はてなキーワード: 沈黙とは
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
つまり答えはNOだ。
つまり、どこまでそーいう目線を個人レベルで気にするかという話さ。
「違和感を感じる病」か。
文法的にだったり歴史的に見て厳密ではない表現が気になって、文脈を読み取れば全体を理解できるレベルでも、それが真っ先に気になってしまって本文どころではなくなってしまう病気だな。
潜在的な患者数は日本でも億を超えているとされ、似たようなものに「ご苦労様病」、「役不足病」、「誤字脱字病」など多くあり、その規模は社会問題に発展しているほど深刻らしいな。
昨日は丸一日布団から出ることができず、今日はまったく作業に手がつかなかった。感情の整理のために文章に起こす。
最後にセックスをしたのは三年半前、大学二年生だった頃のことだ。その年の頭にできた二つ上の彼女とした。
サークルで知り合った彼女はお世辞にも美人とは言えないが、いわゆる可愛い系の女の子で、特に付き合ってからはこちらのほうが歳上なのではと錯覚するほどだった。とても可愛かった。付き合っていた時期は私が大学一年から二年ということもあり、性欲に身を任せて彼女とひたすらセックスをしていた。徐々に彼女の下宿に入り浸ることになり、付き合って半年弱の別れる寸前にもなると週四日ほど泊まることもあった。半同棲生活だった。
彼女が就活のストレスを発散するためなのか、年度が変わったあたりから彼女から身体を求められることが多くなった。その頃には彼女とのセックスにも慣れてきて、お互いが満足するまで何度もセックスをした。所詮サル大学生ということもあり、単にセックスができることが嬉しかったし、何より彼女に求められてそれに応えることができることが嬉しかった。付き合い始めはセックスをするために付き合っていたところもあったが、その頃にはきちんと彼女と一緒にいることに幸せを見出していた。セックスのあとによく結婚しようねと幼稚園児のような幼稚な約束を交わして、そこからまたセックスすることもあった。本当に幸せだった。
彼女の就活もあと面接を数回残す段階になった頃、私は彼女と別れた。
私はいつものように彼女の下宿に合鍵で入り、あまり自炊をしない彼女のキッチンで夕食を作りながら面接終わりの彼女を待っていた。米を炊き始めたところで彼女が帰ってきた。しばらくして夕食ができあがり、食事をしながら面接の感触が良かったとか、次の面接はいついつでおそらくそれで終わりとかそういった会話をした。
その後、彼女のあとにシャワーを浴びてごろごろとしているとムラっとしたので、いつも通りセックスをしようと彼女に抱きついてセックスを迫った。いつも通り彼女は受け入れ、その日も好きなだけセックスができると思っていた。しかし、その日は違った。抱きついた腕が優しくほどかれた。
「ごめん、今日は疲れてるの。先に寝るけど、今日はナシでね。ごめんね」
疲れていてもなんだかんだでいつもするじゃないかと文句を言いながら彼女が入ったベッドに潜り込み、胸を揉み、服を脱がそうとした。ここでいつもの彼女と違うことにやっと気づいた。
「本当にごめん。今日だけは休ませて、ね?」
あやすように頭を撫でてくれた。このとき今までに覚えたことのない感情に襲われた。彼女にセックスを拒絶されたことが引き金となったのか、彼女をもっと支配したいという気持ちが強くなった。
正気に戻ったときには彼女が泣きながら怯えるように震えていた。汗と涙で彼女の身体は湿っていて、彼女の膣からは精液が溢れ出ていた。彼女が何度も小さな声でごめんなさいと許しを求めていた。混乱した。目の前の光景が何を意味しているのかわからなかった。そして、私は逃げるようにゆっくりとその場を離れ、自宅に戻った。自室についても何がなんだかわからなかった。
私は彼女をレイプしたのだ。そう気づいてからはもちろん彼女の下宿先に行くことはなくなり、会うことはおろか連絡すら取らなかった。私も、そしておそらく彼女の方もお互い気持ちの整理ができなかったのだろう。
彼女に連絡をしたのはあの日から二週間ほど過ぎた頃だった。一度きちんと話をしたいと短いメッセージを送った。返信がなくても仕方がないと思っていたが、五分もしないうちに彼女から返信が来た。彼女の方も話したいので一度彼女の下宿先に来てほしいとのことだった。
下宿先に着きインターホンを押すと彼女がそっとドアを開けた。久しぶりだね、と優しく微笑んでくれた。
机を挟んでから少しの沈黙の後に話を切り出した。つらいかもしれないが、あの日のことを話してほしいと聞いた。彼女はうっすらと笑みを浮かべ、ごめんねと前置きをしてからその時のことを話した。
端的にまとめれば、別人のように豹変し、首を絞められ、レイプされて、とても怖かったとのことだった。
あの日見た状況からすぐに考えられたことだったが、本人から言われると息ができなくなるほどつらかった。彼女はあの時もこの話をしてくれたときも恐怖にさらされていたのだろう。そう考えると、目の前にいる彼女の浮かべる笑みがどれだけ彼女を追い詰めているのかを訴えているように見えた。私は本心から彼女に謝ったが、どんなに謝っても私自身その謝罪が形式的なものとしか思えなかった。
それからほどなく、彼女との関係を断つ話がまとまった。彼女からはまだ頑張れると交際を継続することも提案されたが、無理をし弱った声で発された提案には賛同できるはずもなかった。こちらから別れを申し出ると、少し目を潤ませながら少し安堵が混じった声で、そっか、ごめんねと彼女は言った。
合鍵を返し、玄関で彼女と別れの挨拶を済ませて、彼女と別れた悲しみや彼女を恐怖にさらした自分の不甲斐なさに対する怒りもそこそこに、私の母親への憎しみが心に染み付いた。
彼女と連絡を取れなかった期間、あの日から数日もしたら DV やレイプについて調べる様になっていた。どうやら DV をしやすい人間は両親との中が悪かったり自身も DV や虐待を受けていたりすることが多いらしい。調べていると段々と自己嫌悪に満たされていくとともに、幼少期母親から受けた行為について鮮明に思い出すようになった。
私が小学二年生の秋、母方の祖母の死をきっかけに両親の仲が悪くなり、頻繁に母がヒステリックを起こし父と激しい喧嘩をするようになった。私や姉が止めに入ると母は、この子達を泣かせているのはあなたのせいだと父に激しく怒鳴り、喧嘩はより激しくなっていった。それから、子どもたちはあなたに近づけさせないと母は宣言し、同じ家に住みながらもほぼ別居状態になった。
家庭内で完全に父との交流が絶たれて一年ほどが経ったとき、台所で夕食の手伝いをしていた時だった。母に、そろそろ父と仲直りをしてもいいのではないかと子供らしく思ったことを率直に言った。
母は、なんでそんなことを言うのと小さな声で囁き、私を蹴り飛ばし包丁を突きつけた。目の前の光景に身動きが取れず、全身が恐怖に包まれた。
母の叫びとともに顎に包丁があたり、血が流れた。直後、母親は正気を取り戻したのか包丁を引き、涙を流しながら謝ってきた。それからは、ここまで苦しんでいる母はえらいに違いないと思い込み、母の言うことに従い続けた。母の要求に応えられたときには喜びさえ感じた。
しかし、高校二年のときにそれがある意味での洗脳であることに気づき、母に悟られないように家庭内で少しずつ母との距離を置いていった。自分で考えて自分の気持ちで自分で行動する、オトナになるためにはそれが必要だと思った。多少の反抗心も芽生えたが、また母をヒステリックにするのはこちらが無駄な被害を受けるだけだと押し殺していった。
母による支配からは脱していたと思っていた。特に大学に進学してからは自分の意志で好きなだけ勉強できたのもあり、完全に自由の身だと錯覚していた。だが、現実はそこまで甘くなかったのだ。母による支配は私に後遺症のようにしてこびりついていたのだった。未だに母からの支配を振りほどけていない自分に呆れ、怒り、苦しんだ。そして、よくも好きだった人を傷つけさせたなと、母に対する激しい憤りを感じた。
彼女は妊娠することもなく無事就職し、きちんと生活をしていることを彼女の友人経由で聞いた。それを聞いて安心し、悔しいけれど彼女に固執することなく生きていこうと心に誓った。そうは言うものの別れてから最初の一年は未練が残りどうか復縁できないかと方法を考えることもあったが、大学四年に進級するころにはもうすっかり諦めていた。彼女は彼女らしく生きてほしい、そう思えるようになっていた。
それはさておき、ここ半年ほどでとある女性に興味を持ち始めている。大学の友人の高校の頃の友人で、Twitter 上でしか縁のない人だ。顔も名前も知らない人に恋をする、なんともまあ現代っ子である。
彼女のいわゆる裏垢は私の他数人のみがフォローを許されている。そのアカウントでは彼女の家庭の事情が語られることが多い。彼女はしがらみに負けずに自分らしく強く生きようとしていた。そこに憧れて、おそらく惚れている。
地理的には遠距離となるのでなかなか踏み切ることができていないが、一度会って話してみて、できれば交際したいと考えている。しかし、その段階になるとまた改めて恐怖を感じる。また付き合って、愛している人に暴力を奮ってしまわないか、そう思うとより積極性が削がれていく。
付き合ってみなければわからない、そう思ってはいるものの、以前付き合っていた彼女の事例と同様あるいはそれ以上に悲惨な事態に陥る可能性があると考えるとどうしても前へ進めない。自分で自分を制御すればいいのだけれど、それができる保証がどこにもないという事実が行く手を阻む。結局、母による支配の後遺症に悩まされ続けている、あるいは、未だに支配から脱却できずに苦しんでいるのだ。今もどこかで、人を支配するには恐怖を与えるしかない、そう思っている自分が潜んでると思うと、とても付き合える気がしない。付き合いたいけど、付き合うのが怖い。感情が入り乱れ、よく混乱する。
付き合っていた彼女と別れてからは、きちんと好きな人を愛したい、そういった気持ちを強く持つようになった。死ぬときにはせめて、最後にしたセックスはどのようなものだったかをきちんと覚えてあの世に送られたい。
なんかマーティン・スコセッシ監督(人生で五指に入るほど好きな映画監督)が遠藤周作の『沈黙』を映画化したらしいので、積ん読していたのを読んだ。以下はそのメモ(間違ってるかも)。
どうもテーマは以下の3つらしい。
① 信徒がどんなに辛い目にあっても神が彼らを助けもせずに沈黙しているのは何故か(神はいないのではないか)
② クリスチャンと言えど、拷問に対する恐怖から、踏み絵を踏んでしまう心の弱い者もいる。これら弱き者は救われないのか。
③ 日本にキリスト教が伝来しても、それは日本特有の何かに変容してしまって、本来のキリスト教は日本に根付かないのではないか。
◇結論:神は沈黙しているのではなく、信徒に寄り添い、その苦痛・苦悩を分かち合って下さっている。
◇考えたこと:神がいるならなぜ苦悩に満ちた人生で何か声をかけてくれないのか、とは誰しもが考えたことだろう。それに対する卓抜な回答だと思う。辛い人生の慰めになる。
本作の元ネタの1つはヨブ記だろうけど、この解釈をヨブ記に逆照射すると面白いかもしれない。信徒に苦悩を与えるヤハウェと、それを分かち合ってくださる「仲保者」(=キリスト)ということになるか。
◇結論:弱き者も救われる。弱き者には弱き者なりの苦悩があり、踏み絵を踏むことを拒否して拷問を受ける信徒と変わりはない。
◇考えたこと:これも大変慰めになる。誰しもが踏み絵を拒否できる強い信徒ではないし、むしろ弱き者の方が大多数だろう。そんな中でのこの結論は心強い。
◇結論:書いてない?
◇考えたこと:神の存在が聖書というテキストで表されている以上、そこには解釈が入らざるを得ないし、解釈に際してはその人の人生観・世界観がそこに入り込まざるを得ない。
その意味で、西洋のキリスト教と日本のキリスト教は違うと言われても、そらそうだろうという感じだった。
おわり。一読目だし、『切支丹屋敷役人日記』がいまいち理解できてないしで、間違ってるかも。
日本の小説だけあって、論文がネット上にpdfでいくつか転がっているので、読んでみたい。
[追記]
本作にまつわる良いQ&Aがあったので貼っておく。
つまり日本人が無意識に作っているだけで自動的にドメスティックになるのよ。
ちょうどいい感じのゲームだな→海外の人から見ると「なんて日本的なゲームなんだ」ってなる。
それを海外の人に合わせなければ、ってなると途端に狂った感じになる。
その辺の微妙な機微を理解せずに海外におもねって作る人が多すぎる。
任天堂は典型だけど、俺達が面白いと思うゲームであれば受けるってインタビューとかでちょくちょく言ってるけどね。
日本には日本人しかいないから必然的に日本人が多くなってしまう。
ペルソナは徐々に知名度が上がってきて4では70万本売れた(Vitaであるにも関わらず)
P5はもっと売れるだろうね。
こうやって徐々に徐々にユニークな文化そのものを浸透させていく必要がある。
追憶の森は俺の言ってることの悪い例をそのままやったいい例じゃん。
アメリカ人監督が日本を舞台にした映画作るなんて、忍者物をアメリカ人が作る並に滑稽だよ。
沈黙みたいな、キリスト教信者が作った作品をキリスト教徒が作るとかそういうことならともかく。
なぜ喋らないのか考えられる原因を列挙しました
・人との交流に興味がない
・特定の人達とだけ喋らればいいと思っている。相性が悪い人と無理に話す必要は無いと思っている
・声を出すことや会話が怖い、緊張する。傷つきたくない
・交流には興味あるが話題が思い付かない。もしくは頭の回転が遅い
・聞き専である
・趣味や思考回路が相当変わっている為、普通の人と話題や会話のスタイルが合わないから交流を諦めている(早口で論理的にまくし立ててしまう為、普段は話さないなど)
・自分が会話に入っていくことが迷惑になると考えている、または自分が嫌われていると思って萎縮している。
・会話の相手を嫌いか、怖いか、興味がないか、関係がこじれていて気まずい
・会話の相手がこちらの沈黙を好みそうな人だから、またはうるさいのを嫌いそうだから
・話しかけた相手に誤解されたり、変な好意を持たれることを予め防ぐ為
・誰かと「話さなくても成り立つ関係」を築きたいと思っているか、誰かと既に築いている(アイドルとファンのような関係など)
・いつかは人に嫌われるような問題を抱えていると自覚している為、最初から人と関わらないと決めている。
・いつか絶対に来る別れで悲しまないように初めから人と関わらないと決めている。
・知られたくない秘密があったり、その場に話の内容を聞かれたくない人がいる
・喋らないことで相手に一方的に喋らせ、情報的に有利な立場につこうとしている。
・事実でない噂が流れているのを訂正せずに放置しておきたい、偽りの噂によって虚像を作り上げたい為、沈黙している
・「寡黙な人」や、「やれやれ系」だと思われたかったり、神秘的なイメージを形成したい。
・喋らないことで威圧感や不安感を与えるなどして相手を操りたい。もしくはプライドが高く自分から話しかけたら負けだと思っている。
・その場の特定の人と人間関係を築くと、自分の別の人間関係に支障を来すと考えている(「あの人と仲いいと思われると困る」)
・目立ちたくない
・どういうキャラで話せばいいか分からない(自分のキャラクターについて特定のレッテルを貼られたくない)。もしくは今まで喋らないキャラだった自分が急に喋ったらどう思われるだろうかと躊躇している。
・不祥事、スキャンダルを起こしたため嫌悪の嵐が収まるまで交流を断とうとしている。
・人間関係に関して破滅願望や自虐心がある。または、孤高の状態に対する自己陶酔
・保守化、様子見。会話を断つことによっていままでの関係を維持するか、見直したいと思っている。
・事なかれ主義。話に加わると、自分に責任が降りかかるなどの災厄があるかもと考えている
・失言をふせぐため
・話さないことで逆に何かを伝えようとしている(無言のアピール)
・考え事や、目標達成の為の努力など別のことをしているので話したくない
・人と関わることによって俗欲が生まれたりメンタルが乱されたりして別の活動に支障が出るのを予め防ぐため(隠遁者の発想)
・言語が通じない
・物理的に喋れない
・耳が聴こえなかったり、声帯や反回神経に障害があり、医学的に声が出せないか、交流に障害を来すほどの知的・精神的疾患がある
一番最初の「人との交流に興味が無い」タイプを分類し直すと、完全に他人に興味が無く、人目も気にしないスキゾイドタイプ、自意識は高いが他人には興味無い自意識オンリータイプ、一部の人にしか興味を持てない選別タイプ、会話より考え事や空想が好きなデイドリーマータイプ、日常的で些細な話題に興味が無く抽象的な議論や専門分野や自分の好きな世界のみに興味を示す異星人タイプ、人には興味があるが会話のマナーやプロセスが面倒臭い怠惰タイプ、別の人間関係で満たされている幸せお腹いっぱいタイプ、歳をとって色々なことに飽きた悟りタイプなどに分けられると思います。
また、大きく分けると、喋らないタイプと、喋れないタイプ、理由が自分にある場合、相手、環境、関係性の中にある場合、感情型と目的型と消極型と障壁型に分けられます。
※指摘があったので触れておきますが、この記事は喋らない人を見下して書いたものではなく、ただ単に原因を列挙することを目的としたものです。(私自身が「喋ら(れ)ない人」です。)
ちょまど氏、またはXamarinコミュニティの炎上について他の方が書いているブログを拝見しましたが、
思うところがあり書いてみました。
ちょまど氏が叩かれている内容としてジェンダー問題、技術力が無いetc...といくつかあがっておりますが、
私は彼女の「MSのテクニカルエバンジェリスト」としての対応が叩かれる原因では?と感じました。
理由は下記です。
事の発端は、Xamarinコミュニティの勉強会においてひとりの参加者がヒエラルキーを表すスライドを発表したことがツイッターに流出。
「ちょまど氏が書いたものではないか」と一人歩きしてしまったのが始まりのようです。
そして、ちょまど氏は「私が発表したスライドでは無い」というツイートをし、
その後当該スライドを発表した参加者が謝罪のリプライを送りました。
ハッキリ言いますが、
私は「Xamarinするならまず人脈」などとは一度も言ったことありませんし、勿論 全くそんなことは考えていません。
私の不在中、そのような内容のスライドに私の名前が使われたらしいのですが、
私はそんなことは言っていません。
この話はこれでおしまい!
山本康彦@BluewaterSoft @biac
.@chomado ぁわわ、そんな話になってたとは。すみませんm(_`_)m
それを言ったのは私です! 断じて、ちょまどさんじゃありません。
しかし、その謝罪リプライに対してちょまど氏は何のアクションも取っておりません。
ちょまど氏はMSのエヴァンゲリストであり、自社プロダクトのXamarinを啓蒙する立場の方ですから、
どちらかというと今回炎上したコミュニティの主催者側の人間のはずです。
そんな方がコミュニティへのフォローもせず、迷惑を被ったとはいえ謝罪した方のリプライスルーってどうなんでしょう?
このときに社交辞令だとしても件のコミュニティに対して何かフォローのアクションをとっていれば
今回の炎上はXamarinコミュニティへの批判、ちょまど氏にヘイトを向けるような意見も多くあり、
そのため、Xamarinの広告塔であるちょまど氏は炎上を避ける・沈静化させる行動に出るだろうと普通は考えます、が…
①のスルーもどうかと思いますが、一度沈黙を決め込んだのならそのまま触れずにいればいいのに蒸し返すのはまずかったかな、と。
しかも自分への擁護ツイートだけリツイートするのではアンチから「自己保身」とますます叩かれ、炎上が長引いてしまうことが予想できます。
さっき上司に呼ばれて、彼の提案により法務部に相談することになりました!
4:29 PM - 29 Nov 2016
引用は控えますが、個人攻撃ではない意見レベルの批判ツイートはけっこうありました。
このツイートだけだと、何が原因で法務部に相談するのかわかりません。
憶測が憶測を呼び、批判意見自体の萎縮(もしかしたらそれが狙いなのかもしれませんが)、
やがてはコミュニティ内外での意見交換の不自由さへつながることになると思うのですが、それで良いのでしょうか…
なぜ自社の製品の魅力を伝える役割の方が、製品内容と全く関係ない炎上に火を注ぐ行為をしてしまっているのか…
広報・エバンジェリストってどういった立場で誰に何をする仕事の人でしたっけ?
Xamarin製品を使っているユーザーのためにも、これから使うだろうユーザーのためにもネガティブイメージを広げない行動をするべきなのでは?
結果としてこの書き込みも炎上に加担することになるのではと思いましたが、
オランダ人のふりして日本に立ち寄ったガリバーが「踏み絵は勘弁な」と言って「お前ほんとにオランダ人?」と疑われる場面があった。
で、次のお話「馬の国」を読む前に考えた。
殉教するより踏んで生き延びて信仰を広めた方がいいと思うけど違うのかな。
異教徒に強制されて十字架を汚したとしても、信仰心が本物であれば構わないと思うのは甘いだろうか。
ちょっと検索したら二十六聖人のルドビコ茨木は「信仰を捨てたら命は助けてやる」と言われて、
「この世の一瞬の命と天国の永遠の命を取り替えることはできない」って返したみたい。
昔読んでびっくりした遠藤周作「沈黙」ももう一度読んでみるか。
というかあれ、もっと早く主人公の前に出て来いよキリストさんよ。
マグロ食べに行くか。
近所の酒屋でペッパーが店番してるんだけど
「ぼくとあそびませんかー」
とか言うからどうしたら良いのか次のリアクション待ってたらずっと沈黙。
めんどくさいから移動して酒の棚見てたら
「あれあれーいっちゃうんですかー。」と1分後くらいに言う。
バブルや高度経済成長期で潤ってる社会ではどん底スタートからでも社会からのブーストが掛かって
いくらでも成り上がることができたんだろうし年功序列社会だから長くいるだけで給料アップして
それが自分の正当な頑張りであると疑問を持たずに受け入れられる時代をあなたは生きたんでしょう。
でも今は違うんです。
今はそうじゃないんです。
あのころよりも経済が悪化したし雇用も悪くなったし年功序列はもうないし昇給もしないことが多々あります。
これが現実です。
でも実りません。
結果が出ないと努力してないというのなら、
甲子園球児で優勝しなかったチームはすべからく努力していなかったのですか?
みんな生きるのに必死で、でも結果が出ないのが不景気なんです。
たまたまあなたが産まれた時代がイージーゲームだっただけです。
将来あなたのケツの穴を拭いてあげる、体を拭いてあげる世代をいじめないでください。
こんなクソの役にも立たない助言をしても超効率化社会の現代では意味がありません。
勿論、あなたが碌に頭も使わずに目の前の仕事だけしてきた人間だということは分かります。
だからこそ幼稚な精神論でしか若者批判できないのも分かります。
バンドのリハ前に一人で食べてた
混む前で、店内ガラガラ
そこへ家族連れが入ってきた
両親は推定30代前半
立ち振る舞いからも、なんとなく育ちの良さが表れている感じ
買い物帰りらしく、荷物で手がふさがっていた
注文前にテーブル席へ
「ここにしよっか」穏やかな口調のお父さん
「ボク、ここイヤだ」
すかさずお母さんが「じゃあこっちにしようか」と隣りのテーブル席へ
お父さんもすぐに荷物を移動し始める
「ボク、ここで食べるのイヤだ」
お父さん、お母さん「‥‥‥」
このときの沈黙、たぶん3秒間くらいだったと思うけど、妙に長く感じた
自分だったらどうするだろう?
なんて言いくるめるだろう?
とか、
とか
で、お父さん
「じゃあ、おウチ帰ろっか」
お母さん
「‥うん、おウチで食べよっか」
絶句した
いや、もちろん心の中で
推定3歳男児と推定生後6ヶ月の赤子を連れて買い物してまわるのが、どれだけ骨の折れることか
疲れているであろう
子どもが騒いでもわりと平気なはなまるうどんで、ササっと食べて帰る
帰って、オムツを替え、ミルクをやり、お風呂の準備、買い物の荷物の整理、その間も騒ぐ推定3歳男児の相手をし、自分たちも着替えたり、なんやかんや
しながらうどんを作って‥
いや、ないない
それをあっさり捨て去った
理由も聞かずに
帰り際のお父さんの一言
「なんだよぉ〜、ゆっくり食べれると思ったのに〜」
この口調が大事
怒りでもなく、悲しみでもなく、嘆きでもなく、嫌味でもない
こんな感じだった
衝撃だった
何を食べて、何を見て、どんな親の元で育ったら、こんな親に成れるのか
推定3歳男児の冷静な意思表示を思い返し、正に、この親にしてこの子ありなんだなと
次の日、娘を初めて動物園に連れていく日
行きの車内で娘が寝た
最近は、離乳食を食べない問題、保育園に落ち続ける問題などで、心穏やかに過ごせる日が少なくなっていた
頼れる親もなく、初めての子育てに戸惑うことが多かった
子の成長を願い、余裕のない中、時間をかけて栄養のバランスを考え、愛情たっぷりに作ったものを吐き出され、
握り潰され、床に撒き散らされ、泣き喚かれる
それが連日続く
さすがに見かねて、朝だけは自分が食べさせることにしていた
朝だけでも、相当堪えていた
出勤前、時間が迫る中、なんとかひと口でも食べてもらおうと焦る
そんな日が続いて、自分も余裕を失っていた
つい大きな声で叱ってしまったりすることが増えていた
互いを責めた
そしてお互いが自己嫌悪していた
このうどん屋の一件を、妻に話した
話し終えてバックミラーを見ると、妻が泣いていた
そこから、穏やかに過ごすにはどうすればいいかを冷静に、建設的に話し合えた
お互い至らなさを恥じ、反省した
子どもを連れてどこかに出かけてケンカせずに帰ってくるなんて、今までなかったかもしれない
その話、増田に書きなよ?と言われたので、書いた次第です
あの親子さん、ありがとうございました
今回は裏サンデー
姫川先生の時オカもムジュラのコミカライズも当時読んだ身としては、これ見るといよいよ「キター」という感慨になるんだよね。
これまでも原作を踏まえた上で独自のオリジナル描写があってそれはそれでよかったけれども、トワプリ自体が異色の世界観だから実感が湧きづらかったというのもある。
おお、こういうのも描けるんだ。
人間の暗い情念と、それをどう実行するかっていう内容が凝ってて感心した。
私は作品を評価するとき、観念的な部分で合う合わないを決めることはあっても作品の出来自体は別と考えている。
例えば、今回は「合わない」けれども、総体的には評価したい出来だった。
まあ、どちらが勝つかは予想通り。
さすがに、今回ばかりは予想通りじゃないと期待はずれでもあるし。
スマートに勝ったように見えるが、一発でもモロに貰えばアウトな攻撃である以上、ギリギリだったともいえるし。
関節の決まらない相手をどうするかっていうと、骨を折ればいいじゃないというコロンブスの卵的発想は、まあ意外でも何でもないというか考えればそれしかないよねーとも。
ひでぇ!
散々バンジージャンプのことを語って、いざ跳ぶ瞬間になって回れ右するような肩透かしだよ。
まあこのあたりが理想と現実の狭間を反復横とびしなければならないマンガにおいては、落とし所として妥当ではあるんだろうね。
でもブスだからその人のすべてが嫌いだという人は少ないように、人間は総体的に評価される。
のだけれども、比重として大きくなりがちなのはどうしようもないわけで。
観念的な是非を語り続けても、その潜在的な認識はどうしようもないことを現実問題として分かっているからこそ、取り繕うのが現在の社会の正義であり、それもまた真実。
だから、作中の展開もある意味で「共同幻想」の範疇ではあるといえるから、責めるものではない。
ただ、私としてはアクセルを踏み切れないなら、最初から難しいテーマを弄んだり大言壮語を吐かないほうがいいと思ってしまう。
カンニングしたところで正解があるとは思えない設問に、なぜここまで執拗な制裁を加えるのかってなると、まあカンニングされたら困る何かがあるからってことになるんだろうね。
で、モブキャラもそれに気づき始めているあたり、ここに来るだけのことはあるってことがほんのり描写されているね。
設問自体は、やはりただのアンケートっぽいようだが、じゃあこの試験の意図がどこにあるかなんだよね。
ハンターハンターの「沈黙」みたいなのはできれば勘弁して欲しいけれども(あれも理屈としては理解できるんだけれども、問題としてズルいという印象が拭えないんだよね)。
まあ、それ以前にピンチだけれども、どう切り抜けるんだろうか。
どっちかっていうと、グルメというより、経営と家族コメディみたいな感じか。
主人公と妹たちが、親から任されたもんじゃ焼き屋を切り盛りしつつ、なんやかんやしていくんかね。
常連などが協力してくれる展開だとか、地元に根付いた店という設定がいい感じだな。
まあ、この方向性はウケるかどうかはともかくとして、間違ってはいないと思うよ。
いってはなんだが、もんじゃ焼きは絵としては映えないから、別のところで面白く見せる必要があるからね。
訛りで喋りながら気合の頭突きをお見舞いする場面はそこだけ抜き出す分には唸るんだけれども、敵が迂闊すぎる、大したことないっていう印象の方が強くなってしまうな……。
前の敵が身一つですごく強いタイプだったから、二人がかりで搦め手まで使って、片方は殺し屋でもない奴にやられ、もう片方はフラットな状態で戦った途端に瞬殺とかいう体たらくだと、ちょっと肩透かしと思ってしまう。
なんかメタ的に穿った見方をするなら、「前回の敵が異質すぎただけで、主人公はトップクラスに強い奴だし、警察も足手まといってわけではないんですよ」ということを説明するために適度な強さの敵をあてがわれた感じ。
そしてハロウィン当日。
まずミミセンだが、耳のよすぎるあいつは、世の中の多すぎる雑音が嫌いで耳栓を普段つけている。
つまりミミセンがないとあいつの普段のパフォーマンスは著しく落ちる。
入浴時などの耳栓を外している僅かな隙を狙って奪取、自宅にあるスペアも回収し、買いに行くにも取り扱っている店はこの日は休業だ。
そしてタオナケだが、あいつの超能力は10回に1回成功する程度で、かつ成功しても時間がかかる。
シロクロは住処をクラスメートたちと総力をあげて見つけだし、あいつのハロウィンの衣装をド派手な色にすり替えておいた。
モノトーンではない衣装では、あいつは普段の半分以下の力しか出ない。
こうして、残ったのは弟だけとなった。
「それでも、俺が目の前にいるのは意外って顔だな」
「白々しいことを言うなよ。俺が念のため、ドッペルゲンガーを置いていたのも分かっていたんだろう」
弟には他にも仲間がいた。
弟と背丈が同じで、人の真似をしたがるドッペルゲンガーだ。
こいつを利用して影武者にすることで、撹乱する可能性を予測していた。
もちろん、そいつと弟をよく知っている俺ならば見分けることは容易だ。
「ドッペルゲンガーを捕まえたという連絡を先ほど貰った。その連絡係は俺の弟だといっているがな」
実の所、俺の考えたバカげた作戦なんてなくても、全員を捕まえることは可能だっただろう。
対策本部のほうが圧倒的に人数が多く、子供の知恵と行動力で出来ることには限りがある。
だが、それでも俺が大人げなさにこだわったのは、弟の信条を切り捨てられなかったからかもしれない。
「大人の理想を子供に押し付けるな! トリックかトリート。どちらもあって、そして本気でやるのが俺たちの『楽しくやりたい』なんだ」
避けずにあえてそれを受け、俺のメガネが真っ赤に染まる。
伊達メガネの俺にとって、それは弟の最後の悪あがきでしかない。
俺の無慈悲な一撃によって弟は頭を垂れ、ハロウィン大作戦は幕を閉じたのだった。
ブクマカ氏が沈黙を続けていることに対し、選考主体の増田アカデミーのメンバーが21日、スウェーデン公共放送SVTのインタビューで「無礼かつ傲慢だ」と強く批判した。
増田作家らでつくる増田アカデミー(定数11)の一員の増田氏で、「この事態は予測しなかった」と困惑気味に語り、ブクマカ氏の真意を「スターを欲しくないのだろう。自分はもっと大物だと思っているのかもしれない。あるいは反抗的なイメージのままでいたいのかもしれない」と推測した。
つらいとき。
つらいときは明るい人に触れたくなるよねぇ。
明るい人というと、ある友人に会いたくなる。
私は昔、頼ることとかよくわからなくて、
どこにも何も支えのないような気がしてた高校生だったけど、あのとき友人Pさんが私にしてくれたことで、
きっと明るいしずくがぽとんと心に落ちて、私はすこしましになれたんだって思う。
だから今もたまに、つらいときはあの時みたいな明るさを求めてしまうんだな。
Pさんは、とても明るく優しい人で、私がささいなことでその時までの人生史上もっともつらい気持ちを抱えてた時に、
わざわざそんな生き物を気遣ってくれたんだ。
そんなきみに私は生まれて初めてまともに、人に相談ごとなんてしたんだ。
「内緒にしてね」と言った話がいろんな人に話された時、もう人に重要な話はしないと決めていた私が。
(それ自体はもう忘れたけど、そのことはとっても悲しかったのだ)
某年某月某日、私はPさんがいつも遊びに行くという街へ生まれて初めてゆき、
そこで互いにいろんな話をした。
たったそれだけのある1日で、私は今までにないくらい救われた気持ちになった。
人に話すってことは、相対的に自分の話が見えたり、知らなかった角度から事が見えたりすることなんだって知った。
生きてるといろんなつらいことがあるけれど、きっとみんな、そんな時も我慢してつらいって言わない人の方が好きなんだろうって。
だから、人に何も言いたくないっていうのもあった。
「沈黙は金」だね。
今思えば、時と場合によるけれど、これは人の世では完全な正答とは言い切れない価値観だと思う。
Pさんだって、明るいけれど、だからっていつでもみんなの心を励ます側でばかりはいられないはずだったのだ。
きっと誰かにつらいって言いたい時もあったに違いないのに、きっとみんな
「そんな時もつらいって言わない素敵でいつでも明るいPさん」のことが好きなんだろうって思ったら、
なんだか世界が冷たく思えた。
それじゃあPさんのことはどうやって救えばいいんだって思った。
どんなに我慢したって、誰も知らないままになってしまうじゃないかって思った。
わかるよ、落ち込んだ時に落ち込んだことを吐露すると、なんだか弱くなったような、
そのまま気分のグチャグチャに飲まれてグチャグチャになってしまう自分が嫌だってような
気分になるよね。それは嫌だよね。もちろんそんなままでずっとは居れない。
そんなままでいると鬱とかにもなるわけだよね。
だからその時の私も、せめて一緒に笑うことしかできなかったわけだけど。
でもさ、「つらい時にもつらいって言うのは我慢しなくちゃ」って、
そういう自分の方が、みんなに安心してもらえるからっていうのはさ、
そんな思いでずーーーっといたら、
もうね、何を守って、何と戦って、誰のために生きてるんだろう、何をそんなにまで気にして生きてるんだろうって気にもならないか?
そんなままでずっといたら誰だって苦しさどうにもできなくなるだろう。
私が、つらい思いは死ぬまで言わないで生きていきたいと思ってたって言ったら、
Pさんは「おまえは人生があと何十年あると思ってるんだ?」って言ってくれた。
無理です。無理でした。
Pさんみたいな明るい人にだってつらいことはあるのに、
私のような生き物にそんなことが成せるはずもなかった。甘かったよね…!スミマセン!
そんなたった一言で、「そーだよね。そりゃ無理だ、つらくもなるよね」ってバカみたいに目からウロコだった。
そのあとPさんも「私も、聞いてくれる?」って、いろんな話をしてくれた。
私はね、Pさんがつらいって言ってくれた時うれしかったよ。
私もね、そういうの話してくれて嬉しいってあなたが言ってくれた時嬉しかったんだよ。
「支えになりたかった時になれなくてつらかったことがあったから」って言ってくれて、
ああそういう思いも世の中にはあったんだなって思ったよ。
他の言葉もたくさん心に響いたよ。
人に本気でなにかを話してもいいことないし何も変わらないって思っていたあの頃の私にとって、
あの時のほんの1日のことは、ほんとに私の人生レベルで大きなことだった。
ときを重ねるごとに、すごく思うよ。
確実にあの頃よりかは人にものを話せるようになったよ。やり方が合ってるかは難しいときもあるけど。本当にありがとう。
そして。
優しい人へ。
つらい時つらいと思うことは、故障ではないんだよ。
そんな時もつらいつらいにとらわれたくなくてがんばりたい、
そんなあなたも好きですが、
世の中にはそんなあなたに心が軽くなってほしい人間もいるのです。
つらい時はつらいってことはとりあえず認めてしまおう。
できたら誰かのことも味方になってほしいなって思ってくれたら、うれしいな。
(なんて回りくどい文章なんだ)
「いつも泣いてる人になれ」って言うわけじゃなくて、なんていうか、
冷静になれない時まで冷静でいようとしないでほしいんだ。
冷静になったら泣き止めるはずだからさ、泣いてもいいじゃんか。
いいじゃんか。
こんなほんのちょっとした文章しか書けないわけだけど、あの日Pさんが私の心に落としてくれた明るいしずくが、
今になって、私を通して少しでも誰かの心を救えたら、
なにか少し救われます。というような気がして、書き留めてみた次第です。
これを読んだみ〜んなにいいことがありますように!