はてなキーワード: 伝統とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9F%E9%96%93_(%E5%A0%B1%E9%81%93)
ハネムーン期間(ハネムーンきかん)とは、政治において、政権交代直後100日は新政権に対する評価を避けるアメリカ合衆国の慣習。発足したばかりの新政権と国民・マスメディアの関係を新婚期間(蜜月)の夫婦になぞらえて名付けられた。1933年のフランクリン・ルーズベルト大統領が就任後100日程度でニューディール政策を導入して以来、政権交代に伴う大きな政策転換に必要な日数の目安として、キリが良いこともあり定着した[1]。アメリカでは2大政党による政権交代が幾度も行われた経験上、新政権が軌道に乗るまである程度の時間を要することを国民が理解し、容認していることからこうした伝統がある。[2]
日本では2009年の民主党による政権交代に前後して、新政権に対する厳しい評価を避けるハネムーン期間の存在がマスメディアによって幾度も指摘されている。また政権交代時の首相であった鳩山由紀夫は、政権発足後100日以上経過した2010年の首相年頭所感で「ハネムーンの期間は過ぎました。温かい目で見てくれとは、もう申し上げません。」と言及している。[3]
> 伝統に依拠して人権を語るとか憲法を語るとか、バカとしか言いようがない。
護憲派は、憲法九条が60年続いてるからってのを、護憲の理由の一つに上げてるけどね。当然、そんなことを言ってる人間は、かたっぱしから批判してるんだよな?
自民党改憲草案とリベラルの敗北(http://anond.hatelabo.jp/20121208120311)は、有識者によって書かれたとても価値のある記事
自民党の改憲草案は、立憲主義という概念を完全に覆す逸品なんだけど、そのことを指摘しないのが有識者とか、いったいそれ何の有識者なんだろう。
そもそも、自民党が言う伝統の意味がよくわからない。伝統というならば、帝国憲法で立憲主義を導入したのだって以前の伝統からすれば違っているわけで。
逆に帝国憲法だって伝統だというならば、日本国憲法だって伝統だ。
伝統に依拠して人権を語るとか憲法を語るとか、バカとしか言いようがない。
立憲主義を導入した時点で、権力というものは制限されるべきものだし、人権は天賦のものだし、憲法は権力を縛るものであって国民を縛るものじゃないはずなんですけど。
それはともあれ、妻愛してる。
なんか違うところにTBとんでたので今更だが気になるところだけ返事。
まぁ僕も専門じゃないけど。
昨日今日あたりでもだいぶいろんなところにまとめられたと思うけど、天賦人権説ってのが世界の通説。人権は憲法よりも先にあり、これを憲法が追認する。
また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。し
たがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だ
( http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf p.14)
西洋のものだから明示的に否定するよ、って、つまりどういうことだってばよ。
人は生まれながらにして人権を持つのではなく、国があなたの人権を認めたからあなたは人権を持つのです、という国になるってことだ。
猪瀬とかいう奴が言葉遣いを間違えて「セクマイの人権を認めます」とか言って炎上してたが、(猪瀬本人の意図はどうあれ)あの発想だな。
個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、
当然のことです。
( http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf p.14)
お前の人権、社会の迷惑だから制限するよ、って明確に言ってるのに、これを危険だと思わないのはこっち(ネット上での右とか左とかじゃなくて、本来的な意味での自由主義者寄り)から見ると不思議でしょうがない。何が? って言われても「は?」としか答えられんよ。
無限の寿命を手にした人類をテーマにしたSFを、定年になったら書こうとでも思っている。
(1)SFその1
「自殺」「事故」「他殺」で死亡した人間数の分だけの出生しか認められない社会になり、
「昨年は、全世界100億人の中で、自殺者が10万人だけだったので、
今年の出生許可書は10万枚だけです」と世界連邦政府が発表し、
どうしても子供が欲しいカップルが、出生許可証を求めて殺到する。
オークションで出生許可証が数億円にまで高騰したり、
(2)SFその2
どうしても子供が欲しい父親が、
「自分は自殺するから、その生命分を以って、出生許可証1枚分にしてくれ」と
遺書を残して自殺、身ごもった母親が、世界連邦に対して出生許可を迫る・・・
(3)SFその3
ということで
「100億人も人口がいるのに、年間10万人程度しか新生児が生まれない、
「自分と同じ学年、いや、子供という存在自体が、殆どゼロな社会」で、
心理発達がどうなるのか?
(4)SFその4
基本的に、
「成人は皆、無限の生命を保証され、延命措置が施される」のだが、
唯一、「極東にある、2,600年だか2,700年だか連綿と続く王室」だけは、
「無限の生命は伝統に反する、我が国は遷宮に代表されるように、常に代謝が繰り返される国家だ」
技法以前にあなたの文章は読みづらいです。例えば<上記の文章は僕が伝統的に7・8年前から使う最も古典的にして、僕らしい文章技術です。>とありますが、こんな文章、僕が編集している紙媒体には載せられません。手直しするとすれば<上記の文章では、僕の個性が最も出ていると思える、ある技術を使っています。この技術は僕が7~8年前から使っているもので、僕の身につけた文章技術の中では最も古いものです。>というような形になります。
リンク先のブログも読みましたが、内容は極めて主観的ですし、このレベルの表現力で「僕に勝てる人はそんなにいない」と言うのは恥ずかしいと思います。そもそもこの文章も、女の子をアクロバティックに褒める表現力を指しているのか、料理やその他全般に関する表現力を指しているのか、判然としません。あまりにも腹立たしくてキーボードにコーヒーをこぼしてしまいました。いいかげんにしてください。
特にNobanbaさんと雪椿姫さんなど文章の含蓄がある人に聞きたいと思って書く。
↓この記事なのだが…この文章で使われてる構成の技法がわかるかしら?
http://d.hatena.ne.jp/TM2501/20121110/1352537384
アカデミックの名前がわからないけど、上記の文章は僕が伝統的に7・8年前から使う最も古典的にして、僕らしい文章技術です。僕は「縄」とか呼んでる技法で、一つの話をするためにいくつもの例え話や実話を絡めながら、積み重ねてコンセプトを強調する技法を僕はそう呼んでいます。
…が、この文で使った技法をはてなの読者がただの散文にしか見えないようです。
この記事ではエロと野球と努力のプロセスの話を並行させてその場その場で言いたいことを噛み砕いて説明してくれるお話を出しています。一本の縄、を作るためにそれを豊かな味わいにするために、別の話(に見える関連性の高い話)を同時進行で喩え話として持ってくる。
(もうちょいざっくり説明するか)
「才能」の話だけだと「才能とは個人技や先天性のものではなく、むしろ続けていくための努力そのもの…批判に耐える精神力のことを言う」だけで終わっちゃう。
だけど、それだけだと「うん、そうだね」で終わっちゃうし、わかりにくいから野球の話を絡める。なぜ、努力そのものか…それはプロ野球選手おのものがオールスターで地元で、その世代でブイブイ言わせたプロ集団だから。なぜ、精神的耐性が必要なのか?それは、プロ同士が平然とやっている野球は素人には到底及ばない高度な技術の結晶体で、素人は打席にすら立てないほどだから。
…だけど、これを一度だけ言っただけでは面白みに欠けるし、強調技法としても弱い。そこで意外性のもう一手(初めのエロ)の話を違うようでいて同じ話で言い換えて強調する。
『要するに表現とはオナニーで、評価・貨幣化とは射精だ。何度もやりたがる女の子は期待するファンであり、商売というのはヤリたいときにやる事ではなく、女の子が期待し続ける限り、期待に応えることだ。』
…3種類の言い換えを違う話のように上塗りして強調することで、メッセージ性をより深く頭にすり込む。(その上で全く同じことの言い換えではなく、言いたいことを狭く指し示す言葉を最後においていくことがポイント。)
これを順番を変えながら、同じ話を違う例え話・アプローチでする。…まるっきり違う話をしているようで居て、同じ話なんです。これが文章というエンタメの本質だと思うんです。(それを2~5種類絡める技を僕は「縄」と呼んで、高校時代から使ってます。)
例えば…みんなで同じものを食べたとしよう。
Aさん「おいしい!」
Cさん「えびもいいけど、えびのだしの染みこんだこのご飯が美味しい」
Dさん「大きなエビ、スパイスで黄色く染まったご飯、それにトマト…見た目も綺麗でしょ?」
Eさん「久々に五感で食事した。口に含むと塩気じゃなくて、えびの風味が鼻から突き抜けていく。」
…これ、家族で母が作ったパエリアを食べた時の会話です。文章書くヤツはAとBは使うな!使うぐらいなら、言葉なんか使わずに美味しそうに食べてろ!白々しいから。(まぁ、ABはオヤジなんだけどさ。)
『旅行を楽しむからには「疲れをとる」とか「新しいものを見るとか」じゃなくて、感覚的に新しいモノを持ち帰りたい。…そういう考えを僕は持つことが多い。そんなことを考えながら一人で被災地やら、神戸やらに遠出することもあるが、その必要はないのかもしれない。
例えば、私の母の料理は食卓にいながら、旅にでたような刺激的でいて、癒しをも与えてくれる豊かな表現力を持ち合わせている。とりわけ、私が子どものときからつくるパエリアの味は絶品で、食事とは旅…綺麗で、美味しく、いつもと違う空気が味わえる。そんな行為だと教えられるのだ。』
3種類混ぜると…パエリア・旅行・エロでできなくもないんだけど…俺以外のコメントが10埋まったらやります(笑)
僕はイケメンじゃないけどさ、女の子をアクロバティックに褒められる人だとは思ってますよ。その表現力だったら、紙媒体だろうが、生身だろうが、僕に勝てる人はそんなにいないと思ってます(笑)だから、多少は信用があるかなぁ・・・と。
262 ソーゾー君 [] 2012/10/04(木) 19:11:13 ID:wa/cAKko Be:
別件逮捕で加害者がうっかりゲロって末端警察官に知られてやむなく逮捕だろ?
良く有ることだよ・・大津のいじめもこの伝統を脈々と受け継いだ当たり前の殺人事件。
秋葉原無差別殺人なんか捕まった犯人とされた奴は犯人でもなんでもない奴だからな・・
十人を一人で返り血を浴びずにあの僅な時間で刺せるわけがない・・
捕まった犯人とされる奴は白い服着た黒髪の優男だぞ?
現行犯逮捕された時、その白い服には血が一滴もついてなかったぜ?
犯人じゃない人が犯人にされ真犯人は悠々自適な生活をエンジョイ出来る・・
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1341436809/l50
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1343051395/
お約束の如くグチャグチャとなったコメント欄を含め、ざっとまとめてみた。
【前提】
【推論】
推論のうち、どれかひとつだけで説明できる、というものではないだろう。後藤寿庵氏ほか「表現の自由」を守るためオタクには左翼政党を支持してもらいたい、と考える人は、これら複数を同時に対策していかねばならない、と思う。
主体出版(しゅたいしゅっぱん/チュチェチュルパン)は楽天株式会社(楽天)で行われている主体思想に基づいて電子書籍流通を目指す出版法。
元来楽天はインターネットの総合サービスでネットショップモールとして開発が進められていた。そのため、ここに買収されたカナダkobo社による電子デバイスの発売が課題となり、三木谷浩史の指導によって進められた。
しかしその実態は、観念的発行点数に疑念を持たずに三木谷浩史の指導に服従し、精神論のみでやり抜く事を要求するというもので、伝統的書籍販売も科学的知識に基づく電子書籍もまったく無視しているため失敗し、楽天の電子書籍事業とそれを背後で支えるkobo開発部隊が破壊され、かえって収益減をもたらしたと言われる。程度こそ違うものの、ソニーやシャープもかつて同じような事を行い(ソニーの場合はリブリエを、シャープでは岡田圭子の指導やガラパゴスの顛末を参照)、大失敗している。しかし対外的には「大成功だった」と喧伝されたため、過去の過ちから学ぶことなく、楽天も同じ間違いを繰り返す事になった。
例を挙げれば、「コンテンツが足りないならギター譜を書籍に変えればよい」とする単純な理論を振りかざし、アディインターナショナルと契約してギター譜や1枚写真集を造ることになったのだが、三木谷浩史が実体のないコンテンツ水増しを指示したがためにコンテンツの種類が増えれば増えるほどkoboの評判は崩壊したという話がある。このような強引な出版によりkoboマーケットはゴミコンテンツの掃き溜めとなり、ゴミコンテンツがリストに溢れて、ひいては検索が困難となる原因となった。ISBNにおいては無断割り当てを引き起こし、国際管理番号という目的に反し独自コード、ひいては商品番号への変更を招くこととなった。またwikipediaの規約違反で著者情報にDRMがかけられ、謝罪もなくDRMが外されてしまったため企業モラルまで不振に陥ることとなってしまった。
また、wikipediaの著者情報書籍化やギター譜や1枚写真集における常識外れと言える水増しを指導したために、一時的に発行点数は上昇したもののユーザーの批判によってkoboの評判が崩壊し、また青空文庫の無断使用によるコンテンツの供与が絶えたこともあり、多くコンテンツが形骸化と呼んでも差し支えないほどの惨状を呈している。しかし、勝手に出版物の内容を改善したりすれば命令に服従しなかったと言う理由で処罰される可能性が大きく、また当然ながら最高指導者に意見できるわけもなく、この惨状はある意味放置されている。
このような惨状に対し、官僚たちはユーザーレビューを政策の失敗をごまかす材料に利用して、各社からのコンテンツの支援を仰ごうとしており、三木谷に至っては「細かいことで騒いでいるのは少数派ですよ」とマスコミに嘘の宣伝をし、それを聞いたユーザーも、本当の原因を言わずに会社のためと納得した(していない)。
ちょっとショックな結果だ。「自分の国をかっこいい」と思う小学生は、わずか15%。同じことを日本に住む外国人の小学生に聞けば、こちらは3倍の46%だった。
お正月ニッポンプロジェクトの「自分の国の文化に関する意識調査」の集計である。
産経新聞かと思ったらゲンダイかよ。1/3なら十分じゃないかな。
111 : ベンガル(兵庫県) [sage] 2012/10/21(日) 16:44:18.16 ID:UGaXD11C0
それでも大人になれば朝鮮人に産まれなくて本当によかったって思う。
http://blog.livedoor.jp/beelzeboulxxx/archives/19200976.html
これは真面目な推測じゃなくてただの妄想で、すごく脇が甘い文章だけど、
たとえばかつて、50年後100年後を、「人類が宇宙に飛び立つ!」とか
「離れたところにいる人と会話ができるようになる!」とか、
「車は透明なチューブでできた道路を飛んで走るようになる!」って妄想していたくらいの
リアリティと面白さがあると(個人的には…)思うので、公開してみる。
今、この日本という国で、幸せに生きられるか? は、どんな会社に入るかが大きいように思えるのだ。
ホワイト企業だったら、お金があって、時間があって、豊かな生活。
就職できなかったら、フリーターだったら、ノマドワーカーだったら……
そしてそれは、どこに雇われているか(あるいは自営か、非正規雇用か、無職か)で大きく決まる。
そしてこのことは世界的な流れだ。googleに努めている人はどこの国に居てもgoogleの人だ。
グローバルな企業にとって、本社なんてただ法人税が安いところに置くものだし、人手が欲しいなら人件費が安いところで作業をするだけ。
この傾向がもっともっと続いたら、福利厚生や豊かさを決めるのは「どこの国に生まれたか」なんかじゃなくなるのだろう。
国境の意味なんてなくなって、かわりに会社名の肩書きが文化や伝統の土壌になるのかもしれない。
もうひとつの鍵は電子マネーだ。suicaでもワオンでもTポイントでもなんでもいいけど、
1ポイント1円だったりするアレ。現金をチャージしてピピっと使うアレ。
でも「ポイント」と「円」はイコールではない。イコールだったら、何かのキャンペーンで「500ポイントプレゼント!」なんて、日本円の発行は一企業にできない。
何が違うのかといえば、「何と交換できるか?」つまり「何が買えるか?」だ。
プリペイドポイントは、そのお店でしか使えないから、そのお店の判断で発行できる。
日本円は、日本のものならなんでも使えるから、発行は日本の判断が必要だ。
でも、たとえばsuicaにチャージしたお金はいろんなコンビニで使える。
今はまるで始皇帝以前の轍の幅がばらばらだったみたいに、いろんなウェブマネーがあるけど、
やがていくつかの「大国」が生まれるのかなぁ、みたいな気もしている。
それで、いつかみんな、キャッシュなんてものは使わなくなってさ。
あの企業のひとがもってるカードのポイントは、おにぎりが100ポイントで買えるけど、
おれのカードだとおにぎり75ポイントなんだぜ、みたいな自体が、
こんなことを思った最初のきっかけは、去年の6月のこのニュースだった。
「インドの村が名前をSnapdeal.comに変えた, それはどこかのいい加減なマーケティング努力ではなく」
何人もの人がきっと、ここに書いたよりももっと含蓄のある、「企業って何? 自治体って何?」っていう話ができるんだろうと思って紹介する。
ちなみに、この話を経済学部の友達にしたら、関税だとか法律だとか税金だとか、そこらへんの制約で国が優位な決まりになってるとかなんとかで、無理だって一蹴されました。
262 ソーゾー君 [] 2012/10/04(木) 19:11:13 ID:wa/cAKko Be:
別件逮捕で加害者がうっかりゲロって末端警察官に知られてやむなく逮捕だろ?
良く有ることだよ・・大津のいじめもこの伝統を脈々と受け継いだ当たり前の殺人事件。
秋葉原無差別殺人なんか捕まった犯人とされた奴は犯人でもなんでもない奴だからな・・
十人を一人で返り血を浴びずにあの僅な時間で刺せるわけがない・・
捕まった犯人とされる奴は白い服着た黒髪の優男だぞ?
現行犯逮捕された時、その白い服には血が一滴もついてなかったぜ?
犯人じゃない人が犯人にされ真犯人は悠々自適な生活をエンジョイ出来る・・
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1341367879/
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1341436809/l50
昨日外国人力士がいる相撲部屋の様子がTVで紹介されてたんだけど、すげえブラックなのな。
まあ相撲部屋なんて日本でも数少ない超閉鎖的日本社会で特殊で例外ではあるけど、それにしても軟弱メンタルとしては怖かったわ。
「怒られたらまず「すみません」や。お前の講釈なんか聞きたくないわ」
「体調悪い?アホかしんどい時こそ頑張らなあかんやろ。しんどいからって手抜くなや」
勝負に勝つ事が目的なんだから、親方=コーチのいうことが理不尽なら反論も自由だと思うし
大事な試合の前に怪我をしないように体調整えるのは合理的な判断だよな……。相撲だってスポーツの世界には変わりないと思うんだよ。
無理してメンタルや身体やられて力出せないのは甘えとか弱さとかの世界だよな。おお怖い。軟弱メンタルとしては見てるだけで冷や汗な気分になった。
なんかその外国人力士が気の毒で仕方なかった。覚悟の上だろうけど。こんな日本の悪しき風習で苦労させてしまってすみませんって感じだった。
あとコメンテーターが横綱は日本人でないと嫌だけど若者は相撲やりたがらねえからな…って言ってたけど、たとえばテニスとかバスケみたいに、世界中にプレイヤーいてトップを世界で争うみたいな、そういう広がり方したほうが個人的にはいい広がり方だと思た。
確かに今の左翼の立場は微妙だけど、社会の仕組みは左翼によって変えられてきたわけで。
それは右翼左翼の語源となったフランス革命時代の国民議会の頃からずっとそう。
もちろん左翼が国家の中枢を牛耳ってた旧ソ連のあまりにもあまりな末路を見ると、左翼だけで世の中が回らないのは御存知の通り。
左翼や革新のスタンスだと新しい情報は徹底的に重視するけど(情報公開をしきりに求めるのは左翼のスタンス)、反面過去の蓄積やら伝統やらは一顧だにしないので(そして右翼はこちらを大事にする)、結果的に人間の自然な感情が蔑ろにされやすい点はあまり現実的じゃないと思う。
一方で右翼や保守のスタンスだけでは、温故知新といえば聞こえはいいけど「今のままではダメだ、変えて行かないと」という力学が弱いので、往々にして個人の情に流されて万事なあなあの右へ倣えとなりがちで、社会が停滞してしまう(伝統を重んじ権威を立てればいいだけだったら社会を進歩させる必要性は薄いし)。
強いて言うなら右翼も左翼も、どっちも大事だし、その綱引きで回っていくのが健全なんだろう。
はたしてアニメ『メダロット』のアリカは47話でイケメンにNTRれたのか?
このエピソードのことを思い出せるメダロット元視聴者も今やごくわずかだろう。
主人公イッキ君の幼馴染ヒロインを出ずっぱりでやっていたアリカが、ぽっとでのイケメンにお熱を上げて良い仲になってしまうというあれだ。
だがニコニコ動画のフルアニMAXにて現在メダロットの配信が行われており、
折しもフルアニMAX閉鎖前のすべり込み一挙配信のあおりを受け、同話の放映が目前に迫っている。
このアリカの恋愛ストーリーのトラウマを思い出す大きいお友達や、初めて見て動揺する新規視聴者が現れることは必定である。
そこで新たな視点を導入して、少しでもショックを和らげておきたい。ビッチなどと罵り始める輩が出始めるのは目にみえていることだし。
さて問題の47話。この話では敵情視察へ赴いたアリカ記者とアイスランド代表のイケメン選手との心のふれあい(と共に体の触れ合いも)が描かれる。
イッキに一切のデレを見せなかったあの男勝りのアリカが、イケメン君には真っ赤に惚れ上がり女の顔を見せ、ついには彼を想っての泣き顔さえ披露するのだ。
自分を助けたせいで彼が体調を崩し翌日の試合に差し障りが出そうだと知るや、甲斐甲斐しく彼のために駆けずり回る。
だが試合延期の願いは叶わず、最後には彼の胸に顔をうずめて泣いてしまう。結局イケメン君は対戦相手の世界チャンピオンに敗れてしまった。
これがアリカとイケメン君のお話である。イケメン君の方にアリカの心が傾いたという見方が出るのは当然であり、それも間違いとはいえない。
だがこうは言えないだろうか。
ゲストのイケメン君との恋愛は「主人公とヒロインの恋愛ごっこはやらない」という男児向け販促アニメの伝統的哲学の下で、
アリカのイッキへの想いを最大限表現するための工夫だったのではないかと。
続く48話では、決勝戦前夜に自室でイケメン君の写真とイッキ・メタビーの写真を両手に持ち「みんな頑張って」と意味深な表情でアリカが言うシーンがある。
あれだけホの字だったイケメン君とイッキ君が同格に並べられているのだ。
そもそもアリカがイッキを好きなのかはそれまでは劇中で明確に描写されることはなく、
天然ヒロインのカリンに熱を上げるギャグ顔イッキを呆れた目でみたり、私も女扱いしろと突っ込みを入れたことがあるくらいであり、
それだけで嫉妬や好意といえる描写はなかった。
エンディングで流れるアリカのキャラソンの歌詞に「イッキにトキメいてる」という一節があり、これからアリカの本心を推察するということぐらいしかできなかった。
(あるいは他のメディアミックス作品の設定から勝手に補完するといった形)
だが48話にて、イッキが一連のエピソードを通して「好き」になったイケメン君と同じか、それ以上の地位を占めていたことが明らかになる。
劇中にて初めてアリカのイッキへの好意が明らかにされた瞬間である。そして終わりにエンディグテーマの「やっぱり君が好き」が流れる。
そう、実はイケメン君はアリカの可愛い表情を引き出すための駒に過ぎなかったということが明らかにされるわけである(以降はアリカとの絡みなし)。
先に述べたように、主人公は男児の感情移入先であるがゆえにヒロインのラブコメはご法度、というのが販促アニメの原則。
この原則のためにイッキへの好意をこんな迂遠な形で示すほかなかったのだ。
(そもそも40話以降の世界大会編はもともと制作される予定ではなかったという(好評のため延長)。だからあえて好いたの惚れたのをほのめかす話をいれることも可能だったのだろう)
余談だが、最近の男児向け販促アニメには萌えアニメの女キャラみたいなのがヒロインとして登場し、主人公にあからさまな好意を示すことも珍しくないそうだ。
「天皇が権威を司り、政治的実権は将軍なり首相なりが握る」という
「権威を司る天皇に、過度に政治的マターにタッチさせてはいけない」の論理が働く。
しかし、「権威と権力の分離」、或いは「立憲君主制」は、アジア的には少数派である。
ヨーロッパは永年の争いの上で、立憲君主制な国家のみが王室を維持できているが、
ドイツでは絶対王権が戦争を指揮し、その結果ウィルヘルム2世は退位に追い込まれた。
比較的政治にタッチしていなかったイタリア王室ですら、退位を余儀なくされた。
フランスは言うまでもない。
結局、立憲君主制がうまく行ったのは、イギリスや北欧程度でしかなく、
アジアを眺めても、比較的「立憲君主的」と見なされているタイ王室も、
立憲君主的だったネパールは王室親政に転じた結果、逆に王室廃止に追い込まれた。
日本とイギリス程度であり、全世界的には「君主制は失敗しやすい」というのが
「立憲君主政体」を経験せず、「絶対王政」と「共和制」しか経験していない。
そういう国民が、「立憲君主制を肌感覚で理解する」ことは、至難の技だ。
国民感覚として「なぜ君主が政治的に責任を取らないのか?責任を取れないのか?」と
感じても、不思議ではない。
日本学生が韓国学生に「なぜ日本には天皇がいるのに首相もいるのか?」と聞かれ、
返答に窮した、というエピソードがあるらしい。
「民主主義と君主制は両立できる」と考える韓国人の方が少数派で、
「君主制というからには、相当程度、政治的権能を有していないと不自然」と考える韓国人の方が、
多数派ではないか?
また、韓国で「権威」と「権力」が未分化なのは、元大統領の処遇を見てもわかる。
日本なら「元首相」は権力は少なくても、「権威」として遇されるが、
韓国では元大統領は「権力」も「権威」もない。だから末路は悲惨である。
ということで、
一歩引いて
「まずどうやって韓国の人たちに天皇制、立憲君主制を理解させられるのか?」を
考えた方がいい。
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。