はてなキーワード: 印刷とは
曰く、雑用するから、飲み食い代をを出すから、編集者は必要だという。
https://togetter.com/li/1178410
企画を立てる最初の一歩を除けば、企画書作るのも、各所に電話するのも、
メールや手紙書くのも、資料集めるのも、会議や打合せするのも、
みんなのスケジュール調整するのも、取材に立ち会うのも、ラフ切るのも、
原稿整理するのも、校正のやりとりするのも、印刷所と交渉するのも、
支払いのエクセルまとめるのも、飲みに行くのも、ひたすら雑用&雑用。
駆け出しだろうが多少偉くなろうが、編集仕事は雑用全般承り業といって間違ってないと思う。
本が出たら出たで誤植に怯え、販促イベントに右往左往し、初動の売上げに凹み、
アマゾンのレビューが付かないことにうろたえる日々だ。
そんなめんどくさい雑用仕事をだな、めんどくせーとか言いながらわりと
うれしそうにやってんだからおめでてーな。
「自宅でプリンタ持ってるくせに」
ひがみかよwwビンボー人
いや?自宅にプリンタ本体を置きたがるくせにインク消耗に文句言う時点でサイコーにバカ。あらゆる製品はその利益不利益双方を受け取るものであり、
お前が言ってるのは「寒いからファンヒーター買ったけど灯油代が高い!」とか「寒いからカーボンヒーター買ったけど電気代が高い!」とか喚いてる輩と同レベル。
そりゃあカネがかかるもの買ってんだからカネがかかって当然だろ。
コンビニプリンタの300円程度の出費にすら尻込みするビンボー人には似つかわしくない代物、というわけだな。わかったか、バカ。
ひがみかよwwビンボー人
インク消耗が尋常じゃないから文句言ってんの。理解力ゼロのバカかお前は
へー、できないんだ。
へー……w
今年で同人歴が10年になる。リアルな友人たちの結婚ラッシュはとうに過ぎ、二人目出産のニュースも珍しくなくなってきた。私は私で人生楽しいからとあまり深刻に考えず、ご祝儀支払マシンと化していた。
プライベートの充実を代償にして打ち込んだのは同人活動だ。とはいえこれは結果論であり、捧げた自覚があるのは睡眠時間ただひとつである。満足していたし、本を作るのもイベントに出るのも楽しかった。
久しぶりに会った母から困ったように「あんたこの先どうするの」と聞かれた。はて、どうするんだろう。同人活動は楽しいし、今は何の不満もないが、趣味で済ませるにはいささか時間とお金と労力がかかりすぎてはいないだろうか。三十路の女になってやっと、初めてまともに趣味としての同人活動について考えた。
社会人がコンスタントに薄くてあつい本を出すには(もちろん個人差はあるが)、仕事以外の余暇時間を全て同人活動に充てるくらいの覚悟が必要になってくる。漫画や小説を書くにはめちゃくちゃ時間がかかるのだ。物理的な作業はもちろんだが、ストーリーを練り上げるのにとにかく時間を使う。さらに、最近のオタクコンテンツはメディアミックスが当たり前で、作品はますます奥行きを持ち、あらゆるものを吸収しながら多様化していく。人様の世界観をお借りして創作をしている身としては、知識としてすべからく押さえておきたい。そうして原作を追うだけでも膨大な時間とお金がかかる。
同じような状況の人はおそらくいっぱいいるはずだ。みんなはどうしているのだろう。周りの同人仲間を思い浮かべたとき、私は愕然とした。ほぼ全員が壁、もしくはそれに準ずるような規模のサークルか、商業作家になっていたのだ。これは、自分の廻りという極めてミクロなコミュニティのケースであり、サンプルとしては参考にならないと理解していながらも、感情的なショックが大きかった。なんということだ。周りが全員いわゆる“大手”だ。私だけが違う。
彼女たちは、少なくとも印刷費とイベント参加代と当日の交通費については確実に回収出来ているし、知り合いや友人やファンの数も多い。原作コンテンツを享受するための健全な支出にとどめられているのではないか? 人脈づくりも出来ているのではないか? すなわち、まっとうな趣味として成立しているのではないか? 自分の稚拙なやりくりを棚にあげ、ひどく偏った思考に陥ってしまった。
SNSなどで新しく知り合った方が壁だと知ると距離を置いてしまう程度には大手コンプレックスを拗らせるようになった。同人というフィールドで培った繋がりである以上、同人活動と人間関係をうまく切り離すことが出来ず、大手である彼女たちへの羨望と劣等感ばかりが膨らんでいく。自分には同人活動しかないと思っていたのに、同人活動すら実になっていなかった。
何のために同人活動をしているのだろう。睡眠時間を削り、お金を捻出し、悲鳴をあげはじめた身体に鞭打ち、あげく心にも影を感じながら、己の妄想を本にすることで、私のどこが満たされているのだろう。どうしてこんなに、同人活動に惹きつけられてやまないのだろう。大手サークルの華やかなSNSを指をくわえて眺めながら、今日もオタク人生は楽しいなぁと妄想に耽る。私はこの先どうするんだろう。
https://togetter.com/li/1177344
たしかにそういうのってあるよな
組合に入った男性を懲戒解雇にしたあげく、ユニオンに訴えられたら渋々戻したがシュレッダー係に押し込んで、「こいつはクズ」のような事を社内で吹聴
一人の社員がやってんならともかく会社本体がやってるから頭おかしい
http://news.livedoor.com/article/detail/13390286/
調べたら和解したものの、車使うな自転車使え、とか言ってんだな
バイトをこきつかって、刃物で刺すわ、恫喝するわ、首を絞めるわ、売り上げを補填させるわ、大学にも行かせないわ、店長がやくざとしか思えない
http://www.reins.co.jp/media/377/20151104.pdf
その先は言う必要ないですよね。 は今もネットで語り継がれている
その後上司が全力土下座で謝罪していたし、担当者の暴走なのは分かっているので、トンボも運が悪かったな、とも思うが、でもなんとなく買わなくなった
■すき屋
ゼンショーは他にもいろいろやってるがきりがないので、とりあえずすき屋はいかない
第三者報告書がすごい面白かったがもう消されてるな。まとめ貼るしかない
明らかなブラックなのに上がブラックと思っておらず、従業員は死にかけているのに全く上に伝わってない怖さ
■プリントパック
労災を機械の故障と言い張る。ありさんと同じで酷い残業に耐えきれず組合に入ったら虐める
取締役が残業第一主義で、定時で帰るのは会社に対する貢献度がとか言っちゃう昭和の老害
会社で印刷業者はプリントパックだったが、しれっと他の会社に変えた
正確にはジャパンイマジネーション
ガイヤの夜明けで、セシルマクビーの下請けが外国人研修生400円で休みもなくこき使ってたという実態を暴露され、それだけならまだしも取材したマスコミにBPOに訴えるぞと恫喝
ネットで騒ぎになると今更、反省してま~す、あ、下請けの首は切ったからwwwとか言って逃亡
いくら今更反省したふりしても最初にインタビュー受けたときの反応がゴミだったので今更だまされない
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1712/16/news016.html
なんか、ブラックな事件が起こるのはまあいいんだけど、それに対して会社が開き直って社員を悪者にして攻撃するような会社のは基本買わなくなってしまう
物によるけど
すき屋なんかは改善しようとしているのが見えるからまだましだが、しゃぶしゃぶ温野菜とアリさんは死ぬまで使わないし、引っ越しする人にはアリさん以外にしろって言ってる
同じ1つのリンゴを見ている時に、同じ色を見つめていても私とあなたでは見えている色が違う。という感じ方の違いや主観的な認知のギャップがあるらしい。
これをクオリアと呼ぶらしいけれど、私には自分だけの独特な知覚の感覚がある。それを友人に話したりするのだけれど、共感を得る事は皆無で、同じような感覚を持っている人がいるのかをずっと知りたい。
それと同時に似たような独特の感覚を持っている人に、こんなバリエーションもありますよ、とエピソードを教えて欲しい。
(1) タイムスリップ
自分では1,2秒のほんの短い時間だと思っているのに、時間が経過している。これは小学校低学年の頃に頻発していた。ほんの瞬きをした位の時間に過ぎないのに、友達が驚くほど遠くにいたり、休み時間が終わっていたりする体験。私が数秒と感じている時間が現実では数十秒から数分が経過している。
(2) 痛覚と匂い
頭を強く打った時や激しい腹痛の時、精神的に不安感を感じた時に鼻の奥から焦げるような匂いを一瞬感じる。匂いの種類としてはタンパク質が焦げたような非常に嫌な匂い。
ふとした瞬間、一度だけ行った駅や通った道の映像が再生されてその場にいるような気持ちが再現される。
なぜかその世界には私1人しか居ないのと音や匂いは存在しない。
図書館や博物館など何10回も通った場所だと、場所の記憶を3Dモデルのように再現できる。実際に中を歩き回って展示品や開架書籍の棚番号を探す事ができるけれど、改装やリニューアルオープンしてしまうと記憶が上書きされるのではなく、別の建物として現れ、別個の存在として扱われる。
(4) 5秒間巻き戻し再生
人の話を聞いていない時に「どう思う?」「話聞いてた?」等と聞かれた時にとっさに直近の5秒間くらいの音声を巻き戻して再生する事ができる。上の空で授業を受けてた時の教師の質問や、電話口で聞かされた番号などをメモし忘れた時に便利。
返答できても、上の空の態度だった事は変わらないので結局咎められる事が多い。
(5) 暗闇で見える模様
真っ暗闇の中など、焦点の絞りが合わせられない状態で目を開いていると、赤や緑色のドット模様が明滅して流れてゆく映像が見える。
(6) 黒が様々な色に見える
黒色が状況や精神の状態などで色々な色に見える。ディスプレイ上の黒い文字でも緑、黄色、水色に見えるし、例えば自然光のまぶしい所で本を広げると印刷された文字が赤色に見え、暖色の照明の下でコーヒーを見ると場合によっては濃紺に見えたり、物の影が緑色に見えたりする。これは色の恒常性や補色補正と関係しているかもしれない。
また横断歩道や封筒、満月など薄い白い物の輪郭がオレンジと青の補色などで見えたりする事もあるが、これは乱視が関係している気がする。
幻覚や幻臭よりの体験が多いのですが、統合失調症などの診断を受けた事は無く、これらの体験で日常生活で不便を感じた事はありません。
イオングループの件は、(元々取扱量もシェアも少ないとはいえ)雑誌販売の販路縮小からの売上減少に繋がるため、
個人的には売って欲しいという思いがある一方、
anond:20171122003439 『ミニストップの件の重大さがわかってる?』
トラバした匿名ダイアリー内で言及されているように、コンビニで売られている雑誌は成年向けマーク(成人向けマーク)がついておわず、
そもそもコンビニで成年向けマーク付きの雑誌は(原則)売れません。
そうしたことから、「成年向けマークがついてないから一般向けである=エロ本でない、だから規制するのはおかしい」のようなことを言う人が、
こうした問題のように、各小売店やネット通販サイトなどの販路で、販売がとりやめられた時にも現れてきました。
しかしそれは、世論の理解を得にくい上に、我々が表現活動を続ける上で、自らの首を絞めかねない無理筋な論です。
そもそも成年向けマークは、国家や国務大臣や法などが、基準をもって認定し、
このマークをもって、成年向けだ、このマークがないものは一般向けだ、としたものではないのです。
(そういうマークを国家が直接認定するのはディストピア感満載なので、まともな民主主義社会では絶対やるべきではありませんから)
これらのマークは、国家権力等による介入を最小限に防ぐという点でも、
あくまで決めるのは出版社・発行者であり、出版社・発行者等の自己申告による自主規制マークとなっています。
同人活動などがわかりやすいですが、同人誌につく成年向けマークも、作者が自主判断したり、
印刷所がこの表現なら成年向けマーク入れてないと印刷してあげれないよ、などとしているに過ぎませんよね?
さて、こうした自主規制の成年向けマークですが、仮に、エロ満載ではあるけどれど、その本の出版社(印刷所)や作者が成年向けマークをつけなかったら、
小売店やネット販売サイトは、それを必ずエロ本じゃない一般向けとして扱わないといけないのでしょうか?
もう少し具体的な話をしていきましょう。
先に書いたように、成年向けマークがあるものは区分陳列するように促され、コンビニでは原則売れないことになりました。
この時、雑誌の売上の中で大きな位置を占めるコンビニでの販売を継続させようと、
出版社側などは、事実上エロ本なのに、「成年向けマークをつけない=これは成年向けエロ雑誌でないですよ、一般向けですよ」として、
この「成年マークがある本」と、「コンビニの成人向けコーナーに売られている成年マークなしの本」に、
エロ本であるかないかという大きな差異、たとえばいわゆる「エロ本」と青年誌くらいのたいへん大きな差異があるとまだマシだったのですが、
「成年マークがある本」と、「コンビニの成人向けコーナーに売られている成年マークなしの本」とでは、一般人が思い描く「エロ本」としては、大差はありません。
じゃあこの成年向けマークをつけるつけないの差がどこにあるかと言うと、(血縁関係のある)近親相姦はNGとか、そういう曖昧な面もある基準だったりします。
女子高生との直接の表現とか、近親相姦とか、獣姦や強姦みたいな過激に映りがちな表現、
そういう(各社によって微妙に違いがある)ある種の設定やシチュが、
成年マークをつけてないだけのエロ本にはない(あるいは控えめにしたりしている)のです。
つまり、中身は社会で普通に思い描かれるガッツリとした「エロ本」となっています。
少年誌、あるいは青年誌あたりで時折プチ炎上する、一部に乳首がちらっと出てる、パンツ見えすぎだ、エロいコマがある、とかのレベルでなく、
エロこそが本編であり、大部分のページをエロシーンが占め、ズッコンバッコン、グッチュグチュ、フェラも結合も成人向けマークがあるものと同様、思いっきりやってるような雑誌です。
みなさんも試しに成年向けマーク(成人向け雑誌と書かれた黄色いマークや、18という数字に斜線が入ったりしているマーク)がついてるマンガ雑誌と、
「成年向けマークがついてないがコンビニの成人向けコーナーに置かれている雑誌等」を買って読み比べて見てください。
例えば、快楽天と、コミックホットミルクと、コミックメガストアアルファと、コミックLOというマンガ雑誌がありますが、
快楽天とコミックホットミルクは成年向けマークをつけず、コンビニでも売られてもいます。
一方、コミックメガストアアルファとLOは成年向けマークをつけており、今は基本的に大手コンビニなどでは売られていません。
さて、これらを読み比べて、コミックメガストアアルファとLOはエロ本だけど、
快楽天とコミックホットミルクはエロ本じゃないよね、一般向け雑誌だよね、子どもさんにどんどん売ってもいいよね、って言えるでしょうか?
快楽天に掲載されたマンガが、まとまって単行本になったときに「成年向けマーク」をつけて売られることからも、
こうした自主規制の運用が、エロ雑誌をコンビニで売りたいがためだけの抜け道に利用されていることもわかるでしょう。
実のところ、近年、都条例などで度々やり玉にあげられているのも(非実在で盛り上がったときも)、
こうした成人向けマークをつけていない雑誌・単行本だったりしており、
「自主規制してます、配慮してます」「ちゃんとレーティングしてます」と言いつつ、こうした、成年マークを付けずに全編エロみたいなものが売られている実態なので、
我々描き手や出版社が「配慮してますよ」と言っても、その説得力を自ら弱めてしまっいる現状があり、
表現規制派がつけこんでくる格好の材料を与え、世論や社会の理解を得にくい原因にもなっているのです。
実際、東京都の場合は、成年向けマークをつけている本はそもそも不健全図書の審査対象に原則としてなっていません。
不健全図書審査されているのは、成年マークをつけず「一般向けですよ」との体裁なのに中身が成年向けじゃないか…と、東京都の委員らが判断した本が、毎年20から30冊程度、不健全図書に認定されています。
猥褻を警察が恣意的に判断しているように、僕達の業界も、ガバガバの成年マーク運用で、エロ本かエロ本じゃないかを恣意的に判断している面があるのです。
中堅、中には大手の出版社などが、自主規制を形骸化し、売らんがために成年向けマークもつけずにがっつりエロエロの本を大手の販路に載せて、
そうした度に問題が起こって、規制への動きが芽吹いてしまう…、
このことは、エロ本をエロ本として成年向けマークをつけ、社会で住み分けて売ろうとしている零細な身としては非常に悔しいのです。
表現規制でまず真っ先に割を食うのは、大手よりも僕らのような零細のほうですから。
ところで、勘違いしないで頂きたいのですが、
僕は、青少年健全育成条例等、各種表現規制の糞っぷりや、そもそも成年向け商品なのに性器が修正されているという先進国にあるまじき日本の糞っぷり自体は、昔から間違ってると思っています。
だからこそ僕は、これは「エロ本です、成年向けです、だからコンビニでも売りませんし、未成年にも売りません」として、
成年向けマークをつけ、社会の成員としてそれぞれ住み分けをした上で、
自由な表現活動と、現行の法令を守った上で、よりよい法や条例の運用に向けた改正活動をしたいと思っているのです。
それなのに、成年向けマークをつけて「エロ本はちゃんと自主規制してますから」という体裁を取りつつ、
一方で成年向けマークをつけない事実上のエロ本を作って売上欲しさにチキンレースを繰り広げ、
「これはエロ本でなく一般向けだから。小売店の撤去はおかしいから。」という成年マークの運用と主張をやっていれば、
「出版社らに自主規制させても意味ないね、自己申告・自主規制でなく、国家や自治体が成年向けマーク認定基準団体作って取り締まるしかないね」などのように、さらなる規制を招き、表現の自由を弱めかねません。
トラバ先の増田さんは、盛んに恣意的という言葉を使っていますが、
雑誌の内容が成年向けマーク付きの雑誌とほとんど変わらず、単行本化されると成年向けマークがつく「コンビニ売りの成年向けマークなしの雑誌」があるという事実、
この成年向けマークの恣意的な運用の問題については一切触れておりません。
こうした成年向けマークの恣意的な運用は、青少年健全育成条例の恣意的な運用と不健全図書の指定にも、ますますお墨付きを与えてしまうでしょう。
ラジカルな、すべての表現物が完全に自由で、公共性の高い場だろうがなんだろうが、どんなものでも陳列し売っていい世界というのは、
現実の社会では、0か100かでなく、理想論は実現し難く、どこかで妥協し折り合いを付け、社会の成員として現行の法令の中で生きていかなければなりません。
出版社さんはちゃんと成年向けマーク(しかも自己申告でいいですよ)を付けてくださいね、ということでなんとかなった両者の妥協点を、
成年向けマークがないからエロ本じゃないし、みたいな欺瞞に満ちた出版社同士のチキンレースを続けていれば、
頑なな規制派と穏健な規制派を切り離し、穏健な規制派だった人を徐々に味方にしたり好意的中立に引き込むことは困難になっていくでしょうし、
規制派と規制反対派のどちらにも強く立場を置かない中間に属する大多数の人らの理解を得にくくなるでしょう。
その結果、そうした有権者をバックにした政治や行政も動かしてしまいます。
なお、この問題は、こうした何がエロ本か、というような問題と、
小売店などの事業者が自らの裁量でどういう商品を扱うかという観点も大きいことには留意すべきです。
任天堂はエロゲー出すのを許さないし、Steamにも独自基準はあるし、ある書店がうちはエロ本おかないんだ、というポリシーもあるでしょうね。
子ども向け、ファミリー向け、高齢者向け、どこに軸足を置くかという企業イメージもあるでしょう。
出版社や作家が成年向けじゃないと決めたら、それを売る小売店や各事業者は、必ず成年向けじゃなく一般向けとして扱わないとならない、
売り場を確保してずっと売り続けないとならない、それに反したら、表現の自由を侵害しているのだ!と思うのならば、
世の老人はこう言います。今の世の中は便利になったと。
それはテクノロジーという面では間違いありません。私たちは、かなりの時間を短縮することができるようになりました。
一つ例をあげましょう。
違う時代を生きるAさんとBさんは、上司からこう言われました。
「この2枚の表のデータの中から、どちらか片方にしか無いものを探してくれ」
十数年前を生きるAさんは印刷されたふたつの表を見比べ、ボールペンで一つずつチェックマークを入れました。
現代を生きるBさんは、エクセルの関数一つで30分もかからず終わらせました。
さて、世の中が便利になったことにより、BさんはAさんより1時間半早く同じ結果を出すことができました。
ではBさんはAさんより1時間半早く家へ帰ったでしょうか?
残念ながら答えはノーです。私たちは未だ変わらず少なくとも週5日、10時間近く拘束されています。
世の中のエンジニア(このケースの場合はエクセルを開発したMicrosoftの)が短縮した時間は、一体どこへ消えたのでしょう?
もちろん、これは極端なケースですし、全ての仕事はここまで単純ではありません。
しかし、パソコンに向かって働く人なら似たような経験をしたことがあるでしょう。(もしかしたら、今日も隣のデスクに座る古い方法に縋り続けるAさんを見た人もいるかもしれません。)
世代間格差は年金問題だけでなく、仕事の密度にも現れています。
そして、現在進められている働き方改革は、仕事のスピードアップにだけ目が向けられています。
パソコンの性能は上がりましたが、人間の脳が耐えられる負荷の量は増えていません。
いくら仕事をスピードアップして早く帰れるようになっても、帰った後にもう何もする元気も無いのであればその改革には何の意味もありません。
先人の手によって生まれた浮いた時間、その分を早く帰るか、もっと働くかを選択することができる。
WordやExcelに求めているのは画期的な新機能ではなく「画面に表示されたものがそのまま印刷される機能」です
むしろ、電子のほうを原本として扱う意識を広めたほうがいいんじゃないの。
「ペーパースレ化」っていうと紙に印刷しないってことになるから不便だけど、電子のほうが原本で出力デバイスは、モニターでも紙でもOKって考えて、たまたま使ったプリンターで多少出力がずれてもOKくらいの意識で運用してほしいわ。
Webなんかでも「IEのバージョン**以降に対応。すべてのバージョンでまったく同じ出力にならないといけない」とかで、書式にこだわって無駄に工数かけるより「内容が正しくて問題なく使えればOK」にしてほしいわ。
有名な観光地である豫園(よえん)近くを歩いていると、後ろを歩く友達が誰かに話しかけれれたようで、立ち止まっている。
横には20代と思しき中国人の女性。スマホを渡しながら「写真を撮ってくれ」と頼んでいるようだった。
話しかけられた友達のことを「若い女性に頼まれたんだから撮ってやれよ(笑」とからかいながら様子を見ていると、写真を撮られ終わった女性が「あなたたちの写真も取りましょうか?」と聞いてきた。それも英語で。
シャイな友達は「いいです、いいです。ノーサンキュー」と断ってしまったが、自分は(まぁこういうときはお互い様だ)と思いながら、自分のスマホを渡して写真を撮ってもらった。
あとになって考えれば、これがすべての始まりだった。
「写真撮って」をきっかけにして、相手の中国人女性が英語で色々話しかけてくる。
聞けば職業は幼稚園の先生で、2年前から上海に住んでいるという。日本語はちょっとだけ勉強したことがあり、この前の夏にはクルーズ船で福岡に行ってきたとか。
今度はこちらに質問してきて、いつから上海にいるのか、何日間いるのか、今日はどこに行くのか、どこどこ(上海の有名スポット)には行ったのか、などなど色々聞いてくる。
私のほうが英語が得意なので(そう、中国人女性との会話は英語で行われている)、相手の質問に答えつつ、友達との間に入って通訳っぽいこともしながら、5分ぐらいは路上で立ち止まって話していただろうか、さり気なく女性が「お茶は好きですか」と聞いてきた。
「ええ、お茶は好きです」
そう、私は中国茶&台湾茶が好きだ。大学生のころには、毎月のように横浜中華街の馴染みの台湾系茶屋に通っては、いろいろなお茶を買いつつお店のご主人の講義(?)を聞いたりもした。今でも台湾に行けば、台湾茶を大量に買ってしまう。そんなお茶好きと知ってか知らずか、相手がお茶の話を振ってきたので、私はすっかり警戒心が薄れてしまった。
「この近くで、年に一度の茶道(ティー・セレモニー)をやっているのですが、一緒に見に行きませんか?」
うん、見てみたい。それが、その時の正直な気持ち&答えだった。
ティー・セレモニーとは、なんだか仰々しい動きをしながら中国茶を淹れるパフォーマンスで、いわゆる「ザ・観光客向け」のショーなのだが、実は一度も見たことがなかった。それは、私自身がひねくれた性格(あんなもんは観光客向けの見世物だ!)だからわざわざ見ようとは思わなかったし、今までに日本や台湾で行ったお茶屋さんが本気の真面目な(?)お店でそういうショーをやっていなかったこともある。
しかし、この時ばかりは、どういうわけか、暇つぶしというか見世物として、そういうのを見てみるのも悪くないなと思ってしまったのだった。
「じゃぁ、一緒に行きましょう」というわけで、女性に連れられて(今思えば”釣られて”だ)上海の街中を歩いて行く。
歩きながらも女性は、こちらの年齢やら職業やらホテルの場所やら、なんやらいろいろと聞いてくる。私は他人からプライベートなことを根掘り葉掘り聞かれるのが嫌な性格なので、多少は誤魔化しながら適当に答えていると、今度は干支やら星座なんか聞いてくる。てか、干支はともかく星座の英語名なんて知らんがな!このお姉さん、英語力はかなりのものだった。
まぁそんな訳で、移動中もずっとしゃべりながら5分ほど歩いただろか、着いたのは(連れてこられたのは)裏通りにある間口の狭い古道具屋?お茶屋?のようなお店。
お姉さんは、店頭に立っていた赤い民族衣装を着た老女に「ティー・セレモニーはやっていますか」と話しかけ(いま思い出したが、英語で話しかけていた。老女は英語はチンプンカンプンのはずなのに)、そのまま我々を店内へと導く。
店の奥には、壁にやいかにも中国っぽい書や絵が飾ってあり、一通りの茶道の道具(茶葉やらお椀やら急須やら薬缶やら)が小さめのテーブルの上に置かれ、その周りを囲むように椅子が5脚ほど並んでいる。
ここでもまた世間話のようなものが交わされ、茶屋の赤い民族衣装を着た老女は「ティー・マスターの先生」だと紹介される。
ティーマスターの老女が中国語で話し、それをお姉さんが英語に訳し、我々がそれを拝聴するという翻訳リレーのティーセレモニーが始まった。
最初は茶道の歴史やらウンチクやらを語っていたのだが、おもむろに老女が”メニュー表”を出してきた。
内心で「あーやっぱり金とるのか」と思った。ここまで一切お金の話は出ていないが、こちらはなんとなくタダで見れるものだと思い込んでいた節がある。
しかしまぁ向こうも商売なわけだし、中国人がタダでわざわざショーを見せてくれるとも思えない。まぁそれ相応の金額であれば払っても仕方ないかと気を取り直して、メニュー表を見てみる。
メニュー表といっても、白黒印刷のちゃっちいものではない。それなりの厚紙にカラー印刷され、製本されている。背景には、茶器や茶葉の写真が印刷されており、まるでどこか高級料理店のメニューのようだ。おまけに、すべて英語表記。
老女がメニューの1&2ページ目を開き、お姉さんがメニューの一部を指して話しかけてくる。「この料金だけどいいですか?」
お姉さんの指の先、2ページ目の中ほどには「RMB48 / kind / person」とある。(RMBは人民元の英語表記)
一人48元。日本円だと約1,000円だ。高いとも言えず、かといって納得もできない、絶妙な値段だ。
普段はお金にうるさい私も、この時ばかりは、納得はしていないけどこの値段なら仕方ないという感じで「ああ、構いません。OK」と受けてしまった。
しかし、はて、見開きページの左下には”ルームチャージが20元”やら”テーブルチャージが30元”やら、なんやら書いてあるのだが、この説明はなし。
すっかり警戒心が薄れていた私は、(取り立てて説明しないということは、きっとこの表記は関係ないのだろう)と思い込んでしまった。
また、2ページ目のタイトルが「1.高麗人参茶」で、2番以降の続きがあることを思わせる表記だったが、メニュー表は老女が持ったままページをめくるでもなく閉じてしまったので、その先は見ていない。
そんなこんなで、ティーセレモニーが始まった。が、茶道の詳細は割愛する。
パフォーマンス自体は面白かった。合計で6種類のお茶を飲んで、それぞれの茶葉の解説。その間に、金運を呼び寄せる(?)ガマガエルの置物を撫でたり、お茶の淹れ方を教わったり、内容自体は悪くなかったともう。
パフォーマンスが終わると、老女が、先ほどとは別のメニュー表を出してきて、茶葉のお土産はいかが?と売り込んできた。
値段を見て、私は「むむむ、、、これはボッタクリやな」と思った。
ジャスミン茶やら鉄観音やら10種類ほどの茶葉が載っており、それぞれ大・中・小と3種類のサイズが有るようだが、小サイズの一番安いやつでも380元、なんと7,600円もする!
普段から飲む中国茶は100g 1000円もあれば十分、と思っている私の味覚&金銭感覚からすれば、これは完全に予算オーバーだ。
いや、もちろん超一級品の茶葉には驚くほどの高値がつくこともあるだろうが、私の感覚ではナシだ。それに、いま飲んだやつにそこまでの価値があるとも思えない。
「わー、美味しいお茶だった。私はお土産に少し買っていくわ」というお姉さんに影響されたのか、財布を取り出して買おうかどうか迷っている友達に小声て「買うのやめとけ、高すぎ」と耳打ちする。
お姉さん、こちらの戸惑う様子に気づいたのか「ああ、いいのよ、買う買わないは自由だから。私は買うわ。んで、あなたはどうする?」とあくまで買う雰囲気を作り出そうとする。
なんか嫌な流れになってきなたなぁーと思いつつ、「悪いけど、やめとくよ。最近は紅茶にハマっててねぇ、まだまだ在庫がいっぱいあるから」と半分本当・半分ハッタリの話をしてお土産購入は断った。
なんか早く帰りたいなぁと思っていると、店の老女、もといババアが勘定書を持ってきた。
おい、1,280元って、日本円でざっくり2万5千円だぞ。本気か、こいつら。
一瞬にして頭に血が上った私は、思わず「これちょっと高すぎない?」と文句を垂れる。
いわく、お茶1種類1人あたり48元で、3人で6種類飲んだから
48元 × 3人 × 6種類 = 900元 だという。(実際には48元より高いお茶もあったので、大雑把な計算で)
そこに、客引き女のお土産代が加算されて、締めて1,280元だという。
金額にピンときていないのか、財布を取り出して札を数えようとしている友達の動きを慌てて止めて、スマホの電卓アプリで日本円に換算した結果を見せて「高すぎだろ、こりゃ」とキレ気味にいう俺。
敵に向き直って「最初のメニュー表をもう一度見せてくれ」という俺。
奥から取り出されたメニューには、確かに”それぞれの茶葉のページに”「RMB48 / kind / person」、つまり「茶葉1種類当たり お一人様48元」とある。
あーそういうことね、このおちょこ口一杯にも満たないお茶一つに約1,000円を課金し、それが6種類だから6,000円だと。
あーそうですか、確かに書いてありますね、はい、そうですか、って納得できる訳がない。
「こんなの高すぎだろ」
「いや、ティーマスターの先生がこれだけやってくれたんだから、決して高くはない」
「日本でもこんな高くねぇぞ」
「茶道のパフォーマンスを受けたのは認めるが、この価格には納得できん」
「お茶一杯の値段は高いかもしれないが、ここ上海では、急須にお湯を継ぎ足しながら何倍もお茶を飲んで、何時間もおしゃべりできるシステムなのです。ほら、メニュー表のここにも書いてあるでしょ」(確かに英語でそう書いてある)
「そんなこと言ったって、こちとら、メニュー表の1&2ページ目しか見せられてないし、そこにある『一人48元』だけ払えばいいのかと思っていた」
とかなんとか、英語で喚き散らして少し興奮が収まった俺は、勘定書を手に取って冷静に考えてみる。
合計金額は2万5千円だが、そこには客引き女のお茶代とお土産代も含まれている。純粋に我々が払うべきは、相手の言い値では1万2千円、一人あたり6千円だ。
さて、この茶道パフォーマンスにそれだけの価値があるだろうか?いや、ない。払いたくない。だからといって、払わなくて済むわけでもない。
俺は手を顎に当て、少し考えながら、黙り込む。
客引き女が何か話しかけてきたようだが、怒りのあまり全然気づかなかった。
しばらくすると、敵も「面倒くせえ客だな」と思ったのか「じゃあ、いくなら払うのか」と態度を軟化させた。
なーんだ、やっぱりボッタクってる意識があるんじゃねぇか(笑
ここはあくまで、当初の理解どおり「一人48元」で押し通そうと、「3人分で150元なら払う」と言ったつもりが、相手は「1人あたり150元」と誤解したようで、「ならそれで構わない」ということになった。
横でポカーンとしていた友達に、小声で「悪いけど100元払ってくんない?」と言って、財布から100元札を取り出してもらう。
この時、財布の中に、100元札が2〜3枚と、日本円で1万円札が2枚、さらにパスポートまで入っているのが丸見えだったので、財布をさっさと仕舞わせる。
「んじゃ2人分で100元ね」
「え、いや、1人150元でしょ」
「いやいや、だから、最初から言っているとおり、1人48元だと思っていたの。だから、細かい端数は無視して、2人で100元!」
これには、さすがの店のババアも客引き女も怒ったらしく「そんなの少なすぎよ!」とかなんとか言っている。
「そんなのってあり?もう、まったく。せめて部屋代としてもう100元出しなさいよ」
(あーあ、面倒くせえなぁ。でも、あと100元でケリがつくなら)と思ってもう100元を出した。締めて200元のお支払だ。
この期に及んでも、客引き女は演技(?)を止めないらしく、
「あなた達が200元しか払わないなら、残りの分は私が全部払うわ」といって、本当に財布から100元札を取り出して払っている。
疑い深い私は、この光景を黙ってボーっと見ながら、頭の中は「なんだ見せ金か。払うふりして、あとで取り戻すんだろうな。わざわざこんな演技しなくても。」と冷めていた。
でも、この見せ金に釣られて、やっぱりお金を払ってしまう人もいるんだろうなと思った。
まぁ、兎にも角にも、支払いを終えて、そそくさと店を後にする。
客引き女は相変わらず話しかけてきたが、もう俺は怒りと情けなさとで、会話する気力もなかった。
「この後はどうするの?豫園を観光?」とかうるさいので、とにかく客引き女と離れたかった俺は「いや、ホテルに戻るよ。だから地下鉄の駅まで。」と言った。
本当は歩いて帰れる距離のホテルだったのだが、一緒に歩く友達に「余計なこと言うなよ!」と目配せしながら、「地下鉄でホテルまで戻る」と言い、客引き女とは駅前で別れた。
さて、結果的に2人で200元。1人あたり2000円弱の被害額(?)で済みましたが、百歩譲っても適正価値は半分の1000円ぐらいだろうと思っています。
ネットで検索すると、同様の被害例がこれでもかと出てきます。引っ掛けのパターンとしては、典型的な手口なのでしょう。
それは、相手が片言の日本語ではなく、英語でベラベラ話しかけてきたことも大きく影響していると思います。
ネイティブ日本人の私達にとって、片言の日本語にはとても違和感や警戒心を覚えることでしょう。しかし、相手が流暢な英語を話すとなると、日頃の英語コンプレックスも相まって、相手が対等もしくは上等の立場にすら覚えてしまいます。
もしかしたら、このボッタクリ集団の元締めは、そういった日本人の英語コンプレックスを付け入るために、あえて日本語を使わず、英語で商売をしているのかもしれません。
・英語が完全に理解できなくても、とりあえず「OK」と言ってしまう日本人(なまじっか少しは分かる言葉だけに、タチが悪い)
・英語で書かれたメニュー表をよくよく見てみれば確かにそう書いてあるので、仕方ないかと思ってしまう
・もし不満があったとしても、英語では言いたいことも言えずに、泣き寝入りするしかない
日本の振り込め詐欺のように、ある程度マニュアル化&パッケージ化されているのかも。
写真を撮ってくれと頼まれること、また旅行者同士で世間話や情報交換をする、それ自体はとても楽しいことです。
また、善意の現地民がおすすめの観光地に連れて行ってくれることも、本当にあるのかもしれません。(滅多にないからこそ、メディアが美談として取り上げる?)
・お茶屋に連れてこられた時点で「このお店は大丈夫なのか?」と、自分で立ち止まって考えなかったこと
・メニュー表を見せられた時点で、「総額はいくらなのか?」と相手に確認しなかったこと
要するに、自分自身でよく考えて、納得してから行動する、という基本原則を疎かにしてしまったことが、今回の失敗につながってしまったのでしょう。
がとっさにできなかったことです。
私の場合、スマートフォンをネックストラップで首からぶら下げていたのに、いざパニックになっていまうとスマホのことなどすっかり忘れてしましました。
今回の場合は、まぁしょうがねぇかーという感じで、いい勉強になったと思っています。
これが下手にマッサージ店とかに連れていかれたら、それこそ身ぐるみ剥がされていたかもしれませんし、被害額も少なく済んだと思って諦めつつあります。
同様に被害にあう方が一人でも減ることを願うばかりです。