はてなキーワード: ピーとは
私のバイトしている店では、廃棄を出したくないので、夕方は6~7時くらいに用意した肉まんを売り切ったら、補充しないで中華まんの什器の電源をオフにしてしまう。
だけど、最近担当のSVが若い人に代わった途端にそれじゃダメだもっと売らないと!と圧力かけられるようになったらしい。SVの見に来る夜だけは中華まんやホットスナックの什器の中がやたら充実している。
私は大学時代に時々、夜に無性に肉まんを食べたくなってコンビニに買いに行こうと思った覚えがあるのだけど、思ったとこまでは覚えているのだが実際買いに行ったかどうかと買えたかどうかという、肝心な事はさっぱり覚えていないのだが、世の中の人はこう、夜に小腹が空いて無性に肉まんが食べたくなって購いにコンビニに出掛ける、という事はないのだろうか?
うちの店ではだいぶ前から夜は中華まんを置いてない店としてお客様達には認識されているらしく、夜8時に「中華まんもう終わっちゃったんですかぁ?」と言われる事はあまりないのだけど、入店したと思ったらすぐ回れ右して帰るお客様がしばしばいるので、気になっている。
ホットスナックは揚げる数が5個単位と決まっているので、御客の少ない夜には作れないけど、中華まんは1個からでも補充する事が出来るので、9時頃までは一つ二つ残しとけばいいじゃんと私個人は思っている。
しかし相棒は、「昼勤の奴等がちゃんと在庫管理しないから」と言って半端な数中華まんを出すのを嫌い、一袋出せないなら終わりでいいと言うのである。
SVが言うには、今のうちの店のホットスナックと中華まんの売上はピークの半分しかないのだそうだ。
ピークの頃というと、店がまだ開店して数年かそこらだ。まだ作れば売れるだろうという、先を見通す力がなく勢いで経営されていた時期の頃の話だと思う。そんな頃と今を較べるのはどうかと思う。
だが、今の店は廃棄をおそれるあまりに品物を置かなさすぎなのではないかという気もする。私だって客としてこの店に入ったら、「ここもうすぐつぶれるんじゃないかな?」と思うだろう。
さて、今夜もバイトだ、がんばろう。
うーん★3
相変わらずでマンネリ
2みたいなバイオ並の意味不明パズルが目に見えて減ってると思ってそれなりにプレイしてたけど、
ハゲマッチョおっさんがパズルしこしこ解いてる絵面がダサすぎてダメ
というかあのパズル好きなやついんのか
ゴッドオブウォーに求めてるのはパズルじゃなくて無双的な方だよ
自殺するとか
あと話が相変わらず全体的に意味不明
会話してるけど噛み合ってないし
ストーリー求めるゲームじゃないにせよ、飛ばせないイベントシーンで意味不明な会話を聞かされるのはいい気持ちしないわ
QTEも相変わらずうざい
ラスボスもしょぼすぎだし
まあでも2のラストみたいな俺たちの戦いはこれからだENDじゃなくてちゃんと終わらせたところだけは評価するけど
増田ユーザーならおおかたそうだろうと思うが、私もご多分に漏れずすぐOPP(お腹ピーピー)になる。
牛乳でOPP、コーヒーでOPP、特に心当たりがなくてもOPPである。
OPPのときに困るのがそう、ウンコを出すときに爆音が出てしまうことである。
自宅だろうと会社だろうとお構いなしだ。
弊社は人数が少ないうえに狭く、しかも私は女なのだが女性社員は数人しかいないので、トイレで爆音を出しては「◯◯さんすげー音でウンコしてるwww」とバレてしまう。
一度会社でOPPになってしまい、何も考えずにトイレに駆け込んだら「ブボバッ!!!!!!」という爆音が響いてしまった。
その後特に何も言われなかったが、もしかしたら誰かが聞いていたかもしれないと思うと「死」という言葉が頭をよぎる。
一度やらかしてしまったが、それでもOPP時の排便音はできれば会社では出したくない。
そうして私はOPPのときでも音を出さない排便の方法を考え出した。
しかしながら、OPP時にちょっとずつ出すというのは強靭な精神力と肛門括約筋の強さが必要である。
正直ヒーヒー言いながらやっている。
しかし少しでも油断すると、やつらは爆音とともに一気に出てきやがるのだ。
例えば電車で立っているとき、家でテレビを見ているとき、肛門にギューっと力を入れて抜くだけ。
特別な道具もいらない。
しかも女性においては、肛門を鍛えると同時に膣の締まりがよくなるという効果もある。
「セックスなんてしねーわ!」という喪女の方でも、緩いままだと将来「尿モレ」という悲劇が起こるので鍛えておいたほうがよい。
正直OPPにならないように頑張るべきだと思うが、なるときはなるのである。
OPPのみんな、強く生きよう。
PSVRでやっと評判のいいVRゲームアストロボットが出たと思いきや、売り上げ5000本で打ち止め
俺はもう4か月は触ってないけど、みんな使ってる?何に使ってる?
VRChat界隈は「VRChatはこんなに先進的なんです!」「VRChatで作られていないものはない!」みたいなアピール頑張ってるけど
傍から見たら身内で盛り上がってるだけな印象
てか、どんだけ頑張っても利益でるわけでもなく
コストパフォーマンス考えたら、2Dの紙芝居で十分だったという
わずかな期間で大量発生での食い合いが激化して、全体的にピークを過ぎて落ちてきて、来年はもう伸びることはなさそうだ
xRとか去年ぐらいから言いだしたけど
VR、AR、MR、SR全部合わせても話題のアプリはほとんど登場しないという
一番話題になったのはiOS12で使えるようになったARメジャーかな?
BtoCは全然ダメだけどBtoBは好調だよ、というのもどこまで本当なんだか
VRM? これ付加情報がちょっと足されただけの単なる3Dのファイルフォーマットで、VRとはあんま直接関係ないよね
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
こちらのエントリとコメ欄の中盤〜の流れが興味深かったので、男女問わずに質問させてください。
『男にとって「ストーリー」「脚本」「演出」が映画の魅力。「俳優」の優先度は最下層』というのが結構多くて驚いたのですが
「俳優の演技が好き」だからこそ、映画を観に行く動機の優先度上位に「俳優」がくるのは女性特有で、男性には無い考えですか?
増田本文には
(女性は)好きな俳優の好きな演技を見るのは楽しいから、好きな俳優で決める気持ちはわかる
とあるし
実際に私の周囲の20〜40代のオタクって程ではない映画好きの女性たち(60代の母親含む)と
「○○の演技が好きでストーリーも面白そうだからコレは観ようかな」
「××の演技は苦手だからなあ、ストーリーは気になるんだけどコレは観ないかな」のような会話を定期的にします。
今パッと思い出せる具体例を挙げるなら
俳優なら
女優なら
"怒り"の広瀬すず
あたりが「この人が出ていたらスクリーンで観てみたい」と思う出演者です。
「出演者」も「出演者の演技」も重要視しない人が圧倒的に多いのか?教えていただきたいです。
※元増田では「女優」「AKB商法」と女性の出演者についての文章ですが、コメ欄では「男は男女問わず誰が出演しているかは重要視しない」という男性からの意見が多く見られたためひっくるめて「出演者」としました
映画館での映画鑑賞をするときの動機を教えていただきたいです。
「俳優の演技が好き」だから「俳優」を重要視するのって私の周りだけ…?と不安になったので。
元エントリのコメ欄で、一部の男性が言及している『「俳優の顔が好き」だから出演する「俳優」を重要視する女性』って、本当に多いんだろうか・・・。
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以下、言い訳
偶然冒頭のエントリとコメント群に辿り着いて、勢いでこの文章を作りましたが
その後ブコメでたくさん議論が交わされていて、この質問いらなかった…と気づいたところです。
あほや
元増田のブコメ欄での議論のピークから2ヶ月しか経ってないけど、せっかくなのでもうこのまま投稿します。
改めて色々な意見が集まったら嬉しいです。
あとオススメの映画があればぜひコメントください。洋画邦画問いません。
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アメリカの影
エルマー・ガントリー
G・I・ブルース
ワン・ツー・スリー
荒馬と女
噂の二人
草原の輝き
片目のジャック
底抜けもててもてて
101匹わんちゃん大行進
樹々の大砲
昼下りの決斗
野望の系列
ハッド
鳥
たたり
5月の7日間
未知への飛行
裸のキッス
殺人者たち
イグアナの夜
赤死病の仮面
不意打ち
ラブド・ワン
ファスタープッシーキャット キル!キル!
キャット・バルー
シェナンドー河
ミッキー・ワン
銃撃
テキサスの五人の仲間
ある戦慄
招かれざる客
ドアをノックするのは誰?
フェイシズ
泳ぐひと
華やかな情事
愛すれど心さびしく
甘い抱擁
明日に向って撃て!
夕陽に向って走れ
雨のなかの女
ジョンとメリー
アメリカを斬る
ハズバンズ
真夜中のパーティ
キャッチ22
さすらいのカウボーイ
断絶
愛の狩人
ラスト・ショー
白い肌の異常な夜
ゴングなき戦い
夕陽の群盗
フリッツ・ザ・キャット
アメリカン・グラフィティ
地獄の逃避行
こわれゆく女
カンバセーション…盗聴‥
三人の女
地獄の黙示録
チャンス
マンハッタン
ロング・ライダース
アルタード・ステーツ/未知への挑戦
レイダース/失われた聖櫃
評決
ダイナー
ハメット
シルクウッド
スター80
再会の時
ラヴ・ストリームス
レポマン
チューズ・ミー
バーディ
ミシマ
最後の誘惑
存在の耐えられない軽さ
ダイ・ハード
ヘア・スプレー
ドラッグストア・カウボーイ
ヘザース
ゴッドファーザーPARTIII
グリフターズ
バートン・フィンク
希望の街
殺人課
夫たち、妻たち
ボブ★ロバーツ
アメリカンレガシー
摩天楼を夢みて
エル・マリアッチ
ショート・カッツ
ナイトメアー・ビフォア・クリスマス
リトル・オデッサ
クラークス
リービング・ラスベガス
デッドマン
誘う女
真実の囁き
スターシップ・トゥルーパーズ
クンドゥン
プライベート・ライアン
バッファロー'66
マーシャル・ロー
メリーに首ったけ
π
スリー・キングス
先週の日曜に急にすごい匂い。なんか化学実験失敗したような一回匂い嗅ぐと数時間鼻にこびりついて取れないアンモニア臭。家の周囲も臭ってる。
夜中2時間毎に起きて水飲見たくなるくらい異常な臭いで嫌だったので、調べて色々やってみました。
まず洗濯機を、日立とかパナソニックが出してる2000円近くする洗濯槽クリーナーを買ってきました。
槽洗浄コースにして全量ぶち込みで12時間。終わって洗濯乾燥してみるとむっちゃいい匂い。おまけにふわふわ。
でも洗い場の臭いは取れません。
洗い場と隣接する風呂場の穴という穴に家にあったピーピースルーを投入。一晩くらい置いておいてもいいと書いてあったので6時間位お出かけして水で洗い流し。
1時間は臭い取れた感じでその後も落ち着いた感じだけど、まだ臭い。
3:バクテリア投入
浄化槽見たらなんかカマキリの卵みたいな細かくて茶色の泡だらけになってて、これは浄化槽なんとかしないとかなーと。
近所のホムセンで1000円くらいのオーレスとかいうのを買ってきました。オブラートの小袋に入っててトイレから入れる感じ。
3日めにはカマキリみたいな泡が突っつくとあの臭いがする大きい泡に、5日目には泡が消えて匂いも消えた・・。4袋80グラムのバクテリアさんがやってくれました。
多分原因は毎年1回くるバキューム業者が変わったせい。去年までの業者は汲み取ったあとバクテリア入れてたようですが、
今年の業者はなんか慌ててる感じがしてたので、(予定の2日前に着て近所通りかかったから初めますねとか言ってた)多分入れてないのかなと。
原作でも、休みや連休の繁忙期には手伝ってる。関家は今でこそ東京ぐらしだが夫妻共に花の湯温泉出身(小3から同じクラスだった)のため、もともと春の屋出身だったおっこ母はもとより、それをみていたおっこ父もそれなりに忙しい時期の忙しさは把握していた模様。
おっこも小さいときから旅館に連れられて遊びにきているから、エツコさん康さんとは映画の「蜘蛛が落ちてくるところ」が初対面ではない。ただし旅館の食事は「新メニューの試作」くらいでしか食べさせてもらえなかった(それでもとても美味しかった)模様。
A)東名高速のぼり車線内会話 咲子(主人公の母)「おかあさまにごあいさつできなかったわね」運転中の父「観光シーズンで忙しいからしかたないよ」
そのうえで「遅くなると帰りが渋滞となる」とのおっこの言葉から、神楽を見ていたのは連休最終日のような、休みがひと区切りつく日のことだったことがわかる。おっこ父母はおそらく手伝いはせいぜい最終日朝までだったのだろう。その日チェックアウトする客関連の手伝いまではしないで、最後に神楽を見ていた。帰りに挨拶しようと春の屋に寄ったら、レイトチェックアウトのお客さんがいて、特に言葉での挨拶はしないで帰ってきた、といったところか。
原作でも客が少ないとき(1巻につき1回くらいはある)とか、ピークを越えたあたりでおっこも開放されてるので、翌晩の予約が少ないなどで急ぎの用事が発生しない場合は手伝わずとも旅館仕事は回っている模様。
原作ではエツコさんにはリカコさんという大学生の娘がいて、おっこのプライベートと繁忙期が重なったとき(クリスマスとか、秋の連休でのTAIWAN旅行とか)にはバイトしてもらえるので、実はおっこは春の屋旅館の若おかみと言われつつ"おみそ"状態だったりする。風呂掃除などの仕事も夏休み終わり段階の時期で皆から"荒い"(あとから来た居候の男子小学生の方が仕事が丁寧と褒められている)と言われていて、あまり戦力として期待されていない。ここを踏まえないと「児童労働がー」みたいな話になる。
この話にはあんまり関係ないが、エツコさん康さんはどちらも住み込みではない。深夜仕事が発生したときに泊まれる部屋は用意してあるが、基本的には夜は家に帰っている。家が近所にあるかは不明。エツコさんは車で国道沿いのショッピングセンターにひとっ走りして、おもてなし用の食器を買ってくるくらいには車に乗り慣れてる。
さらに余談だが、春の屋旅館でも秋好旅館でもないリアル温泉旅館の御曹司が先輩にいて、格安で泊めてもらったことがあったのだが、旅館仕事で一番人手がかかるのは「布団の上げ下ろし」だったそうだ。これを省けると(もちろん他のいろいろも省いているのだと思うが)、1泊ウン万円の宿が数千円でも赤字にならないとのこと。以上の話を踏まえると、おっこはマスコット要員としての要素を除くとおそらく布団の上げ下ろし要員として期待されてる。