はてなキーワード: 悪性リンパ腫とは
https://x.com/MNHR_Labo/status/1836151288830230774
今でもワクチン推進の医死や医我苦者は、屁理屈を並べて免疫抑制の存在を否定したがる。
mRNAワクチンに使われるシュードウリジンは、自然免疫においてRNAを樹状細胞が異物として認識する働きを抑制するため、mRNAワクチンの免疫原性を低下させる。
https://www.cosmobio.co.jp/product/detail/anti-pseudouridine-antibody-pgi.asp?entry_id=45673
免疫原性とは抗原が抗体の産生や細胞性免疫を誘導する性質のことだ。
細胞性免疫とは、B細胞が出す抗体が病原体を無力化する液性免疫と並び、抗体を産生するのではなく免疫細胞自体が直接異物を攻撃するタイプの免疫。
ワクチン推進派のサル共は、液性免疫による抗体のことばかりを言うが、液性免疫で対処できるのは細胞外に寄生する異物のみ。
液性免疫は、異物が細胞内に入ると認識できなくなる大きなデメリットが存在する。
そこで細胞内に寄生する異物に対処してくれるのが、細胞性免疫なのだが、mRNAワクチンに使われるシュードウリジンでは、細胞性免疫を抑制してしまうのだ。
「細菌、ウイルス、寄生虫、悪性リンパ腫」などの細胞内に寄生する異物に対して、シュードウリジンを使うなんてダメなことなんだよ。
https://www.macrophi.co.jp/special/1564/
最も変異が多く、変異の速度もスピーディーなSタンパクしか抗体ができない。
そして、不活化ワクチンでも同じだが、mRNAワクチンでは「目、鼻、口」の粘膜でウイルスの侵入を防ぐIgA抗体ができない。
https://www.otsuka.co.jp/men-eki/immunity/mucosal-immunity.html
最近、米国のクリーブランドクリニックが47561人の従業員を対象に、再びmRNAワクチンの感染率に関する調査を行ったが、やはり「打てば打つほど感染する」といった結果になった。
https://www.medrxiv.org/content/10.1101/2024.04.27.24306378v1.full
mRNAワクチンを打って、むしろ感染者が増えるのは当たり前の話。
タイトルを見た段階で「ゾッ」とした人は多いと思う。すみません。
しかしながら、わたしも文言を打ち込んで、改めて「ゾッ」とした。
この「ゾッ」という感覚にどうしようもなく支配され、打ちのめされていた時期を、わたしは忘れることができない。
「ゾッ」とした感覚を忘れることはできないが、今、わたしは精神的に健康に、明るく過ごせている。
今、わたしが精神的に健康で、明るく過ごすことができているのは九分九厘、飼い猫が元気に過ごしてくれているおかげである。
「飼い猫の断脚」から約四か月が経過し、現在の猫の様子も加味して、ようやく「飼い猫の断脚」に対する重圧が軽くなってきた。
そこで、「飼い猫の断脚」についてのあれこれ(事の顛末、断脚前後の猫の様子、それに伴う人間の情動の変化、現在の猫の様子など)を、ここに記しておく。
このような活動は、とてもじゃないが精神的な負荷が軽くなければできない。現在とても健康的に暮らしている飼い猫に感謝しながら、この日記を書きたいと思う。
今年十五歳になる飼い猫を、仮に「じじ」と呼ぶことにしよう。
じじは約三年前、様々な理由から実家で面倒を見る人間がいなくなった猫だった。そこで、引き取り手として名乗りを上げたのがわたしの家庭だった。
同居している家族や先住猫は、じじとは殆ど面識がなかった。だが、幸いにも我が家の住人とじじは打ち解けるのが早かった。
じじは我が家にやってきてすぐ、他の猫に交わってリビングの中央に横たわり、堂々と眠るようになった。その眠っている横を通りすがるとき、じじの頭をひと撫ですると、尻尾をぱたん、と床に打ち付けて返事をする。
人間に対しての愛想は良い。人間とのコミュニケーションを恐れず、友好的に人間に接する紳士的な態度は客人から気に入られることも多かった。
じじは十歳を過ぎたおじいちゃん、且つニューフェイスにして、瞬く間に我が家のアイドルとなった。
だが昨年、十年以上病気知らずのじじに変化が訪れた。
ある日、わたしがじじの歩く後姿を眺めているとき、気がついた。左後脚の関節が、コブができたように腫れ上がっていたのである。
町の動物病院へ連れて行ったところ、「うちでは原因を究明できません」と断言され、腫瘍科のある医療センターに紹介状を書いてもらった。
じじの体を蝕んでいる病は、悪性リンパ腫だった。所謂、リンパ腺のガンである。この病気に罹患して一年以上生存するケースは稀らしく、脚の関節に腫瘍ができるケースは更に稀だという。
獣医療の中でもケースが稀ということは、適切な対処がまだ正確に確立されていないということだ。
脚の関節にできている腫瘍は関節を取り囲むようにして癒着しているため、腫瘍のみを切除することは難しいという。
対処としては薬物療法か、放射線治療か、断脚か。前者二つの治療法を実行したとしても、副作用は重い。
いずれにせよ、肥大化した腫瘍を完全に消滅させる見込みはなく、そのままではいずれ歩けなくなることは明らかである。断脚を行うなら早めに。
※かなり要約したが、主治医は徹頭徹尾、いずれかの治療法を強く勧めるようなことは言わなかった。どの治療法にもメリットとデメリットがあることをわたしたちにきちんと説明した上で、飼い主がどの治療法を選択するか、丁寧に寄り添い、真摯に向き合ってくれた。
つらい時期だった。
こういった、重い決断が目先に迫った場合に採りがちな「様子見」という選択が、このときばかりはできなかった。
猫の脚を切るか、重い副作用がある治療を猫に受けさせるか、病に蝕まれるままに猫の命が尽きるのを待つか。
いずれも、人間のエゴイズムによる選択であることには変わりない。
結局、タイトルにも記した通りの選択をした。断脚を選んだのだ。
主治医から「猫ちゃんは三本脚になっても元気な場合が多いです。じじちゃんの場合年齢の割に元気ですし、手術を乗り越えれば生存する確率は高いと思います」と告げられたのも、救いの光のように感じられたからだ。
「残りの命を少しでも健康に、楽しく生きてくれるなら」という祈りのような、賭けのような思いで、断脚手術を決断した。
断脚手術を経て、変わり果てたじじが我が家へ戻ってきた。
以前からやせ細っていたじじが、脚が無くなって更に軽くなった3kgの体重を、三本脚で支えながらよぼよぼと歩いている。
便意や尿意を催すと真っ直ぐ猫用トイレに行く。とても賢い。だが、ぎこちなく動かすしかない一本の後脚をトイレの中に入れられず、トイレの外で何度も粗相をした。
泣かずには、落ち込まずにはおれなかった。ああ、自分は選択を誤ったのかもしれないと、粗相の後片付けをする度に思った。
もちろん、家族も泣いていた。一緒に泣いて、悲しんだ。じじの脚を、自分たちの意志でひとつ無くしてしまったことを、心の底から後悔した。
人間のエゴイズムで、愛する猫を不幸にしてしまったかもしれないという現実に「ゾッ」として、それがどうしようもなく全身にこびりついたまま、しばらく剥がれなかった。
じじが、二階にある寝室まで階段を駆け上がってきたのだ。しかも、ジャンプしてベッドの上に乗ってきた。
ニャン!と啼いてベッドに乗り、喉から轟音を鳴らして甘えてきたとき、感動でわたしの体は震えた。
更に、喜ばしいことは日に日に増えていった。
これまで使っていたトイレを、より広く、段差が小さいものに変えたところ、トイレが使いやすくなったらしく粗相の回数が激減した。
痩せたじじの体重を増やすために朝晩猫缶を与えるようになったのだが、味を占めたのか昼夜問わず催促し、三本脚でチョコチョコと人間の後ろを着いて回るようになった。
そして、まんまと体重も増えた。手術前よりもふくふくとしたボディラインになり、猫缶をモリモリ食べる姿が様になってきている。
じじが個体として凄かったのか、そもそも猫が凄いのか分からないが、ともあれ、途轍もない適応能力に感心しきりだ。
三本脚にする選択を採り、今までよりも不便な生活にしてしまった後悔や、「断脚」という野蛮な言葉が齎す「ゾッ」という感覚はまだ存在する。
だが、じじは健康に生き延びてくれた。
猫缶をモリモリ食べ、うんちもおしっこも毎日ジャンジャンして、家中を駆け回り、ごはんを催促してニャンニャン大声を出し、寝る前は寝室まで甘えにきて喉をゴロゴロ鳴らす。
じじは十五年間生き延びて、現在でも毎日毎日、元気で健康的な姿を人間に見せてくれている。
その姿は美しく、勇敢で、立派だ。そんな猫の姿を見られていることに、わたしは心から感動している。
今はただ、こんなに嬉しいことはないと、切に思う。
初期のうちに見つかった?のか、余命は…みたいな話は出なかったが、相当ショックは受けた。父もメンタルにきているようで心配しすぎて病んでいるらしい。母は今通院しながら抗がん剤を打っている。
免疫が下がるから人と会うことに抵抗があると、実家には帰ってこないようにと言われた。
そして同時期に私は子供を授かった。
とても喜んでくれると思っていたが、実家が母の病気で手一杯で言うタイミングが見つからなかった。
仕方ないことだけど、入籍の挨拶も未だにできていない。両家顔合わせの予定も立てられない。パートナーには母の免疫で体調が変化するから予定が立てられないと伝えたら 気の持ちようだとクソみたいな発言が飛び出して、めちゃくちゃ怒鳴った。瞬間湯沸かし器になっている。
妊娠が発覚した時は正直 あぁ、業界から淘汰されてここで私は終わるんだ と思ってしまった。
まだそこまで売れていたわけでもなく、細々と楽器講師業をやっていただけなので妊娠してフェードアウトしても誰もなんとも思わないだろう。
この業界、だれが仕事を掴めるか、誰かが手放した仕事をだれが次勝ち取るかの世界、一度手放したものは基本的に帰ってこないと思ってる。
しかし、私より出世していた後輩が先日出産すると聞いていたが、出産1ヶ月で復帰していた。なんとしてでも仕事を他人に渡すまいと執念を感じた。悔しかった。仕事を続けるにはここまで苦しまなければいけないのか。
母のガン
授かった子供を親に伝えられない
免許も移動手段もないと金を得る手段が皆無なのは母親も知ってるから俺に何も言ってこないけど、帰ってきてもずっとため息ついて疲れた顔して「お金ない…お金ない…」ってガタガタ震えて呟くの辞めてほしいわ。
そもそも俺の祖父であるお前の義父が農家辞めて農地も何もかも売り払ってドライブイン開いたのに高速道路できてドライブイン潰した上で悪性リンパ腫で医療費食い潰して死んで、俺の父であるお前の旦那が農家辞めてサラリーマンになったのに市街地に引っ越さずにこんな嘘みたいなポツンと一軒家に住み続けて仕舞いには完全自損のバカみたいな交通事故で金も残さず死んだのが全ての元凶じゃねーんか。
表題の通り、平たく言うと癌になった。
"癌"と言うイメージがもつ死へ近いものではないが、診断を受けた時めちゃくちゃショックだった。
20代で、そんな大病になると信じられなかったし
悪性リンパ腫が出たところは、ずっと違和感があり病院に通っていたが、アレルギーだと言われ
普通よりもかなり高い薬も何回も試した
4回は病院を変えたと思う。
そこまで治らないと、大きな病院に行った方がいいと、紹介状をもらい、
最初の課では、うちではないと言われて
有給-3ぐらい、その後結果が出るが
外科ではなく内科はと言われ、悪性リンパ腫と言われ、入院から治療になった。
癌の中でも軽いんだねと言われて、何とも言えない気持ちになり落ち込んだりもした。
癌ということもショックだし、
癌医療保険にも入っていなかったので、入院費と治療費がかなりきつい。
ぜんぶで20万以上は行くと思う。
もちろん、体のことは心配されるが
今後どうなるんだろう?出世は軽く閉ざされた?とか医療保険の加入は当分出来ないとか、不安がのしかかっている…。
若くても癌になるし、健康診断では出なかったから、自分は幸運なほうなんだろけど
なんともいえないモヤモヤが残る。
【追記】
色々な人が反応してくれて、素直に嬉しかった
私のは、色んな増田がおっしゃるとおりがんのなかでも、ステージ1なので死ぬとかはないと思う。
私は、割と病院行く方なのでわかったけど
わかるまでに5年ぐらいは経過してると思う。
別の治療になるはず。
高額医療制度のことありがとう。頭が回らなくて、ちゃんと調べることができてなくて申請します!
が毎週あったので落ち込みもあったけど
頑張って進めていくよ。
母が熱中症で亡くなった。
癌恐怖症で、少し体調不良が起これば膵臓癌だ、大腸がんだ、悪性リンパ腫だ助けてくれ、と騒ぐ母だった。そしてそのたびに近くに住む私か夫か息子がクリニックに連れて行き、近くの総合病院の勤務医だった時から診てもらっていた気に入りの医師から「心配ないですよ」という診断を貰いに行くのが日課だった。
以前から同居を勧めていたが、父と共に暮らした思い出のボロ家を出るのが嫌で頑なに一人暮らし。そのため毎年「ガンより熱中症に気をつけろ」と口を酸っぱく言っていた。エアコン代をケチる癖に毎晩ハーゲンダッツを食べていたのが母らしい。
昼寝しながら亡くなったようなので、正直ホッとしている。2人に1人が癌になる時代で、あれほど大騒ぎする心配性の母がいざ癌になったら落ち着けるのに一苦労だっただろう。特に母は、病院嫌いで大腸がんが手遅れになり、チューブに繋がれながら「家に帰してくれ!」「痛い!」とのたうち回っていた父の死に様を見ている。
父を看取り、憧れていたパリにも行けて、孫も曽孫も可愛がれて、独り身になってからは好きなだけ旅行行ったり友達と遊んで、もう十分満足したでしょ。
俺は30代なりたての男なんだが、大学生の頃から死恐怖症(特に癌恐怖症)が治らない。
きっかけは大学時代、病院に行っても解決しなかった謎の膝痛に数ヶ月近く悩まされたこと。レントゲン撮ってもMRIやってもわからなかった。
色々調べてた時に見つけたのが骨肉腫という病気。そしてYouTubeで骨肉腫を再発し当時の自分と同じ年齢で亡くなった女の子の闘病ドキュメンタリーを見たことがきっかけだった。結果的に膝痛はなくなり今ではなんともないが、それ以来俺は癌恐怖症になった。
記憶にないアザや怠さ、歯茎の出血があれば白血病、しこりがあれば悪性リンパ腫、ほくろがあればメラノーマ、下痢になれば大腸がん、幼少期からの鼻炎持ちで鼻くそに血が混じれば副鼻腔癌などなど。
何か一つの症状がある癌に当てはまれば癌だと思い動悸や立ちくらみに襲われ「ついにか…」と倒れそうになる。バイトもあり、思い立って翌日に病院に行ける訳ではないため病院に行き検査結果が知らされる不安で何も手につかない。総合診療医では信頼できず各専門クリニックに行くのでセカンドオピニオン含め財布には12枚の診察券、そして4つの病院の電子診察券を持っている。
「30歳でバイト?」と思っただろうが、この性格なので癌に当てはまる症状が出ると何もできなくなる。留年もしたし、就活も失敗したし、公務員試験も失敗したので現在はバイト暮らしだ。県立中高一貫校から一橋商学部を卒業しているので、幼少期からの親の教育投資を随分無駄にした。
死への恐怖は癌だけではない。電車では後ろに人がいたらホームの先頭には立てない。強盗が怖く、自宅を買い集めた防犯グッズや自作防犯システムで完全防御。大通りや赤信号も常に警戒。
俺の両親は俺が幼稚園卒園前に離婚しており、以来母が看護師として育ててくれた。自称経営者の父は養育費も大学進学費用なども「無い袖はふれない」と一切出さず、母は実家とも疎遠なので大学卒業するまでにかかったお金は全て母が稼いでくれた。
俺は母に「母よりも長生きする」「立派になった姿を見せる」「妻と孫を見せる」という3点を誓っていた。しかし、この死恐怖症によりレールから脱落し立派になった姿を見せることも結婚も孫を見せることも不可能になった今、俺が母のためにできることは母よりも長生きし母を看取るということだけである。
だから俺は何があっても母よりも先に死ぬことができない。先ほど言ったように母は独身で実家とも疎遠で俺は一人息子なので俺が先に死んだら母は一人になってしまう。
それなのに、常に俺に忍び寄って来て隙があれば俺の命を狙おうとする癌や突然の事故、犯罪に対して俺は極度に恐怖し強い怒りを感じる。
叔母が亡くなった
59歳だった
今の私を形成している三分の一は叔母の影響じゃないか、と思うくらい
私の従姉にあたる人
もちろん私は従姉のことも大好きで尊敬している
だからこそ、この叔母の死がどうしようもなく
悲しくて空しくて、未だに実感が湧かないのだ
叔母にはたくさん迷惑をかけた
叔母からはたくさん楽しみをもらった
たくさん甘やかしてもらった
私の実家は母親の実家でもあるので、叔母が帰ってきてみんなでお酒を飲みながら、くだらない話で笑うのが大好きだった
叔母の死因は最終的には悪性リンパ腫ということだった
私は例えば反ワクチンのような考えではないし
頭では「新しい薬が生まれるときにはこれまでもこういうことが起きていたんだろう」ということは理解している
けれどもやはり、じゃあなぜそれが叔母だったのか
叔母は自身で「この苦難に立ち向かえる闘える人だから選ばれたのだ」と綴っていたが
いくら叔母が強い人だからって、こんなのってないだろと思うことしかできないのだ
叔母の父親、つまるところ私の祖父を4年前にガンで亡くしている
昨年、入院中の叔母の写真を見たときに闘病中の祖父とそっくりになっていて、本当にショックだったのを思い出す
私が最後に会った叔母は、美味しそうにバーベキューの肉を頬張る姿だったから
叔母らしい戒名を見て、少し綻んで
そして、やはりずっと「なぜ叔母なのだろう」という気持ちがぐるぐると巡るだけだった
最後に、たくさんのごめんなさいとたくさんありがとうをちゃんと伝えたかった
全然伝えきれてない
と言われたことをずっと忘れず覚えて生きていた
私はまだ、良い経験値を積むことはできていない
この子は命日が決まってるんだな。
安楽死を決めた時、私はそう思った。
疲労と虚しさMAXだった若かりし頃、実家の犬を恋しがる私に知人が囁いた。
「猫なら手がかからないよ」
あれこれ言い返したと思う。それでも知人は言葉巧みに猫の良さを吹き込み続けた。
結果、私は一度でいいから飼ってみたい、とメインクーンを選んだ。
いい子が安く買えるかも、と安易な思いつきでネットを検索し、ブリーダーからそれはそれはかわいいブラウンクラシックタビーの男の子を譲ってもらった。
買い手がつかず生後半年のその子は、7万円で我が家にやってきた。
残念なことに重度の食物アレルギーを持っていたその子は、メインクーンとしてはあまり大きくなれなかった。
メインクーンの成長が止まるまで三年ほど。その間、血便を伴う下痢を何度もくり返し、体質に合う処方食が見つかるまで一年かかった。
ベスト体重は6.4kgの、男の子にしては小さなメインクーンになった。
ただ、私の猫はとても朗らかだった。
と積極的に会いに来てくれる人もいた。
7歳の時にアレルギーが改善したのは幸いだったと思う。アレルゲンの除去療法に成功したのだと思うけれど、詳細は医学系の情報をあたっていただきたい。
10年生きればいい、と言われた猫は、13歳になった。免疫力が落ちてきたのか、鼻炎で鼻水を垂らすようになったけれど、月に一回の通院で点鼻治療を続けた。獣医が言うには加齢によるものだから、対症療法しかないとのことだった。
13歳になったある夜のこと、帰宅すると猫が倒れていた。体温が下がり、呼吸は荒く、今にもしんでしまいそうな様子だった。
近所のかかりつけ医に連れて行くか、救急病院に連れて行くか、それとも家でこのまま看取るか、悩んだのは10分くらいのことだった。
私は猫をキャリーバッグに詰め込んで、タクシーに飛び乗っていた。
朝まで元気だった。食事を少し残したことが気になったけれど、それだけだ。わけもわからず失いたくなかった。
向かったのは、夜間診療もしている以前のかかりつけ医だった。引っ越しして何年も経つが、カルテが残っていた。
タクシーの中から電話をしたので、急患として即座に処置を行ってくれた。電話を聞いて急いでくれたタクシーの運転手さんにも、病院スタッフの皆さんにも、その間待ってくださった他の患畜の皆さんにも、感謝している。
原因はわからないが肺に水が溜まっている、無気肺を起こしている、心臓が肥大している、明日はないかもしれない、そのようなことを言われた。
今夜が峠ですってやつだな、と頭のどこかで考えていた。原因がわからない以上、治療のしようもなく、とにかく今晩頼んで帰宅した。
妹猫が、不安そうに待っていた。抱きしめて泣いた。
ほとんど眠ることができず、翌朝病院が開くのと同時に向かった。酸素ハウスの中で猫は、ぐったりと寝ていた。声をかけて触ると、目だけでこちらを見た。
猫は三日間何も口にせず、病院に許可を取って自宅からフードを持参した。四日目の朝だ。朝ごはんを完食したとうれしそうに看護師さんが教えてくれた。猫は酸素ハウスの中で座って、帰りたいと鳴いた。
どこかで見た記憶を頼りに、ペット用の酸素ハウスをレンタルして、自宅で看取ると連れて帰った。猫はなかなか酸素ハウスに入ってくれなかったけれど、その間は酸素マスクをそばに置いた。明日にもしぬかもしれない猫を、無理矢理ハウスに入れるつもりはなかった。
毎日好きなものを食べさせた。後にいうちゅ~る食べ放題まつりだ。
内服薬だけはと飲ませながら、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。酸素ハウスを返却した。猫は普通に歩いていた。
猫の中で何がおこっているんだろうと、もう一度病院へ連れて行った。色々と再検査をし、二回目のCTを撮った。前回の入院で右の肺は半分ほど潰れてしまっており、心臓が肥大していた。
「あのあと他の先生たちにも聞いてみたんです。猫ちゃんは重症喘息による無気肺です。あの時は肺炎が合併してああなったんでしょう。また繰り返す可能性はあります」
うちの猫が喘息だったなんて、全く気づかなかった。鼻水を垂らしてくしゃみをしている、と思ったのは咳だった。それと知ってから注意して見ると、くしゃみをする時と、咳をする時があった。喘息の治療をすべきだったのに放置していたことを、深く後悔した。
近所のかかりつけ医は信用できないと、遠くの病院まで月に一回ほど通うことになった。そんな生活を7ヶ月ほど続けた。
ある時、帰りのタクシーの中で猫が粗相をしてしまった。ペットシーツのおかげで大事には至らなかったが、粗相するほど我慢させたことが申し訳なくて、近所に開院した別の病院に連れて行った。
その頃猫はまた鼻水を垂らすようになっていた。それから右目だけ瞬膜が出るようになっていた。年を取ると瞬膜が出っぱなしになりやすいというが、右目だけ? と少し気になっていた。
これまでの経過を聞いた先生も、それが気になると言っていた。ひとまず二週間分の喘息の薬をもらって、信頼できそうな先生だと安心した。
二週間後、先生が言った。
「顔の右側が腫れてきている。鼻の悪性リンパ腫の可能性があります」
そうか、と思った。ショックもあったが、もしかしたら、と思っていたからだ。
「すごく腫れます。ぼこぉって変形してくると思います。最後は悪液質で亡くなることになります」
私の猫は片肺の13歳だ。抗がん剤の治療には耐えられないと判断して、ステロイドによる治療を選択した。
けれど腫瘍を抑えることはできなかった。ステロイドを増やしても、どんどん腫れるばかりだった。
25mg/日を10日間内服させて、それでも腫れが進行していた。鼻血と浸出液で、可愛かった顔は汚れるばかり。けれど拭かせてくれなかった。
ステロイド25mgは5錠になる。朝3錠、夜2錠。追加して抗生剤が半錠ずつ。
苦しみながら飲む猫に、私は治療の中止を選択した。自己満足にしか思えなかった。
薬剤性の高血糖で血糖測定やインスリンもしていたが、全てやめた。
ごはんを食べて、寝る。そんな穏やかな生活は、5日しか続かなかった。
鼻からは鼻血、口からはよだれが大量に出るようになり、ペットシーツが欠かせなくなった。それでも気を抜けば部屋のどこかが血だらけになっていた。
カリカリを食べなくなった。ウェットなら食べてくれたのも2日ほどだった。それからはちゅ~るしか受け付けなくなり、ちゅ~るさえ食べない日もあった。
視神経が圧迫されたのか、目が見えなくなった。突然の全盲であちこちぶつかりながら、恐恐歩くのが可哀想でベッドの上を区切ったらそこで眠るようになった。
トイレにいけなくなった。連れて行くとおしっこはするときもあったが、どんなに踏ん張ってもうんちは出せないようだった。
2週間が経った。
ちゅ~るも食べなくなった。食べられなくなった。
最初は食べようとしたけれど、ひどくむせて鼻からも口からも出血する。鼻と口が繋がってしまったようだった。そのうち猫は食べることを諦めた。
当然水も受け付けない。脱水がひどくなり、あれほど出ていた鼻血も浸出液もピタリと止まった。
このまま家で見ていても、数日で亡くなるだろうと思った。
けれど、体の置き場がないとフラフラになりながら寝返りする姿や、一箇所でぐるぐると回る姿、とうとうベッドの上でおもらしして自分でショックを受けている姿を見て、安楽死を考えるようになった。
別れたくない。悲しい。寂しい。
それと同じくらい、楽にしてあげたい。
戻れないことはわかっていた。朗らかで、やんちゃで、甘えて鳴いてばかりのあの子はもう戻ってこない。
自分だったらどうだろう。ガンの痛みに苛まれて、目が見えなくなって、鼻からも口からも色々な体液が出て、お腹が空いても食べることができなくて、そして今は脱水症状に苦しんでいる。
動物病院に状況を報告した。安楽死も選択のひとつだと思うと先生は言った。
苦しみの合間、眠っている猫を見て思った。
この子は命日が決まってるんだな。
苦しんで鳴く猫を撫でて、体をトントンして、そうすると猫は15分くらい寝る。それからまた起きて苦しむ。
愛しさと諦めが交互にやってきた。
行きたくないと言って泣いた。ずっと一緒にいたい。家で最期まで看取りたい。
猫は眠る時間が少し長くなったように思った。昏睡に近かったのだと思う。
やっぱりやめようか、と言ったのは予約時間5分前だ。
猫は起きて、苦しそうに叫んだ。
看取りたいというのは自分のエゴだと思った。泣きながら猫をキャリーに入れて、病院へ連れて行った。
病院は昼休みだった。着いたときから先生も看護師さんも泣いていた。おとなしい猫のことを、かわいいかわいいと言って撫でてくれた人たち。
点滴の針を刺す。処置室へ移動する。気が済むまで二人で、と先生たちは出て行った。たくさん話しかけてあげて、と。
けれど、声を出したら号泣してしまいそうで、やっぱりやめると言ってしまいそうで、囁くように「いいこ」「ありがとう」とくり返していた。
猫はぐったり寝ていたけれど、起きて、また鳴いた。苦しい、と。
顔を出した先生に、私は言った。
「お願いします」
病院がきらいな子ではなかったけれど、一番好きなのは家に決まっている。
最初に繋がれたのは麻酔薬だった。プロポフォールだと思う。しみる薬剤だから、薬が入る時、猫は苦しそうに泣いた。前投薬をお願いしなかった私のミスだ。
数十秒で猫は眠って、呼吸が浅くなった。
そのあとに二種類入ったけれど、そちらが何だったのかはわからない。猫は呼吸が止まり、心拍が止まった。
二人とも号泣しながら、とりとめもなく話をした。
先生は、前は安楽死に反対していたけれど、自分の猫の時に限界まで頑張らせてしまって、後悔してからは賛成していると言っていた。
「やさしい選択をなさいましたね。いいおねえちゃんでよかったね」
先生は私も、猫も褒めてくれた。
帰ったらお風呂に入れてあげるといいと言われて、本当はもう何も本人の嫌なことはしたくなかったけれど、少し悩んで体を洗った。
たっぷりとシャンプー、リンスを使って、血の塊やこびりついていたおしっこを全部洗い流した。
体を拭いて一番涼しい部屋に連れて行くと、留守番していた妹猫が不安そうにしていた。
帰ってきた兄猫、もう呼吸の止まっている兄猫、私を見て、鳴いた。
「どうして」
体を乾かして、耳や口に脱脂綿を詰める姿を妹猫はじっと見ていた。
すべての処置が終わって、ダンボールに入った兄猫のところにもう一度行って、悲しそうに見ていた。
猫が"死"を理解しているのかはわからないけれど、どんどん具合が悪くなる兄猫が妹猫の相手をしなくなって、苦しそうにしている姿をずっと見ていた。
「もう大丈夫だよ」
妹猫を撫でて、一緒に寝た。兄猫のように朝まで一緒にはいてくれなかった。
猫が生きている間に葬儀社を見繕ったり、アイスノンの用意をしたり、体が収まるサイズのダンボール箱を用意したりするのはつらかった。
でも、しておいてよかったと思う。きちんと見送ってあげることができたから。
鼻血や浸出液の塊を洗い落とした猫の顔は、やっぱり私にとって世界一かわいかったけれど、同時に諦めがつくほどに哀れだった。
大きくなった腫瘍が鼻の穴を塞ぎ、裂いて、口の中まで入り込んでいた。
処置をしなくてもあと2~3日だっただろう。
けれど、その2~3日あとには更に腫瘍が広がっていただろう。
どれほど頑張ってくれたのかわかって、うれしかったし、ありがたかった。
姉が言った。
「いっぱい愛してもらったね」
そう。猫に愛されていたのは、私だった。
安楽死を悩んだ時、はてな匿名ダイアリーの記事がとても参考になった。
自分のペットに対して安楽死を選択したことは、あまり口にできないことだと思う。
それから、鼻腔内腫瘍、鼻の悪性リンパ腫の転機についても可能な限り詳細に記した。
目に見える病気はつらい。これからどうなるんだろう、最後はどうなるんだろう。調べてもわからなかった。
もちろん、早期から悪液質になり、眠るように息を引き取る子もいるとは思う。
ただ、私にはそういう例が見つけられなかった。
ペットロスに関しても、亡くなる前の方がキツかった。
対処法を調べても亡くなったあとのことばかりで、毎日毎分生きてるか不安に思いながら涙する感情に対処する方法は見つからなかった。
結論から言うと、どうにもならない。だからどこにも書いていないのかもしれない。
とりあえずいつでも仕事をやめられるように貯蓄に励むといいと思う。かけられる人は不労保険とかもかけたらいいんじゃないかな。
自分に関して言えば、家で付き添うようになってからの方が不安は少なかった。
4日間の入院で15万円ほどかかった。
薬代が月に1.5万円~3.5万円。
CTが4万円。
もっともこれはミニマムな治療だった。良心的な動物病院だった。
抗がん剤を使っていたら、入院が長期に渡っていたら、考えるとキリがない。
これはもう、べきとか、なるべくとかではなく、事実として。
最低賃金上がればいいのに。
いつかどこかの誰かと猫の、役に立ちますように。
「twitterで感想を見かけたよ」と友達が教えてくれたので、検索して全部読んだ。
自己満足と、もし検索に引っかかればって気持ちで書いた乱文に、たくさんの言葉をありがとう。とてもうれしかった。
今でも歩いている時に何の前触れもなく涙が出たりするけれど、愛の量だと思ってる。
安心してるんだ。もう苦しんでいないって。
でも、私の帰りを待っていることはないって、それがどうしようもなく悲しいんだ。
話が複雑になるので詳細は省いたけれど、妹猫の話を少ししようと思う。
今回記事に書いたメインクーンが超絶寂しがり屋で、一頭飼いしてたら精神的におかしくなってしまったので、保護猫だった年上の女の子に来てもらったのが最初(便宜上姉猫)。
姉猫は10歳で先立ってしまった。その時も色々あったけれど、今回は触れない。
姉猫が亡くなってしばらくはメインクーン一頭飼いだったけど、やっぱり寂しかったみたいで、妹猫に来てもらった。
飼いたくてメインクーンを選んだけれど、飼ってみたらあんまりに愛しくて、猫のことを色々調べるようになって、保護猫問題やペットショップの不適切販売を知ったんだよね。
私は安易に猫を飼いはじめてしまったけれど、だからこそ2匹目は保護猫って決めてた。
妹猫は兄としてメインクーンを慕ってくれて、本当に仲が良くて、その姿は癒やしだった。
その時に弟猫だったメインクーンは、兄猫になったんだ。
妹猫は寂しそうだし、悲しそうにしてる。人間と同じように、悲しみを抱いて生きてくんだと思う。
「別れがつらいから二度と飼えない」って人に伝えたいことがあるんだ。
姉猫が逝った時、もういいかなって私も思った。兄猫が寂しがらなかったら、妹猫は来てなかった。
それは、亡くなったあとも、思い出が増えていくってこと。
妹猫を見て、姉猫はああだったな、こうだったな、って思い出すことが増えた。
最初はちょっとつらかったり、姉猫と妹猫を比べるようで申し訳なくなったりしたんだけど、すぐに違うなって気付いた。
妹猫を通じて、姉猫の思い出がどんどんやさしいものに変わっていった。当たり前だった記憶のひとつひとつが、キラキラ色づくようだった。
亡くなったあとも姉猫を愛しく思う気持ちはずっと続いていた。
兄猫がさみしがらなければ、妹猫が来てくれなければ、知らなかったこと。
きっとこれは、新しい子を迎えるつもりはなかったのに迎えることになったから気付けたことだったので、共有しとく。
別れはつらいけれど、悲しいし寂しいけれど、次の出会いを恐れる必要はないと思うよ。
いつかあなたが、愛し愛される家族とまた暮らすことができますように。
世界一をひとつしか持っちゃいけないって誰が決めたんだ。少なくとも私の辞書にはないな。
生きててくれるだけでよかった。逝ってしまっても愛してる。
あとな、創作って言ってた人な。
創作だったらいいな。
そしたらきっと今頃、どの子もうちで伸び伸び寝てて、パソコンに向かってる私のところに兄猫あたりが飛び込んでくる。
ずっとずっと愛してるよ。
ところでなんで増田なのか(あとでぐぐっとく)
めんどくさいから色々省略するけど、脇の下のリンパのしこりは悪性&どっかからの転移&血液検査の結果ホルモン系の数値が異常=乳がんの可能性大ってことでマンモグラフィやらエコーやらしたけどそれらしきもの映らず、PETもしたけどそれこそ脇の下のリンパのしこりしか映らず、めんどくさいから省略したとこの関係もあり遺伝子がどうこうとか言い出して、なんつーかもうめんどくさいっつーか何をもって乳?そもそも普通に悪性リンパ腫なのでは?ってなってる、先生たちは気になること聞いたらちゃんと答えてくれるけど、結局彼らも全貌が分からない感じで余計にどうしたらいいか分からんし。
そもそも悪性って診断される前から明らか体調おかしいところとかあるからどっかしらに転移してるやろなー思ってたらまじでなーーーんもないし、乳がんとかで自分で触って…とかまるで無意味、いやむしろ、実はこれ…とか思ったりしたこと何度もあったけど結局 所謂 乳がん検診でも映らなかったし、でも乳がんとか言われてるし、そもそも存在自体がガンなの???
そして遺伝子レベルでとか、しかも親とか関係ないレベルでとか、まさに生まれてきてごめんなさいやんけ。
生まれてきてごめんなさい、生きててごめんなさい。つーか、いっそ殺して
時天空をご存知だろうか。時天空はモンゴル出身の力士で、土俵上での華麗な足さばきによって知られている。かく言うわたしも時天空の足技が好きだ。本人には申し訳ないが時天空が一番好きな力士というわけではないけれど、しかし、彼が勝つと思わずにやりとしてしまう。
土俵の上で時天空はいつも、仏像のようなふてぶてしい顔をしている。立ち会い、ぶつかって両者まわしを取る。相手力士の真っ赤な顔。だが時天空は、素知らぬ風に足をかける。相手の力士は、しまった!という顔でバランスを失い倒れる。
時天空の相撲は、わたしが相撲だと漠然と思い描いているものの輪郭から、時折大いにはみ出す。だからわたしは時天空が好きだ。柔道のようだと思うかもしれない。モンゴル相撲のブフは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。時天空の相撲は、イマジネーションを広げてくれさえする。あの器用な足でまた何かやらかしてくれるのでは?そんな期待をこめて、毎場所テレビを見る。
そこまで言うなら時天空の相撲を見てみたい、もし可能であれば生で国技館で見てみたい、と思っていただけた方がもしかしたらいるかもしれない。願わくばいてほしい。しかしその望みは叶わない。なぜならば、時天空は引退してしまって間垣親方になってしまったからだ。では親方として、警備をしたり解説をしたりチケットをもいだりする、あの仏像のようなご尊顔を拝せるのでは?しかしながらその望みも叶わない。なぜなら元時天空、間垣親方は亡くなってしまったからだ。時天空は2017年の1月31日に亡くなってしまった。今日はちょうど一周忌だ。だから上の文章は、本来ならば動詞を全て過去形にしなければならない。
昔から相撲が好きだったわけでなく周りに詳しい人もおらず、面白そうだしいっちょ見てみますか!と思って見始めたわたしのようなミーハーな若輩者にとって、時天空はありがたい力士だった。なぜなら、時天空と言えば足技だと覚えておけばいいから。とりあえず時天空が来たら足技が出るのを待てばよかったので安心だった。本当は足技が失敗することもあったし足技は特に出ず押し出しで勝つこともあったけど、とりあえず時天空といえば足技。これで間違いがなかった。
力士の立ち会いはよく軽トラックの衝突にたとえられるが、ぶつかられて上半身はその対応をしておきながら、よくもまあ器用に足をかけられるな、バランス感覚はどうなっているんだと常々思っていた。
それに時天空は、四股名もSFみたいでスケールが大きくて格好いい。旭天鵬(現友綱親方)に似てるという意見も散見されるが、土俵上の時天空は、旭天鵬からお母さんみたいな雰囲気を全部抽出しきったあとみたいなおっかない顔をしていて、でもどこか荘厳で、鎌倉後期の仏像みたいで、思わず拝みたくなってしまうようなところがあった。
同僚と国技館で相撲を見ていた時のことだ。幕内の取り組みが始まって当時は平幕の下の方にいた時天空が出た。
「この人は足技がすごくて!」
などと僭越ながら紹介した直後、時天空が裾払いを決めて勝ったことがあった。同僚は普段から大相撲を見る人でなかったからピンと来てなかったようだったが、わたしは嬉しかった。思いが通じたような、どこか共犯者めいた気持ちが満ちた。むずがゆくなるくらい嬉しく、誇らしかった。これからも応援しよう!と思った。
でもその時はまさか、その場所とその次の場所が、土俵上で時天空を見られる最後になるとは思わなかった。
肋骨の骨折で休場というニュースを見て、時天空がケガなんて珍しいな、十両落ちちゃうのでは?と思ったが、その後実は悪性リンパ腫だと知りショックを受けた。場所のたびに休場の発表があり、十両に落ちているのを国技館のチケット売り場の電光パネルで見て、やっぱりと思うと共に早くよくなってほしいという気持ちが募った。
わたしは、時天空に手紙を書こう!と思った。もしかしてあまり読めなかったりして?と思ったが、時天空は日本語がペラペラだし、たとえ読めなくてもそういうのは気持ちだから出そう!と身勝手なことを考えた。ふりがなをふったら逆に失礼か?などと考えながら文面を考えていた矢先、ツイッターで久しぶりに時天空という文字列を見た。リンク先には引退と間垣襲名会見のニュースがあった。
引退はさみしかったがその何倍も復帰が嬉しかった。丸坊主になった時天空は、痩せていたけど想像していたほどではなかった。しかし、目を真っ赤にして涙を流しながら会見していてはっとした。わたしのなかの時天空は、土俵の上のむすっとした顔でしかなかった。しかし仕事だからそうしていただけであって、こんな心許なさそうな表情もするんだと思ったらこみ上げてくるものがあった。でも同時に、モンゴル人力士のなかで真っ先に日本国籍をとり年寄名跡を持っていたことを知り、さすが時天空だと思った。ぜひ後輩を指導してあの足技を継承してほしい。引退はとてもさみしいことだったけれども、帰ってきたことに対する嬉しさのほうが何倍もある。
お相撲さんやっぱり違うな!と思った。元々の体力があるから病気も治るんだな!よかったよかった!わたしは安心してはしゃいでいた。
その後すぐ元時天空、間垣親方は大相撲中継で向正面で解説をしていた。名前を呼ばれると「ハイッ」といい返事なのがかわいくて、それと現役時代と比べて顔が少し穏やかになっていた。時折満面のスマイルを見せるので、うおー時天空こんな一面もあったのかー!とさらに好きになった。解説も日本語が上手なだけでなく的確で詳しく、ついこの間まで幕内にいただけあってこの人と組んだ時はこうだったああだったと、話が尽きないので、聞いていて楽しくためになった。力士たちは「時天空関ととるのは嫌だった」とか「もう二度ととりたくない」とか「足技だけは教えてくれない」とか言っていて、声に出して笑ってしまった。
時天空という力士が幕内からいなくなってしまったことは残念だったけれども、これだけ解説も上手だったら楽しみなことが増えたと思っていた。当時は大島親方だった旭天鵬も、もう一度断髪式すればいいって言っていてその通りだと思った。
わたしはそれからすっかり安心しきっていて、その次の場所で間垣親方が休場していることを全然知らなかった。テレビの映らないところで警備とか協会の仕事をしているんだと思い込んでいた。でもそんなことはなかったらしい。元時天空の間垣親方は、2017年1月31日に亡くなってしまった。
時天空が好きだった。全く知らない人の「時天空サッカー」というツイートを見たときに、なぜだか明確に好きだと思った。モンゴルの平原をまわし姿でサッカーする時天空。似合う!足技はブフで培ったものか柔道で東農大にスポーツ交換留学に来た時のものかと思っていたが、柔道部だったころはそこまで足技に力を入れていたわけではないらしいとも聞く。ではあの足技はなんだったのか?やってみようと思ってやってみたらできたのだろうか。乗馬で鍛えたインナーマッスルが、相撲にも活きたのだろうか。
朝青龍のことを知って、自分もいっちょやってみようと来日して入門。稽古をしながら大学にも通い、卒論を日本語で書き上げたというスーパーマンぶりには目を見張る。卒論のテーマは「ダイナミックモデルを利用したモンゴル国の人口動態に関する研究」、興味深い。
わたしはにわかファンなので、相撲を見始めた頃の時天空はすでに30代なかばのベテラン力士。幕内下位定着たまに十両陥落くらいのイメージだったが、三役経験もあるし前頭一桁代だった時期も長い。時間前に立ち会いをしたり、まわしがとれかけたり、なかなかにバチバチだった時代があったようだ。
亡くなったことがどうにもショックで、当時は巡業の写真などをずっと探しては見ていたのだが、土俵の下ではにこにこしている写真ばかりで意外だった。名古屋場所でトゥクトゥクに乗っている写真。赤ちゃんをだっこしている写真。後援会の人たちとじゃんけん大会をして負けているところ。ウインク。
解説の動画を探していていたときに、酔った時天空が「iPhone4で彼女の顔を見ながら電話したい」と言っている動画を見つけてしまったりした。時天空はとても楽しそうで明るくていつも笑顔で、すごく人生を楽しんでいるように見えた。幸せそうだった。解説の時もそうだった。見ているこっちが笑ってしまいそうになるくらいだった。
一年経った今でも時天空のことを思い出す。病気さえなければまだ幕内で相撲をとってたのではないかと思ってしまう。足で足をバーンと蹴ったりひっかけたり、器用に相手のバランスを崩して勝っていたと思う。
時天空が亡くなってすぐ、入門直後はきまり悪くなると日本語がわからないふりしてごまかしていたこととか、部屋が世論で問題視されていた時に懸賞金を手紙と共に返したこととか、時天空の人となりが感じられる話が世に氾濫して、そのどれもに心動かされ泣いてしまっていた。でも、亡くなってしまってその話を知るくらいなら、知らないでいていいから元気でいてほしかった。じゃんけんが弱いのもお酒が強いのも知らなくてよかった。おっかない顔の足技師としてにやにやさせてほしかった。40歳までは関取だと思っていた。やっぱり、あまりにも早すぎたと思う。
日々、自分の頭の中を好きなものでいっぱいにしていないとやっていけない。時天空もまさにその一部だった。でもその部分は時天空の形の穴になって、他の力士で埋めようとしてもなかなか埋まらない。時天空は、お腹は出ていたけれども膝下が不安になるくらいほっそりしていて、他の力士はそこがひっかかってしまうから駄目だ。
時天空は膝下に脂肪がなくてひきしまっていて美脚だった。その脚が器用に動いていた。またあんな足技が得意な力士が出てきたら面白いけれども、でもたとえ出てきたとしてもそれはまた別の力士で別の魅力があるんだろう。だから時天空の形の穴は埋められないのかもしれない。埋めなくてもいいのかもしれなくて、埋められないことそのものが、時天空という力士が代え難い魅力を持っていたということの証明なのかもしれない。
追記:ニュースで相撲関係の悲しいことばかりが続いてつらくなる。口に出すのもおぞましいような表現で特定の力士を侮辱する言葉はもう見たくなくてインターネットが縁遠くなる。協会のこととか理事長選とか、にわかファンのわたしにはよくわからないしあまり興味もない。わたしはただ、土俵の上で色んな力士がそれぞれの最高の状態で相撲をとっているところが見たいと思う。それを見てわくわくしたいと思う。
一年以上悪性リンパ腫との闘病生活を送ってきたが、もはや手当が出来ない状態で医師に延命治療をしなければ一週間が目処と言われた。
母も自分もそれは拒否したので、今はほぼ生理食塩水のみの点滴で死ぬのを待つばかりの状態である。
数日前から意識が混濁したままで、母や子供達が来てもあまり気にしないのだが、若い娘(姪達)が見舞い(ほぼ最後の挨拶)に来ると格好を付けようとするのか一瞬シャキッとするのがおもしろい。
また、闘病生活中はとにかく体重が減るのに対抗するため必死で飲み食いしていたので、たまに目の前に食べ物や飲み物があると思って落語の所作のようなことをする。
もう嚥下能力がほぼ無いので、どんなに苦しそうでも水も飲ませられない。これが辛すぎて自分が父の状態になって喉が渇いて仕方が無い夢を数日見ている。
子どもの甲状腺検査 福島県以外と同じ というニュースが出た。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130308/k10013054841000.html
甲状腺癌には、若い女性に多い「高分化癌」と高齢者に多い「未分化がん」「悪性リンパ腫」がある。原爆事故との関連があるのは「高分化癌」で、30-50歳程度の女性で起きやすい。半減期8日の放射性ヨード131大量摂取でリスクが高まる。
1.放射能が降り注いだ場所の牧草を食べた乳牛からの牛乳を飲み続けた
2.若年女性
で発症が増えたと言われている。
だから、甲状腺癌が増えてくるのは、恐らく今の子供たちが20-50歳前後になったときだ。
コーディネーターさんから電話が来て、そう聞かされた。 正直「やっぱりね」という感じ。自分に決まる予感がしてたから。 父が悪性リンパ腫に罹患している事がわかったのも、ちょうど去年の今頃だった。 癌が国民病と云われるようになって久しかったけど、まさか自分の家族が患うことになるとはと、母と2人最悪の事態ばかりを考えていた。 主治医の説明を受け、余命宣告されなかった事に安堵はすれども、治療の過程におけるリスクがある…即ち、何らかの原因で死んでしまうという可能性が1%でも存在しているという事が怖くて、怖くて、毎日夜になると自室に引きこもって泣いていた。 そして、今。 父は奇跡的にも腫瘍が全て消え、普段と何ら変わらぬ生活を送っている。 去年、あれほどやつれ、禄に歩くことも出来ず、ドデカい輸液パックに24時間繋がれていたのがウソみたいだ。 さぁー、私も早く仕事を見つけなk(略 と、安堵していた所に届いたのが、例のあのオレンジ色の封筒だった。 バンク自体には、父の病気が発覚するよりかなり前に登録していたのだが、まさかよりによってこのタイミングで来るとは。 しかも、骨髄採取する病院は、父が入院していたのと同じところ。 普段はこんな事軽々に考えはしないんだけど…この時ばかりは「まさに運命だ」と思ってしまった。 (人の命がかかっていることだから、あんまこういう事は思っちゃいけないとはわかってるんだけども…ね。) まぁー、正直全身麻酔で? 腸骨に針ぶっ刺しまくるとか? 説明聞いただけでも結構怖かった。 一緒に説明についてきてくれた親友もめちゃくちゃビビってた。 正直今も怖いし、この一件を知った親戚からはマゾだとかアホだとかとも云われてる。 (流石に腹がたったけど、まぁそう思われてもある意味仕方が無いことだから…。) でも…それでも、私はドナーになる。 あの頃のことはあんま思い出したくなかったから今まで考えないようにしてきたけど、こうして文章にしてみたおかげで改めて決心できた。 取り敢えず、頑張ってみる(`・ω・´)