は野党に転落する。与党となった細川政権は、国民の期待の高かった政治改革を積極的に進める。具体的には、小選挙区比例代表並立制の制定、改正公職選挙法や改正政治資金規正法、政党助成法などの政治改革四法の制定など。これらの改革によって、党の幹事長職の影響力が強くなっていく。
3.1990年代後半、大蔵官僚による接待汚職事件問題などの官僚不信が頂点に達する。
1998年に明るみになった、大蔵官僚によるノーパンしゃぶしゃぶ事件を機に、世間による官僚不信が頂点に達した。1990年代後半から2000年代前半に掛けて、国民の官僚・公務員不信は続くことになる。これによって、官僚の影響力や権勢は著しく削ぎ落されることになった。
4.2000年代前半、小泉構造改革始まる。自民党内の派閥に一切属していない小泉総理の改革によって、自民党内の派閥の影響力が低下する。
2001年3月に小泉純一郎氏が総理大臣に就任し、小泉構造改革が始まる。国民の高い支持率を背景に、小泉総理は派閥の影響力を無視した改革を推し進め、国民から喝さいされる。
5.2005年の郵政解散において、派閥の影響力が選挙結果に左右されないことが明確になる。
2005年9月の郵政解散に伴う総選挙。当初は小泉総理は選挙に負けると、自民党内もメディアも野党も予想していたが、結果的には無党派層の国民を味方につけた小泉氏の圧勝に終わり、小泉劇場と称された。これによって、自民党内の派閥の影響力が更に低下する。
6.2009年、民主党政権が誕生。当時の小沢幹事長が、幹事長職に権限を集中させる手法を取ったことによって、党の影響力が低下する。
2009年9月、自民党に代わって民主党政権が誕生する。総理大臣となった鳩山由紀夫氏は「政策決定の内閣への一元化」を理念として、あらゆる権限を官邸・内閣に集中させる政策を取り始める。幹事長に就任した小沢一郎氏も、幹事長への権限集中を進める。最終的には、民主党政権の運営の失敗や、官僚の抵抗によって、民主党政権は3年半で崩壊する。
7.2012年には第2次安倍政権が誕生。民主党政権の残した官邸集中の仕組みを引き継ぎ、官邸によるトップダウンの政治が始まる。
2012年12月には、再び自民党が政権与党に復帰する。安倍総理は、民主党政権が作った官邸主導の仕組みを引き継いだ上で、約20年かけて完成した官邸主導の政治を始める。
これまでは、官僚主導で行われてきた幹部の人事権を内閣人事局に一元化し、官邸主導で審議官級以上、約600名の人事を決定することになった。これによって、霞が関の官僚たちは、官邸の意向を気にせざるをえなくなる仕組みが完成した。
最終的な解決がなされたのに蒸し返すことの契約的な是非はともかく、心情面で日本がどんだけ謝っても韓国納得しないじゃんって話については、2015年の戦後70年首相談話の時にパックンが書いたコラムが興味深い。
以下に一部引用する。
謝るべきかどうかではなく、何故お詫びを求められ続けるかということだけについて話そう。
まず挙げられるのは「各国の政府は、内政が厳しいときに反日感情を煽り、国民の怒りの矛先を外に向けさせる作戦を取る」という説明。これは間違いない。その作戦自体は間違っていると思うけどね。やりすぎてだんだん効果が薄れているみたいだし。
でもそれだけではないだろう。もう1つの理由として、日本の「反省が伝わっていない可能性」も考えよう。もちろん、これまでに日本政府が謝ってきたのは事実。少なくとも村山首相、中曽根首相、細川首相、小泉首相、安倍首相が謝罪している。
しかし、各時代の首相が謝っている傍らで、他の政治家たちによる謝罪とは反対の意に捉えられる発言が目立つ。有名な例だと、中曽根内閣時代、藤尾正行文部大臣の韓国併合についての「韓国側にも責任がある」発言。竹下内閣時代、奥野誠亮国土庁長官の日中戦争についての「侵略の意図は無かった」発言。最近だと、「慰安婦制度は必要だった」という橋本徹大阪府知事(当時)のコメントがある。
行動も紛らわしく見える。5名の首相がおわびをしている一方で、靖国神社へ参拝している戦後の首相は14名。国会議員では数百人に上る。靖国神社は、世界のメディアでWar Shrine(戦争神社)と紹介されている。参拝される人の意図とは関係なく、世界が受ける印象は「お詫び」とは反するものになってしまう。
今回も謝罪の意をこめた総理談話を発表した翌日に、67名の国会議員が参拝をした。安倍総理は参拝しなかったが玉串料を収めた。こういうことは英語でmixed messageという。その行動により、残念ながら「お詫び」が印象に残らない結果となる。
その後、おおむね「謝罪した」とみられているドイツとの比較などが行われている。
つまり、日本政府や首脳は、公式声明では確かに何度も謝罪している。だが、公式声明以外の振舞いや、首脳以外の政治家の言動に「本当はたいして悪いと思ってません」というホンネが感じられるため、本気で謝っていると思ってもらえないということである。
なので、どうすれば心から謝罪したと納得されるかというと、政治家(たぶん国民も)の大半の意見を「日本が悪かったです」ということで統一し、かつ大々的な声明だけでなくその他の場面でも日本が悪かったという態度を崩さず、あと政治家や元政治家は靖国参拝や奉納を止めるといったところだろう。
まあ確かに会社とか友人関係でも、いったんちゃんと頭は下げたものの、その後自分の席に戻って肩をすくめたりする姿が見られたら、本当は反省しておらずしぶしぶ形だけ謝ったのだ、という風に思われるだろうことはわかる。
靖国は、誰がどの墓や神社に参拝しようが自由なのだがその自由なところから透けて見える気持ちが反省のしてなさであるというのはなんか難しい所だ。
結局のところ、大日本帝国とそれにまつわる物事をナチス第三帝国と同じくらいの扱いにしたら満足してもらえるはずってわけだろうが……。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/kagamihiroyuki/n/nea42d0f58c16
大橋巨泉が朝丘雪路をボインちゃんって言った頃には日本もマスメディア的には巨乳信仰だったと思うけどなー。かとうれいこ&松坂季実子以降ってのはいくらなんでも…。
だがそこから巨乳を探してタレントにしまくろうという動きには繋がっていない。
松坂季実子の登場の何が画期的だったのかというのはいろいろ背景を説明しなければいけないだろう。
松坂季実子以前にも巨乳タレントというのはいろいろいた。榊原郁恵、アグネス・ラム、河合奈保子、柏原芳恵、堀江しのぶなどなど。
当時はとにかくアイドル、女優というのはくびれてなければいけなかった。ウェスト60cmを越える女優やアイドルなどあってはいけなかったのである。
あの榊原郁恵もアイドル当時はウェストは60cmを公称としていた。どう見てもそんなわけはなかったがそれで通していた。
若くして亡くなった堀江しのぶも人気がある程度でてくると「もう少し細くなりたい」といって痩せてしまった。
あの山口百恵ですらアンチからは「大根足」と言われたのである。
1989年、バスト110cm(公称)をひっさげて松坂季実子が登場した。公称スリーサイズ110.7cm、60cm、90cm。ウェスト60cmは露骨なウソだったがそれを気にさせないぐらい公称110cmバストの存在感は圧倒的であった。
デブじゃんという声もそれなりにあったが、公称110cmの乳はそれに勝って人気を博したのである。
そしてほぼ同時期にイエローキャブがかとうれいこ、細川ふみえを発掘する。
もはやある程度バストサイズがあればデブという声を怖れる必要はなくなっていた。
小泉元首相みたいに意識して影響力を減らすような美学はなさそうだし、どちらかというと森元首相の強化版みたいになりそう。森元首相は自分の意思がスポーツ以外になさそうで軽いお神輿だけど、安部さんの美しい国っていう主張はちょっと極端で、現役世代に迷惑かけそう。あと、安部首相は自分がバカだっていう意識がなさそう。森元首相はわかってやってそう。
「2010年代とは極東アジアのパワーバランス違うし取り巻きも古いからはっきり言って邪魔なんだけど、へそを曲げられると面倒だからなあ。」(2030年の首相のボヤキ)
自分は神輿だと思っている人 :鳩山、森、小渕、村山、野田(?)、麻生、羽田、細川、安部(第一期)
自分は指導者だと思っている人 :橋本、小泉、安部(第二期)、福田、宮沢、菅
橋本も福田も宮沢も管も切れ者であることは間違いないし、小泉は血筋+政治の天才だけど、安部は幸運と血筋の人で、能力で勝負の人ではないのに。安部さん長期政権でブレーキ効かなくなってるんじゃないかなあ。権力は人を腐敗させるのであるなあ。
「ペンの力って今、ダメじゃん。だから選挙で訴えた」鳥越俊太郎氏、惨敗の都知事選を振り返る【独占インタビュー】
http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/10/shuntaro-torigoe_n_11422752.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.huffingtonpost.jp/2016/08/10/shuntaro-torigoe_n_11422752.html
ブコメで「鳥越に投票した人の意見が聞きたい」というものが多くあるので、書こうと思う。以下、候補者・知事の敬称略。
吾輩は「無党派層」である。支持政党はない。ただ、公明党支持者にしつこくされたことがあり、同党は論外だ。自民党も好きではない。猪瀬辞任後の前回の都知事選では、細川・舛添・宇都宮の三択で、宇都宮に入れた。細川は、演説を聞いて「これはダメだ」と思った。見栄っ張りで派手好きな舛添は以前から嫌いだった。このような消去法で宇都宮に入れた。消去法で宇都宮を消さないのだから、吾輩は「リベラル」と呼ばれ得るのかも知れない。
しかしながら、今回、2016年の都知事選で「リベラルが一致して担いだ神輿」には、心底、失望した。何しろ、最初が「都政には興味がなかった」発言である。ジャーナリストの「調べる」「人に伝える」という技能は、行政の手腕には関係がない。そもそも吾輩は、ジャーナリストの鳥越俊太郎に憧れのようなものは抱いていない。テレビで大きな声で堂々と喋る鳥越が、何かに優れた知見・洞察力を持っていると思えたことはない。逆に、「中学生レベルのことも知らないのか」と思ったことはある。なぜ鳥越が「勝てる候補」と看做されたのか、吾輩にはとうてい理解できなかった。
だが、文句を言ったところで、小池、増田以外の選択肢は「野党統一候補」だけで、それが鳥越であるという現実は変えられない。
かくなる次第で、このほどの都知事選挙は、吾輩にとっても、他の多くの人々と同様に、小池・増田・鳥越の三択だった。率直に、どれも選びたくなかった。しかし、「選ばない」という選択肢はない。
真っ先に消去したのが増田である。岩手県知事時代のひどい仕事ぶりについて書かれたネットメディア(吾輩の記憶が正確ならばBlogos)の記事を読んで出した結論だ。
次に消したのが小池であった。東京にとっては福祉が非常に重要な問題だが、小池の政策で、東京が吾輩や吾輩の家族・友人の暮らしよい街になるとは、まるで思えなかった。それに、小池は数年前、とんでもない電波を飛ばしていたことがある。この人を都知事なんかにしてはならない。ぜったいに。
かくして、吾輩に残された選択肢は鳥越のみとなった。しかし、鳥越には入れたくなかった。「都政には関心がない」「私だってバカじゃないのだから、少し勉強すればわかる」と言い放つ無神経な大物にトップに座られても、現場が混乱するだけだ。しばらく、一度選択肢から消した増田や小池の発言を見直しては、やはりダメだと結論を出すというようなことをしていた。そして、あの週刊誌報道がダメ押しになった。そのころには、新聞なども「小池がリード」と報じていた。鳥越は、吾輩が投票しても、どうせ当選などしないだろうと吾輩は確信した。
その段階でも、実は、残る選択肢があった。即ち、棄権か白票・無効票である。だが、香港で雨傘を掲げたデモ隊のことが思い出され、棄権は絶対にできないと思った。
吾輩は、投票日当日まで悩んだ。いっそ、「泡沫」に入れるか? だが、「泡沫」も、今回は名前を書くのもためらわれるような面々だ。
当日。吾輩は投票所に到着するまで、一歩一歩歩きながら、「鳥越、白票、鳥越、白票」と唱え、投票所に入ったときが「鳥越」か「白票」かで決めようと思っていた。だが、横断歩道で信号が変わりそうになって走ったので、わからなくなってしまった。そうなると、「暑い中、せっかく投票所まで来たのだから、何か書くべきだ」という内なる声がしてくる。「何か書く」といっても「鳥越の名前」以外にはないのだったが、投票用紙を受け取り、ブースに向かい、鉛筆を持つまでの間に、「宇都宮の名前」を書こうかなとも思った。あるいはいっそ「舛添の名前」でもいい。しかし「宇都宮」は下の名前が思い出せず(名字だけでもよいのだが)、「ますぞえ」は漢字がわからなかった(ひらがなで書いてもよいのだが)。吾輩は鉛筆を持ち、「鳥」という字を書き始めた。この時点で後戻りできなくなった。最後まで名前を書いた。
投票所を出るとき、吾輩は、かつてないほど悪い事に手を染めたような気がしていた。道徳的に、許されないことをしたような気がしていた。横断歩道の向こうにあるコンビニのトイレに直行して、石鹸で手を洗った。
こうして吾輩は、130万票の1票になったのである。吾輩のような有権者は、他にもいるであろう。ハフポのインタビューへのブコメのいくつかで「ご愁傷様です」と言われ、吾輩は思わずぺこりと頭を下げている。
https://kakuyomu.jp/works/4852201425154963487
先に断っておくことですが、自分が読んだのは
時候の挨拶とか書けないのでさっさと始めてガンガン褒めていきます。
どの作品を取っても、舞台は現代日本をベースにしています。それを大きくプッシュするつもりはありませんが、わかりやすいことは良いことです。
しかしあくまでそれは「ベース」です。例えば「疾風怒濤商店街」、このタイトルでありながらメインテーマは「ドラゴン討伐」。商店街がある世界にドラゴンなんか来るのか。ドラゴンが居る世界に商店街なんてもんがあるのか。つまり、現代日本ひいては地球に「みんな知ってるファンタジー」が融合する世界観です。「消防庁から派遣される聖騎士団」とか「勇者になるため日々鍛錬している女子高生」とか、そんなんワクワクしちゃうだろうがー!!!
とにかく、そういった要素が、上記作品の中では常識なことが多いです。現実世界の私達が「ユニコーン?は?ごめん何言ってんの?ゲーム?」なのに対し、作品世界では「ユニコーンっすか、うおー珍しい」みたいな感じです。現代日本を舞台にするからには、私達の生活イメージを壊さないレベルで、ファンタジー要素が点在しています。この距離感は素晴らしいと言えます。
バカです。
その、「キャラクターについて一項目設けよう」と考えた時に、当然色々なキャラクターが浮かび、その色々な魅力を語ろうとしたのですが、それらを総括してタイトルに据えられたのがこれでした。ほんとバカ。
バカバカ言っていますが、それもまた良いことです。というか【ロケット商会】さんは意図的に登場人物をバカであることにしています。なぜなら、キャラクター性におけるバカさとは、カワイイことと直結するからです。
また付け加えるならば、上記作品群におけるキャラクターは、どちらかと言うとチンピラめいた性格であることが多いです。考える能力が無いタイプのバカというより、全うな教育を受けていないタイプのバカです。いわゆる「育ちが悪い」人達。こうしたバカな人物達は、純粋で、無鉄砲で、欲望に正直で、あまり面倒なことを考えません。この性質は、読者には読みやすさとキャラクター(=作品)への愛着を与え、作者にも展開の妥当性や派手さ、スピード感を与えるものとして、大きな効果を担っています。
ちなみにですが、当然ながら(比較的)に賢いキャラ付けな人物も登場します。しかしこの作品群におけるバカの方々は頭脳がバカなのではなく性格がバカなので、マリファナに依存していたり、一人の時間にカッコつけた仕草を練習したり(※推定)しています。もう全員カワイイで良いですね。
そしてアツい要素として、バトルの描写も欠かせません。「勇者のクズ」に至ってはジャンル名「現代アクション」を冠しておりますから、大変重要なポイントです。 しかしながら、この見出し文に違和感はおありでしょうか。「超クレバー」て。「賢い」とか「利口」とかそういう言葉やぞ。お前さっきまで登場人物をバカバカ言うとったんちゃうんかと。・・・なんでですかね。(投げた)
説明に入りますが、各作品内での戦闘描写は主に白兵戦です。少なくとも主人公は剣を使います。現代日本においてそれをやる理由付けみたいなものは当然あり、かつ納得できる内容になっていますが、自分は「まあ目的ありきでいいじゃんそういうのは」とか言っちゃうタイプなのでここでは特に書くつもりはありません。
とにかくは近接で刀剣で緊迫で刹那なバトルです。当然のことを言いますが、そういった場面での決着というのは常に一瞬です。極端な例で言えば、その一瞬に向け、時には剣戟さえしません。駆け込む所から、相手の迎撃を予測し、いなし、隙を作り、一撃。実際にはそれぞれの動作と応酬には動機も含めたもう少し微細な描写が盛り込まれ、その一瞬の妥当性を裏付けます。それは読みやすい上で、とにかくカッコいいの一言に尽きます。実際に、読んでる最中何度も濡れました。嘘です。
ここまでで「スッキリ超クレバー」の「スッキリ」です。マジで言ってます。
その一瞬へ辿り着くために、キャラクター達は考察を重ねています。特に各作品の主人公がそうで、目的のために静かに動くことが出来るタイプです。(あるいは舞台の状況が彼らをそうさせます)
いかに相手の不意を突くか。いかに相手の弱点に剣をブチ込むか。いかに散乱した戦場で安全を確保するか。読者が知らない方法で、手順を踏んで、その瞬間に出来ることを選択していく。時に防がれ、上手くいき、そのそれぞれが論理的で、心地よく納得した感覚で読み進むことが出来ます。(実在するかは知りませんが)現実の技術や武術になぞらえた表現での解説も入ることがあり、その側面からも地に足の着いた戦闘描写を感じられます。
ぶっちゃけ具体例については読んでください。
曖昧なことを言いますが、文字でしか表現できない文章の世界で、「存在の雰囲気」を表すのはまずその名前です。固有名詞に、センスが輝いています。この意味では、作中で名前くらいしか出てこない存在だとか、そういうものに対して威力を発揮します。
《新桜庭ゴブリンズ》・・・疾風怒濤商店街。主人公所属の草野球チーム。メンバーの半分は口癖が「クソが」「殺す」みたいな人達。ちなみに作中に「ゴブリン」という単語はこれ以外に出てきません。
《細川まる子》・・・疾風怒濤商店街。もしかしたら《まる美》かもしれない。舞台の市長の娘。基本的にお邪魔系のキャラ。リクルートスーツが似合いそうな高圧的アホ。
《琥珀の茨》卿・・・・勇者のクズ。魔王の一人。ヤク中気味で脆さがある。自分の能力が名前に現れている。
《嵐の柩》卿・・・勇者のクズ。魔王の一人。《琥珀の茨》さんよりかなり格上。《琥珀の茨》さんみたいな単純な命名ではない。(※作中で名前について語られた事がある訳ではありません)
《七つのメダリオン》・・・勇者のクズ。作中で主人公達がハマっているカードゲーム。ルールについては全く言及されない。よくわからんカッコ良さと、なんか深そうなゲームっぽいぞというのが多分に感じられるネーミング。
・・・とかとかとか。これはまあ、かなり自分の主観が入っていると思います。どちらにしても、ネーミングに限らず、場面と作品世界の雰囲気作りに余念がないということです。意識してもしなくても、ガンガン入ってくる要素ですので、すぐに楽しめます。
少なめ(に感じる)容姿描写、とでも言ったほうが正しいかもしれません。読んだ後の感覚としてなのですが、「描写量の割にイメージが沸く」「しかも他の人の描いたファンアートが俺の思ってたのと近い」ということがありました。描写の費用対効果が高いとでも言っていいかもしれません。
当然ですが、そういった描写というのは言わば説明パートで、読みやすさのハードルを上げる側面があります。これが費用です。恐らく【ロケット商会】さんはそれを操り、物語冒頭で登場するヒロインくらいにしか、一度で詳細な描写をしていません。他のキャラクターに関しては、上記の命名や行動により醸し出す雰囲気、シーン毎のちょっとした追加情報でイメージを構成させ、大きな効果を生んでいます。
また憎いことに、主人公に関しては一切の描写をしません。だいたい性別くらいしかわかりません。年齢さえ、
「高卒らしくて、二十歳はいってるっぽい」「高校生だけど学年がわからない」「もしかして三十行ってる・・・? 無いか」といった有様です。(3作品各主人公)
ただし性格に関してはしつこい程に読み取れるので、読み手たる我々は都合よくニヤニヤすればよいものと思います。
■
・・・ふう、これくらいにしておいてやるぜ・・・(書き慣れない文字を連ねすぎた)
ええと、長々と書いておいて最後に言うセコい手法なのですが、正直な所自分は普段ほとんど小説を読まず、評価のポイントなどというものはまったくわからん身であります。他作品と比較して~なんてことは到底出来ない程度の経験です。なので、おそらくめちゃくちゃ普通で当然のことを並べてるんだろうなあ、という自覚を感じながら書いておりました。
それでも、久しぶりに小説というものを読んで「やべーなにこれ楽しい」ってなったので格好をつけました。というか、「勇者のクズ全部読んじゃったよおおおお」って言ってたら「何らかの感想行為をしたりしたらもしかしたらロケットさんのモチベが上がるかもしれんぞい」って言われたのでなんか表現しようとしてこうなりました。はい。もっと私に続きを読ませてぇ!!
先日、『選挙カーがはた迷惑な大声で名前を連呼する理由を知った時のこと』という文章を書いた。
予想外の反響を得て、驚くとともに、うれしくも思う。
そもそも記事を書くきっかけとなったサイバーメガネさんも、さっそく内容をフォローするように
『無党派層はコスパが悪くて当てにならない』というエントリを書いてくださった。
なぜ、反響があったかといえば、おそらく、あの頃の自分と同じように選挙の現場を見たことがなく、
「なぜ、反感を買うだけなのに、選挙カーは騒音をまき散らしているのだろう」と疑問に思っていた人が多かったのだろう。
中には、「ああいうばあさんは、もうすぐいなくなるだろう」という趣旨のコメントもあったが、僕はそうは思わない。
そもそも、あれはまだ橋本龍太郎が総理大臣をやっていた頃の話だ。
つまり、かれこれ20年近く前の話なのだが、その後も状況にさほど大きな変化はなかったことは、いくつかのブコメを見るだけでも分かる。
次の20年で変わるかといえば、そうでもないだろう。なぜそう思うかを、書いていこうと思う。
あの頃、「無党派層」という言葉はすでにメディアに登場していた。
(wikiによれば、大阪府知事に横山ノック、東京都知事に青島幸男が当選するという「珍事」が起きた時に注目され、流行語大賞をとったそうである。
その前に「日本新党ブーム」を経て、細川内閣が誕生したころには、まだメディアではメジャーな言葉ではなかったのか)。
無党派層に心情が近かった当時の僕も、「ああいうばあさんみたいなタイプの人は、いずれいなくなるのだろう」と思っていた。
だが、少なくとも20年程度では、いなくならなかった。
思い起こしてみれば、あの当時から、「応援しているのに、なぜウチのほうに選挙カーがこないのか」と苦情をいうのは、必ずしも年寄とは限らなかったのだ。
その渦中に身を投じてみれば分かるが、選挙というのは一種の「お祭り」である。
であれば、選挙カーという「神輿」は、自分の家の近所に来てくれたほうが楽しかろう。
お祭りというのは、参加する者にとっては楽しかろうが、部外者にとっては迷惑で騒々しいだけだ。ハロウィンを見ればわかる。
最近、高知県では、新住民からの「よさこい祭りの練習の騒音がうるさい」という苦情が増えて、祭りの伝統を守りたい人々は対応に苦慮しているらしい。
祭に参加して騒ぎたい人々と、外側にいて「うるさい」と感じる人とは、どうしても対立する。
それは、祭りのルーツがどうとか、そんなこととは、おそらく関係がない。
僕はあの頃、お祭りに参加して盛り上がるのは年寄りのやることだと思っていた。
だが、実際にはそうでもなかった。
古臭い祭りにはそっぽを向いても、なにか面白そうな新しいお祭りあれば、こぞって参加するという人たちが、世の中には相当程度いるのだ。
既成政党による「ドブ板選挙祭り」にはそっぽを向いている若者が、国会議事堂前でSEALDs祭に参加したって、なんの不思議もない。
お祭りといえば、あの選挙事務所でバイトをしていたとき、幹部がにわかに、ちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあった。
総裁とは誰のことなのか、僕はにわかに判じかねたが、それは当時、自民党総裁にして総理大臣でもあった橋本龍太郎のことであった。
事務所の関係者は「総理」でも「首相」でも、ましてや「ハシリュウ」でもなく、「総裁」と呼んでいた。
総裁が応援しに来てくれるということは、つまり、その候補者や選挙区を党本部が重視している証拠なのだが、、
橋本龍太郎という人は日本の歴代総理には珍しく、その端正なルックスで女性人気がきわめて高かった。
慶応大学在学中に第一期東宝ニューフェイスに誘われたこともあるというから、「政治家にしてはイケてる」というレベルではない。
当然、「集客力」も高く、事務所としては、願ってもない応援弁士なのである。
今でいえば、小泉進次郎の人気が、近いものがあるのかもしれない。
当日は、それはもう「お祭り騒ぎ」だった。バイトも支持者も大勢駆り出された。
事務所の幹部は警察官やSPと打ち合わせに余念がなく、事務所の司令塔たる候補者の長女は、誇らしげな顔をしていた。
実際、当時の橋本龍太郎は、「本日、○時に、橋本龍太郎総裁が、応援演説に来られます!!」と呼びかければ、
「エッ、うそ!? マジ? こんなトコにハシモトソーリがくるの? じゃ、ちょっと見ていこうかな」
などと騒ぐほどの人気があった。
「もし、総裁が演説している最中に暴漢が襲いかかって、それをウチの先生が体を張って守って、ケガして運ばれたりしたら、明日の新聞の一面になりますかね?」
「ああ。そうなったら先生は、もう当選確実だな。お前、いっちょやってみるか?」
僕らは、大分親しくなった事務所の下っ端幹部と、そんな軽口をたたいたりした。
定刻になると、ちょうどライブの最前列でファンを押さえるスタッフのように、バイトや運動員が群衆を抑えている前に、黒塗りの車列が到着した。
SPに囲まれながら降り立った橋本龍太郎は、思った以上に背が低かったが、確かに二枚目だった。
「世の中には、選挙になると、消費税率は下げて福祉の水準は上げるなどと、夢のようなことを訴える政党もありますが、
私には、そんな魔法使いのようなお約束をすることはできません」
などと語りかけるイヤミな調子には、好き好きがあっただろうけれど。
当日、街頭には大勢の支持者が動員されていたけれど、それを上回る人々が足を止めた。
それがきっかけで自民党候補者に投票したひともいるのではないだろうか?
だが、なにより、事務所に集う人々は、「総裁が来てくれた」「予想以上に人が集まった」という事実に興奮し、
例のばあさんは、街頭には来ていなかっただろうが、
「自分の支持する先生のために、橋本さんが応援に来てくれた」という事実に喜びを感じ、
ますます「近所の人に、投票してくれるように頼む」という彼女なりの方法で、お祭りを楽しんだことだろう。
「お祭りだなんて、とんでもない。選挙というのは、冷静に過去の実績や提示された政策を比較検討して、適切な候補者に投票すべきだ」
という人もいるだろう。それは、おそらく正論だ。
だが、そういう正論を唱える人たちが、政策とやらにどの程度つうじているのか。
数多ある課題の、すべての軽重を判断して、どれが適切な政策が判断することが、果たして可能なのか。
それに、どんなに「政策」が素晴らしかったとて、口先だけでは何とでもいえる。
政策はもちろんのこと、きちんと有権者に呼びかけ、汗を流している人を選ぶべきではないのか、という話にもなる。
そもそも政策など判断しかねるという大多数の人は、「難しいことは分からないけれど、あの人ならば大丈夫」という人に、判断を託すことになろう。
そして、「あの人=政策を作成、判断し、実行する人」というのは、つまり「権力者」だ。
かつての世の中では、文字通り血で血を洗う抗争をくぐり抜け、数多の屍の上に生き残った者が権力を握ったのだろうが、
そんなことで無闇に人の命が奪われるのはよろしくないということで、選挙というお祭りで権力者を選ぶようになったというのが、つまり民主政治なのだと思う。
「あの、お偉い先生も、私の一票があるから、大きな顔をしていられる」「私の一票のために、頭を下げてくれる」
そのことに喜びを感じられる人が、選挙というお祭りに参加する。
選挙カーを待ちわびる老人(のような人)とは、そういう人たちではないかと思うのだ。
そして、「お祭り」を利用して権力を上りつめようとする人間は、冷めた傍観者たちに参加を促すよりも、
「お祭り気質」な人たちを盛り上げることに注力した方が、効率が良いことを知っている。
時に、「権力者」という個人ではなくて、「戦争法案をつぶす」とか、そういう思想だが理念だか、そんなようなものを「ご神体」にしてお祭りが催されることもあろう。
多分、それがSEALDsだ。
彼らは初期の目的を達することはできなかったが、多分、世の中を意図的に動かそうと思えば、お祭りのような手段を使ってエネルギーを結集することが必要なのだと思う。
そんなこととは関係なしに、僕らから全く見えないどこかで、いつのまにか物事が決まっていく世の中は、多分、今の世より住みにくかろう。
僕はそんな世の中に住みたくないし、世の多くの人が、そう望んでいると思う。
だから僕は、「選挙カーを待ちわびる老人(のような人)」は、そう簡単に消えないと思うのだ。
消えるべきではない、といえるかもしれない。
選挙のやり方は変わっていけば、騒音をまき散らす選挙カーのような方法は使われなくもなるだろう。
選挙ではないけれど、今もネットでは、「炎上」という名のお祭り騒ぎが日夜開催され、それに参加する人もいれば、眉を顰める人もいる。
僕の粗末な頭では具体的に想像できないけれど、仮にネット選挙が今より進化したとしても、
選挙カーの連呼とは違う種類の「騒音」に悩まされ、うっとうしくなる日がくるのだろう。
ところで、僕はハロウィンに仮装して参加したことがない。今後もたぶん、参加することはないだろう。
だが、心の片隅に、あの、屈託なく仮装して楽しんでいる人たちを羨ましく思う気持ちがないかと聞かれると、全くないとは言い切れない。
選挙カーで名前を連呼する事象について言及すると「そもそも公職選挙法で規定されているから、それしかできないのだ」とブコメやトラバでご教示くださる方がいる。
仮に、連呼以外のことが認められ、選挙カーが政策を訴えだしても、「うるさい」と思う人は「うるさい」と思うだろうし、
走り回る選挙カーから、「政策に興味のある意識が高い有権者」の判断材料になるほど意義のある複雑な内容が訴えられるとも思えない。
細川政権でわかったのは、社会党に与党は出来ないということだった。
何かと政策に対して原理主義的に主張をし、まだ足場の固まってない政権基盤を崩しまくっていた。
村山政権では自民党がうまく御していたけど、社会党の態度軟化を見れば、足場の硬さからくる交渉力の差だったのは明白だった。
だから交渉力をつけてから政権につかなければ、スグにまた崩壊するのは目に見えていたのに、鳩山政権でもこりもせずに同じ現象が見て取れた。
今度は社民党だったが、政権基盤を盤石にしたい民主党首脳部は社民党に配慮した結果、沖縄で大ゴケし、その後の崩壊は目を覆うばかりだったと。
正しい政策判断をするには政府内の情報が欠かせないのに、その殆どが自民党内部にしか無かったということ。
自民党は部会を作り、そこに官僚が積極的に関与して長い時間を掛けて政策を練っている。
そうやって、内部調整をしてから表に出さないと、組織としてのまとまりに疑問符は付けられるし、国民からウソを言っているように見られると。
それが故のグダグダは、かなり見てきたよね?
この問題については、事前に解消する動きはあったと思う。
多分だが、小沢一郎あたりはその辺を熟知していたので自民・民主の大連立を目論んだのだろう。
じゃぁどうすればいいのか。
このまま自民党に任せる案が一つ。
しかし、いざという時に替えがきかなくなるリスクがつきまとう。
他は大連立をしてからの政界再編か、もしくは野党の部会にも官僚が積極的に参加できるように部会に法的根拠を与えるか…。
どれもイマイチ。
三井住友海上で三井閥で住友社員が孤立して自殺した件で思った。
昨日のルーズヴェルトゲームもそうだけど、チャンスなんて本当に振って沸いて来るもので
それを手にするには並大抵の努力では足りない気がする。
他の住友社員は三井閥に揉まれながらも自殺者を出していない事からも明らかで、
要するにこの社員はルーズヴェルトゲームで言う所の逆転負けをした人間だ。
多分振って沸いたチャンスをピンチだと思い込んで逃げ回ったツケが死ぬ形になって返って来たのだろう。
ましてや人生の勝ち組である三井住友海上に勤めておきながら、あたかも自殺したのは三井閥のせいであるかのような
ワタミやゼンショーのような見るからに死亡フラグの立った泥船のような会社ではなく、むしろそれを救済する立場にあるわけで
保険会社は顧客獲得がバブル崩壊後から徐々に他社との入れ食い状態になり飽和化が顕著になっていると聞いている。
それでも生き残っているのはライフネット生命などに代表される新しい形を作りだしてきたからであり、件の社員は
それらを基に三井閥に認めさせてきたのか?と思わざるを得ない。
並大抵の努力で報われないのならば、今まで培ってきたモノを尊重してそれを他に浸透させていくべきではなかったか。
ルーズヴェルトゲームの細川社長は白水銀行を黙らせるべくあらゆるもちうる限りの手段を用いてきたではないか。
そのおかげで九死に一生を得たのだ。
ワイドショーや過去の知事の出自を見ていくと知名度がとにかく大事と言われた東京都知事選。
滝川クリステルが出るとか出ないとか話題になっていたことからもよくわかる。
落胆したり、東京ダサいと言い放ったりするような人がいるようだが、
今までの傾向からすれば当然のことだと思う。
結局のところ、本気で都知事になるつもりならば下記のどちらかを行う必要があった。
1.マスメディアに主要候補と扱ってもらえるようなPR活動など
2.マスメディアに取り扱ってもらわなくても当選するような何か
正攻法でいくなら1については最低条件で、
振り返ってみればチャンスはあったように思う。
というのも、今回主要な立候補者が揃うのがとにかく遅かったので、
立候補者が揃う前までに体制を整えて政策を提示すればよかった。
一気に知名度を上げることが出来たはずだ。
にも関わらず、NHKの「ニッポンのジレンマ」に出たいとかいう
心底くだらない理由で、立候補が遅れに遅れ、細川さんや舛添さんよりも後に立候補。
この段階で彼が正攻法での選挙方法で勝つ道は絶たれたと言ってもよい。
そして、絶たれた道を更に断ったのはホリエモンの記者会見同席で、
本を出して、仮出所したら禊が終わったとばかりに、
相変わらず暴言を吐きまくって日々印象を悪くしているが、
そもそも一般の人はホリエモンの本を読まないし、
読んでいてもどんどん印象が悪くなるしと
一緒に出てくるメリットがほとんどない上に、デメリットは多い。
一方、マスメディアに取り上げられずに戦う方法は今のところ確立されていない。
ただ、こっちの方法を選んだときにやらなければならないことは明確で
マスメディアでは取れず、かつ自分に有利な層が積極的に投票したくなるための活動
ということになるだろう。
本人はツイキャスしてればいいんじゃんみたいなことを言っていたらしいが、
そんなしょぼい話ではなく、
立候補の時点で興味があろうとなかろうと、とにかく興味を持ってもらい、
その人たちがどんな予定が入っていようが投票にいかせる
という難易度の超高いことを行う必要があった。
にも関わらず、少なくとも私の耳には
家入一真が何か選挙活動をしているという情報がほとんど入ってこなかった。
私はtwitterもfacebookも使っていてそれなりにネットに親しんでいるつもりだが、
彼が立候補したことの是非を問う声はあっても、
彼が何かをアピールしているのをほとんど聞かなかった。
彼が真剣に(もしくは本当に)都知事になりたいと考えているとはとても思えなかったし、
そう思わせるだけの行動もなかったように思う。
当選すると思ってた人は何を根拠にそう言っているのか全くわからないし、
見る目がないと思うし、本当にアホなのではないかと思う。
祭ぽく、身内では盛り上がって楽しかったね。
とか言ってるぐらいがちょうどいい感じだったのではと思うのだけど。