はてなキーワード: 新橋演舞場とは
単なるアイドル事務所の枠をいつの間にか超えていて、すごいことになってるよね?
NHKだと紅白やうたこん、Venue101は言うに及ばず、大河の主役もあれば『少年倶楽部』なんて、ジャニーズにスポットあてた番組もあれば、Eテレで中高生もその父母をターゲットにした『バリューの真実』なんて番組も、MCはジャニーズのグループだ。
東京でオリンピックやれば当然、嵐がテーマ曲うたって番組の司会。
民放のテレビは言うまでもなく、なぜかニュース番組でしたり顔で語っているのも何人も。
クイズ番組でも最近は、そこそこの大学や大学院いってるインテリジャニーズ枠がたいていはいってるし。情報系バラエティは風間俊介入れときゃなんとかなるみたいになってる。
舞台の世界に目を向けると、帝国劇場、新橋演舞場、東京グローブ座、大阪松竹座あたりは、もうジャニーズの集客力を切ったら、経営にそこそこ悪影響出ると思う。
ここ10年くらい、日本の伝統美を取り入れた舞台で、一番若い人に影響力を持ってたのは『滝沢歌舞伎』とか『滝沢演舞城』だと思う。
そういえば今年の新橋演舞場の新春公演では、海老蔵じゃなかった團十郎白猿がジャニーズの子を共演させて普段歌舞伎なんて見ない若い客を引っ張ってた。
帝国劇場もすっかり、年始の公演はジャニーズが定番になってしまったし、今、日本で“単独主演ミュージカル公演”の公園回数記録を持ってるのは、堂本光一だ。かつては森繁久彌(屋根の上のバイオリン弾き)とか先代の松本幸四郎(ラ・マンチャの男)とかが競っていた記録だが。
なんでこうなった?
SMAPを、“バラエティもこなせるスーパーアイドル”としてもてはやしすぎたから? さらにそれに続いて、櫻井翔に“ニュースも読めるアイドル”なんてカテゴリーを作らせてしまったから?
欧州のオペラやバレエや演劇のように、きちっと歌ったり踊ったり演じたりする人を育てて供給して保護する仕組みがないから?
日本だと結局、宝塚かジャニーズか、国立劇場の歌舞伎の養成所くらいしか、そういうのちゃんとやって来なかったっぽいよね。
いや、これたけでっかくなって閉まった権益を壊すのって、そりゃ大変ですわ。
目黒蓮、いまドラマや映画に引っ張りだこのアイドル。ジャニーズ事務所、Snow Manのメンバー。身長185センチの25歳。
話題のドラマ「silent」に出演していて、ご多分に漏れず私も見ている。
作品自体、本当によく出来ていて、脚本演出ともに素晴らしいこと限りなしだが、それは今回は置いといて、目黒蓮がまじですごい。
本題に入る前に、まず、目黒蓮が「めぐ」だった時代を振り返りたい。
そんなん知っとるわい、と思った同志は読み飛ばしてくれたまえ。(でも、もし読んでくれて、間違っとるぞと思ったら優しく指摘してくださいまし)
目黒蓮がオタクから「めぐ」と呼ばれていたとき、私は目黒蓮のことをよく知らなかった。なぜなら「ザ少年倶楽部」に出ない方のジャニーズJr.だったからだ。
「ザ少年倶楽部」という、ほんのり犯罪の香りを伴う響きにドン引きした人へ向けて、簡単に説明させていただくと、これはNHKのBSで長らく放送されている、ジャニーズJr.がわんさかでてきて歌ったり踊ったり喋ったりする番組だ。通称、少クラ。
この世のJr.オタクは、ほとんど全員見ているといっても過言ではない。この番組さえ見ていれば、その時期のジャニーズJr.の情勢がわかる。事実、私はコンサートや舞台に足繁く通うような熱心なオタクではないが、少クラを見ているおかげで大体のジャニーズJr.の話題についていくことができる。
逆に、少クラを見てないオタクは、BSが映らないなど物理的に見ることができないケースが多い。
そうでなければ、「少クラに出ない方のJr.」を応援している可能性が高い。
「少クラに出ない方のJr.」と一言でいっても、ただ単に人気がない、という話でもない。この辺りのことを説明すると長くなるので端折るが、オタク内での知名度は高いが少クラには出ない、というJr.もいる。
例えば「何かのコンサートや舞台を観に行くと、ステージの端っこの方によくいる、名前はしょっちゅう見るけど詳しくは知らない、でかくてあまり事務所から推されてないJr.」というのが、いつの時代にも存在する。
目黒蓮は、まさにそういうJr.だったと思う。その頃、目黒蓮は「めぐ」と呼ばれていた、と思う。
目黒蓮のことを初めてしっかり認識したのは「宇宙Six」というユニットが結成されたときだ、というオタクも多いだろう。少なくとも私はそうだった、同志たちよ。
このユニットの成り立ちや行く末を説明するとこれも長くなるので端折るが、ゆるくJr.をウォッチングしていた私は「おお、目黒蓮ってこういう顔してたのか」と思ったのを覚えている。
しかし「宇宙Six」は少クラに出ない方のJr.なので、Jr.ファンであっても、コンサートや舞台へ行かないと目にする機会は少なかったと思う。
ともあれその頃もまだ、目黒蓮は「めぐ」だったような気がする。
「めめ」と呼ばれるのを頻繁に聞くようになったのがいつごろだったのか、具体的にはよく覚えていないのだが、気がついたときには「めめ」というワードを見聞きすることが増えた(今調べたら、某Jr.が名付け親だという情報を得た。知らなかった)。
しかし、なんとなく、ゆるJr.ウォッチャーの私の実感としては、2019年1月に彼がラウール&向井康二と共にSnow Manに加入した折、「えっ、めめが!?」よりも「えっ、目黒が!?」という反応の方が多かったような気がする。
私から見えるところにいるオタクたちがただ単に「めめ」呼びしてなかっただけなのかもだが…、ただ確かに言えるのは、ライトなジャニーズファンの知り合いからは「目黒蓮って誰!? 宇宙なんとかにいる子でしょ? なんでそんな子が?」的な話題を振られることが多かった…いや、というよりもむしろ「ラウールってマジで誰!?」「ジーコ(康二のあだ名)、関西で頑張ってたのにかわいそう!」「今までSnow Manは6人でやってきたのに急にメンバーが追加されるなんて、かわいそう!」「事務所さすがにひどい!」みたいなムードだったと記憶している。
つまり、ぶっちゃけ目黒どころの騒ぎではなかった。※おそらく目黒のSnow Man加入で一番ざわついていたのは宇宙Sixのファンだったはずだ。
話は逸れるが、いまやトレンド最前線を駆け抜け、ジュエリーブランドのアンバサダーさえ務めるSnow Manだが、目黒蓮およびラウール、向井康二が加入する前の、6人時代は、そこそこ地味な活動を長く続けていたと思う。
個人的な話になるが、私には姉がおり、彼女は典型的な同担拒否(初めて聞いた人はググってください)、そして担当が売れてくると担降り(これもググってくれ)するような、ややめんどくさいオタクだ。そんな、息をするように応援しては下りるをここ15年ほど繰り返してきた彼女が、唯一タレントが売れないうちに担降りしたのがSnow Manだった。当時を知るオタクは、この説明でなんとなく「あー笑」と思ってくれるはずだ。ぜひこのニュアンスが伝わってほしい…。
真面目に先輩のバックや舞台経験などの下積みを重ねながらもパッとしない、いまいち人気が出ない、だけどコンサートや舞台に足を運ぶJr.ファンからの信頼は厚い、というのが当時のSnow Manのイメージだったように思う。そんな状態だったところに、言ったら悪いがある種テコ入れ的に投入されたのが、先に述べた加入メンバー3人だった。
今となっては、ラウールも向井康二も、そしてもちろん目黒蓮もSnow Manになくてはならない重要な人材だが、加入当初はかなりの拒否反応を示すファンも多かったと記憶している。
しかしその後、Snow Manは9人で着々と人気をつけていった。それと同時に目黒も、「あのテクノカットの人」として、頭角を表し出した。
気がついた時には「めぐ」と呼ぶオタクは超少数派で、ほとんどが「めめ」呼びに入れ替わった。「目黒にハマりそうでヤバい」状態を一言で表現する「今、恵比寿」(目黒の一駅手前)という流行語も発生したほどに、存在感を増していった。
そんな目黒であるが、今回の「silent」で何がすごいのか、という本題にようやく入る。
以前にもドラマの役作りでテクノカットをやめていたはずなのに、なぜか今作の目黒を観ていると、「テクノカットのめめ」になる前の、「素朴なめぐ」だった時の彼が、色濃く思い出されるのである。
もちろん「めぐ」時代を否定したい気持ちはこれまで一切ないが、なんとなく「めぐ」時代の目黒のことを思い出して語るのは野暮だぜ、と感じていたところが、私にはあるのだ。
「端っこにいる、名前と見た目しかわからないJr.」だと思っていたはずの「めぐ」が。
テクノカットになる前の垢抜けないJr.だったはずの「めぐ」が。
帝国劇場や、新橋演舞場、ツアーバックでチラリと視界に入り込んでくるだけだったはずの「めぐ」が。
世間に受け入れられ、いつの間にかかっこいい若手ジャニーズの代表格へとのぼりつめた、どこか違う人になってしまったように思えていた目黒蓮が。
「silent」で演じる佐倉想という役を通じて、なぜだかわからないが、「目黒蓮」というアイドルとしてのこれまでの同一性を強く感じずにいられないのである。
あぁ、目黒蓮ってめぐだった!
そんなふうに、「テクノカットのめめ」「Snow Manのめめ」になる前の、めぐだった頃の目黒を愛しく思う日が来るとは思っていなかった。
売れてからのファンだけでなく、以前から知ってただけのゆるいオタクすらグッと引き込んで納得させる、そんな底力を、「silent」の目黒蓮から感じて仕方ないのである。
OSK日本歌劇団のレビュー「春のおどり」を見てきた。こういうの。 https://enterminal.jp/2022/03/osk100th-harunoodori-tokyo/
かげきしょうじょとかスタァライトとかでアニメでも宝塚っぽいのが最近よく出てくるから、ここらで一丁レビューってのはどんなものなのか見ておくのも悪くないかなという気持ちで見に行った。なお自分は、かげきしょうじょもスタァライトも序盤だけ見て合わないなと思って投げた。
OSKの存在自体よく知らなくって、宝塚以外のなにかが存在するらしいというのだけはうっすら知っていた程度。今年創立100周年らしい。調べてみるとだいぶ紆余曲折というか艱難辛苦を乗り越えてきていて、一度は完全に潰れたりもしていた模様。そもそも少女(女性)歌劇というジャンル自体が絶滅危惧種で、宝塚は相当に特殊な事例らしい。
今回の場所は新橋演舞場。ここは銀橋はもちろんないけれど、その代わりちゃんとした花道のある舞台。花道あるなぁと思っていたらレビューでガンガン花道活用しててびっくりした。渡辺さらさはこっちに来ればよかったのでは。
レビューは2部構成で、前半が和風、後半が洋風になっていて、特に前半の和風レビューは印象が鮮烈。日本舞踊から始まって吉原を舞台に歌舞伎の名場面をモチーフにした殺陣。集団での群舞と続く。舞台も衣装も歌舞伎のようなしつらえなのに、かかってる音楽はわりとロックで、しかも当然全員女性。なんだかとても不思議なものを見ている気がして面白かった。花道ではしごを二つ組んで脚立状にして、その上に登って見得を切るのとか派手で良かったし、途中で「しゃらくせえ」が口癖の写楽が出てくるのだけれど、そのあたりはちょっとストーリー仕立てになっていて飽きさせない工夫を感じた。
個人的には踊りだけをずっと見続けるのはちょっと飽きるので、多少お芝居的な要素がある方が好きだなと思う。後半はほぼ踊りだけだったので、少し退屈さも感じてしまった。
お客さんはわりとご高齢の女性が多い印象。ただこれは行ったのが平日だったからかも。あとは本拠地が関西だから、そっちではもっと若いお客さんも多いのかも知れない。
100周年のチラシで昔の写真見ると、若い子をたくさん並べて当時にしては露出多めな感じのショーも見せるような雰囲気もあって、昔はちょっと前のAKB(ポニーテルとシュシュとか、ヘビーローテーションとか、下着みたいな衣装でMV作ってた頃)みたいな雰囲気だったのかも。実際、浅草に本拠があったSKDなんかはセクシー路線に傾倒した結果、女性人気が獲得できずに解散したってウィキペディアには書いてあったりしたし(youtubeで探してみると、こんな感じ https://www.youtube.com/watch?v=-kfAuAzmG_Q)。ラインダンスは今回もやっていたけれども、あれって本当に今でもやる意味があるものなのだろうかとも思ったりした。まあ、バニーガールっぽい衣装で踊る人たちは迫力があって、それはそれでよかったとは思う。
もともとが1941年のブロードウェイ演劇作品。ニューヨークのブルックリンを舞台に、冒頭ではヨーロッパで戦争が始まったけどアメリカは平和でいいわねえという、奇しくも時事性が出てしまった感じの会話で幕が開く。1幕目は「ハリーの災難」のような死体隠匿をめぐるお話が中心。2幕目になってからは主に殺人鬼の兄の処遇をめぐるお話……でいいのかなあれは。
ブラックコメディだの安楽死だのという触れ込みだから、なんかそういう社会派な中身なのかしらと思ったら、どうも本来はパルプ・フィクション的なゴシックホラーのパロディ作品だったっぽい雰囲気がある。フランケンシュタインとアインシュタインのコンビとかいうどうしようもないダジャレも出てきたりするし。作品のタイプとしてはラヴクラフトの「故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実」あたりが近いだろうか。主人公が自らの家族の秘密を知ることで、自分も呪われた血族の一員であることを知ってしまい絶望するが実は……というあらすじ。アメリカらしいピューリタン的な価値観が色濃く残る社会での実は私生児だったぜヤッホーというオチは「緋文字」とかあのへんのパロディとして見てもだいぶ面白い。というかお前牧師の娘と結婚しようとしてるのに私生児で大丈夫か?
ただまあそのへんのアメリカ文学的な骨組みはコメディとしての演出で追加されたドタバタ劇でうまいことカモフラージュされてる感じがなくもない。まあ、呪われた血族ネタは今となってはクリティカルにポリティカルコレクト案件だし、作品の賞味期限的にも相当ギリギリな感じもするからね。精神病院収監オチなんて今時バットマンじゃないと許されないのでは(偏見)。
コメディとして見た場合、流石に古い作品だけあって笑いのテンポがのんびりしている感じがあるが、そこはまあ演出と俳優の力で追加されたドタバタ劇でだいぶ補強されている。まあ観客の大半はこっちを期待して見に来ているようなものだろうし。自分もまさかアメリカンゴシックホラー的なものが見られるとは思っていなかった。
2幕目で劇作家を目指すアルバイトの警官がメドレー一人芝居を披露する場面があるのだけれど、これがなかなかに見事。瞼の母から、こいつは春から縁起がいいわえで三人吉三、平手がどうとか言っていたからたぶん天保水滸伝、それとおそらく一本刀土俵入りと続けざま。演じているのはの嘉島典俊という人。ぐぐったら歌舞伎の経験も大衆演劇の経験もある人らしい。新橋演舞場という和風な舞台を生かした実にいいものだった。
「ぼけ酒」というのがキーアイテムとして出てくるのだけれど、飲むとボケるとかそういうのではなくて、梅酒の要領で木瓜の実を漬けた果実酒のことらしい。子供の頃によく飲んでいたというセリフがちょいちょいあって、そういやうちの親も梅酒を水でうすめたやつを昔はみんなジュース代わりに飲んでたと言ってたっけなあと思ったり。
キモオタでもないし、女なんだけどね。
結婚する前、ジャニーズの練習場?みたいなところがあったとこの近くに住んでたんだけど、出待ちしてた人達の様子を見る限りじゃ、
あと、以前勤めていた会社が銀座にあったんだけど、新橋演舞場でジャニーズの誰かが興業やってる時、周辺がすごい異様なんだよね。
定期的に通院してる病院が秋葉原のはずれにあって、AKB劇場?の前を通るんだけど、あの感じとほぼ一緒に見えた。
新橋演舞場の周辺がおかしい、ジャニーズの興業があるんだ、って分かったのは、職場のオバハン(アラ50)が
そのオバハンの様子を見てても、性的にどうこうと思ってない顔をして、自分の息子ぐらいの年の男の子の
身体が薄っぺらいところが良いとか仕事中に話してて、心底キモイと思った。
タイトル見てお分かりかと思いますがこういうの嫌いな人は見なくていいです。予防線張ってるので察してください。ただ自分の中の胸糞悪い感情を吐き出したいだけです。
2016年から現場に通うようになったとあるJr.ユニットのファンです。DD気質なのでそのユニットに限らずあらゆる現場に「自分の名義で」当たれば行く、「友達に誘われたら」参戦できるというスタンスで応援しています。なのでどの現場も行けて2回が精一杯です。
応援しているユニットはドラマのメンバーで組まれた高身長から放つオーラが魅力のグループです。このグループにはある男性のファンがついています。どうやらその人は公演数が少なければ全ての公演にほぼ最前で参戦しているそうです。転売からチケットを買っているのでしょう。おじさんくらいの年齢であることからそこそこの値段でも出せるはずです。
転売はやってはいけないことだしやろうとも思いませんが同時に撲滅できるとも思っていません。
しかし彼らJr.がその人と公演の最中に絡むのはどうかと思っているのです。私が参戦した公演だけなのか全てにおいて絡んでいるのかは知りませんが、少なくとも私が参戦した公演では毎回絡みがあります。EXシアターの公演では運悪く遅番になったことしかなく、MCではモニターで彼らの姿を見るのがただでさえ精一杯です。それなのに「前の方にいる」「転売から買ったであろうチケットで入った」おじさんとの絡みなど不快でしかありません。そのために定価を払ったことが馬鹿馬鹿しく思えてきてしょうがないのです。自分が相手してもらえない嫉妬とかではなく、私はただ純粋に彼らだけのトークが見たいのです。
去年は耐えました。1年経てば色々変わるだろうと。その後2月に行われた新橋演舞場での公演はちょうど私の誕生日の日のチケットが当たりわくわくしながら入りました。そこで彼らは関西ジャニーズJr.とのコーナーに最前で参戦していたその男性を参加させたのです。一体何を見させられているんだと思いました。どんな素晴らしい演出パフォーマンスでも記憶が1番濃いのはそのシーンです。虚しくてしょうがありません。
もう一度言いますが撲滅はほぼ不可能であることは理解しています。しかし彼らがその人をいじるかどうかは判断できるだろうと思うのです。認知はしようともいじらなければいいだけの話です。そのことについてほとんど何も感じていない周りのファンに対しても憤りを感じることもあります。
今年のEXシアターでの公演ではカンペを出していたファンを注意していたとのレポがありました。しかし私が参戦した公演では例に漏れずおじさんとの絡みがありました。多くは注意喚起を賞賛していましたが私は疑問に思いました。転売に構っている自分たちのことは棚にあげているのか?と。本人たちが注意することでマナー違反はよくなるだろうし、いいことだとは思うのですが、まず自分たちがしていることを考えてから言ってほしいです。私がSixTONESのファンに向いてないのでしょうね。こういうことを許せる人が応援するグループなのかもしれません。1年越しの我慢が限界に達し担降りに王手がかかった夏でした。
以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、
文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。
産経の記事によれば、
橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。
記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。
公開されたメール記録から。池末浩規参与の3月24日付メール。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化・芸術に関する補助についての委員会(名称未定)により決定する。
③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。
ただし、同じく池末参与の6月5日付メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)
文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります。
文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。
→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。
そうなると若手育成も国では?
→本来はそういうことになります。
また若手育成について、国 と地方の役割はどうなのでしょうか?
→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪も奨励金を出す考え方もあるかもしれません。
市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。
文楽は伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実は文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。
文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。
そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。
こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。
例えば歌舞伎演目のコピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。
またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトにコンパクトにまとめられている。
その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家の人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。
昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場の舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。
この反響の大きさに驚いたのが、本家の文楽座である。人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹の大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲を担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである。
よく復曲といわれるが、昔通りの演奏曲復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七のコンビ、主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。
これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人、ハムレット、テンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書の福音書物語を文楽で、といった試みまである。
つまり、文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。
したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである。
しばしば、歌舞伎や落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。
まず、文楽は音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎の竹本葵大夫さんが軽く書いている。
人形芝居で創りだした演目も歌舞伎に流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中のお召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。
今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。
もちろん実力の裏付けがあってこそで、
ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎の演目に文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本が演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。
ということになる。
葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃は皇室と関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣いの吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年に松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき、松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。
繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。
しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか。
また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。
義太夫節の構造そのものは簡単で、決まったメロディーのパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。
ところがそう簡単にいかないのは、文楽の古典の場合、演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。
以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうものを継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。
やや話がずれたかもしれないが、たしかに落語や歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽の場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。
この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。
大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュース・マネジメントが必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。
ただし、それには一定の限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。
音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育がほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。
一定の限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。
つまり、観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。
私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目は文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。
そこで西洋音楽と比較した場合、文楽に匹敵するものはワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。
それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。
その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。
ただ、一方で、ヨーロッパのオペラにしろオーケストラにしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっともなのだ。
文楽に匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去の歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人がワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないからワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナーはドイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。
大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。
彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉だけが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。
ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術の価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)
現代の大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。
そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。
それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽は文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。
もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。
もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミングで文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財や世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか。
そして同様のことは、なぜ国が補助金を文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。
予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しかも大阪の場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄なプロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長は文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。
日本の偉大な芸術、しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本の市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。
(追記)
これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。
したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。
また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki
皆さん、入社おめでとう。
長期不況、就職難のこの時期に、世界最大の部数と、高度の評論・報道を誇る読売新聞に入社試験を突破して今日入社できた諸君は、きわめて優秀な知性、体力の持ち主だと信じる。
「ネット時代に新聞は生き残れない」との扇情的な言論が見られるが、生き残る力のない新聞とは何らかの経営者の失敗、紙面の偏向、一般社員の能力の低下、愛社心の欠如等によるものであって、それらは読売新聞には当てはまらない。
私が誇りに思うのは、読売新聞の論調が公正であり建設的であること、報道が迅速、正確で、今日の国家、社会、国際関係等からみて、いささかの偏向もないことである。
今はやりのネットの世界では、責任不明の発信者による無責任な言論、他人の名誉に対する棄損行為、流言飛語、わい雑で反社会的な情報の流布、思想体系のない断片的言説のツイッター等が氾濫しており、青少年の教育を害するポルノや出会い系サイトのようなものを規制することもできずにいる。
私は、新聞も本も読まず、ネットの世界にのみ侵入している若者は、将来日本を支える指導力、知性、生産力、倫理観等を身につけることができず、国民の文化や民度の劣化を招くものと心配している。
欧米の新聞と違い、日本の新聞は個別配達制という日本特有の販売、配達網があり、販売収入が安定している。それに比べ、欧米はもとより、新興国、途上国では個別配達網がないか、あっても脆弱なものであって、その収入の七、八割を広告収入に依存しているため、その経営力は不況に恐ろしく弱い。欧米の著名な新聞が次々に倒産しているのは、収入源の七、八割が広告収入であり、不況時には企業の広告出稿が大幅に減るためだ。
日本の新聞は、独自の個別配達網を維持し、正確性、公正性、一覧性、ニュースの重要度による多様な情報の有用な整理力による総覧性、可搬性、利便性、教養性等を維持する限り、衰亡することはない。むしろ、乱立し、無謀な競争をし、無責任な情報を発信するネット業界の将来の経営の方が危ぶまれる。
だが、読売新聞も、新しいメディアの世界を傍観しているのではない。YOLや「あらたにす」等を通じ、必要で有用な情報の発信手段は広げている。問題はそれが十分な利益をもたらすかどうかであって、本社の強力なメディア戦略局が日夜、研究、開発し、効率よく利益を得るような事業を展開している。しかし、我々にとってはあくまで新聞が主軸であり、ネットサービスは副業だ。
読売グループには、姉妹社に日本テレビ、子会社に巨人軍、中央公論新社等があり、この不況の中で、黒字経営を維持している。
今政界は指導力が低下し、与野党とも諸勢力が四分五裂している。その結果、経済不況に伴う失業や要介護者等に対するセーフティネットが構築されていない。政権党は大衆迎合のマニフェスト原理主義で、財源がなく投資乗数効果も低い、子ども手当のようなバラマキに没頭している。そのため予算の歳入は赤字国債が税収を上回り、国家財政は世界最悪の状態だ。
ただし、米国や南欧の財政危機と異なり、日本国債の九三%は日本国民が持っている。しかし、国債発行も限度を越えれば価格の暴落、金利の上昇、そして不況の一層の深刻化につながる。
私はその解決策を持っているが、部分的には社論でも報じ、時を見て全面的計画を発表する。
日本政治の劣化、それによる不況の深刻化を防ぐためには、新聞、特に読売新聞の論評、解説、報道により、政治そのものの質の向上、活性化を図るしかない。
読売はこれまでにも、憲法改正案、行革案、戦争責任の検証、社会保障と税制改革などについて、次々に建設的提案をしてきた。今は不況脱出のための財政、金融、産業政策についての提案に力を入れている。
最後に、読売新聞の将来について極めて重要な計画を申し上げる。
今朝の朝刊にも出ているように、新社屋の建設である。この大手町の本社は一九七一年に建てられ、築後約四十年となる。
その建設当時は、古い経営者の頭の固さもあって、一極集中印刷が最も効率的であると誤信し、しかも鉛と手拾いの活字による輪転機、印刷とその発送のための長方形と三方道路の立地にこだわり、九五台の輪転機を地下五階層にわたって並べることを理想としていた。
私や内山グループ本社社長は、印刷の電子化、発送、輸送の合理化、全国分散印刷体制を主張したが、まだ若かった我々の主張は頭の古い硬直化した経営者に押しきられてしまった。中でも内山社長は長文の全国分散印刷体制論を当時の社長以下に提出したが、却下されてしまった。
私は三年ほど前から、ひそかに大手町から輪転機を完全に移動し、IT時代にふさわしいシステムの配線やコンピューターの設置に適した新社屋の建設を検討してきた。
その結果、この大手町の社屋を壊し、その跡に、三○階建ての最新機能を備えた新ビルを建設することを決断し、一昨日の東京本社役員会で正式決定した。再建期間中、三年から四年は、銀座の新橋演舞場に面した旧日産本社ビルに借家する。この借家は、この本社より外見、内装とも立派だ。皆さんもいずれ新社屋が建設されれば、日本における情報・金融機関の中心である大手町を睥睨する新本社で、執務することになるだろう。
思い起こせば、大正末期以来、読売新聞社屋は受難の歴史だった。一九二三年、銀座三丁目に建設した新社屋は、披露パーティーを前にして関東大震災で完全に崩壊し、一九四五年には空襲で跡形もなく全焼した。
その間、朝日、毎日は大阪に本社を置いていたため、関東大震災の被害を受けなかったが、一七紙あった東京紙はほとんどなくなってしまった。大空襲でも朝日、毎日は戦火を免れた。
このような二度にわたる社屋崩壊にもかかわらず、新社屋の建設を続け、不死鳥のごとくよみがえり、一九七七年、務台社長のもとで発行部数が日本一となり、翌七八年には世界最大発行部数としてギネスブックに登録された。九一年に私が社長になり、それから間もなくの九四年、一○○○万部の世界最大部数を達成した。この時巨人軍も、日本一に輝いた。
創刊以来の苦難の中で、百三十年余にわたる先人たちの苦労の上、今や不滅の読売を象徴する超高層新社屋をこの大手町に建設することは、私の生涯の最後の使命である。このデフレによる営業収入減の中で無謀ではないか、との批判も出るかもしれないが、わが社の資産力、経営力からしてもいささかの不安もない。
もちろん、この大事業は私一人の力でできるわけではない。全役員及び社員諸君も、日常的な経費節減及び販売、広告収入の増強に向けて、全力をあげて協力していただきたいと思う。新聞窮乏化論のなかで、読売新聞の未来は限りなく輝かしいものだと確信する。
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。