はてなキーワード: えことは
知り合って間もない男同士で集まり、飲んだりすると、通過儀礼のように「初体験はいつで、体験人数は何人」というような話題になる。
童貞なんでできるだけ下ネタからは逃げるわけだけど、どうしてもそういう話題の好きな人がいて、つかまって白状させられてしまう。
30代のときは気まずいが、それ以上踏み込まれず、同情的に「こういうのはタイミングだから」となぐさめられた。
だって気持ち悪いと思われそうで。
もちろん、本当のことを言っても周囲の態度は変わらないのかもしれないし、相手は嘘だと勘付いているのかもしれないが。
よく性欲がないという人もいるけど、そういうわけではない。
好きな人と、ちゃんと初体験したいと、いまとなれば高望みをしていただけだ。
20代は女友だちも多かったし、飲み友だちに悩みを相談したとき「いまフリーだから、わたしでよければ相手してあげるよ」と言われたこともあった。
迷っているうちに新しい彼ができてしまい、あとで「1回やったくらいで責任とれなんて言わないのに」と笑われた。
合コンなんかもあるにはあるけど、そこでいい出会いが起こることはなかった。
まだ「ちゃんと恋愛したい」という願望も捨てていなかった。
40代でもう誰でもいいやなどと思い始めても、今度は自分が若い女性からは対象外になっている。
失礼かもしれないが、同年代の女性はなかなか性欲の対象にしづらい。
じゃあ風俗だ。
でも嫌だ。
そうやって自縄自縛になっている。
週末、新しく知り合った男だけのグループで飲みに行き、やはりそういった話題になった。
そこで嘘をついた。
(ストーリーとしては、件の飲み友だちに誘われて、短い期間だがつきあったことになっている。)
ほとんど逆恨みに近い感情を質問した男性に感じたが、見栄を張ったのも自分だし、「やらよそ」なのも自分の責任だ。
なんとかするしかないだろう。
ただ、年々上がっていくハードルに、呆然となっている自分がいる。
もう棒高跳び並みですよ。
早稲田大学が、今年度から非常勤講師の契約の上限を5年と決めたことに対して、非常勤講師15人が大学を刑事告訴した。これは直接には新しい就業規則が労基法違反だという訴えだが、根本的な問題は「契約社員は5年雇ったら正社員にしなければならない」という労働契約法の規定である。
常識で考えれば、非常勤講師を5年雇ったら終身雇用にしろと規制したら、4年11ヶ月で契約を解除するのは大学経営としては当然だ。この労働契約法改正については、私を含めて多くの経済学者が反対したが、厚労省の官僚と労働政策審議会の圧倒的多数を占める労働法学者には、この程度の論理的な推論もできないのだろうか。
私も非常勤講師をしているが、同じような仕事をしながら大学ほどひどい差別をしている職場はないだろう。授業が90分で、1コマ7000円だ。往復2時間の通勤や準備や試験監督なども考えると、時給はコンビニのアルバイトと大して変わらない。他方、准教授になれば無条件にテニュア(終身在職権)が与えられ、年収は1000万円以上になる。年間200コマとしても、1コマ5万円だ。
日本のサラリーマンは非競争的にみえるが、仕事のできない社員はクビにできなくても左遷され、定年まで窓際ポストで恥をかくので、長期雇用は「恥の文化」では強いインセンティブになっている。それは彼らがどこにでも配置転換できる汎用サラリーマンだからであり、外資では配置転換できないので、使えない労働者は解雇するしかない。
これに対して大学教師は「専門バカ」なので、配置転換という競争が機能しない。しかも准教授になったら全員がテニュアを得るので、授業のノルマさえこなしていれば研究する義務もなく、職階がないので出世競争もない。要するに競争原理がまったく働かないので、日本の大学が先進国で最低レベルになるのは当然だ。
文科省のデータによれば、アメリカの大学教員のうちテニュアをもつのは62%で、助教授では12%しかいない。一流大学ほど要件はきびしく、ハーバード大学では2300人の教員のうちテニュアは870人しかいない。東大が世界と競争するなら、秋入学などより、非常勤も含めてすべての教員をテニュア審査してはどうだろうか。
そろそろ時代的に地下鉄サリン事件を知らない世代が表に出てきてもおかしくない頃合だと思う。というか、かく言う自分がその辺りの人間である。
事件のあったときに生まれてなかったという訳ではないけれどあまりテレビとか見てなかったしそもそも住んでいた場所が事件のあった霞ヶ関辺りとは遠く遠く程遠い場所だったのであまり実感も何もなかったってのもあるしあまり詳しくは知らない。でもじゃあ今になって事件を詳しく調べてみようなんて気分には正直全くならない。寧ろ出来るだけ触れるべきではない話題なんだろうなあと何となく怖がっている節がある。世間的な大事件といえば酒鬼薔薇の件や宮崎の件、バスジャック云々ってのもあったしあと最近なんかだと加藤の件とかも、とにかくセンセーショナルな物といえば他にも色々とあったはずなんだけど、それでも口に出すのも憚られるってレベルじゃあない。一体どこら辺が差を生んでいるんだろうなあと思った結果「被害者が進行形で後遺症に悩まされている」とか「関係者がつい最近まで逃亡生活をしていたり何らなの形で事件がまだ続いている」みたいな印象があったりするせいなのかなー、とか。何かと聞くのも調べるのも気が乗らないし不謹慎みたいな感覚があるんだよなあ。ポア鳥とかネタ的な感じで使われてる奴とか見ても結構笑いづらくて勝手に困っちゃったりしてる。とはいえこちらが調べるつもりじゃなくてもある程度耳に入ってきちゃったりする話なんかを聞いていると事件当時ないし事件が起きるまでの間にどういう風な感じでオウムが扱われてきたのかとか色々と聞こえてくるしやっぱり興味がないわけではない。怖いけど。
事件が起きるまでは「ちょっと変な宗教とその教祖」程度の扱いで結構普通にメディア露出していたとか、反面映像作品に教祖の写真をサブリミナルでぶち込んで視聴者に刷り込もうとしたとか、選挙活動していたとか(歌、有名らしいけど)、今思うと結構引く様な風景だけど当時としては割と日常風景だったんだなあ……何か怖い。いや寧ろそれ位まで浸透してきた辺りで事件が起きてしまったからこそのセンセーショナルなんだろうか。どうなんですかね。
日本人の宗教嫌いはオウムのせい、なんて話も聞くけどそれはちょっと言いすぎだと思う。多分もっと昔から結構ひねくれてる人種だからオウムだけのせいとはいえないと思うけど、まあ宗教自体に対する偏見とかあからさまな忌避みたいなのはオウムが決定的にしちゃった部分はあるのかもしれない。まあやっぱ当時の事知らんからなんとも言えんけども。実際海外に行って無宗教なんて言うと酷く胡散臭がられるらしいなんて聞いたけど、その場でちゃんと「日本では新興宗教が化学兵器テロを起こした事があってそのせいで宗教に対する偏見が強くなったんだよぅ」とか理由付けをしっかり述べてあげれば先方も納得するとは思うけどね、っつーか寧ろショックで口半開きになるよきっと。何せそんな事件なんて世界広しっつってもこの国だけでしょうし。自爆テロなら今でもチョイチョイ見かけるには見かけますが、「新興宗教が」「化学兵器を自作して」「地下鉄にばら撒いて人を殺す」んですよ。色々な意味でツッコミ所が多すぎる内容ですよ。
……オウム。結局は得体が知れないから怖いって事なのかなあ。新興宗教ぶち上げて人殺して、結局何がしたかったんだろうか全く分からない。分かるわけはないですし実際に首謀者たるヒゲ教祖(昔から生理的に苦手な風貌ではあった)も今では鉄格子の向こうで気が触れてらっしゃると聞くし、真相は闇の中って奴なんだろうなあ。何かやだなあ。怖い。
上長に、お前らのチームうるさいと
お怒りの鉄拳が下ったんだが、
なんていうか自覚がなかったので驚いてしまった。
新しく入ったメンバの一人が、やたら独り言喋るやつだったんだが、
煩いので注意しようか数日迷っていたら
いつもの独り言、つーか明らかに狙ってたんだと思うのだが、を呟いて
頭悪い逡巡を2秒した挙句『ガッ』ってモニターから顔あげず言ってみた。
そしたら何故か周りのメンバーが吹き出して、
独り言をよく喋るやつを注意するつもりだったのが
独り言で何か会話するようになった。顔をあげないで。
先日は、なんつってったとか歌まで歌い出すし。
リーダーが別件不在でヘボPMOの自分が何故か統括しているチームだが、
進捗悪くないし、この時間に帰れるし、
さすがに歌まで歌い出すのはどうかと思ったけど雰囲気は悪くない。
同じ部屋にデバッグチーム以外も結合や移行の人たちもいるし、
煩いのは良くないんだが引き金を引いたのは自分ってあたりで言い方に悩む。
独り言のやつは他にもいろいろあったのでまぁ例外だけど
基本放置で口出しはしないんだが、上長に言われた以上何とかしないとな。
朝会でなんて切り出そう。
深夜だったし、ちょうど読みたい漫画(『アフロ田中』シリーズと『のりりん』)があったのだ。
手続きを済ませて番号25番の部屋へ行った。少しは寝たかったので床タイプ(フラットタイプ)の個室だ。
さて、ネットカフェでは、個室に入る瞬間どうしても隣の個室がちょっと見えてしまう。
座ってしまえばなんてことないのだが、入る瞬間は目線が高く、隣が見えてしまう。これはネカフェを利用した人なら何となく理解していただけるだろう。
今回もそんな感じだったのだが、なんと左隣の個室のやつが全裸で寝ていた。
いや、正確には全裸ではなかった。ヘッドホンだけしていた。衣服は棚の上だ。
彼は都会の片隅のビルの、のぞけば見えてしまう仕切りの裡から、全身をありのままおちんちん含めて、その身体を虚空へ擲っていたのだ。
さてどうしたものか。というか聞きたいのだが、これはどうすればよかったのだろうか?
まずネットカフェで全裸になるのはOKなのか?ホテルでは勿論OKだ。でもネカフェでは?よくネカフェでオナニーする是非が問われるが、全裸はいいのか?そんなことを考えた。
マジで教えてほしい。
『中退アフロ田中』を棚から持ってきつつ、もう一度男を見る。すがすがしいほどにすやすやと寝ている。
一糸まとわずその身のままにささやかな安息のまどろみに湿潤し、一帯の持つ雰囲気と完全に自己を溶融させんがばかりだ。ネカフェ個室の曇りガラスが、全面肌色に染まっている。
初めの問いと関わることだが、この全裸野郎が全裸であることを知っているのは私だけのようだった。もし何かの拍子で誰かが近くを通ったら無言で親指を立てるしぐさで「隣を見ろ」と示唆したものだが、あいにく店員含めて誰も通りかからない。
『のりりん』を棚から持ってくるとき、だんだん慣れてきた私は彼のおちんちんを見てみた。自分のはまぁよく見ることもあるが、他人のはあまり見たことがなかった。小学生のときとかはそれなりに見たことあっのだろうが。
感想は、尾玉なみえ『少年エスパーねじめ』のヒロイン練川えすてる((練川えすてるは『ねじめ』の主人公「ねじめ」と友人のエスパー「へびくん」のおちんちんを並べてみる機会があって、そのときに男性器に個性があることに気付いた。私も気付いた。))の言葉をかりると「それぞれ個性があるう」だ。
朝になると、彼は消えていた。彼は自分が全裸だと気付いた時何を思ったのだろうか。「恥ずかしい」とか、「やってしまった」とか思ったのだろうか。今となってはわからない。ただ私は、漫画を読む以上のことを体験することができた。個性だ。彼はぬらりひょんのように、誰も知らないうちに鮮やかに空間を盗み出したのだ、と感じだ。まぁああはなりたくないが、これって結構すげえことだと思う。
アニメが原作絵と違って気持ち悪いと評判の惡の華。1話を見て興味を持ち、ネットであらすじを探って、原作本を全巻購入し、幾度と無く読み返してもまだ飽き足らない。子どもじみた中学生らしい登場人物が、思春期特有の心理状況を抱えながら、自己を萌芽させ、徐々に顔つきも大人びてくる。当初はギャグテイストの悩みや災難も、次第に力を帯び、心をえぐり、魂をすりつぶすほどの痛みになる。登場人物は傷つきながらも正気を失わず、自分の心が発するの声にしっかりと耳を傾け、美しくも悲しい物語を紡いでいく。マンガやアニメの主要な購買層が求めている作品ではない。思春期で思い悩む少年少女とってのバイブル、恋愛や社会との関わりの中でひどく傷を負い、いまも人知れぬ痛みを抱える人々にとっては、癒しの物語となるだろう。
高校生編はまだ途上なので評価は避けたい。蛇足にならないよう願いたい。常盤さんと付き合うことになったが、仲村さんが登場するならば春日には破滅しかない。常盤さんという人物が、高校生となりある程度社会性を身につけた仲村さんとしての役割を担うならば、仲村さんは永遠に登場してこないだろう。
中学生編は、3巻の峠を境に前半と後半に分かれる。前半は主人公が、あこがれの娘の体操着という、無意識の海に落とし込んだ財宝とも言うべきものを盗むことから始まる。思春期は幼い子供だった時代と別れ、自我が覚醒する時期。親や学校、友人らと同一の存在であり、他とは異なる自分というものがなかった幼い自分に別れを告げる時期。未知の財宝を奪うという行為は、通常の意識よりも深いレベル、無意識から発せられる。さらに、住み慣れた世界から自己を引きはがす未知のモンスターが登場。深淵からの使者、仲村佐和に秘密を握られ、否応なしに「自己の覚醒」へと突き動かされる。すべての出来事は現実と同じく、良い結果と悪い結果の両方をもたらす。そして自己の表現とは属する社会の道徳とは相反するものになる。すべての結末は死、解体、別離。カミソリの刃先のような危険で細い一本道を命がけで渡る春日の姿は、一種の英雄譚のようだ。
自己の表現すなわち仲村の呼ぶ「変態」が本作のテーマか。分かりもしないボードレールをこれみよがしに見せつけて俺は他の奴らとは違うんだと悦に入る気持ち悪いネクラうじうじ男、春日。彼が未知からの召喚に応じ、キリストの受難のような試練を受ける。思わずあこがれの佐伯の体操着を盗み、思わず嫌われ者仲村をかばい、思わず佐伯をデートに誘って思わず告白する。仲村に本当の自分を黒板に書けと言われ、一度は断るものの、仲村が溜め込んできた周りの世界への鬱憤を知り、さよならを告げる仲村を思わず引き止める。自身のカミングアウトだけでなく、芸術作品のように自分の存在の全て教室にぶちまけて仲村の言う「クソムシの海」を創り上げる。完全なる自己の覚醒は住み慣れた世界との別れ。仲村とともに「向こう側」を目指すも、愛すべき社会を体現した佐伯が立ちはだかる。唾棄すべきもの、社会から忌み嫌われるものだったはずの「ありのままの自分」が佐伯から受け入れられ涙を流す。だが、一人で「向こう側」に向かおうとする仲村を思わず引き止める。引き止めたことに驚いたのは春日自身。言葉が出てこない。行くか戻るか2人から選択を迫られ引き裂かれる春日。普通に佐伯と「付き合う」ことができず、仲村の求める「変態」にもなれない、自分が空っぽであまりにも無力な存在であることを思い知らされる。
後半も「変態」行為が自己表現だが、その行為には一切の欲望や情念は込められていない。愛の表現そのものだ。愛は自己の表現であり、社会の価値観とは反するもの。峠の心理状態のまま時間が止まり、仲村にも佐伯にも歩み寄れない春日。3者は峠の出来事で自分の存在をズタズタに引き裂かれている。社会性の権化だった佐伯は親友木下に付き添われることで辛うじて社会生活を送り続ける。春日と仲村は以前にもまして社会とは関係を持てない。木下は佐伯と春日の関係修復を試みる。互いに相手から好きだと言われたいとの思いはあるものの、これ以上傷つきたくないというのが本音だ。もう引き裂かれる痛みに耐えられない。双方とも無表情を装い、相手を拒絶する言葉を放つ。佐伯と別れ、残るは干からびて死んでいくだけの日々。夢のなかで、それまで気づいていなかった仲村へのいとおしさに気づく。仲村への気持ち以外の他の全ては意味のない空虚な存在。自分の「向こう側」は仲村の中にある。仲村を笑わせるためならば、社会も自分自身さえも捨ててしまおう。愛の巣そのものの秘密基地を作り、佐伯を除くクラスの女子全員のパンツを盗む。変態行為は仲村への愛のメッセージであるとともに、佐伯には決別のメッセージ。佐伯への決別の決意を知った仲村はようやく春日の思いを受け入れ、世界で2人にしか分からない特別な関係、すなわち「契約」を結ぶ。
一方、決別のメッセージを受け取った佐伯は、自分の抑えこんできた欲望、自分そのものの萌芽を迎える。社会性の象徴である木下を伴いながら、春日と仲村が創りだす2人だけの世界を探求する。それは木下にとってはただ変態、犯罪者の異様な空間。だが、佐伯にとって、自分には絶対にたどり着けなかった世界。嫉妬と羨望と欲望の対象、世界の求める姿を演じることなく自分の好きなことを自分の思いで自ら創造する世界。彼女の求めたすべてがあった。悪行を社会に知らしめることは、春日と仲村の2人だけの絆をさらに深いものにしてしまうだけ。木下と決別し、麦わら帽子と共に自らの演じてきた仮面を脱ぎ捨てる。春日が仲村のために創り上げた世界を燃やし尽くし、春日をセックスで取り込むことで仲村から奪い、自分のものにするという欲望をさらけだすも、春日に拒絶され、仲村との対決にも敗北する。
仲村は勝利したものの深い傷を負う。後半の仲村は未知のモンスターではない。攻撃的な性質は持ち続けているものの、春日を受け入れるまでは、いばらに閉ざされた眠りの森の美女。春日を受け入れてからは愛の対象者として存在する。変態行為を求めることはない。ただ自分を喜ばせるためだけに、他のすべてを捨てて一生懸命になってくれる男の子、春日の存在を嬉しく思う一人の女の子だ。2人の間に割り込んできた佐伯の存在により、自分と春日の関係は誰からも祝福されないもの、自分の存在は周りを不幸にするだけのものだと思い知らされる。行き着く先は死か破滅しかない。だけど私は死にたくない。
春日の隠し事が徐々に露見し外出禁止となる。春日を閉じ込める家は地母神の胎内そのもの。放火の懺悔を決意した佐伯は春日の元を訪れ、2人で罪を告白し元の世界で生きる道を提示する。佐伯に心を引かれそうになるが、仲村を信じ想い続け、佐伯を拒絶する春日。行き着く先は破滅のみだと分かりつつも。佐伯の自白とともに、佐伯の分身とも言える木下の手で、すべての出来事が世界に露見される。誰一人幸せにできなかった。何一つできなかった春日。閉じ込められた檻を力づくで破壊し、閉塞した社会の胎内から春日を引きずり出したのは仲村だった。社会から拒絶されるならば、社会そのものを拒絶し、春日を殺し、自ら死ぬ覚悟をしていた。仲村にとって、自分の知らない自分を引き出してくれたのはいつでも春日の自己表現の爆発だった。春日がかぶっている皮を一枚一枚はがす度に、仲村は自分自身を発見していた。運命の夏祭りは明日。すべてが終わるのは明日。もう時間がない。向こう側を、自分自身を見つけなければ。全裸にし、皮膚をめくっても出てこない。バットで脳みそを叩き割れば出てくるのか。殺す気だった。だが、できなかった。私は春日くんを失いたくない。刺のある言葉を周囲に発して、無関心無表情を装って、硬い殻で閉じ込めて、ずっと守ってきた本当の自分、見たくなかった裸の自分自身。弱々しくて、壊れそうで、大嫌いな自分。世界がクソムシじゃない。私がクソムシ。私がいるから、こんなにも世界は生きづらくて苦しい。決して消えることのない自分。ありのままの姿をさらけ出した仲村を春日は魂の咆哮とともに抱きしめる。2人は心中することで、周りの世界のすべてを拒絶し、魂の永遠なる結合を図る。夏祭り、2人は世界に向けてありのままの自己、この世に生きた自分という存在そのものを叫ぶ。仲村は春日を愛していた。そして愛する春日が、両親や佐伯、社会から愛されるべき存在であることも知っていた。世界から拒絶され、孤独の深淵で苦しむのは私一人でいい。あなたは生きて。春日を突き飛ばし、一人で死へと突き進む。だが、その仲村自身も世界から愛されるべき存在。死から拒絶され、2人、いや佐伯を含む3人は、桐生市という地母神の胎内から外の世界へ排出される。そこで中学生編は終わり。
主人公の春日くんの心理描写はあるものの、仲村や佐伯についてはどのような心理状態でいるのかあまり描写がない。だが、2人とも自分にしか分からない悩みを抱え、自分の信念に基づいて行動している。物語の都合や作者の都合で動かされる人物ではなく、自らの意志で動く生きた人間だ。春日に自分の心の奥底に秘めた何かを求めてしまった2人の少女が作者の意図の範疇を超えて動きまわる。自らの意思で動く登場人物が自然と創り上げてしまった物語が惡の華の中学生編ではないか。仲村が、佐伯がどんな気持ちを抱えてその場にいたのか、想像を膨らませながら読むと深い、深すぎる物語。まるで恋人の心を探るような、自分を拒絶した異性の心を探るような、そんな作業にも感じられる。
面白いおもしろすぎる物語。エンターテイメントではない。現実の人々は、自分自身との関わり、愛すべき存在との関わり、社会との関わりの中で、必ず傷つき、苦しむ。この物語は生きる糧となる物語。魂に必要な食べ物。癒えることのない痛みを和らげる物語。閉じ込めて見ないようにしていた心の古傷を思い出させ、生きる歓びに涙を流させる物語。世界は悪意と欲望で満たされている。常に腐敗し悪臭を放ち続けている。自分自身も、かつては不滅の存在に思えていた社会そのものも、実は有限で不完全な存在に過ぎない。すべての欲望、情念、怒り、迷妄を捨て去った後、哀れみの心が生まれる。法隆寺、玉虫厨子の捨身飼虎の図で描かれるように、愛する人のため、社会のため、神に捧げる供物のように我が身を捧げることで、初めて完全無欠、永遠の存在を感じることができる。世界の中心はここにある。永遠は今この瞬間にある。神は常にあなたとともにある。
住み込みで働ける所を探して自立したいんだそうだ。
まぁ男だったらいいだろう。あえて茨の道を進むか、頑張れよと言ってやりたい。
ただ女はダメだ。
家庭環境が悪く一刻も早く家を出たかったのと、生来の学校嫌いによる。
職人の道へ入ったが別に志なんてなく、ただ住み込みで働ければなんでもよかった。
その後幾度か転職を繰り返すが、なんとか落ち着き、家庭も持つことができた。
ブルーカラー一筋の俺は学歴差別を受けた事もないし、コンプレックスもない。
ただ問題はそこじゃない。
彼女が実家と絶縁し、一本どっこでやっていこうとしている事だ。
庇護者のいない子供を利用・搾取しようとする大人はいーっぱいいる。驚くほどいる。
仕事覚えてないからって何か月も月給3万で働かされた事もあったし、
父親のように慕った人物に100万近く持ち逃げされた事もあった。
こういうクズ達は、なんの後ろ盾もない事をしっかり見抜くし、子供の寂しさにも付け込んでくる。
10代の女には価値がある。群がってくる悪い虫の数が男の場合と全然違うんだ。
挙句そいつの子ども身籠ってシングルマザーとかさ、ベタすぎて泣けちまうよ。
仮にさ、すべての誘惑を跳ねのける鉄の意志を手に入れたとしよう。
でも女の子がそんな、ぶ厚い鎧みたいなタフさ身につけてどうすんの?
それはそれで異形だぜ。
いや、異形にこそなりたいのか。
まぁ俺は祈ることしかできないよ。
まず内面的な要因について。研究者は孤独に強い人が多い気がする。ときどき信じられないくらい社交的な人はいるけれど、そういう人も、一人で研究に没頭する時間は大切にしている。もともと「一人でも大丈夫」な人が、研究者になっていく過程でますます孤独への耐性をつけていく、っていうのはあると思う。一人の時間が大事だし、たいていのことは一人でできる。そうすると誰かとパートナーとして深く関わるのが、億劫になっていく。「女の子はうさぎなんだょ、寂しいと死んじゃうんだょ」的女子なら寂しさを埋めるために必死で彼氏を作るだろうけど、別に一人でも大丈夫で、しかも一人の時間がないと仕事にならない場合は彼氏の存在のメリットはデメリットを上回らない。ときどき、「彼氏作らなきゃ、結婚しなきゃ」と思うけれど、「めんどくさいなー 研究の時間削られるしなー」で終わってしまう。
次に外的な要因について。ではなぜ男性研究者は結婚できるのか。それは男性研究者(常勤、任期なし)は「エリートの夫、専業主婦の妻」モデルに一応合致するため、婚活市場で人気があるからだ。男性研究者からしても、家事、育児をしてもらえて、自分は研究に没頭できるというのはとても都合が良い。
そう考えると、女性研究者は専業主夫の夫を見つけると問題解決なんだろうな、と思う。出産は自分でするとしても、その後夫に育児を任せられれば、半年程度の休暇でなんとかなる。夫が専業なら海外赴任も問題なし。
女性の生き方が多様化している以上、男性の生き方も多様化して欲しい。どっかにいませんかー 家事が得意で、子ども好きで、家庭に入りたい、きちんとした優しい男性。子どもが手を離れたら、好きな仕事をするもよし、趣味に没頭するもよし。経済的には一生支えるから、精神的に支えて欲しい。そんな男性に巡りあいたい。
僕が抱えている問題はいったいなんなのか。誰か教えてください。
30歳にもなったのに何をしているんだろうという気持ちはあるけど日常生活ではほとんど忘れてます。
現在進行中の浮気相手は多くありませんが、10代の頃から浮気に抵抗はなく女の子と遊ぶのがすごく好きです。20代後半になってからモテないのが残念ですが。
女性と知り合うと「やるかやらないか」というのは常に考えます。直感的に「この人とはセックスするな」と思う人はたまにいて、そして当たります。こんなことばっかり考えているので、女友達は少ないです。飲んで手を出してしまい気まずくなることも多々ありますが、その点に関してはそれほど抵抗はありません。長く続いて友達以上恋人未満となる人もいます。ご飯に行ったり遊びに行くのはすごく楽しみにしています。
罪悪感はたまに感じますが、浮気をキレイさっぱりやめてしまうほど大きな感情にはなぜかなりません。
浮気と同様クセになってるのが風俗です。月に3〜4回は行きます。ホテヘル一択で店舗型は全く興味がありません。ほんとうにたまにですが、1日に2回行ったりもします。
買春と書いたとおりの店なので違法ではありますがこの地域では黙認なのでそれほど特殊なお店ではありません。しかし、この形態にしか興味がないというのも僕の心を何かを反映しているような気がしてならないです。初対面の女の子と1対1でセックスを楽しむホテヘルがクセになるというのはほんとにダークだと思います。
毎回違う女の子を呼びます。浮気の話で書くのを忘れましたが、風俗の子と店外で遊びに行ったりという浮気もあります。
ソープより安いとはいえこれだけホテヘルを利用すると月に十数万円のお金がかかります。行きたくても行けないというのが普通だとは思うのですが、仕事がそこそこうまくいっているのでお金が制約になりません。
好きで始めた仕事で若いうちからそれなりの給料をもらえていましたし、副業のおかげで貯蓄も少しありました。仕事ができそうな雰囲気とそれなりのコミュニケーションスキルをもっていたのか独立までしてしまいました。独立をきっかけに一般的にお金持ちと言われるだけの収入はとれるようになりました。
いまは数人の社員と一緒に仕事をしていますがどうしてもお金を稼ぐことに執着してしまいます。もちろん多くの給料を支払いたいとは思っていますが、それ以上に自分でももっともっと稼ぎたいという欲求があります。なんとか給料を抑えたまま売上を増やすか。このままいくと典型的なブラック企業経営者になるでしょう。いまはまだギリギリのところでとどまっています。
若くに結婚して子どもも生まれ仕事も楽しくそして生活も豊か。多忙のため家族の時間は少ないですが夫婦仲は悪くないですし、2人の子どもは可愛いです。友達とも休日に時間を合わせて飲みにいったり、たまに旅行に行くような付き合いはあります。楽しいです。
自分で言うのもおかしいですが、上っ面だけを見れば何不自由のない生活でちょっと立派な人ぐらいには見えるようです。不安や不満、後悔などは全くありません。むしろ楽しい人生です。(もちろん会社の将来など現実的な不安はありますが)
でもふとした瞬間にこう思うんです。「自分には何かが欠けている」と。
非社会的な行動を続けてしまう原因は子供の頃の出来事が影響していることが多いようなので少し自分でもおさらいしてみました。
家庭環境は良い方でした。都心から少し離れた郊外の街に一軒家を持つ少しだけ裕福な家庭です。父親は多忙で一緒に食事をとることは少なかったですが両親の仲は良く愛情は注いでくれたと思います。兄弟はいません。
いじめを受けたような経験もありません。小学生の頃にクラスの中心的な子とケンカをして殴られた後に嫌がらせの手紙を書いたことはありました。けっきょく出せませんでしたけどね。
中学生以降は少し素行の悪い子供でした。サボる、たばこ吸う、酒を飲む。どの学校にも一定数いる不良中学生です。小心者なので暴力的な面はありませんが、学校サボって遊び回る、夜中に抜け出し遊び回るという生活でした。学校と勉強は嫌いじゃなかったですが、コツコツと勉強することが嫌だったので高校から大学まではFラン?という感じです。
ただ、コンピュータをいじるのは好きでがっつりのめり込んでました。当時一番好きだった本はマスタリングTCP/IP応用編でした。
一方で二十歳前後の時期にはまったのがドラッグでした。いまでいう脱法ドラッグとマリ○○ナとかですね。一時期、有名大学学生の逮捕が相次いで社会問題になっていましたが、その少し前の時期だったのでそれほど厳しい目は向けられていませんでした。学内で焚いてヘラヘラしていてもだれもドラッグというものが身近にないので気付かなかったんでしょうね。
いまでは考えられませんが、かなり傾倒していたのでヨーロッパにまで吸いに行く始末でした。あのころもまた楽しい思い出です。この影響かどうかは知りませんが、旅行が好きで年に数回いく国内旅行が趣味です。
過去を振り返っても何か大きな問題があるようは気はしません。違法行為に対する意識が緩いということはありますが何か影響しているでしょうか。
ただ、一つ心の中でひっかかることがあります。それは他人との関わりの記憶がすっぽりと抜け落ちていることです。学生時代は常に友達はいましたし楽しく遊んでいました。今でも付き合いがあります。でもなぜか一緒に遊んだ場面の記憶が少なすぎるのです。これは家族についても同様です。集まって昔の話をすることはよくあると思いますが自分だけまったく記憶がないんです。どこに誰と行ってどんな会話をしたとか。思い出せるのは上に書いたとおり、ほとんど自分が一人で楽しかったこと。内向的な性格 ーー 関心が内に向くと言う意味での ーー ではあると思うのですがちょっと極端な気もします。
30歳になってこんなことを悩むのは恥ずかしい限りですが勇気を持って書きました。
なぜか他人からの評価と自分自身の評価にギャップがありすぎます。おそらくこの文章を周りの人に読ませたらビックリするでしょう。「え?そんな人に見えないんですけど!?」という驚きと引きつった顔が目に浮かびます。あなたの会社にいる30歳を思い浮かべて、その人がこの文章を書いたと想像してみてください。ありえますか?ありえませんか?でもそんな普通の世界に僕は入り込んでいるんです。
繰り返しになりますが、日常生活はまったくもって平穏におくることができています。良い部分と悪い部分でバランスが取れてるというんでしょうか。荒れたり、自堕落的な生活になることもありません。体調も良いです。人間関係も良いです。(本心はわかりませんけどね)
精神的に幼すぎるのでしょうか?それは普通どのように成長させるのでしょうか?正直なところ、人生経験という意味ではそれなりのものは蓄積してきました。
いったい僕はなんなのか。抱えている問題はなんなのか。誰か教えてください。
公私ともにアイデアマンと認めるこの俺が創造力を発揮する秘訣はというと何と言ってもある1つの心構えにあると思う。
だいたい創造性開発といえば好きを貫けってことと、インプットとアウトプットを増やせってこと、それからKJ法に始まる発想法を身につけろと、そういうことしか言わない。これでは本当の創造力はつかない。
『スーパーIT高校生"Tehu"と考える 創造力のつくり方』も何か新しいことが書かれているかなと思ったけど特に書かれてなかった。ってか創造力について記述がほとんど無いだろこの本。
その心構えとは、これ「新鮮さを貫け」である。
だいたい気付かないといけないよ。好きを貫くことによる視野の拡大ってのは実はその裏で視野の固定化も孕んでいることに。
俺は世の中で素晴らしいとされているあらゆることが好きになれなかった。好きを貫けとか糞くらえと思っていた。だからこそ「新しさに目を向ける」ことに気付けたのだろう。
新しさに目を向ける、という発想こそが創造力開発の妙薬なのだ。
暮らしのなかで積極的に新しさを見つけようとする。そのためには予想を立てることが不可欠である。予想を立てて現実と照合する結果、違いに気づき驚きが生まれる。
君は新しさに驚く日々を過ごしていますか?新しさは心の栄養ですよ。予想を立てないから違いに気付けずありきたりの日常に見えてしまう。
それから好きを貫いたり1つの目的や目標のために身を粉にしたりすると一気に新しさが見えなくなってしまう。もっと柔軟にならないといけない。
音楽を聴く時もみんな「イイ曲」を探そうとするんだよ。それが駄目。イイ曲ってのは自分の既存のモノサシでイイ曲ってこと。それでは視野が広がらない。
そうじゃなく「新しい曲」を探そう。本当に「イイ曲」なんて1000曲に一曲で、そのためにせっせとCD買いまくるのはご苦労なこったとしか言いようがない。馬鹿である。一種のギャンブル中毒、スロット馬鹿と同じ。
そうじゃなく「新しい曲」を探そう。「新しい曲」であれば50曲に一曲はそういう曲が見つかる。新しさが無いかなと注意深く聴いていれば5曲に一曲はそういう曲が見つかる。
そうやってどんどん新しい感覚を心に取り込んで味わっている人と、固定したモノサシで「イイ曲」ばかり追い求めているとでは、心の豊かさに雲泥の差が生まれるのは言うまでもねえことだ。
facebookにも「イイネ!」ボタンがあるがあれは「新しい」の意味で用いるべきなんだ。「良い」の意味で使うと心が狭くなる。評論家気取りで良い悪いを判定しているとまたたく間に心が死んでしまう。
少しでも新しい部分がないか耳を澄ませて生活しないと。パクリって言葉を多用する人間も危ない。あいつらは新しいものまでパクリ認定してる。
あれもパクリこれもパクリと連呼してる人間がさあ自分が作り手側に回ったとき何も出来なくなる。自分の首を絞めちゃってる。だから新しさに鈍感なヤローは何も作れないんだ。
これまで話を聞いてこう思った人もいるだろう。新しさだって1つのモノサシに過ぎないからそれに拘るのは視野を狭くするんじゃない?現代アートも新しさに拘って珍妙な方向へと迷走してるように見えると。
それはある意味正しいように見えるが現実には新しさを追及していけば1つの新しさだけでなく色んな新しさを求めるようになるから狭い視野に陥ることはない。
現代アートと言ってもいろいろあるが理屈に拘って迷走してる人もいるのは事実である。だがそれは新しさに拘っているからではない。新しさに拘ることで珍妙なアートが出来るとすれば
それは新しさがマジョリティに理解されないからであって、それは視野が狭いのとは別問題である。発想法みたいに機械的に理屈でひねり出した新しさではなく、
ちゃんと本人の感性が新しいと感じたのであれば、それは同じ感性の持ち主には感動として伝わるはずである。珍妙に見えても一部の人には価値あるアートなのである。
好きを貫くデメリットをもう1つ書いておこう。それは好きには限度があるということ。例えば作曲家が「イイ曲」ばかり作ろうとしていたら必ず壁にぶつかる。
作曲のセンスや技術が成長してどんどん「イイ曲」が出来ているうちは良いが必ずどこかで壁にぶちあたる。芸術家の苦悩と言えば聞こえは良いがはっきり言って自業自得の馬鹿である。
「イイ曲」ではなく「新しい音を追い求める」というスタンスでいけば一気に視野が広がる。「イイもの」以外は全部捨ててしまうのではなく、その中にも面白い音がたくさんあることに気付く。
「新しさ」を追い求めると興味が特定分野に限定されない効用もある。例えば、ポップスばかり作曲しててジャズに全く興味のない人が新しさを求めはじめるとどうなるか。
最初はポップスの中から色んな新しさを見つけようとする。だけどよくよく聴いてみるとジャズ要素の入ったポップスに新しさが見いだせるかもしれない。あるいはポップスの中に新しさが見いだせなくなって
他のジャンルも聴こうとしてジャズにたどりつくかもしれない。そうして自分の興味分野がどんどん広がっていくのが新鮮さを貫くメソッドの大きな効用である。
そしてジャズの新しさを一通り取り込んだ心でまたポップスを色々聞き直してみると面白いことにこれまでとは違った聞こえ方がしてさまざまな新しい新しさを発見できるようになる。
そうやってどんどん新しさが見つかって心が広がって楽しみが尽きることがない。新しいもの探しをしない作曲家は駄目なんだよ。「イイ曲」ばかり作ろうとしてる作曲家は感性が窒息死してしまう。
飛行機のトランジットを待っていて暇なので、ちょっと昔のことでも書いてみようと思う。数年前、この空港にはじめて来たとき、僕は今とはまったく違う人間だった。あの頃の僕は、希望と理想と好奇心に満ちあふれていた。でも今は? 僕の心は冷たく凍っている。そしてこれには訳があるのだ。
僕は父親を早くに亡くし母子家庭で育ったが、まじめに勉強したので成績はいつも一番だった。そのまま東大法学部に入ったあとも、僕は常に一番だった。東大を主席で卒業したとき、母はどれほど喜んだことだろう。その後、僕は外務省に入省し、上層部の大きな期待をうけて、ドイツの大使館に派遣されることになった。当時のベルリンはいまだ東西ドイツ分断の爪あとも生々しく、その一方で、新たな統一国家を創りあげるのだという若々しいエネルギーにもまた満ち満ちていた。その高揚感に僕は目を見張り、自分が今歴史のまっただ中にいるのだということに感激を覚えた。僕はドイツ語とフランス語がとてもよくできたので、大使館でも重宝された。そして、これはすでに上層部の許可を得ていたのだが、大学に籍を置き、仕事の合間にはさらなる勉学に精を出した。
あっという間に三年がすぎた。僕は相変わらず真面目に働き学んでいたが、心の何処かに落ち着かないものがあった。激動の時代を経たベルリンの大学にはさまざまな思想が渦巻いていた。その気風にあたって、僕の心になにがしかの変化が生まれたようだった。それまでの僕は、ただ真面目に生きてきただけだった。母親は僕を歩く辞書にしたかったのだろうし、今、官僚となった僕は歩く法律書であることを求められている、そんな気がした。僕が、自分の頭で物を考えること、そんなことは求められていなかった。そのことに気付き、僕は少しずつ別のことを学び始めた。歴史や文学を学ぶことで、自分なりの思想を作り上げようとしはじめた。
上層部の人間がそれをおもしろいと思うはずもなかった。彼らは僕が機械の歯車であることを望んでいたのだから。そもそも僕は同僚たちの間でも受けがよくなかった。彼らが飲み歩いて遊んでいるとき、僕はそれに加わらず、ひたすら勉強していたのだから。上層部の不興と、同僚たちの嫉みによって、大使館のなかでの自分の立場は危うくなってきていた。
僕が遊び歩かなかったのは、実のところ、僕が臆病だったからというだけだ。僕は子供の頃からずっと優等生だった。僕はまるで処女みたいなものだった。僕はただ極端な臆病者だったのだ。少しでも道を踏み外すのが怖かった。だから敷かれたレールの上を必死で走ってきたのだ。ばかにされてもしかたがないと思う。だが、うらやまれるのは納得がいかない。僕は遊ぶことができなかった。旧東ベルリンのすさんだ地域で、けばけばしい化粧をした娼婦たちに声をかけられても、それを買う勇気すらなかった。
ある日のこと、家に帰る途中ベルリンの壁に程近い、そんな貧しい地域を通りかかった。教会の廃墟の前で、一人の少女が泣いていた。十五、六歳に見える。ジーパンはは着古されているけれど清潔で、パーカーのフードからこぼれる髪は、明るい金髪だった。僕の足あとに気づいて振り返ったその顔を、どう表現したらいいのだろう。真っ青な目は清らかで憂いをたたえていて、その長いまつげからは今まさに涙のしずくが滴り落ちようとしていた。
僕は思わず声をかけていた。
「どうしたのですか。なにかお助けしましょうか」
彼女は驚いて僕を見つめたが、僕が真摯なのがわかったのだろう、こう答えた。
「助けてください。パパが死んだのに、お葬式をあげるお金がないの。私が言うことを聞かないから、ママは私を殴るの」
「こんなところで泣くのはおやめなさい、人目もあることだし」
「ごめんなさい、あなたはいい人ね。頼りにしていたオーナーに、借金を断られたんです。私は彼のところでもう二年も働いているのに。身体で払えと言って来ました。ねえ、お金を貸していただけませんか。かならずお給料からお返ししますから……」
彼女は涙ぐみながら上目遣いに僕を見た。なんともいえず色っぽかった。
僕は財布にたいした現金を持っていなかったので、時計を外して彼女に渡した。
「これをお金に替えなさい」
彼女は感動してポロポロと涙をこぼしながら、僕の頬にキスをした。
その後、彼女は僕が渡した名刺を頼りに僕のアパートを訪ねてきた。僕たちは頻繁に会うようになった。やがて、このことは同僚たちにも知れ渡るようになった。僕が場末のストリッパーと交際していること、もともと僕を快く思っていなかった連中は、それをあることないことで脚色して大使の耳に入れた。僕が学問をつけ生意気なことをいうようになったことが気に入らなかった上層部はこれをいい機会と僕を免職した。
本当は、このころ僕たちはまだ身体の関係をもっていなかった。彼女とその家族は社会主義下の東ベルリンで貧しくも慎ましく生きていたが、壁崩壊後の資本主義の流入で食べるにも困る状況に陥った。そんな時新しくできたストリップクラブでストリッパーとして働かないかと声をかけられたのである。昼は稽古、夜の舞台とこき使われて、そんななかでも努力が実り二番人気まで上り詰めたが、それでも少ない給料で家族を養うのにはとてつもない苦労があったようだ。
僕が首になったことを伝えた日、僕たちははじめて結ばれた。はじめて見たその日から僕は彼女のことを愛していたのだけれど、その気持ちを抑えこもうとしていた。僕の免職をきいて悲しみに震える彼女の姿をみて、僕ははっきりと自覚したのである。彼女を愛している、と。
僕は困窮した。給料はとめられ、滞在許可の期限も切れようとしていた。そんなとき僕を救ったのは、Aという友人だった。
Aは大学時代の同期で大蔵省に勤務していたが、僕が困り果てているのを人伝てに聞いたらしい。知り合いの新聞社の編集長に頼んで、僕をその新聞社の特派員という形にしてくれた。なんとか滞在許可を延長できたものの、給料は雀の涙であった。今度は彼女が僕を助けてくれた。僕はアパートを引き払い彼女の家に転がり込んだ。僕は彼女と、彼女の母親の住む部屋で、互いの少ない給料を持ちあってそれでも楽しい日々を過ごした。僕はもう学問にも本にも見向きもしなくなった。けれど、いわゆる世俗的なもの、今まで見向きもしなかった、見ないようにしていた世界が、僕の前に広がった。
冬が来た。ある日僕はAから電話をもらった。今、大蔵省の次官に同行しベルリンに来ているという。「君の名誉を回復するチャンスだ」、彼はそう言った。彼女にそのことをいうと小躍りして喜んで、戸棚に仕舞いこんであった僕のスーツに念入りにアイロンをかけて着せてくれた。Aが与えてくれた仕事は次官の通訳と翻訳だった。そして、ロシアへの出張の同行を打診された。まとまったお金が入ったので帰ってくるまでの生活費として、僕は彼女にそれを与えた。彼女の体調が優れないようなので、それが気がかりだった。
ロシアへの出張はすばらしいものだった。なによりも国際政治の舞台に再び立っているということが、僕の心を高揚させた。彼女のことを忘れていたわけではない、けれども、僕は迷い続けていた。日本に帰ってふたたびキャリアを積み重ねることができたなら……
ようやく出張から帰ったその瞬間まで、僕はそんなことを考えていた。けれど、彼女が戸口から飛び出して抱きついてきたその時、そんな迷いは吹き飛んでしまった。彼女とともに生きよう。僕は彼女を愛しているんだ……部屋のテーブルには、編みかけの靴下があった、それも、ミニチュアのような靴下だった。彼女は幸せそうに微笑みながらいった。「どう?」
数日後、僕は次官に呼ばれた。彼は言った。君の能力はすばらしい。ポストを用意するから、日本に帰ってこないかね。
僕はとっさに思った。このチャンスを逃したら、僕はこのまま落ちぶれて、日本に帰ることもできず、異国に散ることになってしまう。その瞬間、僕は、「光栄至極です」と言っていたのだった……
真冬のウンター・デン・リンデンを、僕はさまよい歩いた。僕の肩には厚く雪が積もった。固く凍った路面で、何度も滑り膝を着いた。ようやく家に帰ったとき、僕はまるで死人のような有様でそのまま床に倒れこんでしまった。
それから数日間の記憶はない。高熱を出してうわ言をいっているのを、彼女は必死に看病してくれていたらしい。そんなときAが訪ねてきて、僕が次官に帰国の約束をしたことを告げた。意識を取り戻したとき、僕は彼女の変わり様に驚愕した。Aは彼女を精神的に殺してしまったのだった。彼女は、「なんていうこと、そこまで私を騙していたなんて」と叫び、倒れてしまったのだという。ふたたび目をさましたときには、もう正気を失っていて、僕の名を呼んで罵ったり、髪をかきむしったり、小さな靴下に頬ずりをしてさめざめと泣いたりするばかりだった。
僕のほうの病気はすっかり治った。日本に帰国する際には彼女の母親に、幾ばくかの金を与え、可哀想な彼女の胎内の子供のことも頼んでおいた……
少し前に悲しいことがあって、まあ他の人には「たかがそれぐらいで」と思われることなんだけど、当の本人としては自殺を考えるぐらい辛かった。
とはいえまあこうして(増田だけど)適当に文章書いている時点でそれはなくて、ってのも生命の危機に立たされたからなのかはわからないけど色々自己啓発的な情報に触れてみた。大体は共通した事柄だったなあと思う。多分その道の認識しとしては途中段階で中途半端かもしれないけど思ったことをなんとなく留めておく。まとまってはいないチラ裏程度なので悪しからず。
1つ目はまあ分かる人はわかると思うけど引き寄せの法則的な本を読んで、理にかなっている?と思った。実体験から言えば確かに悪いことを想像しているとその通りとなってしまったってのがそう。最初の文の「悲しいこと」ってのはまさにそれなんだけど、きっかけがあってこの事を知れて良くも悪くも良かったと思う。
2つ目はまあ引き寄せの法則と付随してってのもあるけど、潜在意識がどうたらこうたら。これは潜在意識ってのを知る前からなんとなく感じてたけど、最初に思ったことが大体うまく行く感じはあるし、ちょっと迷ったとしても結局最初に考えた結論・行動になってるなーと思った。ドラクエの作戦はマジでこれ。ないけど。
3つ目は、そんなこんなでいろいろと端折るけど、まあいま話題の「じゃあいつやるか、今でしょ!?」ってやつ。CMで流れる前に本とか読んで感じたけどそうだなーと思った。ネタっぽいけど本人としてはもちろん本気だと思うし、今思った行動ってのは未来で思った時の行動ってことなんだなあと。何を言ってるかわからねーと思うが、個人的には自分はジョジョが好きなんだけど「明日って今さ!」と「ブッ殺すと思ったのなら!その時「スデ」に行動は終わっているんだッ!」ってのがまさにそのとおりだと思う。わかりにくい。すみません。
4つ目は完全に持論だけど、これぐらいでいいや、って思ったポイントより過ぎた位置のほうがうまくいくなーと思うことが多い。状況(程度)にもよるけど、例を挙げると人に何かを伝える場合、そこまで必要かな・・・って思うぐらいじゃないと案外伝わらない。とはいえこれは結構難しいし、多分自分もなかなかできてないと思う。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20130316-00000313-fnn-soci
鉄道会社にあれせえこれせえと「ボクの考えた合理的な路線運営」を
ほとんど何も文句つけなかったのはどうしてだと思う?
壁がなくなっても誰もうれしくないから
だ!
あの壁がなくなって
乗り換えが便利になるケースって次の2つしかない。
東西線への乗り換えにいたってはメトロ同士なのに改札出ないといけない状況に変化はないのだ。
そして、前者だと山手線・井の頭線を使って移動したほうが安くて速い。
後者にいたっては住吉で乗り換えできるのでふつう九段下まで来ない。
九段下で乗り換えるとしたら馬喰横山から三越前に行くときくらいだろうけど
そのときは歩きか、電車つかうにしても総武快速馬喰町から新日本橋に行くよね?
壁がなくなって実際に得しているのは
の3つなんだ。乗り換えは関係ねえ!