はてなキーワード: トキメキとは
呼びたいじゃないの?と思われるかもしれないが、お店に指定されたホテルで女性を待つスタイルを取る人も多く、その場合呼ぶというよりは行くと表現することになる。
閑話休題。出張マッサージ行きたいけど、やっぱりコロナ怖い。もともと粘膜接触のないソフトなお遊びだけど(バカリズムの言葉を借りると、基本普通のマッサージだけど最後にちょちょっとチン◯触るだけ)、行くからには「もしかして」ってトキメキが欲しい。我ながら気持ち悪いな。
そんでもちろんお店にもよるんだけど、自分がヘビーに通ってるところはまあ、だいたい7割は額面通りの接客。もしくは塩対応。こちらから積極的にお店のルールを破ることは決してしない。淡々と終了。それはそれで悶々とした感じを楽しむ。
で、残り3割はお互い盛り上がってとか、その上で追加料金を暗に要求されてとか、パターンは色々だけど、粘膜接触が発生する。このラッキースケベのために生きてるわけです。だけれども、現状コロナがある。コロナがあると、この3割はおそらくほぼゼロでしょ。それじゃトキメかんのですよ。だから出張マッサージには行かない。
何の役にも立たないけど、食い尽くし系の感覚が突然舞い降りた瞬間があった
食い尽くし系旦那の話を見かける度に、こんな人が本当にいるのか?と正直信じられなかった
今まで生きてきてそんな人間に会った事がないし、その事を指摘しても話が通じないなんて宇宙人か?本当に大人なのか?と意味がわからなかった
見合だけど旦那が物凄く私のことを気に入ってくれて猛アプローチしてくれた
一年間普通の恋人同士のように付き合いながら結婚準備をして入籍
今まで付き合ったどの人よりも大事にしてくれるし、家事が得意だし、女友達より女心がわかり気遣いが半端ない人だったので
もうこの人を逃して幸せな結婚はできない、この人なら夫婦生活も子育てもなんの心配もないと思ってプロポーズも快諾した
旦那が大事にしてくれる分、私もいまだかつてないほど気を遣って居心地のいい家にしようと努力してる
そんな旦那でも私側からすると所謂恋愛結婚ではなかったから、恋してるとかそんなトキメキはなかった
トキメキやらドキドキやらそんな物より大事な人が見つかったんだと思ってたし今でも思ってる
結婚してからに限った事ではないけど、私はこれまでの元彼の夢をちょくちょく見る
でも旦那の夢はこれまで全く見た事がない
見てるのかもしれないけど覚えておらず、旦那の横で寝ながら前々彼氏とデートした当時の夢なんかを見て目覚めるとなんとも言えない罪悪感に陥った
元々異性交遊に関してはかなりの潔癖症だし浮気したりすることはあり得ないけど、旦那には恋してない事が自覚されて勝手ながら悲しくなったりしてた
旦那が気を遣ってくれて家の目の前のファミレスに行ったんだけど、とにかく旦那が頼むもの片っ端から食い尽くしたい衝動に駆られた
これまでそんな欲求家族にすら湧いた事がないし、そもそもそこまで食に拘る人間でもない
その時はそこそこの空腹にも関わらず、旦那の皿が来るたびに一口ちょうだいと言わずにはいられなくて
3口目くらいでもうこれは異常だと自分でも焦りを感じて、化粧室に逃げ込んだ
職場の人から電話がきたから先食べてて!と言い訳のメッセージを送って旦那がそれなりに食べ進み私の料理がきたころに化粧室から戻った
長々書いてしまったけど、結論から言えばその瞬間旦那の事がファミレスのウェイトレスより空気のような存在に思えていた
目の前に“自分が自由にしていい範疇の”食べ物があるのにその権利を空気のような相手に明け渡す意味がわからなかった
私が食べれるものなのになぜ我慢しなきゃいけないのか、先に相手の物を食べなきゃ私の取り分が減る、取らなきゃ
食い尽くす瞬間の人間って、そこにいる相手の事を本当に環境映像とかBGMとか、そこまで背景的にしか考えてないのかもしれない
その行為をする事でその瞬間相手が顔を蹙めようと、相手が“自分のもの”である事に変わりはなくて、嫌われるとかなんだとか自分が自分の所有物に対して思う事ではないし、みたいな感覚なんだと思う
食い尽くし系は相手を自分の所有物やどうでもいい存在と思ってるか発達傾向の現れかその両方かなんだろうな
そうじゃない、例えば成育環境に由来するものとか別パターンの食い尽くしもあるかもしれないけど
幸い旦那には気付かれずに済んだし、その後同じ発作も起こってない
旦那とはずっと仲良く暮らしていきたいし誰より尊敬してるし一生夫婦でいたいので
自分があの時と同じような状況にならないようストレスマネジメントを徹底しようと思う
私も自分が食い尽くし“系”とは思いたくないですし、あの時限りと信じたいです
でもずっと不思議でならなくて、大事な家族に対して意味がわからないと思っていた食い尽くし系の感覚に自分自身がなった事で、ああこういう感覚なのか!すごい、ここまで相手の人権を無視してるからできる所業なんだ!
と、そのメカニズム?というか心境ががわかった瞬間だったんです
これに更にマウンティングとか相手への悪意まで乗ってきたら本当に心底最低な食い尽くし系の出来上がりなんでしょうね
以前と違って意味がわからんとはならず、ああ、あういう感覚なのね、理屈だけはわかるわ、といった気持ちです
そんな気持ちを理解してしまう自分がしぬほど嫌ですし、再発からの常習になってしまったら舌噛んでしにたいです
潜在的には、こんな気持ちが湧くような感覚で旦那の事を考えてるかと思うと本当に最低だなと思います
どんなに夫婦関係が長くなっても、あの時のような感覚で旦那に接することだけは一生ないように自分を律していきたい
まず私たちのテーブルに運ばれる料理=全て私が食べていいものという認識になって
旦那相手にその自由にしていいはずの料理を「一口もらっていい?」と断り入れることすら理不尽に感じました
なぜ私のものなのに私が好き勝手自由にできないんだ?というイラつき
それを抑えるためにも化粧室に逃げ込みました
2人分が私のものなのに、こちらが旦那の分を確保しなければ旦那に侵食されてしまう!阻止しなきゃ!みたいな
(なお私のオーダーが旦那に取られるという頭は当然なく、これは私が安心して食べれる私だけの分)
そう言えば先日、会社の忘年会のビンゴゲームで同僚のAさん(美人で可愛くてアラフォーだけど社内のアイドル、可愛い物好き)にキュートなぬいぐるみが当たりました
Aさんは喜んでぬいぐるみを持ち帰ったのですが、それを自宅で発見したAさんの次女(15歳)がすかさず「かわいい!これ私のだよね!」と言ったそうです
Aさんの家には自分の手でそれをゲットしたAさんも、同じくぬいぐるみが好きな長女(18歳)もいるのに
彼女に対しては匂わせだなんだと色々あるけれど、今回はそんなのどうでもいい。
一度も共感されたことはないが、私はアイドルが彼女がいても結婚しても子供がいても全然構わない。
でも、言わないで欲しい。
全てを隠し通すことは今の時代、難しいだろう。
そういう売り方をしているのだから当たり前だ。
中高生の女の子がジャニーズのタレントに対して恋愛感情を持っているのも珍しくない。
主婦だって、結婚していてもトキメキを求めてジャニーズにハマる人も沢山いる。
TVに出てる姿が本当の姿ではないことはわかっている。
そういうところが私は好きだ。
今回、二宮さんが結婚を発表したが、他のメンバーも恐らく彼女、もしくはそれに近い存在は居るだろう。
今は居なくとも、長年そういう存在が居ないということはないだろう。
そしてファンも大体の人はわかっているはずだ。
その上で応援している。
それでいいじゃないか。
それじゃダメなのか。
私はその時代に生きていないので詳しくは知らないが、寅さんで有名な俳優の渥美清さん。
寅さんのイメージを崩さないようにとプライベートを明かさず、渥美清さんが結婚して子供がいたと世間が知ったのは亡くなった後だそうだ。
渥美清さんはアイドルでないけれども、このプロ意識は凄いと思うし、私にとって理想だ。
週刊誌の記者に常に追いかけられているだろうから全てを隠すのは難しいとわかっている。
でも公表しなければ、プライベートも知りたい野次馬根性のある人以外は知らなくて済んだ。
嵐の二宮和成
そのイメージに彼は傷を付けた。
でも言わないで欲しかった。
それだけ。
およそ3年前、現場は地下。
推しから認知をもらったことをきっかけに、TOになりたいと思う一心で一気に上り詰めた。
推しはワイの顔が好きだったそうで、すぐに覚えてくれたし、オシャレには気合が入って、デート感覚で現場に通った。
しかし、ある日推しに干されたことで、現場に行く勇気を失った。考えれば考えるほど悪い方向に考えが進んで、毎晩毎晩干からびるほど涙を流した。
公演日を把握するのが怖くなった。
手元にはたくさんの円盤と紙が残された。
結局、好かれたくて好きでいただけの、自分が嫌いなオタクと同じだったことがなにより堪えた。
干されてから1年後、久々に現場に入ると、推しがワイを見つけてくれた。指差してくれたし驚いてたから、ちゃんと分かってくれてたはずだ。
なんで来てくれなかったのと言われてる気がして、とにかく申し訳なかった。それから、前みたいなトキメキは感じなかった。
でも、3年前の恋とか愛とかの火傷しそうな感覚はなかったけれど、久々に会う友達に感じるような親しさがこみ上げて来て「また来るよー!」って声を出して手を振った。
その時、やっと、ワイが推しのために頑張って来たことは無駄じゃなかったんだと思うことができた。
円盤を積むこと、公演のたびに手紙を書くこと、ツイッターで感想を書くこと、喜んでもらえたらいいなと思いながらプレゼントを選ぶこと。
TOだった頃、ワイが好きでいなきゃ推しは死んでしまうんじゃないかと(今では何言ってるんだと思うけどその時は本気で)思っていた。
でもそうじゃなかった。だって推しはたくさんの人に愛されてる。ワイはその中の一人でしかないけど、たしかにその中の一人ではあった。
重荷がようやく肩から降りた気がした。
やっと、ただのオタクになれた。
推しが幸せならそれでいいと思っていたはずだったのに、TOになるという目標が自分を苦しめ、そしてもしかしたら推しに余計な心配をかけてしまっていたのかもしれない。
TO特典なんて、推しにもワイにも、ほんとうはどちらにとっても重荷でしかなかったのかもしれない。
いつか推しが辞めてしまうとき、そういえばあんなオタクがいたなと思い出してもらえるような、そんなささやかな存在になりたい。
「増田くんは根ができてるし良いヤツだな。30代半ばたあたりから、そろそろ落ち着きたい女の子にモテるよ」
似たようなことをよく行く飲み屋のオヤジからも言ってもらったことがある。
人からそういうことを言われて素直に嬉しい。
けど「今じゃないんだな・・・」と、なんとも言えない感じが残る・・・。
「増田さんの良さて知ってるけど、私がそれ理解できるのって多分もう少し後なんだろうな・・・」と牽制をかけられ
学生時代に好きだった子に告白したときも「増田くんと一緒にいると凄く安心して楽しい・・・、でもなんか違うんだよね」と言われ断られた。
恋愛の「ドキドキ」とか「トキメキ」「スリル」を求めてるんだろうなと思う。
それらが自分にはどうにも醸し出せそうにないのもなんとなく理解してる。
こういうことがあったからか、
一般的に、フィクションの壁ドンみたいなやつって、それまでのお話の積み重ねで当事者間に信頼関係ができてるか、あるいは「運命だった」ってのをその後のお話で丁寧に書くかどっちかであり、女が本当に求めてるのは、強引な行動の背後にある深い理解とか愛情とかのほうだよ。
フィクションの話でいいなら
女慣れしててイケメンでめちゃくちゃな男(学園モノだと学校中の人気者の自信満々の先輩とかだったり)に初対面でいきなり壁ドン的なことをされるタイプの少女漫画はかなりの数あるような
つまり恋愛的な肉体的な「トキメキ」と頭で考える「誠実さ」は全然両立しない別の軸で、
惹かれるのは前者型だしそういう要素がないと恋愛が物たりないのでは
近藤麻理恵は一冊目の本である「人生がときめく片づけの魔法」が2014年にアメリカで出版されたときから社会現象であり続けている。「日本の片付けと整理の術」を詳しく記したその本は、コンマリ・メソッドまたは「Kondoする」と呼ばれる、持ち物に触ってときめきを感じる(it sparks joy)かで判断する片付け法を誕生させた。しかし、やはり近藤の人気が急上昇したのはNetflixで「近藤麻理恵とお片付け」(邦題:KonMari ~人生がときめく片づけの魔法~)が放送されてからだ。ところが、この人気の急上昇により本にまつわる予期せぬ騒動が発生した。著述家であり「We Need Diverse Books」(多様な人種の子供に向けて本を与える活動をする非営利団体)の創設者の一人でもあるエレン・オーを含むSNS上の大勢の人々によれば、近藤への反発には明確な人種差別と階級意識の要素が含まれているという。Bustle(訳注:原文の掲載サイト)はオーにコメントを求めた。
韓国系でありながら子供時代を日本で過ごし第一言語が日本語であるオーは次のように語る。「近藤麻理恵への反発が発生してからというもの、ずっと意図的に誤解している人々に嫌な思いをさせられています。最初は文化の違いのせいかと思いました。特に、翻訳によって生じる問題についての意識のなさです。アジアの言語は英語とはかなり違います。どうやってもうまく翻訳できない言葉もあります」。ところが、オーが「人々が意図的に近藤を誤解している」と確信するに至るまで長い時間はかからなかった。
すべての始まりはこうだ。Netflixの番組の第5話で、近藤は若いカップルが本を片付けるのを手伝う。番組の中で、そして著書の中で、近藤はコンマリ・メソッドで蔵書を片付けるやり方について広く語っている。Deseret Newsの記事に書かれた近藤が語ったことの要点はこうだ。読んでいない本や、いつかもう一度読むかもしれないという思いにとらわれている本がたくさんあるのなら、それは捨てるべきだ。また近藤は、もしほんの一部だけにときめきを感じるのであれば、一部のページだけをちぎって残すことも薦めている。
小説家のアナカナ・スコフィールドはすぐさま近藤の本を捨てるやり方にSNSで憤慨したうちの一人だ。スコフィールドは「近藤麻理恵だかコンマリだかの本に関する意見に耳を貸すな」とTwitterに書いた。他の利用者たちもすぐに続いた。そのうちの一人であるジェニファー・ライトは「この女はモンスターだ」と既に削除されたツイートで記した。このツイートは「理想的には蔵書は30冊未満にしましょう」という吹き出しが書き足された近藤の写真に対する返信として書かれたものだ。ワシントンポストに掲載された書評家のロン・チャールズの「近藤麻理恵よ、おまえのトキメキお片付けは私の本の山には無用だ」をはじめ意見記事もいくつか出た。
しかしこの「理想」の蔵書数は30冊というのは、いったい何なのだろうか?この数字は、近藤がコンマリ・メソッドで自分の家を片付けたときに使ったものだ。「人生がときめく片づけの魔法」で、近藤は自分の蔵書は30冊にするようにしていると書いている。しかし、近藤は誰もがこの30という数字を使うべきだと言っているわけではない。重要なのは、近藤は一度も本をすべて捨てるべきだなどと言ったわけではないということだ。Refinery29のインタビューでケイト・ムンロは近藤に、ガラクタの山や、本で破裂しそうな本棚にときめきを感じる人はどうすればいいのかを尋ねている。近藤は次のように答えた。
家がちらかった状態でもそれで本当に快適なら、それは良いことです。なにもおかしくありません。その上で、それぞれの物に決まった場所を割りあてたり、それぞれの物がどれくらいの量あって、必要な量はどれくらいなのかを把握したりすることをおすすめします。こういう意識を持つことは大事だと思います。
オーは、アナカナ・スコフィールドが近藤についてのツイートの後で書いたガーディアン誌の記事を、自分の意見に合わせるために近藤の言葉を意図的に誤解している例の一つとしてあげている。「ときめき(spark joy)という表現が過剰に強調されていて、その言葉で近藤が本当に伝えようとしていることが置き去りにされています」。「ときめき」は実際には喜び(joy)と同じ意味ではなく、鼓動や興奮や動悸を意味する。この基本的なことさえ理解すれば、本は喜びだけでなく挑戦や動揺を読者に与えるべきだというスコフィールドの主張が無意味だということがわかるだろう。「ときめき」という言葉が意味するのは、本が読者に挑戦や動揺を与えてそれが良い反応をもたらすのならとっておくべきだということなのだ。
オーはさらにライトが削除されたツイートで近藤を「モンスター」と呼んだことについて言及する。「意図的な誤解は、近藤の助言はそもそも片付けをしたいと思っている人に向けられたものだという事実から目をそらすことから始まっています。片付けをしたくないなら、助言に耳を貸さなければ良いだけです」
「近藤への反発は、近藤の流暢でない英語や、独特の言葉づかいをからかうことまであらゆることに及んでいます」とオーは語る。「ときめきという概念を笑いの種にするたくさんの画像を見て、私の両親が話す片言の英語を意図的に誤解しておちょくってきた人たちのことを思い出さずにはいられませんでした」
今回の本を片付けることについての議論には、ある種の特権も絡んでいるとオーは語る。
「階級意識、エリート意識、たくさんの収納がある大きい家に住めるという特権。私には近藤への反発が何を根拠にしているのかはわからないけど、反発している人たちが特権的な立場にいるということはわかります」とオーは言う。「たくさんの本を持っていなければ賢い人間だとは言えないというエリート意識と経済的な階級意識です。かつて貧しかったころ、私が持っていた本は10冊もありませんでした。だから図書館は私にとって安らぎの場所だったんです」
以上の点について声を上げているのはもちろんオーだけではない。Twitter利用者のジョナー・ヴェンは一連のツイートで、コンマリ・メソッドの本来の目的に対する一般的な無知についてこう書いている。「コンマリへの批判やネタ画像は、アジア、とりわけ日本の文化や影響への無知により、目立たないが本質的に人種差別的なものだ」
近藤への反発の人種差別的な側面についてSNS上で反応している人々は他にもいる。作家のカット・チョーはツイートで「有色人種をモンスターと呼ぶのはやめてください。既に社会の隅に追いやられている人たちを、人でなし扱いするような言葉を使わないで」と書いた。そして著述家のピューター・セレステは「アジア人の女性を不当な理由でからかうことに何の意味があるんだ?近藤麻理恵じゃなくてマーサ・スチュワートが相手だったとしてもこれ以上続けるのか?違うだろう」とツイートした。
確かに、本を捨てるという行為は一部の人々にとってかなり感情を動かされるものだし、本の一部をちぎると図書館や学校や非営利組織などに寄付して役立ててもらうこともできなくなる。しかし、とどのつまり近藤の助言に対する反発は、近藤とは関係がない。むしろそれは、一部の読書家が、自分の読書家としての自意識を維持するために必要だと考えている、本を所有するという行為を近藤が侮辱したという誤解に基づく怒りなのだ。
近藤を支持している読書家もたくさんいる。Twitter利用者のアレクサンドラ・ダンカンはツイートで「驚くかもしれないけど、図書館員として家の本棚をコンマリ・メソッドで整理することを100%支持します」と書いている。
もしかしたら年明けは、物理的な片付けについてだけでなく精神的な整理についても完璧な時期なのかもしれない。読者の皆さんも、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚そのものと、本に書かれた内容とどちらにときめきを感じるのか、自分に問いかけてみてはいかがだろうか。