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2024-05-10

愛知学院大学卒の人間疲れた

愛知に転勤してきて面倒くさいと思った人間がみんな愛知学院大学卒だった

愛知の人は愛知学院大学卒の人間のことどう思ってるだろう

2012-12-31

日常底」について

こんにちは。前の記事(http://anond.hatelabo.jp/20120720212651)に、エピクテートスの「日常底」について「あとで調べる」と書き、あとから少し調べたのに、そのまま忘れてたので、結果を報告します。

  • 仏教学関連の論文で「日常底」という語が用いられている例がある。

仏祖の言をこのように考え来り、その言葉の内奥に潜む仏祖のこころ(語り手と聞き手という二重の意味で)こそが第一義であるとするとき、いま一つの問題が残ることになる。それは、日常底の人間が未だ仏祖ではないということである。(岡島秀隆「禅仏教言語観」、『禅研究所紀要』第21号、愛知学院大学研究所1992年、108頁)

日常底の宗教とは、先の臨済の四料簡での四つの境涯に愛(アガペー)や慈悲の裏打ちをして各個が生き得るような宗教である。(花岡永子「仏教キリスト教との出会い: 根源的いのち経験から」、『宗教研究』77巻2号、日本宗教学会2003年、219頁)

即心即仏、非心非仏、不是物とか、その他、ふつう理解できないような数多くの言葉が、禅匠たちによっていわれて来た。それはわからないといえばわからないけれども、それほど明らかなものもないわけで、それは眼の前にはね返っているもの、それなくそれを離れては、日常の行動、人との対話、仕事実験無神論者唯物論者の論争さえもできないような、根本的なものなのである。そういった日常のものではあるが、それに気づいているか、ということになれば問題である。(鹿野治助「禅と倫理」、『講座 禅 第2巻 禅の実践筑摩書房1967年、185-186頁)

さて、しかしだからと言って、私には「日常底」という語の意味は分かりません。ご存知の方いましたら教えてください。以上、報告おわり。

 
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