「紀要」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 紀要とは

2017-10-22

アニメシリアスがあると見たくなくなる人々」について

寓話理想郷ユートピア)」

神様は、一部の人間に理想郷を与えることにしました。

まずは、外の世界から隔離した場所を造り、そこへ人間達を住まわせます

人間食べ物不自由しないよう、

飲むだけで空腹が満たされ、若さを保ち、健康でいられる”湖”をつくりました。

その水は、人間だけでなく、植物を潤し、空気もきれいします。

身体にかけるだけで、汚れが取れ、傷が治り、とても良い香りに包まれます

また、法律を無くし、自由に生きられるようにしました。

気候は常に心地よく、衣服必要ありません。

働く必要も無く、病気にもならず、男女は誰とでも交われます

人々は、この理想郷感謝し、生きることを楽しみました。

しかし、何ヶ月か過ぎると、人間達は不満を持つようになりました。

それは、人間が持つ、妬みや嫉妬からまれ感情でした。

神様は、人間から男女の種別を無くし、その原因を取り除きます

そして子孫を残せない代わりに、永遠の命を与えました。

暫くすると、また人間から不満の感情が現れます

調べてみると、綺麗な者が醜い者を虐げていました。

神様は、表面の差異を無くし、人間の形状を均一化します。

これでやっと、人々から不満の感情が消えました。

暫くして神様理想郷を眺めると、人々は皆、あの湖にプカプカと浮き、じっとしていました。

それは神様にとって、とても綺麗で完璧理想郷でした。

出典:StudioGIW「VAZIAL SAGA」より


https://anond.hatelabo.jp/20171022210553

少し追記する

人間歴史自然の克服である、と誰かが言った

それはつまり効率への志向である

人を鍛えるよりも、道具を作る方に人間進化してきた

人間の英知とは、自身で出来ることの増加ではなく、環境を変えることへの志向からまれ

「誰が行っても同じ結果が出る」は科学原則である

それは裏を返せば、個人でできることの減少である

はいくらでもある

利便性効率の追求によって、職人は消え、仕事は消え、人は人と仕事をしなくなる

人は欲求阻止体験を抱え込むことから解放されつつある。しかし苦悩場面を体験しないで済むということは当然その時発動される自我防衛・工夫などの鍛錬をしないことに通じる。

人は言葉を使って考えることで世界を内的に再構成すると言われるが、欲求満足や快感保証される社会では、個人はそうした作業負担を免れる。人格はその構成拡散させたままでも生存できる方向に向かっており、人は欲求とその満足というパターンを得ているうちは良いが、そうでない時には著しく脆弱な反応を見せる、「考えない」存在になっていくことが懸念されるのである

事実、対人関係だけはこうした欲求一満足という即物性を欠いている(人をモノ化した際には成立するが)。

現代人に残された難物がコフートの言うように周囲の人間との関係性に悩むことであるかもしれず、またそれも情報機器の助けによって容易に自己完結的な引きこもりへの道が用意されていると言えよう。

――田村敏昭(2004),内的葛藤を失った現代青年 臨床事例から理解,東亜大学総合人間文化学部紀要,4,17-26

出典


この「人をモノ化した際には成立する」というのが、今の日本で行われつつあるのではないだろうか

「現代のオタクは少女をどこまで「破壊」すれば安心するのだろうか」で書いたように

キャラクターとはそもそも人間性を破壊しモノ化した対象を指す

また、現代における現実人間関係そもそも葛藤回避である印象もある

お互いに不快な思いをさせないよう、生ぬるい表面的な関係とやり取りに終始する傾向にあるのではないだろうか

その反動としての「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」や「とらドラ!」の存在が持て囃される一方で

アニメシリアスがあると見たくなくなる人々」が居るわけで

彼らの世界には葛藤はなく、それを表現した作品への希求はなく、ただただ苦痛体験アニメ媒体を通して追体験させられているように感じられるのではないだろうか

そこにきて「Re:ゼロから始める異世界生活」において主人公が陥るような自己肥大自己嫌悪といった葛藤に直面化させられると

主人公気持ち悪い」「かっこ悪い、見てて苦痛」という感想しか持ちにくく、自分と相対化してみることができなくなる

ネットにおいて「自分がその段階を通過していないから、スバルに対して"ああ、自分もこういう時期あったな"とみることができない」という指摘がしばしばみられるが

これもやはり葛藤を持つことの不慣れからくる保持能力の欠如に対してのしてきであると捉えられるだろうか

結論:兎にも角にも、サーバルちゃんの全肯定現代オタク希求する

2017-09-10

5分でわかるカタルーニャ住民投票独立問題

このへんの話。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170907/k10011129891000.html

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20170908/p2

事情に詳しくない人からすると「なんでそんなにカタルーニャは熱くなってるの?」って感じだろうと思うので、簡単に解説したあとで補足説明をつけます。

5分でわかるまとめ

補足説明

背景を説明するためには、時代をいっきに40年ほどさかのぼ必要があります

1975年に、スペイン総統フランシスコ・フランコが亡くなりました。その結果スペイン王政復古し、現国王の父であり当時国王だったフアン・カルロス1世のもとで民主化への道を歩んでいくことになります。この王様、退位前の数年間はひどく評判が悪かったんですが、民主化に反対する軍将校が起こしたクーデター鎮圧したことで即位直後は民主化守護者としてたいそう人気がありました。ちなみに現国王のフェリペ6世は当時10歳にもならない子供だったので深夜に行われた国王クーデター首謀者との会談の席ではおねむだったのですが、船を漕ぐたびに「おまえは王様になるんだから王様のつとめをよく見ておきなさい」と父君に優しく揺り起こされていたそうです。なにそれ萌える

閑話休題。このフランコ政権ですが、典型的な「スペイン単一民族国家だもん!」派の政権でした。彼が在世中はカタルーニャ語バスク語をおおやけの場で用いることはひどく抑圧され、内戦前のカタルーニャ州政府首脳陣は殺されるか投獄されるか亡命するかという感じでした。そのフランコが死んだことで、亡命州政府トップスペインに帰国し、民主化が進展します。このときフランコ体制下で抑圧されてきた「スペイン多民族国家になるべきだもん!」派が一気に声をあげはじめます

(ここでいう「民族」ってのは、英語ネーションにあたる、スペイン語のnación、カタルーニャ語のnacióのことで、「自分で国を作れる権利や能力のある集団」みたいな感じなんですよね……うまく説明できないんですが。なので移民とかは勘定に入れてません。この文脈だと「国民」と訳した方がいいのかも。「スペイン単一民族国家だよ」というのは「スペインにいるのは『スペイン国民』だけであり、カタルーニャ人バスク人もひとしく『スペイン国民』だよ」ということで、カタルーニャ人たちは「スペインには『カタルーニャ国民』や『バスク国民』もいるんだ」と主張してるわけですね)

民主化したからにはちゃんと民主的な憲法を作らないといけませんが、これが紛糾します。単一民族国家というのはフランコだけの思想ではなく、熱心なスペインナショナリストフランコ死後も消えてなくなりはしなかったわけです。彼らは頑強にスペイン統一、つまりスペイン単一民族国家であることを守ろうとします。一方でこれまでさんざん煮え湯を飲まされてきた地方の側もそれでは収まりません。そんななか、妥協として制定されたのが1978年憲法でした。条文の英訳をウィキソースからコピペします。

Section 2

The Constitution is based on the indissoluble unity of the Spanish Nation, the common and indivisible homeland of all Spaniards; it recognises and guarantees the right to selfgovernment of the nationalities and regions of which it is composed and the solidarity among them all.

太字にしたところはテストに出るので覚えておいてください。ここではスペインひとつネーションからなり、不可分であること、そしてネーションの他にいくつものナショナリティ存在することが謳われていますナショナリティっていわれると普通は「国籍」って意味なんですが、この文脈では「準ネーション」みたいな意味だと思ってください。つまりネーションひとつしかないけど、準ネーションっぽいものはいくつもあるよ! ってことですね。

(ところで、この憲法からもわかる通り、スペイン連邦制国家ではありません。連邦制かと見紛うばかりに地方に権限委譲がなされてはいますが、それでも「連邦制=国の集まり」ではなく「スペインは不可分のひとつの国!」ということになっているのです。これを専門用語自治州国家体制といいます

この憲法にのっとってカタルーニャ自治州の地位を得、フランコ体制下で迫害されていたカタルーニャ語を復活させるための政策に着手します(これを「言語正常化」といいます)。使用弾圧されただけでなく、工業化が進む中でスペインの他地方からの移民が来て、カタルーニャ語を解さない州民が増えていたのです。また、なにせ相手は数億人の使用人口を誇る言語ですから、話者数数百万人のカタルーニャ語など放っておいたら自然淘汰されてしまいかねません。州政府公教育カタルーニャ語を導入し、様々な場面でカタルーニャ語使用を義務づけ、カタルーニャ語使用助成金を出し、結果として今ではほとんどの州民がカタルーニャ語スペイン語の見事なバイリンガルに育つようになっています

助成金は、たとえばパソコンのOSのカタルーニャ語訳とかに出されています。数億人が使ってるスペイン語経済的にペイするのですぐに翻訳されて、なおかつ州民はみんなスペイン語ができるので、放っておくとみんなそっちを使っちゃうんですよね……)

ところでこの憲法、実はもうひとつトラップがあります。それは公用語について定めた条文です。

Section 3

C1. Castilian is the official Spanish language of the State. All Spaniards have the duty to know it and the right to use it.

C2. The other Spanish languages shall also be official in the respective Self-governing Communities in accordance with their Statutes.

C3. The wealth of the different linguistic forms of Spain is a cultural heritage which shall be especially respected and protected.

そう、カスティーリャ語(つまりスペイン語)は、スペイン市民(たとえバスク人カタルーニャ人であっても)にとって知る「義務」があり、使う「権利」がある唯一の言語なのです。逆に言えば、それ以外の言語を使う「義務」を州が課すことは違憲になります

この時点で、たとえばカタルーニャ州が州内の教育カタルーニャ語だけで行おうとしたら違憲です。カタルーニャ州が州民に高度なバイリンガル教育を施しているのは、理想が高いのではなくそうせざるを得ないということです。またカタルーニャ州言語政策も、たとえば「お店のメニューカタルーニャ語を使う義務」「商品のラベルカタルーニャ語を使う義務」「企業広報活動カタルーニャ語を使う義務」といったものを法で定めたりしていますが、これは個々人に対する義務ではないのでギリギリ合憲ということになっています。なっているはずでした。

ところで、カタルーニャも極楽ではなく、何をするにも先立つものがいることには変わりありません。つまりお金です。ところが、スペイン自治州には基本的徴税権がありません。バスク自治州ナバラ自治州には歴史的事情(ありていに言うとスペイン継承戦争官軍についた)によって徴税権があり、その一部を国庫に納入していますが、カタルーニャあくまで国が徴税して配分するお金を受け取る立場です。そしてカタルーニャスペイン全体でみても豊かな地域であり、多くの税金カタルーニャから徴収され、多額の税金カタルーニャ還元されています

しかし、その収支が赤字だということが大問題なのです。カタルーニャから徴収される税金は、カタルーニャ交付されたり還元されたりする際に8%ほど目減りしていますしかも、これだけ払っていながらもインフラ整備は後回しにされているのです。カタルーニャだけ高速道路は有料で列車老朽化も放置、EUから勧告されたカタルーニャ高速道路整備も中央政府拒否っておきながらマドリードなどカスティーリャインフラはしっかり整備しています。他州より高く払っているのに他州より低いサービスしか受けられないのは何事だと、カタルーニャ州民が怒るのももっともです。

こうした状況を受け、2000年代に入ると自治憲章(要するに自治州の憲法ですね)改正の動きが活発化します。自治州議会は、徴税権やカタルーニャネーション(nació)であることを盛り込んだ憲章草案を可決しますが、中央政府(当時は左派社会労働党)との交渉徴税権は削られ(かわりに公平な交付金の支給を約束。結局実施されてませんけど)ネーション条項は前文のみ。妥協のすえ2006年にようやくスペイン国会を通過して新自治憲章が成立します。

これに待ったをかけたのが国民党(現・与党)です。彼らからしてみれば、「一地方の自治権強化はスペイン統一に反する」というわけですね。彼らはこの自治憲章が憲法違反だと憲法裁判所に提訴、これに対抗してカタルーニャではデモが盛り上がり、「我々には自決権がある」という主張が登場します。そして2010年憲法裁判所は自治憲章の多くの条文に違憲判決を下しました。しかもその判決は、これまでカタルーニャが行ってきた自治権強化政策を否定し、自治権をより縮小する方向のものでした。カタルーニャ語を行政において優先させる規定違憲となり、カタルーニャネーションとした前文は、スペインにおいてネーションはただひとつとして法的拘束力はないとされたのです。そしてこの違憲判決に基づいて、カタルーニャ学校ではスペイン語で教えるべし、という判決も出されました。

ここまで妥協しても憲法違反になるのか……という絶望が、一気に民意を独立へと傾けていきます。それまで20%前後を行ったり来たりしていた独立への支持率が、この違憲判決を境に一気に30%を超え、2013年には60%に達しました。今の憲法がある限り、スペイン国家に留まっている限り、カタルーニャ自由にはなれない、と多くの人びとが考えるようになったのです。移民の子だってカタルーニャ暮らしているわけですから独立に傾きます

2014年カタルーニャ自治州は「法的拘束力のない」住民投票実施を計画しますが、違憲とされて差し止めが命じられました(提訴したのはもちろん中央政府です)。じゃあ非公式の模擬投票やろうぜ、と言ったらそれも違憲とされて差し止め命令が出されます(模擬投票も認めないなんて表現の自由に対する攻撃だと国際的に抗議が殺到した模様)。結局自治州非公式の投票を決行しましたが、中央政府憲法違反の投票を強行したとして当時の州首相らを刑事裁判にかけますちなみに裁判期日として指定されたのは、フランコ政権によって内戦前最後カタルーニャ自治政府首相が銃殺された日でした。煽り力高い。州首相だけでなく州議会議長まで訴追するよう憲法裁判所は命じています民主主義とは。

このような国民党政府対応が火に油を注ぐ結果となり、今回の住民投票実施に至るわけですが、この期に及んでなお国民党は「カタルーニャ自治州に毎週会計報告を義務付け、違反した場合交付金を停止する」と表明したり(http://www.pressdigitaljapan.es/texto-diario/mostrar/775503/)、プッチダモン州首相を訴追する準備を進めていたりして(http://www.politico.eu/article/catalonia-independence-referendum-spain-the-carles-puigdemont-factor/)、まあある意味通常運転です。「やっぱスペイン国家の枠内では自治権保証されないじゃん……」とカタルーニャ人に思わせるだけの簡単なお仕事こうして着々と独立に向けたフラグが立っていくのでした。

スペイン政府オプションとしてカタルーニャ自治州政府の停止も視野に入れているという報道があります。根拠となるのはスペイン憲法155条です。

Section 155

1. If a Self-governing Community does not fulfil the obligations imposed upon it by the Constitution or other laws, or acts in a way that is seriously prejudicial to the general interest of Spain, the Government, after having lodged a complaint with the President of the Self-governing Community and failed to receive satisfaction therefore, may, following approval granted by the overall majority of the Senate, take all measures necessary to compel the Community to meet said obligations, or to protect the abovementioned general interest.

2. With a view to implementing the measures provided for in the foregoing paragraph, the Government may issue instructions to all the authorities of the Self-governing Communities.

ぶっちゃけこのオプションが採られた場合投票は物理的にはできなくなるでしょうが、まあスペイン国家とスペイン憲法へのヘイトをためるには十分すぎるほどなので、余計に独立への意志を強めるだけですよね……という辺りが現状言えることです。部外者としてはワクテカが止まらない祭り出来事ですが、楽しむためには背景知識必要だろうと野暮を承知解説してみました。部屋を明るくして画面から離れて住民投票をお楽しみください。

参考文献

この増田のパクr……ネタ元です。どれもネットで読めます

違憲とされたカタルーニャ州法の条文が詳しい解説が。

スペインにおける地方分権についての基本書。

現代カタルーニャ入門書

インド系カタルーニャ人独立派についての記事

そもそもなんでカタルーニャスペインの一部になってるの? とか、カタルーニャの栄光時代はいつだよ……ジャウマ1世の時か? とかの疑問が湧いてきた時にオススメです。住民投票は……住民投票は今なんだよ!

2017-05-25

つっこみどころが多いなぁ

M1学会発表の予稿持ってきて「論文」って言ってみたり、「大学教授論文」ってなんだよそれ。

あと「○○大の論文」って言うか、紀要じゃないんだから「△△学会に発表された○○大のひとが書いた論文」って方が正確では。なんか前者だとちょっと

学生学会発表の予稿らしい案件だなとは思ったけど、叩く方も叩く方ですごいなって感じ。

2016-10-21

大学院博士後期課程

投稿論文0、紀要論文0、学会発表0、っていうか、そもそもどの学会にも入会してねぇ。

なのに気付けば博士後期課程の2年目の秋。どうしてこうなった

2016-08-31

あとで特高弾圧史読んでみるかなあ/1955年に教祖永原仲が詐欺で逮捕された「大日教団」なるものもあったみたいで、調べるの面倒くさそう。 - type-100 のコメント / はてなブックマーク

触れるか迷ったけど、探してるとき

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1178/main.html

ここの議事録に、読売事件と一緒に大日横領事件の件がちらっと出てるね。

オウム真理教の件で宗教法人法改正とかが話題になった頃っぽくて、のいほいさんが大好きな百地章さんが登場している。

noiehoie on tumblr • 百地章先生について

百地章先生について

本日朝まで生テレビに、日本大学百地章先生がご出演されるそうです。

まあ、90年代後半から朝まで生テレビは、「オワコン文化人年金支給所」みたいになってるんで、あの番組に誰が出ようが問題ないといえば問題ない話ではあります

ただね、百地章先生オワコンというのは失礼に過ぎる。世の中的には、「最近急に出てくるようになった憲法学者」という理解でしょう。

で、実際そうです。百地章先生Will正論などを除きメジャーメディアに出るようになったのは、ここ最近、とりわけ安保法制に関して「たった三人しかいない集団的自衛権合憲とする風変わりな憲法学者」の筆頭として菅官房長官百地章先生名前を挙げて以降のことかと思います

「書いたものといえば、紀要の類と講演の書き起こしぐらいしかなくて学術的功績を見つけるのが難しい(Cinii検索結果=http://bit.ly/1LJukEH)にもかかわらず、なんであんな人が比較憲法学会の理事長やってんだ?」とか思ってるそこのあなた! あなたは間違っていますあなた世間からずれています。だからダメなんですよ。百地章先生を見ならないなさい。

世間の目から見れば、百地先生は立派な御よ。。。もとい、提灯もti..もとい、憲法学者です。

2016-03-06

企業研究所アカデミアでやっていけない人の受け皿じゃないから

自分研究者に向いていない? 〜研究者必要資質とは〜

http://tsunapon.hatenablog.com/entry/2016/03/05/031142

に対するコメントで,

id:n314 論文を読むのも書くのも発表するのも人に教えるのも苦痛だけど研究は好きっていう人種結構居ると思っていて、そういう人は大学じゃなくて企業研究所に行かなければ不幸になりそう。

みたいな,企業研究所なら論文書けなくてもいいっていう意見散見されるけど,

企業研究者だって論文書くわ!アカデミアよりも特許を重視する傾向があるけど。

だいたい論文書けない人は,社内向けに書く技術文書とか紀要とかも書けないでしょ。

なんかこういう,アカデミアでやっていけなくても,企業研究者なら大丈夫っていう意見むかつくわ。

2015-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20150610162616

元増田名医に執刀されたのは神の意志だという意見で良いかな。

それは、そうだと思う。しかし、私が「死んだ子」という言葉意味していたのは、私が入院していたのと同じ大学病院で同じ執刀医の手術を受けて死んだ子だ。

そのような子が実在することは、後で、実際に大学病院論文紀要)を調べてわかっている。私の病気は、当時としては研究上の価値があったので、ちゃんと論文になっていて、何年間で何人手術を受けて、何人死んだかもわかっている。

君の論理破綻しています

http://anond.hatelabo.jp/20150609194256

私の受けた手術と同じ手術を受け、助からなかった人が何人もいたことは、その後、私の手術を行った大学病院紀要から分かっている。

手術を受けた子らの中からランダムに死者を出すのが神の意思とは思えない。

とすると、手術を受けて生き残ってしまった私は、神の意思に反して生き残った事になる。

手術を受けた子らの中からランダムに死者を出すのが神の意思ではないのなら

あなたが手術を受けて生き残ったのは神の意思によるものです。

従って「手術を受けて生き残ってしまった私は、神の意思に反して生き残った事」にはなりません。

証明終わり。

2015-06-09

キリスト教の人に聞いてみたい:私の生存は神への反逆か

追記2:

結局、私には、「私が助かったのは医師努力の結果である」と「私が助かったのは神の意志である」は両立しないようにしか思えません。

医師努力の結果であったのなら、努力次第で結果が変わっていた、ということですので、神の意志ではないはずです。

神の意志であるとするなら、医師努力しようがしまいが、神の意志によって手術の結果が決まっていたということですので、医師努力関係ないはずです。

私には、後者見解は、医師努力や、医師技術を向上させるために実験台になって死んでいった子らへの冒涜に聞こえます。受け入れられません。

とすると、私の取れる見解は、前者しかないのです。つまり、私の手術が成功したのは医師努力ではあったが、神の意志ではなかった、と、考えるしかないのです。

追記:

私が手術で助かったのが神の意志であるなら、我々が参加した実験的手術には何の意味があったのでしょう。

私が手術で助かったのが神の意志であると認めることは、手術で死んだ子が死んだのも神の意志であると認めることであり、「我々が参加した実験のもの無意味であった、手術で死んだ子は無駄死にであった」と認めることに他ならないように思います

死んだ子は無駄死にだったのですか?

そういう言説には、「とにかく、なだめすかして私が自殺したり反社会的になったりすることを防ぎたい、死んだ子の死の解釈はどうでもいい」という隠れた意図が透けて見えるのです。

そのような意図は、とても浅ましいと感じます

本文:

私は、放置すれば数歳で死ぬ病気を持って生まれてきた。研究段階の手術を受け、そして、助かって成人した。

中学高校カトリックミッションスクールに通った。先生には信仰の厚い神父の方もいらっしゃったが、私の問いに答えてくれなかった。

キリスト教は、我々人間が神の被造物であると教える。

人が生まれるのは神がそう望むからである、と。であるならば、私が数歳で死ぬ体で生まれたのも神の意思であるはずだ。神は、私が数歳で死ぬことを計画されていたのではないだろうか。

一方、私の手術が成功したのは神の意志というよりは、医師研究者の成果だろう。

私の受けた手術と同じ手術を受け、助からなかった人が何人もいたことは、その後、私の手術を行った大学病院紀要から分かっている。

手術を受けた子らの中からランダムに死者を出すのが神の意思とは思えない。

とすると、手術を受けて生き残ってしまった私は、神の意思に反して生き残った事になる。

まり、私の存在自体が神の意思に反しているはずなのだ。したがって、私が生きていることは神への反逆であり、私は神への反逆者として殺されなければならないのではないだろうか。

神を信仰する者は、私を殺して喜ばなければならない。が、キリスト者は、今までの数十年間、私を殺していない。

特に、中高時代は、キリスト者の近くにいて、いつでも私を殺せる状況にあったのに、だ。なぜなのか。殺された時の無念さが大きくなるように、社会的成功させてから殺そうという魂胆なのだろうか。

なぜ、反逆者である私をキリスト者は殺さないのか。聞いてみたい。

2014-12-21

アダルトチルドレンはない!!!家族うつPTSD 言うとしたらだけど

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html   アダルト・チルドレンの語られ方  -雑誌記事分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収

http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html  書評心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-

なんで、そもそも定義さえないに等しいものを、各個人が異様なこだわりを持って語れるのかがわからない

こだわりがあるくせに何も調べてない

論文さえない

疑似科学!!!!!!

それを言うと精神医療全般もそうだけど

http://anond.hatelabo.jp/20140820072716

アダルトチルドレンはない!!!家族うつPTSD 言うとしたらだけど

http://anond.hatelabo.jp/20141103015411

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html   アダルト・チルドレンの語られ方  -雑誌記事分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収

http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html  書評心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-

なんで、そもそも定義さえないに等しいものを、各個人が異様なこだわりを持って語れるのかがわからない

こだわりがあるくせに何も調べてない

論文さえない

疑似科学!!!!!!

それを言うと精神医療全般もそうだけど

2014-11-16

引きこもりかいう謎のレッテル

準ひきこもりとは、2006年樋口康彦が

紀要論文大学生における準ひきこもり行動に関する考察」の中で提唱した概念であり、

大学には登校するが家族以外の人間ほとんど付き合いがなく、

対人関係や、社会経験が不足している状態のことをいう。

内閣府自分趣味に関する事柄が目的場合のみ外出する者を指しており、

2010年に行われた調査では約46万人が存在しているという結果が出た

Wikipediaより抜粋

引きこもり予備軍っていう意味なんだろうけど、

現状引きこもってないのに、引きこもりという言葉が使われるのはおかしく思える。

もっと他に名前はなかったんだろうか。

学者気質の本をひたすらに読んで、ほとんど人と話さな学生も準引きこもりになるし、

セーフティとして学歴を手に入れたいだけで、創作活動に力を入れている学生だって引きこもりになる。

自分趣味に生きる人はそれだけリスキーではあるけど、リスクを恐れない精神尊敬できるし、

引きこもりとは呼びたくない。

2014-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20140317091504

学生指導する場合

あの博士論文イントロ、もし文章がそのままだとしたらあり得ない。

そもそも、参考文献が全くないイントロなんてあり得ないわけで。

後は、その学生英語論文書いたことあったりすればその癖と、

少なくとも他の章と比べて明らかにおかしいとか、読んだら普通に分かる。

あの論文主査含め、誰もきちんと読んでないとしか思えない。

同じチームにいる共同研究者論文を確認する場合

これだけ画期的な、新しい結果、さらNature投稿、と言うレベルになれば、

身内としては、まず、徹底的に疑う、ということから始めるでしょう。

嫌な意味ではなく、間違ったものを出すわけにはいかない時に、間違ってるということを前提であら捜しをする、というのは当たり前の話。

その上で、アヤシイところが1つもなくなった時点で初めて外に出せる。

今回、もし、若山さんとかが本当の事を言ってるんだとしたら、

彼の所では、100%矛盾点がない、と確信できていた、ということでしょう。(どうだか分からんが)

雑誌紀要に関して査読をする場合

身内同様、まず、疑ってかかる。

少しでもおかしな所があればツッコミ、全部明らかになるまでやりとりする。

ただ、自分実験を追試することはその時点では出来ないので、

データ等は提示されたものを信じるしか無い。

勿論、研究者としての経験からデータおかしいと思えば突っ込むけど、

それでも無矛盾に説明されれば信じるしか無い。

自分所属する研究所なり研究室なりで、公開前に論文を読む機会があった場合

上の、身内、の場合と同じ。まあ、必要なければそこまで突っ込んだりしないだろうけど、ある程度、査読して、みたいに頼まれたらまず疑う、と言う姿勢

公開されてから読んだ場合

素直に読むけど、勿論、新しいものに関しては、おかしいな?と思う点があることはいくらでもある。

からこそ追試をするわけだし。

その後の不正ミスはそのような追試等であばくしかない。

実は自分哲学学部卒で、ああい世界になると、「実験結果」「実証データ」は乏しくて、でっち上げどころか、妄想すれすれの論文が掲載されることもしばしば。最近医療現場での臨床哲学などもあったりするので、必ずしもデータがない訳ではないけど、良い所、文章の出所をはっきりさせるくらいしかない訳です(あの本の何ページ、みたいな)。あとは、コピペを見抜くとか。不正不正でないもの境界は必ずしも明瞭な訳ではありません。

いや、明らかでしょ。文章そのままパクったりして参考文献もなければ不正

データなんかを持ってきて、それをさも自分で作ったかのようにしたら不正



勘違いしてる人が多いけどソーカル事件は全く別の話。

ソーカル場合は、ポストモダニストたちが、数学理論物理を、さも理解してるかのように取り入れた偉そうな論文を沢山書いてて、

でも、どう見ても理解してないだろ、と言う思いから(哲学的思想に結び付けてる部分に関してはソーカル自身は門外漢から指摘することが出来ないので)

それらの業界人間数学物理理解してるのか?ということを暴くためにデタラメ論文投稿した。

その際、実は雑誌には査読の精度がなく、素人編集者がただ載せてただけなので、その雑誌自体が実はどうしようもないもので、ポストモダニスト自体を完全に否定できたものではない。

もし、査読者が居たら、その人はポストモダニストエキスパートなはずで、その人が見逃したら明らかに数学を知らないやつらだwwwと言えたわけだけど。

まり研究者なら一瞬で分かるはずの間違いを投稿したわけ。一瞬で見抜けないような細かい捏造の様なことをしたわけではない。

今回の様な捏造は、いま、実際、それが捏造だった、とわかった所で、逆に誰もそれを証明することは出来ないわけで

(他の写真と一致した、と言う証明はできるけど、その写真STAP細胞ではない、とは言えないんでしょう、言えるとしたらそういう話が出てるわけで)

それを査読者に発見しろ、というのは無理な話。

将来的に、全ての文献がデータベース化され、スキャンしてコピペ発見を確実に出来る、とか、にならない限りこんなのは性善説に頼るしか無い。

不正論文を見抜くにはどうしたらいいか

自分研究者でも、ましては生物学の知見がある訳でもないのだけど。

小保方騒動について「なんで見抜けなかったんだ」という意見は多いけど、あそこまでコピペでっち上げを施した論文って、実は見抜くのって難しいんじゃないか。ああい実験データって、普通は相手を信頼して受け取るだろうし、仮にも研究所リーダー職についているような人が、まさか適当な内容で出してくるなんて、普通は思わないでしょう。良く知らないけど、ああい査読って、「内容にインパクトがあるか」「記述上の問題点(内容の不足、結論の不明確)はないか」を確認するもので、「中身がでっち上げかどうか」を確認するものではないでしょう。一般企業内部告発が難しいように、人の業績にケチを付けるのって、結構覚悟がいる。ましてや、共同研究者に十分な実績のある人がいれば、なおさら難しい。

専門分野、担当する立場によって差があるだろうけど、不正不正と判断する基準はどこにあるか、もしあなたの受け取った論文不正があるわかったら、どう対処するか。研究職など、そういう立場の人だったら、ご回答いただけるとありがたいです。興味半分だけどさ。

  1. 学生指導する場合
  2. 同じチームにいる共同研究者論文を確認する場合
  3. 雑誌紀要に関して査読をする場合
  4. 自分所属する研究所なり研究室なりで、公開前に論文を読む機会があった場合
  5. 公開されてから読んだ場合

いろいろあると思うけど、どういうパターンで、どう対処するのが望ましいのでしょうか。

実は自分哲学学部卒で、ああい世界になると、「実験結果」「実証データ」は乏しくて、でっち上げどころか、妄想すれすれの論文が掲載されることもしばしば。最近医療現場での臨床哲学などもあったりするので、必ずしもデータがない訳ではないけど、良い所、文章の出所をはっきりさせるくらいしかない訳です(あの本の何ページ、みたいな)。あとは、コピペを見抜くとか。不正不正でないもの境界は必ずしも明瞭な訳ではありません。そういう意味で、生物学などのデータありきな業界であれば、こういうことははっきりするけど、分野によっては不正と思われるものでも、別の世界では堂々とまかり通ったりします。哲学なら、大抵は鼻で笑って終わっちゃう。こういうことに関心がある人なら、ソーカル事件とかご存知でしょう。

というわけで、もしあなたおかし論文を受け取ったらどうしますか?

2014-01-15

人工知能学会表紙問題で萎縮する人の泣き言

私は公共セクター広報に関わる仕事をしています。数年前から、いわゆる萌えキャラクター活用した広報をやっています

萌えキャラクター活用した広報は、うちの仕事では今までにないぐらいの話題性が出ていて継続的にやりたいというところです。

また、今までの心積もりとしては、男性向けと女性向けを交互に展開する方向ですすめてきました。

確かに、スプツニ子さんの指摘のとおり、人工知能学会紀要の表紙は差別的であると非難されてしまう要素はありました。また海外活躍されているスプツニ子さんやメイロマさんのご指摘のとおり、海外からの指摘として、ああいった日本的なサブカルチャーに依拠したものは理解され難く、非難の対象になることも、おっしゃる通りです。

特にメイロマさんの指摘の通り、リスクマネジメント観点から言えば、公共性のある舞台では避けるべきというのはもっともな見解であると思います

さて、どうしてもオタクカルチャーの文脈は異性を性的に見る視線脱臭できません。それは、その出自からも明らかなことです。宮崎駿ですら、その少女を描く視線オタクあるいはロリコン、あるいはマザコンとしてのリビドーが見受けられるでしょう。

しかし、いや、だからこそというべきでしょうか。そのようなリビドーファインアートの反対としての技巧主義的な姿勢に裏打ちされ、同時に作家性(=ファインアート性)を抱き込みながら、大衆向けポップカルチャーとしての地位を築く原動力となりました。

もう第4四半期です。予算執行も迫っています。私はイラストレーターデザイナーを選定しなければなりません。

しかし、ここで下手を打てば。つまりスプツニ子さんやメイロマさんなどに批判的に取り上げられ、ネット賛否両論が話題になれば、この方向性は二度と日の目を見ないでしょう。

最近は、コンテンツツーリズム萌えおこしといった文脈で同業他社さんからの問い合わせもあります

ここで、私がコケれば、公共セクターサブカルチャー活用した広報事業を行うことに、大きな影響ではないでしょうが問題が生じるでしょう。少なくとも、私の所属する組織では日の目を見ることは無くなります。育てたキャラクター倉庫の奥に仕舞われ、死に至るでしょう。そして、これは今まで、後ろ暗い趣味であったオタクを世に認めさせてきた諸先輩の顔に泥を塗ることにもなります

しかし、冒険を嫌い、安全な道を選び続けてきた公共セクターは、とてもつまらないものしか生み出せず、時代社会にそぐわない「誰も文句を言わないが、誰も得をしない」事業ばかりやるようになっています。いや、現実もっと悪くて、過去の経緯から利益誘導に堕しているものが多くあります

しかし、それが組織はもとより、個人のリスクマネジメント観点から妥当なのでしょう。私はそれが嫌で嫌でたまりませんが、しかし、ここで私が怒られ、出世の目がなくなるぐらいで済むならいざしらず、新しいことをやろうとする多くの仲間に水を差すことになるのは避けなければならないと考えてしまます

正直言えば、私はスプツニ子さんに恐怖を抱いています。この私の泣き言だって、要するに彼女の顔色を窺っている、あるいは畏れ多くも内心を忖度しているにすぎません。

私はどうすればいいんでしょう。今まであったような、ありがちで文句を言われない、でも誰の記憶にも残らないような広報をすべきなのでしょうか? それとも、リスクを甘受して、新しいものを目指せばいいんでしょうか?

--

家に帰ってみたら、すごい勢いで言及されていてびっくり。とりあえず、はじめてtwitterアカウント作ってみました。

https://twitter.com/b_masuda

--

いろいろと言及されたので主要な論点に対して見解を示します。

1 釣りじゃないの?

釣りではありません。

2 萌え絵が否定されているのではなくて、差別的モチーフが批判されているのでは?

確かに一義的には、ステロタイプ女性像が描かれたことによって、差別的であると判断された、ということが問題であるというのは認識しています

しかしながら、フェミニズム観点から検討すれば、それだけではない問題が明らかになると思います

そもそも、ある性別特定ジェンダーロールに縛られるという過程においては「まなざし視線)」と「客体化」ということが問題になります女性ジェンダーロールに縛られてきた過程においては、女性が客体、選ばれる性として扱われてきたということがあります女性主体化せずに配偶者に付き従う、といったようなステロタイプ見方は客体化という作業なしには存在しえません。また、その客体化はまなざし視線)によって形成されるものです。

翻って「萌え」というカルチャーを見れば、ササキバラゴウ引用するまでもなく、少女を消費することによって成立してきました。

仮にジェンダーロールに反旗を翻すキャラクターを想起しましょう。古典的リボンの騎士でも考えてみてください。さて、今、あなたpixivで「女騎士」というタグ検索すればどういう絵を見ることができるでしょうか?

まりまなざし」や「客体化」というプリミティブな作業を経由すれば、ジェンダーロールに従っているかどうかに関係なく、私たち少女性を食らい尽くすことができます。そして、萌え絵というのは、まさにそのようなカルチャーに根差しているということを指摘しなければならないでしょう。

3 公共セクター萌えキャラとか今更じゃないか?

やりようはいくらでもありますネタの絡ませ方や、出し方一つでおもしろ方法はいくらでも考えられます

少なくない作家が今の時代オリジナルはないというような事を言っていますが、逆に言えばエピゴーネンの組み合わせというのはまだまだ余地のある分野です。

4 コンサル入れたら? めいろまさんやスプツニ子!さんに頼んだら?

そんなにお金がありません(笑)

5 追記

仕事上はこんな突っ込んだ話なんかできないし、差別問題への深い理解を求めるというのも難しいのが現実です。そのために、公式見解的なものは、木で鼻を括ったようなものになりがちです。

から、この問題が公共セクター業界真剣に扱われ、前向きな解決策が出るなんて思わない方が良いでしょう。

奇しくもめいろまさんがこの件についてマニュアルコンサルティングによるリスクアセスメント価値を論じましたが、まさにそういった形で外部有識者という免罪符を買うか、あるいはマニュアル化された手法で乗り切るしか組織においてはできません。

非常に残念ですが、現実はそのようなところです。

2012-12-31

日常底」について

こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。

  • 仏教学関連の論文で「日常底」という語が用いられている例がある。

仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学研究所1992年、108頁)

日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教キリスト教との出会い: 根源的いのち経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会2003年、219頁)

即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事実験無神論者唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践筑摩書房1967年、185-186頁)

さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。

2012-12-26

http://anond.hatelabo.jp/20121225211046

おれは実は、博士論文をなかなか図書館に提出せず関係者を困らせたという問題児なのであまりえらそうなことは言えないんだが、これは修士論文を学報に載せるという理解でいいのかな。それとも、いわゆる紀要

事務方がかわいそうだからそのまま送り返してやればいいと思うよ。

2012-08-11

SAPIOとくしゅうのかんそうぶん」

amazonレビューで書こうと思った文章。政治的話題はセンシティブであり、また以下の文章は特定政治勢力を糾弾しているようにもとらえられるため、匿名のこの場に晒す

【以下本文】

保守の視座より昨今インターネット上に跋扈する「ネット右翼」を考察する特集目当てに購入。

ネット右翼」関連の記事は「週刊金曜日」や「現代理論」といった左派雑誌では掲載されることはあったが、保守系立場を取る雑誌で特集されるのは珍しい。そのため先述した左派雑誌のように、ネット右翼の持つ歴史認識等に関する批判は見られなかった。さて、同特集ではネット右翼無知蒙昧さなどを憂慮する保守系知識人らの、ネット右翼に対する注文に紙幅が割かれていた。読者層や同誌の論調を鑑みた場合致し方ないのかもしれないが、ネット右翼という現象の考察を期待していた小生にとっては少し不満が残った。一方、安田浩一ルポタージュや阪大辻大介教授の調査分析等は興味深く拝読した。

正論」や「文藝春秋」、「世界」、「現代理論」といったオピニオン雑誌とは若干毛色が違うため、オピニオン雑誌研究紀要ほどの深い考察はなされていない。しか保守立場からネット右翼」という現象を捉えたという点において、同誌の特集は示唆に富むものであるといえるだろう。

【以上】

ネット右翼」と普通右翼は峻別する必要性があり、また「ネット右翼」は従来の保守潮流から遊離した存在としてとらえるべきであろう。また、保守的立場をとる人々は、「ネット右翼」と袖を分かつ必要があるのかもしれない。

2011-09-20

このブログに、これを貼ろう!運動  マルチ宗教面白おかしからかう人も居るのに

http://blogs.yahoo.co.jp/goisu166/folder/1209047.html

迷惑だし同じように弱者から搾取しかねない存在なのに。


731 :優しい名無しさん:2007/07/06(金) 10:14:11 ID:dSHhKWfW

1990年には、米国の3つの物質依存治療センターで、アルコール依存症治療中の患者を対象に、

親のアルコール依存症の有無によって2群に分けて調査を行い、

その結果、米国の正統派の精神科の診断基準マニュアルであるSM-Ⅲで、

その2群にはまったく統計的な有意差は認められなかったと報告し、

アダルトチルドレン(AC)そのもの存在しないとした。

http://mimizun.com/log/2ch/utu/1175555457/


http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html   アダルト・チルドレンの語られ方  -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収

http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html  書評心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-

上記レスの調査ではないようだけど、フロイト先生のウソという本でも、虐待連鎖については差はあるものの、8%と12%なので、大した差では無いという事になったと書いてあるらしいです

http://psychodoc.eek.jp/abare/ac.html  中立的なもの見方精神科医意見 精神医学界では冷遇されているとしながらも、頭から否定はしていない。1999年書かれたもの。ちょうど流行りかけのころか。

その中にもこう↓書いてある。 

ACとそうでない人々の間に統計有意差はなく、ACなんてもの存在しないと主張する研究者もいたりする。



986 : 没個性化されたレス↓ : 2010/06/29(火) 22:37:15

アメリカソーシャルワーカー達がアダルトチルドレンという無根拠なレッテル貼りを始めてから

もう40年という月日がたってしまった。

それを利用したAC業者やマスコミが被害を拡大させて、日本でも30年近くこの無根拠な概念暴威をふるった。

このAC概念は無根拠なくせに極めて専横的で疑いを許さなかった。マスコミAC業者がそうさせなかったのだが。

AC概念は人々を苦しめ、裁き、断罪し、この概念くびきのもとで生きる事を強い、いささかの救いの道をも与えなかった。

ACは無根拠であるが故に疑いを許さなかった。ヒットラーのように。北朝鮮のように。

人々はACという強制収容所に入れられたようなものだ。

AC収容所人間は小石のようなあきらめをしゃぶり乾きを癒すしか無かった。

私はACからしょうながい。私はACからここにいるんだ。

ACに根拠は無いのに。

そして強制収容所の人々が「ここにいるから私は友と知り合えて生きていること許される」と心理的な合理化をするように

AC知ったからこそ私の人生がある」と合理化をするようになる。

商業主義の暴虐に痛めつけられ囚われの身となった人の心が、最後の誇りを失わないようにするために

心が最後防波堤を築き、なんとか自分を守ろうとするのだ。

強制収容所に30年幽閉された人が解放されてもとまどうように。

30年と言う月日をAC商業主義の暴虐に晒された心に「ACには何の根拠も無い」

と言われてもすぐには受け入れらないのはもっとなことだ。

このスレも次スレもこうしたAC被害者リハビリをどうするかという問題も検討されるべきだろう。

http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/psycho/1035617398/

ACは疑似科学ではないか

科学なら、専門家が出てきて疑似科学似非科学を批判してたのに・・・

自称ACではなく、自称AC専門家自称AC心理療法家は、どこのどういう学会でどういう論文を発表し、どういう風に評価されたのか、客観的に分かる形で示して欲しいものだと思います。(論文はあっても正式の医学学会のではないものが多い)

http://anond.hatelabo.jp/20110919235051  の続き

多すぎたのか最後が入らなかった。    

上のに入らなかったので

731 :優しい名無しさん:2007/07/06(金) 10:14:11 ID:dSHhKWfW

1990年には、米国の3つの物質依存治療センターで、アルコール依存症治療中の患者を対象に、

親のアルコール依存症の有無によって2群に分けて調査を行い、

その結果、米国の正統派の精神科の診断基準マニュアルであるSM-Ⅲで、

その2群にはまったく統計的な有意差は認められなかったと報告し、

アダルトチルドレン(AC)そのもの存在しないとした。

http://mimizun.com/log/2ch/utu/1175555457/

ACを自認する人を責めたり疑ったりするつもりはありません。

上記スレには、少し責めたりしてるレスもあるかも。

前の日記にも書きましたが、このレスの元の論文そのもの論文検索サイトで探しても、見つかりませんでした。英語なので探しにくいです。昔のだという事もあります

わかる方いらっしゃいませんか?


http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html   アダルト・チルドレンの語られ方  -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収

http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html  書評心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-

上記レスの調査ではないようだけど、フロイト先生のウソという本でも、虐待連鎖については差はあるものの、8%と12%なので、大した差では無いという事になったと書いてあるらしいです

http://psychodoc.eek.jp/abare/ac.html  中立的なもの見方精神科医意見 精神医学界では冷遇されているとしながらも、頭から否定はしていない。1999年書かれたもの。ちょうど流行りかけのころか。

その中にもこう↓書いてある。 

ACとそうでない人々の間に統計有意差はなく、ACなんてもの存在しないと主張する研究者もいたりする。

2010-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20101204231730

いや、そりゃそうでしょ。そりゃ絶対数中国の方が多いよ。

でも、例えば北京大学にあった資料なんかは文革の時にバッサバサに焼かれて

日本図書館や資料保存館にしか保存されてないのが多々ある。インテリ皆殺しやった国だからねぇ。

俺がいる大学にも結構あってしょっちゅう中国の方が来てるよ。特に政治に関する資料なんかはホントあの国はすぐ焼く。

それから中国では政権が変わるたびに過去の「正典」をぐちゃみそにぶっ壊す傾向があるので

その間に日本に伝来した資料が極めて貴重な価値を持つことが結構多いんだよ。ちなみに、論文参照数で中国のものは

ぶっちゃけ話になってないよ。学会で(在外及び中国系は除く)中国人存在感はすごく薄い。

多分、中国大学から出てる論文全部合わせても「中国アメリカ人」より少ないんじゃないかと思う。

北京大学紀要にも検閲が入る国だから、ある意味しょうがない。

ちなみに、「日本研究をしている人間中国に資料を求める」ってことはあんまりない。

これは、良かれ悪しか中国にとって日本っていうのは所詮「どっかその辺にあるちっさいくに」であったのが原因だろうね。

それほどたくさん資料があるわけでないんだ。まぁ、あの国の文化資料はただでさえ閲覧しにくいってのもあるけど。

2009-12-09

http://anond.hatelabo.jp/20091209204410

私は、この紀要には、査読有のジャーナルカンファレンス等の論文に比べて、価値が無いと思います。

何故なら、この紀要における調査は、正しと考えられる方法で行われていないからです。

正しくない方法で調査された結果は、正しくないはずです。


正しくない結果に基づいて、何かを言うのは好きではないですが、まだ考えが足りない部分があります。

「周りの人間から影響を受ける可能性がある」

=「周りの人間に知られる事を恐れて、被害を受けた事があってもそれを隠す可能性がある」

=「現実より“被害を受けた”と答えた人の数が減る可能性がある」

講義時間に配ることで、結果にバイアスがかかる可能性はあるかもしれません。

しかし、他のバイアスについて考慮せずに「現実より“被害を受けた”と答えた人の数が減る可能性がある」とするのは正しいのですか?

現実より“被害を受けた”と答えた人の数が減る可能性がある」というのは、「周りの人間に知られる事を恐れて、被害を受けた事があってもそれを隠す可能性がある」という要因のみの結果ですよね?

http://anond.hatelabo.jp/20091209180303

まったく関係ないけど、これ凄いな。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004476325

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004830444

日本ドイツ女子大生性的被害遭遇率を比較した調査論文

調査方法は質問票でおこないました。質問票を、ある大学とある**で、講義演習の時間と寮と**で配りました。回収しました。回収率は**%でした。結果は**でした。

例えば、性犯罪被害の有無で回収率に差がある可能性を考慮していないだろう。

これで論文になるのか(!)と思ったら、ただの紀要でした。

2009-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20090930123628

すまん、いいたいことの意図は分かるつもりなんだけど、どうも僕の説明が下手なようで伝わっていない気がしてきた。

投稿論文の内容を『まとめ』てドクター論文にするがうちの大学だった。

ドクター論文の「内容」という点では、投稿論文の「内容をまとめて」作るものだと、私は思うよ。

とはいえ、たとえば極端に言い方として、投稿論文ホチキスで止めただけ、という作業では不足だし、高々2~3本の投稿論文を、単純にマージしただけでは、内容的にも分量的にもD論としては不足すると、私は思う。

そこで、投稿論文の「内容をまとめ」ながら、さらに肉付けしたり、重複する箇所は削ったり、その過程で追実験したりするのが、「ドクター論文をまとめて(書いて)」いく。そのためには追実験やら検討をする時間も必要だから、そのために最後の1年を設定する・使うんじゃないの?というのが、私の指摘でした。

大意としては、あなたのいいたいことも分かっているつもりなんですが、伝わりますでしょうか?

その際に、最低2本の学会誌掲載が必要だったよ。

大学や分野によって違うけど、課程Dだとそんなもんだと思う。国内外の学会は問わないが、査読付の英文誌、または、それ相応の学会の査読付英文Proc.で最低2本以上、できれば3本というのが、一般的な工学部の課程Dじゃないかな。論文Dでも、D論とは別に投稿論文を5~6本は要求されるでしょう。

以降、あなたの指摘には私も同意で、そして最後のところ。

言い方を変えると、そういう大学もあるらしいとは噂に聞いているけど、研究会学会誌掲載もなくて

論文だけで、博士号とれちゃう大学とかどうよ?

理工系だと前述の通りなんだけど、文系だと事情が違うのかなぁと思っている。それは先の書き込みの通り。

ウソかホントかは知らないけれど、いまだに「満期退学が当たり前」とか、「教員でも紀要しか実績にないのが当たり前」とか、そんな噂があるからなぁ。学生の時点で投稿論文があるとか、順調に課程Dを課程内で取るとかが、当たり前じゃない世界があるのかもしれない。理工系にはないけど。

2009-09-29

よかったな!大恐慌ってきついけど、健康には良いらしいよ!

次のお支払いも見えてる時に、請求書について心配するのは楽しいことじゃないよね。

しかし殺伐としたこの状況に救世主が!

大恐慌の頃の健康状況について調べてた研究者によると、

1930年初頭に死亡率はするすると下がって、

経済状況が良くなった頃に、また増加したんだって。へぇ

心臓疾患やガンを含む、メジャー殺し屋さんは

あんまり人を殺せなかった。

流行したのは自殺だけで、その主役を勤めたのは失業者

これから続くであろう僕たちの健康への幸せな花道は、

けっこうキツいかも、とアメリカ研究者は思っているらしい。

それは栄養たっぷりの食事や飲み物、そしてタバコといった

道楽への支出を減らさなければならないからだ。

けど、親友家族と過ごす時間も増えて、モラルが良くなるかもしれない。

そして早出残業がなくなると、よりよい眠りが得られるし。

ミシガン大学の調査によると、

1932年には失業率が25%に近かったのにも拘らず、

健康状態は良くなったそうだ。

景気が良かった頃は平均寿命はそろそろと落ちていったが、

1929年の57.1%から1932年の63.3%と上昇した。

「何年にもわたる力強い経済成長は、健康状態の悪化と健康改善の鈍化によって

成り立っている」とPNAS [:米国科学アカデミー紀要] の刊行物で分析者は伝える。

かしこ研究は今では通用しないと思う人がいる。

ランチェスター大学健康心理学教授カーリー・クーパーはこう言っている

「人々は大家族で一緒に住んでおらず、数個ドアを隔てた隣人も知らず、

 そして地域社会へ関わってもいない。」

「きっつい時間の時、これらは一緒にやってくる。

 この景気後退に関してもし私が何か予言しないといけないなら、

 少しばかり健康は悪くなるだろうし、良くなることはないだろう」



http://b.hatena.ne.jp/entry/16338762

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん