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はてなキーワード: 作品とは

2024-06-08

anond:20240607221536

その荒らし5ch少年漫画板のワールドトリガースレ魔都精兵のスレイブスレ荒らしてる奴と同じ奴かな?

その2つのスレではどんぐりレベル10制限にしても未だにLV10になった途端に連投荒らし再開し続けてるから

その異常な執念にハンターが慄いてたよ

どんぐり導入前の時代ふたばと思われるスレからコピペ張ってたからそんな気がすんだよね

ちなみにその2つの作品スレそいつのせいでスレ民が避難所に逃げてすっかり過疎ってしまった

anond:20240608141909

愛国ポルノ日本スゴいと言ってくれる外人

『違国日記』…女性の生きづらさに共感してくれる全肯定イケメン

男性向けポルノビキニアーマー

 

みんな違ってみんな良い

 

それぞれ自分気持ちよくさせてくれる作品を楽しんでる

 

他人が喜んでるのを邪魔する必要はないよ

世の中のスケールが小さくなるとどうなるの?

虫が人間並みに大きくなると自重を支えきれないとかいう話は聞く。

ジアースが腕を動かしたら末端速度がえらいことになるという話も聞いたことがある。

理科雄の世界っつーの?

まあその理科雄が既に扱ってそうだけど、俺は読んだことないから。

逆に人が物理的なことを無視して小動物並みに小さくなったとすると、身の回りのは物理的なことを考慮して同じスケールで小さくなれんのかい

ガラスフラスコとか、米粒みたいなサイズの熱したガラスに息を吹き込んであの形にできるのだろうか?

人が手で扱える量の水は表面張力ですごそう。コップの中身はコップよりすごく盛り上がってる?

ギアとかの歯車は…大きなもの腕時計の中身サイズぐらいだから動くか。じゃあ小さくなった腕時計は?

ガス火は無理そう。着火時の余分な炎で丸焼け?

焚き火は熱の範囲が凄くて火元の木や炭を触れなさそう。

自転車は安定感でるの?ジャイロ効果足りなかったりする?

 

小人作品は小さい人が小さいもの相対的に大きく扱うのが魅力のひとつだけど、それと同時に小人サイズの道具が出るとこんな複雑なものを小さく作れるんかなって気になる。

きっと東大阪町工場とかの小人職人さんが超絶テクで作ってるんだな。

今の時代創作して楽しい事あるのかな

例えバズって売れてもインターネットのよくわかんねえ驚き屋みたいな連中がオタク構文で内輪ノリツイートする題材として消費されるか、ポリコレ警察ポリコレ基準達してるかどうかジャッジされるか、自分語り連中のオナニー対象にされるとかしかないじゃん

いくら売れて金貰っても俺は自分作品インターネットのあのワケわからん連中のオモチャにされるの耐えられないな。今の創作活動してる連中すげえと思うよ。

anond:20230204124621

これに「はっとした」だの「目を開かされた」だの言ってる連中もアホちゃう

ここが本題なのに

natumeuashi ToLOVEる女性描写ケチつけるような増田TSしたら宇崎ちゃん月曜日のたわわにキレ散らかすんだろうな

kuzumaji ターゲットユーザー次第感。BL本とか読んだら発狂しちゃいそう

kotobuki_84 別にまあ自由というか、「島耕作ToLOVEる女性描写への違和感がすごい」みたいな話だと思った。

arsweraz 女性向け作品なんだから、良くも悪くも、徹頭徹尾女性にとって都合の良い男しか出ないのは当たり前だし、それでいいんだぞ。作者の異性キャラファンタジーになるのはよくある話だ。 ブコメ

popotan555 どのキャラもしっかり説明できるくらい丁寧に読み込んでて笑った。いいじゃん、数多の作品がある中で「そういう世界もある」って納得して読めば。私もワンピース意味不明巨乳を「はいはい」って思って読んでるし

こいつらは何だ?増田を読め

richest21 ひろ〇きやホリ〇モン的な何か。そういうスカッポルノ一定需要がありそれでオナニーするのは仕方ないけど心酔のあまり無理解世間に抑圧される女性の苦悩を描いた傑作!」的に持て囃したらそれは違うだろと

こいつは正しい。次の天皇にすべき

アマプラガンダムSEED FREEDOM見てるんだけど、コメント実況無しでSEED見るの本当に辛い😢

マジでキツすぎるだろ。

痛々しすぎてちょっと耐えられない。

まずキャラデザ平成臭すぎてシンドイ。

当時の感覚で完成されたキャラデザならともかく、無理して平成臭のする作品に合わせようとしてセンスバランスが壊れとる。

そこから更にちょいちょい作画崩壊するのがキャラデザごと狂ってるのか下請け仕事が終わってるのか混乱する。

戦闘シーンのクオリティは高いし出てくる新メカセンスも笑えて面白いけどそれ以外のパートしんどいな。

ガンダムシリーズ暗黒時代薄っぺら政治ごっことか、世界地図に描かれた落書きみたいになってる導線グチャグチャの勢力図とか、雑に突っ込まれ三角関係、色んな部分がしょっぱい。

キツすぎて戦闘パート以外は1.3倍速で見てる。

懐かしい。

当時も録画した分はこうやって見てた気がするわ

anond:20240608162606

正直作品みて何処かどう面白いとか言うんじゃなくフェミガーポリコレガーみたいな自分勝手に貼ったラベルだけ見て文句言ってる奴らって障害者だと思ってる

anond:20230204124621

こういう作品にもフェミガー!って発狂してる奴

もう限界だろ色んな意味

anond:20240608163618

[芦原ブログ魚拓コピペ]2014.2.2〜2024.1.26

https://web.archive.org/web/20240127104246/http://ashihara-hina.jugem.jp/

ドラマセクシー田中さん』について

2024.01.26 Friday14:31

ドラマセクシー田中さん」をご視聴いただいた皆様、

ありがとうございました。

色々と悩んだのですが、今回のドラマ化で、

私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断するに至った経緯や事情を、

きちんとお伝えした方が良いのではと思い至りました。

この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係再確認し、

文章の内容も小学館確認して書いています

ただ、私達は、ドラマ放送が終了するまで、脚本家さんと一度もお会いすることは

ありませんでしたし、監督さんや演出の方などドラマ制作スタッフの皆様とも、

ドラマの内容について直接、お話させていただく機会はありませんでした。

ですから、この文章の内容は私達の側で起こった事実ということになります

セクシー田中さん」は一見奇抜なタイトルのふざけたラブコメ漫画に見えますが…。

自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える様な作品にしたい

という思いが強くあり、ベリーダンスに纏わる方々の思いにも共鳴しながら、

担当編集と共に大切に描いてきた漫画です。

ドラマ化のお話いただき、当初の数話のプロット脚本をチェックさせていただきながら、

最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした。

セクシー田中さん」は連載途中で未完の作品であり、また、漫画の結末を定めていない

作品であることと、当初の数話のプロット脚本をチェックさせていただいた結果として、

僭越ではありましたが、ドラマ化にあたって、

ドラマ化するなら「必ず漫画に忠実に」。

漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく。

漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、

まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。

原作者が用意したもの原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、

原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、

場合によっては、原作者脚本執筆する可能性もある。

これらを条件とさせていただき小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。

また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマ制作スタッフの皆様に対して

大変失礼な条件だということは理解していましたので、

「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに

何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。

ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロット脚本が提出されていました。

漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう。

個性の強い各キャラクター特に朱里小西・進吾は原作から大きくかけ離れた

別人のようなキャラクターに変更される。

・「性被害未遂アフターピル男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話」等、

私が漫画セクシー田中さん」という作品の核として大切に描いたシーンは、

大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず、その理由を伺っても、

納得のいくお返事はいただけない。

といったところが大きなところですが、他にも細かなところは沢山ありました。

「枠にハマったキャラクターに変えないでいただきたい。

私が描いた「セクシー田中さん」という作品個性を消されてしまうなら、

私はドラマ化を今からでもやめたいぐらいだ」と、何度も訴え、

どうして変更していただきたくないのかということも丁寧にご説明し、

粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1〜7話の脚本

完成にこぎつけましたが…。

脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口は

プロデューサーの方々のみでしたから、プロデューサーの方々が当初「ドラマ化の条件」として

小学館から日本テレビさんに伝えていただいた内容を、

どのように脚本家さんや監督さん、ドラマ制作スタッフの皆様に伝えていらっしゃったのか、

残念ですが私達には知る術はなく、

当初お伝えした「ドラマ化の条件」はどうなってしまったのだろう?という

疑問を常に抱えた状態での加筆修正の繰り返しとなって、

その頃には私も相当疲弊していました。

そして、私があらすじ、セリフを準備する終盤のドラマオリジナル展開は

8話〜10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、

私が準備したものを大幅に改変した脚本が8話〜10話まとめて提出されました。

特に9話、10話の改変された脚本ベリーダンス表現も間違いが多く、

ベリーダンスの監修の方とも連携が取れていないことが手に取るように分かりましたので、

「当初の約束通り、とにかく一度原作者が用意したあらすじ、セリフ

そのまま脚本に落としていただきたい」

「足りない箇所、変更箇所、意見はもちろん伺うので、脚本として改変された形ではなく、

別途相談していただきたい」

といったことを、小学館から日本テレビさんへ申し入れをしていただきましたが、

その後も、大幅な改編がされたプロット脚本が提出され、

それを小学館サイドが「当初の約束通りに」と日本テレビさんにお戻しするという作業

数回繰り返されたと聞いています

最終的に、日本テレビチーフプロデューサーの方から「一度そのまま書くように」との

指示が出たとも伺っていましたが、状況は変わらぬまま約4週間が過ぎてしまいました。

ドラマ制作スケジュールリミットもどんどん迫っていましたので、

本当はドラマオリジナルとなる8話〜10話全ての脚本を拝見してオリジナル部分全体で、

加筆修正をさせていただきたかったのですが、8話だけ、

何とか改変前の内容に修正させて頂いて、日本テレビさんにお渡しすることになってしまいました。

9話、10話に関する小学館日本テレビさんのやりとりを伺い、

時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、

当初の条件としてお伝えしていた通り、

原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたいと、

正式小学館を通じてお願いしました。

結果として、日本テレビさんから8話までの脚本執筆された方は

9話、10話の脚本には関わらないと伺ったうえで、

9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせていただき

脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えていただく、

という解決策となりました。

何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。

素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。

漫画セクシー田中さん」の原稿の〆切とも重なり、相当短い時間脚本

執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます

9話、10話の脚本にご不満をもたれた方もいらっしゃるかと思います

どのような判断ベストだったのか、今も正直正解が分からずにいますが、

改めて、心よりお詫び申し上げます

最後となりましたが、素敵なドラマ作品にして頂いた、素晴らしいキャストの皆さんや、

ドラマ制作スタッフの皆様と、「セクシー田中さん」の漫画ドラマを愛してくださった

読者と視聴者の皆様に深く感謝いたします。

2024.1.26

芦原妃名子

こちらのブログ10年も放置してしまったため、1日の訪問者数が既に一桁でして…

なので今回、X(旧Twitter新規アカウントを作って、同時にご報告させていただいてます

芦原妃名子

@ashihara_hina

お仕事---

テスト

2024.01.17 Wednesday20:16

テストです

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お知らせです

2014.12.06 Saturday01:20

ものすごいブログ放ったらかしっぷりを、、スミマセン、、。

実は今発売中の『cocohana1月号』予告にミスがありまして。

次号2月号カラー予告に私の名前が載ってますが、間違いです。

一色予告にはキチンと訂正されていますが、2月号・3月号の

Bread&Butter」はお休みです。

バタバタしていて間違えたまま載ってしまったみたいで、、

本当に申し訳ないです。

夏くらいから体調崩してばっかりなので、しっかりリセット出来ると良いなあ~。

あとは、ずっとお世話になってたcocohana担当さんが他誌に異動されて

cocohanaでの初めての担当替えがありました。さすがに寂しいなあ~。

色々有難うございました!

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お仕事---

Bread&Butter;」2巻☆「芦原妃名子傑作集」1・2巻

2014.09.26 Friday12:35

3冊同時に発売中です~!!

Bread&Butter]2巻は、水色に近いエメラルドグリーンの表紙です。

可愛く仕上げて頂いて、とても嬉しい。

2巻は「フレンチトースト」「イースト菌」「プレッツエル」「パンサプライズ」ですよ~。

あと、「芦原妃名子傑作集・1・記憶」と「芦原妃名子傑作集・2・祈り」も同時発売です。

こちらは小学館から出てます

これ、一応私の20周年記念本なのですよ。なのでほぼ過去作で構成されてます。既刊コミックス未収録の新作は「乞う女」と「スゴロク」のみなので、どうぞお間違えの無い様、お気をつけくださいませ~。

途中お休みもしてるので、20周年といっても若干サバ読んでる気がしないでもないですが、、

一作一作コメントも書いてますので、興味のある方は手にとってみてくださいね

よろしくお願い致します。

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お仕事---

ぷるぷる

2014.07.16 Wednesday02:13

編集さんに頂いたゼリーが超キレイきぷるぷる

原稿終わった~~! とりあえず、いっぱい遊ぶ!

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おやつ---

ビッグコミック オリジナル」15号

2014.07.06 Sunday00:36

ビッグコミック オリジナル」15号

7月19日(土)発売です!

「乞う女(こうひと)」ってタイトルの30P読みきりです。

どうぞよろしく~。

cocohana」8月号も発売中ですよ~☆

あと、9月末にコミックスが3冊同時に出ます

詳細はまた後ほど。

わりと仕事ばっかりしてます。遊びたい。

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お仕事---

ずいぶん。。

2014.06.08 Sunday04:44

ほったらかしてました。ごめんなさい、、、。

ずっと調子おかしかったPCを買い換えて、すさまじくメカオンチの私は

ますますチンプンカンプンです。脳みそ足りてなくって、嫌!

えーーっと、まず・・今発売中のCocohanaには、私のパン漫画は載っていないのですが、

私自身は特に休みを取っていたわけではなくって、小学館さんでの別の読み切りを描いておりました。

ベツコミでもプチコミでもフラワーズでもなくって、、、

なぜか、、なぜか、、「ビッグコミック オリジナル」に載りますよ!!

少女マンガ絵ど真ん中の、私の漫画が!なぜか!オリジナルに、、!!

昔、うちのお父ちゃんが読んでたよ、、。今も読んでるか知らないけど、黙っとこ。

なんでオリジナルに描くことになったかは、たいした理由もないんですけど、省略。

ちょっとした珍事件ですので、興味のある方は是非読んでみてくださいね

昼ドラ感満載の30P読みきりです。

パン漫画は、なるべく「業」とか「欲」とかを排除しながら描いてるのですけど

(出来るだけ「優しいモノ」を、、との注文を頂いてスタートした漫画なので)

こちらの読みきりは「業」「欲」オンリーです。

掲載号は、また後日お知らせしますねー。

Bread&Butter」は、6月28日発売Cocohana8月号より巻頭カラーで再開です!

あ、あと、「砂時計」1~3巻(デジタル版)が、6月18日まで無料で読めるみたいです。

未読の方は是非、この機会にご覧くださいませー。

少し前、小学館編集さんに、美味しいパンを沢山いただきました。

 

美味しい、、。へんしゅうさん皆やさしい、、悲しス。

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お仕事---

「Bread&Butter」☆第1巻

2014.03.22 Saturday05:07

「Bread&Butter」第1巻☆3月25日発売です!

宜しくお願い致しま

*しばらくこの記事トップに上げておきますね~。

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お仕事---

ダラス・バイヤーズクラブ

2014.03.09 Sunday17:09

悲しい出来事がありました。。

土曜の最終で「ダラス・バイヤーズクラブ」を観て、余韻冷めやらぬまま売店レジに行き

パンフレットください、、」とつぶやいたら不透明の袋に入ったパンフレットをお姉さんに手渡され

中身を確かめないまま自宅に帰って袋から取り出してみましたら。。

なんでやねーーーーん!(500円返して~~~!)

せっかくなので「マチューテ・キルズ」のパンフレット読みましたけども、

私が観たのは「ダラス・バイヤーズクラブ」です。ハイ

マシュー・マコノヒージャレッド・レトも凄かった。

描かれるのは、「生」に対するあまりに真っ直ぐな執着心。

「執着心」って、あまり聞き心地の良い言葉ではないけど、やっぱりもの凄いエネルギーを生むんですよね。

屈折してると痛々しく映るけど、ストレートな執着が爆発する様は、むしろ爽快。

主人公あくま自己中で自業自得貪欲で、だけど彼のエネルギーが周囲を巻き込んで救済し感謝され、そのこと自体に戸惑いながら少しづ他者との絆を得て行く描かれ方が、とても良かった。

堕落過去自分を全て否定して、綺麗に生まれ変わったわけではないんですよね。

差別する側だった人間が、差別される側に転げ落ちる様は、「第9地区」と被るな。

最近観た映画の中で、一番良かった。

パンフレット、、、。声が、小さかったのかな。

もっと腹の底から声を出して、強くたくましく生きようと思います

可愛い画像も貼っとこ

うちのお姉ちゃん家に子ニャンコがやって来ました!

小豆アズキちゃん」です。

かわいい

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本・映画---

1巻!

2014.02.02 Sunday01:25

オンリー・ゴッド」観てきました。

復讐モノ」だと思ってたけど、違ってた。「親殺し」が主軸。

ドライヴ」より私は好きでした。

母親より更に偉大な「神」が、新たな依存先に見えなくもないけれど。。

戦いを挑んでコテンパンにやられて裁かれて赦されて、救われたのかな?

「親殺し」はどうしてもパターン化してしまうけど、それほど普遍的テーマなのかもしれないです。

バイオレンス描写より、KARAOKEシーンのがインパクトでかかった。

人殺したら、腕一本。マイルールに則って無感情淡々と人を裁いていく様は、

神様」って言うよりも、「法」とか「規則」とか、そんな感じ。

人に勧めにくい。私は好きだけど。 <h3>o- **</h3>

今、コミックス作業をしていますー。

パンをチマチマいっぱい描きました。

原画はもう編集部に送っちゃったので、これはコピーですけど。

デザイナーさんが考えてくれたカバーデザインがとっても可愛いので、

仕上がりが楽しみです♪

Bread&Butterコミックス第1巻は、3月末発売予定です!

また、改めてお知らせしますね。

anond:20240608104507

男向けに1000そういう作品があるのはそいつにとって自明から

 

アメリカ行ったらみんな英語喋ってたよ!大発見だ!て騒がないんでしょ

マルタ島では英語通じるんやで!くらいの、ちょっと調べりゃすぐわかることでも、わざわざ発言する価値があると思っただけで、アメリカ英語喋ってるやつがいない(男向けまんがにそういう作品がない)と主張したいわけじゃなかろう

anond:20240608151015

自分の好きな作品をみんなに読んでほしい気持ちは分かるけどな。

口コミから火がついてドラマ化、映画化する作品だってあるわけだし。

原作者ドラマセクシー田中さん脚本チームに送ったWord

修正について

漫画ドラマ媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ。

(中略)

でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。

(中略)

これは私に限らずですが…作品根底流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラ破綻させる様な、安易な改変は、作家を傷つけます。

悪気が全くないのは分かってるけれど、結果的に大きく傷つける。

それはしっかり自覚しておいて欲しいです。

最終的に意にそぐわないモノが出来ても、多くの作家は公に文句が言えないです。

莫大な数の役者さんスタッフさん達が、労力や時間を使って関わってくださってる事を知ってるので。

その事に対しては、本当にとても感謝をしているので。

なので、闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階で出来るベストを尽くしているつもりです。

宜しくお願い致します。

anond:20230204124621

逆に女性作家作品でこれはリアルな男を肯定的に描けてるなって作品を知りたいので教えてくれ

anond:20240608141315

ラーメン」や「らーめん」をテーマにした漫画はたくさんありますね。以下にいくつかのタイトルをご紹介します:

極道ラーメン多重債務者の男の家に暴力団が取り立てにやってきた。その男の話を聞き、歌舞伎町一のラーメン屋「極道ラーメン」の店長、万吉の怒りの鉄拳がうなる!

闘将!! 拉麺男:馬賊に親を殺され、自身瀕死重症を負った少年は、超人拳法の達人・陳老師にその命を救われた。やがて少年は、12年の拳法修行を経て「超人一〇二芸」を習得

ラーメン発見伝:一億人国民食ラーメン百戦錬磨プロたちが鎬を削る世界に、ラーメン好きの普通の(?)サラリーマン藤本が挑む!!

ラーメン大好き小泉さん:美少女 × ガッツリラーメンという異色の作品ラーメンをこよなく愛する主人公がメインの作品です。

闇金ウシジマくん外伝 らーめん滑皮さん:「闇金ウシジマくん」のスピンオフ作品で、ラーメンをこよなく愛する主人公がメインの作品です。

ラーメン王子無人島10年も過ごした成宮が「ラーメン大事典」を読み続け、その知識は誰にも負けません。

これらの作品は、ラーメンをこよなく愛する主人公がメインの作品から実在するラーメン屋や職人が登場するものまで、作者のこだわりが詰まった名作が多数存在します。ぜひチェックしてみてください。他に何か質問がありましたら、お気軽にどうぞ!

anond:20240608104952

解体ゲンとか社会派だしな

社会派っぽい作品社会派として扱われるだけで女向けだからどうこうは関係ない

anond:20230204124621

あっ作品に火付けして表現規制しようとしてる

表現の自由があるから何を描こうといいんですけど

嫌なら読むな

魅力的な男キャラ嫉妬しないでください

創作現実区別つけてください

その男キャラあなたは別人です

現実の男が起こした事件にはダンマリなくせに

こうですか?

anond:20230204124621

男向けにそういう作品が1000あっても

女向けにそういう作品が1あるだけで

騒ぎ立てる男さんであった

anond:20240608093126

「ゲージュツなんだから意味がわからなくて当たり前」というならな

それこそ淫夢動画だってその場の思い付きとしょうもない身内ノリばっかりで、外部の人間には意味不明だろ

「どうしてこの動画がそんなに草生えるのか」なんて、文脈過去の積み重ねをちゃんと踏まえた、ネット全体からすりゃごく一部の物好き以外にはわかんねーんだよ

(だいたい「草」の由来からしてそういうコンテキスト込みなわけで)

そんなものふたばみたいに身内ノリやジャーゴンが幅を利かせるタコボム社会であれば、所詮どこにでも見られる光景しかない

タコツボエコチェンなんていくらでもあるのに、現代アートけがむやみに孤高面したって笑わせるだけだわ

から結局、トリエンナーレ不自由展みたいな文化ムラが文化ムラたり得ている要素って、作品社会派・党派性まみれのメッセージそれ自体じゃないんだよね


単にこいつらの利害関係共犯関係で成り立った、いたって資本主義的な営為しかなくて(ここは元増田もある程度自覚的ではあるが)

「何が芸術か」なんて、実際のところ誰も考えちゃいねーんじゃねーのか

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(後半)


(前半からの続きです。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093126


現代アートの不満


もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。


大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品ほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。


思い返せば2020年トリエンナーレにあった「エビSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビ水草の入っている閉じた水槽)の中でエビ酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビ生殖をしなくなる。そこでエビ生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品エビセクシーな格好をさせるとか、エビ秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶していますしかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球生態系比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています


2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家メモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。


現代芸術作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます人文学哲学歴史学経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。


かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家自由作品を作れるはずなのに、ただ社会要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります


しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。


作品」と「意味


トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。


しか問題受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケ作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります


今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています作品意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います


私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメ解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかアニメ本編とはズレているか面白い。YOASOBI の歌はアニメストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界アートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います


しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。


批判いたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレ批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーション環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感理解できますが、それとは別に芸術資本関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品意味もつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。


むすび


咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーター解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義マルボロ広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランス果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーター真剣構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います


要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます


魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風ファンになり、富山妙子画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号オブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛け作品が好きでした。


つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。


横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


anond:20240530103212

1990年代中頃より、テレビ朝日系列の日曜8時台後半では、『ナージャ』のように幼児から小学校中学年までの女児ターゲットとした柔和なアニメ作品が多く放映されていたが、当時女児向けアニメはおろかアニメのものに疎かった鷲尾は「自分のやりたいことをやる」と開き直り、従来にとらわれない新たな作品開拓する[13]。仮面ライダーシリーズウルトラマンシリーズが放映されていた世代である鷲尾は、「とりあえず変身して戦うのがかっこいいだろう」という発想から、同時間帯で放送されていた『ママレード・ボーイ』『花より男子』などの恋愛系、『夢のクレヨン王国』『どれみ』シリーズなどのファンタジー系とは逆の「戦い」をメインとするべく、『ドラゴンボール』『エアマスター』などで頭角を現した西尾シリーズディレクターを依頼。前述した変身して戦うという概念、それに映画48時間』や『ダーティハリー』、ドラマ白バイ野郎ジョン&パンチ』といったバディ物構造を取ることで新しいアクション模索された。また鷲尾は「幼児期の男女に差はほとんどなく、公園幼稚園では男女関係なく飛び跳ねて遊びたいはず」という考えから企画書に「女の子だって暴れたい」と書いたという。メインターゲットの好む物のリサーチにおいて、『セーラームーン』の研究も行われたが「『セーラームーン』と同じことをしても今の時代に受け入れられるわけではない」とし[14]、『無印』及び『MaxHeart』をそれらのカウンターとして位置付けた[15]。女の子らしい華麗さをメインとするのではなく、あくま香港映画のような激しい接近戦という意味で変身アクションを志したという[16]。一方で、西尾性別によってターゲット限定するようなマーケティングに対する強い警戒心も見せており、総体としてこれまでの戦闘物や女児向け作品に対する強い批判性を含みながら、同作品に挑んだことが窺える[17][18][19]。

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